2010年08月22日

2010/8/22、私の主張・文化と人格・後半

後半は、「 文化 」と「 人格 」の実体は「 価値観 」であるという話。


2010/8/8、私の記事

私が、なぜ「 文化と人格 」を書くのかを考えた。

私は「 価値判断 」について考えていたのだろう。


宇宙空間で知り得る所まで、「 欲 」を拡大し、自分の小脳の無意識、言い換えると「 心 」と直結し、流れ星や小鳥のさえずりが、「 心 」を動かすと考える。

「 欲 」はエーテル体であり、「 意識 」は「 大気圏 」と考え、意識の総体は「 霊 」で、「 大気圏 」の「 電離層 」のように、頭脳の中で「 層 」を作っていると考える。

「 層 」は、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある。

「 人格 」は、DNA やRNA の組み合わせにより「 引力 」のような「 重力波 」を生じると考えるが、重要な事は、DNA やRNA の組み合わせを可能にする「 酵素 」は、「 小脳 」から分泌される事である。

「 引力 」のような「 重力波 」は「 人格 」であり、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある「 層 」を作る。

DNA やRNA の組み合わせにより、どのような「 層 」や「 関係 」を「 引力 」として持っているかが、「 六道 」という「 心の状態 」を決定すると考える。

価値観を伴った判断を、「 色眼鏡で見る 」というが、「 色眼鏡 」は「 層 」であり「 関係 」であり、「 見る 」とは「 生きる事 」であり、文化と人格を往来する、「 時空感覚 」や「 時空意識 」を持つ事であると考える。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

2010/8/14、私の記事

「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

これは、私が「 小さなDikz 」である事や、三流大学卒の頭脳である事などの、「 天から 」あるいは「 DNA やRNA 」により、私に与えられた肉体の条件であり、機能であり、「 層 」や「 関係 」を築く「 引力 」と考える。

これは、人類の全てに与えられるが、全て相違する。

…………(省略)……………………………


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

2010/8/15、私の記事

以上のように、私は、科学の「 運動 」や「 速度 」などの「 力学 」さえも、「 絶対静止の時空 」を前提とした概念であり、全てが主観的で、「 価値観 」も主観的であると考える。


「 文化 」も「 人格 」も、「 小脳の無意識 」、つまり呼吸や脈拍と身体運動可能性という「 生命維持 」のための「 価値観 」が貫通していて、「 人間 」の水準では「 人格 」で、社会の水準では「 文化 」だと考える。

この共通の「 生命維持 」の価値観は、科学者であろうが一般人であろうが同じであり、優劣は無い。

だから、「 人格 」と関連した「 文化の相対性 」を支持する。

本来は、全ての価値観を尊重すべきだが、国家目的や社会風俗を規制するために、人類は「 法律 」で、国家の方向を定め、反する「 生命維持 」の価値観を認めないと考える。


2010/8/16、私の記事

価値判断とは、次のように考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。

価値判断を個人に統合した場合「 人格 」と呼び、社会で統合すれば「 文化 」であるが、「 人格 」にはDNA やRNA 、「 文化 」には法律、経済、科学などの「 層 」や「 引力 」や「 関係 」が存在する。

「 知性 」を発揮すべきは「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の分析の場合であり、本来は「 欲 」である「 文化 」や「 人格 」の優劣を分析する点に、「 誤り 」があると思う。


「 知性 」は「 意識 」であり、「 大脳 」の判断であるのに反し、「 価値判断 」は「 小脳 」の無意識に属するから、「 知性 」は性質から「 文化 」や「 人格 」を分析するのではなく、「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の仕組みや機構を分析すべきだろう。


価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であるから、具現化された人類の「 文化 」は、人類の数だけ存在し、統合は不可能という点で「 文化相対主義 」を支持する。


「 文化相対主義 」が「 知性 」であるなら、「 知性 」は、「 生きる仕組み 」を分析するが、「 欲 」である「 生きる事 」や「 生命の価値観 」を分析する事は性質上、不可能であると思う。


2010/8/22、私の考え


ヒトは「 あなたと私は、価値観が違う 」というが、私は、価値観の実体は「 欲 」であり、相手の「 欲 」を判断する事が出来ないから、「 価値観が違う 」とは主張することは出来ない。

価値判断とは、下に述べる内容であるからだ。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

「 あなたと私は、価値観が違う 」というのではなく、「 あなたと私の時空(世界)が違う 」というのが正当だと思う。

その理由は、下記のように考えるからだ。

「 小脳の無意識 」は、時間意識と空間意識を作るから「 小脳 」は、その人なりの「 時空 」を作る。

「 時空 」は主観であり、「 真の時空 」は天体の空間運動であり、人間には把握されないと考える。

物理の時空も、「 わが目 」という「 絶対静止の時空 」が無ければ、相対性も判断する事は出来ない事からも、上記のように、私は思う。


現時点では、次のように思っている。

宇宙に「 太陽系 」の惑星が「 重力や引力 」で存在する。

宇宙を満たすエーテルは各自に特有の「 小脳の無意識の広がり 」であり、「 心 」であり、「 欲 」である。

それを「 価値観 」という意識で区切った「 欲望 」の塊が社会では「 文化 」と呼ばれ、ヒトの場合は、「 人格 」であると呼ばれ、太陽系の惑星のように、存在している。

各自が持つ、あるいは各自が作る時空で「 人格 」は「 六道 」の中の一つの「 道 」であり、その旅人が人間であり、「 道 」を向上させるのが「 仏教 」であると思う。



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2010年08月21日

2010/8/21、私の主張・文化と人格・前半

私は、この章の前半では、「 文化 」と「 人格 」の中に、何があるのかを考えて来たと思う。

以下は、それぞれの記事である。


2010/7/18、私の記事

私は、認識は、感性と悟性により成立するのではなく、意識と無意識で成立すると考える。

感性に時間と空間の「 純粋直観 」があるのではなく、意識には、時間意識と空間意識があり、それは無意識の脈拍などのリズムと身体運動可能性から生じる。

時間と空間は、誕生と同時に、認識する事が出来なく、「 アプリオリ 」に与えられた生命の形態であると思う。

認識するのは、自分が作り上げた時間意識と空間意識であり、宇宙を形成する時間や空間ではない。

2010/7/19、私の記事

「 時間 」と「 空間 」を人間は知る事が出来ない。

人間は「 時空 」を意識として認識し、それが「 小脳の無意識 」に基礎があると私は考える。

実生活で、「 時間 」というのは「 時計 」が示す間隔であり、地球という天体の動きを「 時間 」として認識するのではなく、光速から定義された時間でも光速を認識するのでもない。

「 小脳の無意識 」に基礎があるから、自分が作り上げた時間意識と空間意識には限界があり、「 頭の中の時間と空間は閉じている 」と考える。

閉じた宇宙だから、意識の定在波により、鎖国時代の日本文化のように、「 文化 」が生まれる。

……………(省略)…………………………

時間自体や空間自体を認識する事は出来ない。

時間や空間の認識というのは意識であり、「 小脳の無意識 」に基礎を持つために、時間と空間は閉じた宇宙を形成し、意識の定在波は「 文化 」を生む。

閉じた宇宙とは、「 系 」である。


2010/7/22、私の記事

以上の話から、「 文化 」は、「 人格 」と似た意識の定在波であるという結果になる。


人間が行為する方法も、行為した痕跡も全て「 文化 」であり、「 人格 」が個人の意識の統合なら、「 文化 」も、閉じた宇宙の「 系 」の意識の統合であり、個人の「 文化 」もあれば、「 法人格 」のように「 系 」も「 人格 」を持つと考える。


「 文化 」や「 人格 」は、個人、あるいは国家に特徴を与える習慣的な行為であり、「 文化 」も「 人格 」も、「 時間 」と「 空間 」の混合だと思う。


「 文化 」としての言葉が、意味を表す記号としての文字と発音で成立しているならば、前者は社会に通用する情報、「 小脳の運動可能性 」であり、「空間的 」であり、後者は、喜怒哀楽を表現する抑揚のリズム、「 呼吸や心拍のリズム 」であり、「 時間的 」であると思う。



それが、一体となったのが、「 文化 」であり「 人格 」であると思う。

「 文化 」としての言葉を使うヒトを形成するのが「 人格 」である。

生命が意識であるとすれば、意識の痕跡が文化であり、「 文化 」は、人間そのものであると考える。


2010/7/25、私の記事

私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標
が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。

「 絶対的静止の時空軸 」を疑わない限り、「 文化 」に進歩は無いと考える。

「 二本足で考える 」とは、意識から無意識、無意識から意識へと飛躍する事であり、意識の状態に止まったら進歩は無いと考える。


2010/8/21、私の考え

読み返すと、「 共変 」というのが不明である。

これは、「 外の宇宙 」、つまり他者から見ると、同じ事を繰り返すように見えるが、「 内なる宇宙 」から見ると、同じ基準で「 存在 」すると無意識で実体化され、区別が出来ない事であると想定している。

「 努力 」と似たように考え、「 結果に出ない努力の過程 」であると考える。

「 結果 」が出たときは、「 如何なる努力 」か特定することは出来ない。

「 努力 」が重なった層の中から一つの「 無意識 」が「 形態として具現化した 」という事である。

芸術家の「 芸術は、爆発だ 」という言葉が、これである。

「 往来するもの 」が「 共変 」するものであると考える。

性質やヒトに訴える作用は相違するが、性質や作用に現れる前の「 小脳の無意識 」は同一であると考える。

「 小脳の無意識 」は、時間意識と空間意識を作るから「 小脳 」は、その人なりの「 時空 」を作る。

「 時空 」は主観であり、「 真の時空 」は天体の空間運動であり、人間には把握されないと考える。

物理の時空も、「 わが目 」という「 絶対静止の時空 」が無ければ、相対性も判断する事は出来ない事からも、上記のように、私は思う。


このように、「 小脳 」が「 時空 」を作ると考えるが、「 小脳の無意識 」が「 心 」であり、「 欲 」である事は、後半に要約する。 

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2010年08月16日

2010/8/16、私の主張・文化と人格・文化相対主義2

補足します。

2010/8/14、私の記事

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

2010/8/15、私の記事

以上のように、私は、科学の「 運動 」や「 速度 」などの「 力学 」さえも、「 絶対静止の時空 」を前提とした概念であり、全てが主観的で、「 価値観 」も主観的であると考える。


「 文化 」も「 人格 」も、「 小脳の無意識 」、つまり呼吸や脈拍と身体運動可能性という「 生命維持 」のための「 価値観 」が貫通していて、「 人間 」の水準では「 人格 」で、社会の水準では「 文化 」だと考える。

この共通の「 生命維持 」の価値観は、科学者であろうが一般人であろうが同じであり、優劣は無い。

だから、「 人格 」と関連した「 文化の相対性 」を支持する。

本来は、全ての価値観を尊重すべきだが、国家目的や社会風俗を規制するために、人類は「 法律 」で、国家の方向を定め、反する「 生命維持 」の価値観を認めないと考える。


2010/8/16、私の考え

価値判断とは、次のように考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。

価値判断を個人に統合した場合「 人格 」と呼び、社会で統合すれば「 文化 」であるが、「 人格 」にはDNA やRNA 、「 文化 」には法律、経済、科学などの「 層 」や「 引力 」や「 関係 」が存在する。

「 知性 」を発揮すべきは「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の分析の場合であり、本来は「 欲 」である「 文化 」や「 人格 」の優劣を分析する点に、「 誤り 」があると思う。


「 知性 」は「 意識 」であり、「 大脳 」の判断であるのに反し、「 価値判断 」は「 小脳 」の無意識に属するから、「 知性 」は性質から「 文化 」や「 人格 」を分析するのではなく、「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の仕組みや機構を分析すべきだろう。


価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であるから、具現化された人類の「 文化 」は、人類の数だけ存在し、統合は不可能という点で「 文化相対主義 」を支持する。


「 文化相対主義 」が「 知性 」であるなら、「 知性 」は、「 生きる仕組み 」を分析するが、「 欲 」である「 生きる事 」や「 生命の価値観 」を分析する事は性質上、不可能であると思う。


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2010年08月15日

2010/8/15、私の主張・文化と人格・文化相対主義

「 文化 」と「 人格 」についての考えは、(文化)相対主義を認めるか否かに発展する。


2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。


2010/8/14、私の記事

「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

これは、私が「 小さなDikz 」である事や、三流大学卒の頭脳である事などの、「 天から 」あるいは「 DNA やRNA 」により、私に与えられた肉体の条件であり、機能であり、「 層 」や「 関係 」を築く「 引力 」と考える。

これは、人類の全てに与えられるが、全て相違する。

価値判断を以下のように考え、以前の考えを引用する。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

(引用を終わる)


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。


2010/8/15、私の考え


以上のように、私は、科学の「 運動 」や「 速度 」などの「 力学 」さえも、「 絶対静止の時空 」を前提とした概念であり、全てが主観的で、「 価値観 」も主観的であると考える。


そして、以下の事が私の結論である。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

「 文化 」も「 人格 」も、「 小脳の無意識 」、つまり呼吸や脈拍と身体運動可能性という「 生命維持 」のための「 価値観 」が貫通していて、「 人間 」の水準では「 人格 」で、社会の水準では「 文化 」だと考える。

この共通の「 生命維持 」の価値観は、科学者であろうが一般人であろうが同じであり、優劣は無い。

だから、「 人格 」と関連した「 文化の相対性 」を支持する。

本来は、全ての価値観を尊重すべきだが、国家目的や社会風俗を規制するために、人類は「 法律 」で、国家の方向を定め、反する「 生命維持 」の価値観を認めないと考える。


従って、「 科学的 」には、「 相対主義 」が正当であり、「 相対主義 」を否定する科学者や哲学者は、「 人格 」については、「 無知 」であると」いうのが結論である。



参考

(文化)相対主義 (Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9

相対主義と主観性

主観性は、相対主義にとって重要な論拠のひとつである。ここで、主観性とは、事物の把握の仕方が、個々の主体に依存しているということを意味する。すなわち、相対主義の認識論的な根拠によれば、個々の主体によって把握された事象(いわゆる表象や観念)は、個々の主体の感じ方や捉え方に依存しているので、それとの相対的関係においてしか存在しえない。


肯定説

グスタフ・ラートブルフの寛容論と相対主義

法学者のラートブルフは、法学における価値相対主義の先駆者であり、彼によれば相対主義とは、「窮極の立場の学問的基礎付けを断念し各個人に立場をとることのもろもろの可能性をあますところなく呈示することにのみ自己の任務を限り、各個人が立場をとること自体は、彼の人格の深みから生じたところの良心にゆだねる」方法を意味する[2]。このような相対主義は、全ての価値判断をその主張者にとっては同等の権利を持つものと認めるので、普遍的寛容に繋がる[3]。


否定説
カール・ポパーの寛容論と相対主義

科学哲学者のポパーによれば、「相対主義とは、何でも主張できる、ほとんど何でも、したがって何も主張しないという立場」である[11]。ポパーはこのような相対主義を、知的無責任、常識と理性の破壊として批判する[12]。彼は、客観的真理理念および可謬性を前提とする批判的多元主義(つまり複数の主観的な世界観が単に併存しているのではなく全体が1つの客観的真理へと向かおうとする多元主義)を相対主義に対置し[13]、人間の無知を強調することによって寛容を擁護する[14]。

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2010年08月14日

2010/8/14、オカルト・私の主張・文化と人格と価値観

これは、特殊論であり、私だけの考えです。

私のブログについて、「 哲学の本 」を読んでから書けという批判があったが、私は、「 書 」を捨てた。

「 哲学者 」の弁護は望まないし、「 言葉遊び 」の「 哲学 」なんて要らないし、哲学者も結局は、自分の考えを書いているのに過ぎない。

そうだとしたら、「 時間 」や「 空間 」や「 価値観 」や「 人格 」など、私が知りたいと思う事は、(全てが主観だから)自分で考えたいと思い、ブログを書いている。

「 哲学 」が好きな人は、ここから去って、「 本 」を読んでください。

さて、私は、自分の問題を考えよう。


2010/8/8、私の記事

私が、なぜ「 文化と人格 」を書くのかを考えた。

私は「 価値判断 」について考えていたのだろう。


宇宙空間で知り得る所まで、「 欲 」を拡大し、自分の小脳の無意識、言い換えると「 心 」と直結し、流れ星や小鳥のさえずりが、「 心 」を動かすと考える。

「 欲 」はエーテル体であり、「 意識 」は「 大気圏 」と考え、意識の総体は「 霊 」で、「 大気圏 」の「 電離層 」のように、頭脳の中で「 層 」を作っていると考える。

「 層 」は、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある。

「 人格 」は、DNA やRNA の組み合わせにより「 引力 」のような「 重力波 」を生じると考えるが、重要な事は、DNA やRNA の組み合わせを可能にする「 酵素 」は、「 小脳 」から分泌される事である。

「 引力 」のような「 重力波 」は「 人格 」であり、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある「 層 」を作る。

DNA やRNA の組み合わせにより、どのような「 層 」や「 関係 」を「 引力 」として持っているかが、「 六道 」という「 心の状態 」を決定すると考える。

価値観を伴った判断を、「 色眼鏡で見る 」というが、「 色眼鏡 」は「 層 」であり「 関係 」であり、「 見る 」とは「 生きる事 」であり、文化と人格を往来する、「 時空感覚 」や「 時空意識 」を持つ事であると考える。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。


2010/8/14、私の考え


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

これは、私が「 小さなDikz 」である事や、三流大学卒の頭脳である事などの、「 天から 」あるいは「 DNA やRNA 」により、私に与えられた肉体の条件であり、機能であり、「 層 」や「 関係 」を築く「 引力 」と考える。

これは、人類の全てに与えられるが、全て相違する。

価値判断を以下のように考え、以前の考えを引用する。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

(引用を終わる)


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

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2010年08月08日

2010/8/8、オカルト・私の主張・文化と人格4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/7/25、私の記事

私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 絶対的静止の時空軸 」を持つ事は、生きる事。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結している事で、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

これも、両者が同じ構造だからである。



全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。

個人は、自分の「 系 」で、「 絶対的静止の時空軸 」を持ちながら生き、全てが「 主観的 」であり、それが「 文化 」に具現化し、人類の意識が同じ変化をする時、それを「 本質 」と考える。

「 本質直観 」するのは、「 小脳の無意識 」が感じる「 力 」であり、「 本質 」ではないと考える。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。

個人の意識が変化を「 文化 」に具現化する事が出来ない状況が、他者にも同じである時、「 アプリオリ 」と感じ、人類を超越した物で、規定を放棄する。

それが、「 時間 」と「 空間 」であり、物理学が放棄し、哲学者の仕事なのに、放棄されている。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

他者は、当然の事で疑わないが、私は、疑う。

私は、「 時間意識 」と「 空間意識 」だと考えるからだ。



従って、次の結論に到着する。


「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。



2010/8/8、私の考え


私が、なぜ「 文化と人格 」を書くのかを考えた。

私は「 価値判断 」について考えていたのだろう。


宇宙空間で知り得る所まで、「 欲 」を拡大し、自分の小脳の無意識、言い換えると「 心 」と直結し、流れ星や小鳥のさえずりが、「 心 」を動かすと考える。

「 欲 」はエーテル体であり、「 意識 」は「 大気圏 」と考え、意識の総体は「 霊 」で、「 大気圏 」の「 電離層 」のように、頭脳の中で「 層 」を作っていると考える。

「 層 」は、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある。

「 人格 」は、DNA やRNA の組み合わせにより「 引力 」のような「 重力波 」を生じると考えるが、重要な事は、DNA やRNA の組み合わせを可能にする「 酵素 」は、「 小脳 」から分泌される事である。

「 引力 」のような「 重力波 」は「 人格 」であり、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある「 層 」を作る。

DNA やRNA の組み合わせにより、どのような「 層 」や「 関係 」を「 引力 」として持っているかが、「 六道 」という「 心の状態 」を決定すると考える。

価値観を伴った判断を、「 色眼鏡で見る 」というが、「 色眼鏡 」は「 層 」であり「 関係 」であり、「 見る 」とは「 生きる事 」であり、文化と人格を往来する、「 時空感覚 」や「 時空意識 」を持つ事であると考える。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。


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2010年07月25日

2010/7/25、オカルト・私の主張・文化と人格3

これは、私の考えである。

少し、補足する。

2010/7/25、私の記事

私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 絶対的静止の時空軸 」を持つ事は、生きる事。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結している事で、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

これも、両者が同じ構造だからである。



全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。

個人は、自分の「 系 」で、「 絶対的静止の時空軸 」を持ちながら生き、全てが「 主観的 」であり、それが「 文化 」に具現化し、人類の意識が同じ変化をする時、それを「 本質 」と考える。

「 本質直観 」するのは、「 小脳の無意識 」が感じる「 力 」であり、「 本質 」ではないと考える。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。

個人の意識が変化を「 文化 」に具現化する事が出来ない状況が、他者にも同じである時、「 アプリオリ 」と感じ、人類を超越した物で、規定を放棄する。

それが、「 時間 」と「 空間 」であり、物理学が放棄し、哲学者の仕事なのに、放棄されている。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

他者は、当然の事で疑わないが、私は、疑う。

私は、「 時間意識 」と「 空間意識 」だと考えるからだ。



従って、次の結論に到着する。


「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。

「 絶対的静止の時空軸 」を疑わない限り、「 文化 」に進歩は無いと考える。

「 二本足で考える 」とは、意識から無意識、無意識から意識へと飛躍する事であり、意識の状態に止まったら進歩は無いと考える。

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2010/7/25、オカルト・私の主張・文化と人格2

これは、私の考えである。

Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれた。

大変、感謝して、更に考えました。

Yahoo USA (私の主張 文化と人格)
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGdLrtuUpMTukAUUyl87UF;_ylc=X1MDMjE0MjQ3ODk0OARfcgMyBGZyA3lmcC10LTkzNwRuX2dwcwMwBG9yaWdpbgNzeWMEcXVlcnkD7H6ARzYW8DMQ--?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E4%B8%BB%E5%BC%B5%E3%80%80%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E4%BA%BA%E6%A0%BC&fr=yfp-t-937&fr2=sfp&iscqry=

「 文化 」や「 人格 」は、個人、あるいは国家に特徴を与える習慣的な行為であり、「 文化 」も「 人格 」も、「 時間 」と「 空間 」の混合だと思う。


「 文化 」としての言葉が、意味を表す記号としての文字と発音で成立しているならば、前者は社会に通用する情報、「 小脳の運動可能性 」であり、「空間的 」であり、後者は、喜怒哀楽を表現する抑揚のリズム、「 呼吸や心拍のリズム 」であり、「 時間的 」であると思う。



それが、一体となったのが、「 文化 」であり「 人格 」であると思う。



2010/7/25、私の考え


私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標
が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。

「 絶対的静止の時空軸 」を疑わない限り、「 文化 」に進歩は無いと考える。

「 二本足で考える 」とは、意識から無意識、無意識から意識へと飛躍する事であり、意識の状態に止まったら進歩は無いと考える。


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2010年07月22日

2010/7/22、オカルト・私の主張・文化と人格

これは、私の考えである。

2010/7/18、私の記事

私は、認識は、感性と悟性により成立するのではなく、意識と無意識で成立すると考える。

感性に時間と空間の「 純粋直観 」があるのではなく、意識には、時間意識と空間意識があり、それは無意識の脈拍などのリズムと身体運動可能性から生じる。

時間と空間は、誕生と同時に、認識する事が出来なく、「 アプリオリ 」に与えられた生命の形態であると思う。

認識するのは、自分が作り上げた時間意識と空間意識であり、宇宙を形成する時間や空間ではない。

2010/7/19、私の記事

「 時間 」と「 空間 」を人間は知る事が出来ない。

人間は「 時空 」を意識として認識し、それが「 小脳の無意識 」に基礎があると私は考える。

実生活で、「 時間 」というのは「 時計 」が示す間隔であり、地球という天体の動きを「 時間 」として認識するのではなく、光速から定義された時間でも光速を認識するのでもない。

「 小脳の無意識 」に基礎があるから、自分が作り上げた時間意識と空間意識には限界があり、「 頭の中の時間と空間は閉じている 」と考える。

閉じた宇宙だから、意識の定在波により、鎖国時代の日本文化のように、「 文化 」が生まれる。

……………(省略)…………………………

時間自体や空間自体を認識する事は出来ない。

時間や空間の認識というのは意識であり、「 小脳の無意識 」に基礎を持つために、時間と空間は閉じた宇宙を形成し、意識の定在波は「 文化 」を生む。

閉じた宇宙とは、「 系 」である。


2010/7/22、私の考え


以上の話から、「 文化 」は、「 人格 」と似た意識の定在波であるという結果になる。


人間が行為する方法も、行為した痕跡も全て「 文化 」であり、「 人格 」が個人の意識の統合なら、「 文化 」も、閉じた宇宙の「 系 」の意識の統合であり、個人の「 文化 」もあれば、「 法人格 」のように「 系 」も「 人格 」を持つと考える。


「 文化 」や「 人格 」は、個人、あるいは国家に特徴を与える習慣的な行為であり、「 文化 」も「 人格 」も、「 時間 」と「 空間 」の混合だと思う。


「 文化 」としての言葉が、意味を表す記号としての文字と発音で成立しているならば、前者は社会に通用する情報、「 小脳の運動可能性 」であり、「空間的 」であり、後者は、喜怒哀楽を表現する抑揚のリズム、「 呼吸や心拍のリズム 」であり、「 時間的 」であると思う。



それが、一体となったのが、「 文化 」であり「 人格 」であると思う。

「 文化 」としての言葉を使うヒトを形成するのが「 人格 」である。

生命が意識であるとすれば、意識の痕跡が文化であり、「 文化 」は、人間そのものであると考える。


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2010年07月15日

2010/7/15、オカルト・私の主張・文化は消滅しない・親子

今日は、「 親子 」を考える。

2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/6/27、私の記事

以上の記事が意味する物は何か。


現実生活が、ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても変化しないように、個人の頭の中の「 世界 」に変化は無い。

ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても、個人個人の頭の中が、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系で計測するから、「 運動 」を初め、すべてが「 主観的 」であると考える。


これは、「 系 」のすべてに及び、「 系 」のすべてが「 主観的ラグビー・ボール 」であり、「 系 」のすべてに、「 二本足の考え 」が適用されて、人間は行動していると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動している事が、「 一般相対性理論 」でヒトとヒトが結ばれている事であり、「 時間 」と「 空間 」が「 時空 」となるのは、「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性でヒトとヒトが結ばれている事であると考える。

…………………(省略)……………………………

個人の「 特殊相対性理論 」の頭脳が「 一般相対性理論 」で結ばれているとは、ヒトとヒトが「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれている事だと考えた。

そして、認識する宇宙の果てまで「 欲 」が広がり、宇宙の運動が、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として現れると考え、その一方、個人の内部では、「 二本足の考え 」が適用されると、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の広がる範囲が、実体がある物となると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動するとは、学問の数だけ、精神の行動パターンがあるが、「 行動する 」とは「 二本足で歩く事 」である。

「 二本足で歩く事 」は、以下の記事を読んでください。

2010/5/8、私の記事

小脳の無意識は、呼吸や覚醒や鼓動という生命の無意識で、大脳の意識と区別し、二つを焦点とした「 二本足の考え 」を以前、発表した。

小脳という臓器は身体の範囲に限られているが、そこから発する無意識は、宇宙の運動を認識し、同じ「 動き 」の身体の行動と直結する。

「 小脳の無意識 」の範囲は「 心 」の範囲である。

「 心 」を動かす、眼を動かしたり、意識の方向を指図するのは、「 小脳 」であり、全ての物体を安定させる「 重力 」を感じるのも、「 小脳 」だと思う。

「 二本足に考え 」の「 無意識 」は、「 小脳の無意識 」である。

「 心 」も「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


頭脳も、生命維持のために働いている事を考えると当然の事だと思う。


宇宙の全てが、行動を促す「 欲 」であり、「 意欲 」は、個人の「 生活リズム 」という時間意識と「 身体の行動可能性 」という空間意識に合致した「 欲 」であり、行動の原因である。

それが、身体の外部で、「 時間 」や「 空間 」という「 形あるもの」にデフォルメされて、人間の意識と切り離されているが、本来の「 生活リズム 」と「 身体の行動可能性 」に戻して考える。

「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションであり、想像する未来の自分の行動である。

「 人の意見を聞く 」とか「 相手の立場に立って考える 」などは、「 小脳の無意識 」を相手まで広げる事であり、「 無意識で相手を理解する事 」であり、意識の焦点に乗って「 無意識 」の「 足 」を広げる事である。

「 行動する 」とは、無意識の焦点に立って、「 意識 」した行動可能性を決定する事であり、根底は「 無意識が行動を決定する 」事になる。

これが、「 二本足で歩く 」という事である。




2010/7/15、私の考え


親と子は、DNA でも「 血液 」でも、緊密な関係である。

私は、「 小脳が時空を生む 」と書いたが、親子はDNA や血液が同じだから、小脳の無意識により時空が発生する段階でも、一緒だと考える。

親子が一緒に生活する事は、「 思い出を作る事 」だが、それは「 同じ時空を作る事 」である。

記憶は親子で違うかも知れないが、思い出すのは記憶の内容ではなく、T(時間)P(空間)O(機会)であり、時空を思い出すと考える。

同時に、時空を共有して、親と子が「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれて、時間意識を発生させる「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、空間意識を発生させる「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションする事であり、想像する未来の自分の行動を、経験と一緒に教えるのが「 親 」であると思う。

「 心 」は「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


経験と共に、具現化する事により、「 小脳の無意識 」、「 心 」、「 文化 」を伝授するのが「 親 」である。

親子はDNA や血液が同じで、小脳の無意識により時空が発生する段階でも、一緒である事は、「 絶対的な座標 」の価値観を教える立場なのは、「 親 」である事だ。


時間や空間や重力や運動の方向などの「 絶対的な座標 」としての価値観は、実生活には必要で、それを欠いた時は「 生命の危機 」に陥ることを、「 無意識 」に教える。


それが、「 愛情 」かも知れない。

「 美意識 」・「 自己意識 」・「 愛情 」などは、小脳の基礎的部分であると思う。

それを欠けば、「 人間 」ではない。

「 生命の危機 」に陥ることを、「 無意識 」に教えるのが、「 親 」の愛であり、「 生命の危機 」に意識的に陥らせるのが、「 邪悪 」であり、持ち主を悪魔と呼ぶ。

このように、「 価値観 」を教えるのは「 親 」であるが、「 子 」が、どのような価値観を持つかは、子の「 人格 」の力である。

人の全体を貫く価値観が「 人格 」であり、その結果の「 ラグビー・ボール 」は「 意識の総体としての子の霊 」であり、「 親 」に責任はない。


親と共同生活をし、意識と無意識の「 二本足で歩きながら 」、「 子は親の背中を見て 」自分の中で、生命の無意識の価値観や人格を形成すると思う。

それが、親から子への、「 文化 」の引継ぎであると思う。



「 親 」は「 父 」とは限らない。

むしろ「 母 」こそ、「 子 」の価値観に影響するかも知れない。

かって、「 子 」は、胎盤で育てられたのだから。


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2010年07月13日

2010/7/13、オカルト・私の主張・文化は消滅しない3・教育

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

今日は、「 教育 」について考える。

2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/7/3、私の記事

それが、生活では、どのように考えるかを書く。

一人ひとりの「 頭の中の世界 」が「 系 」であり、国家や社会も「 系 」と考え、「 関係 」が重なっている「 ラグビー・ボール 」を「 系 」と考え、「ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が「 価値観 」や「 文化 」と考える。


固定した座標系の「 時間 」と「 空間 」を、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、「 実在 」すると「 意識させる 」と考える。


固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。

2010/7/13、私の考え


以上の観点から、「 教育 」を考えたい。

「 教育 」とは、教えて育てる事であるが、人間を「 樹木 」として考えると間違いである。

私は、「 私の見解・一般論の要約 」で書いたように、人間を考えるから、「 教育 」というのも、樹木のような静的に考える事は間違いだと思う。

その理由は、意識と無意識は、動物の大脳や小脳から生まれる電磁波であるからだ。


「 文化 」という関係が重なった「 系 」を持ちながら、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系の「 価値観 」を持ち、それが「 先生 」と「 生徒 」が同列であり、お互いの「 価値観 」を尊重しつつ、「 信号 」により方向を示すのが「 先生 」だと思う。

「 文化 」や「 価値観 」の押し付けは、一旦は受け入れても、「 小脳の無意識 」が、容認しない。

「 先生に従わせる 」のでなく、無知の告白と解決が「 教育 」であり、「 同じ価値観にする 」のではない。

「 個性の尊重 」とは、互いの「 絶対性 」と「 相対性 」を知って、生徒が持つ長所を伸ばす事だろう。

「 人間 」についての無理解と、無知であるため、「 人間性 」を無視するのが、現代の教育であるから、「 人間を人間と思わない子供 」が育つのだと思う。

自分が知っている事しか、教える事は出来ない。

自分が知っている事を、生徒が無視するから、「 虐待 」をする。

「 価値観 」や「 文化 」は「 家庭の両親が教える事 」であり、自分の「 価値観 」を押し付けてはならない。

尊重して、長所を伸ばす事が、「 教師 」の仕事だと思う。

戦前の「 滅私奉公 」や「 自己犠牲 」が、「 価値観 」を教える事であるなら、「 個性の尊重 」は、価値観を教えるのでなく、「 人間とは何か 」を教えるべきだろう。

人間とは何か。人間の到達点は何処だろう?

それは、教科書にも書いていない。

人間の認知について明確な定義もなく、「 時間 」も「 空間 」も定義する事が出来ない事を教えて、疑問を持たせ、考えさせる事が「 教育 」であると思う。

それは、一つの哲学であり、学問としての「 哲学 」しか持たないから、子供を指導する事が出来ないのだと思う。

それは、「 個人の絶対的価値観 」を持つ事は誰でも同じであり、「 価値観 」を均一にする事ではなく、個人の「 価値観 」を伸ばした理論を作る事が、「 個性を伸ばす事 」だと思う。


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2010年07月12日

2010/7/12、オカルト・私の主張・文化は消滅しない・「 ザ・コーブ」

「 ザ・コーブ 」について。

2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/7/3、私の記事

それが、生活では、どのように考えるかを書く。

一人ひとりの「 頭の中の世界 」が「 系 」であり、国家や社会も「 系 」と考え、「 関係 」が重なっている「 ラグビー・ボール 」を「 系 」と考え、「ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が「 価値観 」や「 文化 」と考える。


固定した座標系の「 時間 」と「 空間 」を、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、「 実在 」すると「 意識させる 」と考える。


固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。


第二次世界大戦の日本軍の他民族への教育は、全くの間違いだと考える。


それと同時に、現代の大国が、他民族の文化を奪おうとしたり、変化させようとする試みも、間違いだという結論になる。


「 小脳の無意識 」を「 生命 」であり、「 霊 」であると考えると、「 意識 」という「 魂 」の系は、死亡により消滅するが、「 魂 」の系を作るDNA の連携である「 霊 」の系は、消滅せず、民族の「 血 」の中で生きると考える。


2010/7/12、私の考え


以上の観点から、アカデミー賞を受賞した「 ザ・コーブ 」について考えてみたい。

これは、イルカであるが、クジラの捕鯨も同じと思うので、一緒に考える。

イルカもクジラも、哺乳類である。

牛や馬や羊や豚も哺乳類である。

私は、「 保護団体の人 」は、哺乳類の肉を食べないのだろうかと疑問に思う。

更に「 保護団体の人 」は、動物園の動物や犬や猫の「 ペット 」を、どのように考えているのか疑問に思う。

「 保護団体の人 」が、ペットの禁止や肉食の禁止や動物園の廃止を主張しなければ、私は、納得しない。

私は、「 小脳の無意識 」が「 心 」と思うから、全ての哺乳類は、「 心 」を持ち、「 人間 」と区別は出来ない。

まして、私は、死後は犬や猫や馬や牛などに生まれ変わるのではないかと危惧している。


「 人間 」が人間として生きるように、哺乳類は、ペットとして飼育されるべきでなく、食料として殺される運命でもない。

それは、「 人間の文化 」の問題であり、一人ひとりの「 頭の中の世界 」や国家や社会の関係が重なった「 文化 」という「 系 」を貫く「 価値観 」の問題である。



国家や社会や個人の「 文化 」の違いで、哺乳類を飼育したり、食料にしていると考える。

「 保護団体の人 」が、肉食をせず、菜食主義であるならば、哺乳類を飼育したり、食料にしている事を非難する事が出来るだろう。

肉食すれば、私たちと同じく、動物を殺害している人だ。



さて、「 ザ・コーブ 」は、日本人の多くがイルカを食べている印象を受けるが、クジラの捕鯨も同じだが、現在の日本で、クジラやイルカを食べている人は、高級料亭へ行く金持ちか、異色な肉を食べる人で、私たち大勢の日本人の食卓には無い。

私が知る限りでは、「 イルカ肉 」としてスーパーマーケットで売る事は無く、多くの日本人は、イルカを食べるなどの発想は無い。

たぶん、「 クジラ肉 」として、一部の隠れた高級料亭で食べられていると思う。

それを、「 日本文化の保護 」と言う人もいるが、私にとっては、クジラの肉もイルカの肉も「 マグロ 」も、必要ではないし、食べたいとも思わない。

捕鯨も、一部の人のための商業目的の捕獲であると思うから、調査捕鯨など、止めるべきだと思う。

多くの日本人は、食べないし、食べる機会が無いからだ。



ただ、「 ザ・コーブ 」の漁村には、近代以前から捕鯨し、イルカ漁をしてきた「 文化 」がある。

私には、イルカを食べないという「 文化 」があるが、第二次世界大戦の日本軍の他民族への教育のように、私の価値観を押し付けるのは、間違いであり、「 文化 」を尊重すべきだと考える。


また、他民族の文化が、他民族の文化を奪おうとしたり、変化させようとする試みも、間違いだと思う。

インカやインディアンの文化を消したり、チベットの文化を消したりする事も間違いだと考える。

それらの言葉や文化こそ、世界文化遺産と呼ぶべきだと思う。

固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 ザ・コーブ 」の漁民の「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 ザ・コーブ 」の漁民の「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。


そして、「 小脳の無意識 」を「 生命 」であり、「 霊 」であると考えると、イルカやクジラの「 意識 」という「 魂 」の系は、死亡により消滅するが、「 魂 」の系を作るDNA の連携である「 霊 」の系は、消滅せず、イルカやクジラの「 血 」の中で生きると考える。


イルカの肉に、水銀やカドミュウムなどが含まれるなら「 幸い 」であり、食べた人が水銀中毒になっても自業自得であり、イルカの霊による復讐と考える。


人間は、好きな物に滅ぼされる。

タバコが好きな人は、タバコに。

アルコールが好きな人は、アルコールに。

イルカの肉を食べる人は、イルカに。

「 文化 」による「 文化 」の抹消でなく、「 霊 」による消滅でなければ、「 文化は消滅しない 」かも知れない。





ザ・コーブ(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4

イルカ追い込み漁(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BF%E6%BC%81





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2010年07月03日

2010/7/3、オカルト・私の主張・文化は消滅しない

これは、フィクションである。


2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。



2010/7/3、私の考え

それが、生活では、どのように考えるかを書く。

一人ひとりの「 頭の中の世界 」が「 系 」であり、国家や社会も「 系 」と考え、「 関係 」が重なっている「 ラグビー・ボール 」を「 系 」と考え、「ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が「 価値観 」や「 文化 」と考える。


固定した座標系の「 時間 」と「 空間 」を、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、「 実在 」すると「 意識させる 」と考える。


固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。


第二次世界大戦の日本軍の他民族への教育は、全くの間違いだと考える。


それと同時に、現代の大国が、他民族の文化を奪おうとしたり、変化させようとする試みも、間違いだという結論になる。


「 小脳の無意識 」を「 生命 」であり、「 霊 」であると考えると、「 意識 」という「 魂 」の系は、死亡により消滅するが、「 魂 」の系を作るDNA の連携である「 霊 」の系は、消滅せず、民族の「 血 」の中で生きると考える。


Every miller draws water to his own mill.

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