2011年03月06日

2011/3/6、オカルト・バイオリズムと無意識と脳波2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/17、私の記事

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。

2011/2/23、私の記事
私の考え


天体の運動による時空の運動(物質の運動)、これは常に運動しているが、地球も共変しているため静止していると見える。


人は細胞の集合だが、DNAやRNAを持ち、それらが動いているが知覚する事が出来ないのは、意識も共変しているから、変化を知覚する事が出来ないと考える。


運動は、「 同時性 」のような「 絶対静止の座標 」が無ければ知覚する事は出来ない。


この知覚することが出来ない物質の動き(リズム)を「 身体 」のリズムとし、それから派生する「 運動可能性 」の無意識を「 感情 」のリズムとし、これらから派生するが、経歴や文化の「 記憶 」から生じる「 知性 」のリズムと、暫定的に考える。


人間は、細胞の集合であり、物質波の集合であり、生まれた時から、「 波動 」であるが、「 価値観 」や「 人格 」により、リズムの集合体、自我として、「 粒 」であると考える。


人間は、物質の塊や「 粒 」であると同時に、意識の波動を持ち、人間社会の波動に適合し、意識の可能性という波動(希望)を「 記憶 」で「 物質の運動 」にフィットさせて生きる動物であると思う。


2011/3/5、私の記事

人間は細胞から構成され、DNAやRNAなどの遺伝子が絶えず運動し、バイオリズムが生じるだろう。


このリズムを「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のリズムであると仮定する。


リズムは正弦波というから、「 時間意識 」を生み、主観的時間の「 間(ma)」が身体の時間意識と感情の時間意識と知性の時間意識を形成するだろう。


私の考えでは、バイオリズムは「 小脳の運動可能性 」で、人類の知性を集結した、文化を含んだ「 可能性 」であり「 欲 」であり、個人は、「 感受性 」という無意識により、自分の能力に相当する「 意欲 」という「 可能性 」を取得する。


「 可能性 」は「 能力 」ではなく、前者の社会であれば「 文化 」、後者の個人であれば「 人格 」が現実にデフォルメされて(三次元?)空間に現れる「 欲というエネルギー」であると思う。


このようにバイオリズムは、(電磁波の)意識の時間意識と空間意識を生む「 リズムと欲というエネルギーの二つの可能性 」であると思う。


「 リズム(時間)と欲というエネルギー」が(三次元?)空間に現れるのが「 脳波 」だと思う。


「 睡眠 」や「 覚醒 」のエネルギーの調節が小脳の働きであり、それが脳波に現れるならば、睡眠や覚醒の「 欲 」が、脳波という電気の「 リズム 」となって現れ、それが、地球を巡るシューマン波と合致すると考えると私の体系と一致する。


2011/3/6、私の考え


脳波やシューマン波に対する知識が無いので、憶測であるが、両者はヘルツで表現されるだろう。

脳波にバイオリズムを対応させる。

脳波のα波は8から13ヘルツ、β波は14ヘルツ、θ波は4から7ヘルツであり、α波は「 感情の波 」であり小脳の波、β波は「 知性の波 」であり、海馬の波、θ波は「 身体の波 」であり、心臓その他のDNAなどの細胞の波と考える。


バイオリズムは、主観的時間が決める「 現在 」という時制に同時に現れ、「 小脳の可能性 」という空間的な欲から海馬の記憶により「 自分の可能性 」という空間的な欲を切り取り、空間を閉ざして「 気(ki)」というエネルギーを充満させる。

これを、私は、「 現在 」という時制に「 意識は電磁波の構造をして、気(ki)というエネルギーを充満させる 」事が、「 意欲 」であると思う。


「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表す。

この「 気(ki)」が、バイオリズムの「 小脳の可能性 」と「 自分の可能性 」を連結し、エネルギーを「 自分の可能性 」にフィットさせるのは海馬の記憶であると思う。

「 気(ki)」は、エネルギーであり、振動数であり、生命体の動きであり、バイオリズムのエネルギーだろう。


私は、意識が電磁波の構造をした場を持ち、情報や情(zyou)が、気(ki)というバイオリズムのエネルギーにより伝達されると考え、いわば、「 光の中を進んでいる 」と考えている。


バイオリズムは、時制の「 現在 」に同時存在し、α波(感情)の気(ki)が弱くなりθ波(身体)の気(ki)に近づいた時が、シューマン波の7ヘルツで「 睡眠の時間 」であり、α波の気(ki)がβ波の気(ki)に近づいた時が、「 覚醒の時間 」であり、「 霊 」である「 小脳の無意識 」がこれを決める。


バイオリズムのリズムは、気(ki)の振動や波長であるから、無意識はバイオリズムの気(ki)を感じている。


気(ki)を近づけて「 覚醒した可能性 」にフィットさせて意欲を生じさせるのが海馬の記憶であるなら、「 睡眠した可能性 」にフィットさせる事が出来ないから、「 夢 」の中の意識には、意欲は存在せず、気(ki)の映像が「 現在 」の可能性の結果とは違う事もある。

この気(ki)というリズムになったエネルギーを、電気(denki)の気(ki)であり、脳波であると考えている。

この延長に、ビッグ・バン理論ではなく、プラズマ宇宙論があると思っている。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月05日

2011/3/5、オカルト・バイオリズムと無意識と脳波1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/3/5、私の考え


人間は細胞から構成され、DNAやRNAなどの遺伝子が絶えず運動し、バイオリズムが生じるだろう。


このリズムを「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のリズムであると仮定する。


リズムは正弦波というから、「 時間意識 」を生み、主観的時間の「 間(ma)」が身体の時間意識と感情の時間意識と知性の時間意識を形成するだろう。


私の考えでは、バイオリズムは「 小脳の運動可能性 」で、人類の知性を集結した、文化を含んだ「 可能性 」であり「 欲 」であり、個人は、「 感受性 」という無意識により、自分の能力に相当する「 意欲 」という「 可能性 」を取得する。


「 可能性 」は「 能力 」ではなく、前者の社会であれば「 文化 」、後者の個人であれば「 人格 」が現実にデフォルメされて(三次元?)空間に現れる「 欲というエネルギー」であると思う。


このようにバイオリズムは、(電磁波の)意識の時間意識と空間意識を生む「 リズムと欲というエネルギーの二つの可能性 」であると思う。


「 リズム(時間)と欲というエネルギー」が(三次元?)空間に現れるのが「 脳波 」だと思う。


「 睡眠 」や「 覚醒 」のエネルギーの調節が小脳の働きであり、それが脳波に現れるならば、睡眠や覚醒の「 欲 」が、脳波という電気の「 リズム 」となって現れ、それが、地球を巡るシューマン波と合致すると考えると私の体系と一致する。


シューマン波が、人体では、「 バイオリズム 」であるかも知れない。


普通は、器具を使用して、シューマン波を「 測定 」したり、「 バイオリズム 」や「 脳波 」を器具で「 測定 」するが、仏陀やキリストは、器具を用いなくても、これらの「 リズム 」やエネルギーを「 無意識に 」行使する事が出来たのかも知れない。


ただ、「 測定 」は、「 自分だけが静止している 」という仮定の上で成立するから、地球が動き、測定する側も測定される側も、共に動いている(共変している)から、真実ではなく、仏陀やキリストのように、「 感受性 」で無意識を把握するのが真理であるかも知れない。


「 バイオリズム 」を擬似科学とみなして、時間や空間を考えない「 科学 」こそ、科学の名に値しない思想であり、相対論であれ量子論であれ、既存の時空概念を前提とした功利的な考えだと思う。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月19日

2011/2/19、オカルト・バイオリズムと無意識10

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/17、私の記事

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。 


2011/2/19、私の考え

宇宙の果てまで続く「 小脳の可能性 」は、個人の主観的時間の「 過去 」の中で、「 過去の可能性 」であり、それは「 知識 」だろう。

限りなく続く「 小脳の可能性 」、「 運動可能性 」を、「 自分の今 」という主観的な「 現在 」で区切っていて、「 自我 」という楕円体を形成し、外側の「 殻 」が知識だろう。


それは、地上に生育している植物に似て、目に見えない地下の「 根 」が知識であり、自我のバイオリズムの全ての「 正弦波 」であり、太陽から生じる電磁波的な構造の意識により、「 自我 」という「 幹 」を作り、社会の中で自分の可能性を開花させ、文化という果実を作り、死亡により「 自我 」が消滅しても、個人のバイオリズムから生じた可能性が開花し消滅しただけで、人類の「 小脳の運動可能性 」の総量には変化がない。


一つの生き物に生と死があっても、「 小脳の運動可能性 」は、生により「 眠っていた可能性 」が「 目覚め 」て、死によって「 眠った可能性 」になっただけで総量に変化がないと考える。

知識には、主観的な「 過去と現在と未来 」を貫く可能性が存在しているかも知れない。

なぜなら、「 過去と現在と未来 」という時制は、バイオリズムが決定し、「 記憶 」はこれに「 可能性 」をフィットさせて「 知識 」とするが、「 死 」により「 記憶 」が消えても、別の人の「 記憶 」が、同様にして、「 可能性 」を「 復活 」させるからだ。


「 小脳の運動可能性 」から言えば、人間は可能性を目覚めさせる動物である。


日本の幕末で「 坂本龍馬 」が現れたのは、社会の隠れた運動可能性が、個人の可能性を通じて具現化したと考える。

その意味で、動物も植物も、生き物の「 運動可能性 」を「 現在 」に具現化する生き物である事では相違はない。

この「 運動可能性 」が、時空を超越する「 阿弥陀仏 」や「 創造主 」であるかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

2011/2/17、オカルト・バイオリズムと無意識9

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/28、私の考え

これは、科学的根拠のないオカルトであり、私だけの考えである。

@

時間と空間という日本語には、間(ma)という漢字が共通している。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」であるなら、間(ma)を「 自分だけの 」と解釈して「 主観的時間 」や「 主観的空間 」と呼ぶ。

「 主観的時間 」や「 主観的空間 」は、「 自分 」の「 絶対静止の座標 」の存在を前提として成立する。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」は、意識の時間であり、「 光 」で定義され、定義には「 絶対静止の座標 」が必要かも知れないが、天体の時間や空間は、測定されるのを待つだけである。


A

「 自分だけの 」の「 自分 」というのは、自分の遺伝子やこれまで生きてきた全ての経過、文化、人格から形成される「 自分 」で、「 阿頼耶識 」と考える。

これは、全ての人類の一人ひとりが相違する。


B

「 自分 」の構造は、氷山の一角に現れたのが意識で、水面下の隠れているのが無意識であるとは考えず、意識は光速で走る光の球で、それを生むのがバイオリズムの塊で、光ファイバーの塊であり、ハスの花が意識であり、茎や池が無意識であるとも考える。

バイオリズムは、自分の細胞の全てのリズムであり、波動であり、意識の知識も、始めと終わりがある物語であり、波動である。

未知のバイオリズムも存在すると思う。


C

「 過去や現在や未来 」は、「 自分だけ 」で、全ての人類の一人ひとりが相違する「 主観的時間 」である。

これは、バイオリズムから生じる無意識が決定し、「 記憶 」で決定するのではない。


「 記憶 」は、後述するように、「 運動可能性 」をフィットさせる働きをするのであり、「 過去や現在や未来 」という時制を決定する事は出来ないと考える。


D

無意識は「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」がエーテルのように充満する。

「 小脳の運動可能性 」を、バイオリズムから生じる「 現在 」という「 主観的時間 」にフィットするように「 運動可能性 」を区切るのが「 記憶 」である。

「 現在 」にフィットした「 運動可能性 」が充満しているのが、無意識の「 欲 」に光速で走る電磁波の球の意識の「 運動可能性 」を含む「 楕円体 」である。

「 現在 」は「 楕円体 」と思われるが、実際は、地球から生えた葦のように、バイオリズムが生む無意識の茎の先の「 光の楕円体 」であるかも知れない。

E

「 現在 」の「 楕円体 」の中心を考えると、意識や「 記憶 」の中心と無意識やバイオリズムの中心が存在する。

その中心は「 欲 」と「 運動可能性 」の中心であり、前者の「 絶対静止の座標 」が存在しない中心に、後者の「 絶対静止の座標 」を必要とする「 記憶 」の中心をフィットさせる事が、「 二本足で歩く事 」である。

人間の頭脳や心臓その他の臓器や人体の構造から、二本足や左右などを考える事は、人間の宿命かも知れない。


F

「 楕円体 」は「 欲 」と「 運動可能性 」が「 記憶 」によりフィットされた「 現在 」であるから、常に中心が一致せず、「 ストレス」を生じると考える。

ストレスの解消は、「 二本足で歩く事 」であり、「 運動可能性 」を現実に具現化する事であり、行動する事であると考える。



G

「 記憶 」と「 主観的時間 」と「 客観的時間 」の関係は、「 朝と昼と夜 」を考えると、私の考えが単純である事が判明すると思う。

「 朝と昼と夜 」の境界は、人類の全てにより相違する(これは「 過去と現在と未来 」)。

「 朝と昼と夜 」は、天体が決定するのでもなく、社会の定義の「 客観的時間 」が決定するのでもなく、「 記憶 」が決定するのでもなく、決定するのは「 主観的時間 」、つまり「 体内時間 」である。

天体は常に運動し、朝と昼と夜の区別はしない。

社会の定義が朝と昼と夜を決定すると思うが、無人島に住む人は、社会の定義ではなく、自分の体調で朝と昼と夜を区別するだろう。

「 記憶 」は「 朝の出来事 」を想起するが、「 朝 」という主観的時間を想起する事は出来ない。

「 朝 」には、寝床を片付けて、朝食し、新聞を見たりテレビを観たりする記憶した「 出来事 」や「 可能性 」を朝の時間にフィットするだけで、「 記憶 」が「 朝 」という主観的時間を決定する事は出来ない。

2011/1/30、私の記事

このように、「 無意識はバイオリズムから生じる 」とする実益は何か。

「 一般論 」や「 特殊論 」で書いた、「 意識 」は「 我 」であり、電磁波の構造をした「 大脳 」の働きであり、「 脳幹 」や「 小脳の運動可能性 」や「 無意識 」は、「 大我 」であり、「 人格 」であり、それらは、個人の遺伝子に関係するバイオリズムが原因である事は容易に推測される。


私は、「 時空 」が電磁波の構造で、「 情(zyou) 」を伝達し、それが認識である事は、当初から主張している。

この「 情(zyou) 」が、バイオリズムの「 感情 」であると想定している。

「 情(zyou)」は、日本語で、「 人情 」や「 愛情 」や「 感情 」や「 情動 」や「 情緒 」などと、人間として持つ事を期待される情感(zyoukan)を現わす言葉に含まれ、人間特有の性質を示している。

これが、「 無意識 」に関係している事は明白である。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定し、それを統御するのが「 人格 」であるとする。


先に書いた様に、「 情(zyou)」が、「 身体 」に近づけば「 性 」の問題になり、フロイトなどのリビドーにより「 人格 」が想定される場合もあり、「 情(zyou)」が「 知性 」に近づけば「 愛情 」となるが、「 愛 」ではない。

バイオリズムは、人間の個人的な無意識の「 情(zyou)」であるため、精神の、学問の、社会の規範には一致しない。

それは、咄嗟の場合に発揮される「 機能 」であり、「 脳 」の働きであると考える。

意識は「 電磁波的構造 」であり、電気の電磁波ではない。



2011/2/17、私の考え

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。 



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月11日

2011/2/11、オカルト・バイオリズムと無意識8

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/6、私の記事

宇宙の及ぶ所は全て「(小脳の) 欲 」が充満し、それを宇宙という時空に「 意欲 」という実体や「 可能性 」という実体にしているのが「 無意識 」であるバイオリズムであると考えれば、宇宙の「 大我 」を自分の「 我 」に実感させるのがバイオリズムであると考える。

自分という「 我 」から、宇宙規模の「 大我 」に目覚めることは、バイオリズムを分解し、自分の中で「 振動する 」波動を感じる事が一つの契機になると思う。

バイオリズムは人類の全てに相違するが、バイオリズムとしては、人類の全てが有する。

宇宙を「 弦 」で表現する人がいるが、私は、「 人間こそ波動である 」と思っている。

バイオリズムについて、現在の私は、2011/1/30の考えを維持している。

…………(省略)……………………

意識として考えるなら、無意識を生むのがバイオリズムであり、生まれる箇所は、小脳で感じる感受性が大脳で、意識として生まれるのだろう。

バイオリズムが「 正弦波 」ならば、電磁波の構造の意識も「 正弦波 」であるだろう。

小脳と大脳で、その正弦波が変換され、変換不可能な無意識や余分や独自の遺伝子的な無意識が、「 人格 」であるかも知れない。

無意識の存在や構造を考える事は、水平的で、「 存在論 」として考えると、バイオリズムを考える事は、必須の事であると思う。



2011/2/11、私の考え


日本語の「 時間 」と「 空間 」に共通する「 間(ma)」が、主観的時間と主観的空間である事は、以前、書いた。

これが、主観の中で「 同時 」に存在する事は、右脳と左脳の働きであると思うが、これから私の考えを書く。

「 過去や現在や未来 」や「 同時 」の時制は、バイオリズムである無意識の主観的時間が決定し、右脳や左脳の大脳による「 記憶 」という「 可能性 」が決定するのではない。

地球は自転し、地上で「 動かない物体 」は、観察する自分と同じ動きで「 共変 」しているのであり、その共変する動きを気づかず、「 動かない 」という座標を意識の中で持っているから、「 運動は相対的である 」というのであり、宇宙の全ては動き、静止した一点を宇宙の中に無いから相対的なのでなく、観測には「 人間の意識の中に静止した一点を考える 」事が必要であり、自分が決めた静止した一点が存在するから観測が可能であり、それに対して相対的な運動が存在するのだと思う。

これを無視した、時間や空間の哲学を欠いた相対論や量子論の中では、「 観測 」の問題を解決できないのだと思う。


普通の生活で使う時間や空間は、主観的な空間と時間であり、バイオリズムという無意識で決められ、過去や現在や未来という時制は、主観的時間の「 現在 」や「 今 」を満たす「 可能性 」という「 欲 」の可塑性の違いであり、意識の問題であり、無意識が感じる天体の運動から生じる時間や空間ではない。

宇宙の果てまで、「 小脳の無意識 」や「 欲 」は届くから、興味や好奇心が生じるのであり、「 私の 」という「 我 」により「 意欲 」と変化し、「 欲 」は「 可能性 」という「 意欲 」に変化すると考える。


私のブログでは、「 情(zyou)」が、「 可能性 」として、バイオリズムの「 身体 」の「 正弦波 」と「 感情 」と「 知性 」の「 正弦波 」を混合して、「 人格 」として「 現在 」の「 意識の正弦波(電磁場)」に具現化すると考える。


すると、「 情(zyou)」は「 感情 」や「 身体 」や「 知性 」の「 正弦波 」、つまり、「 波長 」や「 振動数 」と同調して、「 意識 」となる「 周波数の塊 」であり、「 人格 」であると考える。


「 情(zyou)」は、無意識が決めた「 現在 」の意識の「 時間という電磁場 」の「 正弦波 」の中で、「 記憶 」と混合して、「 刹那的波長(振動数) 」や「 永遠な波長(振動数) 」という「 可能性 」として具現化し、「 空間という電磁場 」の「 正弦波 」の中では、「 可能性の波長(振動数)が具現化する範囲や幅や領域 」として現れると考える。


「 情(zyou)」が、主観的な「 過去と現在と未来 」を通して伝達される「 可能性 」であると思う。「 情(zyou)」が「 身体のバイオリズム」と同調した時、「 動物的 」となり、「 情愛 」となり、「 感情のバイオリズム 」と同調した時、「 愛情 」となり、「 知性のバイオリズム」と同調した時、「 情(zyou)」は消滅して「 愛 」として行動に具現化すると考える。

バイオリズムを「 周波数 」と考えると、人間は「周波数の塊 」であり、「 周波数 」に対応して、「 人格 」が現れると考える。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月06日

2011/2/6、オカルト・バイオリズムと無意識7

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/2/6、私の考え


宇宙の及ぶ所は全て「(小脳の) 欲 」が充満し、それを宇宙という時空に「 意欲 」という実体や「 可能性 」という実体にしているのが「 無意識 」であるバイオリズムであると考えれば、宇宙の「 大我 」を自分の「 我 」に実感させるのがバイオリズムであると考える。

自分という「 我 」から、宇宙規模の「 大我 」に目覚めることは、バイオリズムを分解し、自分の中で「 振動する 」波動を感じる事が一つの契機になると思う。

バイオリズムは人類の全てに相違するが、バイオリズムとしては、人類の全てが有する。

宇宙を「 弦 」で表現する人がいるが、私は、「 人間こそ波動である 」と思っている。

バイオリズムについて、現在の私は、2011/1/30の考えを維持している。

………………………………

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定し、それを統御するのが「 人格 」であるとする。


先に書いた様に、「 情(zyou)」が、「 身体 」に近づけば「 性 」の問題になり、フロイトなどのリビドーにより「 人格 」が想定される場合もあり、「 情(zyou)」が「 知性 」に近づけば「 愛情 」となるが、「 愛 」ではない。

バイオリズムは、人間の個人的な無意識の「 情(zyou)」であるため、精神の、学問の、社会の規範には一致しない。

それは、咄嗟の場合に発揮される「 機能 」であり、「 脳 」の働きであると考える。

意識は「 電磁波的構造 」であり、電気の電磁波ではない。

派生するものであり、流れるものではない。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定するから、同じ人間でも、その組み合わせにより、悪魔になったり、聖者になったりもするだろう。

その中で、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御するのが「 人格 」であると考える。



「 人は六道の一つの道 」に生まれて存在し、六道を揺れ動くと考え、六道の中で「 正見 」する事が仏教の教えならば、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御する「 人格 」を、正しく認識する事が必要だろう。

このように考えると、僧侶の「 戒律 」や「 修行 」は、無意識を意識して高揚させる意味は有ると思う。


「 戒律 」は、教団を維持するための「 戒律 」ではなく、自分の無意識を「 洗う 」ために「 戒律を守る 」事が、僧侶に求められ、その事は、全人類に求められている事だと思う。

……………………………

意識として考えるなら、無意識を生むのがバイオリズムであり、生まれる箇所は、小脳で感じる感受性が大脳で、意識として生まれるのだろう。

バイオリズムが「 正弦波 」ならば、電磁波の構造の意識も「 正弦波 」であるだろう。

小脳と大脳で、その正弦波が変換され、変換不可能な無意識や余分や独自の遺伝子的な無意識が、「 人格 」であるかも知れない。

無意識の存在や構造を考える事は、水平的で、「 存在論 」として考えると、バイオリズムを考える事は、必須の事であると思う。

それを「 擬似科学 」ということは容易だが、「 擬似科学 」の中に、科学が到達し得ない領域があり、それが「 生命の聖域 」であり、神々が住む聖域やパワースポットであるかも知れない。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 02:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

2011/1/30、オカルト・バイオリズムと無意識6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2011/1/30、私の考え

このように、「 無意識はバイオリズムから生じる 」とする実益は何か。

「 一般論 」や「 特殊論 」で書いた、「 意識 」は「 我 」であり、電磁波の構造をした「 大脳 」の働きであり、「 脳幹 」や「 小脳の運動可能性 」や「 無意識 」は、「 大我 」であり、「 人格 」であり、それらは、個人の遺伝子に関係するバイオリズムが原因である事は容易に推測される。


私は、「 時空 」が電磁波の構造で、「 情(zyou) 」を伝達し、それが認識である事は、当初から主張している。

この「 情(zyou) 」が、バイオリズムの「 感情 」であると想定している。

「 情(zyou)」は、日本語で、「 人情 」や「 愛情 」や「 感情 」や「 情動 」や「 情緒 」などと、人間として持つ事を期待される情感(zyoukan)を現わす言葉に含まれ、人間特有の性質を示している。

これが、「 無意識 」に関係している事は明白である。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定し、それを統御するのが「 人格 」であるとする。


先に書いた様に、「 情(zyou)」が、「 身体 」に近づけば「 性 」の問題になり、フロイトなどのリビドーにより「 人格 」が想定される場合もあり、「 情(zyou)」が「 知性 」に近づけば「 愛情 」となるが、「 愛 」ではない。

バイオリズムは、人間の個人的な無意識の「 情(zyou)」であるため、精神の、学問の、社会の規範には一致しない。

それは、咄嗟の場合に発揮される「 機能 」であり、「 脳 」の働きであると考える。

意識は「 電磁波的構造 」であり、電気の電磁波ではない。

派生するものであり、流れるものではない。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定するから、同じ人間でも、その組み合わせにより、悪魔になったり、聖者になったりもするだろう。

その中で、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御するのが「 人格 」であると考える。



「 人は六道の一つの道 」に生まれて存在し、六道を揺れ動くと考え、六道の中で「 正見 」する事が仏教の教えならば、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御する「 人格 」を、正しく認識する事が必要だろう。

このように考えると、僧侶の「 戒律 」や「 修行 」は、無意識を意識して高揚させる意味は有ると思う。


「 戒律 」は、教団を維持するための「 戒律 」ではなく、自分の無意識を「 洗う 」ために「 戒律を守る 」事が、僧侶に求められ、その事は、全人類に求められている事だと思う。


その他として、日本では神が宿る場所があるが、パワースポットではなく、自分の無意識を自然に解き放つ場所として、自分の無意識を高揚させることが必要であり、「 神 」がいるならば、それを受け入れる感受性を持つ事が必要であり、旅行感覚で行っても、パワーを受ける事は不可能だろう。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月28日

2011/1/28、オカルト・バイオリズムと無意識5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/28、私の考え

これは、科学的根拠のないオカルトであり、私だけの考えである。

@

時間と空間という日本語には、間(ma)という漢字が共通している。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」であるなら、間(ma)を「 自分だけの 」と解釈して「 主観的時間 」や「 主観的空間 」と呼ぶ。

「 主観的時間 」や「 主観的空間 」は、「 自分 」の「 絶対静止の座標 」の存在を前提として成立する。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」は、意識の時間であり、「 光 」で定義され、定義には「 絶対静止の座標 」が必要かも知れないが、天体の時間や空間は、測定されるのを待つだけである。


A

「 自分だけの 」の「 自分 」というのは、自分の遺伝子やこれまで生きてきた全ての経過、文化、人格から形成される「 自分 」で、「 阿頼耶識 」と考える。

これは、全ての人類の一人ひとりが相違する。


B

「 自分 」の構造は、氷山の一角に現れたのが意識で、水面下の隠れているのが無意識であるとは考えず、意識は光速で走る光の球で、それを生むのがバイオリズムの塊で、光ファイバーの塊であり、ハスの花が意識であり、茎や池が無意識であるとも考える。

バイオリズムは、自分の細胞の全てのリズムであり、波動であり、意識の知識も、始めと終わりがある物語であり、波動である。

未知のバイオリズムも存在すると思う。


C

「 過去や現在や未来 」は、「 自分だけ 」で、全ての人類の一人ひとりが相違する「 主観的時間 」である。

これは、バイオリズムから生じる無意識が決定し、「 記憶 」で決定するのではない。


「 記憶 」は、後述するように、「 運動可能性 」をフィットさせる働きをするのであり、「 過去や現在や未来 」という時制を決定する事は出来ないと考える。


D

無意識は「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」がエーテルのように充満する。

「 小脳の運動可能性 」を、バイオリズムから生じる「 現在 」という「 主観的時間 」にフィットするように「 運動可能性 」を区切るのが「 記憶 」である。

「 現在 」にフィットした「 運動可能性 」が充満しているのが、無意識の「 欲 」に光速で走る電磁波の球の意識の「 運動可能性 」を含む「 楕円体 」である。

「 現在 」は「 楕円体 」と思われるが、実際は、地球から生えた葦のように、バイオリズムが生む無意識の茎の先の「 光の楕円体 」であるかも知れない。

E

「 現在 」の「 楕円体 」の中心を考えると、意識や「 記憶 」の中心と無意識やバイオリズムの中心が存在する。

その中心は「 欲 」と「 運動可能性 」の中心であり、前者の「 絶対静止の座標 」が存在しない中心に、後者の「 絶対静止の座標 」を必要とする「 記憶 」の中心をフィットさせる事が、「 二本足で歩く事 」である。

人間の頭脳や心臓その他の臓器や人体の構造から、二本足や左右などを考える事は、人間の宿命かも知れない。


F

「 楕円体 」は「 欲 」と「 運動可能性 」が「 記憶 」によりフィットされた「 現在 」であるから、常に中心が一致せず、「 ストレス」を生じると考える。

ストレスの解消は、「 二本足で歩く事 」であり、「 運動可能性 」を現実に具現化する事であり、行動する事であると考える。



G

「 記憶 」と「 主観的時間 」と「 客観的時間 」の関係は、「 朝と昼と夜 」を考えると、私の考えが単純である事が判明すると思う。

「 朝と昼と夜 」の境界は、人類の全てにより相違する(これは「 過去と現在と未来 」)。

「 朝と昼と夜 」は、天体が決定するのでもなく、社会の定義の「 客観的時間 」が決定するのでもなく、「 記憶 」が決定するのでもなく、決定するのは「 主観的時間 」、つまり「 体内時間 」である。

天体は常に運動し、朝と昼と夜の区別はしない。

社会の定義が朝と昼と夜を決定すると思うが、無人島に住む人は、社会の定義ではなく、自分の体調で朝と昼と夜を区別するだろう。

「 記憶 」は「 朝の出来事 」を想起するが、「 朝 」という主観的時間を想起する事は出来ない。

「 朝 」には、寝床を片付けて、朝食し、新聞を見たりテレビを観たりする記憶した「 出来事 」や「 可能性 」を朝の時間にフィットするだけで、「 記憶 」が「 朝 」という主観的時間を決定する事は出来ない。


Every miller draws water to his own mill.


posted by kandk55 at 04:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月27日

2011/1/27、オカルト・バイオリズムと無意識4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/16、私の記事

それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

………(省略)…………………


普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。


2011/1/22、私の記事

無意識とバイオリズム

物事の決定は、意識ではなく、無意識であり、「 過去と現在と未来 」を決定するのは、バイオリズムであり、これを考慮しない科学的、哲学的理論は全て「 嘘 」であると考える。

無意識とは、沈黙している過去の経歴ではなく、誕生以来、続いているバイオリズムで、「 過去と現在と未来 」を意識させる。

身体と感情と知性のバイオリズムだけでなく、人間の全細胞のリズムであり、波動だと考えるから、「 死 」のバイオリズムや未知のバイオリズムが存在すると思う。

時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできないから「 絶対静止の座標 」を、人間は頭脳の中に持つ。

あるいは、認識する物は全て「 嘘 」である。

あるいは、虚数が二乗されて実数であるのが、頭脳で理解している内容かも知れない。

全てが流動し、相対的であれば、理論体系は成立せず、「 宇宙の何処かに 」ではなく、頭脳の中で、「 絶対静止 」が存在するから、認識して日常生活が可能であると考える。

相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。


私は、ビッグ・バン理論を宇宙の理論としてではなく、誕生を基点としたバイオリズムを説明する理論だと思っている。

「 宇宙の波動 」という人がいるが、無意識のバイオリズムや意識こそ「 波動 」であり、宇宙の理論ではなく、人間の無意識の理論だと思う。

これらの理論は、私と同じように、自己の無意識を意識に投影した理論であると思う。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。



2011/1/27、私の考え

今日は、「 記憶 」と「 永遠 」と「 可能性 」を考えた。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。

これまで書いて来た「 二つの中心を持つ楕円体 」とは、生命の縄(グラスファイバー)であるバイオリズムの塊で「 無意識 」である中心と、その先端の「 光 」の「 意識 」の中心を持つ楕円体と想定している。


「 二本足で歩く 」とは、意識の中心から無意識の中心へと重心を移して行動する事で、異質の中心へ飛躍する事だが、「 記憶 」により行われる。

全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」を決定する無意識の主観的時間の「 現在 」で、「 二つの中心を持つ楕円体 」の中で、「 記憶 」により、「 二本足で歩く 」事は、「 行動 」する事である。

無意識の主観的時間の「 現在 」は、全人類で相違する「 身体可能性 」が前提になっていると考える。

「 身体可能性 」は「 小脳の身体可能性 」で、「 欲望 」は宇宙の果てまで及び、生命の縄(グラスファイバー)であるバイオリズムの塊の「 身体可能性 」だが、「 記憶 」という電磁波的な意識で限定したのが、バイオリズムで決定する無意識の主観的時間の「 現在 」であると考える。

「 現在 」や「 今 」という言葉の中に、記憶により限定される「 現在の身体可能性 」が隠れていると考える。


「 過去や現在や未来 」はバイオリズムの無意識により決定されるが、「 絶対静止の座標 」である「 自分の身体可能性 」という記憶で限定する「 過去の身体可能性と現在の身体可能性と未来の身体可能性 」であると考える。

「 過去や現在や未来 」はバイオリズムの無意識で決定され、「 記憶 」は「 可能性 」をバイオリズムから引き出して、「 現在 」から生じるストレスに応じて「 可能性 」を決定し、それが「 時間 」と重なっていると考える。

この記憶による区別の無い「 小脳の身体可能性 」で、「 欲望 」は宇宙の果てまで及ぶ、生命の縄(グラスファイバー)であるバイオリズムの塊の「 身体可能性 」が「 永遠 」であると想定する。


「 永遠 」とは「 過去や現在や未来 」の中の「 時間の永遠 」ではなく、全人類に相違する「 過去の身体可能性と現在の身体可能性と未来の身体可能性 」の中の「 可能性の永遠 」であるから、「 永遠 」は全人類の頭脳の中で相違する。


「 二本足で歩く 」とは、意識の中心から無意識の中心へと重心を移して行動する事で、異質の中心へ飛躍する事だが、「 記憶 」により行われるとは、バイオリズムで決定される「 現在 」の中で、意識に重なった「 可能性の中心 」から無意識に重なった「 可能性の中心 」への飛躍であると想定する。

意識と無意識の「 可能性 」は、「 記憶 」により、電磁波的に球状に広がっていて、楕円体として結合していると想定する。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月23日

2011/1/23、オカルト・バイオリズムと無意識3

2011/1/16、私の記事

それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

………(省略)…………………


普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。


2011/1/22、私の記事

無意識とバイオリズム

物事の決定は、意識ではなく、無意識であり、「 過去と現在と未来 」を決定するのは、バイオリズムであり、これを考慮しない科学的、哲学的理論は全て「 嘘 」であると考える。

無意識とは、沈黙している過去の経歴ではなく、誕生以来、続いているバイオリズムで、「 過去と現在と未来 」を意識させる。

身体と感情と知性のバイオリズムだけでなく、人間の全細胞のリズムであり、波動だと考えるから、「 死 」のバイオリズムや未知のバイオリズムが存在すると思う。

時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできないから「 絶対静止の座標 」を、人間は頭脳の中に持つ。

あるいは、認識する物は全て「 嘘 」である。

あるいは、虚数が二乗されて実数であるのが、頭脳で理解している内容かも知れない。

全てが流動し、相対的であれば、理論体系は成立せず、「 宇宙の何処かに 」ではなく、頭脳の中で、「 絶対静止 」が存在するから、認識して日常生活が可能であると考える。

相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。


私は、ビッグ・バン理論を宇宙の理論としてではなく、誕生を基点としたバイオリズムを説明する理論だと思っている。

「 宇宙の波動 」という人がいるが、無意識のバイオリズムや意識こそ「 波動 」であり、宇宙の理論ではなく、人間の無意識の理論だと思う。

これらの理論は、私と同じように、自己の無意識を意識に投影した理論であると思う。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。


2011/1/23、私の考え


相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。

その理由


@
時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできない。

「 共変 」するとは、私が地球上で、静止した物体を見る事や「 測定 」する事は、測定する私も、測定される物体も、他の天体から見れば、地球の自転する速度で「 動いている 」事である。

「 運動が共変するから 」静止していると見えるのであり、地球上に存在する限り、地球と共に運動しているのであり、「 静止している 」のは人間の頭脳の測定する座標、つまり意識が「 絶対静止の座標 」であるからである。

運動は相対的な事実ではなく、「 絶対静止の座標を設定すれば相対的に見える 」という主観的事実である事が客観的事実であると思う。

A
「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


時間は、少なくとも二種類あり、これを結合するのは「 記憶 」であると思うが、この事が論議されていない。


「 記憶 」は、「 過去と現在と未来 」を決定する無意識(バイオリズム)の残像であり、「 過去と現在と未来 」を融合させる「 可能性 」を外部からのストレスに応じて引き出し、ストレスを解消する「 力 」であり、「 力 」とは、「 可能性 」を具現化する意識(電磁波)であると考える。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識(バイオリズム)であり、「 記憶 」ではないというのが私の結論である。



「 記憶 」が無い人も、「 過去と現在と未来 」を持つが、無意識(バイオリズム)が持つ「 可能性 」を引き出す「 力 」が無いだけである。



この二つの理由は、詭弁かもしれない。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月22日

2011/1/22、オカルト・バイオリズムと無意識2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/1/22、私の考え


無意識とバイオリズム

物事の決定は、意識ではなく、無意識であり、「 過去と現在と未来 」を決定するのは、バイオリズムであり、これを考慮しない科学的、哲学的理論は全て「 嘘 」であると考える。

無意識とは、沈黙している過去の経歴ではなく、誕生以来、続いているバイオリズムで、「 過去と現在と未来 」を意識させる。

身体と感情と知性のバイオリズムだけでなく、人間の全細胞のリズムであり、波動だと考えるから、「 死 」のバイオリズムや未知のバイオリズムが存在すると思う。

時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできないから「 絶対静止の座標 」を、人間は頭脳の中に持つ。

あるいは、認識する物は全て「 嘘 」である。

あるいは、虚数が二乗されて実数であるのが、頭脳で理解している内容かも知れない。

全てが流動し、相対的であれば、理論体系は成立せず、「 宇宙の何処かに 」ではなく、頭脳の中で、「 絶対静止 」が存在するから、認識して日常生活が可能であると考える。

相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。


私は、ビッグ・バン理論を宇宙の理論としてではなく、誕生を基点としたバイオリズムを説明する理論だと思っている。

「 宇宙の波動 」という人がいるが、無意識のバイオリズムや意識こそ「 波動 」であり、宇宙の理論ではなく、人間の無意識の理論だと思う。

これらの理論は、私と同じように、自己の無意識を意識に投影した理論であると思う。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。

バイオリズムは、記憶されたバイオリズムではなく、ストレスを解消させるための可能性を内在し、全人類で相違する記憶に可能性を付与する、母親的な波動であり、可能性を引き出す「 記憶 」は「 道具的 」であり父親的な波動であり、母の波動から父の波動に引き出され、再び母の波動に戻るのが、「 生きる事 」だと考える。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月16日

2011/1/16、オカルト・バイオリズムと無意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/15、私の記事

私は、「 無意識 」を、「 氷山の一角が意識で、水面下に隠れているのが無意識である 」とは考えず、「 無意識 」はバイオリズムとして、体内を駆け巡っていると思う。

無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間の「 過去や現在や未来 」から乖離した「 可能性 」は存在せず、「 可能性 」という自分の生存と、主観的時間の「 現在 」は重なっている。

「 現在 」は主観的時間の一形態で、「 可能性 」は「 小脳の運動の蓋然性 」であり、人間の行為の全てであり、「 無意識 」に包摂されると考える。

「 小脳の運動 」には無意識が不可欠であり、無意識が無ければ運動する事は出来ない。

「 運動 」が全て「 相対的 」であれば、運動を「 測定 」する事は出来ない。

「 運動 」は、意識の「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ、遠近や速度を「 測定 」する事は出来ず、「 測定 」した速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的で、無意識であり、「 小脳の運動可能性 」を圧迫する「 力 」は、「 絶対静止の座標 」を持つ意識の変更を要求するストレスとなる。

ストレスが、個人の頭脳の中の「 絶対静止の座標 」や「 感受性 」を変更させ、新たな意識を生むと考える。

バイオリズムの無意識の「 現在 」と乖離した「 小脳の運動可能性 」はストレスであり、「 現在 」はストレスが解消した状態であり、潜在的な可能性が具現化した状態であり、「 過去 」や「 未来 」の可能性や蓋然性を考える事は、バイオリズムの無意識を考える事であると思う。

意識により時間の「 過去と現在と未来 」を区別するのであり、無意識の中では、「 可能性とストレスの有無 」の区別である。

時間の「 過去と現在と未来 」を考えるのは、無意識の「 可能性とストレス 」を考える事であり、前者が「 考える事 」であり、「 絶対静止の座標 」で区別する事であるが、後者は「 感じる事 」であり、「 絶対静止の座標 」を崩した新たな座標を持つ事を要求する事だと思う。

「 可能性とストレス 」を感じる事により、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の区別を破壊する事が、「 温故知新 」であり、歴史から教訓を得る事であると思う。

時間が過ぎて「 可能性 」が無くなるのではなく、無意識の中に「 ストレス 」として同化するだけで、消滅せず、「 現在 」の意識と記憶を介在して存在すると考える。

ストレスの塊が、バイオリズムの塊で、「 無意識 」であると、現時点で思っている。


2011/1/16、私の考え


それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

「 意識 」は、「 記憶 」という感受性により、「 現在 」に「 同時 」に、三個の「 無意識 」の中心を貫く時、「 直感 」あるいは「 悟り 」が得られると思う。

知性と感情と身体は、大脳と小脳と心臓の電気で流れるものであり、それぞれの波動だろう。

私は、その中で「 感情 」を重視する。

「 情(zyou)」は、「 情報 」や「 愛情 」という日本語に含まれ、「 情報 」は「 知識 」という精神に変化し、「 愛情 」は「 愛 」という精神に変化するが、「 情愛 」という動物的な「 性 」という身体のリズムに変化するからである。


「 感情 」は「 小脳の運動可能性 」であるし、全ての欲望の基礎にあり、「 意欲 」を生じる事は、以前、書いた。

普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。

私は、意識の中で、「 現在 」の中で、可能性として現れる生命の縄(グラスファイバー)の中心を飛び回りながら、生活し、その中心を貫く意識が「 直感 」である。

繰り返すが、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の幅は、全人類の生きてきた経路やDNAの違いで全人類の可能性が全て違うように、全人類の記憶の違いにより、相違する。

その「 現在 」の中での「 無意識 」が、以上に書いたことである。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 02:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 31 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする