2011年03月13日

2011/3/13、オカルト・バイオリズムと感受性6

「 東日本大地震 」で被災された方が、一刻も早く復興されることをお祈りします。


2011/3/6、私の記事

「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表し、物質と無意識を結ぶ状態であり、「 霊 」と「 魂 」、「 物質 」と「 精神 」を結ぶエネルギーだと思う。


「 芸術家は、生きながら地獄を見る人だ 」というかも知れないが、芸術家は「 情(zyou)」の限界まで来て、無情の「 地獄 」、「 感情 」を生む物質を見る人であり、それが「 芸術は爆発だ 」という事かもしれないと書いたが、その気(ki)というエネルギーを感じる事が、「 感受性 」だと思う。

「 霊 」として見た途端、「 魂 」になり、「 物質 」を見た途端、「 可能性 」となり、感覚が働いた途端「 欲 」になる。

「 感受性 」とは、仏教の「 餓鬼道 」の世界だと思う。

気(ki)は、流れる物質であり、エネルギーであり、バイオリズムを生むと思うから「 生気論 」を支持し、バイオリズムが無意識を生み、その無意識が「 心 」であり、「 欲 」であり、「 人格 」の限界であり、大気の限界に、電離層が存在するように、その限界に、バイオリズムや無意識のエネルギーと物質のエネルギーを連結する「 気(ki)」が存在し、気(ki)は、「 地獄 」であり、そこに住む事を「 感受性 」であると思う。


餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる


2011/3/13、私の考え


感受性を養う事は、音楽を聴いたり、絵画を観たりして、感性を豊かにする事だと思うが、私の考えは違う。

以上の考えを延長すれば、物質界は天国であり、同時に地獄であり、「 可能性 」が無い世界であり、無情の世界であると思う。


天国や仏教の浄土の空想を気(ki)を通して可能性に変えることが感受性を養う事だが、地獄から気(ki)を通して人間界の可能性を発見することも、感受性を養う事だと思う。


前者は、天国への階段を上ることで、後者は、地獄から人間界に引き上げることで、社会的弱者の立場に立って物を考える事は後者に属すると思う。

前者は、「 我一人 」の考えであり、後者は「 共に 」の考えで、「 人格 」というエネルギーの統一を高めるのは、後者の考えであると思う。

後者は、芸術家だけでなく、「 不可能 」に直面した人類が常に従った考えであると思う。

「 革命 」というのがそれで、常識を破るときは、後者の立場だと思う。

地獄から、人間の血を流して「 思想 」という精神を獲得するのが「 革命 」であり、社会から狂人と言われながら、人間の可能性を獲得するのが「 芸術家 」であり、人類は狂人無しには進歩しないのは事実だろう。



以前にも書いたが、思う事や感じる事の全ては、行動に通じる「 欲 」であり、「 無欲 」は、大欲であり、「 欲 」を消滅させる事は出来ないと思う。


「 欲 」はバイオリズムの無意識から生じ、その先端が気(ki)というエネルギーで物質界と通じていると考えるなら、「 欲 」の消滅は考えず、社会や人類や地球に貢献したいという「 欲 」を持つ事が大切だと思う。


地球上の全ての出来事に「 欲 」が及ぶ事は必然だが、地球環境や人類に貢献する「 欲 」を持つ事が大切で、個人の「 私欲 」を捨てる事で、「 人格 」が向上すると思う。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 30 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月09日

2011/3/9、オカルト・バイオリズムと感受性5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/3/6、私の記事

バイオリズムは、主観的時間が決める「 現在 」という時制に同時に現れ、「 小脳の可能性 」という空間的な欲から海馬の記憶により「 自分の可能性 」という空間的な欲を切り取り、空間を閉ざして「 気(ki)」というエネルギーを充満させる。

これを、私は、「 現在 」という時制に「 意識は電磁波の構造をして、気(ki)というエネルギーを充満させる 」事が、「 意欲 」であると思う。


「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表す。

この「 気(ki)」が、バイオリズムの「 小脳の可能性 」と「 自分の可能性 」を連結し、エネルギーを「 自分の可能性 」にフィットさせるのは海馬の記憶であると思う。

「 気(ki)」は、エネルギーであり、振動数であり、生命体の動きであり、バイオリズムのエネルギーだろう。


私は、意識が電磁波の構造をした場を持ち、情報や情(zyou)が、気(ki)というバイオリズムのエネルギーにより伝達されると考え、いわば、「 光の中を進んでいる 」と考えている。

2011/3/9、私の考え


私は、バイオリズムが無意識を生むが、それが物質との接点を気(ki)であると思っている。

「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表し、物質と無意識を結ぶ状態であり、「 霊 」と「 魂 」、「 物質 」と「 精神 」を結ぶエネルギーだと思う。


「 芸術家は、生きながら地獄を見る人だ 」というかも知れないが、芸術家は「 情(zyou)」の限界まで来て、無情の「 地獄 」、「 感情 」を生む物質を見る人であり、それが「 芸術は爆発だ 」という事かもしれないと書いたが、その気(ki)というエネルギーを感じる事が、「 感受性 」だと思う。

「 霊 」として見た途端、「 魂 」になり、「 物質 」を見た途端、「 可能性 」となり、感覚が働いた途端「 欲 」になる。

「 感受性 」とは、仏教の「 餓鬼道 」の世界だと思う。

気(ki)は、流れる物質であり、エネルギーであり、バイオリズムを生むと思うから「 生気論 」を支持し、バイオリズムが無意識を生み、その無意識が「 心 」であり、「 欲 」であり、「 人格 」の限界であり、大気の限界に、電離層が存在するように、その限界に、バイオリズムや無意識のエネルギーと物質のエネルギーを連結する「 気(ki)」が存在し、気(ki)は、「 地獄 」であり、そこに住む事を「 感受性 」であると思う。


六道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる


posted by kandk55 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 30 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

2011/1/15、オカルト・バイオリズムと感受性4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/8、私の記事

これまでの考えを少し整理する。

日本語で時間と空間という漢字で「 間(ma)」が共通して用いられ、それが「 主観的時間 」であり、「 主観的空間 」であると考えた。


主観的というのは、「 局所的 」であるとも考えるが、「 同時性 」が実感として判明する「 時空 」であると考える。

「 主観的時間 」は、具体的で現実的な時間であり、普通に使う「 時間 」で、「 過去の現在も未来 」も存在する。

私は、この「 主観的時間 」は、「 無意識 」から発生する時間意識であり、「 時間 」という実体を決定する「 生物的時間意識 」であり、存在論的に言えば、生体のバイオリズムから生じると考える。

「 主観的時間 」は、「 絶対静止の座標 」を持ったとき、「 運動 」を認識し「 同時 」を決定する。

誰にも共通という意味での「 客観的時間 」に、「 無意識 」は介入せず、客観的な「 過去や現在や未来 」は存在しない。

人類の全ての主観的意識の中で、それぞれの「 過去や現在や未来 」が存在し、その境界は、人類の全ての頭脳の中で相違する。

主観的時間がバイオリズムであり、「 過去や現在や未来 」を満たすものが可能性であると思う。

現在から、過去の「 心当たり 」を思い出す事は、未来への可能性を考える事であり、可能性が顕在化したのが「 現在 」であり、主観的時間の境界である「 現在 」の中にだけ「 過去や未来 」がある。

「 過去や現在や未来 」は、生物的、あるいは無意識の主観的時間が支配する範囲で「 記憶 」を持つから生じるのであり、記憶の顕在化、あるいは可能性の顕在化、具現化したのが「 現在 」である。

「 今 」という「 瞬間 」を断面的に考えると、意識と無意識の中心は、楕円のように複数の中心が存在すると考え、「 二本足で歩く 」ように、意識から無意識への飛躍であるが、これを存在論的に考えると、意識は「 脳の産物 」だろうが、無意識は誕生から死亡するまでの全履歴を含んだ「 生体リズムの産物 」であると考えて、意識はバイオリズムの顕在化と考え、複素数のように、無意識のバイオリズムを二乗して正になったのが意識であるかも知れない。


無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間は、バイオリズムであるため、全人類が相違した「 過去や現在や未来 」が決定され、存在し、決定された「 今 」や「 現在 」の中に可能性が顕在化し、具現化し、可能性は主観的時間から乖離する事は出来ず、可能性は必ず「 現在 」の中に存在すると考える。

無意識が決定し、意識はそれを正当化する、あるいは無意識の方向を予測し、想像する事は以前に書いた。


相対的であれど「 運動 」は「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ「 測定 」する事は出来ず、その速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的である。

無意識はバイオリズムから生じると考えるが、現在までの「 本 」は、その「 無意識 」や主観性を欠いて、「 運動 」を客観的と書いたり、意識の合理的な事だけを書いていると思うから、人間を考える時、「 本 」を捨てたほうが良いと考える。


2011/1/9、私の記事

このように、「 無意識 」を、意識の下の氷山とか、潜在意識などと考えるのではなく、個人が誕生以来の全ての経歴や文化や遺伝子(DNA)が作る流動する「 波動 」、つまり生体のバイオリズムから生じると考えると、いかなる「 感受性 」を持つかという事が重要になる。


2011/1/15、私の考え


私は、「 無意識 」を、「 氷山の一角が意識で、水面下に隠れているのが無意識である 」とは考えず、「 無意識 」はバイオリズムとして、体内を駆け巡っていると思う。

無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間の「 過去や現在や未来 」から乖離した「 可能性 」は存在せず、「 可能性 」という自分の生存と、主観的時間の「 現在 」は重なっている。

「 現在 」は主観的時間の一形態で、「 可能性 」は「 小脳の運動の蓋然性 」であり、人間の行為の全てであり、「 無意識 」に包摂されると考える。

「 小脳の運動 」には無意識が不可欠であり、無意識が無ければ運動する事は出来ない。

「 運動 」が全て「 相対的 」であれば、運動を「 測定 」する事は出来ない。

「 運動 」は、意識の「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ、遠近や速度を「 測定 」する事は出来ず、「 測定 」した速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的で、無意識であり、「 小脳の運動可能性 」を圧迫する「 力 」は、「 絶対静止の座標 」を持つ意識の変更を要求するストレスとなる。

ストレスが、個人の頭脳の中の「 絶対静止の座標 」や「 感受性 」を変更させ、新たな意識を生むと考える。

バイオリズムの無意識の「 現在 」と乖離した「 小脳の運動可能性 」はストレスであり、「 現在 」はストレスが解消した状態であり、潜在的な可能性が具現化した状態であり、「 過去 」や「 未来 」の可能性や蓋然性を考える事は、バイオリズムの無意識を考える事であると思う。

意識により時間の「 過去と現在と未来 」を区別するのであり、無意識の中では、「 可能性とストレスの有無 」の区別である。

時間の「 過去と現在と未来 」を考えるのは、無意識の「 可能性とストレス 」を考える事であり、前者が「 考える事 」であり、「 絶対静止の座標 」で区別する事であるが、後者は「 感じる事 」であり、「 絶対静止の座標 」を崩した新たな座標を持つ事を要求する事だと思う。

「 可能性とストレス 」を感じる事により、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の区別を破壊する事が、「 温故知新 」であり、歴史から教訓を得る事であると思う。

時間が過ぎて「 可能性 」が無くなるのではなく、無意識の中に「 ストレス 」として同化するだけで、消滅せず、「 現在 」の意識と記憶を介在して存在すると考える。

ストレスの塊が、バイオリズムの塊で、「 無意識 」であると、現時点で思っている。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 30 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

2011/1/9、オカルト・バイオリズムと感受性3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/8、私の記事

これまでの考えを少し整理する。

日本語で時間と空間という漢字で「 間(ma)」が共通して用いられ、それが「 主観的時間 」であり、「 主観的空間 」であると考えた。


主観的というのは、「 局所的 」であるとも考えるが、「 同時性 」が実感として判明する「 時空 」であると考える。

「 主観的時間 」は、具体的で現実的な時間であり、普通に使う「 時間 」で、「 過去の現在も未来 」も存在する。

私は、この「 主観的時間 」は、「 無意識 」から発生する時間意識であり、「 時間 」という実体を決定する「 生物的時間意識 」であり、存在論的に言えば、生体のバイオリズムから生じると考える。

「 主観的時間 」は、「 絶対静止の座標 」を持ったとき、「 運動 」を認識し「 同時 」を決定する。

誰にも共通という意味での「 客観的時間 」に、「 無意識 」は介入せず、客観的な「 過去や現在や未来 」は存在しない。

人類の全ての主観的意識の中で、それぞれの「 過去や現在や未来 」が存在し、その境界は、人類の全ての頭脳の中で相違する。

主観的時間がバイオリズムであり、「 過去や現在や未来 」を満たすものが可能性であると思う。

現在から、過去の「 心当たり 」を思い出す事は、未来への可能性を考える事であり、可能性が顕在化したのが「 現在 」であり、主観的時間の境界である「 現在 」の中にだけ「 過去や未来 」がある。

「 過去や現在や未来 」は、生物的、あるいは無意識の主観的時間が支配する範囲で「 記憶 」を持つから生じるのであり、記憶の顕在化、あるいは可能性の顕在化、具現化したのが「 現在 」である。

「 今 」という「 瞬間 」を断面的に考えると、意識と無意識の中心は、楕円のように複数の中心が存在すると考え、「 二本足で歩く 」ように、意識から無意識への飛躍であるが、これを存在論的に考えると、意識は「 脳の産物 」だろうが、無意識は誕生から死亡するまでの全履歴を含んだ「 生体リズムの産物 」であると考えて、意識はバイオリズムの顕在化と考え、複素数のように、無意識のバイオリズムを二乗して正になったのが意識であるかも知れない。


無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間は、バイオリズムであるため、全人類が相違した「 過去や現在や未来 」が決定され、存在し、決定された「 今 」や「 現在 」の中に可能性が顕在化し、具現化し、可能性は主観的時間から乖離する事は出来ず、可能性は必ず「 現在 」の中に存在すると考える。

無意識が決定し、意識はそれを正当化する、あるいは無意識の方向を予測し、想像する事は以前に書いた。


相対的であれど「 運動 」は「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ「 測定 」する事は出来ず、その速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的である。

無意識はバイオリズムから生じると考えるが、現在までの「 本 」は、その「 無意識 」や主観性を欠いて、「 運動 」を客観的と書いたり、意識の合理的な事だけを書いていると思うから、人間を考える時、「 本 」を捨てたほうが良いと考える。


2011/1/9、私の考え


このように、「 無意識 」を、意識の下の氷山とか、潜在意識などと考えるのではなく、個人が誕生以来の全ての経歴や文化や遺伝子(DNA)が作る流動する「 波動 」、つまり生体のバイオリズムから生じると考えると、いかなる「 感受性 」を持つかという事が重要になる。


「 知性 」と「 感情 」と「 身体 」のバイオリズムが存在するのは、「 プラズマ宇宙論のビルケランド電流 」のように、意識が派生する種々な電流を束ねる主要な電流であり、生体を構成するという事であり、主観的時間意識と主観的空間意識の「 絶対静止の座標 」である「 意識 」に把握されない電流から派生する無意識は、人間の細胞の数だけあるが、認識されないだけだろう。

脳波の「 α波 」や「 β波 」についても同じ事が言えると思う。


「 波動 」は、宇宙の波動を探求するのではなく、個人の無意識を形成する経歴や文化という物語から生じる生体リズムであり、認識するのではなく、感じるのであり、優れた感受性を持つ人は、その「 波動 」を察知する事が出来る。


盲目のピアニストは、楽譜を見るのではなく、「 波動 」を感じる感受性を持っているのであり、ミケランジェロは彫刻にメロディを感じるのであり、音楽と絵画、時間と空間が「 波動 」の中で融合していると考える。


「 波動 」は宇宙ではなく、人間の本質であり、時空が融合しているから、(主観的時間の)「 現在 」に「 同時 」に、歴史となっている作品の可能性が「 現在 」に溶解して、作者の感動や可能性が伝わると考える。


このように、無意識を生体のバイオリズムと考える事は、存在論的に、常に流動して「 無常 」である事を意味し、無意識を静止した潜在意識として処理するのではなく、複素数の二乗は正数になるように、無意識が意識に転化するかも知れない。


これは、「 無意識 」が直ちに「 意識 」となる事で、構造的には、意識は全てバイオリズムであり、「 波動 」であると考える。


決定するのは無意識(波動)や生体リズムという電流で、社会でコミュニケーションするのは意識(電磁波)であり、無意識と意識を媒介するのは「 可能性 」という「 主観的時空を構成する身体記憶 」であり、音楽や絵画などの現象面を捨てて、「 波動 」を感じる感受性を持つ人は、本質を直感する事が出来る人であると思う。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 30 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月08日

2011/1/8、オカルト・バイオリズムと感受性2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。

2011/1/3、私の記事

意識と無意識を、「 氷山 」で比喩するのが正当かも知れないが、私は、無意識を 「バイオリズムの塊 」で、「 感覚の周波数の塊 」と考え、意識は、「 絶対静止の座標軸 」という周波数の受信機により判明した無意識であると考える。


「 絶対静止の座標軸 」は意識に存在し、置き換え可能な「 受信機 」であり、現在は、身体と感情と知性というリズムしか「 受信 」していないと思う。


人間を形成する細胞の全てが、リズムを持つと思うから、「 絶対静止の座標軸 」の採用次第で、「 直感 」のリズムも解明できると思う。



2011/1/8、私の考え



これまでの考えを少し整理する。

日本語で時間と空間という漢字で「 間(ma)」が共通して用いられ、それが「 主観的時間 」であり、「 主観的空間 」であると考えた。


主観的というのは、「 局所的 」であるとも考えるが、「 同時性 」が実感として判明する「 時空 」であると考える。

「 主観的時間 」は、具体的で現実的な時間であり、普通に使う「 時間 」で、「 過去の現在も未来 」も存在する。

私は、この「 主観的時間 」は、「 無意識 」から発生する時間意識であり、「 時間 」という実体を決定する「 生物的時間意識 」であり、存在論的に言えば、生体のバイオリズムから生じると考える。

「 主観的時間 」は、「 絶対静止の座標 」を持ったとき、「 運動 」を認識し「 同時 」を決定する。

誰にも共通という意味での「 客観的時間 」に、「 無意識 」は介入せず、客観的な「 過去や現在や未来 」は存在しない。

人類の全ての主観的意識の中で、それぞれの「 過去や現在や未来 」が存在し、その境界は、人類の全ての頭脳の中で相違する。

主観的時間がバイオリズムであり、「 過去や現在や未来 」を満たすものが可能性であると思う。

現在から、過去の「 心当たり 」を思い出す事は、未来への可能性を考える事であり、可能性が顕在化したのが「 現在 」であり、主観的時間の境界である「 現在 」の中にだけ「 過去や未来 」がある。

「 過去や現在や未来 」は、生物的、あるいは無意識の主観的時間が支配する範囲で「 記憶 」を持つから生じるのであり、記憶の顕在化、あるいは可能性の顕在化、具現化したのが「 現在 」である。

「 今 」という「 瞬間 」を断面的に考えると、意識と無意識の中心は、楕円のように複数の中心が存在すると考え、「 二本足で歩く 」ように、意識から無意識への飛躍であるが、これを存在論的に考えると、意識は「 脳の産物 」だろうが、無意識は誕生から死亡するまでの全履歴を含んだ「 生体リズムの産物 」であると考えて、意識はバイオリズムの顕在化と考え、複素数のように、無意識のバイオリズムを二乗して正になったのが意識であるかも知れない。


無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間は、バイオリズムであるため、全人類が相違した「 過去や現在や未来 」が決定され、存在し、決定された「 今 」や「 現在 」の中に可能性が顕在化し、具現化し、可能性は主観的時間から乖離する事は出来ず、可能性は必ず「 現在 」の中に存在すると考える。

無意識が決定し、意識はそれを正当化する、あるいは無意識の方向を予測し、想像する事は以前に書いた。


相対的であれど「 運動 」は「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ「 測定 」する事は出来ず、その速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的である。

無意識はバイオリズムから生じると考えるが、現在までの「 本 」は、その「 無意識 」や主観性を欠いて、「 運動 」を客観的と書いたり、意識の合理的な事だけを書いていると思うから、人間を考える時、「 本 」を捨てたほうが良いと考える。


生物や心理や哲学と、学問を分けて考えたり、「 擬似科学 」などと軽視するのではなく、一人の人間を知るためには、それらの全てを統合する必要があると考える。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 30 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月03日

2011/1/3、オカルト・バイオリズムと感受性

2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


2011/1/3、私の考え


意識と無意識を、「 氷山 」で比喩するのが正当かも知れないが、私は、無意識を 「バイオリズムの塊 」で、「 感覚の周波数の塊 」と考え、意識は、「 絶対静止の座標軸 」という周波数の受信機により判明した無意識であると考える。


「 絶対静止の座標軸 」は意識に存在し、置き換え可能な「 受信機 」であり、現在は、身体と感情と知性というリズムしか「 受信 」していないと思う。


人間を形成する細胞の全てが、リズムを持つと思うから、「 絶対静止の座標軸 」の採用次第で、「 直感 」のリズムも解明できると思う。


バイオリズムを「 擬似科学 」と考える事は、思考の退化である。


バイオリズムは感覚の周波数であり、バイオリズムに対して、置き換え可能な「 受信機 」の「 感受性 」を豊かにする事が「 無意識 」の解明であり、科学者がバイオリズムを「 擬似科学 」と考える限り、無意識を解明する事は出来ず、「 疑似科学 」と考える事は、思考の退化だと考える。


人間の身体を構成する細胞にもバイオリズムが存在するかも知れないし、バイオリズムに対する「 感受性 」の感度を高める事が、無意識の解明だと思う。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 30 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする