2011年08月20日

2011/8/20、オカルト・自分探し(自分)6(無意識と存在)

A無意識と関係

2011/8/11、私の記事


「 存在 」を言葉ではなく、「 存在論 」として考えると、バイオリズムや無意識について、考える必要があると思う。

ガリレオにより、生命のリズムとも考える脈拍や鼓動を捨てて「 振り子 」の一定した振幅を採用したのが科学を生んだと同時に、人間の体内時計を捨て、本来の「 時間 」を失った。


哲学を、意識の厳密な理論とするから、意味や意識の理論で終わり、存在から遊離したのだと思う。


私は、「 言葉の関係 」ではなく、自分と存在する事物や事象の関係を問うものだから、私自身が事物その物になって考えたとき、「 存在論 」として考えるから、「 欲 」や「 無意識 」についても考え、その結果、「 関係 」の選択が自分に、将来の自分を決定する事であると思う。



人間はすべて「 欲 」という考えと、すべては「 関係 」であるという考えから、どんな考えになるだろうか?


私は、「 欲 」や「 無意識 」を「 気(ki)」と「 情(zyou)」で考えてきた。


まず、気(ki)の「 関係 」について書く。


「 気(ki)」は「 空気(kuuki)」や「 電気(denki)」というように、「 流れる物 」であり、エネルギーの領域であり、空気を呼吸するから「 今 」や、その延長の「 現在 」を決めるバイオリズムであるだろう。


「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。


その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


それは、「 死 」と共に消滅する魂であるだろう。


他方、「 情(zyou)」の関係は何か。


情(zyou)は、「 人情 」や「 情熱 」という人間に共通な「 感情 」を示す言葉に使われるだけだけでなく、「 情報 」などの「 伝達されるもの 」、「 物から派生したもの 」に使われ、遺伝子情報も含む「 物語 」であり、そのため、「 時間 」や「 空間 」を必要とするから、「 意識 」に近い無意識で、それは時制の「 過去や未来 」を形成すると思う。


情(zyou)は、「 物語 」であるから「 文化 」も含み、社会の知識も含むと思う。


その情(zyou)が持つ、意識が「 静止 」した情報を、「 今 」、「 現在 」に「 動かす 」あるいは「 解凍 」するのが、気(ki)が持つ、エネルギーであると思う。



知識を行為に具現化するのが、気(ki)であり、当然だが、行為は「 今 」、「 現在 」にしか存在しない。


情(zyou)は、意思という感情である場合もあり、意思が具現化した「 文化 」は「 死 」によっても消滅せず、後世に引き継がれるだろう。


遺伝子情報は「 子孫 」という形で、後世に引き継がれる。



2011/8/20、私の考え


気(ki)と情(zyou)の関係


無意識を気(ki)と情(zyou)で考え、前者をエネルギーで、後者をDNA情報も含めた自分のすべての文化と考え、前者が「 瞬間 」や「 現在 」を決め、後者が「 過去や未来 」を決めると考える。

前者の気(ki)を電気(denki)と考え、知覚器官を動かすのは電気(denki)で、生物が知覚するのは電気(denki)に依ると考える(私は、これを生気論だと思う)。


存在は、一定の関係であり、知覚するのは、この関係であるからストレスという力線を生み、欲で知覚が動き、気(ki)は器官を働かせるエネルギーであると思う。

気(ki)は、食物の摂取と心肺活動により生じるだろう。


眼が見るのは、「 存在 」する物体ではなく、自分に対する関係(例えば、方向)である。


人間も牛や馬の眼には、風景は模様となって、眼に映っているかもしれない。

「 存在 」するか否かは、情(zyou)が決定すると考える。

眼が「 実体 」を決めるのではなく、決定するのは情(zyou)であると思う。

眼によって見えるから「 存在 」するのではなく、五感や五体に充満する情(zyou)という感情による実感で「 存在 」が決まると思う。

動物と人間は情(zyou)が違うから、人間にとっての「 存在 」は、牛や馬には「 存在しない 」かもしれない。


眼で遠近を感じるのは、自分の行動可能性を考えるから、欲を持つからであり、欲が無い場合は「 模様 」として感じるだろう。


見ることに依存せず、感じることが、存在を知覚することであり、盲目の人がピアノの鍵盤の位置を知っているのは、音を発する鍵盤の位置を感じ、存在を知っているからだと思う。


見ることは、自分との関係を知ることで、「 存在 」を知ることではないと思う。


「 存在 」は「 感じる 」意識であり、「 存在 」を決めるのは情(zyou)であると考える。


これは、人間に限らず、生物一般の知覚であると考えると、知覚の機構は同じだが、獲得する「 実体 」はすべて相違するから、「 実体 」は動物の共同社会の定義、知識であると思う。


人間は言葉で「 実体 」を知識化するから、ほかの動物より優れていると思う。


この事象の知識化も、「 無意識 」の要素である気(ki)と情(zyou)が関係すると考える。


@事象に気(ki)を放ち、情(zyou)を獲得するのが知識化で、「 気(ki)を配る 」という行為として現れ、気(ki)というエネルギーが主体であるので、情(zyou)は、「 今 」、「 現在 」の知識である知恵になり、意識になるだろう。


A他方、「 行間を読む 」というように、懸命に情(zyou)を注ぎ、気(ki)を取り出すのは、過去や未来の知識から(知識という意識から)、知恵を引き出す、あるいは情(zyou)を気(ki)というエネルギーに溶かし込む行為であると考える。


@はエネルギーの放出だから、「 呼吸 」で空気を外部へ吐き出す行為と考え、Aは、エネルギーの燃焼であるから、「 呼吸 」の空気を吸い込む行為と考える。


「 呼吸 」は「 今 」「 ここ 」「 現在 」という時制を決めるから、@とAは、「 現在 」で行われると考える。


こうして、「 自分 」は、気(ki)という電気(denki)で眼や耳を動かして、自分との「 関係 」を捕らえ、情(zyou)という全身のDNA情報で、物体を「 存在 」として捕らえ、「 存在 」とは「 感じる 」という意識であり、「 存在 」の認識には「 感受性 」を必要とし、「 呼吸 」で決まる現在に、空気を吸ったり吐いたりするときに、気(ki)と情(zyou)を使って、@とAの行為をしていると思う。


「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。


posted by kandk55 at 03:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月13日

2011/8/13、オカルト・自分探し・自分5(無意識と意識)

@存在を関係と考えること

2011/7/19、私の記事

なぜ、私が、「 存在と時間 」ではなくて、「 存在と関係 」というタイトルにしたのかについて書くことにする。


タイトルの「 関係 」は、言葉上の「 関係 」ではなく、事物、事象と私の「 関係 」である。

「 関係 」は、互いに動くものの間(ma)の相互連携である。


頭脳の中の「 静止 」は自由だが、静止していると思うすべての事物や事象は運動している。

無意識に「 静止 」しているのが存在論的に「 存在 」であるが、「 存在 」を規定したとき、意識や無意識は呼吸と共に動いている。


「 測定 」したことが事物であり、事象であると思うが、「 測定 」は静止した状態の数値だが、宇宙の運動から考えると、「 静止 」は人間の頭脳の中に在り、静止した事物は自分と同じ動きをするから、「 静止 」と思うのであり、地球が自転しているから、測定する人も対象も、宇宙的に言えば「 静止 」していないと思う。


事象の法則も「 関係 」であるが、その前の、絶えず運動する事物や事象の「 存在 」と絶えず運動する無意識との「 関係 」であり、測定者の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」から分離することが出来ない「 関係 」である。

それは、現実に事象や事物が存在することは、測定者本人の無意識でしか確定することが出来なく、法則が客観的であるのは、人間の主観が同じように判断するからであると思う。

……………(省略)…………………


形而上学的に「 ある 」というのは、存在論として、バイオリズムや遺伝子情報により、決定され、それは「 主観的 」な「 関係 」を具現化することが必要で、それは、個人の主観的な「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」で表現される「 関係 」であり、「 時間 」を考える事は、「 現在 」を「 過去や未来 」の知識で説明することだと思い、「 瞬間 」や「 現在 」の中の「 存在 」を説明することではないと思う。




A無意識と関係

2011/8/11、私の記事


「 存在 」を言葉ではなく、「 存在論 」として考えると、バイオリズムや無意識について、考える必要があると思う。

ガリレオにより、生命のリズムとも考える脈拍や鼓動を捨てて「 振り子 」の一定した振幅を採用したのが科学を生んだと同時に、人間の体内時計を捨て、本来の「 時間 」を失った。


哲学を、意識の厳密な理論とするから、意味や意識の理論で終わり、存在から遊離したのだと思う。


私は、「 言葉の関係 」ではなく、自分と存在する事物や事象の関係を問うものだから、私自身が事物その物になって考えたとき、「 存在論 」として考えるから、「 欲 」や「 無意識 」についても考え、その結果、「 関係 」の選択が自分に、将来の自分を決定する事であると思う。



人間はすべて「 欲 」という考えと、すべては「 関係 」であるという考えから、どんな考えになるだろうか?


私は、「 欲 」や「 無意識 」を「 気(ki)」と「 情(zyou)」で考えてきた。


まず、気(ki)の「 関係 」について書く。


「 気(ki)」は「 空気(kuuki)」や「 電気(denki)」というように、「 流れる物 」であり、エネルギーの領域であり、空気を呼吸するから「 今 」や、その延長の「 現在 」を決めるバイオリズムであるだろう。


「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。


その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


それは、「 死 」と共に消滅する魂であるだろう。


他方、「 情(zyou)」の関係は何か。


情(zyou)は、「 人情 」や「 情熱 」という人間に共通な「 感情 」を示す言葉に使われるだけだけでなく、「 情報 」などの「 伝達されるもの 」、「 物から派生したもの 」に使われ、遺伝子情報も含む「 物語 」であり、そのため、「 時間 」や「 空間 」を必要とするから、「 意識 」に近い無意識で、それは時制の「 過去や未来 」を形成すると思う。


情(zyou)は、「 物語 」であるから「 文化 」も含み、社会の知識も含むと思う。


その情(zyou)が持つ、意識が「 静止 」した情報を、「 今 」、「 現在 」に「 動かす 」あるいは「 解凍 」するのが、気(ki)が持つ、エネルギーであると思う。



知識を行為に具現化するのが、気(ki)であり、当然だが、行為は「 今 」、「 現在 」にしか存在しない。


情(zyou)は、意思という感情である場合もあり、意思が具現化した「 文化 」は「 死 」によっても消滅せず、後世に引き継がれるだろう。


遺伝子情報は「 子孫 」という形で、後世に引き継がれる。




2011/8/13、私の考え


B意識と関係

存在を「 言葉 」で証明するのではなく、存在論的に「 行為の可能性が一定である関係を存在 」と考える。


無意識を以上のように考え、呼吸で決まる「 瞬間 」や「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。



その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


呼吸による「 今 」と「 ここ 」という「 現在 」を決定する無意識の気(ki)の中に「 主観的時間 」と「 主観的空間 」を考える。

前者は時間意識であり、後者から派生する精神であり、磁場であるのに対して、後者は空間意識であり、神経に流れる電流で電場であり、後者は、絶えず小脳からエネルギーを補給されるという、少なくても二重の構造であると思う。


時間や空間の存在を言葉で規定するのは困難だろう。


時間は「 主観的時間意識 」で、空間は「 主観的空間意識 」であるから、意識の性質として「 静止 」や「 絶対 」が頭脳の中に生じるから、「 局所的か否か 」を考える必要はなく、始めと終わりがある物語を決定したり否定したりして理論を形成することが出来る。


無意識の情(zyou)が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」という気(ki)から生じた意識の座標により、情(zyou)の情報や「 知識 」の因果関係の物語が、「 今 」、「 ここ 」で、状況に応じた「 知恵 」となって、「 現在 」の状況に具現化し、解凍されると考える。


具現化するエネルギーが、気(ki)というエネルギーであり、「 主観的空間 」の電場と「 主観的時間 」の磁場の中で、電磁波的な構造で、情(zyou)という無意識の小脳の可能性である「 心 」が伝達されると思う。


「 言葉 」が表す「 行為可能性 」を引き出し、現在の状況に応用するのが意識だと思う。


存在を伝達するのも、小脳の「 行為の可能性 」という関係を伝達するのだと思う。


存在する事物を「 言葉 」で証明するのではなく、存在論的に「 行為の可能性が一定である関係を存在 」と考え、「 言葉 」の意味ではなく、「 今 」「 ここ 」に言葉が示す、自分と事物の主観的な間(ma)の中の「 行為の可能性 」という関係を受け取る感受性が、理解に導くと思う。


存在論的に「 行為の可能性が一定の関係 」を存在と考え、これが具現化した現実の知覚の中で、言葉という手段で伝達するのは「 行為の可能性 」という無意識の自分と事象の関係であり、言葉が持つ意味や志向性を考える方法は、存在への理解から遠くなると思う。


間違っているかもしれないが、外国人同士が「 言葉 」は知らなくても「 しぐさ(ジェスチャー)」で理解できることを例にする。


「 行為の可能性 」は無意識の領域であり、言葉の前に、察知することが出来るだろう。


意識は電磁波の構造を持つことは、まだ維持している。


無意識を断ち切り、決定するのは、「 電気(denki)」の力だと思うし、眼で光を見て、耳で音を聞くのは、心臓に電気が走っているように、神経の中に電気を考えるのが、「 生気論 」や「 プラズマ宇宙論 」を肯定する私の立場からの結論である。

posted by kandk55 at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月11日

2011/8/11、オカルト・自分探し(自分)4(存在と関係)

2011/7/10、私の記事

ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。

小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。


2011/7/19、私の記事

「 存在 」を考えることは、バイオリズムを考えたり、遺伝子情報を考えることで、心理学や遺伝子の科学で「 欲 」の具現化(行為)が物語であれば、ガリレオ以前の心拍のリズムや呼吸のリズムなど、個人の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」に受け入れられる「 関係 」だと思う。


2011/7/24、私の記事

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



2011/7/31、私の記事

私は、その無意識の奥に「 欲 」を考える。


「 欲 」は、「 小脳の運動可能性 」や「 心 」や、「 主観的時間 」などの無意識を統合し集中させる遺伝子情報も含む「 バイオリズム 」だと考えている。

2011/7/24、私の記事

「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。


2011/8/7、私の記事

このように、すべてを「 関係 」にして、その統合として「 欲 」を考える。

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



2011/8/11、私の考え



「 存在 」を言葉ではなく、「 存在論 」として考えると、バイオリズムや無意識について、考える必要があると思う。

ガリレオにより、生命のリズムとも考える脈拍や鼓動を捨てて「 振り子 」の一定した振幅を採用したのが科学を生んだと同時に、人間の体内時計を捨て、本来の「 時間 」を失った。


哲学を、意識の厳密な理論とするから、意味や意識の理論で終わり、存在から遊離したのだと思う。


私は、「 言葉の関係 」ではなく、自分と存在する事物や事象の関係を問うものだから、私自身が事物その物になって考えたとき、「 存在論 」として考えるから、「 欲 」や「 無意識 」についても考え、その結果、「 関係 」の選択が自分に、将来の自分を決定する事であると思う。



人間はすべて「 欲 」という考えと、すべては「 関係 」であるという考えから、どんな考えになるだろうか?


私は、「 欲 」や「 無意識 」を「 気(ki)」と「 情(zyou)」で考えてきた。


まず、気(ki)の「 関係 」について書く。


「 気(ki)」は「 空気(kuuki)」や「 電気(denki)」というように、「 流れる物 」であり、エネルギーの領域であり、空気を呼吸するから「 今 」や、その延長の「 現在 」を決めるバイオリズムであるだろう。


「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。


その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


それは、「 死 」と共に消滅する魂であるだろう。


他方、「 情(zyou)」の関係は何か。


情(zyou)は、「 人情 」や「 情熱 」という人間に共通な「 感情 」を示す言葉に使われるだけだけでなく、「 情報 」などの「 伝達されるもの 」、「 物から派生したもの 」に使われ、遺伝子情報も含む「 物語 」であり、そのため、「 時間 」や「 空間 」を必要とするから、「 意識 」に近い無意識で、それは時制の「 過去や未来 」を形成すると思う。


情(zyou)は、「 物語 」であるから「 文化 」も含み、社会の知識も含むと思う。


その情(zyou)が持つ、意識が「 静止 」した情報を、「 今 」、「 現在 」に「 動かす 」あるいは「 解凍 」するのが、気(ki)が持つ、エネルギーであると思う。



知識を行為に具現化するのが、気(ki)であり、当然だが、行為は「 今 」、「 現在 」にしか存在しない。


情(zyou)は、意思という感情である場合もあり、意思が具現化した「 文化 」は「 死 」によっても消滅せず、後世に引き継がれるだろう。


遺伝子情報は「 子孫 」という形で、後世に引き継がれる。


私は、「 ガイア理論 」や「 六道輪廻 」を信じるので、その情(zyou)が、私の死後に地球のひとつの生命体になり、(シューマン波になり脳波になり)、再び「 生物 」の精神に生まれ変わると思う。
posted by kandk55 at 01:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月07日

2011/8/7、オカルト・自分探し(自分)3

2011/7/241、私の記事

「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


動植物が生きる物と同じように生きるが、意識や無意識を持った物体が自分であり、動植物が生きる条件が、自分には「 関係 」として現れると思う。


「 瞬間 」の中で、DNA情報もバイオリズムも一切の情(zyou)を気(ki)というエネルギーで統合したのが自分であり、「 生きる 」とは、「 関係の中で生きる 」ことであり、「 関係 」を媒介として、植物が花を咲かせるように、同じ物体でありながら、自分が変化することだと思う。


………………(省略)………………


自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。




2011/8/7、私の考え


「 存在 」を、「 時間 」ではなく、「 関係 」と考える利点は何か。


それは、すべてを「 関係 」と考えることである。


事物や事象は、その物自体や宇宙空間の中で変化し、止まることはない。


これを「 無常 」と考えるが、観測者の私も事物や事象も変化し、「 静止 」しているのは、私の頭の中での「 関係 」である。


事象や事物は常に動き、私の「 小脳の可能性 」やバイオリズムや無意識で「 静止 」していると考えるのだと思う。


私の「 小脳の可能性 」やバイオリズムや無意識で「 静止 」しているとは、自分の可能性の限度であり、「 欲 」の限度であると思う。


すべてを「 関係 」と考え、その「 関係 」を統合するのが、自分の「 欲 」である。


私の「 欲 」の表現が、私の「 静止した事物 」すなわち「 存在 」である。


「 存在 」を、「 時間 」ではなく、「 関係 」と考える事は、「 欲 」の及ぶ範囲が「 存在 」の範囲であり、「 欲 」を持つ限り、あらゆる存在と自分の「 心 」とを引力のように結びつけ、自分の事として考える事が出来るという利点があると思う。


存在は「 観察者 」や「 測定者 」の主観や測定方法から分離することは出来ず(つまり測定者の主観的時間と空間で関係が成立する)、法則は「 関係 」が一定である事であり、時間や空間という意識も含んで、事物や事象の「 存在 」を保障するのではない。


このように、すべてを「 関係 」にして、その統合として「 欲 」を考える。

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



人間は「 欲 」を持つ動物であることは、以前に書いた。


「 欲 」は「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中でのベクトル(力線)であり、「 欲 」をコントロールすることは、存在をコントロールすることであり、それは、存在するとか存在しないとかいう「 言葉 」の問題ではなく、「 感受性 」の有無の問題であると思う。


「 存在 」が「 欲 」の具現化であるから、いわゆる「 物欲 」が強い人は強欲であるとも考える。


「 欲 」の種類、「 心 」の種類が「 六道 」であることも以前に書いた。


ある「小説家 」のように、「 無常 」を「 はかない事で、あきらめる事とは「 考えずに 」、時間や空間で規定することは出来ない「 瞬間 」の中で、変遷する「 関係 」の多様性として捕らえることが、前進的であると考える。
posted by kandk55 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月02日

2011/8/2、オカルト・自分探し(自分)2

2011/7/31、私の記事

私は、その無意識の奥に「 欲 」を考える。


「 欲 」は、「 小脳の運動可能性 」や「 心 」や、「 主観的時間 」などの無意識を統合し集中させる遺伝子情報も含む「 バイオリズム 」だと考えている。


呼吸し、血液が流れている以上、人類はすべて「 生存欲 」を持つと思う。


その「 欲 」が「 六道 」であり、生来、「 欲 」を持っているとは、生来「 六道 」のひとつの中に生まれている事だと思う。


その「 欲 」の現れが、「 人格 」であると思う。


私は、時制を決める「 バイオリズム 」が「 死 」に向かって進む関係であることを念頭に置いて、生きている「 瞬間 」の中にバイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することだと思う。



六道

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93



2011/8/2、私の考え


上記のように、「 自分 」を存在論的に考え、「 瞬間 」の中のバイオリズムを「 欲 」として考える事により、仏教の言葉と少しだけ同調することが出来る。


私は、時制を決める「 バイオリズム 」が「 死 」に向かって進む関係であることを念頭に置いて、生きている「 瞬間 」の中にバイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することだと思うと書いた。


これは、時間も空間も計測することが出来ない「 瞬間 」の中で「 関係 」する事物により、自分の結果、自分の人格が変わることだと思う。


仏教で、「 善因善果 悪因悪果 自因自果 」というが、人間を存在論的に考え、「 瞬間 」の中の「 関係 」を「 因果関係 」と考えるが、その「 因果関係 」を自然界の因果として考えるのが一般的だろうが、私は、この場合の「 因果関係 」を自然界の因果関係ではなく、人が変わること、人格が変わることの原因と結果の関係であると考える。

私の「 行為 」に応じた結果が現れること。


善い行為をすれば、未来に善い結果(自分)になるだろうし、悪い行為をすれば、未来に悪い結果(自分)になる。


何事も、自分の行為が原因になっているのが「 自因自果 」であると思う。


存在論的な「 自分 」が、「 瞬間 」というベクトル(力線)の関係の中で、バイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することが、「 善因善果 悪因悪果」であり、「 善 」になるか「 悪 」になるかは、自分の行為次第(自因自果)であると思う。


行為は「 欲 」によって決められるから、「 善い欲 」を持てば「 善い結果 」になり、「 悪い欲 」を持てば「 悪い結果 」になると思う。



因果の道理(Wikipedia)

善因善果 悪因悪果 自因自果
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86

因果の道理こそ、釈尊がえた仏陀の悟りの内容である。「因果」とは原因と結果の関係、人の幸福、不幸が何によって起きるか、その因果律をいう。また「道理」とは、三世(過去世、現在世、未来世)十方(東西南北上下四維)において変わらぬ真理をいう。すなわち、苦悩の解決をあらわした普遍的真理である。
・ 善因善果(ぜんいんぜんか)
・ 悪因悪果(あくいんあっか)
・ 自因自果(じいんじか)
「因」とは、我々が、心に蒔く「思い」という種である。その種が、口や身体の「行為」へと生長する。これを「心口意の三業」と言う。
「果」とは、私自身の幸不幸である。因であるところの「思い」の種が生長し、行為となり、さらには私の外的環境の「花」を咲かす。そこから収穫される「実」が「果」である。甘い実、苦い実がある如く。蒔いた種に応じて 幸不幸がある、ということ。 
因果の道理とは、我々の運命は何によって決まるのかを教えられたものである

posted by kandk55 at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月31日

2011/7/31、オカルト・自分探し(自分)

2011/7/241、私の記事

「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


動植物が生きる物と同じように生きるが、意識や無意識を持った物体が自分であり、動植物が生きる条件が、自分には「 関係 」として現れると思う。


「 瞬間 」の中で、DNA情報もバイオリズムも一切の情(zyou)を気(ki)というエネルギーで統合したのが自分であり、「 生きる 」とは、「 関係の中で生きる 」ことであり、「 関係 」を媒介として、植物が花を咲かせるように、同じ物体でありながら、自分が変化することだと思う。


………………(省略)………………


自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



2011/7/31、私の考え


上記の立場から、「 自分 」を考える。


「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


事物自体としての私とは、バイオリズムなどの無意識で規定する「 存在 」が新陳代謝して常に変化する無意識の自分に対して、自分の生命に迫るベクトル(力線)の強弱として感じるのが「 五感 」であり、人類に共通の関係は客観的な「 法則 」であると思うが、自分の身体はその「 法則 」という関係が満ちた物体であり、客観的な法則を、自分という主観的な意識に結びつけているのは、「 欲 」だと思う。


一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 関係 」を統合するのは「 欲 」だと思う。


「 人間 」は、無意識で呼吸し血液が循環して生命を維持するように、「 生存欲 」を生来、持っている。


「 小脳の運動可能性 」も「 心 」も、「 主観的時間 」も「 バイオリズム 」などの無意識も「 欲 」であり、互いに変化する事物や事象を頭の中で「 存在 」や「 静止 」と思うのも「 欲 」であり、「 存在 」に「 心 」が動揺する(好きや嫌い)のが「 現実 」であると思う。


それは、「 時間 」に関係しない。


自分が持つ「 欲 」を具現化したのが「 知覚 」であり、「 五感 」であり、その時に時間や空間を必要とするかも知れない。



時制がバイオリズムなどの無意識で決められることは、私が物自身で、因果関係の中にいて、「 関係 」を選択することは、自分の未来を決定することだと思う。


私には「 過去と未来 」があると思うが、これは、「 現在 」が持つ心拍のリズムなどの「 主観的時間 」や「 バイオリズム 」のリズムが「 死 」に向かって進行するから考える「 知性的 」「 思索的 」時空であると思う。


意識の中の「 感性 」や「 悟性 」や「 理性 」といのも、無意識の「 バイオリズム 」が意識で思考されて、人類に共通な意識として具現化したのかも知れない。


「 感性 」や「 悟性 」や「 理性 」と呼ぶが、その内容や範囲は無意識で決められるからである。


「 感性 」を追求すれば、無意識を考える必要があるだろう。


私は、その無意識の奥に「 欲 」を考える。


「 欲 」は、「 小脳の運動可能性 」や「 心 」や、「 主観的時間 」などの無意識を統合し集中させる遺伝子情報も含む「 バイオリズム 」だと考えている。


呼吸し、血液が流れている以上、人類はすべて「 生存欲 」を持つと思う。


その「 欲 」が「 六道 」であり、生来、「 欲 」を持っているとは、生来「 六道 」のひとつの中に生まれている事だと思う。


その「 欲 」の現れが、「 人格 」であると思う。


私は、時制を決める「 バイオリズム 」が「 死 」に向かって進む関係であることを念頭に置いて、生きている「 瞬間 」の中にバイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することだと思う。




六道

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93
posted by kandk55 at 05:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月24日

2011/7/24、オカルト・自分探し(存在と関係)4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/7/10、私の記事


「 時間性 」について


私は、時間についても意見を相違する。


ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。


そして、「 瞬間 」を考えた時、時間が無能である事が判明する。

「 瞬間 」とは何か。

瞬きする時間だろうか。

では、眠っているときに、「 瞬間 」は無いのだろうか。

「 時間 」という時、それは過去の情報であり、「 瞬間 」の情報ではない。


「 呼吸と今とここ 」で書いたように、目覚めている時も眠っている時も「 共通 」であるのは「 呼吸 」である。


呼吸は止まると感じるだろうが、肺の動き、皮膚呼吸の動きは止まらない。


小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。



………………………………………

2011/7/19、私の記事


タイトルの「 関係 」は、言葉上の「 関係 」ではなく、事物、事象と私の「 関係 」である。

「 関係 」は、互いに動くものの間(ma)の相互連携である。


頭脳の中の「 静止 」は自由だが、静止していると思うすべての事物や事象は運動している。

無意識に「 静止 」しているのが存在論的に「 存在 」であるが、「 存在 」を規定したとき、意識や無意識は呼吸と共に動いている。


「 測定 」したことが事物であり、事象であると思うが、「 測定 」は静止した状態の数値だが、宇宙の運動から考えると、「 静止 」は人間の頭脳の中に在り、静止した事物は自分と同じ動きをするから、「 静止 」と思うのであり、地球が自転しているから、測定する人も対象も、宇宙的に言えば「 静止 」していないと思う。


事象の法則も「 関係 」であるが、その前の、絶えず運動する事物や事象の「 存在 」と絶えず運動する無意識との「 関係 」であり、測定者の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」から分離することが出来ない「 関係 」である。

それは、現実に事象や事物が存在することは、測定者本人の無意識でしか確定することが出来なく、法則が客観的であるのは、人間の主観が同じように判断するからであると思う。


存在論は、意識ではなく、バイオリズムから生じる無意識による規定で、それは遺伝子情報や生来からの思想、生活や文化、すべての経歴(阿頼耶識)の情(zyou)と個人の気質の気(ki)による規定であることは、以前、書いた。

存在を考えるとき、小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」の中での「 存在 」を、五感で規定することを考える必要があるだろう。


「 瞬間 」の連続が「 現在 」だが、「 現在 」の中の「 存在 」は五感の先の無意識で感じるから、これを時間と空間を使って規定することは出来ないと思う。

「 瞬間 」は小脳の領域であり、知覚する「 遠近 」や「 強弱 」は、「 速度 」などのベクトル(力線)の領域であり、「 欲 」の領域であり、「 速度 」が時間や空間で計測することが出来ないと同じように「 瞬間 」を時間や空間で計測することは出来ないと思う。


自転している地球上の自分が、地球の速度を測定することが出来ないことと同じで、「 瞬間 」は、ベクトル(力線)に満ちた間(ma)であると考える。



瞬間は「 欲 」の領域だから「 存在 」と認めると同時に自分の「 心 」が動揺する。

「 瞬間 」の中で、「 存在 」と「 自分の無意識 」は、「 引力 」のように連携していると思う。


地球と自分の間の「 引力 」を解明するように、「 存在 」と感じる小脳の無意識の「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」という「 関係 」を「 引力 」と思って「 存在 」を規定することを意図して、「 存在と関係 」というタイトルにした。

これは、言葉の志向性の問題ではない。

言葉だけの「 関係 」ではない。

事物や事象と自分の「 関係 」である。

なぜ「 存在 」と感じるかは、どのような無意識の「 欲 」の具現化であるかという「 関係 」を考え、「 関係 」は「 努力 」に似て、「 行為 」が「 具現化 」や「 結果 」であると思う。

「 存在 」を考えることは、バイオリズムを考えたり、遺伝子情報を考えることで、心理学や遺伝子の科学で「 欲 」の具現化(行為)が物語であれば、ガリレオ以前の心拍のリズムや呼吸のリズムなど、個人の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」に受け入れられる「 関係 」だと思う。

個人の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中で、「 可能性は現実となる 」と思うからである。

形而上学的に「 ある 」というのは、存在論として、バイオリズムや遺伝子情報により、決定され、それは「 主観的 」な「 関係 」を具現化することが必要で、それは、個人の主観的な「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」で表現される「 関係 」であり、「 時間 」を考える事は、「 現在 」を「 過去や未来 」の知識で説明することだと思い、「 瞬間 」や「 現在 」の中の「 存在 」を説明することではないと思う。

そう考えるから、「 存在と時間 」ではなく、「 存在と関係 」というタイトルにした。


2011/7/24、私の考え


「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


動植物が生きる物と同じように生きるが、意識や無意識を持った物体が自分であり、動植物が生きる条件が、自分には「 関係 」として現れると思う。


「 瞬間 」の中で、DNA情報もバイオリズムも一切の情(zyou)を気(ki)というエネルギーで統合したのが自分であり、「 生きる 」とは、「 関係の中で生きる 」ことであり、「 関係 」を媒介として、植物が花を咲かせるように、同じ物体でありながら、自分が変化することだと思う。


「 現存在 」を時間で規定するのではなく、「 瞬間に充満する関係が規定する自分 」と考えると、死の前に立つ自分を考えなくても、生きている間に、ベクトル(力線)に満ちた間(ma)で選択する「 関係 」の種類と習慣的な行動により、天国へ行く人か地獄へ行く人かが決まるだろう。


いや、現実の世界で、天国か地獄か、人か畜生か、決まっているかも知れない。


「 関係 」はDNA情報やバイオリズムや情報という情(zyou)が個人の内部の関係であり、運や宿命や縁(en)は外部の関係であり、「 関係 」であるから、個人の内部が変化すれば外部の関係も変化すると思う。


自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



自分を時間的存在と考えると、死を考えて不安になるが、生物的な「 死 」は遺伝子情報に組み込まれているかも知れないし、交通事故で死ぬかもしれない。


生物的な「 死 」を考えるのは自由だが、「 瞬間 」の中で自分の「 関係 」を選択して「 生きる 」、つまり自分を変えたあとに、「 死 」を待っても遅くない。
posted by kandk55 at 02:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

2011/7/19、オカルト・自分探し(存在と関係)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/7/10、私の記事


「 時間性 」について


私は、時間についても意見を相違する。


ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。


そして、「 瞬間 」を考えた時、時間が無能である事が判明する。

「 瞬間 」とは何か。

瞬きする時間だろうか。

では、眠っているときに、「 瞬間 」は無いのだろうか。

「 時間 」という時、それは過去の情報であり、「 瞬間 」の情報ではない。


「 呼吸と今とここ 」で書いたように、目覚めている時も眠っている時も「 共通 」であるのは「 呼吸 」である。


呼吸は止まると感じるだろうが、肺の動き、皮膚呼吸の動きは止まらない。


小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。


瞬間の仕組みは人類皆同じだが、瞬間の内容は全て相違する。


「 現在 」は個人的、主観的であり、情(zyou)の感情移入が可能な範囲で、他者の現在と自分の現在が一致すると思う。


「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するのではなく、「過去・現在・未来」は「 呼吸 」という無意識が「 現在 」を規定し、「 過去 」や「 未来 」は呼吸不可能だが、「 呼吸 」する前が「 未来 」であり、「 呼吸 」した後は「 過去 」になり、私が生きている間は、「 私の現在 」が続くと思う。


………………………………………

2011/7/19、私の考え

なぜ、私が、「 存在と時間 」ではなくて、「 存在と関係 」というタイトルにしたのかについて書くことにする。


タイトルの「 関係 」は、言葉上の「 関係 」ではなく、事物、事象と私の「 関係 」である。

「 関係 」は、互いに動くものの間(ma)の相互連携である。


頭脳の中の「 静止 」は自由だが、静止していると思うすべての事物や事象は運動している。

無意識に「 静止 」しているのが存在論的に「 存在 」であるが、「 存在 」を規定したとき、意識や無意識は呼吸と共に動いている。


「 測定 」したことが事物であり、事象であると思うが、「 測定 」は静止した状態の数値だが、宇宙の運動から考えると、「 静止 」は人間の頭脳の中に在り、静止した事物は自分と同じ動きをするから、「 静止 」と思うのであり、地球が自転しているから、測定する人も対象も、宇宙的に言えば「 静止 」していないと思う。


事象の法則も「 関係 」であるが、その前の、絶えず運動する事物や事象の「 存在 」と絶えず運動する無意識との「 関係 」であり、測定者の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」から分離することが出来ない「 関係 」である。

それは、現実に事象や事物が存在することは、測定者本人の無意識でしか確定することが出来なく、法則が客観的であるのは、人間の主観が同じように判断するからであると思う。


存在論は、意識ではなく、バイオリズムから生じる無意識による規定で、それは遺伝子情報や生来からの思想、生活や文化、すべての経歴(阿頼耶識)の情(zyou)と個人の気質の気(ki)による規定であることは、以前、書いた。

存在を考えるとき、小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」の中での「 存在 」を、五感で規定することを考える必要があるだろう。

「 瞬間 」の連続が「 現在 」だが、「 現在 」の中の「 存在 」は五感の先の無意識で感じるから、これを時間と空間を使って規定することは出来ないと思う。

「 瞬間 」は小脳の領域であり、知覚する「 遠近 」や「 強弱 」は、「 速度 」などのベクトル(力線)の領域であり、「 欲 」の領域であり、「 速度 」が時間や空間で計測することが出来ないと同じように「 瞬間 」を時間や空間で計測することは出来ないと思う。


自転している地球上の自分が、地球の速度を測定することが出来ないことと同じで、「 瞬間 」は、ベクトル(力線)に満ちた間(ma)であると考える。

瞬間は「 欲 」の領域だから「 存在 」と認めると同時に自分の「 心 」が動揺する。

「 瞬間 」の中で、「 存在 」と「 自分の無意識 」は、「 引力 」のように連携していると思う。


地球と自分の間の「 引力 」を解明するように、「 存在 」と感じる小脳の無意識の「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」という「 関係 」を「 引力 」と思って「 存在 」を規定することを意図して、「 存在と関係 」というタイトルにした。

これは、言葉の志向性の問題ではない。

言葉だけの「 関係 」ではない。

事物や事象と自分の「 関係 」である。

なぜ「 存在 」と感じるかは、どのような無意識の「 欲 」の具現化であるかという「 関係 」を考え、「 関係 」は「 努力 」に似て、「 行為 」が「 具現化 」や「 結果 」であると思う。

「 存在 」を考えることは、バイオリズムを考えたり、遺伝子情報を考えることで、心理学や遺伝子の科学で「 欲 」の具現化(行為)が物語であれば、ガリレオ以前の心拍のリズムや呼吸のリズムなど、個人の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」に受け入れられる「 関係 」だと思う。

個人の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中で、「 可能性は現実となる 」と思うからである。

形而上学的に「 ある 」というのは、存在論として、バイオリズムや遺伝子情報により、決定され、それは「 主観的 」な「 関係 」を具現化することが必要で、それは、個人の主観的な「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」で表現される「 関係 」であり、「 時間 」を考える事は、「 現在 」を「 過去や未来 」の知識で説明することだと思い、「 瞬間 」や「 現在 」の中の「 存在 」を説明することではないと思う。

そう考えるから、「 存在と時間 」ではなく、「 存在と関係 」というタイトルにした。

posted by kandk55 at 05:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月16日

2011/7/16、オカルト・自分探し(存在と関係)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

了解

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%86%E8%A7%A3

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/7/10、私の記事


私が、上記のURLをクリックして、考えた事を書きます。




「 現存在 」について


私は、これまで書いたように、「 存在論 」を考えるならば、バイオリズムや無意識で存在を決定している事を考えなくてはならない。


バイオリズムとは個人の遺伝子情報が情(zyou)として現れ、小脳の働きが気(ki)というエネルギーとして現れることである。


この事で、上記の「 現存在 」が、「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」である事は自明の事であると考える。


哲学上の「 存在 」などは、意識や言葉の意味であり、これを以って「 存在 」を規定することは出来ないと思う。


小脳の無意識を考えていないから、言葉の遊びである。


2011/7/16、私の考え



「 存在論 」を考えるならば、バイオリズムや無意識で存在を決定している事を考えなくてはならないとは、すべてが相違する個人の遺伝子情報や生活から生じた思想などの「 文化 」という情(zyou)と、個人の気質という気(ki)によって、個人にとっての「 存在 」が決められている事だと思う。

これは、私の考えである。


@プラズマ宇宙論やガイア理論を肯定している。


A生気論により、動物はすべて気(ki)を持ち、これはプラズマ理論の電気の気(ki)が無意識の気(ki)に含まれているかも知れない。


B人間は欲から逃げることは出来ない。


小脳で本能の欲をコントロールし、無欲というのは欲を制することであり、欲が無い状態は死であるから「 死中生有り、生中生無し 」という態度が「 無欲の状態 」であるかも知れない。


実際は、生きている事は「 欲の世界に生きること 」であり、自分の事しか考えない場合が多い。


人間は、「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であり、この世は、「 欲に満ちた、欲が衝突する世界 」である。


先日、書いたように、呼吸により新たな「 瞬間 」が生まれ、呼吸の連続により「 現在 」という時制が生まれ、「 現在 」は、「 瞬間 」の繰り返しであると思う。


視覚や聴覚は、時間と空間が必要だろうが、時間や空間を考える事自体が、「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を心に感じる事で、結局は、(小脳の)運動可能性を考える事だと思う。


この世は「 欲の世界 」だから、欲が邪魔される時間や空間を小脳が「 ストレス 」と感じて、呼吸や心拍やホルモンを分泌させて、ストレスを解消して、「 無欲の状態 」の均衡を保とうとすると思う。


二つの目で見る「 遠近 」や左右の耳で感じる「 音の強弱 」が、「 欲 」を媒介として「 心 」を動揺させると思う。


視覚や聴覚を支配するのは「 欲 」であると思う。


これは、「 過去や未来 」についても同じことが言えると思う。


想像するのは、「 現在 」の尺度で可能性を想定するが、そのこと自体が、将来の(小脳の)運動可能性を考える事であると思う。


「 現在 」も「 過去も未来 」も、(小脳の)運動可能性を考えていることであり、幾何学は「 関係 」かも知れないが、惑星や星座などの「 実体 」の存在を考えないと、小脳が無意識に、安心しないのだと思う。


C人間は、意識の中心(大脳)と無意識の中心(小脳)を持ち、二本足で動くように、相互に移動して認識するのであり、意識だけで「 存在 」を言うのは間違っていると思う。


現実ですべてを判断することには賛成しない。


後日、書くが、「 測定 」自体が相対的であり、本来は、測定した個人だけに、その結果が妥当となる主観的な「 関係 」であると思う。



D私はこのように考えるから、「 了解 」も違う見解になる。


「 了解 」は、自然や宇宙に対する無意識で感じる自己の「 欲 」の限界を知ることであり、自分を規定する「 自己了解 」に、無意識の自己、可能性を持った自己は含まれない。


自分の無意識で自分の存在を認識する事は出来ず、無意識を意識に具現化することにより自分を知ると思う。


存在の認識は無意識で実行するから、実行している自己は、自分の存在を認識することはできない。


意識で「 自己了解 」することはできないし、自分の存在を意識で知ることはできないと思う。


自己は宇宙のひとつの産物であり、自己は宇宙と関係し連携している。


「 自己了解 」が意識による自己規定であれば、実質は(小脳の)無意識の「 欲 」を自己中心的に考える事であり、無欲ではなく「 自我 」であり、大脳による「 自己意識 」に近いと思う。


私は、@やAの考えを持ち、「 欲 」を自己中心的に考える事は避けている。


「 欲 」は宇宙の果てまで伸びる(小脳の)運動可能性であり、それを、遺伝子などの自己の都合で限定するのは、「 絶望 」に近づく事だと思う。


それは、自己の「 存在了解 」であるが、「 自己の存在を了解すべきでなく」、可能性を持った人間として、「 了解すること 」を拒否しなければならないと思う。


Grasp all, lose all.

私は、大欲を持って生きたい。

posted by kandk55 at 05:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月10日

2011/7/10、オカルト・自分探し(存在と関係)1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/7/10、私の考え


私が、上記のURLをクリックして、考えた事を書きます。


(引用)

(現存在)

その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であると主張した。人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。したがって彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という)。


時間性

時間もまた斬新な方法によって考察される。ハイデッガーは、時間というものはアリストテレス以来まったく同じように解釈されてきたと主張する。つまり「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するというものである。しかしハイデッガーは、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張する。また現在もそれ自体で生起するのではなく、「死へ臨む存在」(Sein-zum-tode)としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものである

(引用を終わる)


@「 現存在 」について


私は、これまで書いたように、「 存在論 」を考えるならば、バイオリズムや無意識で存在を決定している事を考えなくてはならない。


バイオリズムとは個人の遺伝子情報が情(zyou)として現れ、小脳の働きが気(ki)というエネルギーとして現れることである。


この事で、上記の「 現存在 」が、「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」である事は自明の事であると考える。


哲学上の「 存在 」などは、意識や言葉の意味であり、これを以って「 存在 」を規定することは出来ないと思う。


小脳の無意識を考えていないから、言葉の遊びである。


A「 時間性 」について


私は、時間についても意見を相違する。


ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。


そして、「 瞬間 」を考えた時、時間が無能である事が判明する。

「 瞬間 」とは何か。

瞬きする時間だろうか。

では、眠っているときに、「 瞬間 」は無いのだろうか。

「 時間 」という時、それは過去の情報であり、「 瞬間 」の情報ではない。


「 呼吸と今とここ 」で書いたように、目覚めている時も眠っている時も「 共通 」であるのは「 呼吸 」である。


呼吸は止まると感じるだろうが、肺の動き、皮膚呼吸の動きは止まらない。


小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。


瞬間の仕組みは人類皆同じだが、瞬間の内容は全て相違する。


「 現在 」は個人的、主観的であり、情(zyou)の感情移入が可能な範囲で、他者の現在と自分の現在が一致すると思う。


「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するのではなく、「過去・現在・未来」は「 呼吸 」という無意識が「 現在 」を規定し、「 過去 」や「 未来 」は呼吸不可能だが、「 呼吸 」する前が「 未来 」であり、「 呼吸 」した後は「 過去 」になり、私が生きている間は、「 私の現在 」が続くと思う。


私の生命が「 死 」に向かうことは必然であり、「 死 」を意識する事により「 現在 」が生起するのではなく、「 呼吸 」により、「 現在 」が生起すると思う。


生起するのは時間と空間に共通する間(ma)を通して、電磁場のように、時間と空間が変換されて、芸術や哲学などの「 文化 」が生起すると思う。


私の考えでは、「 死 」に向かう時間性に「 実存 」が現れるのではなく、「 瞬間 」に満ちた「 関係 」の選択が「 実存 」であるが、後日、書く予定である。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

2011/7/3、オカルト、自分探し(存在)4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/7/1、私の考え


これは、私の考えであり、真実ではないと思って欲しい。


2011/7/1、私の記事



大脳が、生物を「 道具 」に使う(つまり食物にする)のは、自分の生命に対する価値観の影響が多いと思う。


日本の「 イルカ漁 」が話題になったが、日本人の多くがイルカを食べていない。


一部の地域の昔からの文化であり、「 神 」への生贄という意味であるかも知れない。


生贄であれば、人類の多くの宗教が動物を生贄としているので、「 イルカ漁 」だけを「 悪 」とする事は出来ない。


私と同じ、呼吸による「 今 」や「 現在 」という「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している生物を「 存在 」と感じるのは、命が無い物体を存在すると感じる事とは違うと思う。


自分と同じ気(ki)を持ち(気持ち)、自分と同じ、ストレス解消という可能性を持って、生きているから、死に向かって自分と同じ動きをしている生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事が、生物を「 存在 」と感じる事であり、この生物を食物とする時は、この生物の将来の可能性を自分が受け取ることに感謝し、自分の生きる可能性を伸ばす動物が「 人間 」だと思う。





2011/7/3、私の考え


@食用とする動物の存在


私は、生物を食物とする時、食物となる生物に感謝をする事が必要だと書いた。

これは他の問題にも関連すると思う。

それは、「 人格 」の問題である。


牛や羊の肉を食用とする場合、牛や羊や豚も「 脳 」を持っているので、牛や羊や豚にも「 魂 」や「 霊 」を持っているかも知れない。


人間が牛や羊や豚を食用とする時、人間の「 霊 」や「 人格 」が、牛や羊や豚の「 魂 」や「 霊 」より優先する理由は何か。


人間がこの世で最も尊い生物であるから、下等の牛や羊や豚の「 魂 」や「 霊 」に優先するとは思わない。


私は、以前、人間の死後は、一つの生命となり、その後、様々な動物に生まれ変わるという事を書いた。


だから、食用となる牛や羊や豚の「 魂 」や「 霊 」は、牛や羊や豚の霊魂に変化した「 人間の霊 」であるかも知れない。


私は心霊学者ではないが、牛や羊や豚を食用とした時、牛や羊や豚の霊魂に変化した「 人間の霊 」が、食した人間の「 人格 」に影響すると思っている。


「 人格 」を「 霊 」と考えるならば、食した「 霊 」が人間の「 霊 」と混ざると思う。


私が以前書いたように、「 人間が六道輪廻の中に投げ入れられて、六道輪廻の中の一つが人格だ 」と考えると、「 六道 」の中の「 畜生 」に食した動物の「 霊 」が入り、人間の人格の中に混入すると思う。


生物(動物)を食べないのが一番良い方法であるかも知れないが、他の肉食動物と同じで、動物を食するのが人間である。


私は、人間が、生物(動物)の肉を食する事を「 必要悪 」と考え、そのかわり、食用にすると同時に、人格の「 六道 」の中の「 畜生 」に入った動物の「 霊 」に感謝する事が「 人間 」には必要だろうと思う。


それが、死に向かって自分と同じ動きをしている生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事だと思う。



人間として生まれ、動物を食べるから、「 人格 」を向上する事が、生物で最も尊い、霊長動物と言われる人間に与えられた宿命、あるいは運命だと思う。



「 肉を食べる事 」と「 霊の昇華を願って供養する事 」あるいは「 感謝する事 」を一組として(セットとして)行う必要がある。


それを欠けば、強烈な肉欲(肉を食べる事を欲求する意識)が「 心 」(つまり無意識)を支配し、「 欲 」が濁って「 欲望 」となり、肉を食べる事が好きになり病気が生じるかもしれない。




A 「 人間関係 」


私と同じ、呼吸による「 今 」や「 現在 」という「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している人間を「 存在 」と感じるのは、どのような時だろうか。


私は、人間同士でも、無意識が最初に働くと思う。


職場の人間と人間の連携を「 人間関係 」というが、この「 関係 」も、「 呼吸と今とここ 」で書いた「 関係 」と同じように考える。


「 因果関係 」の「 関係 」であり、前者が外部からの原因と結果の連携であり、後者は、内部での連携であり、無意識の特徴である気(ki)と情(zyou)が存在すると思う。


「 人間関係 」の気(ki)とは、「気持ち 」の気(ki)であり、気(ki)が合うとは、「 心 」がある程度、共有や同調する事が出来る状態であり、情(zyou)とは、仕事上の情報だけでなく個人の感情も含めて、他人と交流する情動の状態だと思う。


情(zyou)が存在して、気(ki)が合う人と人の間(ma)では、仕事の速度が速く、気(ki)が合わない人の間(ma)では、仕事の速度が遅い。


情(zyou)が存在しない場合は、気(ki)が合う人と人の間(ma)でも、気(ki)が合わない人の間(ma)でも、仕事の速度が遅い。


仕事の速度が速いのは、気(ki)と情(zyou)が一致する時で、一致しないときは、仕事が遅い。


夫婦の関係も同様の事だと思う。


この無意識の構成要素の気(ki)と情(zyou)の不一致を防ぐ役目が「 言葉 」だろう。


気(ki)の不一致を防ぐのが「 合図 」かも知れない。


関係は「 小脳 」で決定され、「 大脳 」の意識が、これを強化したり、補強したりすると思う。


「 人間関係 」は「 言葉の交換 」を必要とするが、これは必須条件ではなく、関係を円滑にする人類の知恵で、本来は不要であるかも知れない。


「 人間関係 」は、「 知 」と「 情 」と「 意 」の組み合わせと社会の人は言うが、私は、大脳の意識による判断の前に「 知性 」と「 感情 」と「 身体 」のバイオリズムで成立すると、現在、考えている。


人と出会い、バイオリズム(無意識)で感じる最初の気(ki)と情(zyou)が「 第一印象 」で、その後、互いに「 人間関係 」を結ぶが、それは自分の気(ki)と情(zyou)が相手の気(ki)と情(zyou)に合うか否かを瞬時に判断しながら自分の「 第一印象 」の確認をしていると思う。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

2011/7/1、オカルト・自分探し(存在)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/7/1、私の考え


これは、私の考えであり、真実ではないと思って欲しい。


私は、人間の根源は「 欲 」であり、性欲、食欲、睡眠欲など、生きる意欲を持つような肉体の構造になっていて、意識も無意識もバイオリズムで決まると思う。


「 欲 」が「 ストレス 」で「 生命 」であるかも知れない。


その「 欲 」をコントロールするのは無意識を支配する「 小脳 」であり、思考を支配する「 大脳 」は、無意識を感じるだけであり、コントロールする事は出来ないだろう。


「 大脳 」でコントロールするから、不自然になり「 病気 」になると思う。


大脳で思考し、行動するが、それは意識的な行動の前に、無意識により行動が決定される事は以前、書いた。


呼吸する前に、呼吸が可能が否かを既に決めている。


その呼吸が、時制の「 今 」を決め、「 現在 」を決めていると思うが、その瞬間という「 間(ma)は、関係に満ちていると書いた。


その関係は、言葉という意識の関係ではなく、現在や瞬間に、無意識の「 運動可能性 」という「 物語 」が満ちていることである。


「 過去 」や「 未来 」というのは、現在に「 小脳の運動可能性 」が無いからであり、「 時間 」や「 空間 」という意識によって結果を想像する領域だと思う。


「 現在 」は、「 関係を組み合わせて可能性が具現化する、あるいはストレスが解消する 」という点で、大脳で思考するだけの「 過去 」や「 未来 」より勝る。


考えても、具現化しなければ、無意味である。


バイオリズムによる無意識により時制が決まり、関係からのストレスの解消可能性が「 現在 」にあるから、「 今 」努力すると思う。


「 現在 」は「 過去 」の残骸や「 未来 」の想像によって決まるだろうが、意識により呼吸を制御する事が出来ないように、「 現在 」や「 今 」を過去や未来で説明する事は出来ない。



「 時間 」や「 空間 」は、「 意識 」であり、大脳の産物であるから、「 存在 」と「 時間や空間 」を関係づける意図ならば、心理学的、生理学的な人体の構造が決定する過程から説明したほうが良いだろう。


私に、その知識が無いから、バイオリズムや無意識を生む「 小脳 」の働きから推測するしか方法は無い。


物の存在の寿命は自分の命の寿命より長いという時間ではなく、自分から見た存在とは何かを、私は問う。


時間や空間は「 意識 」であると思うから、無意識の「 関係の間(ma)」という「 今 」を意識で説明する事は出来ない。


私は、時間や空間が助けにならない「 因果 」の「 関係 」自体が、間(ma)であり、「 瞬間 」の連続が時間であるように、人間は間(ma)の連続であると思う。


「 光 」や「 音 」を使っても、「 私の今 」を測定する事は出来ないから無意味だと思う。


なぜなら、「 光 」も「 音 」による測定は、「 過去 」の情報だからである。


「 今 」は「 関係を感じる 」しか方法はなく、その方法が、気(ki)と情(zyou)であると思う。


存在は生物でない物体と生物があるだろう。


生物でない物体は気(ki)を含まず、その物体と私は「 静止 」しているから測定が可能ではなく、その物体と私は「 同じ動きをしているから 」測定する事が出来る。


そして、気(ki)を含まず、生命を持たず、自分と同じ動きで、勝手に運動しないから、大脳は、これ等を「 道具 」として使う。


生物は気(ki)を含む(なぜなら生気論を信じるから)ので、私と同じ動きをせず、無意識に、私の中にストレスを生む。


私と同じ「 瞬間 」を持ち、「 今 」を、「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している。


「 ストレス 」が「 生命 」であるかも知れない。



その生物を「 存在 」と感じるのは、自分と同じ気(ki)を持ち(気持ち)、自分と同じ、ストレス解消という可能性を持って、生きているから、死に向かって自分と同じ動きをしているから、生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事が、生物を「 存在 」と感ずる事だと思う。


大脳が、生物を「 道具 」に使う(つまり食物にする)のは、自分の生命に対する価値観の影響が多いと思う。


日本の「 イルカ漁 」が話題になったが、日本人の多くがイルカを食べていない。


一部の地域の昔からの文化であり、「 神 」への生贄という意味であるかも知れない。


生贄であれば、人類の多くの宗教が動物を生贄としているので、「 イルカ漁 」だけを「 悪 」とする事は出来ない。


私と同じ、呼吸による「 今 」や「 現在 」という「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している生物を「 存在 」と感じるのは、命が無い物体を存在すると感じる事とは違うと思う。


自分と同じ気(ki)を持ち(気持ち)、自分と同じ、ストレス解消という可能性を持って、生きているから、死に向かって自分と同じ動きをしている生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事が、生物を「 存在 」と感じる事であり、この生物を食物とする時は、この生物の将来の可能性を自分が受け取ることに感謝し、自分の生きる可能性を伸ばす動物が「 人間 」だと思う。



「 時間 」や「 空間 」は、大脳の領域の「 意識 」であり、「 精神 」の問題であり、時制で言えば、過去の問題だから、小脳の領域の「 現在 」や「 今 」を規定する事は出来ないと思う。

これは、現時点の考えであるから、変更するかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.

posted by kandk55 at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月28日

2011/6/28、オカルト、自分探し(存在)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/6/28、私の考え


これは、私の考えであり、真実ではないと思って欲しい。



 瞬間 」について、少し考えた。


時間の間(ma)は、バイオリズムから生じる「 主観的時間 」であることは、「 2011/5/4、オカルト、バイオリズムと時間と空間 」で書いた。


「 瞬間 」に使われている間(ma)も、バイオリズムから生じる主観的時間で、小脳の「 欲 」の世界で、「 関係 」の上に立つ「 ストレスの時空 」であると思う。


呼吸している「 今 」「 ここ 」で、時間や空間という概念は必要でなく、必要なのは生命維持に要する空気がストレスを解消するのに充分がどうかであり、人間は無意識にそれを判断して、考える時には既に空気を吸っている。


「 瞬間 」は瞬時の間(ma)で時間で測定する事が出来ないが、宇宙の生成も時間で測定する事が出来ない。


時間が長いとか短いとかが問題でなく、「 瞬間 」も「 宇宙の生成 」も、出来事の間(ma)や関係が違うだけかも知れない。



「 時熟 」で表現される生物的時間も「 瞬間 」と同じく、バイオリズムから生じる主観的時間で、「 ストレス 」を生む「 関係 」の間(ma)であると思う。


稲が実り、木の実が熟れて収穫を迎える「 時 」も、「 時間 」ではなく、稲や木の実が持っているDNAに備わったバイオリズムから生じる主観的時間で、稲や木の実にとってはストレスを生む「 関係 」が解消される間(ma)であると思う。


時間が有っても、水や土や太陽が存在しなければ、稲は育たない。



その生育条件を「 縁(en)」というなら、私だけの考えかも知れないが、「 縁(en) 」も「 関係 」の一種だと解釈している。


同じ時間を与えても、生育しない稲もあり、生育しなかった稲も、「 生育するというストレスの解消 」であるから、生育した稲と同様に、時熟を迎えたのであり、稲穂や果実を作ったか否かは、時熟の判断に影響しないと思う。



人間が何時、死亡するかという時間も、DNAに組み込まれた、バイオリズムが支配する人体の諸要素の関係の終わりであるなら、それもバイオリズムから生じる主観的時間の始めと終わりで、小脳の無意識に働きかける「 ストレスを生む関係 」の始めと終わりの間(ma)という空間であると思う。


DNAやバイオリズムで決められた関係の上に成り立つ「 ストレス 」の始まりと終わりの間(ma)は、外見から判断することが出来ない「 因果関係 」の「 関係 」のように、あるいは、「 努力 」のように、人間の内部で、過去と現在と未来の時制を結ぶ主観的時間や間(ma)という空間であると思う。


外見から見れば「 時間 」であるが、内面からは、間(ma)である。


外見からは、道路を横断して車と衝突する時間だが、衝突した当事者は「 時間 」ではなく、車と人の間(ma)が、自分の生命に危機を感じる「 間(hazama)」であるように、当事者は間(ma)という空間を感じていると思う。


当事者の内部では、「 瞬間 」の間(ma)を通して、時間は空間に変わり、「 ストレス(緊張)の空間 」になると思う。


それゆえに、現在の関係を持続すれば将来の結果を予想し、「 瞬間 」という「 関係に満ちた間(ma)」の中に、永遠の関係を探すことが出来ると思う。


間(ma)は、生きる空間であり、関係はストレス解消のための物語である。


呼吸する間(ma)が、無意識を作る気(ki)であり、関係は、無意識を作る情(zyou)であるかも知れない。



「 死 」は、DNAに組み込まれたストレスの解消として、人生を終わらせるから、「 死 」に向かう自分を意識しないでも、「 瞬間 」という「 関係に満ちた間(ma)」の中に、永遠の関係を求めることにより、主観的時間の中に生き、ストレスを発散させ、人間らしく生きることが出来ると思う。


何を「 永遠の関係 」と考えるかは、DNAやバイオリズムの影響が大きいと思う。


私は、「 死 」に対して「 絶望 」するのが人間だとは思わず、人間が呼吸することから「 生きる欲 」をもち、食欲や性欲や睡眠などの生命維持の本能を持つことから考えると、人間は「 欲 」から逃れられないと思う。


私は、「 欲 」を求め続けるのではなく、「 欲 」を生む小脳の領域を制御するところに「 人間 」を感じるので、大脳の思考だけでなく、小脳の生命維持も考えることに決めている。


脳科学や思考や論理の哲学だけでなく、生物学、生理学、心理学などによる人間解明も「 人間学 」に必要である。




Every miller draws water to his own mill.

posted by kandk55 at 06:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月26日

2011/6/26、オカルト・自分探し(存在)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

これは、私の考えであり、真実ではない。



まず、「 瞬間 」から考える。


2011/5/21、私の記事

「 今 」と「 ここ 」が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」と考え、それらは、無意識のバイオリズムで決定され、その代表を「 呼吸 」と考えたが、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間ではなく、「 無意識により静止を作る一つの関係 」であると思う。

日本語では「 瞬間 」は「 間(ma)」という文字を含み、「 今 」は「 瞬間 」と呼ばれる。

空気という気(ki)を取り込み、体内の電気(dennki)に変換する場所を「 ここ 」とすれば、「 ここ 」は、肺や身体の皮膚全体であり、「 ここ 」という空間は、天体との関係で決まる。

無限の宇宙が自分の身体の中に入り込んで、呼吸によりエネルギーが変換される「 ここ 」は、無限の宇宙の広がりの中の一点であり誰も知る事は出来ず、自己決定事項である。


この事が、「 欲 」の根底に存在し、「 無明 」と呼ぶもので、ここから、「 欲 」のエネルギーが宇宙の向かって放散し、「 遠近 」という欲の「 間(ma)の関係 」を作ると考える。


2011/5/22、私の記事


以上のように、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間の問題ではなく、「 関係 」の問題であるという結論になった。

「 明日 」という「 時間 」があるから、「 現在 」を懸命に生きるのではなく、将来、呼吸するであろう「 明日 」の現実性に「 関係する 」現在だから、明日に続く、現在の無意識の可能性を懸命に探さなくてはならないのだと思う。

明日という「 時間 」があるからでなく、生きている以上は続く呼吸とういう無意識が形成する、無意識の「 可能性 」が「 明日に続く 」と考えるから、現在の可能性を模索するのである。


2011/5/29、私の記事

私の考えは、無意識はバイオリズムから生じ、気(ki)というエネルギーと情(zyou)という感覚可能な意識で作られ、バイオリズムを生むのは「 呼吸 」であり、小脳の運動可能性である。

この「 呼吸 」が、「 現在 」という時制を作り、「 今 」という情報を静止させる情(zyou)を作る。

「 現在 」や「 今 」は、個人的なバイオリズムの産物であり、「 定義 」は個人の自由である。

以下は、私の考えであるから、無視しても良いと思う。


「 今 」や「 ここ 」が「 関係 」の問題である。

「 今 」や「 ここ 」が何かを追求しても、「 私が生きている事 」や「 私が呼吸している事 」に突き当たる。

「 今、何時ですか?」「 What time is it now? 」と言う時、「 今 」「 Now 」は時間ではない。


「 今 」は過去と未来の間(ma)の現在であり、「 現在 」という時制を決める間(ma)である。

私は、現在で呼吸するのであり、現在は呼吸と共に過去になる状態が「 無常 」というのだと思う。
「 今 」は、「 呼吸 」により連続し、「 呼吸 」は、意識的な息を吸ったり吐いたりする事ではなく、肺や皮膚の動きであり、意識して息を止めていても、肺が動いている限り、「 呼吸 」であり、「 今 」が連続している。

私は「 呼吸 」を、バイオリズムの身体のリズムであると思い、大気(taiki)で体内の気(ki)というエネルギーを変換し、頭脳の中で意識や無意識を生じさせて、感情や知性のリズムの情(zyou)を生み、情(zyou)が「 現在 」であると思う。

「 現在 」は、無意識の時間や空間では間(ma)として存在し、意識の中では「 今 」という情(zyou)として、呼吸の気(ki)と共に、現れて消える。

しかし、過去の事象は「 呼吸 」とは無関係に未来に連結しているので、「 現在 」という時制の中で、未来へ連結する事象の関係という情(zyou)が「 可能性 」である思う。

「 今 」や「 現在 」という、未来に影響する間(ma)で、未来へ連結する事象の関係という情(zyou)が持つ気(ki)というエネルギーが大きいのが、未来への可能性であるかも知れない。



2011/6/26、私の考え


上記のように、「 瞬間 」は、時間でもなく空間でもなく、「 関係 」であるから、過去のDNAによる因果関係を引き受ける事が出来るし、将来への因果関係に影響を与える事も出来る。


「 瞬間 」は、「 呼吸している間(ma) 」であり、その「 間(ma) 」が「 今 」であり「 現在 」であり、呼吸が続いている間は「 今 」であると考える。


これは、小脳による無意識で決められ、「 欲 」でもあり「 心 」でもある。


腹式呼吸や深呼吸で気(ki)を落ち着かせるが、「 欲 」や「 心 」は、呼吸にも具現化するかも知れない。


過去や現在と未来という時制は無意識が決め、現在は「 関係 」であり「 欲 」であり「 心 」であるから宇宙の果てまで「 欲 」や「 心 」の気(ki)が広がり、無意識のもうひとつの構成要素の情(zyou)が、実体を決めた瞬間は「 関係 」であるから「 欲 」や「 心 」が動揺する。


気(ki)は「 生気論 」の気(ki)であり、エネルギーであり、情(zyou)とは、自分のDNAも含む生来からの体験した情報である。


「 今 」は「 呼吸している時 」であり、時間というより周囲との関係である。


なぜなら、絶対静止の時空は大脳の中で造られた意識であり、空間の地球的規模から判断しても、静止はなく、「 生きる 」エネルギーから判断しても、常に流転し、「 無常 」である。


最近、カタルーニャで受賞した作家が言う「 無常 」は、少し違うと思う。


このように、「 現在 」や「 今 」が「 関係 」であり、過去と未来の可能性を結ぶと考えると、「 現在 」に「 永遠 」があるのかも知れない。


「 呼吸 」で「 空気 」だけでなく宇宙を満たす「 エーテル 」も吸っていて、「 空気 」が生命を保ち、「 エーテル 」は永遠に属する気(ki)と考える。


かように、人間が電磁波に似た構造の「 意識 」と、DNAを含むバイオリズムの「 無意識 」で構成され、「 過去や未来 」は呼吸を必要としないので「 時間意識 」と「 空間意識 」で時間と空間が測定されるが、「 現在 」は「 呼吸と共に存在し」、全てが流転する関係であるから、全てが変化する「 ストレスの時空 」であり、それが「 心 」を動揺させるだろう。


「 主観的時間 」は「 ストレスの時空 」だから、ストレスを解消する楽しい事に従事している時間は短く感じ、ストレスに満ちた退屈な事に従事する時は長く感じる。


「 現在 」では、静止している物体は存在せず、静止していると目には見えるが、宇宙的規模では測定する人も測定される人も変化していて、「 同時性 」は存在しないと思う。


同時性を「 光速 」で定義するのは、物理学の必要性からであり、「 今 」は個人にしか存在しないから、本当は「 同時性 」は他者との間に存在しないと思う。


「 共に変化する 」から、「 関係 」であり、現在の中に「 関係 」が存在し、過去や未来にあるのは可能性や蓋然性や確率という弱い関係だろう。


「 関係 」を支配するのは「 現在 」であり、現在の行動が未来の「 関係 」である「 呼吸 」即ち「 生きること 」の可能性を決める。


「 今 」や「 ここ 」や「 現在 」は、空間的には相互の位置から決める関係であり、時間的には因果を決める関係である。


頭脳の中では「 関係 」や「 欲 」だけであり、「 関係 」や「 欲 」を具現化やデフォルメしたのが、「 実体 」であり、「 存在 」であるのかも知れない。


「 関係 」や「 欲 」が自分の生死との関係であれば、自分の生死を支配しない「 実体 」は、無関係であるとも考えるが、「 関係 」や「 欲 」が宇宙や人類との関係であれば、無関係は消滅すると思う。


私は、無欲が尊いものであるかも知れないが、無欲の人も呼吸しており、呼吸している限り「 生きたい 」という欲はあるので、無欲というのは虚偽で、むしろ、「 限りない欲 」を持って生きたいと思う。


たぶん、地獄行きだろうが。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月27日

2011/2/27、オカルト・総括1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/17、私の記事

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。

2011/2/23、私の記事
私の考え


天体の運動による時空の運動(物質の運動)、これは常に運動しているが、地球も共変しているため静止していると見える。


人は細胞の集合だが、DNAやRNAを持ち、それらが動いているが知覚する事が出来ないのは、意識も共変しているから、変化を知覚する事が出来ないと考える。


運動は、「 同時性 」のような「 絶対静止の座標 」が無ければ知覚する事は出来ない。


この知覚することが出来ない物質の動き(リズム)を「 身体 」のリズムとし、それから派生する「 運動可能性 」の無意識を「 感情 」のリズムとし、これらから派生するが、経歴や文化の「 記憶 」から生じる「 知性 」のリズムと、暫定的に考える。


人間は、細胞の集合であり、物質波の集合であり、生まれた時から、「 波動 」であるが、「 価値観 」や「 人格 」により、リズムの集合体、自我として、「 粒 」であると考える。


人間は、物質の塊や「 粒 」であると同時に、意識の波動を持ち、人間社会の波動に適合し、意識の可能性という波動(希望)を「 記憶 」で「 物質の運動 」にフィットさせて生きる動物であると思う。


2011/2/27、私の考え


私がこれまでに書いた言葉を統合する責任があると考える。

@

電磁波としての意識とバイオリズムの無意識

A

霊や魂や可能性や人格

B

人間を「 台風 」と考えた事

C

理解は、頭の電離層で行われ、時間は虚数である事

D

意思は具現化する事

などと、過去に書いた事について、現時点で総括する、責任があるだろう。



人間は「 電気の袋 」や「 考える葦 」や「 現存在 」であるかも知れないが、私は、観念的に、現時点の人間については、2011/2/23の記事の通りであると思っている。


人間を構成する細胞のDNAやRNAの「 動き 」から、無意識のバイオリズムである「 波動 」や意識の電磁波という「 波動 」が派生するだろう。


無意識のバイオリズムが「 阿頼耶識 」で、意識の電磁波が「 末那識 」だろう。


人間の生命は物質的に「 波動 」であると同時に、精神的にも「 波動 」であり、始まりと終わりがある物語も(文化も)「 波動 」であると思う。


人間を「 波動 」と考えた時、「 波動 」は生命であり、生命を持たない物質との違いは、「 感情 」のバイオリズムや「 情(zyou)」の有無の違いであると思う。


現在のバオイリズムは「 知性 」と「 感情 」と「 身体 」かも知れないが、「 感情 」は「 知性 」と共に現れる場合もあれば、「 身体 」と共に現れる場合もあるから、物質と精神の幅を持ち、これが主観的時間の「 間(ma) 」であり、時制の「 現在 」を決定すると思う。


時制の「 現在 」は、「 記憶 」などという大脳に支配されない「 感情 」、体内時計、無意識が決定するのであり、記憶を喪失しても「 現在 」は決定されている。

これが、現時点の@に対する考えである。



AとCについて考える。

人間を「 波動 」と考えた時、「 波動 」は生命であり、生命を持たない物質との違いは、「 感情 」のバイオリズムや「 情(zyou)」の有無の違いであり、「 感情 」のバイオリズムは「 小脳の運動可能性 」であり、宇宙の果てまで、知る事が出来る限りまで続き、「 欲 」である。


「 感情 」の範囲内は「 小脳の可能性 」であり「 欲 」であり、「 魂 」であり、死と共に消滅すると思う。


「 感情 」の範囲外が、物質であり「 霊界 」であり、「 霊 」であり、「 霊界 」は無情の「 天国 」でもあるが、ここでは、無情の「 地獄 」であると考えて話を進める。


「 芸術家は、生きながら地獄を見る人だ 」というかも知れないが、芸術家は「 情(zyou)」の限界まで来て、無情の「 地獄 」、「 感情 」を生む物質を見る人であり、それが「 芸術は爆発だ 」という事かもしれない。


この「 地獄 」を、「 六道 」の地獄と思う。

地下に「 地獄 」を描くのは、「 地獄 」が物質界に存在位置を持つからと思う。


「 地獄 」は物質界で、「 人間界 」は「 感情 」の及ぶ範囲で、「 天国 」は、「 知性 」のバイオリズムであり、「 電離層 」であると思う。
「 天国 」は「 電離層 」という物質界であるため、「 地獄 」と同じ位置かも知れない。
「 天国 」と「 地獄 」が循環するという意味で、同等であると思う。


「 感情 」が及ぶ範囲が、時制の「 現在 」という主観的時間であり、天体の運動としての「 時間 」は、「 我 」も共変しているので、知る事が出来ないので「 虚数 」であるというのが現時点の考えである。

BとDについて考える。

上記のように、「 地獄 」と「 霊 」や「 感情 」の「 小脳の運動可能性 」と「 魂 」や「 知性 」の「 天国 」や「 電離層 」を考えた時、これらは、構造的に「 人格 」として一体になっていると思う。

「 霊 」に「 感情 」の息吹で「 小脳の可能性 」になり、「 小脳の可能性 」(人間の因果)に「 人格 」の息吹で「 能力 」に矮小化し、意識の「 意思 」「 意欲 」や「 意識された欲 」になり、具現化する。


「 可能性 」というのは「 能力 」と考えるかも知れないが、それは「 人格 」により、矮小化された人間の因果性であり、「 可能性は能力ではなく、能力を破る人間の因果性という知性である 」と考える。


Bの「 台風 」とは、「 霊界 」から、「 感情 」や「 情(zyou)」により「 欲 」を作り、それが中心に近づくにつれて「 人格 」により、「 情欲 」や「 欲望 」に矮小化され、「 意思 」になり、「 台風 」になるが、「 台風の目 」のように、「 人格 」の中心は、「 霊界 」に通じている構造であると思う。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 06:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする