2010年07月11日

2010/7/11、オカルト・私の見解・一般論の要約

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/7/11、私の考え


以下は、これまで書いた「 一般論 」の複写です。

私は、これを「 私の一般的認識論 」であると考えています。

宗教、学問、政治、文化、SEX、全てに適用して、限界を知りたいと思います。




2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。



2010/6/27、私の記事


以上の記事が意味する物は何か。


現実生活が、ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても変化しないように、個人の頭の中の「 世界 」に変化は無い。

ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても、個人個人の頭の中が、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系で計測するから、「 運動 」を初め、すべてが「 主観的 」であると考える。


これは、「 系 」のすべてに及び、「 系 」のすべてが「 主観的ラグビー・ボール 」であり、「 系 」のすべてに、「 二本足の考え 」が適用されて、人間は行動していると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動している事が、「 一般相対性理論 」でヒトとヒトが結ばれている事であり、「 時間 」と「 空間 」が「 時空 」となるのは、「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性でヒトとヒトが結ばれている事であると考える。

ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性で、社会が連結しているから、コンピュターの人工頭脳は「 玩具 」であり、ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性のすべてを含む意識をもつ人工頭脳など不可能であると思う。

個人の「 特殊相対性理論 」の頭脳が「 一般相対性理論 」で結ばれているとは、ヒトとヒトが「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれている事だと考えた。

そして、認識する宇宙の果てまで「 欲 」が広がり、宇宙の運動が、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として現れると考え、その一方、個人の内部では、「 二本足の考え 」が適用されると、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の広がる範囲が、実体がある物となると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動するとは、学問の数だけ、精神の行動パターンがあるが、「 行動する 」とは「 二本足で歩く事 」である。

「 二本足で歩く事 」


は、以下の記事を読んでください。


2010/5/8、私の記事

小脳の無意識は、呼吸や覚醒や鼓動という生命の無意識で、大脳の意識と区別し、二つを焦点とした「 二本足の考え 」を以前、発表した。

小脳という臓器は身体の範囲に限られているが、そこから発する無意識は、宇宙の運動を認識し、同じ「 動き 」の身体の行動と直結する。

「 小脳の無意識 」の範囲は「 心 」の範囲である。

「 心 」を動かす、眼を動かしたり、意識の方向を指図するのは、「 小脳 」であり、全ての物体を安定させる「 重力 」を感じるのも、「 小脳 」だと思う。

「 二本足に考え 」の「 無意識 」は、「 小脳の無意識 」である。

「 心 」も「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


頭脳も、生命維持のために働いている事を考えると当然の事だと思う。


宇宙の全てが、行動を促す「 欲 」であり、「 意欲 」は、個人の「 生活リズム 」という時間意識と「 身体の行動可能性 」という空間意識に合致した「 欲 」であり、行動の原因である。

それが、身体の外部で、「 時間 」や「 空間 」という「 形あるもの」にデフォルメされて、人間の意識と切り離されているが、本来の「 生活リズム 」と「 身体の行動可能性 」に戻して考える。

「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションであり、想像する未来の自分の行動である。

「 人の意見を聞く 」とか「 相手の立場に立って考える 」などは、「 小脳の無意識 」を相手まで広げる事であり、「 無意識で相手を理解する事 」であり、意識の焦点に乗って「 無意識 」の「 足 」を広げる事である。

「 行動する 」とは、無意識の焦点に立って、「 意識 」した行動可能性を決定する事であり、根底は「 無意識が行動を決定する 」事になる。

これが、「 二本足で歩く 」という事である。

2010/7/4、私の記事

ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系である「 時間 」と「 空間 」も一つの「 価値観 」であり、個人の中では「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、時空を作り、大脳で「 時間意識 」と「 空間意識 」が「 実在 」すると「 意識する 」と考える。


「 絶対 」とは、自然や社会と「 共変 」し、循環するから、自分の運動を判別する事が出来ず「 静止 」していると大脳で「 意識 」する事であり、それは、国家や社会の「 系 」と個人の頭脳で考える「 系 」が重なっている状態である。


「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が「 時空 」を作ると考えると、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」と考えるのは、「 虚構 」あるいはフィクションであり、精神である。


その「 虚構 」を何故、必要とするかは、「 自分の共変する運動 」と相違する運動、つまり「 加速度する運動 」を知って、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として発見し「 二本足の考え 」を適用して、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」を広げるためであると思う。


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないと思う。

ヒトの「 系 」とヒトの「 系 」が「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれているから、一時的に設定した「 虚構 」から、同じ社会の中で、他者が何を思っているのかという「 他者の系 」の想像や想起が可能となる。



精神の中で、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」があるから、天体の運動やヒトの「 情動 」を知り、行動するが、「 絶対的座標 」とは何かと質問した途端、「 実体 」が無くなり、「 小脳の無意識 」が新たな「 実体 」を作り出す。

「 時間意識 」と「 空間意識 」も「 系 」の中の一つの「 価値観 」であり、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、基礎となった電磁波である。

それは、「 二本足で歩く事 」であり、地球が動き、万物が流転する中での、意識の流転だと考える。


「 特殊相対性理論 」や「 一般相対性理論 」は、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」が、精神の中で存在していて、理論がニュートンと同じ前提に立っていて、「 絶対静止の空間 」の有無を解消していないと考える。


2010/7/7、私の記事

「 運動 」は、固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないから、主観的という事は、前述した。

「 速度 」も、「 時間 」と「 空間 」という固定した座標系の中の「 物体の位置の変化 」
であり、「 速度ベクトル 」と呼んでも、「 位置 」は精神的であり、「 ベクトル 」も精神的で心理的な「 運動 」であり、主観的であると考える。


宇宙空間の全てに「 小脳の無意識 」の「 欲 」が満ちていて、宇宙の運動が「 絶対静止 」した座標を要求するから主観的であり、「 速度 」も主観的であるから、運動の全てが「 小脳の無意識 」つまり「 心 」にストレスや動揺となって「 意識 」や行動に影響すると考える。


ヒトは地球が動いているのに、速度を感じないように、あるいは時速60キロメーターといっても、計器が示す時間と空間の「 関係 」で知るだけで、「 速度 」自体を頭脳で知る事は出来ないと考える。


「 時間 」と「 空間 」と「 速度 」を目で見える形態に具現化し、デフォルメして生きる日常生活に支障はないが、「 無意識の速度 」を考えると、この考えは破綻する。



無意識は「 欲 」であり、意識の時空を作り出すと考えると、固定した座標系の「 速度 」は、「 速度ベクトル 」であっても、無意識の速度に適用する事は出来ない。


「 無意識の速度 」は、思い出す速度のように、時空から時空への移動であると考えると、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動であると考える。

「 時間 」や「 空間 」を固定した座標系としない「 力 」の移動。

それは、「 重力 」の歪みの移動であり、天体が「 時間 」や「 空間 」ではなく、重力や引力の系で結ばれているなら、それに該当するのが「 小脳の無意識 」だろう。

「 速度 」は、理性的、精神的に観察する概念であり、運動している当事者は認識する事が出来ず、固定した座標系による「 速度 」を捨てて、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動、物体の相互関係の重力や引力による移動が、「 無意識の速度 」であると考える。


2010/7/10、私の記事

私は、以上の事を、ヒトは頭脳の中で、既に実行していると思う。

「 直感 」というのが、それに該当する。

「 直感 」に「 時間 」や「 空間 」は必要ではなく、「 直感 」をデフォルメして、三次元や四次元で表現するときに必要とする。

言葉で思考する事も、結局は、「 小脳の無意識 」で、小脳の実現可能な空間を考える事であると考える。

「 純粋直感 」や「 構成力 」というのも、「 時間 」や「 空間 」を必要としない、速度ベクトルが小脳の空間を「 ワープ 」させて、精神でデフォルメして新たな可能空間を生む事で、「 時間 」や「 空間 」を必要とする「 経験 」とは、全く相違する。


速度ベクトルによる「 小脳の無意識 」の、心拍リズムや運動可能性という空間の歪みの伝播が、「 直感 」であると考える。


「 経験 」による記憶の積み重ねが「 直感 」を生むかもしれないが、私は、「 経験 」と「 直感 」は、地球の大気圏内と宇宙の真空の違いほど相違し、(もっとも、宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているが)、「 経験 」は特殊相対性理論の世界、「 直感 」は、一般相対性理論の世界に該当し、両者はヒトの中では、一つの「 系 」を形成すると考える。


過去の、時間や空間との関係で述べられた「 直感 」は全て「 虚偽 」であり、「 言葉の遊び 」であると考える。


宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているから、「 経験 」の中で、「 直感 」が現れる。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年07月10日

2010/7/10、オカルト・私の見解・一般論4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/7/7、私の記事

「 時間 」と「 空間 」と「 速度 」を目で見える形態に具現化し、デフォルメして生きる日常生活に支障はないが、「 無意識の速度 」を考えると、この考えは破綻する。



無意識は「 欲 」であり、意識の時空を作り出すと考えると、固定した座標系の「 速度 」は、「 速度ベクトル 」であっても、無意識の速度に適用する事は出来ない。


「 無意識の速度 」は、思い出す速度のように、時空から時空への移動であると考えると、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動であると考える。

「 時間 」や「 空間 」を固定した座標系としない「 力 」の移動。

それは、「 重力 」の歪みの移動であり、天体が「 時間 」や「 空間 」ではなく、重力や引力の系で結ばれているなら、それに該当するのが「 小脳の無意識 」だろう。

「 速度 」は、理性的、精神的に観察する概念であり、運動している当事者は認識する事が出来ず、固定した座標系による「 速度 」を捨てて、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動、物体の相互関係の重力や引力による移動が、「 無意識の速度 」であると考える。




2010/7/10、私の考え

私は、以上の事を、ヒトは頭脳の中で、既に実行していると思う。

「 直感 」というのが、それに該当する。

「 直感 」に「 時間 」や「 空間 」は必要ではなく、「 直感 」をデフォルメして、三次元や四次元で表現するときに必要とする。

言葉で思考する事も、結局は、「 小脳の無意識 」で、小脳の実現可能な空間を考える事であると考える。

「 純粋直感 」や「 構成力 」というのも、「 時間 」や「 空間 」を必要としない、速度ベクトルが小脳の空間を「 ワープ 」させて、精神でデフルメして新たな可能空間を生む事で、「 時間 」や「 空間 」を必要とする「 経験 」とは、全く相違する。


速度ベクトルによる「 小脳の無意識 」の、心拍リズムや運動可能性という空間の歪みの伝播が、「 直感 」であると考える。


「 経験 」による記憶の積み重ねが「 直感 」を生むかもしれないが、私は、「 経験 」と「 直感 」は、地球の大気圏内と宇宙の真空の違いほど相違し、(もっとも、宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているが)、「 経験 」は特殊相対性理論の世界、「 直感 」は、一般相対性理論の世界に該当し、両者はヒトの中では、一つの「 系 」を形成すると考える。


過去の、時間や空間との関係で述べられた「 直感 」は全て「 虚偽 」であり、「 言葉の遊び 」であると考える。


宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているから、「 経験 」の中で、「 直感 」が現れる。



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2010年07月07日

2010/7/7、オカルト・私の見解・一般論3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2010/7/4、私の記事


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系である「 時間 」と「 空間 」も一つの「 価値観 」であり、個人の中では「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、時空を作り、大脳で「 時間意識 」と「 空間意識 」が「 実在 」すると「 意識する 」と考える。


「 絶対 」とは、自然や社会と「 共変 」し、循環するから、自分の運動を判別する事が出来ず「 静止 」していると大脳で「 意識 」する事であり、それは、国家や社会の「 系 」と個人の頭脳で考える「 系 」が重なっている状態である。


「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が「 時空 」を作ると考えると、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」と考えるのは、「 虚構 」あるいはフィクションであり、精神である。


その「 虚構 」を何故、必要とするかは、「 自分の共変する運動 」と相違する運動、つまり「 加速度する運動 」を知って、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として発見し「 二本足の考え 」を適用して、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」を広げるためであると思う。


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないと思う。


2010/7/7、私の考え


「 運動 」は、固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないから、主観的という事は、前述した。

「 速度 」も、「 時間 」と「 空間 」という固定した座標系の中の「 物体の位置の変化 」
であり、「 速度ベクトル 」と呼んでも、「 位置 」は精神的であり、「 ベクトル 」も精神的で心理的な「 運動 」であり、主観的であると考える。


宇宙空間の全てに「 小脳の無意識 」の「 欲 」が満ちていて、宇宙の運動が「 絶対静止 」した座標を要求するから主観的であり、「 速度 」も主観的であるから、運動の全てが「 小脳の無意識 」つまり「 心 」にストレスや動揺となって「 意識 」や行動に影響すると考える。


ヒトは地球が動いているのに、速度を感じないように、あるいは時速60キロメーターといっても、計器が示す時間と空間の「 関係 」で知るだけで、「 速度 」自体を頭脳で知る事は出来ないと考える。


「 時間 」と「 空間 」と「 速度 」を目で見える形態に具現化し、デフォルメして生きる日常生活に支障はないが、「 無意識の速度 」を考えると、この考えは破綻する。



無意識は「 欲 」であり、意識の時空を作り出すと考えると、固定した座標系の「 速度 」は、「 速度ベクトル 」であっても、無意識の速度に適用する事は出来ない。


「 無意識の速度 」は、思い出す速度のように、時空から時空への移動であると考えると、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動であると考える。

「 時間 」や「 空間 」を固定した座標系としない「 力 」の移動。

それは、「 重力 」の歪みの移動であり、天体が「 時間 」や「 空間 」ではなく、重力や引力の系で結ばれているなら、それに該当するのが「 小脳の無意識 」だろう。

「 速度 」は、理性的、精神的に観察する概念であり、運動している当事者は認識する事が出来ず、固定した座標系による「 速度 」を捨てて、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動、物体の相互関係の重力や引力による移動が、「 無意識の速度 」であると考える。




このように考えると、「 意識 」の水準では、「 私の見解・一般論 2 」であるが、「 無意識 」を考えると、重力や引力による理論が発見されるかも知れない。



速度(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E5%BA%A6

速度(そくど)は、単位時間当たりの物体の位置の変化である。

速度と速さ
日常語としての速度(スピード、speed)は、大抵の場合一定時間あたりに進む距離のことを指す。これは [移動距離] ÷ [経過時間] で求めることができ、時速、分速などの単位が用いられる。
物理学の文脈では、日常的な意味での速度を速さ (speed) とよんで速度 (velocity) と区別する。速度は運動を表す物理量であり、ある物体が移動するときの、単位時間あたりの変位を表す。すなわち、物理学の文脈では速さと向きとを併せたものを速度というのであり、速さは「速度の大きさ」を示すスカラー量とみなされる。速度は“大きさ” と“向き”をもつのでベクトル量であり、それを明示するために速度ベクトルと呼ぶことがある。

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2010年07月04日

2010/7/4、オカルト・私の見解・一般論2

2010/6/27、私の記事


以上の記事が意味する物は何か。


現実生活が、ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても変化しないように、個人の頭の中の「 世界 」に変化は無い。

ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても、個人個人の頭の中が、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系で計測するから、「 運動 」を初め、すべてが「 主観的 」であると考える。


これは、「 系 」のすべてに及び、「 系 」のすべてが「 主観的ラグビー・ボール 」であり、「 系 」のすべてに、「 二本足の考え 」が適用されて、人間は行動していると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動している事が、「 一般相対性理論 」でヒトとヒトが結ばれている事であり、「 時間 」と「 空間 」が「 時空 」となるのは、「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性でヒトとヒトが結ばれている事であると考える。

ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性で、社会が連結しているから、コンピュターの人工頭脳は「 玩具 」であり、ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性のすべてを含む意識をもつ人工頭脳など不可能であると思う。

個人の「 特殊相対性理論 」の頭脳が「 一般相対性理論 」で結ばれているとは、ヒトとヒトが「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれている事だと考えた。

そして、認識する宇宙の果てまで「 欲 」が広がり、宇宙の運動が、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として現れると考え、その一方、個人の内部では、「 二本足の考え 」が適用されると、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の広がる範囲が、実体がある物となると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動するとは、学問の数だけ、精神の行動パターンがあるが、「 行動する 」とは「 二本足で歩く事 」である。


2010/7/4、私の考え


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系である「 時間 」と「 空間 」も一つの「 価値観 」であり、個人の中では「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、時空を作り、大脳で「 時間意識 」と「 空間意識 」が「 実在 」すると「 意識する 」と考える。


「 絶対 」とは、自然や社会と「 共変 」し、循環するから、自分の運動を判別する事が出来ず「 静止 」していると大脳で「 意識 」する事であり、それは、国家や社会の「 系 」と個人の頭脳で考える「 系 」が重なっている状態である。


「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が「 時空 」を作ると考えると、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」と考えるのは、「 虚構 」あるいはフィクションであり、精神である。


その「 虚構 」を何故、必要とするかは、「 自分の共変する運動 」と相違する運動、つまり「 加速度する運動 」を知って、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として発見し「 二本足の考え 」を適用して、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」を広げるためであると思う。


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないと思う。

ヒトの「 系 」とヒトの「 系 」が「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれているから、一時的に設定した「 虚構 」から、同じ社会の中で、他者が何を思っているのかという「 他者の系 」の想像や想起が可能となる。



精神の中で、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」があるから、天体の運動やヒトの「 情動 」を知り、行動するが、「 絶対的座標 」とは何かと質問した途端、「 実体 」が無くなり、「 小脳の無意識 」が新たな「 実体 」を作り出す。

「 時間意識 」と「 空間意識 」も「 系 」の中の一つの「 価値観 」であり、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、基礎となった電磁波である。

それは、「 二本足で歩く事 」であり、地球が動き、万物が流転する中での、意識の流転だと考える。


「 特殊相対性理論 」や「 一般相対性理論 」は、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」が、精神の中で存在していて、理論がニュートンと同じ前提に立っていて、「 絶対静止の空間 」の有無を解消していないと考える。



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2010年06月27日

2010/6/27、オカルト・私の見解6・一般論

これは、フィクションである。

2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。



2010/6/27、私の考え


以上の記事が意味する物は何か。


現実生活が、ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても変化しないように、個人の頭の中の「 世界 」に変化は無い。

ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても、個人個人の頭の中が、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系で計測するから、「 運動 」を初め、すべてが「 主観的 」であると考える。


これは、「 系 」のすべてに及び、「 系 」のすべてが「 主観的ラグビー・ボール 」であり、「 系 」のすべてに、「 二本足の考え 」が適用されて、人間は行動していると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動している事が、「 一般相対性理論 」でヒトとヒトが結ばれている事であり、「 時間 」と「 空間 」が「 時空 」となるのは、「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性でヒトとヒトが結ばれている事であると考える。

ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性で、社会が連結しているから、コンピュターの人工頭脳は「 玩具 」であり、ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性のすべてを含む意識をもつ人工頭脳など不可能であると思う。

個人の「 特殊相対性理論 」の頭脳が「 一般相対性理論 」で結ばれているとは、ヒトとヒトが「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれている事だと考えた。

そして、認識する宇宙の果てまで「 欲 」が広がり、宇宙の運動が、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として現れると考え、その一方、個人の内部では、「 二本足の考え 」が適用されると、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の広がる範囲が、実体がある物となると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動するとは、学問の数だけ、精神の行動パターンがあるが、「 行動する 」とは「 二本足で歩く事 」である。

「 二本足で歩く事 」


は、以下の記事を読んでください。


2010/5/8、私の記事

小脳の無意識は、呼吸や覚醒や鼓動という生命の無意識で、大脳の意識と区別し、二つを焦点とした「 二本足の考え 」を以前、発表した。

小脳という臓器は身体の範囲に限られているが、そこから発する無意識は、宇宙の運動を認識し、同じ「 動き 」の身体の行動と直結する。

「 小脳の無意識 」の範囲は「 心 」の範囲である。

「 心 」を動かす、眼を動かしたり、意識の方向を指図するのは、「 小脳 」であり、全ての物体を安定させる「 重力 」を感じるのも、「 小脳 」だと思う。

「 二本足に考え 」の「 無意識 」は、「 小脳の無意識 」である。

「 心 」も「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


頭脳も、生命維持のために働いている事を考えると当然の事だと思う。


宇宙の全てが、行動を促す「 欲 」であり、「 意欲 」は、個人の「 生活リズム 」という時間意識と「 身体の行動可能性 」という空間意識に合致した「 欲 」であり、行動の原因である。

それが、身体の外部で、「 時間 」や「 空間 」という「 形あるもの」にデフォルメされて、人間の意識と切り離されているが、本来の「 生活リズム 」と「 身体の行動可能性 」に戻して考える。

「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションであり、想像する未来の自分の行動である。

「 人の意見を聞く 」とか「 相手の立場に立って考える 」などは、「 小脳の無意識 」を相手まで広げる事であり、「 無意識で相手を理解する事 」であり、意識の焦点に乗って「 無意識 」の「 足 」を広げる事である。

「 行動する 」とは、無意識の焦点に立って、「 意識 」した行動可能性を決定する事であり、根底は「 無意識が行動を決定する 」事になる。

これが、「 二本足で歩く 」という事である。



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2010年06月26日

2010/6/26、オカルト・私の見解5

これは、フィクションである。

2010/6/13、私の記事

ヒトの人生を、「 意識という電磁波 」に乗った座標軸と考えると、一人ひとりが、ひとつの「 系 」であり、「 意識という電磁波に乗っている 」ので、「 意識は一定の速度 」であるため、お互いが同じ速度で、動き、「 意識という電磁波に乗っている状態 」、つまり意識や精神では、お互いより先に進むことが出来ない。


「 共変 」とは、「 同じ運動をする 」から「 静止 」して、変化が見えないのであり、それは、一人ひとりの「 系 」の中の出来事であると考える。


それは、「 価値観 」や「 人格 」などの「 力 」であり、「 系の中の加速度 」である。

ヒトは、一人ひとりが、加速度運動をしながら、「 絶対 」という精神の座標を持ち、「 意識という電磁波に乗った系 」を進むのが、「 人生 」であると考える。

「 系 」とは、何か。

「 系 」とは、一人ひとりの頭脳の中の「 慣性系 」であり、その実体は、「 ラグビー・ボール 」、つまり、自然に共変する「 意識 」と「 性 」の無意識が作る「 実体的で性的な時空 」であり、「 小脳 」によって作り出される。


「 絶対静止 」を考えるから「 相対的運動 」が理解されるのであり、「 絶対静止 」は、「 系 」の中の「 座標 」であり、意識である。

「 ラグビー・ボール 」という「 系 」の「 系の中の加速度 」が、価値観や「 判断する力 」、あるいは「 選択する力 」であり、「 力学 」の「 力 」であり、「 小脳の運動可能性 」である。

「 力学 」は、「 小脳の運動可能性 」であり、「 力 」は、一人ひとりの頭脳の「 系 」では、見えない意思の具現化の可能性だと思う。



「 実体的で性的な時空 」は、人類の一人ひとりが、「 今 」と物質的に関係し、「 今 」と同じ方向に運動し、「 今 」という現在から発した問いに応答する物質的な物、であり、「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」の上に成り立っている「 小脳が生んだ時空 」であると考える。


「 小脳が生んだ時空 」は、「 運動 」をストレスと捉え、行動パターンを決定するが、その「 行動パターン 」が、他者から見た「 人格 」である。


2010/6/17、私の記事

「 系 」は、「 小脳が生んだ時空 」であるとは、想像や想起などの思考が言葉を使って考えるが、その全てが、小脳の無意識のリズムと運動可能性の組み合わせであり、人間の無意識の中心である「 性 」から逃れられないことだと考える。

一人の「 系 」は、「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」により局所化され、「 系 」は、一人の頭脳の中の「 世界 」であり、人類の頭の数だけ「 系 」、即ち「 世界 」が存在し、「 系 」を、身体や社会や国家の、実体的な「 文化 」という「 面 」であると考える。

「 系の中の運動 」は加速度の「 力学 」であり、関数で表現される「 小脳の運動可能性 」だと考え、「 運動は主観的 」であり、「 速度 」を考える事は「 欲 」を考えていることだと思う。

全ての「 運動 」や「 力 」を主観的と考え、「 ラグビー・ボール 」という「 系 」の「 系の中の加速度 」が、価値観や「 判断する力 」、あるいは「 選択する力 」であり、「 力学 」の「 力 」であり、「 小脳の運動可能性 」であり、「 性的 」であると考える。


このように、「 系は世界である 」と考える。

「 系 」は「世界 」であり、、「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」は、固執や執念や「こだわり 」であり、何を固執するかによって、「 系 」即ち「 世界 」が決まり、他者は、「 方向 」と判断するだろう。



2010/6/26、私の考え

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

私自身の考えや感覚が理解されないのは、一つの「 系 」から、一つの「 系 」に飛び込む事が出来ないように、私という「 系 」の中に侵入する事が出来ない事である。

全ては主観的であるが、物理学の力学のように、誰にとっても同じ結果になるから「 客観的 」で、つまり「 共変 」するから「 客観的 」であり、「 共変 」する「 存在 」は意識を持たないから「 客観的 」だと思う。


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2010年06月23日

2010/6/23、オカルト・私の見解4

これは、フィクションである。

2010/6/21、私の記事

存在とは何か。

「 存在 」とは、認識するヒトの物理学的「 系 」や、思想の「 価値観 」や「 世界観 」の中で自然と「 共変 」する物である。

万物が流転し、自然物も流転する。

自然物の流転と区別する事が出来ない精神の流転が共変する「 存在 」という意識で、「 系 」という意識と無意識を焦点とする「 ラグビー・ボール 」を形成する「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」という固執や執念や「こだわり 」という意識が流転する事を求める。

「 存在 」は、感覚の統合として「 存在感 」として「 小脳の無意識 」が把握し、意識に「 存在意識 」を求め、意識の新陳代謝を促すと考える。

これが、小脳の運動可能性から生じる「 空間意識 」の軸となると思う。


2010/6/22、私の記事

「 時間 」とは、「 時間意識 」であり、認識するヒトは、天体の運動を「 意識 」として頭脳の中に入れるのであり、時間が認識不可能である点で、「 共変 」する物かもしれない。

自然と「 共変 」するとは、天体の運動から計算した「 時間 」と人体の脈拍数のリズムが大きく違わず、心臓が不随意筋で動き、心臓や呼吸する「 肺 」を意識で統御する事が出来ない事である。

呼吸のリズムや心臓の動きのリズムが「 主観的時間 」であり、生命が「 時間意識 」という形態で天体の運動と連結していると考える。

こうして、「 存在と時間 」は、「 存在 」が小脳の運動可能性であり、「 時間 」が小脳や脳幹の呼吸や心拍のリズムであり、前者が「 空間意識 」で後者が「 時間意識 」を生むと考える。

「 存在と時間 」は、小脳の無意識の中で統合されているが、大脳の「 意識 」により、別物として認識される。


2010/6/23、私の考え


「 共変 」する事を主に考えるのが唯物論だと考え、物質から精神が発生するかも知れないが、「 心 」を「 小脳の無意識 」とし、「 心 」は「 ラグビー・ボール」であると考えると、物質から精神が発生すると考える事には賛成する事が出来ない。

「 時空 」は、小脳の中では未分化であり、その中に、思考の「 体系 」を破る可能性があり、物質の中には存在しない。


「 心 」を「 小脳の無意識 」とし、「 心 」は「 ラグビー・ボール」であるとは、ヒトは社会や国家や家庭などの「 系 」の中で生きながら、生命の始めと終わりが「 無知 」や「 無明 」という「 永遠 」に連結している事で、意識と無意識を焦点とした「 二本足の考え 」で生きている事である。


意識や物質だけで「 安心 」を得るのは不可能であり、日常生活が「 無知 」や「 無明 」という「 永遠 」に連結し、「 無知 」や「 無明 」という「 永遠 」の循環の中に「 生きる 」事を考えると、少しは「 安心 」する事が出来る。


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2010年06月22日

2010/6/22、オカルト・私の見解3

これは、フィクションである。

2010/6/20、私の記事

現時点の私の考えは、「 存在 」とは、認識するヒトの物理学的「 系 」や、思想の「 価値観 」や「 世界観 」の中で自然と「 共変 」する物だと考える。

「 時間 」とは、「 時間意識 」であり、認識するヒトは、天体の運動を「 意識 」として頭脳の中に入れるのであり、時間が認識不可能である点で、「 共変 」する物かもしれない。

「 存在 」と「 時間 」の認識不可能性は、前者が「 無知 」後者が「 無明 」であり、個人の「 系 」の中で融合し、「 系 」は意識と無意識を焦点とする「 ラグビー・ボール 」を形成すると考える。

2010/6/21、私の記事

存在とは何か。

「 存在 」とは、認識するヒトの物理学的「 系 」や、思想の「 価値観 」や「 世界観 」の中で自然と「 共変 」する物である。

万物が流転し、自然物も流転する。

自然物の流転と区別する事が出来ない精神の流転が共変する「 存在 」という意識で、「 系 」という意識と無意識を焦点とする「 ラグビー・ボール 」を形成する「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」という固執や執念や「こだわり 」という意識が流転する事を求める。

「 存在 」は、感覚の統合として「 存在感 」として「 小脳の無意識 」が把握し、意識に「 存在意識 」を求め、意識の新陳代謝を促すと考える。

これが、小脳の運動可能性から生じる「 空間意識 」の軸となると思う。


2010/6/22、私の考え

「 時間 」とは、「 時間意識 」であり、認識するヒトは、天体の運動を「 意識 」として頭脳の中に入れるのであり、時間が認識不可能である点で、「 共変 」する物かもしれない。

自然と「 共変 」するとは、天体の運動から計算した「 時間 」と人体の脈拍数のリズムが大きく違わず、心臓が不随意筋で動き、心臓や呼吸する「 肺 」を意識で統御する事が出来ない事である。

呼吸のリズムや心臓の動きのリズムが「 主観的時間 」であり、生命が「 時間意識 」という形態で天体の運動と連結していると考える。

こうして、「 存在と時間 」は、「 存在 」が小脳の運動可能性であり、「 時間 」が小脳や脳幹の呼吸や心拍のリズムであり、前者が「 空間意識 」で後者が「 時間意識 」を生むと考える。

「 存在と時間 」は、小脳の無意識の中で統合されているが、大脳の「 意識 」により、別物として認識される。

「 運動 」を感じるのが小脳で、小脳の無意識が「 心 」であれば、認識する限りの宇宙に「 心 」が広がり、それがエーテルであり、「 行動を惹起する欲 」であると考える。

知る限りは「 欲 」であり、意識する事により「 意欲 」や「 欲望 」になる。

この「 欲の塊 」が、個人の「 世界 」であり「 ラグビー・ボール 」である。

小脳の無意識は、太陽光により時空を作ると書いたが、私は「 プラズマ宇宙論 」を採用し、生命には気(ki)が存在し、それが太陽光からの電気だと考えている。

小脳の無意識が、気(ki)により時空を作り、それが、現在からの意識を反射する「 心あたり 」になり、想像や想起により現在の行為の操作手順になる。

想像や想起は「 記憶 」を復活させるのではなく、過去の行為の操作手順、つまり「 時空 」を復活させていると考える。

小脳の無意識が作る「 時空 」は自然に「 共変 」する「 欲 」だが、想像や想起する「 時空 」は「 運動 」であり、「 欲望 」である。

人間の「 欲 」は、宇宙の果てまで満ちていて、「 運動 」を察知し、意識の電磁波により自己中心の「 欲望 」に変えて行動する。

「 認識論 」は、大脳の意識だけで人間を知る事は不可能で、小脳の無意識によるシュミレーションまで考慮しなければ、説得力が無い。


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2010年06月21日

2010/6/21、オカルト・私の見解2

これは、フィクションです。

2010/6/17、私の記事

「 系 」は、「 小脳が生んだ時空 」であるとは、想像や想起などの思考が言葉を使って考えるが、その全てが、小脳の無意識のリズムと運動可能性の組み合わせであり、人間の無意識の中心である「 性 」から逃れられないことだと考える。

一人の「 系 」は、「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」により局所化され、「 系 」は、一人の頭脳の中の「 世界 」であり、人類の頭の数だけ「 系 」、即ち「 世界 」が存在し、「 系 」を、身体や社会や国家の、実体的な「 文化 」という「 面 」であると考える。

……………(省略)…………………………

このように、「 系は世界である 」と考える。

「 系 」は「世界 」であり、「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」は、固執や執念や「こだわり 」であり、何を固執するかによって、「 系 」即ち「 世界 」が決まる。


2010/6/20、私の記事

現時点の私の考えは、「 存在 」とは、認識するヒトの物理学的「 系 」や、思想の「 価値観 」や「 世界観 」の中で自然と「 共変 」する物だと考える。

「 時間 」とは、「 時間意識 」であり、認識するヒトは、天体の運動を「 意識 」として頭脳の中に入れるのであり、時間が認識不可能である点で、「 共変 」する物かもしれない。

「 存在 」と「 時間 」の認識不可能性は、前者が「 無知 」後者が「 無明 」であり、個人の「 系 」の中で融合し、「 系 」は意識と無意識を焦点とする「 ラグビー・ボール 」を形成すると考える。

2010/6/21、私の考え

存在とは何か。

「 存在 」とは、認識するヒトの物理学的「 系 」や、思想の「 価値観 」や「 世界観 」の中で自然と「 共変 」する物である。

万物が流転し、自然物も流転する。

自然物の流転と区別する事が出来ない精神の流転が共変する「 存在 」という意識で、「 系 」という意識と無意識を焦点とする「 ラグビー・ボール 」を形成する「 心当たり{ know of;have(a person,a thing)in view }」という固執や執念や「こだわり 」という意識が流転する事を求める。

「 存在 」は、感覚の統合として「 存在感 」として「 小脳の無意識 」が把握し、意識に「 存在意識 」を求め、意識の新陳代謝を促すと考える。

これが、小脳の運動可能性から生じる「 空間意識 」の軸となると思う。



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2010年06月20日

2010/6/20、オカルト・私の見解1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/6/20、私の考え

私の考えも、行き詰まり、これまで書いてきた事を整理する時が来たと思う。

私が、本を捨てて、自分の認識論を作ろうと思ったのは、「 存在と時間 」を読んでも、三流大学卒の私では、理解する事が出来ず、自分で、これを考えようと思った。

「 存在 」とは何か。

「 時間 」とは、何か。

現時点の私の考えは、「 存在 」とは、認識するヒトの物理学的「 系 」や、思想の「 価値観 」や「 世界観 」の中で自然と「 共変 」する物だと考える。

「 時間 」とは、「 時間意識 」であり、認識するヒトは、天体の運動を「 意識 」として頭脳の中に入れるのであり、時間が認識不可能である点で、「 共変 」する物かもしれない。

「 存在 」と「 時間 」の認識不可能性は、前者が「 無知 」後者が「 無明 」であり、個人の「 系 」の中で融合し、「 系 」は意識と無意識を焦点とする「 ラグビー・ボール 」を形成すると考える。

ヒトは身体を持つため、「 性 」や「 生命 」の無意識を無視する事は出来ない。

大脳での「 意識 」だけではなく、小脳や脳幹の生命維持作用による無意識を考慮しない「 意識の学問 」は成立しない。

私は、大脳の「 意識は電磁波であり 」、呼吸や心拍のリズムや呼吸という運動可能性から来る「 小脳の無意識 」が「 心 」だと考え、「 心 」でシュミレーションをした時空を作り、意識の電磁波に乗って行動する「 二本足の考え 」を採用している。

小脳や脳幹が、時空を作り、大脳でその時空を電磁波に乗せて映像化しているのが視覚であり、呼吸や心拍のリズムが「 音 」を作ると思う。

視覚や聴覚が把握可能な波長や振動数や振幅を超えると、「 見えない 」し、「 聞こえない 」。

その認識不可能性が、「 存在 」の特徴かもしれない。

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