2011年10月10日

2011/10/10、オカルト・迷走する自分10・整理2


2011/10/9、私の記事

「 関係 」とは「 可能性 」であり、実在化したのが「 存在 」であると思う。


「 可能性 」は「 小脳の無意識 」であり「 欲 」であることも前述した。


すべての人は、存在物を前提にして、生活しているとは、「 可能性 」という関係の中で、「 呼吸 」という行為や「 知覚する 」行為により、実在化した物体の存在を前提として「 生きる 」ことだと思う。


生きることは「 欲 」を持つことであり、「 心 」を持つことであり、「 現在 」に繋がる可能性という「 関係 」を「 現在の行為 」の中で具現化していると思う。


生きることは、「 心 」を現実の行為により具現化することであると思う。


2011/10/10、私の考え



「 心 」を現実の行為により具現化することは、無意識から意識へ、過去や未来から現在へと、呼吸や知覚という行為により移行することである。


その際、存在する物体の知覚だけが「 客観的 」として固執するのが、科学や唯物論の立場だろう。


私は、「 客観的 」というのは、「 誰もが同じ判断をすること 」であり、意識でも無意識でも、社会的な「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」が「 客観的 」であると思う。


物体だけでなく、その「 可能性 」という「 関係 」を含んだ知覚を「 心的存在保持意識 」であることは前述した。


「 物体 」と、可能性を生む「 エネルギー 」を含む「 心的存在保持意識 」を考えることは、宇宙をダークマタとダークエネルギーを含んで考える方向に似ている。


「 物体 」が意識であり、「 心的存在保持意識 」が無意識ならば、人の「 心 」は宇宙のダークマタとダークエネルギーが「 無意識 」であると考える。


すべての人は、存在物を前提にして、生活しているとは、「 可能性 」という関係の中で、「 呼吸 」という行為や「 知覚する 」行為により、実在化した物体の存在を前提として「 生きる 」ことだと思う。


生きることは「 欲 」を持つことであり、「 心 」を持つことであり、「 現在 」に繋がる可能性という「 関係 」を「 現在の行為 」の中で具現化していると思う。


この「 心的存在保持意識 」を具現化する「 力 」が「 人格 」であるのかも知れない。


「 力 」であるから、気(ki)であり、現在の行為のエネルギーである。


これで、次の話題に話が移行する。
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2011年10月09日

2011/10/9、オカルト・迷走する自分9・整理

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2011/10/9、私の考え


私の考えでは、すべての人は、存在物を前提にして、生活していると思う。


大地(地球)が存在し、空気が存在し、重力が存在し、物体が存在し、時間や空間が存在することなどである。


それを、古代の人は、火や土や水などの世界の構成要素として考えたのだと思う。


私は、この「 存在 」ということを考える必要があると思う。


私は、「 存在と時間 」で考えるのでなく、「 存在と関係 」で考えることは前述した。


私は「 時間 」は時間意識、「 空間 」は空間意識と考えるので、「 存在一般 」を考えるのでなく、「 今 」や 「 現在 」という時制からの「 存在 」を考える。


「 時間 」や「 空間 」が存在するのは意識であると思うのは、宇宙のダークマタやダークエネルギーを考えると、「 時間 」や「 空間 」という言葉が意味する実体の有無が不明だからである。


人間が「 生きること 」により、過去や現在や未来という時制は発生し、「 現在 」は呼吸により決められる気(ki)というエネルギーの状態であり、過去や未来は、気(ki)が存在しない情(zyou)という遺伝子情報も含めた経験した全ての情報で決められることも前述した。


「 現在 」は「 意識 」であり、「 過去や未来 」は「 無意識 」や「 バイオリズム 」であることも前述した。


「 意識 」も「 無意識 」も、「 小脳の無意識 」である「 心 」に含まれることも前述した。


私は、「 今 」や「 現在 」に充満するのは、「 時間 」ではなく「 関係 」であり、「 関係 」が、過去と未来を結び、「 生きること 」は「 関係のなかで生活すること 」であると思う。

「 永遠 」があるのは「 時間 」ではなく「 関係 」であり、個人の意識の「 クオリア 」は社会の無意識であり、社会の「 集合的無意識 」に合致することが「 永遠の関係 」であると考えていることも前述した。


「 関係 」とは「 可能性 」であり、実在化したのが「 存在 」であると思う。


「 可能性 」は「 小脳の無意識 」であり「 欲 」であることも前述した。


すべての人は、存在物を前提にして、生活しているとは、「 可能性 」という関係の中で、「 呼吸 」という行為や「 知覚する 」行為により、実在化した物体の存在を前提として「 生きる 」ことだと思う。


生きることは「 欲 」を持つことであり、「 心 」を持つことであり、「 現在 」に繋がる可能性という「 関係 」を「 現在の行為 」の中で具現化していると思う。


生きることは、「 心 」を現実の行為により具現化することであると思う。
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2011年10月04日

2011/10/4、オカルト・迷走する自分8・永遠の関係2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/9/30、私の記事


私は、「 一定の関係 」を「 存在 」と考えるが、「 一定の 」というのは、意識的、無意識的に繰り返すことを想定している。


そのように考えるとき、「 存在 」は「 存在物 」であるとは限らない。


五感で知覚する物体だけを「 存在 」とは考えない。


五感のうちのひとつの感覚で、繰り返す一定の関係が生じれば「 存在 」と、私は考える。


極端に言えば、繰り返す抽象的な数値の関係も、「 法則 」として存在し、その「 存在 」を信仰するのが、科学者であると思う。


私は、呼吸が決定する「 瞬間 」や「 今 」は、気(ki)であり、意識的な無意識であり、その中に、「 過去や未来 」を決定する無意識の情(zyou)を当然には含まないと考える。


情(zyou)は「 心 」として、「 欲 」として、「 小脳の無意識の可能性 」として、気(ki)が動作させる知覚器官の精神的な方向を決め、「 遠近 」や「 強弱 」のベクトルを脳に感じさせると思う。


「 瞬間 」や「 今 」という気(ki)の中に、「 永遠 」を考え、永遠を時間と思うから、「 存在と時間 」を考えなければならない。


私は、「 瞬間 」や「 今 」の中に「 永遠 」はあるが、「 時間 」ではなく「 関係 」であると思う。


これまで書いてきたように、「 瞬間 」や「 今 」に充満するのは、「 遠近 」や「 強弱 」などのベクトル(力線)であり、誰にも同じ内容の「 時間 」ではない。


「 時間 」があるとすれば、それは個人の時間であり、心拍であり、身体のリズムであり、バイオリズムであると思う。


私は、呼吸から生じる「 瞬間 」や「 今 」の中には、「 永遠の時間 」ではなく、「 永遠の関係 」があると思う。


「 永遠の関係 」は、「 永遠の時間 」より範囲が広い。


「 永遠の時間 」は、永遠の未来であるかも知れないが、「 永遠の関係 」は、「 永遠の未来 」だけでなく、「 永遠の過去 」にも関連し、契機さえあれば、時間の制限を受けずに、「 永遠の過去 」が復活すると思うからである。


2011/10/4、私の考え


存在を、「 一定の関係 」とすれば、個人の「 心的存在保持意識 」は、個人が保持する「 関係 」ごとに、相違するだろう。


五感で知覚できる物体だけを「 存在 」と考えることは、科学的であるかも知れないが、「 死 」は全ての終わりとなるだろう。


科学的とは唯物論であり、呼吸が生み出す「 今 」や「 瞬間 」での、「 遠近 」や「 強弱 」のベクトル(力線)に左右させる世界であり、呼吸によって得られるエネルギーの領域であり、気(ki)の領域であり、ここには「 永遠 」という情(zyou)や思想は無い。


「 絵画 」について考えると、科学的関係というのは絵の具の種類やカンバスや色の濃淡であり、画家が絵の具の種類やカンバスや色の濃淡により、表現しようとした「 思想 」を判別することはできない。


「 日本庭園の石庭 」について考えると、科学的関係とは、石の有無であり、日本庭園の石庭で表現しようとした、石の配置による自然という「 思想 」を判別することはできない。


「 科学的関係 」は「 誰からも一定の関係 」とするため、個人の思想は無視され、無味乾燥の物体だけの知覚の関係であると思う。


「 科学的関係 」を成立させている「 知覚 」の方向を決定する「 心 」が不在の世界であり、死んだら終わりの世界であり、「 絆 」など、どこにも無いだろう。


「 科学的関係 」の「 心的存在意識 」は、「 心的 」ということを否定することから始まる思想であり、ガリレオからも推察されるように、人間性、バイオリズムの否定であり、法則が「 永遠の関係 」というだろうが、「 関係 」は人間性であり、法則が「 関係 」であるとは思わない。


法則は、人間の存在を前提とした「 因果関係 」であると考えたとき、「 永遠の関係 」があるかも知れない。


私が、「 存在 」を「 一定の関係 」としたのは、これから生じる「 心的存在保持意識 」を重視することを意図している。


世界中の誰もが「 心的存在保持意識 」を持ち、「 生活 」している。


大地や建築物が動かないこと、空気があること、夜と昼があること、自然は動かないこと、などは、「 科学的関係 」で決定するのではなく、無意識に生きることのバイオリズムで決定する。


大地や建築物が動かないこと、空気があること、夜と昼があること、自然は動かないこと、は自分と自然との関係であり、「 科学的関係 」で考えるのでなく、「 人類への恵み 」と考えるところに「 心的存在意識 」が生じ、人間から自然への「 感謝の気持ち 」が生じると思う。


「 存在 」を「 一定の関係 」としたことにより、知覚することが出来ない関係も、「 存在 」となり、繰り返す一定の関係が生じれば「 存在 」となるが、何を「 存在 」させるかは、個人の内面から生じるバイオリズムや情(zyou)次第となる。


個人の内面の「 心的存在意識 」の投影が「 存在 」であり、投影であるから、表現しようとした「 思想 」が絵画や音楽の中に存在し、「 思想 」の永遠性が「 永遠の関係 」であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 執着 」であるが、「 絆 」や「 連帯感 」を与えるため、捨て難い。


「 心的存在意識 」は、情(zyou)であり、過去と現在と未来を貫通し、個人の「 クオリア 」と「 集合的無意識 」が共通して持つ社会的連帯性の「 永遠 」を、個人の「 心 」の中に取得したとき、個人の「 永遠の関係 」になるのかも知れない。
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2011年09月30日

2011/9/30、オカルト・迷走する自分7(永遠の関係)1

011/8/11、私の記事


「 気(ki)」は「 空気(kuuki)」や「 電気(denki)」というように、「 流れる物 」であり、エネルギーの領域であり、空気を呼吸するから「 今 」や、その延長の「 現在 」を決めるバイオリズムであるだろう。


「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。


その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。



情(zyou)は、「 人情 」や「 情熱 」という人間に共通な「 感情 」を示す言葉に使われるだけだけでなく、「 情報 」などの「 伝達されるもの 」、「 物から派生したもの 」に使われ、遺伝子情報も含む「 物語 」であり、そのため、「 時間 」や「 空間 」を必要とするから、「 意識 」に近い無意識で、それは時制の「 過去や未来 」を形成すると思う。


情(zyou)は、「 物語 」であるから「 文化 」も含み、社会の知識も含むと思う。


その情(zyou)が持つ、意識が「 静止 」した情報を、「 今 」、「 現在 」に「 動かす 」あるいは「 解凍 」するのが、気(ki)が持つ、エネルギーであると思う。



知識を行為に具現化するのが、気(ki)であり、当然だが、行為は「 今 」、「 現在 」にしか存在しない。


2011/8/20、私の記事


気(ki)と情(zyou)の関係


無意識を気(ki)と情(zyou)で考え、前者をエネルギーで、後者をDNA情報も含めた自分のすべての文化と考え、前者が「 瞬間 」や「 現在 」を決め、後者が「 過去や未来 」を決めると考える。

前者の気(ki)を電気(denki)と考え、知覚器官を動かすのは電気(denki)で、生物が知覚するのは電気(denki)に依ると考える(私は、これを生気論だと思う)。


存在は、一定の関係であり、知覚するのは、この関係であるからストレスという力線を生み、欲で知覚が動き、気(ki)は器官を働かせるエネルギーであると思う。

気(ki)は、食物の摂取と心肺活動により生じるだろう。


眼が見るのは、「 存在 」する物体ではなく、自分に対する関係(例えば、方向)である。


人間も牛や馬の眼には、風景は模様となって、眼に映っているかもしれない。

「 存在 」するか否かは、情(zyou)が決定すると考える。

眼が「 実体 」を決めるのではなく、決定するのは情(zyou)であると思う。

眼によって見えるから「 存在 」するのではなく、五感や五体に充満する情(zyou)という感情による実感で「 存在 」が決まると思う。

動物と人間は情(zyou)が違うから、人間にとっての「 存在 」は、牛や馬には「 存在しない 」かもしれない。


眼で遠近を感じるのは、自分の行動可能性を考えるから、欲を持つからであり、欲が無い場合は「 模様 」として感じるだろう。


見ることに依存せず、感じることが、存在を知覚することであり、盲目の人がピアノの鍵盤の位置を知っているのは、音を発する鍵盤の位置を感じ、存在を知っているからだと思う。


見ることは、自分との関係を知ることで、「 存在 」を知ることではないと思う。


「 存在 」は「 感じる 」意識であり、「 存在 」を決めるのは情(zyou)であると考える。


これは、人間に限らず、生物一般の知覚であると考えると、知覚の機構は同じだが、獲得する「 実体 」はすべて相違するから、「 実体 」は動物の共同社会の定義、知識であると思う。


………………(省略)…………………………


「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。



2011/9/30、私の考え


私は、「 一定の関係 」を「 存在 」と考えるが、「 一定の 」というのは、意識的、無意識的に繰り返すことを想定している。


そのように考えるとき、「 存在 」は「 存在物 」であるとは限らない。


五感で知覚する物体だけを「 存在 」とは考えない。


五感のうちのひとつの感覚で、繰り返す一定の関係が生じれば「 存在 」と、私は考える。


極端に言えば、繰り返す抽象的な数値の関係も、「 法則 」として存在し、その「 存在 」を信仰するのが、科学者であると思う。


私は、呼吸が決定する「 瞬間 」や「 今 」は、気(ki)であり、意識的な無意識であり、その中に、「 過去や未来 」を決定する無意識の情(zyou)を当然には含まないと考える。


情(zyou)は「 心 」として、「 欲 」として、「 小脳の無意識の可能性 」として、気(ki)が動作させる知覚器官の精神的な方向を決め、「 遠近 」や「 強弱 」のベクトルを脳に感じさせると思う。


「 瞬間 」や「 今 」という気(ki)の中に、「 永遠 」を考え、永遠を時間と思うから、「 存在と時間 」を考えなければならない。


私は、「 瞬間 」や「 今 」の中に「 永遠 」はあるが、「 時間 」ではなく「 関係 」であると思う。


これまで書いてきたように、「 瞬間 」や「 今 」に充満するのは、「 遠近 」や「 強弱 」などのベクトル(力線)であり、誰にも同じ内容の「 時間 」ではない。


「 時間 」があるとすれば、それは個人の時間であり、心拍であり、身体のリズムであり、バイオリズムであると思う。


私は、呼吸から生じる「 瞬間 」や「 今 」の中には、「 永遠の時間 」ではなく、「 永遠の関係 」があると思う。


「 永遠の関係 」は、「 永遠の時間 」より範囲が広い。


「 永遠の時間 」は、永遠の未来であるかも知れないが、「 永遠の関係 」は、「 永遠の未来 」だけでなく、「 永遠の過去 」にも関連し、契機さえあれば、時間の制限を受けずに、「 永遠の過去 」が復活すると思うからである。


「 永遠の関係 」は情(zyou)というバイオリズムから生じるからであると考えている。
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2011年09月24日

2011/9/24、オカルト・迷走する自分6・信仰

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/8/20、私の記事

こうして、「 自分 」は、気(ki)という電気(denki)で眼や耳を動かして、自分との「 関係 」を捕らえ、情(zyou)という全身のDNA情報で、物体を「 存在 」として捕らえ、「 存在 」とは「 感じる 」という意識であり、「 存在 」の認識には「 感受性 」を必要とし、「 呼吸 」で決まる現在に、空気を吸ったり吐いたりするときに、気(ki)と情(zyou)を使って、@とAの行為をしていると思う。


「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。


………………………………………………………


2011/9/24、私の考え

「 存在感 」は「 心的存在保持意識 」と、造語する。

私は先日、以下のように書いた。

………………………………………………………

2011/9/22、私の記事

私が、なぜ「 集合的無意識 」に「 クオリア 」を代入したのか?


それは、両者とも、「 情(zyou)」であると思うからである。


前者が「 個人の経験を超えた 」というのは、民族や国家などにおいて、「 暗黙の了解 」と考える無意識(バイオリズム)であり、情報(zyouhou)の一種だろう。


後者は、自分だけの感覚の質というが、それは「 意識 」の中の、遺伝子情報や生来の情報で判断し、他者に譲れない個人の情報であり無意識(バイオリズム)であると思う。


それは、個人だけが「 了解 」する、無意識(バイオリズム)であると思う。


両者は、「 了解 」という無意識(バイオリズム)であることは同質で、両者とも社会的であり個人が生み出したものでないと思う。


両者とも同質であるが、一方が個人特有の無意識で、他方が個人を超えた無意識だと思う。


同質だから、同じ思考が許され、「 個人 」を形成する「 気(ki)」の内部が「 クオリア 」であり、「 気(ki)」を無視した無意識が「 集合的無意識 」であり、両者とも、「 社会的 」という教育や文化の「 情(zyou)」の産物であると思う。

………………………………………………………

2011/8/20、の記事と2011/9/22の記事から、次のように考える。


信仰について



キリスト教や仏教には、それぞれの儀式の祈りの言葉があると思う。


日本でも、「 南無阿弥陀仏 」とか「 南無妙法連華経 」など、宗派の違いでいろいろな「 念仏 」や「 祈りの言葉 」がある。


私は、この祈りの言葉に、唱和のリズム以外の特別な価値を与えない。


「 念仏 」や「 祈りの言葉 」の意味を考える必要は無い。


「 念仏 」が意図する事は、「 呼吸によりつくられた今の中で、古代から続く神仏の存在を感じる事 」であると思う。


「 今 」という時制は「 呼吸 」の気(ki)により作られ、「 過去や未来 」は「 情(zyou)」により作られると思うから、「 過去も未来も含まない今 」の無意識(バイオリズム)の中の個人的な「 クオリア 」を捨てて、過去や未来の、個人を超えた「 集合的無意識 」を取得するのが、「 念仏 」の目的であると思う。


「 念仏 」という、古代の人々と同じ呼吸のリズムを保つことにより、呼吸が作る「 今 」に集中し、古来から未来を貫く「 集合的無意識 」を得ることが、宗教であると思う。

「 念仏 」を「 祈りの言葉 」に置き換えれば、全ての宗教に共通すると思う。


大切なのは、必死に「 念仏 」を唱えたり、「 念仏 」の言葉の意味を考えることでは無く、「 集合的無意識 」である「 神仏 」を「 心的存在保持意識 」として獲得することであると思う。


「 心 」の中に「 神仏 」の「 心的存在保持意識 」が無ければ、「 祈り 」はただの虚礼であり、儀式に過ぎない。



「 心 」の中に「 神仏 」の「 心的存在保持意識 」があれば、古代の人々の呼吸と同じ呼吸をするだけで、「 念仏 」を必要としない。


「 心 」の中に「 神仏との絆 」がある事は、神仏が「 心の中に存在する事であり、そのことが「 神仏と共に在る事 」だと思う。


キリストの像や仏陀の像を見るのは、古代人と同じ意識を、自分の内部から引き出すことを容易にするためであり、そのための「 補助用具 」であると思う。 

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2011年09月22日

2011/9/22、オカルト・迷走する自分 5(クオリア)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/9/18、私の記事

私は「 クオリア 」は、「 集合的無意識 」と似ていると思うので、「 集合的無意識 」に「 クオリア 」を「 代入 」して考える。



2011/9/22、私の考え


私が、なぜ「 集合的無意識 」に「 クオリア 」を代入したのか?


それは、両者とも、「 情(zyou)」であると思うからである。


前者が「 個人の経験を超えた 」というのは、民族や国家などにおいて、「 暗黙の了解 」と考える無意識(バイオリズム)であり、情報(zyouhou)の一種だろう。


後者は、自分だけの感覚の質というが、それは「 意識 」の中の、遺伝子情報や生来の情報で判断し、他者に譲れない個人の情報であり無意識(バイオリズム)であると思う。


それは、個人だけが「 了解 」する、無意識(バイオリズム)であると思う。


両者は、「 了解 」という無意識(バイオリズム)であることは同質で、両者とも社会的であり個人が生み出したものでないと思う。


両者とも同質であるが、一方が個人特有の無意識で、他方が個人を超えた無意識だと思う。


同質だから、同じ思考が許され、「 個人 」を形成する「 気(ki)」の内部が「 クオリア 」であり、「 気(ki)」を無視した無意識が「 集合的無意識 」であり、両者とも、「 社会的 」という教育や文化の「 情(zyou)」の産物であると思う。


「 気(ki)」とは、個人の生命であり、生気である。


「 クオリア」の気(ki)や情(zyou)が「 集合的無意識 」の気(ki)や情(zyou)と一致する場合があるかも知れない。



参照


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

クオリア(英:複数形 qualia、単数形 quale クワーレ)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと[2]、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう[3]。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%90%88%E7%9A%84%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98

集合的無意識(しゅうごうてきむいしき、ドイツ語:Kollektives Unbewusstes英語:Collective unconscious)は、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学における中心概念であり、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域である。普遍的無意識(ふへんてきむいしき)とも呼ぶ。個人的無意識の対語としてあり、ユングはジークムント・フロイトの精神分析学では説明の付かない深層心理の力動を説明するため、この無意識領域を提唱した。



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2011年09月19日

2011/9/19、オカルト・迷走する自分 4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2011/8/20、私の記事

「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。



…………………………………………………………………………

2011/9/19、私の考え


物体が、誰の所有にもならないこと、それに自分の表象が他者の表象と必ずしも一致しないから、統合するものとして、「 クオリア 」や「 集合的無意識 」が考えられたと思う。


それは、個人の意識と無意識を超えた「 普遍的意識 」や「 普遍的無意識 」を考えることだろう。

私は、次のように思う。


@人間は、大脳と小脳を持った動物であるから、「 意識 」と「 無意識 」と「 行動可能性 」で考えると、人間は、小脳が司る本能により「 生存欲 」を持ち、動物という「 行動可能性 」から、自分と他者(自然の事象も含む)との「 関係 」を、遺伝子を含むバイオリズムである「 無意識 」の中で「 意識 」すると思う。


A「 存在 」を「 存在論 」で考えるとは、遺伝子を含むバイオリズムである「 無意識 」で、物体を「 一定の関係 」として「 保持 」することだと思う。


B「 一定の関係 」として「 保持 」することは、「 社会的 」であるが、バイオリズムを考慮すれば、どのような「 関係 」が「 普遍的意識 」や「 普遍的無意識 」であるかは、不明であると思う。


C前回で示したように、意識も無意識も「 気(ki)」という「 力の均衡 」の「 心的存在保持意識 」と「 情(zyou)」という情報や論理の「 心的存在保持意識 」で構成され、前者は「 感覚 」から取得され、後者は「 論理や思考 」から取得され、前者は「 クオリア 」の問題で、後者は「 集合的無意識 」の問題だと思う。



人間は、大脳と小脳を持った動物で、「 眼 」や「 耳 」を使い、行動を促すのは「 心 」である。

「 心 」がCであれば、「 心 」は「 心的存在保持意識 」が作る「 連帯 」を通して他者と一致するために、「 感覚 」や「 思考 」を促すと思うから、「 心 」は他者との連帯や一致を求めていて、一致させるために、「 クオリア 」や「 集合的無意識 」を考えるのかも知れない。


まだ、結論ではない。
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2011年09月18日

2011/9/18、オカルト・迷走する自分3(クオリア)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2011/8/20、私の記事

「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。



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2011/9/18、私の考え


「 クオリア 」について、私の考えを書こう。


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知識を求める人は、下記のURLをクリックしてください。

クオリア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2


クオリア(英:複数形 qualia、単数形 quale クワーレ)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと[2]、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう[3]。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。

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「 バイオリズム 」や「 生気論 」を擬似科学とし、心拍のリズムより「 振り子 」の振幅を「 時間 」として採用した「 科学 」。

「 存在 」を、形而上学として分析を怠ってきた「 哲学 」。


擬似科学に依らず、「 脳科学 」や遺伝子などの「 生命科学 」による解明を待つのが「 常識 」だろうが、私は、それに反した考えで、「 クオリア 」について書く。



私は「 クオリア 」は、「 集合的無意識 」と似ていると思うので、「 集合的無意識 」に「 クオリア 」を「 代入 」して考える。


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(代入する)

2011/9/17、私の記事


「 存在感 」とは、「 心的存在保持意識 」とする。



クオリアについて


物体が、誰の所有にもならないこと、それに自分の表象が他者の表象と必ずしも一致しないから、統合するものとして、「 クオリア 」が考えられたと思う。


これは、無意識だけでなく、意識についても同様の事情だと思う。


両者は「 可能性 」であることは一致するが、前者は、国民性や民族性や遺伝子情報というバイオリズムで決められるが、後者は、私の考えによれば、電磁波的に、合理的な論理で決まるように思うが、意識は無意識を必要とするので、バイオリズムが混入する。


無意識は「 欲 」であり、呼吸により決まる「 今、ここ 」で、遠近や強弱という力学的関係が、繰り返して一定の関係であるとき「 心的存在保持意識 」となる。


「 心的存在保持意識 」が「 力の均衡 」であるとき、バイオリズムである「 気(ki)の連帯 」が生じ、それが「 クオリア 」になると思う。


無意識は、国民性や民族性や遺伝子情報を含み、遺伝子情報などの「 情(zyou)の連帯 」も「 心的存在保持意識 」から生じるから、「 クオリア 」は、国民性や民族性や遺伝子情報の範囲内という限定を持つ「 可能性 」だろう。


西洋と東洋のように、国民性や民族性や遺伝子情報や教育や文化の理解が無ければ、お互いの「 クオリア 」を理解することが出来ないだろう。


国民や民族の血統の違いで、「 クオリア 」が異なるかもしれない。


意識も「 欲 」であり、「 力の均衡 」で、バイオリズムである「 気(ki)の連帯 」を「 感性 」として受け入れ、繰り返す現象の中に、「 一定の関係 」である論理を「 悟性 」や「 理性 」で発見することは、「 一定の関係 」である論理を「 心的存在保持意識 」に、そして「 法則の存在 」とすることだと思う。


意識もバイオリズムであり、論理は情報であり、「 情(zyou)の連帯 」から「 集合的意識 」が生じると思う。

情(zyou)は、過去や未来を「 今、ここ 」に結びつける。


「 今、ここ 」という「 力の均衡 」、バイオリズムである「 気(ki)の連帯 」の「 クオリア 」の中に「 情(zyou)の連帯 」という「 集合的意識 」を発見することは、「 力 」の中に「 論理 」を発見することであり、「 予測 」することだと思う。


無意識は「 眼 」や「 耳 」などの五感で「 心的存在保持意識 」を発見し、意識は、頭脳による言葉や概念で「 論理 」の「 心的存在意識 」を発見することで、「 心的存在意識 」が持つ「 連帯感 」が、「 クオリア 」を作っていると思う。



私は、言葉を物に関連させて、「 物の論理 」や「 物の意味 」とするのではなく、「 物 」という意識を生じさせ、「 意味 」の関連を成立させている「 心的存在保持意識 」の連帯が「 クオリア 」であると思う。


「 言葉 」や「 意味 」が、「 意識 」を未来に導くのではなく、導くのはバイオリズムの「 情(zyou)」であるからだ。


言葉を分析しても、前には進まない。


言葉は「 文化 」であり、意識の後に従うから。


(代入を終わる)
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脳科学は、大脳の「 言葉 」の遊びではなく、小脳が持つと思うが、「 心的存在保持意識 」の「 連帯 」のエネルギーのデータで示すべきだと思う。

「 言葉 」の遊びは「 哲学 」の領域である。

「 哲学 」は「 存在 」について、答えなければならない。
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2011年09月17日

2011/9/17、オカルト・迷走する自分 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2011/8/20、私の記事

「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。



2011/9/17、私の考え


「 存在感 」とは、「 心的存在保持意識 」とする。



集合的無意識について


物体が、誰の所有にもならないこと、それに自分の表象が他者の表象と必ずしも一致しないから、統合するものとして、「 集合的無意識 」が考えられたと思う。


これは、無意識だけでなく、意識についても同様の事情だと思う。


両者は「 可能性 」であることは一致するが、前者は、国民性や民族性や遺伝子情報というバイオリズムで決められるが、後者は、私の考えによれば、電磁波的に、合理的な論理で決まるように思うが、意識は無意識を必要とするので、バイオリズムが混入する。


無意識は「 欲 」であり、呼吸により決まる「 今、ここ 」で、遠近や強弱という力学的関係が、繰り返して一定の関係であるとき「 心的存在保持意識 」となる。


「 心的存在保持意識 」が「 力の均衡 」であるとき、バイオリズムである「 気(ki)の連帯 」が生じ、それが「 集合的無意識 」になると思う。


無意識は、国民性や民族性や遺伝子情報を含み、遺伝子情報などの「 情(zyou)の連帯 」も「 心的存在保持意識 」から生じるから、「 集合的無意識 」は、国民性や民族性や遺伝子情報の範囲内という限定を持つ「 可能性 」だろう。


西洋と東洋のように、国民性や民族性や遺伝子情報や教育や文化の理解が無ければ、お互いの「 集合的無意識 」を理解することが出来ないだろう。


国民や民族の血統の違いで、「 集合的無意識 」が異なるかもしれない。


意識も「 欲 」であり、「 力の均衡 」で、バイオリズムである「 気(ki)の連帯 」を「 感性 」として受け入れ、繰り返す現象の中に、「 一定の関係 」である論理を「 悟性 」や「 理性 」で発見することは、「 一定の関係 」である論理を「 心的存在保持意識 」に、そして「 法則の存在 」とすることだと思う。


意識もバイオリズムであり、論理は情報であり、「 情(zyou)の連帯 」から「 集合的意識 」が生じると思う。

情(zyou)は、過去や未来を「 今、ここ 」に結びつける。


「 今、ここ 」という「 力の均衡 」、バイオリズムである「 気(ki)の連帯 」の「 集合的無意識 」の中に「 情(zyou)の連帯 」という「 集合的意識 」を発見することは、「 力 」の中に「 論理 」を発見することであり、「 予測 」することだと思う。


無意識は「 眼 」や「 耳 」などの五感で「 心的存在保持意識 」を発見し、意識は、頭脳による言葉や概念で「 論理 」の「 心的存在意識 」を発見することで、「 心的存在意識 」が持つ「 連帯感 」が、「 集合的無意識 」を作っていると思う。



私は、言葉を物に関連させて、「 物の論理 」や「 物の意味 」とするのではなく、「 物 」という意識を生じさせ、「 意味 」の関連を成立させている「 心的存在保持意識 」の連帯が「 集合的無意識 」であると思う。


「 言葉 」や「 意味 」が、「 意識 」を未来に導くのではなく、導くのはバイオリズムの「 情(zyou)」であるからだ。


言葉を分析しても、前には進まない。


言葉は「 文化 」であり、意識の後に従うから。

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2011年09月03日

2011/9/3、オカルト・迷走する自分1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/8/20、私の記事

こうして、「 自分 」は、気(ki)という電気(denki)で眼や耳を動かして、自分との「 関係 」を捕らえ、情(zyou)という全身のDNA情報で、物体を「 存在 」として捕らえ、「 存在 」とは「 感じる 」という意識であり、「 存在 」の認識には「 感受性 」を必要とし、「 呼吸 」で決まる現在に、空気を吸ったり吐いたりするときに、気(ki)と情(zyou)を使って、@とAの行為をしていると思う。


「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。



2011/9/4、私の考え


「 存在感 」は、自分の内部から湧き出るものではないという批評を受けたので、いろいろ考えましたが、勝手ながら言葉を造ります。


「 存在感 」に代わって、「 心的存在保持意識 」と造語します。


内容

心の中で、存在することを保持すること。

一般に五感という意識で把握されるのが「 存在 」であるが、「 心的存在保持意識 」の「 存在 」は、バイオリズム(無意識)の気(ki)や情(zyou)で決めた一定の関係であり、「 関係 」であるから、その有無は、個人の感受性の有無に委ねられ、「 保持意識 」は、バイオリズム(無意識)が持つ「 現在・過去・未来 」の時制で区別される因果関係も保持する意識である。




恋人や夫婦や親子関係は、時によっては、遠距離恋愛や単身赴任や学校の寮生活や下宿生活の場合があります。


五感で判断すれば、距離や時間が違う異なった社会に住み、「 孤独 」である気持ちがします。


しかし、自分の心に、「 心的存在保持意識 」を持てば、一人ではありません。


それは、「 絆 」として、恋人や夫婦や親子を結びつける、「 連帯感 」を生みます。


「 信仰 」でも、「 神仏を信じる 」とは、「 神仏の存在を心に持ち続けること 」であり、「 心的存在 」の対象が、恋人や親子と神仏の違いだけであり、神仏と「 連帯感 」が生まれると思います。


神仏と「 連帯 」すれば、「 同行二人 」というように、神仏と共に生きることができるでしょう。

(ネット情報)「 同行二人」(どうぎょうににん)。 四国八十八箇所の霊場めぐりのお遍路さんたちには いつでも空海(弘法大師)がついて一緒に歩いてくれている。目に見えなくてもそう思う人 のそばに必ずいてくれている…こと


愛する人や家族が、不幸にも死亡した場合、「 心的存在保持意識 」が遺族の心にある限り、死者は遺族の中に生き、遺族は供養する気持ちになるでしょう。


「 心的存在保持意識 」(過去)は、生きている人には(現在)「 連帯 」を生み、死者との間には(未来)「 供養 」を生むと思います。

人は、「 死んだら終わり 」ではなく、孤独でもありません。

「 心的存在保持意識 」や「 絆 」により、遺伝子的にも心理的にも、本来、人は「 連帯 」していると思います。



「 孤独 」に直面して、自分の内部の無意識から「 孤独 」という意識を引き出すか「 連帯 」という意識を引き出すかは、個人の「 感受性 」や「 人格 」によると思います。


両者とも、個人のバイオリズム(無意識)が決める意識ですが、前者が「 絶望 」への道で、後者が「 希望 」への道であると思います。
posted by kandk55 at 05:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 33 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする