2011年05月29日

2011/5/29、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」4

2011/5/21、私の記事

「 今 」と「 ここ 」が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」と考え、それらは、無意識のバイオリズムで決定され、その代表を「 呼吸 」と考えたが、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間ではなく、「 無意識により静止を作る一つの関係 」であると思う。

日本語では「 瞬間 」は「 間(ma)」という文字を含み、「 今 」は「 瞬間 」と呼ばれる。

空気という気(ki)を取り込み、体内の電気(dennki)に変換する場所を「 ここ 」とすれば、「 ここ 」は、肺や身体の皮膚全体であり、「 ここ 」という空間は、天体との関係で決まる。

無限の宇宙が自分の身体の中に入り込んで、呼吸によりエネルギーが変換される「 ここ 」は、無限の宇宙の広がりの中の一点であり誰も知る事は出来ず、自己決定事項である。


この事が、「 欲 」の根底に存在し、「 無明 」と呼ぶもので、ここから、「 欲 」のエネルギーが宇宙の向かって放散し、「 遠近 」という欲の「 間(ma)の関係 」を作ると考える。

2011/5/22、私の記事

以上のように、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間の問題ではなく、「 関係 」の問題であるという結論になった。

「 明日 」という「 時間 」があるから、「 現在 」を懸命に生きるのではなく、将来、呼吸するであろう「 明日 」の現実性に「 関係する 」現在だから、明日に続く、現在の無意識の可能性を懸命に探さなくてはならないのだと思う。

明日という「 時間 」があるからでなく、生きている以上は続く呼吸とういう無意識が形成する、無意識の「 可能性 」が「 明日に続く 」と考えるから、現在の可能性を模索するのである。


2011/5/29、私の考え


私の考えは、無意識はバイオリズムから生じ、気(ki)というエネルギーと情(zyou)という感覚可能な意識で作られ、バイオリズムを生むのは「 呼吸 」であり、小脳の運動可能性である。

この「 呼吸 」が、「 現在 」という時制を作り、「 今 」という情報を静止させる情(zyou)を作る。

「 現在 」や「 今 」は、個人的なバイオリズムの産物であり、「 定義 」は個人の自由である。

以下は、私の考えであるから、無視しても良いと思う。







「 今 」や「 ここ 」が「 関係 」の問題である。

「 今 」や「 ここ 」が何かを追求しても、「 私が生きている事 」や「 私が呼吸している事 」に突き当たる。

「 今、何時ですか?」「 What time is it now? 」と言う時、「 今 」「 Now 」は時間ではない。


「 今 」は過去と未来の間(ma)の現在であり、「 現在 」という時制を決める間(ma)である。

私は、現在で呼吸するのであり、現在は呼吸と共に過去になる状態が「 無常 」というのだと思う。

「 今 」は、「 呼吸 」により連続し、「 呼吸 」は、意識的な息を吸ったり吐いたりする事ではなく、肺や皮膚の動きであり、意識して息を止めていても、肺が動いている限り、「 呼吸 」であり、「 今 」が連続している。

私は「 呼吸 」を、バイオリズムの身体のリズムであると思い、大気(taiki)で体内の気(ki)というエネルギーを変換し、頭脳の中で意識や無意識を生じさせて、感情や知性のリズムの情(zyou)を生み、情(zyou)が「 現在 」であると思う。

「 現在 」は、無意識の時間や空間では間(ma)として存在し、意識の中では「 今 」という情(zyou)として、呼吸の気(ki)と共に、現れて消える。

しかし、過去の事象は「 呼吸 」とは無関係に未来に連結しているので、「 現在 」という時制の中で、未来へ連結する事象の関係という情(zyou)が「 可能性 」である思う。

「 今 」や「 現在 」という、未来に影響する間(ma)で、未来へ連結する事象の関係という情(zyou)が持つ気(ki)というエネルギーが大きいのが、未来への可能性であるかも知れない。


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2011年05月22日

2011/5/22、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」3

2011/5/21、私の記事

「 今 」と「 ここ 」が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」と考え、それらは、無意識のバイオリズムで決定され、その代表を「 呼吸 」と考えたが、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間ではなく、「 無意識により静止を作る一つの関係 」であると思う。

日本語では「 瞬間 」は「 間(ma)」という文字を含み、「 今 」は「 瞬間 」と呼ばれる。

空気という気(ki)を取り込み、体内の電気(dennki)に変換する場所を「 ここ 」とすれば、「 ここ 」は、肺や身体の皮膚全体であり、「 ここ 」という空間は、天体との関係で決まる。

無限の宇宙が自分の身体の中に入り込んで、呼吸によりエネルギーが変換される「 ここ 」は、無限の宇宙の広がりの中の一点であり誰も知る事は出来ず、自己決定事項である。


この事が、「 欲 」の根底に存在し、「 無明 」と呼ぶもので、ここから、「 欲 」のエネルギーが宇宙の向かって放散し、「 遠近 」という欲の「 間(ma)の関係 」を作ると考える。

2011/5/22、私の考え


以上のように、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間の問題ではなく、「 関係 」の問題であるという結論になった。

「 明日 」という「 時間 」があるから、「 現在 」を懸命に生きるのではなく、将来、呼吸するであろう「 明日 」の現実性に「 関係する 」現在だから、明日に続く、現在の無意識の可能性を懸命に探さなくてはならないのだと思う。

明日という「 時間 」があるからでなく、生きている以上は続く呼吸とういう無意識が形成する、無意識の「 可能性 」が「 明日に続く 」と考えるから、現在の可能性を模索するのである。


日本語の時間や空間や人間の共通する、「 間(ma)」が、バイオリズムにより生まれる無意識の可能性となって、過去と現在と未来を貫通するから、「 間(ma)」を通して「 永遠 」という時間的に永く存続する「 関係 」を探すのだと思う。

そして、「 呼吸 」から生まれる間(ma)とは何か。

それは、言語や音楽などの全ての「 文化 」を間(ma)が生むと考える。

リズムは自然界に存在するというのが賢明な考えだが、私はリズムは自分が作るのだと思う。

自分が持つ間(ma)即ちリズムに、自然界のリズムを適用したのが「 音楽 」であり、自分のストレスや情報のリズムという間(ma)に自然界の音を適用したのが「 言語 」だと思う。

言語も発音を伴うから、音楽の一種であり、歌謡曲も落語や漫才などの芸能が持つ間(ma)も音楽の一種であり、間(ma)を継承していくのが、国の文化であると思う。

間(ma)は、時間や空間などの思考の道具ではなく、過去から現在を通して未来へ続く「 可能性 」であり、時間や空間という概念を生むのだと思う。

日本の「 能 」や「 歌舞伎 」や「 浪曲 」などは、単純な内容を様々な抑揚(リズム)で表現するが、それは、「 時間を楽しんでいる 」のだと思う。

これまで書いたように、究極の情報伝達は、小脳の運動可能性を言語や文化という抑揚(リズム)に頼らず、直接伝える事である。

それは、テレパシーのようなものであり、人間一般に期待する事は出来ないから、言語の抑揚(リズム)で定義した伝達方法を使う。

その結果、茶道や華道などの「 道(miti)の文化 」が発達したと考える。

それら、文化の全ての根源は、バイオリズムが生む小脳の無意識の運動可能性である間(ma)であり、過去と現在と未来を貫通すると思う。


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2011年05月21日

2011/5/21、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」2

2011/5/14、私の記事


「 今 」や「 ここ 」を決定するのは何か。

それは、小脳の機能である「 呼吸 」により決まると、現在では、考えている。

「 過去 」に呼吸する事は出来ず、「 未来 」に呼吸する事も出来ない。

呼吸するのは、「 現在 」だけであり、その呼吸している間(ma)が「 今 」という現実的な時間であり、それを「 意識 」により天体の運動に関連させたのが、社会の一般的な「 時間 」であると考える。
(これが、上記のCである)

呼吸している間(ma)が、「 今 」であると思う。


他方、人間は、呼吸により生命を維持している。

目覚めている時も就寝中でも呼吸をしている。

呼吸は、大気(taiki)という気(ki)を人間の体内でエネルギーに変えて生きている。

人間は肺だけでなく、人間の身体全体の皮膚の穴からも呼吸し、その呼吸可能な範囲の間(ma)(or hazama)を「 主観的空間 」と考え、「 意識 」により拡大して具現化したのが「 空間 」だと思う。
(これが、上記のCである)

人間の体内で、エネルギーに変換する所、(自分の身体の所在)が「 ここ 」であると、現在では考えている。

「 主観的時間 」も「 主観的空間 」も個人の無意識が決定するから、無意識が「 欲 」であるため、「 今 」という時制も、自分の安定した習慣的な能力に比べる事により生じる「 遠近 」も、「 欲 」の表現であり、普通の生活は「 欲の集約状況 」であると思う。
(上記のBである)


従って、上記@の、共通項は「 呼吸 」であり、呼吸が「 間(ma)」を一致させると考える。


2011/5/21、私の考え


「 今 」と「 ここ 」が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」と考え、それらは、無意識のバイオリズムで決定され、その代表を「 呼吸 」と考えたが、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間ではなく、「 無意識により静止を作る一つの関係 」であると思う。

日本語では「 瞬間 」は「 間(ma)」という文字を含み、「 今 」は「 瞬間 」と呼ばれる。

空気という気(ki)を取り込み、体内の電気(dennki)に変換する場所を「 ここ 」とすれば、「 ここ 」は、肺や身体の皮膚全体であり、「 ここ 」という空間は、天体との関係で決まる。

無限の宇宙が自分の身体の中に入り込んで、呼吸によりエネルギーが変換される「 ここ 」は、無限の宇宙の広がりの中の一点であり誰も知る事は出来ず、自己決定事項である。


この事が、「 欲 」の根底に存在し、「 無明 」と呼ぶもので、ここから、「 欲 」のエネルギーが宇宙の向かって放散し、「 遠近 」という欲の「 間(ma)の関係 」を作ると考える。

呼吸は生物の特徴だが、呼吸して場所が移ると同時に「 主観的時空 」が生じているのであり、小脳の無意識は時空を作るという私の主張になり、「 どこでも時空 」であり、時空の根本は、時間や空間ではなくて生命であり、生命の主である「 阿弥陀仏 」が時空を作るという考えになる私である。

「 欲 」は気(ki)というエネルギーであると思うから、擬似科学と呼ばれる「 生気論 」を妥当と考える。

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2011年05月14日

2011/5/14、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」

これは、私の創作ですから、正当ではありません。

私は、次の事を書いて来た。

@

日本語で、「 時間 」と「 空間 」と「 人間 」には、間(ma)が共通している。

A

「 時間 」と「 空間 」は、無意識を生むバイオリズムにより決定される「 主観的時間 」や「 主観的空間 」と意識により具現化した「 時間意識 」と「 空間意識 」がある。

B

「 時制 」と「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムで決められる。

C

バイオリズムは気(ki)と情(zyou)により形成される。



ここで、「 主観的時間 」である「 今 」と、「 主観的空間 」である「 ここ 」について考える。

「 今 」や「 ここ 」を決定するのは何か。

それは、小脳の機能である「 呼吸 」により決まると、現在では、考えている。

「 過去 」に呼吸する事は出来ず、「 未来 」に呼吸する事も出来ない。

呼吸するのは、「 現在 」だけであり、その呼吸している間(ma)が「 今 」という現実的な時間であり、それを「 意識 」により天体の運動に関連させたのが、社会の一般的な「 時間 」であると考える。
(これが、上記のCである)

呼吸している間(ma)が、「 今 」であると思う。


他方、人間は、呼吸により生命を維持している。

目覚めている時も就寝中でも呼吸をしている。

呼吸は、大気(taiki)という気(ki)を人間の体内でエネルギーに変えて生きている。

人間は肺だけでなく、人間の身体全体の皮膚の穴からも呼吸し、その呼吸可能な範囲の間(ma)(or hazama)を「 主観的空間 」と考え、「 意識 」により拡大して具現化したのが「 空間 」だと思う。
(これが、上記のCである)

人間の体内で、エネルギーに変換する所、(自分の身体の所在)が「 ここ 」であると、現在では考えている。

「 主観的時間 」も「 主観的空間 」も個人の無意識が決定するから、無意識が「 欲 」であるため、「 今 」という時制も、自分の安定した習慣的な能力に比べる事により生じる「 遠近 」も、「 欲 」の表現であり、普通の生活は「 欲の集約状況 」であると思う。
(上記のBである)


従って、上記@の、共通項は「 呼吸 」であり、呼吸が「 間(ma)」を一致させると考える。

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2011年05月04日

2011/5/4、オカルト・バイオリズムと時間と空間

今までの事を復唱する。


時間について

2010/10/17、私の記事
これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

2010/12/12、私の記事

私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。

2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の記事

私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。


2010/12/31、私の記事

意識は電磁波であり、時間意識と空間意識が電磁波の構造で、頭脳の中で、天体の動きと連動して生じている。

天体の動きと時間意識を連結するのは「 光 」であると考える。

無意識により、言い換えるとバイオリズムによって意識される「 過去と現在と未来 」という「 時間意識 」は主観的時間意識であり、「 過去と現在と未来 」の境界は、全ての生物により相違すると考える。


バイオリズムで決定される主観的時間の「 現在 」の中に、社会でのコミュミケーションの道具としての「 客観的時間 」が電磁波の構造を持つ「 時間意識 」であり、主観的時間の「 過去 」の「 心あたり」との往復から生じる正弦波が「 可能性 」であると思う。

主観的時間の「 過去と現在と未来 」の中に、天体の運動に連動し、光の電磁波の構造と連結して生じる、電磁波の構造をした「 客観的時間意識 」を道具にして持つ事は、「 可能性 」を考えている事だと思う。

2011/3/21、私の記事


日本語の「 時間 」の「 間(ma)」が主観的時間であり、「 時 」が思惟された時間とういう意味で「 客観的時間 」であるが、「 時間 」が、「 運動 」や速度で定義される事は、「 真理 」ではない。

なぜなら、運動は「 絶対静止の座標 」を頭脳に持って測量する事が必要だが、測量する主体も客体も、共に動いている、つまり「 共変 」するため、「 真理 」を知る事は出来ない。

静止した私も、静止した測定客体も、宇宙が動いている限り、「 動いている 」のであり、「 共変 」しているため、「 静止している 」と錯誤していると思う。

衝突が起こる「 同時性 」の測定の事情も同じである。

この「 共変 」は、「 測定 」全てに及び、相対論も量子論も「 共変する時間 」を定義しない限り「 真理 」ではない。

「 静止 」や「 運動 」も「 時間 」も、意識と無意識を解明しない限り「 真理 」ではないと思う。

日本語の「 時間 」と「 空間 」の「 共変する間(ma)」が、私の考えの「 台風の目 」であり、人間の根底に存在する「 無明 」であると思う。

私は、「 意識は電磁波の構造をもち、無意識はバイオリズムから生じる 」と考えている。

「 間(ma)」とは感覚する時間で、「 時 」とは思惟された時間だが、これは「 人類の小脳可能性 」の範囲内であり、「 範囲 」を決定するのが、無意識であり、バイオリズムであり、「 可能性 」を決定するのが「 記憶 」という「 能力 」であると思う。

「 能力 」については、「 可能性 」と共に、後日、書く予定である。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識というバイオリズムで決めるが、周期が相違するリズムが「 現在 」という時制に「 同時 」に出現するために、「 現在 」のなかに、「 過去や未来 」が存在する。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識が決めた「 現在 」に、「 記憶 」のよる「 可能性 」を当てはめた意識であるかも知れない。



「 心理的時間 」や「 記憶 」から、「 時間 」を解放し、「 心理 」を規定するバイオリズムで「 感覚される時間 」や「 意識される時間 」を考える方が良いと思う。


空間について

2011/4/3、私の記事

「 空間 」を、物体と物体の隔たりと解釈するのは、オカルト的ではない。

人間の存在を前提にして、「 空間 」の意味がある。

日本語で「 空間 」は「 空 」と「 間(ma)」の組み合わせである。

この間(ma)を、「 時間 」の「 間(ma)」と同じく、「 延長 」を人間の「 主観 」が切り取る空間を「 主観的空間」と考える。

この「 主観的空間 」がバイオリズムによって決定されると考えるのが「 オカルト的 」である。


………………………………


「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

………………………………

私は、人間から、「 欲 」を取り去り「 無欲 」という状態を考えない。

「 欲 」は、「 心 」を動揺させ、人間が考え、感じる範囲は「 心 」であり、「 小脳の運動可能性 」である事は前述した。

人間が考え、感じる宇宙空間は、「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」の広がりである。

「 主観的空間 」とは、「 個人の運動可能性 」で、宇宙空間を限定した間(ma)であると思う。


日本家屋で、「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma)」や「 広間(hiroma)」などと、区別して部屋を造るが、これを、自分や家族や客という主体の「 運動可能性 」により、「 空間 」を切り取った「 間(ma)」である。

「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のバイオリズムがあるとすれば、「 身体 」のリズムが「 自分の運動可能性 」であり気(ki)というエネルギーであり、「 知性 」のリズム、即ち「 思考された運動可能性 」の気(ki)というエネルギーの間(ma)の「 感情 」のリズムという気(ki)が「 自分の運動可能性 」であり、この「 感情 」のリズムという気(ki)に記憶などの情報が加わった情(zyou)のエネルギーが具現化したのが「 能力 」であり、この「 能力 」に対応するのが「 主観的空間 」の「 間(ma)」であると思う。

この「 主観的空間 」は、住人の存在を前提とする。

主観的空間は、住人の違いで、「 部屋 」、「 家 」、「 国家 」「 地球 」と、その範囲を拡大する。

これは、「 安定 」を求めている。

「 可能性 」に「 意識 」が加わった安定的で、普通の空間である。

「 可能性 」だけで、不安定な空間とは何か?

それは、「 間(ma)」ではなく、広がりの「 遠近 」として知る空間だろう。

私の考えでは、「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムが決定した「 運動可能性 」であり、「 能力 」以前に、「身体」や「感情」や「知性」のバイオリズムを生む無意識が決めているから、「 遠近 」は「 能力 」以前に存在すると思う。

「 遠近 」は「 可能性 」という「 心 」が動揺する「 欲 」であるが、「 欲 」が安定し、現実化した、「 能力 」ではないから不安定である。

人間は物体を見る能力を持つが、「 何を見るか 」は「 心が指示する 」事であり、「 見る事 」が無意識、つまりバイオリズムによる、心が動揺する、不安定な「 可能性 」から、既知の安定的な間(ma)への変換であると思う。

「 見る事 」や「 聴く事 」により、心が動揺し、小脳でストレスを生じ、安定を求めて行動する。

この行動は、バイオリズムによる、「 可能性 」という「 欲 」から、安定的な「 間(ma)」への変換であり、不安定で動揺するのはRNAの働きで、安定するのはDNAの働きであると考えると「 オカルト的 」である。

安定するのは気(ki)というエネルギーに「 意識 」という情(zyou)が加わったからであり、不安定な「 可能性 」は気(ki)であり、気(ki)は、「 生気論(seikiron)」の気(ki)や、プラズマ宇宙論の電気(denki)に関連すると思うと、人間は宇宙の産物であるという事になる。


2011/5/4、私の考え

これは、私の考えであり、正当でないのは勿論である。


時間も空間も、個人のバイオリズムから生じる無意識が安定した能力、習慣になった能力という運動可能性と比べて決定していると思う。

従って、時制の「 現在 」も、空間の「 遠近 」も、個人の安定した運動可能性であるから、それぞれの個人の「 現在 」も「 遠近 」も相違し、それらは、絶対静止を仮定した「 速度 」により、自分に対する「 ストレス」を生じて、行動を起こす。

個人の運動可能性が及ばないことを、「 過去 」とか「 未来 」とよび、運動可能性に比べて「 遠近 」を判断する事が出来ないから、天空の星座が「 模様 」に見えると思う。

「 過去 」や「 未来 」というのは「 現在 」で意識する無意識のバイオリズムであるかも知れない。

私の考えは、「 現在 」という幅に周期が違うリズムを閉じ込めるため、そのリズムが「 現在 」という電磁波の時間意識に楕円の軌跡として閉じ込められ、「 未来 」や「 過去 」が生じるという考えである。

空間も、自分を中心に考えるから「 遠近 」が生じ、「 欲 」の応じた「 速度 」というベクトルやストレスが生じる。

庭石を並べた日本庭園で、閉じた空間の中で、「 海 」を表現したり、画家が、絵画で遠近法を用いるのは、観衆の「 心 」にベクトルやストレスを生じさせて、自分のストレスを伝達するのだと思う。

時間を利用するのは音楽で、個人のバイオリズムに音符を符号させ、自分のリズムを表現するのが音楽家だと思う。

これについては、後日、考える。


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2011年04月14日

2011/4/14、オカルト、バイオリズムと可能性・蓋然性2

2011/4/10、私の記事


「 可能性 」は、「 欲 」であり、自然界の因果関係の「 蓋然性 」とは違うと思う。

「 可能性 」は、情(zyou)であり、人間の感情が無い「 自然 」と対立する。

「 自然 」は「 宇宙 」と考える。

「 可能性 」と「 能力 」は「 不安定 」か「 安定 」かで、同種の関係だと思うが、「 蓋然性 」は、「 確率 」の問題であり、人間が考える点で人間と関係するが、情(zyou)が無い状態だから、人間の感情や意識を考えなくても、コンピューターでも判定する事が出来る。

「 原発 」は、「 蓋然性 」でなく、「 可能性 」を基準にして考える。

「 想定 」は「 蓋然性 」ではないのかと疑問に思う。

コンピューターでは、「 確率 」は判断する事は出来ても、人間に対する「 可能性 」を判断する事は不可能だ。

なぜなら、コンピューターは、「 欲 」も無く、「 安心 」や「 不安 」など、人間の無意識やバイオリズムを持っていないからだ。

コンピューターが出来るのは「 想定 」であり、原発の責任者が「 可能性 」というのは、「 蓋然性 」だと思っている。


「 可能性 」は、自然界への「 恐れ 」が不可欠で、それを自力で支配する状態、意識的に行動するのが「 能力 」であり、「 安心 」である。

原発の周囲の住民を「 安心 」や「 安全 」で説明するのは、「 可能性 」を隠すことであり、無意識に感じる「 不安 」は消滅する事はないし、「 安心 」や「 安全 」を感じるのは住民であり、電力会社や政府が、その言葉を使うのは不適当である。



2011/4/14、私の考え


上記より、私のブログでは、「 可能性 」と「 蓋然性 」は、それが生まれる土壌が違うということになる。

「 可能性 」は、バイオリズムや無意識であり、「 蓋然性 」は、意識がその土壌であると思う。

「 可能性 」は、「 能力 」と比べたとき生じるが、この「 能力 」とは、習慣となった無意識の「 欲 」が及ぶ範囲やエネルギーであり、安定的であり、「 可能性 」は、どこまでも伸びる「 欲 」であり、不安定であり、両者は、気(ki)というエネルギーと情(zyou)という人間の感情から成り立つと考える。

「 蓋然性 」とは、意識的であり、道具的であり、手段的であり、物的であるから、コンピューターが働く余地があり、個人の感情を問題にしないから、「 非情 」であり、言葉で置き換えるから安定的である。

「 蓋然性 」は情報という情(zyou)であり、人間が考える点で、無意識と交差する。

「 可能性 」には、私の無意識やDNAに関係し、不安な気(ki)と「 蓋然性 」が結合したとき、力(power)となり、不安定な情(zyou)と結合したとき、安定を与えて、落ち着きという態度になると考える。

無意識やバイオリズムは、気(ki)と情(zyou)で成り立ち、両者は電場と磁場の関係で、意識より範囲が広いから、「 蓋然性 」で情(zyou)の不安は除かれても、個人の気(ki)を同時に消滅させることは出来ないから、次のように考える。

原発の周囲の住民を「 安心 」や「 安全 」で説明するのは、「 可能性 」を隠すことであり、無意識に感じる「 不安 」は消滅する事はないし、「 安心 」や「 安全 」を感じるのは住民であり、電力会社や政府が、その言葉を使うのは不適当である。


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2011年04月10日

2011/4/10、オカルト・バイオリズムと可能性・蓋然性

2011/4/3、私の記事

「 空間 」を、物体と物体の隔たりと解釈するのは、オカルト的ではない。

人間の存在を前提にして、「 空間 」の意味がある。

日本語で「 空間 」は「 空 」と「 間(ma)」の組み合わせである。

この間(ma)を、「 時間 」の「 間(ma)」と同じく、「 延長 」を人間の「 主観 」が切り取る空間を「 主観的空間」と考える。

この「 主観的空間 」がバイオリズムによって決定されると考えるのが「 オカルト的 」である。


………………………………


「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

………………………………

私は、人間から、「 欲 」を取り去り「 無欲 」という状態を考えない。

「 欲 」は、「 心 」を動揺させ、人間が考え、感じる範囲は「 心 」であり、「 小脳の運動可能性 」である事は前述した。

人間が考え、感じる宇宙空間は、「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」の広がりである。

「 主観的空間 」とは、「 個人の運動可能性 」で、宇宙空間を限定した間(ma)であると思う。


日本家屋で、「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma)」や「 広間(hiroma)」などと、区別して部屋を造るが、これを、自分や家族や客という主体の「 運動可能性 」により、「 空間 」を切り取った「 間(ma)」である。

「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のバイオリズムがあるとすれば、「 身体 」のリズムが「 自分の運動可能性 」であり気(ki)というエネルギーであり、「 知性 」のリズム、即ち「 思考された運動可能性 」の気(ki)というエネルギーの間(ma)の「 感情 」のリズムという気(ki)が「 自分の運動可能性 」であり、この「 感情 」のリズムという気(ki)に記憶などの情報が加わった情(zyou)のエネルギーが具現化したのが「 能力 」であり、この「 能力 」に対応するのが「 主観的空間 」の「 間(ma)」であると思う。

この「 主観的空間 」は、住人の存在を前提とする。

主観的空間は、住人の違いで、「 部屋 」、「 家 」、「 国家 」「 地球 」と、その範囲を拡大する。

これは、「 安定 」を求めている。

「 可能性 」に「 意識 」が加わった安定的で、普通の空間である。

「 可能性 」だけで、不安定な空間とは何か?

それは、「 間(ma)」ではなく、広がりの「 遠近 」として知る空間だろう。

私の考えでは、「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムが決定した「 運動可能性 」であり、「 能力 」以前に、「身体」や「感情」や「知性」のバイオリズムを生む無意識が決めているから、「 遠近 」は「 能力 」以前に存在すると思う。

「 遠近 」は「 可能性 」という「 心 」が動揺する「 欲 」であるが、「 欲 」が安定し、現実化した、「 能力 」ではないから不安定である。

人間は物体を見る能力を持つが、「 何を見るか 」は「 心が指示する 」事であり、「 見る事 」が無意識、つまりバイオリズムによる、心が動揺する、不安定な「 可能性 」から、既知の安定的な間(ma)への変換であると思う。

「 見る事 」や「 聴く事 」により、心が動揺し、小脳でストレスを生じ、安定を求めて行動する。

この行動は、バイオリズムによる、「 可能性 」という「 欲 」から、安定的な「 間(ma)」への変換であり、不安定で動揺するのはRNAの働きで、安定するのはDNAの働きであると考えると「 オカルト的 」である。

2011/4/10、私の考え

「 可能性 」は、「 欲 」であり、自然界の因果関係の「 蓋然性 」とは違うと思う。

「 可能性 」は、情(zyou)であり、人間の感情が無い「 自然 」と対立する。

「 自然 」は「 宇宙 」と考える。

「 可能性 」と「 能力 」は「 不安定 」か「 安定 」かで、同種の関係だと思うが、「 蓋然性 」は、「 確率 」の問題であり、人間が考える点で人間と関係するが、情(zyou)が無い状態だから、人間の感情や意識を考えなくても、コンピューターでも判定する事が出来る。

「 原発 」は、「 蓋然性 」でなく、「 可能性 」を基準にして考える。

「 想定 」は「 蓋然性 」ではないのかと疑問に思う。

コンピューターでは、「 確率 」は判断する事は出来ても、人間に対する「 可能性 」を判断する事は不可能だ。

なぜなら、コンピューターは、「 欲 」も無く、「 安心 」や「 不安 」など、人間の無意識やバイオリズムを持っていないからだ。

コンピューターが出来るのは「 想定 」であり、原発の責任者が「 可能性 」というのは、「 蓋然性 」だと思っている。


「 可能性 」は、自然界への「 恐れ 」が不可欠で、それを自力で支配する状態、意識的に行動するのが「 能力 」であり、「 安心 」である。

原発の周囲の住民を「 安心 」や「 安全 」で説明するのは、「 可能性 」を隠すことであり、無意識に感じる「 不安 」は消滅する事はないし、「 安心 」や「 安全 」を感じるのは住民であり、電力会社や政府が、その言葉を使うのは不適当である。



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2011年04月03日

2011/4/3、オカルト、バイオリズムと可能性・空間

2010/10/17、私の記事

これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2011/3/29、私の記事

「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。


………………………………

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 間(ma) 」が、無意識の主観的、つまり局地的な時間と空間と考え、「 主観的時間 」というバイオリズムが時制を決定し、「 現在 」の中に「 主観的空間 」を決めるバイオリズムが存在すると思う。

………………………………

「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

「 小脳の運動可能性 」を現実化するのは、気(ki)であると思う。

「 情(zyou)」は、日本語で「 感情(kanzyou 」や「 人情(ninzyou) 」や「 情報(zyouhou)」などに用いられ、バイオリズムの「 感情 」を示し、これが「 身体 」と「 知性 」のバイオリズムの間を満たし、「 身体 」に近いリズムや「 知性 」に近いリズムが存在するが、未発見であるかも知れない。

情(zyou)という無意識のバイオリズムが、時制を決定するから、人類の全ての「 時制の幅 」は相違する。

「 過去や現在や未来 」と言っても、人類の全ての頭の中では、「 幅 」つまり「 範囲 」は相違する。

バイオリズムの「 主観的時間 」の情(zyou)と「 空間的時間 」の気(ki)の「 幅 」の違いを、事象が発生する間(ma)を記憶する事により、意識の「 時間意識 」と「 空間意識 」という間(ma)の中で発生する電磁波的構造を成立させる。

その統一体が、「 能力 」だと思う。

この事により、記憶が「時間」や「空間」を決定するように錯覚させるのだと思う。

このように、「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化し、「 時間 」や「 空間 」を決定するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。

気(ki)や情(zyou)が及ぶ範囲が、「 能力 」の範囲だと思う。


2011/4/3、私の考え


「 空間 」を、物体と物体の隔たりと解釈するのは、オカルト的ではない。

人間の存在を前提にして、「 空間 」の意味がある。

日本語で「 空間 」は「 空 」と「 間(ma)」の組み合わせである。

この間(ma)を、「 時間 」の「 間(ma)」と同じく、「 延長 」を人間の「 主観 」が切り取る空間を「 主観的空間」と考える。

この「 主観的空間 」がバイオリズムによって決定されると考えるのが「 オカルト的 」である。


………………………………


「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

………………………………

私は、人間から、「 欲 」を取り去り「 無欲 」という状態を考えない。

「 欲 」は、「 心 」を動揺させ、人間が考え、感じる範囲は「 心 」であり、「 小脳の運動可能性 」である事は前述した。

人間が考え、感じる宇宙空間は、「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」の広がりである。

「 主観的空間 」とは、「 個人の運動可能性 」で、宇宙空間を限定した間(ma)であると思う。


日本家屋で、「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma)」や「 広間(hiroma)」などと、区別して部屋を造るが、これを、自分や家族や客という主体の「 運動可能性 」により、「 空間 」を切り取った「 間(ma)」である。

「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のバイオリズムがあるとすれば、「 身体 」のリズムが「 自分の運動可能性 」であり気(ki)というエネルギーであり、「 知性 」のリズム、即ち「 思考された運動可能性 」の気(ki)というエネルギーの間(ma)の「 感情 」のリズムという気(ki)が「 自分の運動可能性 」であり、この「 感情 」のリズムという気(ki)に記憶などの情報が加わった情(zyou)のエネルギーが具現化したのが「 能力 」であり、この「 能力 」に対応するのが「 主観的空間 」の「 間(ma)」であると思う。

この「 主観的空間 」は、住人の存在を前提とする。

主観的空間は、住人の違いで、「 部屋 」、「 家 」、「 国家 」「 地球 」と、その範囲を拡大する。

これは、「 安定 」を求めている。

「 可能性 」に「 意識 」が加わった安定的で、普通の空間である。

「 可能性 」だけで、不安定な空間とは何か?

それは、「 間(ma)」ではなく、広がりの「 遠近 」として知る空間だろう。

私の考えでは、「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムが決定した「 運動可能性 」であり、「 能力 」以前に、「身体」や「感情」や「知性」のバイオリズムを生む無意識が決めているから、「 遠近 」は「 能力 」以前に存在すると思う。

「 遠近 」は「 可能性 」という「 心 」が動揺する「 欲 」であるが、「 欲 」が安定し、現実化した、「 能力 」ではないから不安定である。

人間は物体を見る能力を持つが、「 何を見るか 」は「 心が指示する 」事であり、「 見る事 」が無意識、つまりバイオリズムによる、心が動揺する、不安定な「 可能性 」から、既知の安定的な間(ma)への変換であると思う。

「 見る事 」や「 聴く事 」により、心が動揺し、小脳でストレスを生じ、安定を求めて行動する。

この行動は、バイオリズムによる、「 可能性 」という「 欲 」から、安定的な「 間(ma)」への変換であり、不安定で動揺するのはRNAの働きで、安定するのはDNAの働きであると考えると「 オカルト的 」である。

安定するのは気(ki)というエネルギーに「 意識 」という情(zyou)が加わったからであり、不安定な「 可能性 」は気(ki)であり、気(ki)は、「 生気論(seikiron)」の気(ki)や、プラズマ宇宙論の電気(denki)に関連すると思うと、人間は宇宙の産物であるという事になる。


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2011年03月29日

2011/3/29、オカルト・バイオリズムと可能性6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/3/28、私の記事

宇宙の果ての、知る事が出来る事まで、「 小脳の運動可能性 」があるから、「 心 」が動く。


一般に、「 自分の能力 」に比べて、実現可能な仕事の範囲が「 可能性 」だと思われるが、私は、違う考えである。

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 能力 」が「 欲望 」という個人的なバイオリズムであるのに反し、「 可能性 」は「 欲 」という人間一般の「 生命 」のバイオリズムだと思う。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えて、絶望して自殺は考えられるが、それは「 可能性 」を「 現在 」の「 欲望 」というバイオリズムと比較した判断であり、正当ではないと思う。

「 可能性 」は「 欲 」という生命力と比較した実現する範囲であり、生命力は「 生きる事 」を考えるが、自殺には導かない。

「 能力 」は局地的な個人の「 夢 」であり、「 能力 」に囚われた自分を否定して、「 自分の本当の欲 」と「 可能性 」を比較して、自己の「 欲 」を実現する。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えるのではなく、バイオリズムである事は同じだが、「 可能性 」は「 欲 」であり、「 能力 」を破る。

そのように考えると、「 小脳の運動可能性 」は「 心 」であり「 生命 」であり、「 運動 」はベクトルであり、良きにつか悪しきにつけ、ストレスを生じる。

これは、「 小脳 」の働きである。

2010/10/17、私の記事

これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2011/3/29、私の考え

「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。


………………………………

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 間(ma) 」が、無意識の主観的、つまり局地的な時間と空間と考え、「 主観的時間 」というバイオリズムが時制を決定し、「 現在 」の中に「 主観的空間 」を決めるバイオリズムが存在すると思う。

………………………………

「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

「 小脳の運動可能性 」を現実化するのは、気(ki)であると思う。

「 情(zyou)」は、日本語で「 感情(kanzyou 」や「 人情(ninzyou) 」や「 情報(zyouhou)」などに用いられ、バイオリズムの「 感情 」を示し、これが「 身体 」と「 知性 」のバイオリズムの間を満たし、「 身体 」に近いリズムや「 知性 」に近いリズムが存在するが、未発見であるかも知れない。

情(zyou)という無意識のバイオリズムが、時制を決定するから、人類の全ての「 時制の幅 」は相違する。

「 過去や現在や未来 」と言っても、人類の全ての頭の中では、「 幅 」つまり「 範囲 」は相違する。

バイオリズムの「 主観的時間 」の情(zyou)と「 空間的時間 」の気(ki)の「 幅 」の違いを、事象が発生する間(ma)を記憶する事により、意識の「 時間意識 」と「 空間意識 」という間(ma)の中で発生する電磁波的構造を成立させる。

その統一体が、「 能力 」だと思う。

この事により、記憶が「時間」や「空間」を決定するように錯覚させるのだと思う。

このように、「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化し、「 時間 」や「 空間 」を決定するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。

気(ki)や情(zyou)が及ぶ範囲が、「 能力 」の範囲だと思う。


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2011年03月28日

2011/3/28、オカルト・バイオリズムと可能性5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2011/3/28、私の考え


宇宙の果ての、知る事が出来る事まで、「 小脳の運動可能性 」があるから、「 心 」が動く。


一般に、「 自分の能力 」に比べて、実現可能な仕事の範囲が「 可能性 」だと思われるが、私は、違う考えである。

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 能力 」が「 欲望 」という個人的なバイオリズムであるのに反し、「 可能性 」は「 欲 」という人間一般の「 生命 」のバイオリズムだと思う。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えて、絶望して自殺は考えられるが、それは「 可能性 」を「 現在 」の「 欲望 」というバイオリズムと比較した判断であり、正等ではないと思う。

「 可能性 」は「 欲 」という生命力と比較した実現する範囲であり、生命力は「 生きる事 」を考えるが、自殺には導かない。

「 能力 」は局地的な個人の「 夢 」であり、「 能力 」に囚われた自分を否定して、「 自分の本当の欲 」と「 可能性 」を比較して、自己の「 欲 」を実現する。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えるのではなく、バイオリズムである事は同じだが、「 可能性 」は「 欲 」であり、「 能力 」を破る。

そのように考えると、「 小脳の運動可能性 」は「 心 」であり「 生命 」であり、「 運動 」はベクトルであり、良きにつか悪しきにつけ、ストレスを生じる。

これは、「 小脳 」の働きである。


Every miller draws water to his own mill.
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2011年03月21日

2011/3/21、オカルト・バイオリズムと時間

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

東日本地震からの復興を祈ります。


過去の記事


2011/1/16、私の記事

それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

「 意識 」は、「 記憶 」という感受性により、「 現在 」に「 同時 」に、三個の「 無意識 」の中心を貫く時、「 直感 」あるいは「 悟り 」が得られると思う。

知性と感情と身体は、大脳と小脳と心臓の電気で流れるものであり、それぞれの波動だろう。

私は、その中で「 感情 」を重視する。

「 情(zyou)」は、「 情報 」や「 愛情 」という日本語に含まれ、「 情報 」は「 知識 」という精神に変化し、「 愛情 」は「 愛 」という精神に変化するが、「 情愛 」という動物的な「 性 」という身体のリズムに変化するからである。


「 感情 」は「 小脳の運動可能性 」であるし、全ての欲望の基礎にあり、「 意欲 」を生じる事は、以前、書いた。

普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。

私は、意識の中で、「 現在 」の中で、可能性として現れる生命の縄(グラスファイバー)の中心を飛び回りながら、生活し、その中心を貫く意識が「 直感 」である。

繰り返すが、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の幅は、全人類の生きてきた経路やDNAの違いで全人類の可能性が全て違うように、全人類の記憶の違いにより、相違する。

その「 現在 」の中での「 無意識 」が、以上に書いたことである。


2010/10/17、私の記事
これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

2010/12/12、私の記事

私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。

2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の記事

私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。


2010/12/31、私の記事

意識は電磁波であり、時間意識と空間意識が電磁波の構造で、頭脳の中で、天体の動きと連動して生じている。

天体の動きと時間意識を連結するのは「 光 」であると考える。

無意識により、言い換えるとバイオリズムによって意識される「 過去と現在と未来 」という「 時間意識 」は主観的時間意識であり、「 過去と現在と未来 」の境界は、全ての生物により相違すると考える。


バイオリズムで決定される主観的時間の「 現在 」の中に、社会でのコミュミケーションの道具としての「 客観的時間 」が電磁波の構造を持つ「 時間意識 」であり、主観的時間の「 過去 」の「 心あたり」との往復から生じる正弦波が「 可能性 」であると思う。

主観的時間の「 過去と現在と未来 」の中に、天体の運動に連動し、光の電磁波の構造と連結して生じる、電磁波の構造をした「 客観的時間意識 」を道具にして持つ事は、「 可能性 」を考えている事だと思う。

2011/3/21、私の考え

日本語の「 時間 」の「 間(ma)」が主観的時間であり、「 時 」が思惟された時間とういう意味で「 客観的時間 」であるが、「 時間 」が、「 運動 」や速度で定義される事は、「 真理 」ではない。

なぜなら、運動は「 絶対静止の座標 」を頭脳に持って測量する事が必要だが、測量する主体も客体も、共に動いている、つまり「 共変 」するため、「 真理 」を知る事は出来ない。

静止した私も、静止した測定客体も、宇宙が動いている限り、「 動いている 」のであり、「 共変 」しているため、「 静止している 」と錯誤していると思う。

衝突が起こる「 同時性 」の測定の事情も同じである。

この「 共変 」は、「 測定 」全てに及び、相対論も量子論も「 共変する時間 」を定義しない限り「 真理 」ではない。

「 静止 」や「 運動 」も「 時間 」も、意識と無意識を解明しない限り「 真理 」ではないと思う。

日本語の「 時間 」と「 空間 」の「 共変する間(ma)」が、私の考えの「 台風の目 」であり、人間の根底に存在する「 無明 」であると思う。

私は、「 意識は電磁波の構造をもち、無意識はバイオリズムから生じる 」と考えている。

「 間(ma)」とは感覚する時間で、「 時 」とは思惟された時間だが、これは「 人類の小脳可能性 」の範囲内であり、「 範囲 」を決定するのが、無意識であり、バイオリズムであり、「 可能性 」を決定するのが「 記憶 」という「 能力 」であると思う。

「 能力 」については、「 可能性 」と共に、後日、書く予定である。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識というバイオリズムで決めるが、周期が相違するリズムが「 現在 」という時制に「 同時 」に出現するために、「 現在 」のなかに、「 過去や未来 」が存在する。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識が決めた「 現在 」に、「 記憶 」のよる「 可能性 」を当てはめた意識であるかも知れない。



「 心理的時間 」や「 記憶 」から、「 時間 」を解放し、「 心理 」を規定するバイオリズムで「 感覚される時間 」や「 意識される時間 」を考える方が良いと思う。

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2010年12月31日

2010/12/31、オカルト・バイオリズムと可能性4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の記事

私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。


2010/12/31、私の考え


意識は電磁波であり、時間意識と空間意識が電磁波の構造で、頭脳の中で、天体の動きと連動して生じている。

天体の動きと時間意識を連結するのは「 光 」であると考える。

無意識により、言い換えるとバイオリズムによって意識される「 過去と現在と未来 」という「 時間意識 」は主観的時間意識であり、「 過去と現在と未来 」の境界は、全ての生物により相違すると考える。


バイオリズムで決定される主観的時間の「 現在 」の中に、社会でのコミュミケーションの道具としての「 客観的時間 」が電磁波の構造を持つ「 時間意識 」であり、主観的時間の「 過去 」の「 心あたり」との往復から生じる正弦波が「 可能性 」であると思う。

主観的時間の「 過去と現在と未来 」の中に、天体の運動に連動し、光の電磁波の構造と連結して生じる、電磁波の構造をした「 客観的時間意識 」を道具にして持つ事は、「 可能性 」を考えている事だと思う。

ここで、「 歴史 」について考える。


唯物史観は、「 過去と現在と未来 」とういう主観的時間の中で、自分の、個人の「 可能性 」を推測する考えであり、コミュニケーションとしての時間を道具にして使うが、社会の動きではない。


「 歴史 」を考える唯物史観は、「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中の「 運動可能性 」を考える思想であり、天体の動きと同等の真理ではなく、個人の「 運動可能性 」を模索する思想である。


「 歴史 」は主観的時間の「 過去と現在と未来 」の、「 未来 」の「 運動可能性 」を考える事であり、「 運動 」が、絶対静止の座標を前提とする主観的速度やストレスである事は前述したが、唯物史観は、この「 運動の可能性 」を考える主観的な思想であると思う。


「 過去と現在と未来 」を考える事は「 歴史 」を考える事であり、「 歴史 」は個人の主観的時間の経路であり、「 社会 」の必然的な可能性の経路ではない。


「 歴史 」を区切るのは主観的時間の「 現在 」であり、「 現在 」から「 過去 」の出来事を「 心あたり 」と認定して、「 現在 」の運動可能性を模索する思想が、「 歴史観 」であり、言葉に具現化するから人類に共通の可能性のように思うが、共通ではなく、人類の全ては相違した「 運動可能性 」を持つ。


本を読んだ「 歴史 」でも、指導者が教育する「 歴史 」でも、思想であり、思想教育であり、哲学が真理を求めるならば、思想教育ではなく、頭脳の記憶を使うから「 歴史 」であるが、主観的時間と時間意識を区別して、最小の歴史を持った哲学が真理だと考える。

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2010年12月25日

2010/12/25、オカルト・バイオリズムと可能性3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の考え


私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。

無意識に対する意識を、電磁波の一種と考え、プラズマ宇宙論の考えに従う。

無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」は生物のリズムと時間であり、「 意識 」としての宇宙は「 主観的時間 」であるから、ニュートンなどの時間対称の理論が生まれるが、本来、宇宙は主観的時間でなく、過去も現在も未来も存在しないので、時間対称という考え自体が存在しないと思う。

無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」は、バイオリズムが正弦波であるなら、「 主観的時間 」も正弦波だろう。

それは、「 現在 」から「 過去 」に向けての意識が衝突する出来事との間の正弦波であり、出来事は「 心あたり 」や「 思いつき 」であり、「 現在 」との正弦波が「 気持ち 」や「 心持ち 」であり、「 現在 」が存在する限り、生きている限り、病的であっても存在する。

それが、「 可能性 」であり「 人間性 」だろう。

可能性は主観的時間から乖離せず、主観的時間の内容は可能性であると思う。

バイオリズムの塊の中で決定するという意味で「 決定論 」であり、天体の運動による時間に、どのような過去の可能性で対処するかを決定するから、「 自由 」であると考える。

前者により、宿命や天命は変えられないが、後者により、運命は変える事が出来ると思う。


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2010年12月22日

2010/12/22、オカルト・バイオリズムと可能性2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/12、私の記事

以上のように考える理由は何か。


私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。

2010/12/19、私の記事

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考える。

「 時間 」と「 空間 」の「 間(ma)」が共通するのは、「 間(ma)」が無意識のバイオリズムであるからだろう。

「 間(ma)」が主観的な時間や空間である。

「 間(ma)」が「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間であり、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であると考える。

日本語では、人間がいる部屋を「 居間 」と「 間(ma)」を使うが、これは主観的空間を示していると考える。

バイオリズムは、生涯のリズムだろうが、私は、毎日、違った周期で発生していると考える。

女性の生理のようなリズムで、バイオリズムを考えるのではなく、「 無意識の発生源 」と考えて、「 光 」が周波数の塊であるように、「 無意識の発生源 」も、バイオリズムの塊であり、人間の機能の塊であると考える。

…………(省略)……………………

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考えるが、「 現実性 」や「 可能性 」を、「 知性 」の具現化として考えるから、それらの言葉に内容が無くなる。

「 可能性 」は、バイオリズムとして考えなければならないが、社会的に可能性が決まるのではなく、「 可能性 」は個人のバイオリズムの具現化として考える。


2010/12/22、私の考え

私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。

これは、私だけの考えである。



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2010年12月19日

2010/12/19、オカルト・バイオリズムと可能性1

2010/12/12、私の記事
以上のように考える理由は何か。


私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。


2010/12/19、私の考え

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考える。

「 時間 」と「 空間 」の「 間(ma)」が共通するのは、「 間(ma)」が無意識のバイオリズムであるからだろう。

「 間(ma)」が主観的な時間や空間である。

「 間(ma)」が「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間であり、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であると考える。

日本語では、人間がいる部屋を「 居間 」と「 間(ma)」を使うが、これは主観的空間を示していると考える。

バイオリズムは、生涯のリズムだろうが、私は、毎日、違った周期で発生していると考える。

女性の生理のようなリズムで、バイオリズムを考えるのではなく、「 無意識の発生源 」と考えて、「 光 」が周波数の塊であるように、「 無意識の発生源 」も、バイオリズムの塊であり、人間の機能の塊であると考える。

哲学者や科学者が「 無意識の氷山の一角 」などというのは、発展性が無く、「 無意識 」は人間の機能や体調のリズムの塊であり、バイオリズムの「 身体、性 」と「 感情 」と「 知性 」は、「 氷山の一角 」ではなく、流動する無意識の中で感じられる流れ、「 電流 」であり、まだ多数のリズムが存在するが、人間が気づいていないだけかも知れない。

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考えるが、「 現実性 」や「 可能性 」を、「 知性 」の具現化として考えるから、それらの言葉に内容が無くなる。

「 可能性 」は、バイオリズムとして考えなければならないが、社会的に可能性が決まるのではなく、「 可能性 」は個人のバイオリズムの具現化として考える。

「 知性 」で決まらないから可能性であり、「 無意識の発生源 」の具現化であるから、個人により相違し、特殊であり、私がいう「 特殊論 」で考えると、「 可能性 」はバイオリズムである。


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2010年12月12日

2010/12/12、オカルト・バイオリズムと時間3

2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。


2010/12/11、私の記事

「 時間 」は「 時刻 」ではなく、時間は「 記憶 」である。

「 記憶する事 」が、意識と無意識の交流である。
「 無意識 」は生来のバイオリズムであり、光が周波数の塊であるように、バイオリズムの塊が無意識であると考える。

バイオリズムは時間あるいは記憶の周期であり、無数の周期であり、意識の中では「 過去と現在と未来 」という時間として具現化すると考える。

「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化するのであり、バイオリズムを持っているから、「 時間意識 」が生まれる。

「 時間 」は「 記憶 」であり、記憶力という能力(脳の働き)を持つ生物は「 時間 」を持つと思う。

「 時間 」を考えることは、「 記憶 」とバイオリズムを考えることである。

「 記憶 」は能力(脳の働き)で思考を停止するのではなく、バイオリズムと関連した能力(脳の働き)であり、「 過去と現在と未来 」という形態で具現化する。

「 過去と現在と未来 」は「 時間の流れ 」で、思考を停止するのではなく、バイオリズムの周期の具現化であることを考える必要がある。



2010/12/12、私の考え


以上のように考える理由は何か。


私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。


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2010年12月11日

2010/12/11、オカルト・バイオリズムと時間2

2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

これは、「 短期記憶 」などと「 記憶 」で社会的に判断されるが、当事者には、過去も現在であり、未来も現在であり、病人は、個人の「 時間 」を社会の「 時間 」に対応することが出来ないだけであり、「 神 」から見れば病人ではなく正常であるのだと思う。

人類の全てが、同じ時空を共有することは出来ないから、人類の全ての「 時間 」は違うのだ。

感覚も違うように、「 時間 」も違うから、楽しいことをしている時は時間を短く感じ、退屈な時は、時間を長く感じるのだ。


2010/12/11、私の考え


「 時間 」は「 時刻 」ではなく、時間は「 記憶 」である。

「 記憶する事 」が、意識と無意識の交流である。
「 無意識 」は生来のバイオリズムであり、光が周波数の塊であるように、バイオリズムの塊が無意識であると考える。

バイオリズムは時間あるいは記憶の周期であり、無数の周期であり、意識の中では「 過去と現在と未来 」という時間として具現化すると考える。

「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化するのであり、バイオリズムを持っているから、「 時間意識 」が生まれる。

「 時間 」は「 記憶 」であり、記憶力という能力(脳の働き)を持つ生物は「 時間 」を持つと思う。

「 時間 」を考えることは、「 記憶 」とバイオリズムを考えることである。

「 記憶 」は能力(脳の働き)で思考を停止するのではなく、バイオリズムと関連した能力(脳の働き)であり、「 過去と現在と未来 」という形態で具現化する。

「 過去と現在と未来 」は「 時間の流れ 」で、思考を停止するのではなく、バイオリズムの周期の具現化であることを考える必要がある。

バイオリズムを「 擬似科学 」と考える学者の頭は進化しないし、「 過去と現在と未来 」を「 時間 」と考える哲学者の頭も進化しないと思う。


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2010年12月05日

2010/12/5、オカルト・バイオリズムと時間1

2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


身体の正弦波(サインカーブ)と感情の正弦波(サインカーブ)と知性の正弦波(サインカーブ)が、同時に生まれた一つの出来事であるが、「 無意識の楕円体 」であるため「 楕円偏光 」となり、「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標では、それぞれ23日、28日、33日のリズムとして、違う周期で具現化する。

これは、周期が早いほどエネルギーは強く具現化する力を持つと考えるから現実生活では、「 性 」が一番エネルギーが強く、次に「 小脳の感情 」一番エネルギーが弱いのは「 知性 」ということになる。


2010/11/28、私の記事

以上により、「 無意識 」が、23日、28日、33日の正弦波として、5日間隔で遅れた周期として現れ、23日周期が「 性 」で、28日周期が「 小脳の感情 」で、33日周期が「 大脳の知性 」であるとする。

23日周期の「 性 」が最もエネルギーが強く、周波数も高く、次に「 小脳の感情 」、次に「 大脳の知性 」となる。

「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標は、「 大脳の知性 」で作られるとすれば、33日周期の「 大脳の知性 」を中心にして、5日前(5日過去)が「 小脳の感情 」でその5日前(5日過去)が「 性 」となり、反対方向に5日先(5日未来)が「 小脳の感情 」その5日先(5日未来)が「 性 」である事になる。

「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、最も過去が「 性 」で、最も未来を「 性 」とした「 意識の楕円体 」が「 無意識 」であるという考えになる。

2010/12/5、私の考え


私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

これは、「 短期記憶 」などと「 記憶 」で社会的に判断されるが、当事者には、過去も現在であり、未来も現在であり、病人は、個人の「 時間 」を社会の「 時間 」に対応することが出来ないだけであり、「 神 」から見れば病人ではなく正常であるのだと思う。

人類の全てが、同じ時空を共有することは出来ないから、人類の全ての「 時間 」は違うのだ。

感覚も違うように、「 時間 」も違うから、楽しいことをしている時は時間を短く感じ、退屈な時は、時間を長く感じるのだ。


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2010年11月28日

2010/11/28、オカルト・特殊論のその後・バイオリズム2

2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


身体の正弦波(サインカーブ)と感情の正弦波(サインカーブ)と知性の正弦波(サインカーブ)が、同時に生まれた一つの出来事であるが、「 無意識の楕円体 」であるため「 楕円偏光 」となり、「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標では、それぞれ23日、28日、33日のリズムとして、違う周期で具現化する。

これは、周期が早いほどエネルギーは強く具現化する力を持つと考えるから現実生活では、「 性 」が一番エネルギーが強く、次に「 小脳の感情 」一番エネルギーが弱いのは「 知性 」ということになる。


2010/11/28、私の考え


以上により、「 無意識 」が、23日、28日、33日の正弦波として、5日間隔で遅れた周期として現れ、23日周期が「 性 」で、28日周期が「 小脳の感情 」で、33日周期が「 大脳の知性 」であるとする。

23日周期の「 性 」が最もエネルギーが強く、周波数も高く、次に「 小脳の感情 」、次に「 大脳の知性 」となる。

「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標は、「 大脳の知性 」で作られるとすれば、33日周期の「 大脳の知性 」を中心にして、5日前(5日過去)が「 小脳の感情 」でその5日前(5日過去)が「 性 」となり、反対方向に5日先(5日未来)が「 小脳の感情 」その5日先(5日未来)が「 性 」である事になる。

「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、最も過去が「 性 」で、最も未来を「 性 」とした「 意識の楕円体 」が「 無意識 」であるという考えになる。

「 無意識 」は「 小脳の無意識 」であるが、「 大脳の知性 」から「 小脳の感情 」それから「 性 」へと深化するが、これは「 大脳 」から「 小脳や脳幹 」から「 心臓 」へと考える方向が似ている。


「 性 」が創造主や阿弥陀仏により与えられた生命であれば、性、即ち生命が及ぶ範囲が「 無意識 」であるという考えになる。


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2010年11月23日

2010/11/23、オカルト・特殊論4のその後・バイオリズム

2010/11/20、私の記事

「 時間 」と「 空間 」は、意識と無意識の二重構造で、「 時空 」とは感覚であり、感覚は可視光線や可聴音のように、周波数で決まる人間の機能であると想定した時、「 時空 」と「 時間 」や「 空間 」とは、如何なる関係であるか考えた。

感覚と意識や無意識の関係である。


「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

私だけの、奇妙な考えだが、意識を「 円 」と考え、無意識を「 楕円 」と考え、意識は「 円偏光 」し、無意識は「 楕円偏光 」すると考え、「 時間 」や「 空間 」という意識の描くサインカーブと「 時空 」という無意識が描くサインカーブを、人間は同時に受けている、あるいは人間の感受性が同時に働く結果、意識として認識し、形而上学的に無意識で「 存在 」を確定していると考える。


2010/11/23、私の考え

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


身体の正弦波(サインカーブ)と感情の正弦波(サインカーブ)と知性の正弦波(サインカーブ)が、同時に生まれた一つの出来事であるが、「 無意識の楕円体 」であるため「 楕円偏光 」となり、「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標では、それぞれ23日、28日、33日のリズムとして、違う周期で具現化する。

これは、周期が早いほどエネルギーは強く具現化する力を持つと考えるから現実生活では、「 性 」が一番エネルギーが強く、次に「 小脳の感情 」一番エネルギーが弱いのは「 知性 」ということになる。


エネルギーが強いとは「 魅力的 」であり、統御が困難であることである。

バイオリズムが一巡するのに、約58,2年を要するとは、日本で人が生まれ変わるという「 還暦 」が60年であることにも正当性があるかも知れない。




バイオリズム(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0


人間の場合は、身体(Physical)、感情(EmotionalまたはSensitivity)、知性(Intellectual)の3種類の波を用いて説明されることが多く、頭文字P,S(E),Iと表記される。各リズムは誕生日を基準とする同じ振幅の正弦波として表され、身体リズムは23日、感情リズムは28日、知性リズムは33日の周期をもつ。
これらのリズムは、一定の周期でくり返されるため、未来の自分の身体や精神の状態を前もって知ることができるとされ、その時の波形の高低で高調期、低調期などと区別されるが、高調期と低調期の切り替り点は体調が変動しやすいとされ、注意が必要な日とされる。
なお、数学的には23と28と33の最小公倍数は21252であり、バイオリズムが完全に一巡するにはおよそ58.2年かかる計算になる。

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