2010年11月13日

2010/11/13、オカルト・特殊論4の帰結4

2010/10/25、私の記事

以上の事から、「 時間 」と「 空間 」を考えました。

日本語では、時間と空間と人間は「 間(ma) 」を共有している。

「 時 」や「 空 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作れば、「 意識は光である 」から、光速あるいはそれ以上の速さで、社会の「 時間 」と「 空間 」の定義に従う。

「 間(ma)」とは無意識であり、時間では「 概日リズム 」であるし、空間は、「 感覚で規定された空間 」である事になった。

これは、人間という生命体が持つ「 間(ma)」という無意識が、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作った瞬間に、時間意識と空間意識を、「 感覚で規定された空間 」の中に作るから、「 時間 」や「 空間 」は、生命体の「 小脳の無意識 」が作る事になり、「 間(ma)」とは、意識されない「 時空 」であると考える。

「 空間 」は空虚は延長ではなく、「 間(ma)」という無意識が感覚の中で惹起する可能性の延長であると考える。

時間や空間は、天体の運動を人間が感じた意識であり、天体の運動が不明である事は「 宇宙論 」が不明である事で示されている。

天体の運動を人間が感じた意識とは、時間意識と空間意識だが、それは「 間(ma)」という感覚の中で惹起する可能性である無意識が、人間の頭の中の「 絶対静止の座標 」に「 具現化 」したのであり、「 時間 」や「 空間 」という言葉は、社会での会話が成立するクミュニケーションの道具である。

すると、私の考えは、ガリレオやデカルトとは違い、生命体が規定する「 時間 」と「 空間 」であり、人間が作り出した「 意識の作品 」である事になる。


2010/11/13、私の考え

それでは、「 間(ma)」とは何か。

私は「 時間 」と「 空間 」は、意識と無意識の二重構造で、「 時空 」とは感覚であり、感覚は可視光線や可聴音のように、周波数で決まる人間の機能であると想定する。

「 時空 」は、時間と空間が一つとなっている状態で 「 時空 」は生命体より与えられるから、幼児から老人まで共通するから、生まれながらも「 時空 」を理解し、眼や耳を欠損する事により「 時空 」を失う。

「 時空 」は、感覚でありその中に無意識の「 間(ma)」を含み、人間が成長すると共に、大脳の意識の「 時間 」や「 空間 」と小脳の無意識による「 概日リズム 」や空間の「 遠近 」が生まれると考える。

乳幼児が認識するのは「 時空 」であり「 リズム 」であり、音楽の演奏やリズムに合った踊りのような、時空が未分化の「 物語 」で、「 内なる宇宙 」と外界が一体化していると想定する。

乳幼児は立ち上がり、生命の危険を感じる身体不可能な幅の感覚、(つまり「 時空 」)が「 空間 」という「 間(ma)」であり、生命維持のため快感や不快感とういう感覚、(つまり「 時空 」)が、小脳でストレスとなり、快感を求める小脳のリズムの「 間(ma)」が「 時間 」となると解釈する。

乳幼児は「 時間 」と「 空間 」を意識するのでなく、周波数で決まる無意識の「 間(ma)」という「 時空 」を使って生きていることになる。

周波数で決まる感覚の「 時空 」が、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」を作る。

ガリレオが心拍より振り子の動きが正確な時間をあらわすと考えた事が、現実的で生命的な無意識の「 時間 」を捨てて、意識的で思考された「 時間 」を採用したと考える。

私は、そのとき、科学が生まれると同時に、人間性が放棄されたと考える。

それ以来、「 時間とは何か 」という疑問は不問にされ、科学が発達しても「 時間 」や「 意識 」は不明で、哲学が不問にしてきた結果、相対性や量子力学の科学者でも、不問のままに「 時間 」を使うため、「 時間 」や「 空間 」は人間が作った「 意識の産物 」であることを知らず、科学者は「 意識の産物 」が適用されない宇宙天体を想像することが出来ないのだと考える。


この意味で、科学を否定するから、私は「 オカルト 」という表題を用いている。


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2010年11月07日

2010/11/7、オカルト・特殊論4の帰結3

2010/10/25、私の記事

以上の事から、「 時間 」と「 空間 」を考えました。

日本語では、時間と空間と人間は「 間(ma) 」を共有している。

「 時 」や「 空 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作れば、「 意識は光である 」から、光速あるいはそれ以上の速さで、社会の「 時間 」と「 空間 」の定義に従う。

「 間(ma)」とは無意識であり、時間では「 概日リズム 」であるし、空間は、「 感覚で規定された空間 」である事になった。

これは、人間という生命体が持つ「 間(ma)」という無意識が、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作った瞬間に、時間意識と空間意識を、「 感覚で規定された空間 」の中に作るから、「 時間 」や「 空間 」は、生命体の「 小脳の無意識 」が作る事になり、「 間(ma)」とは、意識されない「 時空 」であると考える。

「 空間 」は空虚は延長ではなく、「 間(ma)」という無意識が感覚の中で惹起する可能性の延長であると考える。

時間や空間は、天体の運動を人間が感じた意識であり、天体の運動が不明である事は「 宇宙論 」が不明である事で示されている。

天体の運動を人間が感じた意識とは、時間意識と空間意識だが、それは「 間(ma)」という感覚の中で惹起する可能性である無意識が、人間の頭の中の「 絶対静止の座標 」に「 具現化 」したのであり、「 時間 」や「 空間 」という言葉は、社会での会話が成立するクミュニケーションの道具である。

すると、私の考えは、ガリレオやデカルトとは違い、生命体が規定する「 時間 」と「 空間 」であり、人間が作り出した「 意識の作品 」である事になる。

2010/11/7、私の考え


思考された「 時間 」と「 空間 」は、「 速度 」という概念を通して、現実的に理解される。

この「 速度 」は、ベクトルであり、これが無意識の「 間(ma)」であろうと想定している。

あるいは、意識を電磁波と考える時、意識を生む電磁場の「 場(ba)」が「 間(ma)」であるかも知れない。



「 時間 」や「 空間 」は、感覚の無意識と想定する「 速度ベクトル 」や「 場 」による限定により「 現実的 」だと決定し感じられるのだと思う。


ベクトルは可能性であり、「 空間 」においては「 力線 」であるが、その事が、「 生命的 」であり、「 主観的 」であり、「 時間的 」である。


人間には、生と死があるから、生命的であり、時間的であり、それが「 空間 」を区切って「 場 」を作り、「 場 」の中の「 ベクトル 」は「 力線 」となり、「 力線 」は「 物語 」であり、「 思想 」であると考える。


何を「 力線 」と考えるかは、個人の思想次第であり、その「 力線 」が思想で閉じているため、あるいは絶対静止の座標を必要とする「 体系 」を持つ思考であるため「 空間 」を閉ざすと考える。


考えること自体が、「 閉じている宇宙 」である。


思考を放棄することが一つの方法であるが、無意識は楕円である事を考慮し、安易に「 うるう年 」を認めずに、無意識の決定する「 時空 」、つまり主観的なベクトルを生む「 間(ma)」に注目する事も一つの方法と考える。


思想は個人の考えであり、安易に、ガリレオやデカルトが考えた思想を信じないこと、自分の頭で考える事を大事にすることが、私の進言である。


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2010年10月31日

2010/10/31、オカルト・特殊論4の帰結2

2010/10/25、私の記事

以上の事から、「 時間 」と「 空間 」を考えました。

日本語では、時間と空間と人間は「 間(ma) 」を共有している。

「 時 」や「 空 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作れば、「 意識は光である 」から、光速あるいはそれ以上の速さで、社会の「 時間 」と「 空間 」の定義に従う。

「 間(ma)」とは無意識であり、時間では「 概日リズム 」であるし、空間は、「 感覚で規定された空間 」である事になった。

これは、人間という生命体が持つ「 間(ma)」という無意識が、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作った瞬間に、時間意識と空間意識を、「 感覚で規定された空間 」の中に作るから、「 時間 」や「 空間 」は、生命体の「 小脳の無意識 」が作る事になり、「 間(ma)」とは、意識されない「 時空 」であると考える。

「 空間 」は空虚は延長ではなく、「 間(ma)」という無意識が感覚の中で惹起する可能性の延長であると考える。

時間や空間は、天体の運動を人間が感じた意識であり、天体の運動が不明である事は「 宇宙論 」が不明である事で示されている。

天体の運動を人間が感じた意識とは、時間意識と空間意識だが、それは「 間(ma)」という感覚の中で惹起する可能性である無意識が、人間の頭の中の「 絶対静止の座標 」に「 具現化 」したのであり、「 時間 」や「 空間 」という言葉は、社会での会話が成立するクミュニケーションの道具である。

すると、私の考えは、ガリレオやデカルトとは違い、生命体が規定する「 時間 」と「 空間 」であり、人間が作り出した「 意識の作品 」である事になる。

2010/10/31、私の考え

以上のように、「 時 」という意識、「 空 」という意識が、それぞれ、思考上の「 時間 」と「 空間 」であり、それは学問の基礎になり、現代科学が発達している。

その事により、「 時間 」と「 空間 」が解決したのではないと考える。

なぜなら、私の考えでは、「 時間 」と「 空間 」は、少なくとも二重構造をしていて、学問上の「 時間 」と「 空間 」の意識と、「 間(ma)」という無意識の「 時空 」があり、私の生活は、学問上の「 時間や空間 」ではなく、無意識の「 時空 」の中で成立している。

間(ma)は、日本語で、時間と空間と人間に共通している。

これは、「 空間 」も「 時間 」も、「 人間 」が作った「 無意識 」を中心とした概念であると考える。


「 空間 」と言っても、人間の「 感覚 」という感受性に合致した分野であり、その「 感覚 」が、周波数によって決まるなら、周波数に対応した「 空間 」しか、人間は持っていないことを示している。

「 宇宙の波動 」というのは、この「 空間 」の認識が周波数で成り立っているというだけで、それは、人間内の頭脳内の出来事であり、宇宙の天体の運動を説明した考えではないと思う。

周波数によって成り立つ「 空間 」は、無意識の空間であり、意識する前に、既に「 感じて、会得したもの 」であり、空間意識の前に決定されている。

私の眼は計測器ではないので、思考された「 1メートル 」を「 1メートル 」として見る事はできない。

あらゆる事が、頭脳の中でデフォルメされた上で、再構築されており、「 1メートル 」は、感覚上で、どの程度の距離なのかを知るだけである。

私の考えでは、眼は「 倒立した像 」を再倒立させて、「 倒立していない像 」を網膜に写すが、その像は、個人に、異なった「 力線 」を与える。

それが、「 意味 」であり、社会性に関連する。

「 空間 」が周波数によって決まるなら、「 時間 」も周波数によって決まるだろう。

「 宇宙の波動 」という波動が周波数であり、「 時間 」であり、生命のリズム(概日リズム)であり、思考上の「 空間 」を閉じた空間、個人の空間にすると考える。

実生活でも、時計が刻む「 時刻 」を認識するのではなく、出来事と出来事の間(ma)、間隔を「 時間 」と感じる。

「 時間 」も、光速で定義された時間ではなく、「 絶対静止の座標上 」の、今、ここの、出来事と出来事の間隔を「 時間と感じ 」、時計で確認する。

このように、「 意識 」と「 無意識 」を往来する事が、「 二本足で考える 」ことである。

ガリレオやデカルトのように、無意識の時間や空間を無視する事は、「 赤子を洗い水と一緒に流す 」ように、人間性を捨てることであり、学問を過信してはいけないと考える。


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2010年10月25日

2010/10/25、オカルト・特殊論4の帰結

2010/10/23、私の記事

時間も「 時 」と「 間 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有しているが、「 間(ma)」は、「 人 」と「 間 」を組み合わせた「 人間 」の小脳の無意識の可能性であるから、時間や空間は、目で見たり耳で聞く感覚の「 絶対静止した座標 」で判断した「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」であり、無意識が決定した価値観であるから、時間や空間が存在するという意識が生まれる。

とは、何かを書きます。

「 時 」は「 意識の時間 」であり、電磁波であり、「 間(ma)」とは、「 小脳の無意識 」の概日リズムであり、「 時間 」は意識と無意識の二重構造であると考える。

「 時 」は、コミュニケーションの道具としての時計の時間であり、ガリレオの社会的時間であり、人間性を無視した時間であり、光の速度により定義される「時間」であり、「 円 」になる波長だろう。

「間(ma)}には「 概日リズム 」を想定し、天体の運動に対する生命体のリズムで、生物的、人間的な時間であり、体内時計であり、「 楕円 」になる波長だろう。


時間の「 時 」と「 間(ma)」は意識と無意識の関係であり、人間は「 間(ma)」を無意識で決定しながら生活するのであり、時計の時間で行動せず、「 気が付いたら」あるいは、今という「 絶対静止した座標 」で判断したら、「 時計の時間 」で時間の経過を知って、社会と対話する。


「 間(ma)」の波長が「 楕円 」であるため、社会の、意識としての時間の「 円 」の波長と合致せず、暦では「 うるう年 」になり、人間生活の中では、ストレスとなると思う。


時間の意識の部分と無意識の部分を無視したのが「 ガリレオ 」であり、科学は進歩したが、心の闇は深まった。

2010/10/24、私の記事

時間も「 時 」と「 間 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有しているが、「 間(ma)」は、「 人 」と「 間 」を組み合わせた「 人間 」の小脳の無意識の可能性であるから、時間や空間は、目で見たり耳で聞く感覚の「 絶対静止した座標 」で判断した「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」であり、無意識が決定した価値観であるから、時間や空間が存在するという意識が生まれる。

空間について考えましたが、結論には至りません。

「 空 」は、空虚で、物質が何も存在しない状態という意識で、「 間(ma)」は、無意識でありますが、これは、「 無意識が空間を規定している 」と思います。

空間は、人間の感覚で決まると思います。

視覚の空間、聴覚の空間、触覚の空間など、空間は感覚ごとに「 間(ma)」が違います。


宇宙の天体が動く「 間(ma)」が空間であると思いますが、それは「 思考された空間 」であり、現実の空間とは、前述した「 感覚で規定された空間 」だと思います。

「 思考された空間 」が、「 意識 」であり、「 感覚で規定された空間 」が「 無意識 」の二重構造であると考えます。


2010/10/25、私の考え

以上の事から、「 時間 」と「 空間 」を考えました。

日本語では、時間と空間と人間は「 間(ma) 」を共有している。

「 時 」や「 空 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作れば、「 意識は光である 」から、光速あるいはそれ以上の速さで、社会の「 時間 」と「 空間 」の定義に従う。

「 間(ma)」とは無意識であり、時間では「 概日リズム 」であるし、空間は、「 感覚で規定された空間 」である事になった。

これは、人間という生命体が持つ「 間(ma)」という無意識が、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作った瞬間に、時間意識と空間意識を、「 感覚で規定された空間 」の中に作るから、「 時間 」や「 空間 」は、生命体の「 小脳の無意識 」が作る事になり、「 間(ma)」とは、意識されない「 時空 」であると考える。

「 空間 」は空虚は延長ではなく、「 間(ma)」という無意識が感覚の中で惹起する可能性の延長であると考える。

時間や空間は、天体の運動を人間が感じた意識であり、天体の運動が不明である事は「 宇宙論 」が不明である事で示されている。

天体の運動を人間が感じた意識とは、時間意識と空間意識だが、それは「 間(ma)」という感覚の中で惹起する可能性である無意識が、人間の頭の中の「 絶対静止の座標 」に「 具現化 」したのであり、「 時間 」や「 空間 」という言葉は、社会での会話が成立するクミュニケーションの道具である。

すると、私の考えは、ガリレオやデカルトとは違い、生命体が規定する「 時間 」と「 空間 」であり、人間が作り出した「 意識の作品 」である事になる。


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2010年10月24日

2010/10/24、オカルト・特殊論4の展開2

今度は、空間について考えます。

2010/10/24、私の考え


時間も「 時 」と「 間 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有しているが、「 間(ma)」は、「 人 」と「 間 」を組み合わせた「 人間 」の小脳の無意識の可能性であるから、時間や空間は、目で見たり耳で聞く感覚の「 絶対静止した座標 」で判断した「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」であり、無意識が決定した価値観であるから、時間や空間が存在するという意識が生まれる。

空間について考えましたが、結論には至りません。

「 空 」は、空虚で、物質が何も存在しない状態という意識で、「 間(ma)」は、無意識でありますが、これは、「 無意識が空間を規定している 」と思います。

空間は、人間の感覚で決まると思います。

視覚の空間、聴覚の空間、触覚の空間など、空間は感覚ごとに「 間(ma)」が違います。


宇宙の天体が動く「 間(ma)」が空間であると思いますが、それは「 思考された空間 」であり、現実の空間とは、前述した「 感覚で規定された空間 」だと思います。

「 思考された空間 」が、「 意識 」であり、「 感覚で規定された空間 」が「 無意識 」の二重構造であると考えます。

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2010年10月23日

2010/10/23、「特殊論4」の展開1

2010/10/10、私の記事

私は、「 概日リズム」は体内時計かも知れないが、この概日リズムは、地球を回るシューマン波であり、これが「 脳波 」に影響すると考えると、私の考えは一定化する。

ガリレオは、「 脳波 」のリズムを「 振り子時計 」に置き換えた事により、科学が発展したかと思うが、それは粗雑な時計に「 デフォルメ 」し、宇宙や生命のリズムの解明を放棄した点に大きな間違いを犯したと思う。


「 時間は脳波か電磁波であり、意識であり、根源は小脳の無意識にある 」と考えると人間の頭脳の脳波が地球を回るシューマン波に繋がり、「 小脳 」が作る睡眠や覚醒は細胞分裂をコントロールし、「 光 」が意識を生み、人間に時間意識や空間意識を与え、私の考えは一つになる。


時間意識や空間意識は、地球が人間に与えた道具であり、「 真の時間や空間 」ではない。

私は、それは天体の運動であると思うが、不明である。

2010/10/17、私の記事

これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


時間と言っても、意識では「 ガリレオ 」などの科学者が定義した時間は「 思考されて時間 」であり、実生活の時間や空間は、現象が惹起する「 間(ma)」の意識であり、小脳による運動可能性や身体可能性が「 空間意識 」であり、呼吸や心拍のリズムが「 時間意識 」である事は前述した。


「 ガリレオ 」が計測した「 時間 」は、「 運動 」が頭脳の「 絶対静止した座標 」で計測した現象ならば、主観的であり、「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」の主観性と変わりなく、外部の、誰でも知り得る主観的「 運動 」に転化したに過ぎず、「 ガリレオ 」は、時間が何から生まれるかを知っていたのではないと考える。


現在は、「 思考された時間 」に支配され、「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」を転化させられていると思うが、「 時間や空間は意識である 」と考え、「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」を喪失させない事が、「 人間性の復活 」であると考えるから、オカルトや特殊論と書いている。

時間も「 時 」と「 間 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有しているが、「 間(ma)」は、「 人 」と「 間 」を組み合わせた「 人間 」の小脳の無意識の可能性であるから、時間や空間は、目で見たり耳で聞く感覚の「 絶対静止した座標 」で判断した「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」であり、無意識が決定した価値観であるから、時間や空間が存在するという意識が生まれる。


頭脳の中の「 絶対静止した座標 」を廃棄すれば「 今 」や「 ここ 」が存在しなくなり、人間の存在は「 小脳の無意識 」を拡げるか縮めるか、価値観という意識を拡げるか縮めるかの違いになり、その違いは人間の「 人格 」が高いか低いかに具現化すると考える。


「 欲 」は宇宙空間の果てまで延びるが、「 エーテル 」であり、「 小脳の無意識 」の可能性であり、宇宙空間の果てまで思う事は、「 無意識 」を考える事になる。

時間や空間や人間が「 間(ma)」である結果である。

2010/10/23、私の考え

時間も「 時 」と「 間 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有しているが、「 間(ma)」は、「 人 」と「 間 」を組み合わせた「 人間 」の小脳の無意識の可能性であるから、時間や空間は、目で見たり耳で聞く感覚の「 絶対静止した座標 」で判断した「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」であり、無意識が決定した価値観であるから、時間や空間が存在するという意識が生まれる。

とは、何かを書きます。

「 時 」は「 意識の時間 」であり、電磁波であり、「 間(ma)」とは、「 小脳の無意識 」の概日リズムであり、「 時間 」は意識と無意識の二重構造であると考える。

「 時 」は、コミュニケーションの道具としての時計の時間であり、ガリレオの社会的時間であり、人間性を無視した時間であり、光の速度により定義される「時間」であり、「 円 」になる波長だろう。

「間(ma)}には「 概日リズム 」を想定し、天体の運動に対する生命体のリズムで、生物的、人間的な時間であり、体内時計であり、「 楕円 」になる波長だろう。


時間の「 時 」と「 間(ma)」は意識と無意識の関係であり、人間は「 間(ma)」を無意識で決定しながら生活するのであり、時計の時間で行動せず、「 気が付いたら」あるいは、今という「 絶対静止した座標 」で判断したら、「 時計の時間 」で時間の経過を知って、社会と対話する。


「 間(ma)」の波長が「 楕円 」であるため、社会の、意識としての時間の「 円 」の波長と合致せず、暦では「 うるう年 」になり、人間生活の中では、ストレスとなると思う。


時間の意識の部分と無意識の部分を無視したのが「 ガリレオ 」であり、科学は進歩したが、心の闇は深まった。

私は、「 時間的ストレス」を解消するために、ガリレオ以前の時間に戻りたいと思っている。

空間については、後日、書きます。

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2010年10月17日

2010/10/17、オカルト・特殊論の理由4

2010/10/10、私の記事

私は、「 概日リズム」は体内時計かも知れないが、この概日リズムは、地球を回るシューマン波であり、これが「 脳波 」に影響すると考えると、私の考えは一定化する。

ガリレオは、「 脳波 」のリズムを「 振り子時計 」に置き換えた事により、科学が発展したかと思うが、それは粗雑な時計に「 デフォルメ 」し、宇宙や生命のリズムの解明を放棄した点に大きな間違いを犯したと思う。


「 時間は脳波か電磁波であり、意識であり、根源は小脳の無意識にある 」と考えると人間の頭脳の脳波が地球を回るシューマン波に繋がり、「 小脳 」が作る睡眠や覚醒は細胞分裂をコントロールし、「 光 」が意識を生み、人間に時間意識や空間意識を与え、私の考えは一つになる。


時間意識や空間意識は、地球が人間に与えた道具であり、「 真の時間や空間 」ではない。

私は、それは天体の運動であると思うが、不明である。

2010/10/17、私の考え

これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


時間と言っても、意識では「 ガリレオ 」などの科学者が定義した時間は「 思考されて時間 」であり、実生活の時間や空間は、現象が惹起する「 間(ma)」の意識であり、小脳による運動可能性や身体可能性が「 空間意識 」であり、呼吸や心拍のリズムが「 時間意識 」である事は前述した。


「 ガリレオ 」が計測した「 時間 」は、「 運動 」が頭脳の「 絶対静止した座標 」で計測した現象ならば、主観的であり、「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」の主観性と変わりなく、外部の、誰でも知り得る主観的「 運動 」に転化したに過ぎず、「 ガリレオ 」は、時間が何から生まれるかを知っていたのではないと考える。


現在は、「 思考された時間 」に支配され、「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」を転化させられていると思うが、「 時間や空間は意識である 」と考え、「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」を喪失させない事が、「 人間性の復活 」であると考えるから、オカルトや特殊論と書いている。

時間も「 時 」と「 間 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有しているが、「 間(ma)」は、「 人 」と「 間 」を組み合わせた「 人間 」の小脳の無意識の可能性であるから、時間や空間は、目で見たり耳で聞く感覚の「 絶対静止した座標 」で判断した「 私の内なる宇宙の時間意識と空間意識 」であり、無意識が決定した価値観であるから、時間や空間が存在するという意識が生まれる。


頭脳の中の「 絶対静止した座標 」を廃棄すれば「 今 」や「 ここ 」が存在しなくなり、人間の存在は「 小脳の無意識 」を拡げるか縮めるか、価値観という意識を拡げるか縮めるかの違いになり、その違いは人間の「 人格 」が高いか低いかに具現化すると考える。


「 欲 」は宇宙空間の果てまで延びるが、「 エーテル 」であり、「 小脳の無意識 」の可能性であり、宇宙空間の果てまで思う事は、「 無意識 」を考える事になる。

時間や空間や人間が「 間(ma)」である結果である。

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2010年10月10日

2010/10/10、オカルト・特殊論の理由3

2010/10/3、私の記事

私のブログでは、「 真の時空 」は、感覚を超越して、人間では「 小脳の無意識 」で繋がっているという結論になった。

それが、具体的に何なのかという疑問になるだろう。

私は、「 概日リズム 」が「 真の時空 」であると思う。

私は、かって、RNA を「 意識 」であるとし、「 意識は太陽光から生じる 」と書いた。


脳波、ホルモン分泌、細胞の再生、その他の多くの生命活動には明確な概日リズムが存在しているとは、DNA とRNA の分裂を「 小脳 」からの「 酵素 」が可能にし、その「 小脳 」の働きそのものに概日リズムが存在すると考える。


「 意識は太陽光から生じる 」のは、そのリズムの周期が光パルスや暗パルスによってリセットされる事であり、「 睡眠 」とは、「 絶対静止の時空の座標 」を持たない状態で、「 小脳の無意識 」のリズムであり、 そのリズムが恒常的な状態(例えば恒暗状態)でも約24時間の周期を持続する「 生命体のリズム 」であり、太陽光により「 意識 」つまり、「 絶対静止の時空の座標 」を持った状態、覚醒の状態になると考える。


この「 概日リズム 」が「 真の時間 」であると考えるので、次の結論になる。



私は、ガリレオが「 心拍 」より「 振り子 」が正しい時間を示すと考え、時間を計測したとき、悪魔に心を売ったと思っている。

振り子を見ている事、何故、目で見えるのかが説明できないのに、見えない時間を計測する事が出来ると考えた事が、科学の進歩であると同時に、哲学の後退であると考える。


私は、「 心拍 」や「 呼吸 」こそが時間を決定し、身体の運動可能性が空間を決定する無意識で、これを放棄したガリレオに反対するので、オカルトであり、特殊論であると書いている。




このように、「 概日リズム」を生物が共通して持つ事は、哲学者は、この「 概日リズム 」が何故、生じるのかを考えるべきで、「 概日リズム 」を放棄して、「 絶対静止の時空の座標 」の存在を前提とする、「 振り子 」が示す物理的、思惟的時間を正当であると断定するのは、「 哲学の自殺 」に他ならない。

2010/10/10、私の考え


私は、「 概日リズム」は体内時計かも知れないが、この概日リズムは、地球を回るシューマン波であり、これが「 脳波 」に影響すると考えると、私の考えは一定化する。

ガリレオは、「 脳波 」のリズムを「 振り子時計 」に置き換えた事により、科学が発展したかと思うが、それは粗雑な時計に「 デフォルメ 」し、宇宙や生命のリズムの解明を放棄した点に大きな間違いを犯したと思う。


「 時間は脳波か電磁波であり、意識であり、根源は小脳の無意識にある 」と考えると人間の頭脳の脳波が地球を回るシューマン波に繋がり、「 小脳 」が作る睡眠や覚醒は細胞分裂をコントロールし、「 光 」が意識を生み、人間に時間意識や空間意識を与え、私の考えは一つになる。


時間意識や空間意識は、地球が人間に与えた道具であり、「 真の時間や空間 」ではない。

私は、それは天体の運動であると思うが、不明である。


参考

概日リズム(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%82%E6%97%A5%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

定義
概日リズムは、次の3つの基準で定義してよいであろう。
1. そのリズムが恒常的な状態(例えば恒暗状態)でも約24時間の周期を持続する。
2. そのリズムの周期が光パルスや暗パルスによってリセットされる。
3. そのリズムが温度補償性を持っている、つまり一定範囲内の温度において周期が変わらない。

起源
概日リズムは進化上最も古い細胞に起源を持ち、昼間の有害な紫外線下でのDNA複製を回避するために獲得した機能であると考えられている。結果として複製は夜間に行われることとなった。現存するアカパンカビ (Neurospora) は、このような時計制御された複製機構を保持している。



動物の概日リズム
概日リズムは人を含む動物において、睡眠や摂食のパターンを決定する点において重要である。脳波、ホルモン分泌、細胞の再生、その他の多くの生命活動には明確な概日リズムが存在している。

哺乳類における時計中枢は視床下部の視交叉上核
(suprachiasmatic nucleus; SCN) に存在する。

視交叉上核を破壊された動物では、規則正しい睡眠・覚醒リズムが完全になくなってしまう。

視交叉上核は光の情報を目から受け取る。

目の網膜において光を感受できる細胞は、古くから知られている視細胞の桿体細胞、錐体細胞のみではなく、網膜神経節細胞 (retinal ganglion cell) の一部にも存在する。

これらの細胞はメラノプシン (melanopsin) と呼ばれる感光色素を含んでおり、網膜視床下部路を通って視交叉上核に達する。視交叉上核の細胞は、体内から取り出され外界からの刺激がない状態で培養されても、独自のリズムを何年間も刻み続けることができる。

視交叉上核は日長の情報を網膜から受け取り、他の情報と統合し、松果体 (pineal gland) へ送信していると考えられている。

松果体ではこの情報に応答してホルモンであるメラトニン (melatonin) を分泌する。メラトニン分泌は夜間に高く昼間に低い。


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2010年10月03日

2010/10/3、オカルト・特殊論・特殊論の理由2

2010/9/24、私の記事

私の「 特殊論 」の目的は、ガリレオ以前に戻る事です。

ガリレオは、科学の基礎を築いた人で、科学の進歩により、現在の私が、パソコンでインターネットしている事には感謝しているが、私がこれまで書いて来た「 意識 」や「 無意識 」、「 時間 」や「 空間 」や「 心 」などという、人間の誰もが持っている事を哲学者が解明して来なかったと思う。

私の勉強不足で、イマヌエル・カント以外に、時間や空間を考えた有名な哲学者を知らない。

赤ん坊は、時間や空間を説明しなくても呼吸する事が出来るし、身体を動かす事も出来る。

この何万年も続いた事実を、哲学者はどのように説明するのだろうか?

私は、ガリレオが「 心拍 」より「 振り子 」が正しい時間を示すと考え、時間を計測したとき、悪魔に心を売ったと思っている。

振り子を見ている事、何故、目で見えるのかが説明できないのに、見えない時間を計測する事が出来ると考えた事が、科学の進歩であると同時に、哲学の後退であると考える。


私は、「 心拍 」や「 呼吸 」こそが時間を決定し、身体の運動可能性が空間を決定する無意識で、これを放棄したガリレオに反対するので、オカルトであり、特殊論であると書いている。


私は、以前書いたように、「 真の時間や空間 」を人間が知っているのではなく、「 時間 」や「 空間 」と言うのは、自分の「 時間意識 」や「 空間意識 」であり、「 真の時間や空間 」を知らないという点が「 客観的事実 」であると考える。



2010/9/26、私の記事


一方で、人間の五感という形態の意識が時空であり、他方で、人間は「 真の時空 」を知らないとは矛盾したことだと思うが、私の考えでは、矛盾しない。

時空の中にいて、真の時空を知らない。

意識は電磁波であり、時間意識と空間意識を生み、それを「 時間 」と「 空間 」呼んで実体化している。

実体化するのは「 小脳の無意識 」であり、意識を生むと考える。

意識は「 生まれた物 」だから、「 生んだ物 」を知らないという意味で、意識を超越した、あるいは意識する事が出来ないのが、「 時空 」であると考える。

五感は全て、「 時空 」をデフォルメして、脳の内部で再構築した感覚であり、五感という意識に共通で、五感という区別をしない「 無意識 」が、時空と関連していると考える。

「 時空 」が「 無意識 」で、目が構成する時間意識や空間意識と、耳で構成する時間意識と空間意識は同一で共通だから、神様は音を観る「 観音 」が可能であり、人間は、目で見えなくてもピアノを弾く事が可能である。

「 真の時空 」は、感覚を超越して、人間では「 小脳の無意識 」で繋がっていると考える。




2010/10/3、私の考え


私のブログでは、「 真の時空 」は、感覚を超越して、人間では「 小脳の無意識 」で繋がっているという結論になった。

それが、具体的に何なのかという疑問になるだろう。

私は、「 概日リズム 」が「 真の時空 」であると思う。

私は、かって、RNA を「 意識 」であるとし、「 意識は太陽光から生じる 」と書いた。


脳波、ホルモン分泌、細胞の再生、その他の多くの生命活動には明確な概日リズムが存在しているとは、DNA とRNA の分裂を「 小脳 」からの「 酵素 」が可能にし、その「 小脳 」の働きそのものに概日リズムが存在すると考える。


「 意識は太陽光から生じる 」のは、そのリズムの周期が光パルスや暗パルスによってリセットされる事であり、「 睡眠 」とは、「 絶対静止の時空の座標 」を持たない状態で、「 小脳の無意識 」のリズムであり、 そのリズムが恒常的な状態(例えば恒暗状態)でも約24時間の周期を持続する「 生命体のリズム 」であり、太陽光により「 意識 」つまり、「 絶対静止の時空の座標 」を持った状態、覚醒の状態になると考える。


この「 概日リズム 」が「 真の時間 」であると考えるので、次の結論になる。



私は、ガリレオが「 心拍 」より「 振り子 」が正しい時間を示すと考え、時間を計測したとき、悪魔に心を売ったと思っている。

振り子を見ている事、何故、目で見えるのかが説明できないのに、見えない時間を計測する事が出来ると考えた事が、科学の進歩であると同時に、哲学の後退であると考える。


私は、「 心拍 」や「 呼吸 」こそが時間を決定し、身体の運動可能性が空間を決定する無意識で、これを放棄したガリレオに反対するので、オカルトであり、特殊論であると書いている。




このように、「 概日リズム」を生物が共通して持つ事は、哲学者は、この「 概日リズム 」が何故、生じるのかを考えるべきで、「 概日リズム 」を放棄して、「 絶対静止の時空の座標 」の存在を前提とする、「 振り子 」が示す物理的、思惟的時間を正当であると断定するのは、「 哲学の自殺 」に他ならない。

「 うるう年 」を作り、物理的、思惟的時間の欠陥を隠すことに反対である。


参考

概日リズム(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%82%E6%97%A5%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

定義
概日リズムは、次の3つの基準で定義してよいであろう。
1. そのリズムが恒常的な状態(例えば恒暗状態)でも約24時間の周期を持続する。
2. そのリズムの周期が光パルスや暗パルスによってリセットされる。
3. そのリズムが温度補償性を持っている、つまり一定範囲内の温度において周期が変わらない。

起源
概日リズムは進化上最も古い細胞に起源を持ち、昼間の有害な紫外線下でのDNA複製を回避するために獲得した機能であると考えられている。

結果として複製は夜間に行われることとなった。

現存するアカパンカビ (Neurospora) は、このような時計制御された複製機構を保持している。



動物の概日リズム
概日リズムは人を含む動物において、睡眠や摂食のパターンを決定する点において重要である。

脳波、ホルモン分泌、細胞の再生、その他の多くの生命活動には明確な概日リズムが存在している。

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2010年09月26日

2010/9/26、オカルト・特殊論・世界は時空3

これは、私だけの考えである。

2010/9/18、私の記事

「 大脳 」の言葉での思考は「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観の存在を前提とした思考であり、それが「 世界 」であるが、私は、それを「 時空 」と考える。

意識に影響するのは、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性という「 小脳の無意識 」であると考える。


意識が五感という感覚から生まれるとすれば、五つの「 世界 」があり、その「 世界 」は現実生活であるが故に、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性を伴うから、五つの「 時空 」をヒトは持つと考える。


意識は形態を感じ、実体を決定するのは無意識であると考えるから、五感が五つの形態の意識であり、それは五つの「 小脳の無意識 」により、「 感覚の実体 」を与えられている事であると考える。


その五つの時空の総体が意識の総体であり、「 気持ち 」であり、「 気持ち 」を外部に表現する事は、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観により「 気持ち 」が行為として現れる、つまり「 意思が具現化する 」と考える。


五感が五つの形態の意識であり、それは五つの「 小脳の無意識 」により、「 感覚の実体 」を与えられるが、共通する「 小脳の無意識 」が、形態に制限されずに現れるのが、「 観音 」つまり、音を観ることだろう。


2010/9/19、私の記事


五感が感情で、「 気持ち 」ならば、五感の全てが、現実生活では、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性を伴うから、哲学者が「 感情移入 」と言うのは、五感を往復する「 時空 」であると考える。


「 時空 」と言えば、一般的には、現実に広がる時間や空間を考えるだろうが、私は、「 真の時間や空間 」を人間が知っているのではなく、時間意識や空間意識であり、人間が知るのは、「 小脳の無意識 」が作る意識であると考える。


眼で光景を見ながら行為しているのは、「 欲 」を持って、視野に時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムを自分の行為として置き換えて感じているのであり、「 共感 」と言うのも、同じ事だろう。


2010/9/26、私の考え


一方で、人間の五感という形態の意識が時空であり、他方で、人間は「 真の時空 」を知らないとは矛盾したことだと思うが、私の考えでは、矛盾しない。

時空の中にいて、真の時空を知らない。

意識は電磁波であり、時間意識と空間意識を生み、それを「 時間 」と「 空間 」呼んで実体化している。

実体化するのは「 小脳の無意識 」であり、意識を生むと考える。

意識は「 生まれた物 」だから、「 生んだ物 」を知らないという意味で、意識を超越した、あるいは意識する事が出来ないのが、「 時空 」であると考える。

五感は全て、「 時空 」をデフォルメして、脳の内部で再構築した感覚であり、五感という意識に共通で、五感という区別をしない「 無意識 」が、時空と関連していると考える。

「 時空 」が「 無意識 」で、目が構成する時間意識や空間意識と、耳で構成する時間意識と空間意識は同一で共通だから、神様は音を観る「 観音 」が可能であり、人間は、目で見えなくてもピアノを弾く事が可能である。

「 真の時空 」は、感覚を超越して、人間では「 小脳の無意識 」で繋がっていると考える。




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2010年09月24日

2010/9/24、オカルト・特殊論・特殊論の理由

私の「 特殊論 」の目的は、ガリレオ以前に戻る事です。

ガリレオは、科学の基礎を築いた人で、科学の進歩により、現在の私が、パソコンでインターネットしている事には感謝しているが、私がこれまで書いて来た「 意識 」や「 無意識 」、「 時間 」や「 空間 」や「 心 」などという、人間の誰もが持っている事を哲学者が解明して来なかったと思う。

私の勉強不足で、イマヌエル・カント以外に、時間や空間を考えた有名な哲学者を知らない。

赤ん坊は、時間や空間を説明しなくても呼吸する事が出来るし、身体を動かす事も出来る。

この何万年も続いた事実を、哲学者はどのように説明するのだろうか?

私は、ガリレオが「 心拍 」より「 振り子 」が正しい時間を示すと考え、時間を計測したとき、悪魔に心を売ったと思っている。

振り子を見ている事、何故、目で見えるのかが説明できないのに、見えない時間を計測する事が出来ると考えた事が、科学の進歩であると同時に、哲学の後退であると考える。


私は、「 心拍 」や「 呼吸 」こそが時間を決定し、身体の運動可能性が空間を決定する無意識で、これを放棄したガリレオに反対するので、オカルトであり、特殊論であると書いている。


私は、以前書いたように、「 真の時間や空間 」を人間が知っているのではなく、「 時間 」や「 空間 」と言うのは、自分の「 時間意識 」や「 空間意識 」であり、「 真の時間や空間 」を知らないという点が「 客観的事実 」であると考える。



私は、ビッグ・バン理論を採用せず、プラズマ宇宙論を信じているから、人間に走る「 脳波 」や「 心電図 」の電流は、プラズマ宇宙論と矛盾しない原因があると思うし、「 時間意識 」や「 空間意識 」という意識は、その原因から生じると考える。

頭脳の中で神経に走る電流が磁場に変わったのが「 視界 」であり、「 聴覚 」であると考えている。

「 脳波 」も「 心電図 」も、宇宙論と矛盾しない電波であり、地球を囲むシューマン共振とも矛盾しない電波であるだろうと考え、「 意識は電磁波である 」と考えている。


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2010年09月19日

2010/9/19、オカルト・特殊論・世界は時空2

これは、特殊な考えである。

2010/9/18、私の記事

「 大脳 」の言葉での思考は「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観の存在を前提とした思考であり、それが「 世界 」であるが、私は、それを「 時空 」と考える。

意識に影響するのは、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性という「 小脳の無意識 」であると考える。


意識が五感という感覚から生まれるとすれば、五つの「 世界 」があり、その「 世界 」は現実生活であるが故に、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性を伴うから、五つの「 時空 」をヒトは持つと考える。


意識は形態を感じ、実体を決定するのは無意識であると考えるから、五感が五つの形態の意識であり、それは五つの「 小脳の無意識 」により、「 感覚の実体 」を与えられている事であると考える。


その五つの時空の総体が意識の総体であり、「 気持ち 」であり、「 気持ち 」を外部に表現する事は、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観により「 気持ち 」が行為として現れる、つまり「 意思が具現化する 」と考える。


五感が五つの形態の意識であり、それは五つの「 小脳の無意識 」により、「 感覚の実体 」を与えられるが、共通する「 小脳の無意識 」が、形態に制限されずに現れるのが、「 観音 」つまり、音を観ることだろう。


2010/9/19、私の考え


五感が感情で、「 気持ち 」ならば、五感の全てが、現実生活では、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性を伴うから、哲学者が「 感情移入 」と言うのは、五感を往復する「 時空 」であると考える。


「 時空 」と言えば、一般的には、現実に広がる時間や空間を考えるだろうが、私は、「 真の時間や空間 」を人間が知っているのではなく、時間意識や空間意識であり、人間が知るのは、「 小脳の無意識 」が作る意識であると考える。


眼で光景を見ながら行為しているのは、「 欲 」を持って、視野に時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムを自分の行為として置き換えて感じているのであり、「 共感 」と言うのも、同じ事だろう。


「 欲 」を持って見ているから、「 心 」が動揺し、興奮するのも、視野に時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムを感じているからであり、社会的に考えると、時間意識は国家や民族の思想であり、出来事に「 心 」が動揺し、戦争になるのかも知れない。

自分は自分の判断で行為するが、国家や社会は自分だけの判断で行為するのは間違いだろう。

挑発的な行為に隠された「 欲 」を考えて、国益を守るのが政治家だろう。

自分を考えない、哲学を持たない単純な考えの政治家が多くて困るのは国民である。


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2010年09月18日

2010/9/18、オカルト・特殊論・世界は時空

私の考えは特殊である。

私は、脳細胞が動くのは「 脳波 」として、心臓が動くのは心電図として、前者の「 意識 」と後者の「 無意識 」は、気(ki)という生命を維持する電流により発生すると考える。

それが、私の「 生気論 」であり源は「 プラズマ宇宙論 」であると考える。

脳細胞の意識は電磁波の構造を持ち、意識の総体は「 霊 」であり「 人格 」であると考える。

「 大脳 」の言葉での思考は「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観の存在を前提とした思考であり、それが「 世界 」であるが、私は、それを「 時空 」と考える。

意識に影響するのは、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性という「 小脳の無意識 」であると考える。


意識が五感という感覚から生まれるとすれば、五つの「 世界 」があり、その「 世界 」は現実生活であるが故に、時間意識に影響する呼吸や心拍のリズムと空間意識に影響する身体運動可能性を伴うから、五つの「 時空 」をヒトは持つと考える。


意識は形態を感じ、実体を決定するのは無意識であると考えるから、五感が五つの形態の意識であり、それは五つの「 小脳の無意識 」により、「 感覚の実体 」を与えられている事であると考える。


その五つの時空の総体が意識の総体であり、「 気持ち 」であり、「 気持ち 」を外部に表現する事は、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観により「 気持ち 」が行為として現れる、つまり「 意思が具現化する 」と考える。


五感が五つの形態の意識であり、それは五つの「 小脳の無意識 」により、「 感覚の実体 」を与えられるが、共通する「 小脳の無意識 」が、形態に制限されずに現れるのが、「 観音 」つまり、音を観ることだろう。

これは、画家が絵画から音楽を連想させたり、音楽家が音楽から景色を連想させたりする事だろう。

これは、五感の「 世界 」に共通する「 小脳の無意識 」が存在するから可能であり、画家が絵画から音楽を連想させるのは、絵画という空間と音楽という時間を「 小脳の無意識 」が作り出すのだと考える。

時間と空間が一体となった物を求めるのが本質を求める事であり、ビッグ・バンにより散らばった時空を一つにするのが芸術かもしれない。


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2010年09月11日

2010/9/11、オカルト・特殊論・心脳問題2

「 脳は心を記述する事が出来るか 」

2010/9/6、私の記事

このような私の結論から、「 脳は心を記述できるか 」という問いには、否定的に考える。

あるウェブサイトで、精神科医師と脳科学者が、書簡を交わしていたが、精神科医師は、「 欲 」である「 心 」についての記述については書かず、「 心 」は言葉で記述する事が可能と言うし、脳科学者は、「 小脳 」の働きを考慮せず、脳の問題を言葉の問題にしていると思った。

ウェブサイトは、現在、閉鎖されている。


「 大脳 」の言葉での思考は「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観の存在を前提とした思考であり、脳を「 小脳 」を含めて考える時、行動に直結する「 欲 」を考える事が不可欠だと思う。


精神科医師や脳科学者は、第六感や透視などのオカルト的な直感を言葉で表現する事は出来ないと思う。


精神科医師や脳科学者は、「 時空を作る小脳の無意識 」、あるいは「 感受性 」を、考える事は無いだろうし、合理的で実証する範囲で止まるのが科学者の任務だと考えているからだ。

閉鎖した書簡が「 本 」になっても、商業主義の「 本 」だから、購入しないだろう。

「 書 」を捨てて、科学以前の、ガリレオ以前の時空に戻る事を目的とした私のブログでは、精神科医師や脳科学者の議論は不毛であるという結論になる。


2010/9/11、私の考え

閉鎖した書簡が「 本 」になって発売されている。

46版、並製、388ページ
2010年8月25日発売
定価2,000円(税5%)
ISBN978-4-902465-17-4

興味を持つヒトは購入するだろうが、私は買わない。

精神科医は、「 心 」について述べず、脳科学者は「 小脳 」や脳幹など、大脳に影響する周辺については沈黙している。

両者は、「 言葉遊び 」の段階で、本職の医師や科学者としての考えが無い。

両者は、本職から離れた「 クオリア」という言葉を議論している。

「 クオリア 」というのが、「 光 」のある周波数が脳で一定の「 質感 」を生む事だと解釈すれば、文化と人格について述べたように、「 質感 」は文化が個人の人格として具現化したもので、「 脳 」の問題より、価値観を前提とした「 哲学 」の問題であり、「 哲学 」を持たない精神科医や脳科学者に回答を求めるのは間違いだろう。

「 哲学 」を持たない精神科医や脳科学者に、文化や人格が理解する事が出来ないのは当然であり、両者は、根本的に「 クオリア」の問題を考えていない。

両者の本を読んで回答を求めるより、自分で考えた方が良いと思う。

「 書 」を捨てて、自分で考えるのが良い。

私は、両者の書簡で「 心 」が議論されると思っていたが、誤算だった。

「 心 」や「 脳 」は自分で考えよう。

人間は、ヒトから教えられなくても、誰でも自分の「 心 」や「 脳 」を持っている。

「 心 」や「 脳 」について、精神学会や脳科学学会では、答えが無いというのは書簡を見て理解した。

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2010年09月06日

2010/9/6、オカルト・特殊論・心脳問題

「 脳は心を記述できるか」

2010/9/4、私の記事

人間は宇宙の産物であれば、物理の数式が、意識と無意識に応用する事が出来ないだろうかと考えた。

E=mC2

Eを「 欲 」、mを「 DNAやRNA 」、Cは意識の電磁波と無意識の電磁波があり、Cの二乗は両者を乗じた速度ベクトルと考える。

「 欲 」は「 小脳の無意識 」であり「 心 」であり、広大に広がった可能性だと考える。

「 心 」=「 DNA 」×「 意識の光 」×「 無意識の光 」となる。

右辺は、「 ハスの花 」のように、普通は意識と無意識が分かれているが、「 修行 」や「 三昧 」の状態になる事で、「 我 」は「 自意識で囲まれた欲望 」であり、「 自意識の囲い 」を解いて小脳の無意識になって、右辺が統合される。

「 心 」は意識と無意識の総体で、「 霊 」と考える。

「 心 」の状態が「 六道 」であり、右辺の構成要素の違いで、「 六道 」に分類される。

「 肉欲が強く忘れがたいヒト 」の行動や心は「 地獄 」や「 餓鬼 」に見えるだろう。

それを克服する事が「 修行 」かも知れない。

この「 小脳の無意識 」を創造する力は、「 阿弥陀仏 」が持っていて、「 阿弥陀仏が時空である 」から、自分が作る時空を超越し、その力が、人間一人ひとりの「 小脳 」となり、「 生命 」となり、一人ひとりの「小脳が時空を作る 」と考える。

人類が持つ全ての時空は、「 絶対静止の座標軸 」の存在を前提とした「 阿弥陀仏 」の時空であり、天体の運動である真の時空ではないかも知れない。

2010/9/5、私の記事

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。


「 心 」を「 小脳の無意識 」(つまり、心拍や呼吸や身体運動可能性)と考え、それらは、生来、与えられる資質だと考える。

この「 小脳の無意識 」を創造する力は、「 阿弥陀仏 」が持っていて、「 阿弥陀仏が時空である 」から、自分が作る時空を超越し、その力が、人間一人ひとりの「 小脳 」となり、「 生命 」となり、一人ひとりの「小脳が時空を作る 」と考える。


脳を次のように考えた。

「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。

意識は、脳が持つ「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観の存在を前提とした「 電磁波 」であり、生物的な遺伝子や食物のエネルギーや文化という関係の重なりと、「 絶対静止の座標軸 」である自意識により、「 我 」が成立していると考える。

「 我 」の及ぶ範囲、脳で考える事が可能な範囲は次のとうりである。

「 心 」=「 DNA 」×「 意識の光 」×「 無意識の光 」となる。

右辺は、「 ハスの花 」のように、普通は意識と無意識が分かれているが、「 修行 」や「 三昧 」の状態になる事で、「 我 」は「 自意識で囲まれた欲望 」であり、「 自意識の囲い 」を解いて小脳の無意識になって、右辺が統合される。

脳で考えられる限度が「 小脳の無意識 」、「 心 」であるが、この「 小脳の無意識 」を創造する力は、「 阿弥陀仏 」が持っていて、「 阿弥陀仏が時空である 」から、自分が作る時空を超越し、その力が、人間一人ひとりの「 小脳 」となり、「 生命 」となり、一人ひとりの「小脳が時空を作る 」と考える。

「 心 」と脳は、池に浮かぶ「 ハスの花 」に似て、花と池を往来する共通の物は「 時空 」であると思う。

「 ハスの花 」を「 思想 」と考えた時、次のような結果になる。

「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であり、「 時空の可能性 」であると考える。



2010/9/6、私の考え


このような私の結論から、「 脳は心を記述できるか 」という問いには、否定的に考える。

あるウェブサイトで、精神科医師と脳科学者が、書簡を交わしていたが、精神科医師は、「 欲 」である「 心 」についての記述については書かず、「 心 」は言葉で記述する事が可能と言うし、脳科学者は、「 小脳 」の働きを考慮せず、脳の問題を言葉の問題にしていると思った。

ウェブサイトは、現在、閉鎖されている。


「 大脳 」の言葉での思考は「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観の存在を前提とした思考であり、脳を「 小脳 」を含めて考える時、行動に直結する「 欲 」を考える事が不可欠だと思う。


精神科医師や脳科学者は、第六感や透視などのオカルト的な直感を言葉で表現する事は出来ないと思う。


精神科医師や脳科学者は、「 時空を作る小脳の無意識 」、あるいは「 感受性 」を、考える事は無いだろうし、合理的で実証する範囲で止まるのが科学者の任務だと考えているからだ。

閉鎖した書簡が「 本 」になっても、商業主義の「 本 」だから、購入しないだろう。

「 書 」を捨てて、科学以前の、ガリレオ以前の時空に戻る事を目的とした私のブログでは、精神科医師や脳科学者の議論は不毛であるという結論になる。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年09月05日

2010/9/5、オカルト・特殊論・結論

「 ハス 」を考えると、「 ハスの花 」と水中の茎や「 池 」に分けられる。

前者が「 意識 」や「 精神の世界 」であり、「 大脳の世界 」であり、後者は、「 小脳 」の無意識 」の世界であり、「 心 」であると考えるようになった。


「 ハス 」は「 睡蓮 」であり、夜になると花を閉じるという。

これは、睡眠と同じで、夜、大脳が休むが小脳は大脳を覚醒させる働きに似ている。


茎や池が表現するのは、「 ハスの花 」を「 花 」として咲かせる生命力であり、「 花 」の生命力、言い換えると「 花 」の生存欲であると同時に、池が持つ生存させる力であり、それが「 花 」に及ぶ範囲が「 心 」である。


「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

そう考えると、「 ハス 」は「 人格 」であり、「 文化 」である事になる。

仏陀から見た「 ハス 」の色は、「 人格 」の色、価値観の色、つまり「 六道 」の色かも知れない。

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。


2010/8/29、私の記事
「 我 」は何だろう。

「 我 」は、物質面では宇宙の一部であり、宇宙空間(エーテル)が私の体の隅々にまで浸透し、宇宙に対して独自性が無いという点では、「 無我 」であろう。

生物的な遺伝子や食物のエネルギーや文化という関係の重なりと、「 絶対静止の座標軸 」である自意識により、「 我 」が成立していると考える。

「 絶対静止空間という座標軸 」は、心拍や呼吸のリズムと身体運動可能性という「 小脳 」の無意識から生じると思う。

人工衛星の中で生まれて育った人類が基準とする「 絶対静止空間座標 」は、重力が無く、上下左右の意識も無く「 小脳 」の無意識、生命力による意識という電磁波により、時空を形成するだろう。

重力が存在し、鈍感な知覚を持つ事を自覚しないヒトは、「 時空は客観的だ 」と感じるかも知れないが、地球は自転し、太陽系も宇宙の位置を変えているので、「 同時性 」はもちろん、客観的時空などは、思考されたものであり存在しない。

重力が存在し、鈍感な知覚を持ち「 時空は客観的だ 」と感じるから、「 我 」が、そのヒトの頭脳の中だけに存在する。

従って「 我 」とは、鈍感な感覚の産物であるが、保身の為には必要だろう。

区切られないものを区切るのは「 意識 」だから、意識の世界が「 我 」の世界である。

私は、「 無我 」ではなく「 大我(大きな我) 」を求める方が発展的だと思う。

人間は行動する。

行動が意識を決定するのが「 欲 」であれば、「 欲 」は無意識に属するだろう。

「 意識 」と「 欲 」に関しては、先日、考えた「 意識 」と「 心 」の事と重複する。

「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

そう考えると、「 ハス 」は「 人格 」であり、「 文化 」である事になる。

仏陀から見た「 ハス 」の色は、「 人格 」の色、価値観の色、つまり「 六道 」の色かも知れない。

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。



このように、「 ハスの花 」が意識界であり、「 池 」が無意識界であり、「 ハスの花 」と「 池 」とを往来するエネルギーが「 時空 」であると思う。

2010/9/4、私の記事

人間は宇宙の産物であれば、物理の数式が、意識と無意識に応用する事が出来ないだろうかと考えた。

E=mC2

Eを「 欲 」、mを「 DNAやRNA 」、Cは意識の電磁波と無意識の電磁波があり、Cの二乗は両者を乗じた速度ベクトルと考える。

「 欲 」は「 小脳の無意識 」であり「 心 」であり、広大に広がった可能性だと考える。

「 心 」=「 DNA 」×「 意識の光 」×「 無意識の光 」となる。

右辺は、「 ハスの花 」のように、普通は意識と無意識が分かれているが、「 修行 」や「 三昧 」の状態になる事で、「 我 」は「 自意識で囲まれた欲望 」であり、「 自意識の囲い 」を解いて小脳の無意識になって、右辺が統合される。

「 心 」は意識と無意識の総体で、「 霊 」と考える。

「 心 」の状態が「 六道 」であり、右辺の構成要素の違いで、「 六道 」に分類される。

「 肉欲が強く忘れがたいヒト 」の行動や心は「 地獄 」や「 餓鬼 」に見えるだろう。

それを克服する事が「 修行 」かも知れない。

この「 小脳の無意識 」を創造する力は、「 阿弥陀仏 」が持っていて、「 阿弥陀仏が時空である 」から、自分が作る時空を超越し、その力が、人間一人ひとりの「 小脳 」となり、「 生命 」となり、一人ひとりの「小脳が時空を作る 」と考える。

人類が持つ全ての時空は、「 絶対静止の座標軸 」の存在を前提とした「 阿弥陀仏 」の時空であり、天体の運動である真の時空ではないかも知れない。

2010/9/5、私の考え

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。


「 心 」を「 小脳の無意識 」(つまり、心拍や呼吸や身体運動可能性)と考え、それらは、生来、与えられる資質だと考える。

この「 小脳の無意識 」を創造する力は、「 阿弥陀仏 」が持っていて、「 阿弥陀仏が時空である 」から、自分が作る時空を超越し、その力が、人間一人ひとりの「 小脳 」となり、「 生命 」となり、一人ひとりの「小脳が時空を作る 」と考える。


脳を次のように考えた。

「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。

意識は、脳が持つ「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」という価値観の存在を前提とした「 電磁波 」であり、生物的な遺伝子や食物のエネルギーや文化という関係の重なりと、「 絶対静止の座標軸 」である自意識により、「 我 」が成立していると考える。

「 我 」の及ぶ範囲、脳で考える事が可能な範囲は次のとうりである。

「 心 」=「 DNA 」×「 意識の光 」×「 無意識の光 」となる。

右辺は、「 ハスの花 」のように、普通は意識と無意識が分かれているが、「 修行 」や「 三昧 」の状態になる事で、「 我 」は「 自意識で囲まれた欲望 」であり、「 自意識の囲い 」を解いて小脳の無意識になって、右辺が統合される。

脳で考えられる限度が「 小脳の無意識 」、「 心 」であるが、この「 小脳の無意識 」を創造する力は、「 阿弥陀仏 」が持っていて、「 阿弥陀仏が時空である 」から、自分が作る時空を超越し、その力が、人間一人ひとりの「 小脳 」となり、「 生命 」となり、一人ひとりの「小脳が時空を作る 」と考える。

「 心 」と脳は、池に浮かぶ「 ハスの花 」に似て、花と池を往来する共通の物は「 時空 」であると思う。

「 ハスの花 」を「 思想 」と考えた時、次のような結果になる。

「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であり、「 時空の可能性 」であると考える。

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2010年09月04日

2010/9/4、オカルト・特殊論5、目覚め

僧侶が、なぜ「 三昧 」を求めて修行するのか、結論に至らなかった。

そして、どうしても、ガンジーや上杉謙信が言った「 死中生有り、生中生無し 」の言葉が思い出された。


修行や「 三昧 」の状態は、意識と無意識の区別が無くなる事だと思うが、私は、「 我 」は「 自意識で囲まれた欲望 」であり、「 自意識の囲いを解いて小脳の無意識になる事 」が「 三昧 」だと考える。

自己の「 欲望 」ではなく、人間としての「 欲 」を知る事、あるいは、宇宙を飛び交う光のように、自己の意識の電磁波のエネルギーである「 気(ki)」が無意識の「 池 」の中に没する反面、意識の電磁波が無意識の「 エーテル体 」に拡大する事が「 目覚め 」であり、「 悟り 」だろう。

これが、「 死中生有り 」の意味だと考える。

「 欲 」は「 小脳の無意識 」であり「 心 」であり、広大に広がった可能性だと考えると、「 欲望 」に囚われている時は価値観という重力が及ぶ気(ki)が充満した「 我欲 」であり、「 小脳の無意識 」の範囲には及ばない。

これが「 生中生無し 」の意味だと考える。

有るとか無いとか言う「 生 」は「 小脳の無意識 」であり、「 死 」や「 生 」の欲望の下に隠れていると考える。


人間は宇宙の産物であれば、物理の数式が、意識と無意識に応用する事が出来ないだろうかと考えた。

E=mC2

Eを「 欲 」、mを「 DNAやRNA 」、Cは意識の電磁波と無意識の電磁波があり、Cの二乗は両者を乗じた速度ベクトルと考える。

「 欲 」は「 小脳の無意識 」であり「 心 」であり、広大に広がった可能性だと考える。

「 心 」=「 DNA 」×「 意識の光 」×「 無意識の光 」となる。

右辺は、「 ハスの花 」のように、普通は意識と無意識が分かれているが、「 修行 」や「 三昧 」の状態になる事で、「 我 」は「 自意識で囲まれた欲望 」であり、「 自意識の囲い 」を解いて小脳の無意識になって、右辺が統合される。

「 心 」は意識と無意識の総体で、「 霊 」と考える。

「 心 」の状態が「 六道 」であり、右辺の構成要素の違いで、「 六道 」に分類される。

「 肉欲が強く忘れがたいヒト 」の行動や心は「 地獄 」や「 餓鬼 」に見えるだろう。

それを克服する事が「 修行 」かも知れない。

この「 小脳の無意識 」を創造する力は、「 阿弥陀仏 」が持っていて、「 阿弥陀仏が時空である 」から、自分が作る時空を超越し、その力が、人間一人ひとりの「 小脳 」となり、「 生命 」となり、一人ひとりの「小脳が時空を作る 」と考える。

人類が持つ全ての時空は、「 絶対静止の座標軸 」の存在を前提とした「 阿弥陀仏 」の時空であり、天体の運動である真の時空ではないかも知れない。

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2010年08月29日

2010/8/29、オカルト・特殊論4・我と大我

2010/8/27、私の記事

ハスの姿を、清らかさや聖性の象徴と考えるのではなく、「 意識の世界 」が「 無意識の世界 」から生じ、「 花 」のエネルギーは「 泥 」から得ると考える。

「 我 」を「 ハスの花 」と考え、「 大我 」を「 ハスが浮かぶ池 」あるいは「 宇宙 」と考える。



2010/8/29、私の考え

「 我 」は何だろう。

「 我 」は、物質面では宇宙の一部であり、宇宙空間(エーテル)が私の体の隅々にまで浸透し、宇宙に対して独自性が無いという点では、「 無我 」であろう。

生物的な遺伝子や食物のエネルギーや文化という関係の重なりと、「 絶対静止の座標軸 」である自意識により、「 我 」が成立していると考える。

「 絶対静止空間という座標軸 」は、心拍や呼吸のリズムと身体運動可能性という「 小脳 」の無意識から生じると思う。

人工衛星の中で生まれて育った人類が基準とする「 絶対静止空間座標 」は、重力が無く、上下左右の意識も無く「 小脳 」の無意識、生命力による意識という電磁波により、時空を形成するだろう。

重力が存在し、鈍感な知覚を持つ事を自覚しないヒトは、「 時空は客観的だ 」と感じるかも知れないが、地球は自転し、太陽系も宇宙の位置を変えているので、「 同時性 」はもちろん、客観的時空などは、思考されたものであり存在しない。

重力が存在し、鈍感な知覚を持ち「 時空は客観的だ 」と感じるから、「 我 」が、そのヒトの頭脳の中だけに存在する。

従って「 我 」とは、鈍感な感覚の産物であるが、保身の為には必要だろう。

区切られないものを区切るのは「 意識 」だから、意識の世界が「 我 」の世界である。

私は、「 無我 」ではなく「 大我(大きな我) 」を求める方が発展的だと思う。

人間は行動する。

行動が意識を決定するのが「 欲 」であれば、「 欲 」は無意識に属するだろう。

「 意識 」と「 欲 」に関しては、先日、考えた「 意識 」と「 心 」の事と重複する。

「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

そう考えると、「 ハス 」は「 人格 」であり、「 文化 」である事になる。

仏陀から見た「 ハス 」の色は、「 人格 」の色、価値観の色、つまり「 六道 」の色かも知れない。

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。



このように、「 ハスの花 」が意識界であり、「 池 」が無意識界であり、「 ハスの花 」と「 池 」とを往来するエネルギーが「 時空 」であると思う。

意識が無意識の中に消えた「 無我 」ではなく、無意識の上に拡大した意識である「 大我(大きな我)」の獲得が、「 二本足の考えで歩く事 」である。


それは、無意識から意識を創り出すことである。

画家ならば、色や構図であるし、写真家であれば被写体の構図であるし、音楽家は、「 心に響く 」音、不安や喜びを惹起させる音楽だろう。

それらが共通するのは、「 観衆の中に時空が生まれる事 」、「 一体となった時空 」であると思う。

それは、時間と空間の常識を超えたという意味での「 存在 」であり、未来へ続くと思う。


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2010年08月28日

2010/8/28、オカルト・特殊論3・ハスの花

2010/8/27、私の記事

私の誤りは、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉を、「 本 」や世間から教えられたように、「 清らかさや聖性の象徴 」であると思った事である。


2010/8/28、考えた事


「 本 」や世間から教えられている事を疑わないから、「 我 」も「 大我 」も不明のままなのだと思う。

仏陀が、「 ハスの花 」で、何を象徴していたのかなど、渡来の仏教で、判明する筈もない。

「 ハスの花 」のように生きようと思っていたが、大きな間違いだと思うようになった。

穢れた泥の中に根をはって、水上へと茎を出し、花を咲かせる姿が、人間の理想だと思うのは一つの価値観である。

しかし、そこで止まると、進歩は無くなる。

「 ハス 」を「 人間 」に置き換えると、生物的にも文化的にも、「 池 」という環境に助けられて生きる人間像が連想される。

「 ハス 」を考えると、「 ハスの花 」と水中の茎や「 池 」に分けられる。

前者が「 意識 」や「 精神の世界 」であり、「 大脳の世界 」であり、後者は、「 小脳 」の無意識 」の世界であり、「 心 」であると考えるようになった。


「 ハス 」は「 睡蓮 」であり、夜になると花を閉じるという。

これは、睡眠と同じで、夜、大脳が休むが小脳は大脳を覚醒させる働きに似ている。


茎や池が表現するのは、「 ハスの花 」を「 花 」として咲かせる生命力であり、「 花 」の生命力、言い換えると「 花 」の生存欲であると同時に、池が持つ生存させる力であり、それが「 花 」に及ぶ範囲が「 心 」である。


「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

そう考えると、「 ハス 」は「 人格 」であり、「 文化 」である事になる。

仏陀から見た「 ハス 」の色は、「 人格 」の色、価値観の色、つまり「 六道 」の色かも知れない。

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。



あっちの池と、こっちの池で、花の生育が違うように、「 系 」の価値観(慣性系もひとつの価値観)により「 花 」が相違するので、「 特殊論 」と名づけている。

私は、「 ハスの花 」を見て満足するのではなく、「 ハスの花 」から、茎や池へと、意識から生きるエネルギーへ変身する事が、意識から無意識に重点を移す事が、「 我 」を知る結果になると考える。


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2010年08月27日

2010/8/27、オカルト・特殊論2・あらすじ

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私は、「 本 」を捨てて、自分で考える事に決めた。

私の誤りは、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉を、「 本 」や世間から教えられたように、「 清らかさや聖性の象徴 」であると思った事である。


泥の中から、茎を出して、水上に花を開く「 ハス 」を、清らかさや聖性の象徴と考えるのではなく、「 ハスの花 」は「 意識の世界 」で、「 泥 」というのは、「 無意識の世界 」と考えると、私の「 二本足の考え 」と合致する。


ハスの姿を、清らかさや聖性の象徴と考えるのではなく、「 意識の世界 」が「 無意識の世界 」から生じ、「 花 」のエネルギーは「 泥 」から得ると考える。

「 我 」を「 ハスの花 」と考え、「 大我 」を「 ハスが浮かぶ池 」あるいは「 宇宙 」と考える。



仏教では「 無我 」というから「 大我 」は無いというのは、言葉遊びの哲学者が言う事で、「 我 」を真剣に考えた事のないヒトの言葉であると思う。


「 三昧 」とは、「 意識の世界 」から「 無意識の世界 」に重点を移す事であり、「 花 」から「 泥の池 」の中に中心を移す事であり、「 我 」を消して「 大我 」を把握することであると思う。


この「 三昧 」に入る行為を、「 二本足で歩く事 」であると考えている。


以上が、「 特殊論 」のあらすじです。



参考

ハス(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9

ハスの花、すなわち蓮華は、清らかさや聖性の象徴として称えられることが多かった。 「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という日本人にも馴染みの深い中国の成句[3]が、その理由を端的に表している。


仏教
仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されている。如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしている。主に寺院では仏前に「常花」(じょうか)と呼ばれる金色の木製の蓮華が置かれている。一方で、仏教国チベットでは標高が高く生育しないため、想像でかかれたのかチベット仏教寺院では日本に比べ、かなり変形し、その絵はほんのり赤みがかった白い花として描かれている。 ただし、仏教でいう蓮は本来は睡蓮のことである。

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