2010年01月12日

2010/1/12、オカルト(関係と人格)関係と虚時間7

ここで、私が考える、「時間」と「空間」についての、虚構(フィクション)を追加します。


2010/1/12、私の記事

「自意識」の時間と、物質の時間が違うから、一つの時間で判断する事は間違いとういう結論である。

円環的な時間の物質を、過去・現在・未来という直線で考える時、円環的な時間と直線的な時間の「 切り替え 」が、意識の座標に「 虚数を乗じる事 」であると考える。

意識の座標に虚数を乗じる事により、意識の座標が、進行方向に向かって回転しているのだが、これは、時間の切り替えという結論になる。

2010/1/12、私の考え

私は、「 時間 」や「 空間 」一般を規定する事は出来ない。

私は、「 時間 」と「 空間 」を「 意識 」だと考えるから、「 時間意識」であり「 空間意識 」である。

私は、生きている間は、この意識の中の「 時間と空間の中 」で暮らすと思う。

人類が絶滅しても、天体の運動は続くだろうし、それが次に続く生物の「 時間や空間 」を生む実体だと思う。

私が興味を覚えるのは、「 意識としての時空 」である。

私は、「 記憶 」を、個人の歪んだ時空、すなわち、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、個人のDNA などの力による特殊な状況(空間)だと考えます。


その「 記憶 」と「 今の状況 」を電磁波的な構造の意識が往復する事を「想起」と呼び、意識は「 空間的意識 」と「 時間的意識 」による構造であるが、それは、虚時間で現れる歪んだ空間(精神)関係と現実で体験する実時間(生命)の意識の複合であり、前者が特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であり、後者は、「 光 」のように、過去・現在・未来と続く直線的な時間の「 永遠 」であると考える。


私は、自分の「 記憶 」と「 今 」を結んだ意識上で、二種類の時間を持つが、私の精神が関係という意味を通じて社会の精神に結ばれ、特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であるのに、「 生命の死 」を見る事により、精神が「 永遠 」を疑う時、「 不安 」が生じると考える。

特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」な精神が、二種類の時間を「 切り替える 」、「 思う 」、「 虚数を乗じる 」から、「 不安 」が生じるだろう。

直線的な時間の中で、有限の命である自分を思うとき、不安は生じないが、死後を考えるとき不安になるだろう。


どちらの時間を選ぶかは、個人の自由である。


Every miller draws water to his own mill.
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2010/1/12、オカルト(関係と人格)関係と虚時間6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

今日の記事は、これまでの考えの、大幅な修正であり、私のフィクションであり、私だけの考えである。


2010/1/10、私の記事

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。


2010/1/10、考えた事

現実の時間を「 虚時間 」に変化させ、「 埋め込む事 」が、現実を、変形、つまりデフォルメ(deformasion)する事であり、その形態を「 文化 」と考える。

……(省略)……

現代人には理解する事が出来ない「 死中生有り、生中生無し 」の「 生有り 」や「生無し 」という言葉を、時間を奪った「生 」という意味で「 現実の生とは違う関係として、精神としての生 」として解釈すれば、「 生 」とは、「 永遠の生 」となると思う。

2010/1/11、私の考え

……(省略)……

これらの言葉が、時代を超えて、現代の私に呼びかけるのは何故か?

これらの言葉は、「 虚時間 」の言葉であるからだと思う。

時間的な「 生 」を、精神的な「 生 」に「 虚数化 」し、文化として、彼らの死後に、残っているのだ。

これは、何故か?


それは、この言葉は、「 虚数の時間 」、つまり「 特異点の無い 」球面上の時間のように、直線の時間ではなく、循環する時間であると考える。

精神や芸術などの文化が持つ時間は、円環的、循環的な時間だろう。

だから、直線的な、過去・現在・未来という時間が経過しても、違う次元で、循環しているから、数百年も違う私が、理解する事が出来るのだと思う。




2010/1/12、私の考え

そうなると、私の考えを修正しなければならない。

私は、実数部分の「 意識 」と虚数部分の「 関係 」が交差して、現実の認識が成立すると考える。


「 意識 」すると同時に「 関係を想起 」していると考えるが、この虚数の「 関係 」が、円環的、循環的時間であり、直線的な「 自意識 」の時間と違うならば、私は、二つの時間を持っているという結論になる。


「自意識」の時間と、物質の時間が違うから、一つの時間で判断する事は間違いとういう結論である。

円環的な時間の物質を、過去・現在・未来という直線で考える時、円環的な時間と直線的な時間の「 切り替え 」が、意識の座標に「 虚数を乗じる事 」であると考える。

意識の座標に虚数を乗じる事により、意識の座標が、進行方向に向かって回転しているのだが、これは、時間の切り替えという結論になる。

これは、眼の視覚と、耳の聴覚の「 切り替え 」であると思う。

二つの感覚の違いは、光波と音波の違いだが、これは性質上、違う時間の種類であり、感覚を「 切り替えて 」認識しているのは、光波の「 直線的な時間 」と音波の「 円環的な時間 」を切り替えているのであり、光波の視覚という意識がデフォルメされた空間意識の配置という「 関係 」の均衡を崩すのに対し、音波の聴覚は、「 思索して情報を処理 」し、時間の流れの順序で均衡する方向の向かうと考える。

視覚と聴覚を、光波と音波の同じ基準で判断するから、速度や時間の遅れが生じるが、それぞれが異なる時間であり、両者は「 雷 」のように、同時に発生していると考える。

視覚と聴覚は、感覚の違いだと言われるが、私のブログでは、両者は時間の性質が違い、視覚は直線的時間であり、聴覚は円環的な時間であり、その「 切り替え 」は、虚数を乗じる事であり、古来の弁証法の矛盾の解決であると考える。

人間が、なぜ眼を持ち、なぜ耳を持つかの理由となる。



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2010年01月11日

2010/1/11、オカルト(関係と人格)関係と虚時間5

2010/1/10、私の記事

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。


2010/1/10、考えた事

現実の時間を「 虚時間 」に変化させ、「 埋め込む事 」が、現実を、変形、つまりデフォルメ(deformasion)する事であり、その形態を「 文化 」と考える。

……(省略)……

現代人には理解する事が出来ない「 死中生有り、生中生無し 」の「 生有り 」や「生無し 」という言葉を、時間を奪った「生 」という意味で「 現実の生とは違う関係として、精神としての生 」として解釈すれば、「 生 」とは、「 永遠の生 」となると思う。

2010/1/11、私の考え

「 上杉 謙信 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1

1530年2月18日〜1578年4月19日

越後の虎、越後の龍、聖将、軍神

「 死中生有り、生中生無し 」

辞世の句

「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」

「 大石 良雄 (大石内蔵助) 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%9B%84

1659年〜1703年3月20日

辞世の句

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし


極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人


「 マハトマ・ガンジー 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC

1869年10月2日〜1948年1月30日

私には見える。死の中に生が存在するのが。虚偽の中に真実が存在するのが。闇の中にこそ光が存在するのが。



2010/1/11、私の考え

上杉謙信とマハトマ・ガンジーの生存期間が、300年も相違するのに、二人とも、「 死の中に生が有る 」と言っている。

二人は、死を前にした兵士の士気を奮い立たせるための言葉だろうが、共通であるので、何かが有ると思う。

また、上杉謙信と大石良雄は、辞世の句の中で、「 月にかかる雲無し 」と言っている。

これは、課題を遂行し終えて、人生に悔いが無い事を、この世に残したと考える。

これらの言葉が、時代を超えて、現代の私に呼びかけるのは何故か?

これらの言葉は、「 虚時間 」の言葉であるからだと思う。

時間的な「 生 」を、精神的な「 生 」に「 虚数化 」し、文化として、彼らの死後に、残っているのだ。

これは、何故か?


それは、この言葉は、「 虚数の時間 」、つまり「 特異点の無い 」球面上の時間のように、直線の時間ではなく、循環する時間であると考える。

精神や芸術などの文化が持つ時間は、円環的、循環的な時間だろう。

だから、直線的な、過去・現在・未来という時間が経過しても、違う次元で、循環しているから、数百年も違う私が、理解する事が出来るのだと思う。




精神や文化の時間は「 円環的・循環的 」であり、ヒトの死後は、この時間の仲間入りをして、後世に伝えられるというのが、現時点の結論です。


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2010年01月10日

2010/1/10、オカルト(関係と人格)関係と虚時間4

更に考えました。

2010/1/10、私の記事

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。


2010/1/10、考えた事

現実の時間を「 虚時間 」に変化させ、「 埋め込む事 」が、現実を、変形、つまりデフォルメ(deformasion)する事であり、その形態を「 文化 」と考える。

時間の要素を消す事が、未来に向かって存在する事であれば、「 芸術 」は、ヒトは死んでも残り続けるだろう。

「 人生は、芸術である 」と、ある宗教家が言った。

「 今 」の中に、「 永遠 」を発見するというのが、一般的な宗教的な教えであるかも知れないが、現実の時間を「 虚時間 」にする事、芸術のように「 今 」の感受性から時間的要素を奪い、時間に依存しない、自分だけが「 関係 」を感じる作品を作る事が、「 永遠 」に近づく事であると考える。

現代人には理解する事が出来ない「 死中生有り、生中生無し 」の「 生有り 」や「生無し 」という言葉を、時間を奪った「生 」という意味で「 現実の生とは違う関係として、精神としての生 」として解釈すれば、「 生 」とは、「 永遠の生 」となると思う。



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2010/1/10、オカルト(関係と人格)関係と虚時間3

Yahoo USA が、私の「 関係と虚時間 」の記事を掲載してくれました。

Yahoo USA 「 関係と虚時間 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk97p.EhLSnoBt2Cl87UF?p=%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E8%99%9A%E6%99%82%E9%96%93&fr=yfp-t-701&fr2=sfp&iscqry=

以下は、過去の記事です。

2010/1/8、私の記事

( 引用文)
「すなわち、四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれます。」


2010/1/9、私の考え

私は、現時点で、「 記憶 」は虚時間を用いた、上記の引用文の「 時空 」だと考えます。

上記の「 時空 」が、イメージで、過去は全て方向の区別がつかない空間意識として保存され、「 方向 」は、結びつく意識の定在波により、定在波である「 人格 」の価値観の「 方向 」により決定されると考えます。


「 定在波 」とは、始点(今)と終点(記憶)を結んだ波(電磁波)が、習慣により、安定した軌道になった思考状態と考えます。


結びつく定在波が意識であるから、定在波と表裏一体となった「 関係 」が、意識に伴うイメージであり、過去のイメージは不連続であるように思うが、「 関係 」として、過去の全てが連続していると考えます。

それが、阿頼耶識(arayasiki)であり、感覚で把握される、実数としての現実の裏に、考えると直ちに現実の実数に現れる「 虚数 」として存在し、「 無意識 」という形態で、現実に現れると考えます。


2010/1/10、私の考え

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。

それが、「 感動 」です。



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2010年01月09日

2010/1/9、オカルト(関係と人格)関係と虚時間2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


これは、フィクションです。

Yahoo USA は、「 関係と虚時間 」の記事を掲載してくれました。

大変、ありがたい事ですが、これは私の「 主観的心理 」ですから、間違っているかも知れません。

2010/1/8、私の記事

( 引用文)
「すなわち、四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれます。」


2010/1/9、私の考え

私は、現時点で、「 記憶 」は虚時間を用いた、上記の引用文の「 時空 」だと考えます。

上記の「 時空 」が、イメージで、過去は全て方向の区別がつかない空間意識として保存され、「 方向 」は、結びつく意識の定在波により、定在波である「 人格 」の価値観の「 方向 」により決定されると考えます。


「 定在波 」とは、始点(今)と終点(記憶)を結んだ波(電磁波)が、習慣により、安定した軌道になった思考状態と考えます。


結びつく定在波が意識であるから、定在波と表裏一体となった「 関係 」が、意識に伴うイメージであり、過去のイメージは不連続であるように思うが、「 関係 」として、過去の全てが連続していると考えます。

それが、阿頼耶識(arayasiki)であり、感覚で把握される、実数としての現実の裏に、考えると直ちに現実の実数に現れる「 虚数 」として存在し、「 無意識 」という形態で、現実に現れると考えます。


考える事は「 虚数 」を乗じて、現実の「 実数 」に転換する「 可能性 」であり、「 意思は具現化して」物質的になると考えます。


そして、実数に変換したものは、可能性の具現化が物質的であるため、「 理性的 」と思われるが、「 虚数 」が「 実数 」に変化しただけであり、頭脳で変換しただけであり、私は、「 現実が理性的であり、理性的なものは現実である 」という現実の礼賛には反対です。

私は、「 物質 」の中で「 関係 」が「 関連 」になっている点で「 物質 」を礼賛します。


ヒトが宇宙の塵から生まれ、死ねば魂が消滅して宇宙の塵になるように、「 精神 」の「 関係 」は、「 物質 」の地球という「 宇宙の連関 」に帰ると思うからです。

意識の中で、「 関係 」として現れているのは無意識だが、それは、死後の「 生と死の連関 」の予兆であると考えます。

その意味で、「 関係 」は、輪廻転生する「 死と生 」の連続体であるかも知れません。

これは、現時点の考えであり、変化するかも知れない。

「 万物は、流転する 」


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2010年01月08日

2010/1/8、オカルト(関係と人格)関係と虚時間

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私の「 歪んだ時空(状況)」について、考えました。


2010/1/6、私の考え

「 関係 」を、意識の電磁波の波と共に発生する意識が存在する確率の波動(幅)であると考え、その幅の間では何時でも意識に転換可能な虚数として現われ、意識の経歴や進む経路として理性的、客観的な「 精神 」で、物質的な波動であり、未来の意識が発生する範囲を規定し、DNA などの「 魂 」により歪んだ空間(状況)であり、無意識の形態であると、一旦、考える。

2010/1/8、私の考え

DNA などの「 魂 」により歪んだ空間(状況)とは何か?

私は、量子論を、私の考えに導入する事を願っている。




ホーキングの最新宇宙論

1990年12月10日第1刷発行
1990年12月25日第4刷発行
著者→スティーヴン・W・ホーキング
監訳者→佐藤勝彦

(以下、引用します)

「 虚時間 」と呼ばれ、普通の時間とは垂直な時間方向です」116ページ

「ここでは、量子論に由来する虚時間の概念と、時間と空間を時空として結びつけた相対論の考えを一緒にすれば、新たな可能性が開けてきます。すなわち、四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれます。」117ページ

「過去において、時空がどのように始まったのか、特定する必要があります。」

「1983年に、ジム・ハートルと私は、広がりは有限だが、境界や端や特異点を持たない、虚時間を用いた時空についてのみ経路和をとるべきだと提案しました。もしも、この無境界仮説が正しければ、各々の経路に対応する複素数は、物理法則によって決定されるでしょう。このことは、宇宙の状態が、物理法則によって決定されることを意味します。」119ページ

「このように、虚時間の概念を用いた宇宙の数学的モデルは、なぜ宇宙が実際始まったような始まり方で始まったのか、また、なぜ宇宙定数はゼロであるのか、ということを説明できます。」122ページ

「虚時間が有用なのは確かです。実際、極端な立場をとれば、虚時間こそ基本的な概念であり、数学的モデルは、これを用いて定式化されるべきであるとまで言うことが出来ます。普通の時間は、心理的な理由から、私たちがつくりあげた派生的な概念でしょう。私たちは、地球表面の地図のように静止した絵ではなく、事象の時間的連続として宇宙を説明できるように、普通の時間を作りあげたのです。」123ページ

(引用を終わる)




私の考え

「 波動関数 」を「 知識 」という精神だと考え、DNA などの「 魂 」により歪んだ空間(状況)を、スティーヴン・ホーキング氏が言う「 無境界仮説 」の「 虚時間 」を用いた「 そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれる」 空間(状況)であり、「 記憶 」された空間(状況)であると考えます。


時間は「 時間意識 」であり、空間は「 空間意識 」であり、意識は、発生するユークリッド的な「歪んだ空間(状況)として、「 記憶 」の中に保存され、物理の法則で決定されると考える。


ホーキング氏が言う「 宇宙 」は、私のブログでは、「 内なる宇宙 」であり、「 虚時間 」は、「 私の認識において働く頭脳の中の時間 」であり、私の「 時間意識 」とは、「 虚時間 」であると考える。

「 時間意識 」が「 虚時間 」なら、「 経路和 」を使って、「 意識 」が伝達される事も説明する事が出来るかも知れない。

その「 虚時間 」が、「 関係 」として連続し、私の「 自意識 」を成立させていると考える。

私は、ビッグ・バン理論に賛成しないが、「 私の誕生 」は、ビッグ・バンという出来事であり、私の人生は、ビッグ・バンで説明されるかも知れないが、宇宙の真理が「 ビッグ・バン理論 」で説明されるかは疑問である。


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2010年01月07日

2010/1/7、オカルト(関係と人格)関係5

「 関係 」について、簡単に考えていたが、Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれた。

Yahoo Japan は、掲載しないのに、アメリカのYahoo は、掲載している。

もう一方の、有名検索会社は、私のブログを、機械で英訳しているが、掲載はしていない。

従って、世界への「 窓 」は、Yahoo USA であり、Yahoo USA に感謝している。

Yahoo USA 「 関係と人格 」

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk1MCzURL0hAAeQ2l87UF?p=%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E4%BA%BA%E6%A0%BC&fr=yfp-t-701&fr2=sfp&iscqry=


そして、私の記事を約20名の人が、いつも閲覧しているのが判明した。

私のブログの結論は、「 人格の陶冶 」であるから、閲覧する価値は無いと思うが、Yahoo USA を見た人や20名の閲覧者のために、もう少し、書き続ける。

これまで、「 関係 」については、次のように考えていた。

2010/1/6、私の考え

「 関係 」を、意識の電磁波の波と共に発生する意識が存在する確率の波動(幅)であると考え、その幅の間では何時でも意識に転換可能な虚数として現われ、意識の経歴や進む経路として理性的、客観的な「 精神 」で、物質的な波動であり、未来の意識が発生する範囲を規定し、DNA などの「 魂 」により歪んだ空間(状況)であり、無意識の形態であると、一旦、考える。

2010/1/7、私の考え

以前にも書いたが、私は「 関係 」を「 意識 」と一体の波動(表裏一体で、何時でも意識として現れる無意識で、二乗すれば実数になる虚数の状況)であると考えている。

無数の「 意識 」の中で、習慣的な「 定在波 」とも言う「 意識 」と表裏一体の虚数的な無意識の「 状況 」という空間意識を考えている。

「 人格 」は、始点の「 今 」の状況と、終点の過去に経験した状況、あるいは思考された状況とを結ぶ「 意識の定在波 」であり、どの「 状況 」を選択するかは、個人の自由である。

私は、その「 状況 」が、「自己」を離れて、自己の根源まで遡る時、「 神に近づいた 」と思う。

私は、まず「 関係 」の存在を知る感受性が必要で、その「 関係 」は習慣的な「 意識の定在波 」と表裏一体である事を知り、発生源の「 状況 」を、「 神 」と言う「 自己の根源の状況、つまり生きる意味 」を考えると、未来の「 関係 」は、「 生きる意味 」に沿う「 関係 」になり、「 意識 」も変化すると考える。

要するに、「 自己の根源と生きる意味まで遡って考えれば、未来も生きる意味に沿った意識になり、良好な関係になる 」と考える。



それは、重複する「 社会の関係 」を、「 自己の根源に遡って貫く関係 」になるだろう。

それが、「 関係の関係する事 」だと思うが、この推進力は、関係ではなく、「 自己の根源に遡って考える意識の力 」であると考える。

重複した関係の処理の形態が、「 人格の現れ 」であるかも知れない。

親子関係・恋人関係・友人関係などは、後日、カテゴリーを変えて、書きます。



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2010年01月06日

2010/1/6、オカルト(関係と人格)関係4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/12/30、私の記事

弁証法は、「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

私は、自然を自分の考えで、比較し変化(座標を回転)させて記憶しますから、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」は「 知識 」であると考えます。

それは、現実の否定ですが、否定は座標の回転ですから肯定の一面であり、否定しても、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」である「 知識 」は存続するのだと思います。

「 知識 」は「 関係 」であり、「 因果 」であり、人間が否定しても(虚数を乗じても)、存続し、人間の心理に、「 主観 」や「 客観 」という形態で現れると考えます。

「 主観 」や「 客観 」は、「 虚数 」と「 実数 」と言うのに等しいと考えます。

2010/1/4、私の考え

「 関係 」とは、「 意識 」と一緒に発生し、DNAで歪んだ空間意識(状況)であり、時間意識である意識の存在確率であるから意識の限界であるが、意識する可能な空間的状況でもある。

「 今 」というのが、実体的で実数で、客観的であるなら、「 関係 」は、主観的で、眼に見えない「 虚数 」であり、過去の状況と現在と未来の状況を結ぶ、「 確率の波 」である。

2010/1/6、私の考え

「 関係 」を、意識の電磁波の波と共に発生する意識が存在する確率の波動(幅)であると考え、その幅の間では何時でも意識に転換可能な虚数として現われ、意識の経歴や進む経路として理性的、客観的な「 精神 」で、物質的な波動であり、未来の意識が発生する範囲を規定し、DNA などの「 魂 」により歪んだ空間(状況)であり、無意識の形態であると、一旦、考える。

意識の電磁波に対し、「 関係 」は物質波であり、「 精神 」であり分析可能だから、「 関係 」を知る事は、「 意識 」を知るように考える事には反対である。

物質波と電磁波の論理的な構造は似ているかもしれないが、構成する「 気(ki) 」が違うし、ヒトは神(精神)ではない。

「 関係 」が物質から生じるのではなく、実数の「 意識 」が持つ「 虚数 」の存在確率の幅として生じ、「 意識 」を連続した物と考えさせる。

「 虚数を乗じる事 」は、現実生活では考える事、変わった目で見る事であり、弁証法的に考える事だと思う。

「 意識 」を「 派生する物 」と「流れる物 」と往復させるのが無意識の「 関係 」であるが、無意識の「 関係 」を知る事は、「 意識 」の「 光 」の経路が存在する幅を知る事であり、「 関係 」と「 関係 」を結ぶ意識の「 光 」を解明する事にはならない。

考える事を分析しても、分析する意識を解明する事は出来ない。

私は、「 関係 」を「 意識 」との関連で考えて来たが、これを、親子や男女や友人や恋人などの「 社会の人間関係 」に適用した場合を考える予定である。

ヒトは誕生により、意識と共に無数の「 関係 」に包まれ、「 関係 」によって生きているが、「 関係 」が無意識であるため、「 関係 」を知らないかも知れない。

「 関係 」の強弱や濃淡が変化する事により、「 関係 」の存在を知る。

親が、子が、恋人が、友人が、遠く離れて住む事になったり、「 関係が悪化したり 」、あるいは死亡した場合、自分との「 関係 」に気づくだろう。

これは、後日、書きます。


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2010年01月05日

2010/1/5、オカルト(関係と人格)関係3

これは、私の考えです。

2009/12/30、私の記事

弁証法は、「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

私は、自然を自分の考えで、比較し変化(座標を回転)させて記憶しますから、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」は「 知識 」であると考えます。

それは、現実の否定ですが、否定は座標の回転ですから肯定の一面であり、否定しても、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」である「 知識 」は存続するのだと思います。

「 知識 」は「 関係 」であり、「 因果 」であり、人間が否定しても(虚数を乗じても)、存続し、人間の心理に、「 主観 」や「 客観 」という形態で現れると考えます。

「 主観 」や「 客観 」は、「 虚数 」と「 実数 」と言うのに等しいと考えます。

2010/1/4、私の考え

「 関係 」とは、「 意識 」と一緒に発生し、DNAで歪んだ空間意識(状況)であり、時間意識である意識の存在確率であるから意識の限界であるが、意識する可能な空間的状況でもある。

「 今 」というのが、実体的で実数で、客観的であるなら、「 関係 」は、主観的で、眼に見えない「 虚数 」であり、過去の状況と現在と未来の状況を結ぶ、「 確率の波 」である。

……(省略)……

「 関係 」は、「 意識の存在確率 」であり、未来の「状況」の実現可能性では無いから、「 関係 」に「 絶望 」する必要は無い。

私は、「 関係 」を、意識とその可能性に限って考え、実現可能なエネルギーを、「 関係 」の中に含めない。

ヒトに、「 関係 」は無数に存在し、「 光 」が全ての経路を通るように、「 関係 」の全てが、「 実現可能 」であるが、「 絶望 」は、その中の自分が限定した状況の実現可能性に、自分が屈服する事であり、「 絶望 」の根底は「 自分 」であると考える。

2010/1/5、私の考え

ヒトは、無数の意識と「 関係 」の集合であり、社会からの「関係」により、鏡で自分の姿を見るように、自分が「 自分の関係 」を規定する。

これが、精神という「 光 」に照らされた現実の「 自分の関係 」であり、「 意識が存在する確率の波動 」であり、客観的な規定であるが、ヒトは、自分が持つ「 意識の電磁波(光) 」の波動、周波数が、精神という「 光 」と融合、反射して、客観的な「 意識が存在する確率 」を、主観的な光の情報として、自意識の形成の「 道具 」とするのが「 思考実験 」であり、「 学習 」であると考える。

「 関係 」は、意識に対しての「 意識が存在する確率の波動 」という虚数であり、自分が持つ「 意識の電磁波(光) 」の波動、周波数を、精神の「 光 」に融合させるために、力やエネルギーという無意識を必要とするが、それは個人のDNA に左右されるから、「 主観的真理 」である。

「 関係 」は、全ての人類に平等だが、獲得する「 主観的真理 」は、全て相違する。

「 主観的真理 」は、「 魂 」であり、同じ「 魂 」が集合し、その「 方向 」の違いにより、「 人格 」が形成されると考える。

「 関係 」は「 意識 」の虚数であり、何時でも意識に変換可能な虚数として存在し、エネルギーと区別する。

エネルギーの大小は、「 関係 」の「 幅 」や「 強弱 」として現れるが、「 関係 」の数や量は人類、みんな同じで、変化しないと考える。

音楽の演奏で、器具や音量を変えても、メロディは変わらないように。

メロディの分野が、ジャズやクラッシックに分かれるように、「 人格 」も分かれると考える。


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2010年01月04日

2010/1/4、オカルト(関係と人格)関係2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2009/12/30、私の記事

弁証法は、「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

私は、自然を自分の考えで、比較し変化(座標を回転)させて記憶しますから、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」は「 知識 」であると考えます。

それは、現実の否定ですが、否定は座標の回転ですから肯定の一面であり、否定しても、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」である「 知識 」は存続するのだと思います。

「 知識 」は「 関係 」であり、「 因果 」であり、人間が否定しても(虚数を乗じても)、存続し、人間の心理に、「 主観 」や「 客観 」という形態で現れると考えます。

「 主観 」や「 客観 」は、「 虚数 」と「 実数 」と言うのに等しいと考えます。

2010/1/4、私の考え

「 関係 」とは、「 意識 」と一緒に発生し、DNAで歪んだ空間意識(状況)であり、時間意識である意識の存在確率であるから意識の限界であるが、意識する可能な空間的状況でもある。

「 今 」というのが、実体的で実数で、客観的であるなら、「 関係 」は、主観的で、眼に見えない「 虚数 」であり、過去の状況と現在と未来の状況を結ぶ、「 確率の波 」である。

「禍福は糾える縄の如し」

Good and evil are next-door neighbors.


この言葉の「 禍福(Good and evil) 」が、「意識」と「関係」、実数と虚数を示す意味であり、全てが「 自明なもの 」では無く、「 不明なもの 」が、同時に将来の確率として現実の中に存在する事を意味していると考える。

「 関係 」は、「 意識の存在確率 」であり、未来の「状況」の実現可能性では無いから、「 関係 」に「 絶望 」する必要は無い。

私は、「 関係 」を、意識とその可能性に限って考え、実現可能なエネルギーを、「 関係 」の中に含めない。

ヒトに、「 関係 」は無数に存在し、「 光 」が全ての経路を通るように、「 関係 」の全てが、「 実現可能 」であるが、「 絶望 」は、その中の自分が限定した状況の実現可能性に、自分が屈服する事であり、「 絶望 」の根底は「 自分 」であると考える。

「 絶望 」する前に、「 生きる事 」を考えた方が良い。

上杉謙信の言葉である「 死中生有り、生中生無し 」を考える。

死のうと思えば生き、生きようと思えば死ぬ。


生と死は、「 お隣さん 」であり、実数と虚数の関係である。

「禍福は糾える縄の如し」

Good and evil are next-door neighbors.


これに共通するものは何?


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2010年01月03日

2010/1/3、オカルト(関係と人格)関係1

以下は、2009/12/31、時点の記事です。

2009/12/30、私の記事

弁証法は、「 虚数を乗じる事 」が思考であり、それは、座標の回転であり、実数が虚数になる事であり、「 存在の確率 」の「 知識 」になる事です。

私は、自然を自分の考えで、比較し変化(座標を回転)させて記憶しますから、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」は「 知識 」であると考えます。

それは、現実の否定ですが、否定は座標の回転ですから肯定の一面であり、否定しても、「 感受性で歪んだ確率の波 」の「 虚数 」である「 知識 」は存続するのだと思います。

「 知識 」は「 関係 」であり、「 因果 」であり、人間が否定しても(虚数を乗じても)、存続し、人間の心理に、「 主観 」や「 客観 」という形態で現れると考えます。

「 主観 」や「 客観 」は、「 虚数 」と「 実数 」と言うのに等しいと考えます。

2009/12/31、私の考え

以上の事は、「 一つの関係 」について考えた事です。

「 関係 」が、空間の事物の関連を想像させるなら、それは歪んだ時空(状況)の連続する「 空間意識 」であり、因果を想像させるなら、それは不連続の感覚を連続に変化させる「 時間意識 」であると考えます。

「 意識 」と「 関係 」が相違するのは、前者が自分の統合だけを考える末那識(manasiki)であり、後者が、自分の身(身体)口(言葉)意(意識)の総体である阿頼耶識(arayasiki)である点で、「 確率の波 」の本質は違うが、両者が「 意識や無意識 」であるから、構造は同じであると考える。

Good and evil are next-door neighbors.

「禍福は、糾える縄の如し」

この「 禍福(Good and evil) 」の縄を構成する一方が「 意識 」で、他方が「 関係 」で、この「 禍福(Good and evil) 」の縄が光速で進むと考える。

2010/1/3、私の考え

意識と無意識が、糾える縄のように、交差し合って現実の認識が成立している。

この、意識と無意識を、前者が「 フェルミ粒子 」で、後者が「 ボーズ粒子 」の「 複素数の波 」で、前者が「 虚数 」で、後者が「 実数 」、前者が「 主観 」で、後者が「 客観 」と考えている。

意識と無意識を複素数の波と考え、回転して前進し、フェルミ粒子の意識の波がボーズ粒子の無意識の波に変化した時、「 霊界 」に到達して、「 認識が成立する 」と考える。

「 客観 」や「 実数 」は、ヒト同士の情報交換に便利だが、「 認識 」は「 虚数 」の領域であると考える。

「 客観 」や「 実数 」は、計測可能の絶対値であるが「 虚数 」を二乗したものであると考える。

意識の中心に「 虚数 」を乗じる事により、「 実数 」の無意識の中心が結ばれると考える。

反対に無意識に「 虚数 」を乗じる事は、意識が生じる事だと考える。

「 虚数 」を乗じるとは、「思考する事」であると考える。

すると、「 虚数 」の中に「 実数 」が含まれ、主観が客観を含み、フェルミ粒子の波がボーズ粒子の波を含み、意識が無意識を含むように見えるが、実際は「 交差 」しており、両者が同時に存在すると考える。

それが、「 糾える縄 」のような形態であると考える。

生死のように、隣同士として、同居していると考える。

意識が「 記憶 」という自分のDNA で歪んだ過去の状況と「 今 」の間の状況の比較と行動の習慣により「 定在波 」である「 人格 」を作るなら、無意識の波は、方向性を与える「 関係 」として、「 精神 」として、意識を制限し、可能性として現れる「 波動関数 」だろう。

「 関係 」が存在するから、「 人格 」に成長や後退が生じると考える。


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