2012年02月01日

2012/2/1、想像・人格・無明と無常7・人格

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の記事


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


2011/12/30、私の記事


私は、人間は「 無常 」という「 関係 」の中で浮かぶ、意識と無意識で決定される「 無明 」の塊(実体)であり、塊は「 人格 」の「 一定の関係 」であると思う。


無常という関係は、無数の可能性であり、行為が習慣的となることにより「 一定の関係 」が出来て、それが「 性格 」とか「 性癖 」となると思う。


2012/2/1、私の考え


肉体が「 無常 」であり、精神が「 無明 」であると考えた延長で、「 人格 」とは何だろうか。

「 人格 」は、「 無明 」の延長線上にあるだろう。


「 人格 」は、肉体の骨格のように、人を形成する肉体と精神、無意識と意識の統合体であり、私という内部から見れば、「 無明 」であるため形成される「 心的存在意識 」の統合体であり、「 無常 」という「 関係 」を無意識や意識で「 実体化 」した「 自我 」を形成する「 癖 」という「 存在 」の「 殻 」であると思う。


「 人格 」は、習慣的な「 癖 」という心的存在意識の「 殻 」であるだろう。


「 人格障害 」と診断されたら、自分が形成した心的存在意識の「 殻 」を破ることが必要だろう。


社会の中の、私という「 人物 」であり、人からの評価を心配する傾向があるが、自分の中の「 心的存在意識を破る 」方向、つまり、人格は自分が形成するもので、どこまでも「 無明 」であるが、「 無明 」を諦めと考えるのでなく、無限の人格形成、心的存在意識の形成の可能性が自分の内部に眠っていると考えるのが良い方向だと思う。


「 人格 」を、自分が作った無意識の「 殻 」だと考えて、「 殻を破る 」努力が人格を向上させるのであり、薬物による人格の向上は有り得ないと思う。


「 人格 」は自分の「 霊 」とも連結するだろう。


薬物で「 人格 」は左右されないし、薬物は無意識の「 癖 」を矯正する補助手段と考え、人格は無意識の「 殻 」だと自覚し、自分が作った「 殻 」を破って、新たな人格を形成することが、「 人格障害 」から脱出する方法かも知れない。
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2011年12月31日

2011/12/31、想像・人格・無明と無常6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の記事


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


2011/12/30、私の記事


私は、人間は「 無常 」という「 関係 」の中で浮かぶ、意識と無意識で決定される「 無明 」の塊(実体)であり、塊は「 人格 」の「 一定の関係 」であると思う。


無常という関係は、無数の可能性であり、行為が習慣的となることにより「 一定の関係 」が出来て、それが「 性格 」とか「 性癖 」となると思う。



自分の内部の「 関係 」、つまりバイオリズムや遺伝子情報を外部に当てはめたとき、「 可能性 」となり、「 個性 」や「 性格 」や「性癖 」という実体となるから、それを科学的、類型的に考えることが「 心理学 」だろう。



2011/12/31、私の考え



自分の内部の「 関係 」、つまりバイオリズムや遺伝子情報を外部に当てはめたとき、無意識により「 実体 」を作ると思う。


反対から言えば、「 一定の関係 」が習慣により「 実体化 」していれば、「 テリトリー 」や「 心 」などの目に見えない「 関係 」も「 存在 」であり、「 文化 」であり「 人格 」の現れであると思う。


それが、「 全ては心の中から生み出されたもの 」であり、実体化する全ての原因は自分の中にあると思う。


「 実体化 」とは知覚できるほどの大きさにデフォルメして表現したもので、例えば、絵画や音楽や思想であるだろう。


「 実体化することが出来ない無意識 」、情(zyou)に現せることが出来ないものは、気(ki)として具現化する。


それが「 雰囲気 」であるだろう。


以前、書いたように気(ki)は、「 無明 」であり、エネルギーであり、情(zyou)は「 無常 」という関係だろう。


エネルギーは無意識を生むから「 実体化 」する「 力 」であり、「 無明 」であり、「 力 」の均等化がエントロピーの増大の結果である「 無常 」という関係であれば、「 無明 」と「 無常 」は「 一定 」という認識可能なデフォルメされた「 認識の形 」の差異があるだけで、無意識で連結していると思う。


実体化する力を持つのが耳や目という認識器官であり、存在の認識器官ではないと思う。


耳で聞こえるから存在するのではなく、耳で自分の中に「 心的存在意識 」を作るだけであり、「 観音 」とは「 耳で聞こえる音を目で見る 」のではなく、「 観る 」と「 見る 」の言葉の違いから、前者の「 心で観る 」ことであり、後者の「 目で見る 」のではない。


見たり聞いたりするときの「 心的存在意識 」の形成力を「 観音様 」というのだと思っている。


「 観音様 」は外部に居るのではなく、自分の認識力の中に居ると思うので、私は、「 観音様 」が外部に存在することを信じない。


これは、私だけの考えであり、日本人や知識人一般が考えたことではない。
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2011年12月30日

2011/12/30、想像・バイオリズム・人格・信じること

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の記事


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


2011/12/30、私の考え


私は、人間は「 無常 」という「 関係 」の中で浮かぶ、意識と無意識で決定される「 無明 」の塊(実体)であり、塊は「 人格 」の「 一定の関係 」であると思う。


無常という関係は、無数の可能性であり、行為が習慣的となることにより「 一定の関係 」が出来て、それが「 性格 」とか「 性癖 」となると思う。



自分の内部の「 関係 」、つまりバイオリズムや遺伝子情報を外部に当てはめたとき、「 可能性 」となり、「 個性 」や「 性格 」や「性癖 」という実体となるから、それを科学的、類型的に考えることが「 心理学 」だろう。


実体化する無意識を心理学で分析することは出来ても、人間には意識があるから、意識により種々の「 関係 」を結ぶことが出来て、その結果、「 人格 」が変わることがある。


「 宗教 」を選んで変わることである。


「 宗教 」は「 信じること 」が必要だが特別なことではない。


全てが無常であるため、人間は全て何かを信じて生きていると思う。


「 信じること 」は「 それを行動基準として行為すること 」であり、「 お金 」を信じる人はお金を「 絶対視 」し、お金を得るために行動する。


「 知覚するもの 」を絶対視すれば、「 知覚するもの 」の数だけ「 信じること 」があり、人格は「 信じるもの 」の塊になるだろう。


「 知覚するもの 」の中に「 時間 」を加え、「 時間 」や「 人間 」を絶対視すれば、人間は死んだら終わりで、キリストや仏陀は、永遠に出現しない。


しかし、人間は関係を実体化した姿であり、関係次第で人間が出現すると考えるとどうだろう。


キリストや仏陀は、人格の完成者であり、(無常との)関係や条件を完成すれば、「 時間を超えて 」出現するかも知れない。


キリストや仏陀という「 人間 」を考えると二度と出現しないが、「 人格は関係の塊 」であると考えると、人格の完成者がキリストとして、仏陀として将来、出現する可能性がある。


聖書や仏典に書かれているとおりのことを行為することが「 神の子 」として行為することであり、信じることであり、それは人類の全てに「 可能性 」として残されていると思う。
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2011年12月24日

2011/12/24、オカルト・想像・人格・無明と無常5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の考え


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


@とAを同時に実現しているのが人間で、@は精神面で、Aは身体面であると考える。


@をAの方面に考える。

「 生・老・病・死 」は、頭でいろいろと考えるから不安になるのであり、生きることはエントロピーが増大するのに任せ、老いることは老いてから考え、病気は病気になったら考え、死のことは人間はみんな死ぬから死ぬ心配をしないと考えると、「 不安 」にならないだろう。


しかし、共産主義になっても「 苦 」が無くならないように、「 衣・食・住 」が満たされ、何も考えずに生きるだけでは、人格は向上しないだろう。


死ぬ間際になって、「 自分は何をするために生まれて来たのだろう 」などと疑問を持つだろう。

Aの身体は、医学に任せるが、それだけでは人格は向上しないだろうし、「 無明 」から抜け出すことは困難であると思う。


「 自分は何をするために生まれて来たのか 」を考えるのが、「 人格 」や「 霊性 」を考えることであり、考えることにより、「 無明 」から少しだけ向上することになると思う。


「 革命のために生まれて来た 」というかも知れないが、人として生まれた目的には、あまりにも小さいと思う。


革命は「 人間性を開放すること 」であり、ガンジーのように自分が豊かな人格者になることが、他者にも影響を及ぼすと思う。


Aは、医学や科学に任せるが、@については、個人が自分のバイオリズムや無意識や遺伝子情報も考えて、「 いかに生きるか 」を考える必要があると思う。


そこに、「 心的存在意識 」や信仰など、「 意識 」は働く余地があると思う。

それは、後日。
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2011年12月18日

2011/12/18、オカルト・想像・人格・無明と無常4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/12/17、私の考え


ここで、もうひとつの「 知覚したものを関係と見る 」方法を採用すれば、どうなるのだろう。


「 知覚したものを関係と見る 」ことは、「 無常 」を真実と考え、「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないことであると思う。


無明や無常は、社会を見て感じることではなく、自分自身が持っている無明と無常を社会に投影したものだと思う。


無明は、「 今 」という時制や実体を決める無意識や意識の全部であり「 気(ki)」であり、無常は自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝であり、「 情(zyou)」として「 小脳 」に伝達されると思う。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は「 無常 」であり、これに逆らって考えると「 苦 」が生じる。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は、エントロピーの増大で、上記の「 科学的な考えの人 」のように、自我が解体して、無秩序の状態になるだろう。


この考えでは、人格も道徳も向上しない。


「 知覚したものを関係とみる 」のは、「 知覚したもの 」を「 実体 」とみることでは無い。



「 知覚したものを関係とみる 」とは、「 関係の中の知覚 」であり、関係や条件が全てであり、関係や条件さえ整えば「 苦 」が生じ、関係さえ整えば「 苦 」は消滅すると考え、「 今 」が「 無常 」という無数の可能性の充満と考え、「 今 」がある限り「 無常 」とういう可能性があると考え、「 無常 」であるからこそ、生きている限り「 今日 」とは違った「 明日 」があり、関係や条件が整うと違った可能性があるという希望が湧くだろう。



全ての関係は、自分の中にあり、外部に当てはめているのは自分であると自覚することが、人格や道徳の向上への、「 第一歩 」だと思う。


「 今 」の関係や可能性を具現化しているのが「 人格 」であり、エネルギーであり、気(ki)であり、無常に「 一定の関係 」を当てはめて「 実在化 」しているのが、自分の無意識、「 無明 」であり、絶え間ない実在化が、無常に従う態度であると思う。

崩れても、崩れても、「 一定の関係 」を作り続けるのが、無常に従う態度だろう。


2011/12/18、私の考え


これは、フィクションであり、私だけの考えです。


上記のように、人間は「 無明 」であり「 無常 」であるならば、次のように考える。


私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


これは、「 衣、食、住 」という欲求が満たされていても満たされない状態でも現れる一般的な事実であり、共産主義や資本主義の区別なく現れる事実であり、真実であるかもしれない。


「 人格 」はバイオリズムで決まることもあるだろうが、「 欲 」であり気(ki)に属するだろう。


「 人格 」は、現在で問われる「 無意識 」や「 欲 」であり、気(ki)であり、「 自分 」という個体を形成し、遺伝子情報として未来へ続くが、「 人格 」は死亡と共に消滅する。


これは余談だが、「 心 」は「 無明 」であるから、価値判断や「 何を見るのか 」や「 何を聞くのか 」という「 実体 」を形成するとき、その人の「 人格 」や「 無明 」が現れると考える。

無常の「 関係 」をバイオリズムや遺伝子情報から生じる無意識で「 実体 」とするからである。





無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。



無常

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8

無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。

釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。

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2011年12月17日

2011/12/17、オカルト・想像・人格・無明と無常3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/28、私の記事


上記により、「 小脳の可能性 」は「 心 」であり、「 生命 」であり、「 欲 」であると思っていたが、これは、「 無明 」であり、人間自体が「 無明 」であり「 無常 」であると思う。


私は仏教を学んではいないのでネット情報で考えるので間違いであるかも知れない。


「 無明 」は「 迷い 」で「 苦 」の原因であるという。

「 真実 」を知らない「 欲 」であるから、「 迷う 」と思う。

「 真実 」を「 無常 」と解釈すると、「 無常であるのに、恒常であると欲する 」ことが「 無明 」だろう。


「 無明 」は、何が原因か判明しない「 欲 」だと考えると、「 無明 」は、「 小脳の可能性 」や「 心 」であり、「 生命 」であり、エネルギーであり、「 今 」「 現在 」という時制を決め、可能性を選択する「 力 」というエネルギーであり、気(ki)であり、意識の前提となる無意識であり、「 自我 」を形成する「 能力 」であると思う。


「 無常 」を「 恒常でないこと 」と解釈することは、西洋でも「 万物は流転する 」というから、これは真実かも知れない。


万物は流転する可能性を持つことを認めるのが「 無常 」であり、「 知覚したもの 」を絶対視することは「 無明 」であり、「 欲 」であると思う。


これは、「 自我 」を作るために必要かも知れないが、「 無明 」であるから「 自己中心的な考え 」であり、「 無常 」と「 感謝 」と「 生きる目的 」を知り、新たな「 人格 」を形成するためには、捨てなければならないだろう。


「 無常 」は、意識するから認識することだと思う。


「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。

2011/12/4、私の記事


これは、私だけの考えであり、私のブログの結果であり、私のフィクションである。




「 無明 」は「 欲 」であり、生命であり「 無意識 」であるから、「 実体 」を決定すると思う。


「 無常 」は「 関係 」であり、「 自分の実体も相手の実体も変化し流転する 」という意識だと思う。


すべてが無常であり、「 無明 」が「 無常 」であるとは、「 生命 」自体が「 無常 」であり、「 自我 」という「 欲 」や「 無意識 」で決定する「 実体 」は無くすべては流転する関係であると思う。


自分の身体の細胞は、新陳代謝し、無常であるし、見るもの聞くもののすべてが無常である。


実体が無いというのは、無意識で「 実体 」を決定することが間違いであり、「 実体 」を決定することが出来ないことである。


「 存在 」は「 一定の関係 」であり、「 五感 」で感じる物体では無いことが、私のブログの結果である。


「 自我 」という「 実体 」があると考えるのは、上記のネット情報によれば「 四顛倒(してんどう=さかさまな見方)」であるということだろう。



意識や無意識は、以前に書いたように、過去や未来と現在という時制を決め、無意識が決める「 現在 」の中の無数の可能性が「 無常 」という関係として現れ、自分の可能性として具現化するのが「 人格 」であり、「 能力 」や「 個性 」であるが、それは「 無明 」であるだろう。


すべては無常だから、「 物体 」は知覚の中では、可能性を具現化した「 一定の関係 」として残ると思う。



2011/12/17、私の考え


これは、私だけが考えるフィクションであり、日本人一般の考えでもなければ、仏教の教えでも無い。


上記から、人間は無明であると同時に無常であると思う。


人間は無明から、抜け出せないと思う。


「 われわれは、どこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこに行くのか 」という西洋の言葉を、わたしは、それは「 人間が無明である 」と同じ意味に解釈する。


「 考えること 」は、言葉で過去や未来を予想する。


「 知覚したもの 」を絶対視すると、すべてのものが無常(恒常なものは無い)であることを考えると、「 不安 」になるだろう。


それは、「 欲 」による「 実体 」を予想して、不安になると思う。


このとき、「 無常 」であることを考えないと不安は消滅するだろう。


「 無常 」が「 真実 」であり、それに対して「 無知 」な人も、あるいは、知ってはいるが避けている人も、不安は消滅するかも知れない。


それは、「 自分が如何に考えようが、世の中は成るようにしかならない 」という自分の考えの放棄や「 諦め 」であり、それは結局は、原因を社会に求めたり、自分の能力に求めたり、「 決定論 」に賛成する「 科学的な考えの人 」だろう。


それは、共産主義と同じく、人格や道徳の向上にならないことは前述した。


ここで、もうひとつの「 知覚したものを関係と見る 」方法を採用すれば、どうなるのだろう。


「 知覚したものを関係と見る 」ことは、「 無常 」を真実と考え、「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないことであると思う。


無明や無常は、社会を見て感じることではなく、自分自身が持っている無明と無常を社会に投影したものだと思う。


無明は、「 今 」という時制や実体を決める無意識や意識の全部であり「 気(ki)」であり、無常は自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝であり、「 情(zyou)」として「 小脳 」に伝達されると思う。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は「 無常 」であり、これに逆らって考えると「 苦 」が生じる。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は、エントロピーの増大で、上記の「 科学的な考えの人 」のように、自我が解体して、無秩序の状態になるだろう。


この考えでは、人格も道徳も向上しない。


「 知覚したものを関係とみる 」のは、「 知覚したもの 」を「 実体 」とみることでは無い。



「 知覚したものを関係とみる 」とは、「 関係の中の知覚 」であり、関係や条件が全てであり、関係や条件さえ整えば「 苦 」が生じ、関係さえ整えば「 苦 」は消滅すると考え、「 今 」が「 無常 」という無数の可能性の充満と考え、「 今 」がある限り「 無常 」とういう可能性があると考え、「 無常 」であるからこそ、生きている限り「 今日 」とは違った「 明日 」があり、関係や条件が整うと違った可能性があるという希望が湧くだろう。



全ての関係は、自分の中にあり、外部に当てはめているのは自分であると自覚することが、人格や道徳の向上への、「 第一歩 」だと思う。


「 今 」の関係や可能性を具現化しているのが「 人格 」であり、エネルギーであり、気(ki)であり、無常に「 一定の関係 」を当てはめて「 実在化 」しているのが、自分の無意識、「 無明 」であり、絶え間ない実在化が、無常に従う態度であると思う。

崩れても、崩れても、「 一定の関係 」を作り続けるのが、無常に従う態度だろう。



これは、間違いであるかも知れない。
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2011年12月06日

2011/12/6、オカルト・想像。バイオリズム・人格8

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/12/4、私の記事

「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。


「 関係 」が誰にとっても一定であるとき、「 存在 」というのであり、無機物や理論であることは問わない。

「 関係 」は「 可能性 」であり、「 欲 」である「 無明 」とは別物だと思う。


「 関係 」や「 可能性 」が、「 今 」「 現在 」に自分で判断することが出来ないほど存在するのを「 無常 」と言い、自分で判断することが出来ないほど存在する「 可能性 」を自分の「 力 」、「 能力 」で「 選択 」することが「 無明 」であると思う。


2011/12/6、私の考え


カール・マルクスは共産主義の考えを示したが、これは商品を「 知覚した物体 」として見るのでなく、商品の中に「 見えない物 」として、人と人の搾取関係があることを示したもので、私は評価する。


「 知覚した物 」を絶対視するのではなく、「 知覚した物の関係 」を絶対視することは「 無常 」の観点からは、賛成だが、その認識も「 無明 」を解決しなかった点で、不満である。


人間は「 無常 」であると共に「 無明 」でもある。


共産主義を標榜する国は、神に代わって人間の手で理想郷を作ることを目的とするだろうが、人間の「 無明 」、「 欲 」や「 無意識 」「 道徳 」を向上させることは出来なかった。


それは、現在の共産主義を標榜する国の「 道徳 」を見れば、一目瞭然である。


「 衣 」「 食 」「 住 」が足りても、「 道徳 」や「 人徳 」は、昔から全く進歩していない。


「 Man shall not live by bread alone. 」


日本では「 武士は食わねど高楊枝(takayouzi)」といって、「 武士は貧しさで食物を買って食べることが出来なくても、満腹を装って楊枝(youzi)を使うものだ。武士は生活に窮しても不義は行わない 」という言葉がある。


「 意識 」と「 無意識 」の区別がないのが「 エントロピーの増大 」で「 無常 」であり、真実であるかも知れないが、「 人として在るべき姿 」に拘ることが「 執着 」であっても、私は、捨てることが出来ない。


私は、そこから、「 心的存在意識 」が生まれてくるのだと思っている。


「 心的存在意識 」が「 執着 」であり、「 欲 」であり、捨てることが必要でも、それが出来ないから、人間の意識や無意識や命の底には「 無明 」があり、釈迦も、その存在を認めていて、いかに捨てる努力が必要であるかを教えているのだと思う。


共産主義になっても、「 無明 」が消滅し、道徳が向上するとは言えない。


物に対する欲を捨てて、「 足るを知る 」努力が必要で、それが「 道徳 」や「 人格 」を向上させるだろう。

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2011年12月04日

2011/12/4、想像・オカルト・バイオリズム・無明と無常2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/28、私の記事


上記により、「 小脳の可能性 」は「 心 」であり、「 生命 」であり、「 欲 」であると思っていたが、これは、「 無明 」であり、人間自体が「 無明 」であり「 無常 」であると思う。


私は仏教を学んではいないのでネット情報で考えるので間違いであるかも知れない。


「 無明 」は「 迷い 」で「 苦 」の原因であるという。

「 真実 」を知らない「 欲 」であるから、「 迷う 」と思う。

「 真実 」を「 無常 」と解釈すると、「 無常であるのに、恒常であると欲する 」ことが「 無明 」だろう。


「 無明 」は、何が原因か判明しない「 欲 」だと考えると、「 無明 」は、「 小脳の可能性 」や「 心 」であり、「 生命 」であり、エネルギーであり、「 今 」「 現在 」という時制を決め、可能性を選択する「 力 」というエネルギーであり、気(ki)であり、意識の前提となる無意識であり、「 自我 」を形成する「 能力 」であると思う。


「 無常 」を「 恒常でないこと 」と解釈することは、西洋でも「 万物は流転する 」というから、これは真実かも知れない。


万物は流転する可能性を持つことを認めるのが「 無常 」であり、「 知覚したもの 」を絶対視することは「 無明 」であり、「 欲 」であると思う。


これは、「 自我 」を作るために必要かも知れないが、「 無明 」であるから「 自己中心的な考え 」であり、「 無常 」と「 感謝 」と「 生きる目的 」を知り、新たな「 人格 」を形成するためには、捨てなければならないだろう。


「 無常 」は、意識するから認識することだと思う。


「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。


「 関係 」が誰にとっても一定であるとき、「 存在 」というのであり、無機物や理論であることは問わない。

「 関係 」は「 可能性 」であり、「 欲 」である「 無明 」とは別物だと思う。


「 関係 」や「 可能性 」が、「 今 」「 現在 」に自分で判断することが出来ないほど存在するのを「 無常 」と言い、自分で判断することが出来ないほど存在する「 可能性 」を自分の「 力 」、「 能力 」で「 選択 」することが「 無明 」であると思う。


「 関係 」や「 可能性 」の多様性が「 無常 」であり、意識に属し、「 能力 」は「 自我 」の形成のための「 欲 」であり、無意識に属し、「 欲 」、「 無明 」を優先させることが「 絶望 」に導くと思う。



無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。



無常

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8

無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。

釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。


2011/12/4、私の考え


これは、私だけの考えであり、私のブログの結果であり、私のフィクションである。




「 無明 」は「 欲 」であり、生命であり「 無意識 」であるから、「 実体 」を決定すると思う。


「 無常 」は「 関係 」であり、「 自分の実体も相手の実体も変化し流転する 」という意識だと思う。


すべてが無常であり、「 無明 」が「 無常 」であるとは、「 生命 」自体が「 無常 」であり、「 自我 」という「 欲 」や「 無意識 」で決定する「 実体 」は無くすべては流転する関係であると思う。


自分の身体の細胞は、新陳代謝し、無常であるし、見るもの聞くもののすべてが無常である。


実体が無いというのは、無意識で「 実体 」を決定することが間違いであり、「 実体 」を決定することが出来ないことである。


「 存在 」は「 一定の関係 」であり、「 五感 」で感じる物体では無いことが、私のブログの結果である。


「 自我 」という「 実体 」があると考えるのは、上記のネット情報によれば「 四顛倒(してんどう=さかさまな見方)」であるということだろう。



意識や無意識は、以前に書いたように、過去や未来と現在という時制を決め、無意識が決める「 現在 」の中の無数の可能性が「 無常 」という関係として現れ、自分の可能性として具現化するのが「 人格 」であり、「 能力 」や「 個性 」であるが、それは「 無明 」であるだろう。


すべては無常だから、「 物体 」は知覚の中では、可能性を具現化した「 一定の関係 」として残ると思う。


科学は、無意識が決めた「 実体 」が変わっても「 関係 」を応用することが出来ると思う。


科学が、知覚し、無意識で決めた「 実体 」ではなく、「 一定の関係 」を前提とした「 関係 」であれば、私のブログでは、科学と無常は両立する。


たぶん、間違いであると思うが、現時点の考えである。

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2011年11月28日

2011/11/28、オカルト・想像・バイオリズム・無明と無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。



2011/3/28、私の記事


宇宙の果ての、知る事が出来る事まで、「 小脳の運動可能性 」があるから、「 心 」が動く。


一般に、「 自分の能力 」に比べて、実現可能な仕事の範囲が「 可能性 」だと思われるが、私は、違う考えである。

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 能力 」が「 欲望 」という個人的なバイオリズムであるのに反し、「 可能性 」は「 欲 」という人間一般の「 生命 」のバイオリズムだと思う。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えて、絶望して自殺は考えられるが、それは「 可能性 」を「 現在 」の「 欲望 」というバイオリズムと比較した判断であり、正等ではないと思う。

「 可能性 」は「 欲 」という生命力と比較した実現する範囲であり、生命力は「 生きる事 」を考えるが、自殺には導かない。

「 能力 」は局地的な個人の「 夢 」であり、「 能力 」に囚われた自分を否定して、「 自分の本当の欲 」と「 可能性 」を比較して、自己の「 欲 」を実現する。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えるのではなく、バイオリズムである事は同じだが、「 可能性 」は「 欲 」であり、「 能力 」を破る。


2011/11/23、私の記事


以上の引用により、「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」であり、無意識やバイオリズムや遺伝子情報に連結する「 情(zyou)」であり、「 過去 」や「 未来 」に続き、誕生前の「 無明 」から死後の「 無明 」へ通じていると考える。


「 今 」や「 現在 」に無常の可能性として満されているのを、人情(ninzyou)や感情(kannzyou)や情報(zyouhou)に変換しているのが人間であり、希望や可能性があるのは、すべてが「 無常 」であるのが原因であると思う。




2011/11/28、私の考え


上記により、「 小脳の可能性 」は「 心 」であり、「 生命 」であり、「 欲 」であると思っていたが、これは、「 無明 」であり、人間自体が「 無明 」であり「 無常 」であると思う。


私は仏教を学んではいないのでネット情報で考えるので間違いであるかも知れない。


「 無明 」は「 迷い 」で「 苦 」の原因であるという。

「 真実 」を知らない「 欲 」であるから、「 迷う 」と思う。

「 真実 」を「 無常 」と解釈すると、「 無常であるのに、恒常であると欲する 」ことが「 無明 」だろう。


「 無明 」は、何が原因か判明しない「 欲 」だと考えると、「 無明 」は、「 小脳の可能性 」や「 心 」であり、「 生命 」であり、エネルギーであり、「 今 」「 現在 」という時制を決め、可能性を選択する「 力 」というエネルギーであり、気(ki)であり、意識の前提となる無意識であり、「 自我 」を形成する「 能力 」であると思う。


「 無常 」を「 恒常でないこと 」と解釈することは、西洋でも「 万物は流転する 」というから、これは真実かも知れない。


万物は流転する可能性を持つことを認めるのが「 無常 」であり、「 知覚したもの 」を絶対視することは「 無明 」であり、「 欲 」であると思う。


これは、「 自我 」を作るために必要かも知れないが、「 無明 」であるから「 自己中心的な考え 」であり、「 無常 」と「 感謝 」と「 生きる目的 」を知り、新たな「 人格 」を形成するためには、捨てなければならないだろう。


「 無常 」は、意識するから認識することだと思う。


「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。


「 関係 」が誰にとっても一定であるとき、「 存在 」というのであり、無機物や理論であることは問わない。

「 関係 」は「 可能性 」であり、「 欲 」である「 無明 」とは別物だと思う。


「 関係 」や「 可能性 」が、「 今 」「 現在 」に自分で判断することが出来ないほど存在するのを「 無常 」と言い、自分で判断することが出来ないほど存在する「 可能性 」を自分の「 力 」、「 能力 」で「 選択 」することが「 無明 」であると思う。


「 関係 」や「 可能性 」の多様性が「 無常 」であり、意識に属し、「 能力 」は「 自我 」の形成のための「 欲 」であり、無意識に属し、「 欲 」、「 無明 」を優先させることが「 絶望 」に導くと思う。



無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。



無常

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8

無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。

釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。



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2011年11月23日

2011/11/23、オカルト・想像・バイオリズム・人格7

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/8/20、私の記事


「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。


2011/10/22、私の記事

「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。




「 関係の絶対値 」は、関係を絶対と考えなければ、現実生活が成立しないことから推測した。

2011/11/6、私の記事

「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。


2011/11/8、私の記事

@絶望

「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視すること
により「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、これを「 絶対視 」するのが「 絶望 」であると思う。


社会的一般常識では、これが、「 諦め 」となり、「 無常 」というのかも知れないが、私は、「 無常 」については違う見解である。



A無常


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることである。


「 知覚した現状は、必ず変化すること 」であり、「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」だけであり、万物は流転するのが基本的な考えであると思う。


実際、「 今 」静止していると観察されても、地球規模、あるいは宇宙規模では「 動いている 」のであり、学問的な要請で、静止していると精神で規定しただけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であると、私は考える。


Bこれからの方法


生きるためには、「 今 」の中に、関係は無数に存在し、それが永遠的な関係も含まれるから、ひとつの可能性を絶対視して絶望するのではなく、他の関係も探すことが必要だろう。


ただし、その「 関係 」は無意識(バイオリズム)であるから、個人の内部に存在し、その個人しか発見できないと思う。



2011/11/10、私の記事


E

ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。



2011/11/23、私の考え




以上の引用により、「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」であり、無意識やバイオリズムや遺伝子情報に連結する「 情(zyou)」であり、「 過去 」や「 未来 」に続き、誕生前の「 無明 」から死後の「 無明 」へ通じていると考える。


「 今 」や「 現在 」に無常の可能性として満されているのを、人情(ninzyou)や感情(kannzyou)や情報(zyouhou)に変換しているのが人間であり、希望や可能性があるのは、すべてが「 無常 」であるのが原因であると思う。



すべてが「 無常 」であるから、明日の「 希望 」が生まれ、「 夢 」が生まれる。



それと同時に「 無常 」であるから、「 すべてのものに感謝する 」気持ちが生まれる。


その「 感謝 」は、上記の引用の中のどこに位置するか。


それは、「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」に位置すると思う。


関係の絶対値は、「 知覚して絶対に存在する 」と感じることと、「 知覚するものはすべて無常である 」ことの両者を同時に考えてこそ、「 今 」「 現在 」に存在するということが出来るだろう。

「 知覚するものはすべて無常である 」と考えることは、「 諦めること 」ではない。

「 無常であるから、感謝すること 」である。

 
心的存在意識を得るためには、両者を同時に考える必要があることだ。


「 知覚したもの 」という意識と、「 無常から生じる感謝 」という意識が必要で、心的存在意識から人格が生まれるとすれば、前者だけ持つか、両者を持つかで、「 人格 」も違う様相になるだろう。


私の考えでは、「 人生は無常が基本であり 」、「 無常 」であるから「 明日への可能性 」があり、「 夢 」があると思うから、人生が無常であり、「 無常 」が「 永遠 」の関係であるから、「 無常 」の方向に進むのが、人生の道だと思う。



「 人生は無常である 」とは、知識層の人たちが言う「 諦め 」ではなく、それと全く反対の方向で、「 日々が無常であり、人間の身体も無常であり、その無常に感謝しながら生きること 」である。


それは、「 諦めて 」「 絶望して 」自分から「 壁 」を作り、「 自愛的 」態度をとるのではなく、逆に自分の考えを否定し、社会の考えに従い、自分の人格を向上させることである。
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2011年11月20日

2011/11/20、オカルト・想像・バイオリズム・人格6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/10/23、私の記事

ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の記事

「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。


2011/11/6、私の記事

以前にも書いたが、「 心的存在保持意識 」は、「 フィーリング 」であり「 気持ち 」であり、「 気分 」であると思う。


人類の全てが「 気持ち 」や「 気分 」を持ち、それが「 心的存在保持意識 」であると思う。


「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視することにより「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、一致するときは「 無意識 」(バイオリズム)による行為として具現化していて、「 気分 」として知覚しないと思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するときは、考えるという意識が生まれない。


「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。



2011/11/20、私の考え


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するとは、「 自分の思う通りに物事が進行すること 」であり、「 無為 」であり、理想的だろう。


一致しないとき、「 知覚したもの 」を絶対視する立場か「 関係の中で知覚すること 」を絶対視する立場とが別れ、前者が「 絶望すること 」であり、後者は「 無常と感じること 」であることは、「 人生は無常が基本 」のタイトルで書いた。


これにより、「 人格 」も、知覚したものを絶対視する「 絶望と希望 」の人格と、関係の中での知覚を絶対視する「 無常と感謝 」の人格の二つに別れると思う。


普通「 人格 」というのは「 絶望と希望 」の人格だろう。


これは、今まで書いたように、動物の肉を食べることにより、動物の霊が精神に浸透し、人間は「 六道 」のひとつに位置し、人格を向上させなけれは、「 人間という動物 」になるだろう。


「 知覚したもの 」を絶対視し、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、「 自分の思う通りに物事が進行する 」ように行動するから、科学の対象になるし、心理学の対象にもなるだろう。


物事が進行する社会から、「 絶望と希望の人格 」の人を見れば、極端的には「 人格障害 」や「 パーソナル障害 」と言う評価を受けるだろう。


「 自分の思う通りに物事が進行する 」ように行動するとは、自分を中心として物事を判断し、社会との壁を作り、自分の世界に逃げることである。


薬物による治療が必要な場合もあると思うが、最終的には、「 薬物や科学の力 」による解決ではなく、人格を向上させるという本人の自覚と精神的な努力が必要だと思う。


私はその方法のひとつとして、「 人生は無常が基本 」とういうタイトルで書いた、関係の中での知覚を絶対視する「 無常と感謝 」の人格に変換することを提案する。




人格障害(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A0%BC%E9%9A%9C%E5%AE%B3
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2011年11月06日

2011/11/6、オカルト・想像・バイオリズム・人格5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/10/23、私の記事

ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の記事

「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。


2011/11/6、私の考え



以前にも書いたが、「 心的存在保持意識 」は、「 フィーリング 」であり「 気持ち 」であり、「 気分 」であると思う。


人類の全てが「 気持ち 」や「 気分 」を持ち、それが「 心的存在保持意識 」であると思う。


「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視することにより「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、一致するときは「 無意識 」(バイオリズム)による行為として具現化していて、「 気分 」として知覚しないと思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するときは、考えるという意識が生まれない。


「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、自分が正当で他者が間違っていると考えるのではなく、一致しない原因は自分の中にあることの自覚が必要だろう。


私のブログの考えが、読者の伝わらないのは、私が原因である。
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2011年11月04日

2011/11/4、オカルト・想像・バイオリズム・人格4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/10/23、私の記事



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


2011/10/30、私の記事


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



「 知覚 」×「 関係の絶対値 」(絶対静止を考えなくては運動は判別することが出来ない)により得られた「 心的存在意識 」を、呼吸で決まる「 今 」「 現在 」に充満している自分の「 未来への関係 」の方向に向かって選択するのが「 価値観 」というエネルギーであり、その結果、社会に表現されるのが「 人格 」であると、現時点では考える。


「 価値観 」はエネルギーであるから、「 無意識 」であるように思うが、意識により「 人格 」から「 文化 」に、逆に「 文化 」(社会)から「 人格 」に、個人の「 無意識 」(クオリア)と集合的無意識と交流する事を、「 往来する 」と考え、社会的であり、意識によって変容は可能であり、「 価値観 」や「 人格 」は、「 情(zyou)」でありバイオリズムであると思うから少しは科学により類型化されるかも知れないが、「 欲 」であるから科学で全てを判定することは出来ないと思う。


2011/11/4、私の考え


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」に、情(zyou)であるバイオリズムが「 心的存在意識 」として具現化し、それを自分の「 未来への関係 」の方向に向かって選択するのが「 価値観 」であり、その全体が「 人格 」であると、現時点では考える。


前者は「 無意識 」であり、「 流れる物 」であり、「 神経科学 」の類型の領域であるだろう。

後者は「 意識 」であり、「 派生する物 」であり、「 精神科学 」の類型の領域であるだろう。


この二つが、個人的な「 心的存在意識 」や「 価値観 」を通じて連結し、「 今 」「 現在 」の行為として表現されるのが「 人格 」だろう。


自分では統御できない、バイオリズムから生じる「 心的存在意識 」と、社会的で、教育が可能で、自分で統御できる「 価値観 」が、「 今 」「 現在 」に混合しているのが「 人格 」であると思う。

両者が、根本的には、個人の「 欲 」であり、個人が持っているエネルギー次第である点で、「 科学 」の領域ではないと思う。



DNAや細胞で、「 人格 」が判明するのではなく、本人の「 意識 」で、「 人格 」が判明するのでもないと思う。

以前に書いたが、「 霊魂 」で、自分の「 未来への関係 」の方向に向かうエネルギーであるかも知れない。


「 人格 」は社会的であると同時に、個人の「 命 」の方向の問題でもあり、個人全体が他者に与える「 自分の存在意識 」であると、現時点では考える。


夫婦や友人関係でも、「 人格 」に対して、個人的には尊厳や信頼、社会的には人権や「 愛 」を認めることが正当であるだろう。

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2011年10月30日

2011/10/30、オカルト・想像・バイオリズム・人格3

2011/10/30、私の言い訳

私は、以前、次のように書いている。

このままでは、無責任と思う人がいると思うので、現在の考えと接合を図る。

………………………………………

(以前の考え)

2010/8/22、私の記事


「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。


…………(省略)……………………………


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。


2010/8/16、私の記事

価値判断とは、次のように考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。



………………………………………
(今の考え)

2011/10/23、私の記事

ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の記事

「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。

………………………………………

2011/10/30、私の考え

以前の考えで、次のことは維持する。

………………………………………

価値判断とは、「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

………………………………………

現在、「 無意識 」は、バイオリズムだろうと思っている。


価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考え、「 価値観 」は、無意識の「 欲 」の領域で働く、統合する「 力 」や「 エネルギー 」であると考える。


今、私が考えていることは、無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」でない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」であり、「 人格 」は社会的で、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。


「 欲 」の「 区切られない物 」を「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「 人格 」であり「 文化 」であり、「 人格 」や「 文化 」は「 欲 」を身体で体現したものと考える。


「 知覚 」×「 関係の絶対値 」(絶対静止を考えなくては運動は判別することが出来ない)により得られた「 心的存在意識 」を、呼吸で決まる「 今 」「 現在 」に充満している自分の「 未来への関係 」の方向に向かって選択するのが「 価値観 」というエネルギーであり、その結果、社会に表現されるのが「 人格 」であると、現時点では考える。


「 価値観 」はエネルギーであるから、「 無意識 」であるように思うが、意識により「 人格 」から「 文化 」に、逆に「 文化 」(社会)から「 人格 」に、個人の「 無意識 」(クオリア)と集合的無意識と交流する事を、「 往来する 」と考え、社会的であり、意識によって変容は可能であり、「 価値観 」や「 人格 」は、「 情(zyou)」でありバイオリズムであると思うから少しは科学により類型化されるかも知れないが、「 欲 」であるから科学で全てを判定することは出来ないと思う。

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2011年10月29日

2011/10/29、オカルト・想像・バイオリズム・人格2

2011/10/22、私の記事


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」という時制の中での、人間の行為から推察される、本人には無意識である「 人格 」も、「 情(zyou)」であると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、社会的でもあり、自分の変化で相手も変化し、「 共変する関係 」のみが変化しないと、社会では表現されると思う。


「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。



2011/10/23、私の記事

以上の考えに追加がある。


無意識をフェルミ粒子、意識をボーズ粒子とするならば、フェルミ粒子がボーズ粒子になる過程が、「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」であり、それらの混在が「 意識 」であると思う。


ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の考え


「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。


「 我々は何処から来たか、我々は何者か、我々は何処に行くのか 」


その方向を示すのが「 人格 」と思うからである。
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2011年10月23日

2011/10/23、オカルト・想像・バイオリズム3・人格

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/10/22、私の記事


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」という時制の中での、人間の行為から推察される、本人には無意識である「 人格 」も、「 情(zyou)」であると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、社会的でもあり、自分の変化で相手も変化し、「 共変する関係 」のみが変化しないと、社会では表現されると思う。


「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。



2011/10/23、私の考え

以上の考えに追加がある。


無意識をフェルミ粒子、意識をボーズ粒子とするならば、フェルミ粒子がボーズ粒子になる過程が、「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」であり、それらの混在が「 意識 」であると思う。


ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。




「 多重人格 」は、統御することが出来ない「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の「 心的存在意識 」を多数持つことであり、心理学により解明されるだろう。


以上の見解により、「 人格障害 」や「 パーソナリティ障害 」などについても、学問とは違う結果になる。
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2011年10月22日

2011/10/22、オカルト・想像・バイオリズム2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/10/19、私の記事

「 バイオリズム 」というのは「 体調 」や「 フィーリング 」であるかも知れないが、私の場合は、そうではなく、人体の臓器の動きを司る「 小脳 」のリズムと考えている。


私は「 生気論 」を支持し、気(ki)とは「 脳波 」や「心電図 」に現れる「 電気(denki)」というエネルギーであり、精神的には「 元気(genki) 」や「 気力(kiryoku)」や「 気質(kisitu)」という個人のエネルギーであると考える。


情(zyou)も気(ki)も、個人が持つ特殊の事情であり、人類の全てが相違し、保持することは人類の全てに共通する。


個人が持つ特殊事情の内容は無限に相違し、内容を知ることは出来ないが、「 バイオリズム 」で決定する行為は「 類型 」として学問の対象となるだろう。


「 小脳 」による呼吸で「 今 」や「 瞬間 」という「 現在 」という時制が決まると思い、「 小脳の行為の可能性 」が「 関係 」として時制を満たすと思うから、「 現在 」には現在に対応する関係が生じ、「 過去や未来 」には、それに対応する関係が生じると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、「 過去や未来 」に対応する関係は、「 現在 」の「 関係 」の中に存在するだろう。


「 存在 」を「 存在論 」的に考えると、存在を決定するのは「 無意識 」や「 情(zyou)」であるから、「 関係 」を選択するのは「 バイオリズム 」であるだろう。


「 関係 」が無限にあることは、個人の事情が違うから一律の内容ではないということで、決定するのは「 バイオリズム 」であると思う。


だから、「 バイオリズム 」を解明することが、多くの恩恵を得ることだと思う。


私は、心理学やその他の学問を知らないから、私の特殊の考えを書くことになる。



私の特殊な考えでは、「 意識 」は無意識の中の「 気(ki)」であり、「 電磁波に似た構造 」をしているから、気(ki)がサインカーブを描くエネルギーであると考えるが、「 バイオリズム 」の「 正弦波 」も、気(ki)のエネルギーであり、前者が「 光 」に似た「 電磁波 」であり、後者が「 物質波 」であると考えている。


私の特殊な考えは、「 遺伝子の物質波 」が、知識などの社会的な論理思考の「 電磁波 」により、変化する。

あるいは、「 ものの考えかた 」や「 思考方法 」の違いにより、「 遺伝子 」による行為が相違すると思っている。



「 意識 」と「 無意識 」は、以上の相違があるが、前者が主に「 大脳 」の働きであり、後者が「 小脳 」の働きである相違も存在すると思う。


2011/10/22、私の考え


私の特殊な考えでは、「 意識 」は無意識の中の「 気(ki)」であり、「 電磁波に似た構造 」をしているから、気(ki)がサインカーブを描くエネルギーであると考えるが、「 バイオリズム 」の「 正弦波 」も、気(ki)のエネルギーであり、前者が「 光 」に似た「 電磁波 」であり、後者が「 物質波 」であると考えている。


バイオリズムに「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」があるとすれば、バイオリズムは「 情(zyou)」だろうが「 リズム 」であるから、「 気(ki)」でもあり、気(ki)は、リズムを生むエネルギーだろう。


想像だが、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の「 情(zyou)」それぞれに気(ki)をもち、身体は「 内臓の電気や心電図の電気 」で、感情は「 小脳の電気 」で、知性は「 大脳の電気(脳波)」であるかも知れない。


以上が、人体の内部の「 物質波 」であり「 関係 」であり、外部に表現する「 意識 」で「 電磁波に似た構造 」が「 脳波 」という「 気(ki)」であり、「 情(zyou)」は、「 関係 」が具現化した「 すべての情報 」、人間社会の文化全般であると考える。


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」という時制の中での、人間の行為から推察される、本人には無意識である「 人格 」も、「 情(zyou)」であると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、社会的でもあり、自分の変化で相手も変化し、「 共変する関係 」のみが変化しないと、社会では表現されると思う。


「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。




「 関係の絶対値 」は、関係を絶対と考えなければ、現実生活が成立しないことから推測した。



現実では、物体が動かずに、そこに存在すると仮定しなければ、「 運動 」が成立しない。


「 絶対静止 」を仮定しなけれは、「 運動 」を規定することが出来ないことから推察する。


「 関係の絶対値 」は、個人の判断であり、その結果、「 心的存在保持意識 」は、種々相違すると考える。
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2011年10月19日

2011/10/19、オカルト・想像・バイオリズム1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/9/11、私の記事


タイトルを「 オカルト 」とする私の考えは、以下のとおりです。


@「 オカルト 」と書いて、通常「 擬似科学 」と呼ばれる理論を応援したい。

「 科学 」は、ガリレオ以降、人の脈拍より振り子の振幅を「 時間 」と決めることにより、人間から時間を考える機会を奪った。

これにより、「 小脳 」から発せられると私は思うが、人間のバイオリズムや「 無意識 」を軽視している。



Aその結果、「 時間 」という「 意識 」を生む「 無意識 」が、全く解明されていないと思う。


潜在意識を認めながら、「 無意識 」の定義を避けているように思う。


それは、「 人間軽視 」であり、「 努力 」を認めず「 結果 」だけを評価し、「 見えるもの 」しか評価せず、「 存在 」を客観的と称して「 見えるもの 」に限定し、「 見えるもの 」を存在させる「 見えないもの 」を軽視していると思う。

それが、道徳や連帯感を衰退させていると思う。



私は、ここに、「 気(ki)」と「 情(zyou)」を構成要素とする「 無意識 」を導入し、「 人間は全てが欲 」であり、「 無意識 」も「 欲 」であるから「 生存が可能であり 」、その「 欲 」が、「 見えるもの 」の「 遠近 」や、「 聞こえるもの 」の「 強弱 」という「 関係 」を、人間に「 感じさせる 」と思う。


人間は「 関係 」の中で、関係を一定に保ちながら、生きていると思う。


「 存在 」を「 一定の関係の心的存在意識 」として、「 頭脳 」の中に映し撮り、「 物の関係 」は意識同士の関係であり、「 時間意識 」や「 空間意識 」と混合して、大脳で思考し、その思考した結果としての行為は、「 人間性の発露 」であると思う。


これは、「 科学的 」ではないので、私は「 オカルト 」と称するが、未来を予想するのではない。


私は、「 見るもの 」「 聞くもの 」全てが、個人のバイオリズムや無意識や「 人格 」から生じると考えて「 オカルト 」と称するが、目的は「 人間性の解放と人間性の完成 」である。


2011/10/19、私の考え


私は、「 存在 」を「 存在論 」的に考えると、存在を決定するのは「 無意識 」や「 情(zyou)」であると書いてきた。


「 情(zyou)」は遺伝子情報を含んだ、経験した全ての情報であると想定し、「 無意識 」は「 バイオリズム 」であると考えていて、「 情(zyou)」も「 バイオリズム 」として現実に現れると思う。


「 バイオリズム 」というのは「 体調 」や「 フィーリング 」であるかも知れないが、私の場合は、そうではなく、人体の臓器の動きを司る「 小脳 」のリズムと考えている。


私は「 生気論 」を支持し、気(ki)とは「 脳波 」や「心電図 」に現れる「 電気(denki)」というエネルギーであり、精神的には「 元気(genki) 」や「 気力(kiryoku)」や「 気質(kisitu)」という個人のエネルギーであると考える。


情(zyou)も気(ki)も、個人が持つ特殊の事情であり、人類の全てが相違し、保持することは人類の全てに共通する。


個人が持つ特殊事情の内容は無限に相違し、内容を知ることは出来ないが、「 バイオリズム 」で決定する行為は「 類型 」として学問の対象となるだろう。


「 小脳 」による呼吸で「 今 」や「 瞬間 」という「 現在 」という時制が決まると思い、「 小脳の行為の可能性 」が「 関係 」として時制を満たすと思うから、「 現在 」には現在に対応する関係が生じ、「 過去や未来 」には、それに対応する関係が生じると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、「 過去や未来 」に対応する関係は、「 現在 」の「 関係 」の中に存在するだろう。


「 存在 」を「 存在論 」的に考えると、存在を決定するのは「 無意識 」や「 情(zyou)」であるから、「 関係 」を選択するのは「 バイオリズム 」であるだろう。


「 関係 」が無限にあることは、個人の事情が違うから一律の内容ではないということで、決定するのは「 バイオリズム 」であると思う。


だから、「 バイオリズム 」を解明することが、多くの恩恵を得ることだと思う。


私は、心理学やその他の学問を知らないから、私の特殊の考えを書くことになる。



私の特殊な考えでは、「 意識 」は無意識の中の「 気(ki)」であり、「 電磁波に似た構造 」をしているから、気(ki)がサインカーブを描くエネルギーであると考えるが、「 バイオリズム 」の「 正弦波 」も、気(ki)のエネルギーであり、前者が「 光 」に似た「 電磁波 」であり、後者が「 物質波 」であると考えている。


私の特殊な考えは、「 遺伝子の物質波 」が、知識などの社会的な論理思考の「 電磁波 」により、変化する。

あるいは、「 ものの考えかた 」や「 思考方法 」の違いにより、「 遺伝子 」による行為が相違すると思っている。



「 意識 」と「 無意識 」は、以上の相違があるが、前者が主に「 大脳 」の働きであり、後者が「 小脳 」の働きである相違も存在すると思う。


「 大脳 」の「 科学 」は、人体の一部の「 科学 」であると私は思う。


意識や無意識の根底には「 欲 」が存在すると考えると、「 欲 」と「 無意識 」と「 関係 」と「 存在 」と「 バイオリズム 」という言葉を解明しなければ、「 人間の行為 」を解明することは出来ないだろう。



バイオリズム(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0


人間の場合は、身体(Physical)、感情(EmotionalまたはSensitivity)、知性(Intellectual)の3種類の波を用いて説明されることが多く、頭文字P,S(E),Iと表記される。各リズムは誕生日を基準とする同じ振幅の正弦波として表され、身体リズムは23日、感情リズムは28日、知性リズムは33日の周期をもつ。


最近では元の意味から離れて、単に体調の波を言ったり、月経周期の隠語的言い回しとしてバイオリズムという言葉が使われることがある。


posted by kandk55 at 04:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 34 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする