2009年12月31日

2009/12/31、オカルト(二本足の考えと人格)関係の整理 4

今年も今日で終わり、新年を迎えます。

2009/12/30、私の記事

弁証法は、「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

私は、自然を自分の考えで、比較し変化(座標を回転)させて記憶しますから、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」は「 知識 」であると考えます。

それは、現実の否定ですが、否定は座標の回転ですから肯定の一面であり、否定しても、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」である「 知識 」は存続するのだと思います。

「 知識 」は「 関係 」であり、「 因果 」であり、人間が否定しても(虚数を乗じても)、存続し、人間の心理に、「 主観 」や「 客観 」という形態で現れると考えます。

「 主観 」や「 客観 」は、「 虚数 」と「 実数 」と言うのに等しいと考えます。

2009/12/31、私の考え

以上の事は、「 一つの関係 」について考えた事です。

「 関係 」が、空間の事物の関連を想像させるなら、それは歪んだ時空(状況)の連続する「 空間意識 」であり、因果を想像させるなら、それは不連続の感覚を連続に変化させる「 時間意識 」であると考えます。

「 意識 」と「 関係 」が相違するのは、前者が自分の統合だけを考える末那識(manasiki)であり、後者が、自分の身(身体)口(言葉)意(意識)の総体である阿頼耶識(arayasiki)である点で、「 確率の波 」の本質は違うが、両者が「 意識や無意識 」であるから、構造は同じであると考える。

Good and evil are next-door neighbors.

「禍福は、糾える縄の如し」

この「 禍福(Good and evil) 」の縄を構成する一方が「 意識 」で、他方が「 関係 」で、この「 禍福(Good and evil) 」の縄が光速で進むと考える。

以上の事は、「 一つの関係の構造 」であり、ヒトは多くの関係に包まれている。

これを現実という平面で考えると、全てのヒトが、全てが相違する「 関係の織物 」を持っている事を意味し、ヒトは全て織物を作ってると考える。

その織物の品質が「 光 」で輝く時、「 色 」の種類として人格が現れる。



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2009年12月30日

2009/12/30、オカルト(二本足の考えと人格)関係の整理3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
数学の話をするが、数学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



これまでの結論から出発します。

2009/12/27、私の記事

「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」とは、何かを考えました。

昨日の念仏会で思いついた事です。

二つの眼で風景を見る場合、眼はレンズと考えますと、網膜には「 逆さまの像 」になる筈が、「 逆さま 」には感じず、記憶の保存されます。

この「 情報処理 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」であり、繰り返す事により、虚数の二乗が実数になるように、無意識の記憶の「 状況 」が、現実の「 状況 」に想起されると考えます。

「 心 」で風景を見ますから、現実は、様々な「 心 」の断面という不連続面ですが、「 情報処理 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」であり、「 情報処理 」を繰り返す事により、瞬間の断面を連続した一つの現実として理解すると考えます。

少し整理します。

心理には、意識と無意識があり、意識は「 時間意識 」と「 空間意識 」として処理する「 自意識 」を形成し、「 感覚 」という感受性で歪んだ(情報処理された)記憶という無意識を作り、意識が断片的であるのに、無意識は、「 情報処理 」を繰り返す事により、意識を統合して連続した一つの「 自我 」を形成すると考えます。


この「 情報処理 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」であり、繰り返す事により、虚数の二乗が実数になるように、無意識の記憶の「 状況 」が、現実の「 状況 」に想起されると考えます。


2009/12/28、私の考え

「 思考する 」とは、「 情報処理をする 」事です。

私が、物体を見る時は、物体その物を長さや幅や高さであると測定して、私の頭脳のサイズで収納します。

私の頭脳の中にある物体は、「 存在していない 」のです。

「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

「 我思う、故に我あり 」というのは、存在しない虚数に変換した後、それに虚数を乗じて、実数に変換する事で、外部の宇宙と内なる宇宙との往復であり、意識と無意識の往復だと考えます。

その「 往復 」が、意識の中心と無意識の中心と私の外皮(感覚)を結ぶ通路であり、それは、現在から歪んだ、言い換えれば虚数に変換された「 記憶 」への信号の発信であり、反応した「 虚数の記憶 」からの信号の処理であると考えます。

この「 虚数の世界 」が「 霊界 」であり、「精神 」であり、認識が成立する場所であると考えます。

私の頭脳で考える「 実体 」は存在しないが、もう一度、思考すれば、虚数を乗じると、「 実体 」となる。

これが、「色即是空」であるかも知れません。

私たちは、(主観と呼ぶ)「 虚数の世界 」で会話し、虚数を乗じて、(客観と呼ぶ)「 実体 」に戻りながら、情報を交換しているかも知れません。

「 関係 」は、波動関数の、思考可能でいつでも実体となる知識の「 波動 」であり、「 関係 」はエネルギーと「 方向 」と結合して「 可能性 」になるが、「 絶望 」する必要はない。



2009/12/30、私の考え

私は、以前、次のような記事を書きました。


2009/8/24、オカルト(二本足の考え)弁証法 B

否定と言っても「無」ではないし、「無」は人間は創る事は出来ない。
創るのは神だろう。
否定は、違った形態の「肯定」を目指している。
生きる限り、「阿頼耶識」が残るように、否定しても残骸は残るし、「夢」があるように、現在とは違った「肯定」がある。


「否定」とは、「符号が変わる事」であり、複素数の二乗であり、「頭を回転させる事」である。

(以上、引用を終わる)


弁証法は、「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

私は、自然を自分の考えで、比較し変化(座標を回転)させて記憶しますから、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」は「 知識 」であると考えます。

それは、現実の否定ですが、否定は座標の回転ですから肯定の一面であり、否定しても、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」である「 知識 」は存続するのだと思います。

「 知識 」は「 関係 」であり、「 因果 」であり、人間が否定しても(虚数を乗じても)、存続し、人間の心理に、「 主観 」や「 客観 」という形態で現れると考えます。

「 主観 」や「 客観 」は、「 虚数 」と「 実数 」と言うのに等しいと考えます。

変化するのは人間の頭脳の中であり、自然に変化は無いと考えます。



これは、私の考えであり、客観的な知識は以下のURLに書いてあります。

「弁証法」Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95


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2009年12月28日

2009/12/28、オカルト(二本足の考えと人格)関係の整理2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

昨日、獲得した結論は、次のとおりです。

2009/12/27、私の記事

この「 情報処理 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」であり、繰り返す事により、虚数の二乗が実数になるように、無意識の記憶の「 状況 」が、現実の「 状況 」に想起されると考えます。


2009/12/28、私の考え

「 思考する 」とは、「 情報処理をする 」事です。

私が、物体を見る時は、物体その物を長さや幅や高さであると測定して、私の頭脳のサイズで収納します。

私の頭脳の中にある物体は、「 存在していない 」のです。

「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

「 我思う、故に我あり 」というのは、存在しない虚数に変換した後、それに虚数を乗じて、実数に変換する事で、外部の宇宙と内なる宇宙との往復であり、意識と無意識の往復だと考えます。

その「 往復 」が、意識の中心と無意識の中心と私の外皮(感覚)を結ぶ通路であり、それは、現在から歪んだ、言い換えれば虚数に変換された「 記憶 」への信号の発信であり、反応した「 虚数の記憶 」からの信号の処理であると考えます。

この「 虚数の世界 」が「 霊界 」であり、「精神 」であり、認識が成立する場所であると考えます。

私の頭脳で考える「 実体 」は存在しないが、もう一度、思考すれば、虚数を乗じると、「 実体 」となる。

これが、「色即是空」であるかも知れません。

私たちは、(主観と呼ぶ)「 虚数の世界 」で会話し、虚数を乗じて、(客観と呼ぶ)「 実体 」に戻りながら、情報を交換しているかも知れません。

「 関係 」は、波動関数の、思考可能でいつでも実体となる知識の「 波動 」であり、「 関係 」はエネルギーと「 方向 」と結合して「 可能性 」になるが、「 絶望 」する必要はない。

人類の誰もが、誕生以来、自分の「 可能性 」を持ち、感受性が普通ならば、普通に「 可能性 」を生き、死んでゆく。

なぜ「 生きるか 」という意味を考える事は、「 関係 」を考える事で、神仏との関係を考えると「 天命 」や「 使命 」を考え、エネルギーが不足した結果、「 絶望 」するのだと思う。

関係や意味は、無数に存在し、神仏を考えない人もいる。

それが、様々な「 色 」で区別される「 六道 」という「 人格 」を歩む人であり、人は、その人独自の「 人格 」を生きると考えます。



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2009年12月27日

2009/12/27、オカルト(二本足の考えと人格)関係の整理

2009年も数日で終わります。

ここで、少し整理をします。

2009/12/24、私の記事

私は、意識や無意識という「 精神 」と、記憶や想起や空想などの「 関係 」は、電磁波のように一組を形成すると考える。

時間や空間は、それぞれ「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、個人のDNA や感受性で変形すると考える。

「 精神 」の時空(状況)は不連続であり、感受性により保存したり歪められた時空(状況)が、連続し、それを「 関係 」と、私は呼んでいる。


「 精神 」の意識は動的であり、「 関係 」は、因果であり、「 精神 」の活動範囲を制限すると考える。

この「 精神 」と「 関係 」は、創造主により誕生と同時に与えられ、脳を持つ全ての生物は、これを保持していて、互いに補完すると考える。

この事から、「 絶望 」は生まれない。

「 絶望 」は、「 望み 」が絶たれる事であり、「 望み 」とは「 欲望 」であり、「 関係 」ではなく、可能性や現実性という「 意識の具現化 」が現れる行動の可能性への悲観である。



2009/12/25、私の考え

私が考える「 関係 」は、「 存在可能性 」であるが「 精神(意識) 」の可能性であり、行為の可能性ではない。

私が考える「 関係 」は、「 自己という一つの関係 」の中に、「 精神(意識)の存在可能性 」として無数に存在し、「 行動の可能性 」ではない。

2009/12/27、私の考え

以上で、私が考える「 関係 」は、直接、「 絶望 」に続くのではなくて、縄目のように「実数 」の「 意識 」と「 関係 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」として存在する無意識であります。



「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」とは、何かを考えました。



昨日の念仏会で思いついた事です。

二つの眼で風景を見る場合、眼はレンズと考えますと、網膜には「 逆さまの像 」になる筈が、「 逆さま 」には感じず、記憶の保存されます。

この「 情報処理 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」であり、繰り返す事により、虚数の二乗が実数になるように、無意識の記憶の「 状況 」が、現実の「 状況 」に想起されると考えます。

「 心 」で風景を見ますから、現実は、様々な「 心 」の断面という不連続面ですが、「 情報処理 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」であり、「 情報処理 」を繰り返す事により、瞬間の断面を連続した一つの現実として理解すると考えます。

少し整理します。

心理には、意識と無意識があり、意識は「 時間意識 」と「 空間意識 」として処理する「 自意識 」を形成し、「 感覚 」という感受性で歪んだ(情報処理された)記憶という無意識を作り、意識が断片的であるのに、無意識は、「 情報処理 」を繰り返す事により、意識を統合して連続した一つの「 自我 」を形成すると考えます。

身体は、「 流れる物 」と「 派生する物 」があり「 流れる物 」は、体内の電気で、「 派生する物 」は、意識と無意識であり、内容は「 心理 」で書いた事です。

無意識の「 歪み 」という「 情報処理 」が、身体でエネルギーとして現れる時、「 可能性 」や「 理性 」であり、「 歪み 」という「 情報処理 」の段階が「可能性」であり、「 歪み 」が少ない情報処理が「 理性 」であり、否定し新たな情報処理を要求するのが「 現実 」であると考えます。

「 歪み 」という「 情報処理 」とエネルギーが結合して、「 ストレス 」になり、体内の電気が走り、意識を生むのは、「 二本足の考え 」で書きました。

「 ストレス 」の解消の形態が「 絶望 」であると考えます。

今日、取得したのは、次の事です。

この「 情報処理 」が、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」であり、繰り返す事により、虚数の二乗が実数になるように、無意識の記憶の「 状況 」が、現実の「 状況 」に想起されると考えます。

人格については、後日、書きます。

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2009年12月25日

2009/12/25、オカルト(二本足の考えと人格)関係の適用 6

これは、私の思いつきであり、一つの通過点であり、私の考えの要約です。

私のフィクションです。

2009/12/24、私の記事

私は、意識や無意識という「 精神 」と、記憶や想起や空想などの「 関係 」は、電磁波のように一組を形成すると考える。

時間や空間は、それぞれ「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、個人のDNA や感受性で変形すると考える。

「 精神 」の時空(状況)は不連続であり、感受性により保存したり歪められた時空(状況)が、連続し、それを「 関係 」と、私は呼んでいる。


「 精神 」の意識は動的であり、「 関係 」は、因果であり、「 精神 」の活動範囲を制限すると考える。

この「 精神 」と「 関係 」は、創造主により誕生と同時に与えられ、脳を持つ全ての生物は、これを保持していて、互いに補完すると考える。

この事から、「 絶望 」は生まれない。

「 絶望 」は、「 望み 」が絶たれる事であり、「 望み 」とは「 欲望 」であり、「 関係 」ではなく、可能性や現実性という「 意識の具現化 」が現れる行動の可能性への悲観である。



2009/12/25、私の考え

私が考える「 関係 」は、「 存在可能性 」であるが「 精神(意識) 」の可能性であり、行為の可能性ではない。

私が考える「 関係 」は、「 自己という一つの関係 」の中に、「 精神(意識)の存在可能性 」として無数に存在し、「 行動の可能性 」ではない。

一つの光線が、多数の周波数や振幅を含むように、私という「 自意識 」の中に多数の「 関係 」を含み、「 関係 」は互いに干渉する事なく、「 自己 」という一つの束となって存在すると思います。

その中の一つの「 関係 」を選んだ時、「 欲の可能性 」、言い換えると「 行動の可能性 」として具現化し、「 絶望 」するか否かの決断に直面すると思います。

私が考える「 関係 」は、「 今 」の現実の状況から過去の記憶した状況との間の因果の可能性であり、ヒトは誰もが「 関係 」を「 因果関係 」として把握し、安定していると考えます。

過去の違った状況と「 今 」との因果を考える事は、安定を崩す事であるが、ヒトは皆、無意識に行為をしていて、過去の状況の選択は、個人の自由です。

「 関係の可能性 」は、「 行動の可能性 」として考えるのが正しいかも知れないが、私は、「 意識という電磁波の周波数 」として「 関係 」を考え、行動する時、「 関係 」を取り替える事は出来るが「 関係 」のエネルギーが、「 欲の可能性 」や「 行動の可能性 」として具現化すると考えます。

選択された安定した意識は「 行動の可能性 」であり、周波数が一定の「 定在波 」であり、これを「 人格 」と考えます。

「 人格 」は「 意識の定在波 」であり、「 六道 」であるが、この「 人格 」に「 絶望 」が存在すると考えています。

「 絶望して自己自身であろうと欲しない場合と、絶望して自己自身であろうと欲する場合がそれである。」

この場合の「 自己自身 」というのは、「 六道 」という「 人格 」の中の「 自己 」であると解釈しています。

私は、「 人格 」を変える事により、「 絶望 」から脱出する事を考えます。

それは、「 関係 」を利用して、違う「 人格 」に変わる事です。

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2009年12月24日

2009/12/24、オカルト(二本足の考えと人格)関係の適用 5

これは、間違いかも知れません。

2009/12/23、私の記事

自己自身にかかわるこの関係が他者によって置かれたものだとすれば、それは自己自身にかかわる関係であるばかりでなく、さらにこの関係そのものを置いた第三者に対する関係でもある。



この「 他者 」を、両親などの社会的な「 他者 」と解釈するのか、創造主の「 神 」と解釈するかで結果は違う。

前者の場合が、現実に生きる場合の「 関係 」であり、「 自己という一つの関係 」のなかに、「 絆 」として考慮されるが、「 絶望 」の言葉は出て来ない。

後者の場合、複素数で存在の確率の波動である「 関係 」の中で、ヒトが「 自己が自己を把握する存在 」であると仮定した時、自己の内部の「 他者である神 」と自己の外部の「 他者である神 」が一致しない場合、「 絶望 」という「 欲望 」が生まれると解釈します。

2009/12/24、私の考え

私は、意識や無意識という「 精神 」と、記憶や想起や空想などの「 関係 」は、電磁波のように一組を形成すると考える。

時間や空間は、それぞれ「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、個人のDNA や感受性で変形すると考える。

「 精神 」の時空(状況)は不連続であり、感受性により保存したり歪められた時空(状況)が、連続し、それを「 関係 」と、私は呼んでいる。


「 精神 」の意識は動的であり、「 関係 」は、因果であり、「 精神 」の活動範囲を制限すると考える。

この「 精神 」と「 関係 」は、創造主により誕生と同時に与えられ、脳を持つ全ての生物は、これを保持していて、互いに補完すると考える。

この事から、「 絶望 」は生まれない。

「 絶望 」は、「 望み 」が絶たれる事であり、「 望み 」とは「 欲望 」であり、「 関係 」ではなく、可能性や現実性という「 意識の具現化 」が現れる行動の可能性への悲観である。

この「 絶望 」は、「 他者 」を、両親や会社などの社会的な「 他者 」が、「 関係 」を形成した場合に現れる。

この場合の「 関係 」は、「社会的な関係」であり、意識や「 気持ち 」の持ち方で解決され、エネルギーで「 絶望 」が回避される。

深刻なのは、次の場合である。

「 関係 」は因果であり、連続するが、自己の内部の「他者である創造主から与えられた関係(神)(使命や天命)」と、自己の外部の「 他者である創造主から与えられた関係(神)(状況)」が不連続の場合であり、自己の外部に自己を発見することが出来ない状態が、本来の「 絶望 」であると考える。

この状態が、次の文章になると考える。

絶望して自己自身であろうと欲しない場合と、絶望して自己自身であろうと欲する場合がそれである

これは、本来の「 自己という関係 」を「 精神 」により、獲得しない、「 方向 」という霊を失った状態であると考える。

「 精神 」と「 関係 」は、創造主により誕生と同時に与えられ、脳を持つ全ての生物は、これを保持していて、互いに補完すると考え、自己の内部の「他者である創造主から与えられた関係(神)(使命や天命)」の獲得を目指して行動する事が、私の考えである。


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2009年12月23日

2009/12/23、オカルト(二本足の考えと人格)関係の適用 4

これは、間違いかもしれません。

2009/12/22、私の記事

「 精神 」を意識と無意識であると考えるならば、この主題は、「 精神 」の運動を、精神を成立させている「 関係 」という「 虚数 」で表現したものと解釈する。

主題

人間は精神である。
精神とはなんであるか。
精神とは自己である。
自己とはなんであるか。
自己とは自己自身にかかわる一つの関係である。
いいかえればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかわるということが含まれている。
したがってそれはただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかわることである。




2009/12/23、私の考え

なぜ、「 精神とは自己である 」と言った後、「 自己とは自己自身にかかわる一つの関係である 」と言うのだろう。

「 自己 」を述べる場合、意識や無意識という精神ではなく、「 精神の裏側、虚数の精神 」とも言える、複素数で存在の確率の波動である「 関係 」によって述べるのが適当であるという事だと考えます。

その理由は簡単な事です。

「 自己 」は、「 自己 」を「 鏡 」に写す事により、「 自己 」を知るからです。

「 記憶 」と「 想起 」や「 空想 」という自分の感受性で歪んだ空間を「 具現化 」する事により「 自己を知る 」と考えます。


私の考えも、ブログに書く事により、私が私を知ります。

そして、次の文章は難解です。

いいかえればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかわるということが含まれている。
したがってそれはただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかわることである。



私の想像ですが、筆者は「 関係 」という言葉により、後半の「 神 」や「 絶望 」へと話を進める事を意図していると思います。

私は、これを「 精神 」に置き換えて、「 自己 」の内部は、意識と無意識が混在して、意識と無意識が「 具現化 」したのが「 関係 」であり、「 意味 」であり、その過去の「 状況 」を「 精神 」が再取得すると考えます。

そして、「 意味ある存在の過程 」が人生だと思います。


「 心 」の構造であるかも知れません。

そして、次の文章が続きます。


自己自身にかかわるこの関係が他者によって置かれたものだとすれば、それは自己自身にかかわる関係であるばかりでなく、さらにこの関係そのものを置いた第三者に対する関係でもある。

このように派生的に置かれた関係が人間の自己である。
それは自己自身にかかわるとともに、この自己自身への関係において他者にかかわる関係である。

そこからして本来的な絶望にも二つの形があることになる。
絶望して自己自身であろうと欲しない場合と、絶望して自己自身であろうと欲する場合がそれである。



この「 他者 」を、両親などの社会的な「 他者 」と解釈するのか、創造主の「 神 」と解釈するかで結果は違う。

前者の場合が、現実に生きる場合の「 関係 」であり、「 自己という一つの関係 」のなかに、「 絆 」として考慮されるが、「 絶望 」の言葉は出て来ない。

後者の場合、複素数で存在の確率の波動である「 関係 」の中で、ヒトが「 自己が自己を把握する存在 」であると仮定した時、自己の内部の「 他者である神 」と自己の外部の「 他者である神 」が一致しない場合、「 絶望 」という「 欲望 」が生まれると解釈します。



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2009年12月22日

2009/12/22、オカルト(二本足の考えと人格)関係の適用3

この記事は、ただ思いつくままに書いていますので、間違いだと思います。


精神とはなんであるか。
精神とは自己である。


もしこれが、「 精神は自己である 」ならば、「 社会的な精神と先祖代々に続く精神が結実して自己となり、自己を形成する遺伝子の一つ一つが輪廻転生する「 精神 」の具現化である 」と考え、これは、私の現時点の目標です。

「 精神とは自己である 」を、「 自己は精神である 」と解釈し「 自己が意識する範囲が精神である 」と解釈し、自己は、個人のDNA から発する意識や無意識という感覚が可能な「 精神 」に、記憶や想起という感覚が不可能な「 関係 」が一体となって、形成されていると考えます。


自己とはなんであるか。
自己とは自己自身にかかわる一つの関係である。
いいかえればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかわるということが含まれている。
したがってそれはただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかわることである。


この主題を、どのように解釈するか?

私のブログでは、意識という「 精神 」は「 関係 」という「 虚数 」に補完されて成立する。

「 関係 」は因果律に従い、物質的な記憶の波動と思っている。

私は、関係という虚数が、精神という実数を成立させていると思い、関係が精神だと思うから、「 関係 」を「 精神 」に置き換える。

自己とはなんであるか。
自己とは自己自身にかかわる一つの精神である。
いいかえればこの精神のうちには、精神がそれ自身にかかわるということが含まれている。
したがってそれはただの精神ではなくて、精神がそれ自身にかかわることである。



「 精神 」を意識と無意識であると考えるならば、この主題は、「 精神 」の運動を、精神を成立させている「 関係 」という「 虚数 」で表現したものと解釈する。


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2009年12月21日

2009/12/21、オカルト(二本足の考えと人格)関係の適用2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
私はキリスト教徒ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私の考えは間違いかもしれませんが、次のように考えます。

「人間は精神である。」の解釈。


私の考えは、哲学的でも宗教的でもなく、単純です。

私は、以前、小さなDikzの事を書きました。

Yahoo USA 「小さなDikz」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGki2bVS5LSA8BC0Sl87UF?p=%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%EF%BC%A4%EF%BD%89%EF%BD%8B%EF%BD%9A&fr=yfp-t-701&fr2=sfp&iscqry=

私は、小さなDikzを持って残念だという事を書きたいと思ったのでなく、ヒトが、「 精神的な動物である 」と書きたかった。

動物は、子孫を残すために、発情期に異性を求め、相手のDikzの大小を問題にしない。

それに比べて、ヒトは、小さなDikzよりBig Dikzを好み、SEXの状況による「 快楽 」を求め、「 頭でSEXする 」するから、「 ヒトは精神的な動物である 」と思います。

これはSEXだけでなく、ヒトの行為の全てが、意識や無意識という精神を持ち、「 意味 」を持つと思います。

私は、「 意味 」が「 関係 」である事は、以前、書きました。

意識と意味は、前者が「 快感 」だと感覚で確認する「 実体(実数)」であり、後者は確認する事が出来ない「 過去の体験や未来への空想(虚数) 」という「 関係 」であり、合体していると考えるのが、私のブログの方針です。

この事により、「 ヒトは精神的であり、意識と関係の塊である 」と思います。

Every miller draws water to his own mill.
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2009年12月20日

2009/12/20、オカルト(二本足の考えと人格)関係の適用

キルケゴールの『死にいたる病』の冒頭の言葉。

人間は精神である。
精神とはなんであるか。
精神とは自己である。
自己とはなんであるか。
自己とは自己自身にかかわる一つの関係である。
いいかえればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかわるということが含まれている。
したがってそれはただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかわることである。

自己自身にかかわる関係、すなわち自己は、自分で自分を置いたのであるか、それとも他者によって置かれたのであるか、いずれでなければならない。

自己自身にかかわるこの関係が他者によって置かれたものだとすれば、それは自己自身にかかわる関係であるばかりでなく、さらにこの関係そのものを置いた第三者に対する関係でもある。

このように派生的に置かれた関係が人間の自己である。
それは自己自身にかかわるとともに、この自己自身への関係において他者にかかわる関係である。

そこからして本来的な絶望にも二つの形があることになる。
絶望して自己自身であろうと欲しない場合と、絶望して自己自身であろうと欲する場合がそれである。

キルケゴール著作集11
訳者→松浪信三郎と飯島宗享
1962年11月5日第一刷発行
1974年4月10日第10刷発行
発行所→株式会社、「白水社」


この文章の解釈を目的とする。

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