2010年06月29日

2010/6/29、オカルト・デフォルメと美人画


美人画1












(クリックすれば、少し大きくなります)


私を長年、苦しめ続けた「 ある美人画 」をデジタルカメラで撮影し、デフォルメの見本として掲載します。

私の現在の職業は、兼業を禁止していますので、失職した後、大きな写真として販売する計画です。

ホームページも作っていますが、公開してません。

「 箱根旅行と富士山 」の写真を主として、販売する予定です。

そのときは、改めて、ご紹介します。


2010年03月05日

ゴーギャン展「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこに行くのか」

私は、ミケランジェロが、ダンテの「 神曲 」を好きだと知ると、私は、彼の絵画や彫刻から音楽を感じるが、彼は「 絵画から音楽を感じさせる事 」を意図して、絵を描いたのだと思う。

ミケランジェロと言うが、ゴーギャンを忘れたのではない。

ゴーギャンの本国であるフランスで、私のブログの評価を知りたいと思い、Yahoo France で、「 ゴーギャン展 m24658 」という言葉で検索したら、私のブログの記事が掲載されていた。


Yahoo France 「 ゴーギャン展 m24658 」

http://fr.search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkzYQ949LJCcB6CJiAQx.?p=%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E5%B1%95%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-703&fr2=sfp&iscqry=


ミケランジェロの絵画がフレスコ画であり、ゴーギャンの「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」というタイトルの絵画も、フレスコ画の手法だったと記憶している。


ゴーギャンが、ミケランジェロに似た、フレスコ画で、何を描こうとしたのか。


フレスコ画は、宗教画に用いられると思うが、ゴーギャンは、幼少の頃は、神学者であり、彼は「 死 」の直前、この絵画で、宗教的な思想を描いたに違いない。


全ては、デフォルメだが、同じ手法で、何をデフォルメしようと思ったかを考えると、ゴーギャンは、絵画の中央で果物を取る「 黄色の青年 」を人類の為に救済者が祈る姿という「 宗教画 」、あるいは、天と地のシャッターを下ろす「 この世の最後の姿 」を描いたのだろうと、私は思う。


彼が「 死の直前 」に描いたので、音楽は感じないが、「 将来への不安 」という意識を鑑賞する私に持たせる絵画である。


私は、「 死中生有り 」の言葉を思い出す。

死を前にして、画家は何を描くのかを考えた。

死という時空(状況)は、生きたいと思う気持の裏返しであり、生きたいと思うが「 祈る 」しか手段が無い「 脳中時空 」を、あるいは「 助けを求める脳中時空 」を宗教画を描く手法のフレスコ画で描いたのだろう、と解釈する。

「 不安 」の中に「 救い 」を求める気持ちは、誰でも共通に持っていて、ゴーギャンも、その一人だったと思う。



彼は、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という思想を、絵画により表現したのだろう。

私は、私自身も、「 私がデフォルメした感覚的で意識的な実体 」であると考えている。

その「 デフォルメ」から解放された私自身、あるいは「 デフォルメ 」する事が人間の宿命であれば「 デフォルメ 」する理由を考える事が「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という思想を考える事であると思う。

ゴーギャンは絵画という感覚可能な手段によって、思想を具現化したが、全ての人類は何かの手段で「 生きがい 」や「 ヒトとして生まれた意味 」を表現して、この課題に回答しなければならないと思う。


Every miller draws water to his own mill.



2015/2/9、現在の私の考え 7・可能性へ続く

2015/2/1、私の現在の考え6・意識の生成を参照

2010年02月28日

2010/2/28、オカルト(関係と人格)虚実主義と本質3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私には、疑問がある。

三流大学の法律科を卒業した老人が、「 時間 」や「 空間 」や「 本質 」や「 現象 」を理解する事が出来るのか。

プラトンのイデア論を、どのように解釈するのか。

プラトンのイデア論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E8%AB%96

私は、哲学者が本当に真面目に哲学をしたかについて疑問を持っている。

人類の誕生以来、最も身近な「 時間 」や「 空間 」について、明瞭な解釈があるのか疑問に思う。

@科学でも哲学でも、「 時間 」や「 空間 」についての定義があると思うが、それは何か。

A「 現象 」と「 本質 」があるというが、それは同列に考える事は間違いではないか。

B真・善・美について、どんな「 実在性 」があるのか。


私の考え

@「 時間 」や「 空間 」は、感覚の複合として実体があると思うが、「 実体が存在する 」と言うのは「 観念論 」であり、「 時間 」や「 空間 」は、意識の複合としての実体であり、天体の運動をデフォルメした意識であり、天体の運動を「 時間 」と「 空間 」と人間が言うだけだけであり、「 時間と空間は、時間意識と空間意識であり、その意識の複合として実体を持つ」と考える。

科学者や哲学者は、「 時間 」と「 空間 」を定義すべきで、それが欠けているから、「 不確実性原理 」や「 先験性 」などと言うのであり、「 同時性 」を定義したように、量子論も「 時空論 」が必要で、科学も哲学の上の「 体系 」として、崩れる理論として構築すべきで、科学者も哲学者と同じく「 本質 」を考えなくてはならないと思う。


A「 現象 」も「 本質 」も、同じデフォルメをするのが「 本質 」で、変化するデフォルメをするのが「 現象 」で、デフォルメした意識である点では同じだが、「 現象 」は感覚の複合としての実体であり、「 本質 」は、意識の複合としての実体である点と、「 感覚 」と「 意識 」は、神経を流れる物が前者で、前者から派生するのが後者で、直接の隷属関係はなく、「 実体 」と言うのは「 関係 」あるいは「 関連 」としての存在であり、あるいは脳神経の類型化されたのが「 本質 」であるかも知れない。


B真・善・美は、「 真理 」が根底に存在すると思うが、それは「 デフォルメの極 」であり、社会的で、個人のデフォルメの範囲の外の領域であると考える。

例えば「 雷 」のように、ヒトの知覚は「 光 」の次に「 音 」を認識するが、それは自然界がヒトに与える「 性質 」であり、「 性質 」が同時に惹起するエネルギーを持った時空、あるいはヒトが考える「 性質 」が全て否定される時空が、「 真理 」と考える。

「 真理 」は「 本質 」であり、「 現象 」という感覚の解析から到達するのは、デフォルメを消滅させる事のに等しく、不可能だと思う。


Every miller draws water to his own mill.

2010年02月27日

2010/2/27、オカルト(関係と人格)虚実主義と本質2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
美術の話をするが、芸術家ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/22、私の記事

私は、ミケランジェロがダンテの「神曲」が好きだったと解釈するのではなく、ミケランジェロは「 美術の本質は音楽だ 」と考えていたと解釈する。


美術や音楽は、表現の違いはあり、感覚の統合の現象としての実体は違うが、「 意識の中では 」デフォルメする事であり、意識は同じ速度だから、「 意識の統合による実体の本質 」を頭脳の中で形成すると考える。

デフォルメの理由を問うと、美術の本質は音楽であり、音楽の本質は美術であり、「 本質は一つの時空である 」という結論になる。


2010/2/23、私の考え

以上の考えから、美術や音楽は、内心を表現し、意思の具現化の手段としての素材の種類を問わず、空間的配置が絵画であるならば音楽を連想させ、時間的配置が音楽であれば空間的配置の絵画を連想させる音楽が、それぞれの「 本質 」であると考える。

…………(省略)……………………………


美術には、絵画や写真や日本庭の造形という表現の素材や方法があると思うが、素材や方法が問題ではなく、「 海 」を表現すると思えば、「 波の音 」を同時に表現するのが、「 本質 」を把握した美術であると考える。


2010/2/25、私の考え

「 本質 」とは、何かを考えた。

…………(省略)……………………………

感覚の複合による実体は、「 光速 」や「 音速 」というエネルギーや距離(物体の幅)の「 関係 」が無い場合は「 同時 」が成立しない「 現実の時空 」である。

意識の複合による実体は、「 時間意識 」も「 空間意識 」も意識だから「 速度 」は同じであり、「 未分化 」という形態で「 同時 」である。


感覚の複合による実体が、意識の複合による実体に到達する方法は、東洋の「 禅 」による方法や、労力を費やして「 客観的に 」、積分の方法で到達する方法もあり、前者が、個人の「 意識の本質 」で、後者が社会的で文化的な「 意識の本質 」に到達する方法であるのかも知れない。 

私は、「 速度 」は、事象を人間に隷属させる概念であると考え、個人的で特殊な「 速度 」というエネルギーを捨てて一定と考え、共通のデフォルメを考える。


私は、「 本質 」は、「 速度 」を必要としないと考える。


2010/2/26、私の考え


「 本質は一つの時空である 」とか、「 関係の時空 」とは何か。

私は、「 時間 」や「 空間 」を、デフォルメした「 時間意識 」や「 空間意識 」と考え、時空を計測する事も、全てが精神であり、自分に合わせてデフルメし、見たい物だけ見ていると考える。

「 本質 」は、「 速度 」を必要としないと考えるとは、速度を必要としない、無限に大きくて、無限に小さい一つの時空を考える。

無限に大きくて、無限に小さい時空はデフォルメした時空で、「 時間 」と「 空間 」で構成され、無限に大きい「 時間 」が「 文化 」であり、無限に大きい「 空間 」が「 文明 」と考える。


「 文化 」は、聞いて理解するので「 時間的 」であり、「 文明 」は、道具などのヒトが作った文化の広がりであり、見て理解するから「 空間的 」と考える。

無限に小さい物は、個人の「 時間意識 」と「空間意識」だと考える。


「 一つの時空 」とは、「 無限に大きくて、無限に小さい時空 」であり、「 文化 」や「 文明 」が個人の「 時間意識 」と「空間意識」と一体となった「 時空 」であると考える。


2010/2/27、私の考え


ピエタ(ミケランジェロ)Wikipediaから引用する。

ピエタ(イタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意)とは聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF_(%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD)

この無理を犯すためにミケランジェロはあえて二人の像の均整を取らないという方策に出ており、このイエス像の大きさが等身大のものであったとすると、同じ縮尺で換算したマリアの身長はイエスより大きくなってしまうという不自然さを残した(とはいえ、マリア像の大半は彼女のドレスの内に隠されているため、まったく自然に見えないわけではない)。しかし、これはミケランジェロの設計ミスではない。例えばダビデ像なども下から見上げたときに均整の取れた肉体と映るよう設計されているため、真横から眺めるとどことなく不恰好に見える。同様の作為が施されたピエタ(前述の通り当初は別のところに展示されていた)の設置場所を変えたために生じた不自然さであり、はじめから高所へ設置されることに決まっていたならば、観覧者の目の錯覚を逆利用して補正するように変形することがミケランジェロに可能だったことは明らかである。

(引用を終わる)



この記事から、ミケランジェロは、美術は変形(デフォルメ)であり、自然を忠実に模写するのではなく、デフォルメして思想を訴えるのが美術であると考えていたと思う。

全てがデフォルメで、絵画や彫刻は、空間をデフォルメして訴える思想や物語などの時間的な情報を伝える事であり、芸術家の未分化の時空を、現実の時空に解き放つ事だと考える。

「 芸術は爆発である 」と言うのは、芸術は未分化の時空が、現実の時空に分解されて、未分化のエネルギーが解き放たれる事であると考える。

私は、「 未分化の時空 」を、「 雷が発生する時空 」であると考えている。

「 雷 」は地上の私には、光速と音速の違いで、分離して発生すると考えるが、「 雷 」が発生する時は、「 光 」と「 雷鳴 」は「 未分化として同時 」であり、光と音は同時に存在する。

地上の私が「 感覚の複合としての実体 」を形成するのであり、「 意識の複合としての実体 」を「 雷 」であると考えると、地上の私が、光速と音速より速く「 雷 」という実体に触れる事、認識の範囲を「 雷 」の発生まで拡げる事が、「 一つの時空 」を得る事であると考える。


現実の物体の「 性質 」に制限されず、「 性質 」に分化する前の時空を考えるのが、「 芸術の鑑賞 」であると思う。


解き放たれるエネルギーが「 電気 」であれば、私の考えは、「 プラズマ宇宙論 」の延長線上の考えである。


Every miller draws water to his own mill.

2010年02月26日

2010/2/26、オカルト(関係と人格)虚実主義と本質

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
美術の話をするが、芸術家ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/22、私の記事

私は、ミケランジェロがダンテの「神曲」が好きだったと解釈するのではなく、ミケランジェロは「 美術の本質は音楽だ 」と考えていたと解釈する。


美術や音楽は、表現の違いはあり、感覚の統合の現象としての実体は違うが、「 意識の中では 」デフォルメする事であり、意識は同じ速度だから、「 意識の統合による実体の本質 」を頭脳の中で形成すると考える。

デフォルメの理由を問うと、美術の本質は音楽であり、音楽の本質は美術であり、「 本質は一つの時空である 」という結論になる。


2010/2/23、私の考え

以上の考えから、美術や音楽は、内心を表現し、意思の具現化の手段としての素材の種類を問わず、空間的配置が絵画であるならば音楽を連想させ、時間的配置が音楽であれば空間的配置の絵画を連想させる音楽が、それぞれの「 本質 」であると考える。

…………(省略)……………………………


美術には、絵画や写真や日本庭の造形という表現の素材や方法があると思うが、素材や方法が問題ではなく、「 海 」を表現すると思えば、「 波の音 」を同時に表現するのが、「 本質 」を把握した美術であると考える。


2010/2/25、私の考え

「 本質 」とは、何かを考えた。

…………(省略)……………………………

感覚の複合による実体は、「 光速 」や「 音速 」というエネルギーや距離(物体の幅)の「 関係 」が無い場合は「 同時 」が成立しない「 現実の時空 」である。

意識の複合による実体は、「 時間意識 」も「 空間意識 」も意識だから「 速度 」は同じであり、「 未分化 」という形態で「 同時 」である。


感覚の複合による実体が、意識の複合による実体に到達する方法は、東洋の「 禅 」による方法や、労力を費やして「 客観的に 」、積分の方法で到達する方法もあり、前者が、個人の「 意識の本質 」で、後者が社会的で文化的な「 意識の本質 」に到達する方法であるのかも知れない。 

私は、「 速度 」は、事象を人間に隷属させる概念であると考え、個人的で特殊な「 速度 」というエネルギーを捨てて一定と考え、共通のデフォルメを考える。


私は、「 本質 」は、「 速度 」を必要としないと考える。

「 時空 」を意識と考えて、人間活動の全てをデフォルメと考え、感覚の複合による実体の「 エネルギーが統合した時空 」から、速度やエネルギーが一定の、エネルギーを否定する意識の複合による実体である「 意識の代入によって実体が決定される関係の時空 」へと、「 時空 」を遡る方法である。

あるいは、「 関係の時空 」を意識の中に具現化する方法である。


2010/2/26、私の考え


「 本質は一つの時空である 」とか、「 関係の時空 」とは何か。

私は、「 時間 」や「 空間 」を、デフォルメした「 時間意識 」や「 空間意識 」と考え、時空を計測する事も、全てが精神であり、自分に合わせてデフルメし、見たい物だけ見ていると考える。

「 本質 」は、「 速度 」を必要としないと考えるとは、速度を必要としない、無限に大きくて、無限に小さい一つの時空を考える。

無限に大きくて、無限に小さい時空はデフォルメした時空で、「 時間 」と「 空間 」で構成され、無限に大きい「 時間 」が「 文化 」であり、無限に大きい「 空間 」が「 文明 」と考える。


「 文化 」は、聞いて理解するので「 時間的 」であり、「 文明 」は、道具などのヒトが作った文化の広がりであり、見て理解するから「 空間的 」と考える。

無限に小さい物は、個人の「 時間意識 」と「空間意識」だと考える。


「 一つの時空 」とは、「 無限に大きくて、無限に小さい時空 」であり、「 文化 」や「 文明 」が個人の「 時間意識 」と「空間意識」と一体となった「 時空 」であると考える。


「 文化 」は、音楽や情報など「 時間的 」で「 生命的 」であり、「 意識 」という実体になり、「 文明 」は、絵画や道具で後世まで残るように「 空間的 」で「 社会的 」であり、「 関係 」である。

この「 一つの時空 」が「 本質 」であり、「 本質 」は個人的で、社会的であるため、天体の運動により「 変遷 」する。

「 本質 」は、「 無限に大きくて、無限に小さい時空 」の中で、文化や文明が交差する所の「 時空 」であり、文化や文明の変遷と共に変遷し、「 万物は流転する 」ように流転すると考える。

「 関係の時空 」は、「 文明の時空 」であり、社会的な文化の広がりであり、個人の意識は「 文化」であり死亡により消滅するが、個人の社会的な行為や言動は、「 文明 」として後世まで残り、新たなデフォルメを生む「 本質 」として、デフォルメの極として存在すると考える。


Every miller draws water to his own mill.

2010年02月25日

2010/2/25、オカルト(関係と人格)虚実主義と美と本質3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
美術の話をするが、芸術家ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/22、私の記事

私は、ミケランジェロがダンテの「神曲」が好きだったと解釈するのではなく、ミケランジェロは「 美術の本質は音楽だ 」と考えていたと解釈する。


美術や音楽は、表現の違いはあり、感覚の統合の現象としての実体は違うが、「 意識の中では 」デフォルメする事であり、意識は同じ速度だから、「 意識の統合による実体の本質 」を頭脳の中で形成すると考える。

デフォルメの理由を問うと、美術の本質は音楽であり、音楽の本質は美術であり、「 本質は一つの時空である 」という結論になる。


2010/2/23、私の考え

以上の考えから、美術や音楽は、内心を表現し、意思の具現化の手段としての素材の種類を問わず、空間的配置が絵画であるならば音楽を連想させ、時間的配置が音楽であれば空間的配置の絵画を連想させる音楽が、それぞれの「 本質 」であると考える。


空間的配置と時間的配置は、「 空間意識 」と「時間意識 」であり、個人がデフォルメした「 時空 」である。


素材を認識する感覚の複合が「 現象としての実体 」で、意識の複合が「 本質としての実体 」であり、前者は感覚器官が「 人体 」という一つの「 場 」で同時を「 神経的 」で「 科学的 」に「 存在という共通の情報 」として迎えるのに対し、後者は、デフォルメした個人の「 時空 」で、同時を、「時間意識」と空間意識」が同じ速さであるため「科学的」に同時な状態ではなく、未分化な情報が交差した時空(状況)としての「 同時 」あるいは「 並列 」の状態であると考える。


芸術家の時空(状況)の意識として「 同時 」であるため、絵画を鑑賞したり、音楽を鑑賞するヒトは同じ意識を持っているから、芸術家の「 時間意識 」と「 空間意識 」を同時に、認識する事が出来ると考える。


美術には、絵画や写真や日本庭の造形という表現の素材や方法があると思うが、素材や方法が問題ではなく、「 海 」を表現すると思えば、「 波の音 」を同時に表現するのが、「 本質 」を把握した美術であると考える。


2010/2/25、私の考え

「 本質 」とは、何かを考えた。

素材を認識する感覚の複合が「 現象としての実体 」で、意識の複合が「 本質としての実体 」であり、前者は感覚器官が「 人体 」という一つの「 場 」で同時を「 神経的 」で「 科学的 」に「 存在という共通の情報 」として迎えるのに対し、後者は、デフォルメした個人の「 時空 」で、同時を、「時間意識」と空間意識」が同じ速さであるため「科学的」に同時な状態ではなく、未分化な情報が交差した時空(状況)としての「 同時 」あるいは「 並列 」の状態であると考える。

感覚の複合による実体は、「 光速 」や「 音速 」というエネルギーや距離(物体の幅)の「 関係 」が無い場合は「 同時 」が成立しない「 現実の時空 」である。

意識の複合による実体は、「 時間意識 」も「 空間意識 」も意識だから「 速度 」は同じであり、「 未分化 」という形態で「 同時 」である。


感覚の複合による実体が、意識の複合による実体に到達する方法は、東洋の「 禅 」による方法や、労力を費やして「 客観的に 」、積分の方法で到達する方法もあり、前者が、個人の「 意識の本質 」で、後者が社会的で文化的な「 意識の本質 」に到達する方法であるのかも知れない。 

私は、「 速度 」は、事象を人間に隷属させる概念であると考え、個人的で特殊な「 速度 」というエネルギーを捨てて一定と考え、共通のデフォルメを考える。


私は、「 本質 」は、「 速度 」を必要としないと考える。

「 時空 」を意識と考えて、人間活動の全てをデフォルメと考え、感覚の複合による実体の「 エネルギーが統合した時空 」から、速度やエネルギーが一定の、エネルギーを否定する意識の複合による実体である「 意識の代入によって実体が決定される関係の時空 」へと、「 時空 」を遡る方法である。

あるいは、「 関係の時空 」を意識の中に具現化する方法である。


現時点の私は、「 部分の中に、時空の全体が現れる事 」、あるいは「 部分で全体 」を現わす事が時空の超越であり、美術や音楽の本質であると考える。


意識の複合による実体が、感覚の複合による実体の中に現れた場合、複数の意識を生む「 爆発 」であるが、それは、部分から溢れる全体である。


例えば、モーツアルトが誤りもなく楽譜を書くように、キリストや仏陀が誤りもなく、言葉を、この世に残すように。


Every miller draws water to his own mill.

2010年02月23日

2010/2/23、オカルト(関係と人格)虚実主義と美と本質2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
美術の話をするが、芸術家ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/22、私の記事

私は、ミケランジェロがダンテの「神曲」が好きだったと解釈するのではなく、ミケランジェロは「 美術の本質は音楽だ 」と考えていたと解釈する。


美術や音楽は、表現の違いはあり、感覚の統合の現象としての実体は違うが、「 意識の中では 」デフォルメする事であり、意識は同じ速度だから、「 意識の統合による実体の本質 」を頭脳の中で形成すると考える。

デフォルメの理由を問うと、美術の本質は音楽であり、音楽の本質は美術であり、「 本質は一つの時空である 」という結論になる。


2010/2/23、私の考え

以上の考えから、美術や音楽は、内心を表現し、意思の具現化の手段としての素材の種類を問わず、空間的配置が絵画であるならば音楽を連想させ、時間的配置が音楽であれば空間的配置の絵画を連想させる音楽が、それぞれの「 本質 」であると考える。


空間的配置と時間的配置は、「 空間意識 」と「時間意識 」であり、個人がデフォルメした「 時空 」である。


素材を認識する感覚の複合が「 現象としての実体 」で、意識の複合が「 本質としての実体 」であり、前者は感覚器官が「 人体 」という一つの「 場 」で同時を「 神経的 」で「 科学的 」に「 存在という共通の情報 」として迎えるのに対し、後者は、デフォルメした個人の「 時空 」で、同時を、「時間意識」と空間意識」が同じ速さであるため「科学的」に同時な状態ではなく、未分化な情報が交差した時空(状況)としての「 同時 」あるいは「 並列 」の状態であると考える。


芸術家の時空(状況)の意識として「 同時 」であるため、絵画を鑑賞したり、音楽を鑑賞するヒトは同じ意識を持っているから、芸術家の「 時間意識 」と「 空間意識 」を同時に、認識する事が出来ると考える。


美術には、絵画や写真や日本庭の造形という表現の素材や方法があると思うが、素材や方法が問題ではなく、「 海 」を表現すると思えば、「 波の音 」を同時に表現するのが、「 本質 」を把握した美術であると考える。


どのような素材を使っても「 本質 」を表現するのが芸術家であると思う。


日本の画家が言った「 芸術は爆発である 」という意味を、芸術家の未分化で交差した時空(状況)としての「 同時 」が、鑑賞するヒトの頭脳の中で「 爆発 」する事であると考える。

極端に言えば、「 爆発しない絵画 」は芸術ではない。



Every miller draws water to his own mill.

2010年02月22日

2010/2/22、オカルト(関係と人格)虚実主義と美と本質

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
美術の話をするが、画家ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/4、私の考え

@意識は電磁波の構造をしていると考える。

A意識は一定の速度であると考える。


………………………………

A意識は一定の速度であると考える。

BとCにより、意識や精神の全てが、天体の運動をデフォルメしたものである。

頭脳の中は、変形した時空であり、無限大の宇宙をデフルメし、象徴として持っていると考える。

感覚は、デフォルメする器官であり、記憶と交信する感受性の違いにより、時空の変形の大小が決まると考える。

デフォルメが小さいならば、事実に近づくだろうし、デフォルメが大きいなら、「 オカルト 」と呼ばれるかも知れないが、これは、事実を写真で伝えるか絵画で伝えるかの違いであり、前者が後者に比べて正確な知識を得るだけの違いであり、私は、写真や絵画という伝達手段の優劣ではなく、何をデフォルメしているのかを重視する。

これは、絵画と写真だけでなく、音楽やその他の芸術の全てに及び、意識に優劣は無いと考える。

この事により、私は、A意識は一定の速度であると考える。

Eにより、意識が体験から発生する事を考える。

「 光 」が「 粒子の性質 」と「 波の性質 」を持つと言うが、私は、何故、光が二つの性質を持つのか、疑問に思う。

その二つの性質とは、ヒトが必要とする意識をデフォルメした概念だと思う。

「 粒子の性質 」は、開かれた空間を想像し、限り無い宇宙を伝達する媒体も無く進む、直線的な時間を想像する。

他方、「 波の性質 」は、閉じられた空間で、始めや終わりという特異点が無い、精神の円環的な時間を想像する。

前者は、空間的なエネルギー(時間や世代を超越して存在するエネルギー)を持つ絵画や写真であり、後者は、時間的なエネルギー(精神的なエネルギー)を持つ音楽を想像する。

絵画や写真というデフォルメの方法が向かうのは、「 空間の中に音楽を感じる事 」であり、音楽というデフォルメの方法が向かうのは、「 音楽の中の空間 」だろうと思う。

この二つの性質を「 光 」は、「 電磁波 」という形態で、現実の社会で同時に実現し、ヒトが、「 自分は自分である 」と考えるのは、「 電磁波的な発想で自分を考える事 」であると思う。


2010/2/21、私の考え


このように、現実生活をデフォルメされた現象と考え、デフォルメの意味を問う事が、本質を問う事であると考えると、次のように考える。

感覚の複合により実体で、それが現象ならば、現象の原因が「 本質 」ではなく、「 本質 」は、意識や観念の複合で、「 現象 」とは直接の「 関係 」はないと考える。

現実の「 実体 」を、意識の、観念の「 実体 」を問うのが「 本質論 」で、私の、「 虚実主義 」からは、「 虚数を乗じる事 」であり「 虚数から実数 」を求めることだと思う。

「 現象 」に空間関係があるように、「 本質 」にも空間関係があり、「 記憶 」が「 物事 」という行為を憶えるように、デフォルメする共通の時空(状況)や「 空間関係 」を求める。

「 本質 」は、思考というデフォルメの理由を問う事で、「 意識の統合としての実体 」であると考える。


私は、「時間」や「空間」はデフォルメした意識で、それぞれ「 時間意識 」であり「 空間意識 」であると考えるから、現在の時空(状況)から、意識の時空(状況)へ遡及する事が「 本質 」を考える事で、それは意識の統合であり、「 現象 」とは、感覚の意識の統合が作る「 実体 」であると考える。

私は、「 実体 」から「 実体 」を求めているが、その間には、思考というデフォルメ、虚数の二乗の「 関係 」があると考える。


2010/2/22、私の考え

感覚の複合により実体で、それが現象ならば、現象の原因が「 本質 」ではなく、「 本質 」は、意識や観念の複合で、「 現象 」とは直接の「 関係 」はないと考える。

そこで、絵画を考えた。

2010/2/4、私の記事

「 粒子の性質 」は、開かれた空間を想像し、限り無い宇宙を伝達する媒体も無く進む、直線的な時間を想像する。

他方、「 波の性質 」は、閉じられた空間で、始めや終わりという特異点が無い、精神の円環的な時間を想像する。

前者は、空間的なエネルギー(時間や世代を超越して存在するエネルギー)を持つ絵画や写真であり、後者は、時間的なエネルギー(精神的なエネルギー)を持つ音楽を想像する。

絵画や写真というデフォルメの方法が向かうのは、「 空間の中に音楽を感じる事 」であり、音楽というデフォルメの方法が向かうのは、「 音楽の中の空間 」だろうと思う。

2010/2/22、私の考え

この二つの性質を「 光 」は、「 電磁波 」という形態で、現実の社会で同時に実現しているのが「 現象 」で、同じ速度を持つ「 意識の複合 」は、美術では、「 空間や物体の中に音楽を感じさせる事 」であり、音楽では、「 楽器の音を時間の順番に配置する事により、空間や物体を感じさせる事 」であり、それが「 本質 」であると思う。

それは、ミケランジェロの解説から、考えられる。

ピエタ(ミケランジェロ)Wikipediaから引用する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF_(%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD)

「 次いでよく知られる解釈は、ミケランジェロがダンテの『神曲』から強く影響を受けたというものである。この詩篇に対するミケランジェロの熱中ぶりは、ボローニャにいたころは給料を支払ってまで『神曲』を暗誦できる者を傍に置いていたという逸話によっても知られる。」

(引用を終わる)

私は、ミケランジェロがダンテの「神曲」が好きだったと解釈するのではなく、ミケランジェロは「 美術の本質は音楽だ 」と考えていたと解釈する。


美術や音楽は、表現の違いはあり、感覚の統合の現象としての実体は違うが、「 意識の中では 」デフォルメする事であり、意識は同じ速度だから、「 意識の統合による実体の本質 」を頭脳の中で形成すると考える。

デフォルメの理由を問うと、美術の本質は音楽であり、音楽の本質は美術であり、「 本質は一つの時空である 」という結論になる。


ミケランジェロの作品から、ダンテの「神曲」や「 賛美歌 」を感じ、モーツアルトやベートベンの作品から、田舎の風景を連想する理由である。


Every miller draws water to his own mill.

2010年02月21日

2010/2/21、オカルト(関係と人格)虚実主義とクオリア

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/18、私の記事

「 関係(道) 」は意識の存在可能性で、拘束されるが、デフォルメした原因を問う事により、「 自己 」が、現状とは違う自己に変わる可能性がある。

上杉謙信の言葉である「 死中生有り、生中生無し 」というのも、デフォルメした生物的な「 生死 」の時空(状況)に拘束されずに、「 義という精神の中に生きる事 」が、「 生 」の本質であり、デフォルメの原因を問う事により本質を把握する事かもしれない。


「 生きたい 」と思うから、「 死 」の時空(状況)を作るし、「 死にたくない 」と思うから「 生 」の時空(状況)を作る。

本当に生きたいと思うならば、「 死 」の時空(状況)の中に「 生 」の時空(状況)を作れ、「 絶望 」の時空(状況)から、「 生 」の時空(状況)を作れという事だと思う。

そして、本当の「 生 」は、「 死にたくない 」という意識を持つ生物的な「 生 」の時空(状況)の中には「 無い 」という事かも知れない。




2010/2/21、私の考え


このように、現実生活をデフォルメされた現象と考え、デフォルメの意味を問う事が、本質を問う事であると考えると、次のように考える。

感覚の複合により実体で、それが現象ならば、現象の原因が「 本質 」ではなく、「 本質 」は、意識や観念の複合で、「 現象 」とは直接の「 関係 」はないと考える。

現実の「 実体 」を、意識の、観念の「 実体 」を問うのが「 本質論 」で、私の、「 虚実主義 」からは、「 虚数を乗じる事 」であり「 虚数から実数 」を求めることだと思う。

「 現象 」に空間関係があるように、「 本質 」にも空間関係があり、「 記憶 」が「 物事 」という行為を憶えるように、デフォルメする共通の時空(状況)や「 空間関係 」を求める。

「 本質 」は、思考というデフォルメの理由を問う事で、「 意識の統合としての実体 」であると考える。


私は、「時間」や「空間」はデフォルメした意識で、それぞれ「 時間意識 」であり「 空間意識 」であると考えるから、現在の時空(状況)から、意識の時空(状況)へ遡及する事が「 本質 」を考える事で、それは意識の統合であり、「 現象 」とは、感覚の意識の統合が作る「 実体 」であると考える。

私は、「 実体 」から「 実体 」を求めているが、その間には、思考というデフォルメ、虚数の二乗の「 関係 」があると考える。




その時空や空間関係が、脳科学者が言う「 クオリア 」であると思う。

感覚の働きの「 頭脳 」からは「 現象 」が生じ、「 頭脳 」の意識から「 本質 」が生じるので、脳科学は「 脳 」とともに「 脳幹 」も考慮すべきで、意識と無意識を考えないと、「クオリア」を解明する事は出来ないと思う。


Every miller draws water to his own mill.

2010年02月18日

2010/2/18、オカルト(関係と人格)虚実主義4(自己)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/17、私の記事

私は、「 自分自身 」が、肉体的、精神的に「 どこから来て、どこに行くのか、私は何者なのか 」を知らない。

仏教的には、私の根底に「 無明 」があるかも知れないが、「 自分 」について、私自身が一番よく知っている。

この「 知っている事 」が、「 時間 」や「 空間 」をデフォルメしているように、自分をデフォルメしていると考える。

「 自意識 」と「 時間意識 」と「 空間意識 」は、デフォルメしたという意味では、同等であり、「 自意識 」の中に、時空が意識として含まれる。

2010/2/18、私の考え

このように、「 自己 」は、自分が意識する範囲で、自分を「 実体 」であると思っている事を知っていると考える。

だから、絶望すると思うが、それは自分がデフォルメした絶望する時空(状況)を唯一の時空と思っているから絶望するのであり、他者の精神を学ぶ事により、デフォルメする事が不可能な「 関係(道)」を知って、希望を持てるかも知れない。

「 関係(道) 」は意識の存在可能性で、拘束されるが、デフォルメした原因を問う事により、「 自己 」が、現状とは違う自己に変わる可能性がある。

上杉謙信の言葉である「 死中生有り、生中生無し 」というのも、デフォルメした生物的な「 生死 」の時空(状況)に拘束されずに、「 義という精神の中に生きる事 」が、「 生 」の本質であり、デフォルメの原因を問う事により本質を把握する事かもしれない。


「 生きたい 」と思うから、「 死 」の時空(状況)を作るし、「 死にたくない 」と思うから「 生 」の時空(状況)を作る。

本当に生きたいと思うならば、「 死 」の時空(状況)の中に「 生 」の時空(状況)を作れ、「 絶望 」の時空(状況)から、「 生 」の時空(状況)を作れという事だと思う。

そして、本当の「 生 」は、「 死にたくない 」という意識を持つ生物的な「 生 」の時空(状況)の中には「 無い 」という事かも知れない。




Every miller draws water to his own mill.

2010年02月17日

2010/2/17、オカルト(関係と人格)虚実主義3(自己)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/16、私の考え

すると、私の身(身体)口(言葉)意(意識)は、「 虚時間 」の「 関係 」の中に、「 無意識 」を投入して、「 実体 」を作っていることになると思う。

私が、人間として誕生したことは、実時間の中に、意識と無意識の塊の肉体を持ったことだが、「 虚時間 」から誕生したと考える。

「 無 」から「 実体 」を作るのは、不可能であり、その証拠に、人間は、光合成をする「 木の葉 」さえ作れない。


だから、私は「 無 」から生まれたのではなく、私が誕生する前は、父母の間の祖先から続くDNA という生物的な「 陰 」と「 陽 」の「 生物的関係 」であり、「 虚時間 」の「 精神の関係 」に「 ヒトの意識 」を与えられて、「 実時間 」をもつ肉体に誕生したと考える。

私の死後、ヒトではなく、他の生き物の「 意識 」を持った「 実体 」として、輪廻転生するかも知れない。


「 実時間 」を「 意識 」としてデフォルメし、「 虚時間 」と考えたり、事物をデフォルメされた「 現象 」と考えて「 デフォルメの本質 」を考える事は、私の誕生前の「 関係 」を考える事だと思う。


2010/2/17、私の考え

すると、「 私自身 」や「 自己 」というのも、デフォルメした結果の「 私自身 」であると考えなければならない。

私は、「 自分自身 」が、肉体的、精神的に「 どこから来て、どこに行くのか、私は何者なのか 」を知らない。

仏教的には、私の根底に「 無明 」があるかも知れないが、「 自分 」について、私自身が一番よく知っている。

この「 知っている事 」が、「 時間 」や「 空間 」をデフォルメしているように、自分をデフォルメしていると考える。

「 自意識 」と「 時間意識 」と「 空間意識 」は、デフォルメしたという意味では、同等であり、「 自意識 」の中に、時空が意識として含まれる。

思い出す「 記憶 」を、個人の歪んだ時空、すなわち、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、個人のDNA などの力による特殊な状況(空間)だと考える。

どこの時点の「 記憶 」を思い出して、「 自己 」という「 実体 」を作るのかは、人類の全てのヒトは自意識を持つから、頭脳内では、全て相違するだろう。

自分という「 実体 」は、意識の総和であり、霊であるが、「 自分の実体という意識 」は、時間的には自分の記憶の範囲で、空間的には身体が感じる範囲、エネルギー的には行動可能な範囲で、自分がデフォルメして区切った「 実体 」である。

「 実体 」は「 範囲 」という空間配置を持つが、「 実体 」と同時に、常に存在する精神という「 関係 」を区切るが、区切られた範囲で「 実体 」である。

私は、区切られた「 関係 」を頭脳の脳波と考えると、区切られていない「 関係 」は、「 シューマン共振 」する地球の脳波に相当すると考える。

「 関係 」は、何に対しての関係であるかにより、現在とは相違する「 実体 」の形成へと導くと考える。

私は、私の意識で区切って「 実体 」と思うのであり、感覚と意識の統合だが、「 必然的な関係 」の「 実体 」ではなく、一旦、存在すると仮定した「 実体 」であり、「 虚の私 」であるかも知れない。



Every miller draws water to his own mill.

2010年02月16日

2010/2/16、オカルト(関係と人格)虚実主義2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/13、私の記事

私は、この「 陰 」・「 陽 」と「 実 」・「 虚 」を、私のブログに利用する事が可能か否かを考えた。


私は、これを「 心の状態 」と考えて、「 陰 」と「 陽 」は、DNA でデフォルメする生物的な「 関係 」で、「 実 」と「 虚 」は、現在をデフォルメ(変形)する意識的な「 関係 」であると考える。


この「 関係 」の何処かに分類される「 病気という心の状態 」は、「 関係を実体にする無意識 」であり、「 病気 」と社会から見られる閉じた時空のエネルギーであり、それに対応する成分を持った「 薬 」を処方する事は、病気を治療する事だが、「 無意識 」に「 知識 」を供給する事であり、閉じた時空を、閉じる範囲が広い時空に導く事だと考える。


「 陰 」と「 陽 」は、「 流れる物 」であり、性的、生物的な方向のエネルギーであり、「 実 」と「 虚 」は、「 派生する物 」であり、意識的、精神的なエネルギーであり、「 薬 」は、循環を促すエネルギーであると考える。


私のブログから見れば、「 陰 」・「 陽 」・「 実 」・「 虚 」は、現実を交差する、目には見えない「 関係 」であり、「 薬 」は、漢方薬の効能を信じる人にとっては、「 関係 」を脱出するための神仏のエネルギーであると考える。

私のブログは、「 虚無主義 」ではない。

私が作った言葉で私のブログは「 虚実主義 」である。



2010/2/15、私の考え

「 虚 」と組み合わせるのが、「 無 」でも「 空 」でもなく、「 実 」である。

「 虚 」とはデフォルメであるが、普通の時間と「 虚時間 」を区別するので、「 虚無主義 」ではなく「 虚実主義 」であると考える。

漢方の「 虚 」と「 実 」の考えは、観念の世界であり、漢方の「 陰 」と「 陽 」は性的、DNAに影響されるエネルギーであると考える。

…………(省略)……………………

これは、「 無 」でも「 空 」でもなく、「 実 」に変換可能な「 虚 」であるし、「 虚 」は「 実 」にも変換可能と考える。


私のブログでは、「 実 」に相当するのが「 知識 」や実生活で、「 虚 」に相当するのが「 智慧 」であり、「 内なる宇宙 」や「 記憶 」である。

「 智慧 」や「 内なる宇宙 」や「 記憶 」を支配するのが「 虚時間 」で、デフォルメした世界、精神の世界であり、精神世界の時間は、「 虚時間 」であると考える。

すると、ヒトは、「 虚時間 」の「 眼差し 」で、現実世界の「 力線 」を「 陰 」と「 陽 」の電気が走る人体に無意識に取り入れて、ストレス状態になると考える。



2010/2/16、私の考え



すると、私の身(身体)口(言葉)意(意識)は、「 虚時間 」の「 関係 」の中に、「 無意識 」を投入して、「 実体 」を作っていることになると思う。

私が、人間として誕生したことは、実時間の中に、意識と無意識の塊の肉体を持ったことだが、「 虚時間 」から誕生したと考える。

「 無 」から「 実体 」を作るのは、不可能であり、その証拠に、人間は、光合成をする「 木の葉 」さえ作れない。


だから、私は「 無 」から生まれたのではなく、私が誕生する前は、父母の間の祖先から続くDNA という生物的な「 陰 」と「 陽 」の「 生物的関係 」であり、「 虚時間 」の「 精神の関係 」に「 ヒトの意識 」を与えられて、「 実時間 」をもつ肉体に誕生したと考える。

私の死後、ヒトではなく、他の生き物の「 意識 」を持った「 実体 」として、輪廻転生するかも知れない。


「 実時間 」を「 意識 」としてデフォルメし、「 虚時間 」と考えたり、事物をデフォルメされた「 現象 」と考えて「 デフォルメの本質 」を考える事は、私の誕生前の「 関係 」を考える事だと思う。


そして、死んでも「 無 」になるのではなく「 精神の虚 」になるだろう。

少し、危険な考えを書く。

日本では、天皇の崩御を「 お隠れになる 」という表現をするが、私は第二次世界大戦の天皇に対する考えは採用しないが、ヒトは死亡により「 無 」になるのではなく、「 精神の虚 」となるが、再び肉体の意識を持って輪廻転生すると考える。



Every miller draws water to his own mill.

2010年02月15日

2010/2/15、オカルト(関係と人格)虚実主義1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/2/13、私の記事

私は、この「 陰 」・「 陽 」と「 実 」・「 虚 」を、私のブログに利用する事が可能か否かを考えた。


私は、これを「 心の状態 」と考えて、「 陰 」と「 陽 」は、DNA でデフォルメする生物的な「 関係 」で、「 実 」と「 虚 」は、現在をデフォルメ(変形)する意識的な「 関係 」であると考える。


この「 関係 」の何処かに分類される「 病気という心の状態 」は、「 関係を実体にする無意識 」であり、「 病気 」と社会から見られる閉じた時空のエネルギーであり、それに対応する成分を持った「 薬 」を処方する事は、病気を治療する事だが、「 無意識 」に「 知識 」を供給する事であり、閉じた時空を、閉じる範囲が広い時空に導く事だと考える。


「 陰 」と「 陽 」は、「 流れる物 」であり、性的、生物的な方向のエネルギーであり、「 実 」と「 虚 」は、「 派生する物 」であり、意識的、精神的なエネルギーであり、「 薬 」は、循環を促すエネルギーであると考える。


私のブログから見れば、「 陰 」・「 陽 」・「 実 」・「 虚 」は、現実を交差する、目には見えない「 関係 」であり、「 薬 」は、漢方薬の効能を信じる人にとっては、「 関係 」を脱出するための神仏のエネルギーであると考える。

私のブログは、「 虚無主義 」ではない。

私が作った言葉で私のブログは「 虚実主義 」である。



2010/2/15、私の考え

「 虚 」と組み合わせるのが、「 無 」でも「 空 」でもなく、「 実 」である。

「 虚 」とはデフォルメであるが、普通の時間と「 虚時間 」を区別するので、「 虚無主義 」ではなく「 虚実主義 」であると考える。

漢方の「 虚 」と「 実 」の考えは、観念の世界であり、漢方の「 陰 」と「 陽 」は性的、DNAに影響されるエネルギーであると考える。

私の考えは、次の言葉に影響された。


「虚時間が有用なのは確かです。実際、極端な立場をとれば、虚時間こそ基本的な概念であり、数学的モデルは、これを用いて定式化されるべきであるとまで言うことができます。普通の時間は、心理的な理由から、私たちがつくり上げた派生的な概念でしょう。私たちは、地球表面の地図のように静止した絵ではなく、事象の時間的連続として宇宙を説明できるように、普通の時間をつくり上げたのです」


ホーキングの最新宇宙論の123ページ
著者→スティーヴン・W・ホーキング
1990年12月10日第1刷


私は、「 虚時間 」を、精神が作り上げた「時間」で、天体の運動をデフォルメして作った「 普通の時間 」の空間的な時間の概念であると考え、「 普通の時間 」を「 空間関係にデフォルメした時間 」であると考える。

これは、「 無 」でも「 空 」でもなく、「 実 」に変換可能な「 虚 」であるし、「 虚 」は「 実 」にも変換可能と考える。


私のブログでは、「 実 」に相当するのが「 知識 」や実生活で、「 虚 」に相当するのが「 智慧 」であり、「 内なる宇宙 」や「 記憶 」である。

「 智慧 」や「 内なる宇宙 」や「 記憶 」を支配するのが「 虚時間 」で、デフォルメした世界、精神の世界であり、精神世界の時間は、「 虚時間 」であると考える。

すると、ヒトは、「 虚時間 」の「 眼差し 」で、現実世界の「 力線 」を「 陰 」と「 陽 」の電気が走る人体に無意識に取り入れて、ストレス状態になると考える。

心に不安を持っているならば、世界は猜疑に満ちているように思うだろう。


Every miller draws water to his own mill.