2012年04月28日

2012/4/28、オカルト・私の思い21・思考エネルギー3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/4/21、私の記事


これは、私だけの考えであり、思考のモルモットであるから、同調を求めない。


さて、以上のように、「 思うこと 」をエネルギーと考えるとき、私は次のような関係だろうと思う。

「 思うこと 」のエネルギー(E)は、情(zyou)の一定の関係(M)に「 夢 」(C1)と「 構想力 」(C2)を乗じたものと考える。


E=M×C1×C2


「 M 」はバイオリズムや遺伝子情報などが習慣となった一定の関係(存在)であり、「 C1 」×「 C2 」は直感であり、関係から関係への飛躍を可能とするエネルギーであり、前者を精神状態の物質、後者を精神状態の「 電磁波 」で「 夢 」(C1)は無意識、「 構想力 」(C2)は意識の「 電磁波 」と考える。


「 乗じる 」とは、ひとつの項目が変化すれば、その変化が全体に及ぶことである。


「 夢 」を思い出すことは記憶であり、「 夢そのもの 」は認識することは出来ない。

「 構想力 」も自覚することは出来ない。


しかし、両者は、情(zyou)の一定の関係(M)を組み替えて、現実の状況を作ることは出来ることで、同じ性質を持つと思う。


MとC1とC2は、人類全てが相違し、「 思う力 」(E)も人類全てが相違するが、共通なことは、E=M×C1×C2であることだと思う。


Eが行為に具現化する力で、行為が「 人格の現れ 」であれば、その内面は、M×C1×C2であるだろう。


人格の変化を期待するなら、M×C1×C2を変化させる必要があると思う。



2012/4/22、私の記事


これは、私だけの考えであり、思考するモルモットであるから同調は求めない。


E=M×C1×C2


これは、「 現在 」の気(ki)の中で、行為に現れるエネルギーであり、無意識の「 夢 」(C1)を含み、それが「 生命(時間)と共変する 」、言い換えると時間の変化が先験的に認識できないから、時間の経過が認識できず、直感(C1×C2)が突然、現れる場合もあれば、永遠に現れることを認識できない場合もあるだろう。


しかし、E=M×C1×C2は、現在の行為の中で現れる共通のエネルギーだと思うから、M(一定の関係)で行われる行為の中に、常に現れていると思う。


行為は、「 過去や未来 」では不可能で、「 現在 」可能であるから、E=M×C1×C2は「 現在 」に成り立つ関係だと思う。


「 常に現れる 」というから、行為の本質であり、人格の発露である行為の本質だと思うが、「 夢 」という無意識を必ず含み、その方向が「 生きる目的 」という生きがいに沿わない場合は、「 無明 」であると思う。


E=M×C1×C2は、「 無明 」の中でM(一定の関係)を行為に具現化(実体化)するためのエネルギーであると思う。


多くの場合、行為は「 無明 」の中の関係の「 実体 」であり、E(エネルギー)が完全に発揮されている場合は少ないだろう。


MとC1とC2を増加させるためには、外部のMであり、変化を認識することが出来る「 無常 」である情(zyou)の援助が必要であると思う。


援助になる情(zyou)とは、Mには知識や情報だろうし、C1には「 夢 」でなく「 大志 」という目的だろうし、C2には、プラス思考(構想)やマイナス思考(構想)だろう。


私は、どんな情(zyou)の援助を受けるかで、現状が良くもなるし、悪くもなると思う。


2012/4/28、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

@「 夢 」は、睡眠中での脳の作用であり、それ自体を認識することは出来ない。


A「 夢 」を語るのは、「 夢の記憶 」であり、それは、覚醒したときの「 構想力 」であるから、「 夢診断 」の「 性衝動 」は「 構想力 」である。


B @とAより、「 夢診断 」などは不可能であり、情(zyou)や記憶により思い出した「 夢 」を分析して過去や未来を決定し、予想するのは、現実の「 夢を利用した 」性格判断である。


この理由により、「 性衝動 」が無意識であり、生命であるとは思うが、私は賛成しない。


無意識は「 性衝動 」より範囲が広く、「 性 」だけでは判断することは出来ないと考えるし、「 意識 」も解明していないのに、「 性衝動 」だけが無意識であるとは思わない。



C 私は、E(人格形成のエネルギー)は、E=M×C1×C2と考え、「 C1(夢) 」は、睡眠中の記憶を問題にするのではなく、「 覚醒時の夢 」を考え、「 C1(夢) 」は「 大志 」と考え、その具現化が、現実の「 行為 」であるから、 E(人格形成のエネルギー)=M×C1×C2が具現化した行為は「 人格の表現 」であると思う。


C1(夢)を覚醒状態のとき見るとき、エネルギーとなると思う。


C1の「 夢 」あるいは「 大志や目的 」の方向に、「 プラス思考 」は、「 プラスの構想力 」、「 マイナス思考 」は「 マイナスの構想力 」が働き、行為が習慣的になり、Mの「 一定の関係・心的存在意識 」を作り、それが他人には「 物 」と見られ、「 その人の人格 」と判断されると思う。


E(人格形成のエネルギー)=M×C1×C2が具現化した行為は「 人格の表現 」で、M(一定の関係・心的存在意識)になったとき、「 人物 」となるが、他者が私を「 人物 」と認めたとき、私の中では「 さらなる人格の具現化 」が始まっている。


その構造が、「 志向性 」や「 指向性 」であると考える。


「 志向性 」とは、すべての意識が常にある何ものかについての意識であるという意識の特性をいい、物質的、自然的現象から区別された心的現象を分析するが、私は賛成しない。


「 何者かについての意識 」の「 何者 」とは、「 C1(夢) 」であり、「 志向性 」はC1(夢)の具現化に向かう(無意識の)エネルギーであると思う。


C1(夢)は、行為の可能性であり、一般的には過去に「 夢 」を見ると言うだろうが、私は、C1(夢)は、覚醒時のC2(想定)と同じだが、C2(想定)が因果関係などの合理的な関係に従うのに反し、C1(夢)は合理的な関係に従わないことが相違すると考える。


意識はC1(夢)や行為の可能性を具現化するため、即ち人格を形成するために「 志向性 」という特性を持つと思う。


意識の志向性を考えるとは、意識の対象の心的現象を考えることで止まらず、C1(夢)に向かって、行為し、人格の形成を考えることまで発展すると思う。


私は、E(人格形成のエネルギー)は、E=M×C1×C2と考え、「 C1(夢) 」は、睡眠中の記憶を問題にするのではなく、「 覚醒時の夢 」を考え、「 C1(夢) 」は「 大志 」と考え、その具現化が、現実の「 行為 」であり、 E=M×C1×C2というエネルギーが「 心的現象 」であり、それが具現化した行為は「 人格の表現 」と思う。



ここで、私だけの考えは、さらに続く。


C1(夢)は、バイオリズムなどの物質波で、C2(構想力)は、脳や心臓を動かす電磁波で、これがMという遺伝子情報や知識など全ての情報を含む情(zyou)のバランスを変化させるとき、「 人格 」に大きなエネルギーを発生させると考える。


反対に「 人格 」が変化したときは、E=M×C1×C2のバランスが変化したときと考える。


E(人格形成のエネルギー)=M×C1×C2という無意識の「 エネルギー 」を生むC1(夢)が「 志向性 」や「 指向性 」を生み、人格の形成に進むから、コンピューターにとって志向性というエネルギーが判断不能であることは言うまでもない。



志向性(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%90%91%E6%80%A7


指向性(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E5%90%91%E6%80%A7


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2012年04月22日

2012/4/22、オカルト・私の思い20・思考エネルギー2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/4/21、私の記事


これは、私だけの考えであり、思考のモルモットであるから、同調を求めない。


さて、以上のように、「 思うこと 」をエネルギーと考えるとき、私は次のような関係だろうと思う。

「 思うこと 」のエネルギー(E)は、情(zyou)の一定の関係(M)に「 夢 」(C1)と「 構想力 」(C2)を乗じたものと考える。


E=M×C1×C2


「 M 」はバイオリズムや遺伝子情報などが習慣となった一定の関係(存在)であり、「 C1 」×「 C2 」は直感であり、関係から関係への飛躍を可能とするエネルギーであり、前者を精神状態の物質、後者を精神状態の「 電磁波 」で「 夢 」(C1)は無意識、「 構想力 」(C2)は意識の「 電磁波 」と考える。


「 乗じる 」とは、ひとつの項目が変化すれば、その変化が全体に及ぶことである。


「 夢 」を思い出すことは記憶であり、「 夢そのもの 」は認識することは出来ない。

「 構想力 」も自覚することは出来ない。


しかし、両者は、情(zyou)の一定の関係(M)を組み替えて、現実の状況を作ることは出来ることで、同じ性質を持つと思う。


MとC1とC2は、人類全てが相違し、「 思う力 」(E)も人類全てが相違するが、共通なことは、E=M×C1×C2であることだと思う。


Eが行為に具現化する力で、行為が「 人格の現れ 」であれば、その内面は、M×C1×C2であるだろう。


人格の変化を期待するなら、M×C1×C2を変化させる必要があると思う。



2012/4/22、私の考え


これは、私だけの考えであり、思考するモルモットであるから同調は求めない。


E=M×C1×C2


これは、「 現在 」の気(ki)の中で、行為に現れるエネルギーであり、無意識の「 夢 」(C1)を含み、それが「 生命(時間)と共変する 」、言い換えると時間の変化が先験的に認識できないから、時間の経過が認識できず、直感(C1×C2)が突然、現れる場合もあれば、永遠に現れることを認識できない場合もあるだろう。


しかし、E=M×C1×C2は、現在の行為の中で現れる共通のエネルギーだと思うから、M(一定の関係)で行われる行為の中に、常に現れていると思う。


行為は、「 過去や未来 」では不可能で、「 現在 」可能であるから、E=M×C1×C2は「 現在 」に成り立つ関係だと思う。


「 常に現れる 」というから、行為の本質であり、人格の発露である行為の本質だと思うが、「 夢 」という無意識を必ず含み、その方向が「 生きる目的 」という生きがいに沿わない場合は、「 無明 」であると思う。


E=M×C1×C2は、「 無明 」の中でM(一定の関係)を行為に具現化(実体化)するためのエネルギーであると思う。


多くの場合、行為は「 無明 」の中の関係の「 実体 」であり、E(エネルギー)が完全に発揮されている場合は少ないだろう。


MとC1とC2を増加させるためには、外部のMであり、変化を認識することが出来る「 無常 」である情(zyou)の援助が必要であると思う。


援助になる情(zyou)とは、Mには知識や情報だろうし、C1には「 夢 」でなく「 大志 」という目的だろうし、C2には、プラス思考(構想)やマイナス思考(構想)だろう。


私は、どんな情(zyou)の援助を受けるかで、現状が良くもなるし、悪くもなると思う。





プラス思考(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%80%9D%E8%80%83


マイナス思考(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B9%E6%80%9D%E8%80%83



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2012年04月21日

2012/4/21、オカルト・私の思い19・思考エネルギー

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/4/7、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、「 構想力 」と「 夢 」は、脳の覚醒したときか睡眠しているときかの違いであり、両者は同じ脳の働きであると思う。


前者が、「 関係 」から「 関係 」へと意識的に「 因果 」を思う力であり、後者は、前者の力から「 因果 」を除いた脳の力であるかも知れない。


両者は、気(ki)の領域であり、意識的にも無意識でも認識は不可能で、先験的であるが、気(ki)の領域の「 現在 」の「 行為 」(例えば、呼吸)への具現化により、認識される。


前者では、「 発明 」や「 発見 」したときに、呼吸や脈拍数が多くなるだろうし、後者は「 悪夢 」をみたとき、呼吸が乱れるだろう。


呼吸という「 行為 」による認識は情(zyou)であり、感情であり、過去や未来の「 因果 」へ連結する。


「 関係 」から「 関係 」へと意識的に「 因果 」を思う力は、過去の知識や遺伝情報などの情(zyou)から発生すると思うが、「 力そのもの 」は、情(zyou)ではなく、気(ki)であると考える。


それは、「 時間 」により自然に発生する「 力 」ではないことであり、「 今 」「 現在 」、思うことから生じる力であり、それゆえに「 構想力 」も「 夢 」も、無意識の「 エネルギー 」の領域であることである。


「 思うこと 」が「 エネルギー 」に変換されると、「 私は思う 」。


「 構想力 」や「 夢 」という「 思い 」は気(ki)という「 現在 」の「 行為 」に具現化する「 力 」、言い換えれば「 エネルギー 」であると思う。



2012/4/21、私の考え


これは、私だけの考えであり、思考のモルモットであるから、同調を求めない。


さて、以上のように、「 思うこと 」をエネルギーと考えるとき、私は次のような関係だろうと思う。

「 思うこと 」のエネルギー(E)は、情(zyou)の一定の関係(M)に「 夢 」(C1)と「 構想力 」(C2)を乗じたものと考える。


E=M×C1×C2


「 M 」はバイオリズムや遺伝子情報などが習慣となった一定の関係(存在)であり、「 C1 」×「 C2 」は直感であり、関係から関係への飛躍を可能とするエネルギーであり、前者を精神状態の物質、後者を精神状態の「 電磁波 」で「 夢 」(C1)は無意識、「 構想力 」(C2)は意識の「 電磁波 」と考える。


「 乗じる 」とは、ひとつの項目が変化すれば、その変化が全体に及ぶことである。


「 夢 」を思い出すことは記憶であり、「 夢そのもの 」は認識することは出来ない。

「 構想力 」も自覚することは出来ない。


しかし、両者は、情(zyou)の一定の関係(M)を組み替えて、現実の状況を作ることは出来ることで、同じ性質を持つと思う。


MとC1とC2は、人類全てが相違し、「 思う力 」(E)も人類全てが相違するが、共通なことは、E=M×C1×C2であることだと思う。


Eが行為に具現化する力で、行為が「 人格の現れ 」であれば、その内面は、M×C1×C2であるだろう。


人格の変化を期待するなら、M×C1×C2を変化させる必要があると思う。

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2012年04月14日

2012/4/14、オカルト・私の思い18・構想力と夢と直感

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/3/31、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 構想力 」が、悟性と感性に共通した別物であるならば、悟性を意識、感性をバイオリズムや無意識、それに共通な別物として「 関係 」を考えたとき、「 構想力 」とは何だろうか?


ネットで調べると、カントは、「 構想力 」は「 時間 」と考えたそうである。


「 時間 」は生命だと考えたのだろう。


「 無意識 」を考えたくない気持ちは理解できるが、私は、「 意識 」と「 無意識 」と一旦は分けて考え、前者は「 気(ki)」であり、「 無明 」の領域であり、後者は「 情(zyou)」であり、無明から生まれた「 一定の関係 」を相対化する「 無常 」の領域だと考える。


私は「 先験的 」で認識不可能なものとして、大脳の覚醒した「 意識 」では「 構想力 」であり、小脳の睡眠の「 無意識 」では「 夢 」であると考える。


覚醒した状態(意識)も睡眠した状態(無意識)でも、呼吸は続き、従って「 現在 」であるし、両者は「 今 」の中で働く、物語を結合させる「 力 」である。


覚醒した状態(意識)は、「 行動 」の可能性を目的とするから、「 関係 」という「 物語 」を「 一定の関係 」に変える「 力 」が「 構想力 」だと思う。


「 一定の関係 」から「 一定の関係 」を連想するのも「 構想力 」だろう。


睡眠した状態(無意識)では、「 行動 」の目的は無く、無作為に「 物語 」を結合するのが「 夢 」であるだろう。


「 構想力 」は何を「 一定の関係 」、即ち「 存在 」と認識したかで判断し、「 夢 」もどのような夢をみたのかは、記憶により思い出すだけで、働く「 力 」は認識不能である。


両者は、「 認識不能 」ということでは、「 先験的 」であり、生命の維持に必要であるから、生命と「 共変 」する、即ち「 構想力 」や「 夢 」が生命の一部であると考える。


2012/4/7、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、「 構想力 」と「 夢 」は、脳の覚醒したときか睡眠しているときかの違いであり、両者は同じ脳の働きであると思う。


前者が、「 関係 」から「 関係 」へと意識的に「 因果 」を思う力であり、後者は、前者の力から「 因果 」を除いた脳の力であるかも知れない。


両者は、気(ki)の領域であり、意識的にも無意識でも認識は不可能で、先験的であるが、気(ki)の領域の「 現在 」の「 行為 」(例えば、呼吸)への具現化により、認識される。


前者では、「 発明 」や「 発見 」したときに、呼吸や脈拍数が多くなるだろうし、後者は「 悪夢 」をみたとき、呼吸が乱れるだろう。


呼吸という「 行為 」による認識は情(zyou)であり、感情であり、過去や未来の「 因果 」へ連結する。


「 関係 」から「 関係 」へと意識的に「 因果 」を思う力は、過去の知識や遺伝情報などの情(zyou)から発生すると思うが、「 力そのもの 」は、情(zyou)ではなく、気(ki)であると考える。


それは、「 時間 」により自然に発生する「 力 」ではないことであり、「 今 」「 現在 」、思うことから生じる力であり、それゆえに「 構想力 」も「 夢 」も、無意識の「 エネルギー 」の領域であることである。


「 思うこと 」が「 エネルギー 」に変換されると、「 私は思う 」。


「 構想力 」や「 夢 」という「 思い 」は気(ki)という「 現在 」の「 行為 」に具現化する「 力 」、言い換えれば「 エネルギー 」であると思う。


2012/4/14、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


「 構想力 」と「 夢 」を以上のように考えるとき、「 直感 」は両者の混合であると思う。


「 直感 」は「 第六感 」とも言われるが、「 睡眠中 」では発揮できないし、覚醒中に論理を積み重ねても、発揮できないと思う。


論理の積み重ねはコンピューターが得意であるが、コンピューターが人工知能であっても「 直感 」は出来ない。


覚醒中に夢をみるというのは、「 関係 」や因果や論理を伴わないときは、「 空想 」であり、それらを伴うとき、「 直感 」というだろう。


それは「 関係 」から「 関係 」への飛躍であり、飛躍自体が「 夢を思う力 」、即ち「 思う力 」というエネルギーであり、気(ki)という現在で行われる行為に具現化すると思う。


「 直感 」が「 第六感 」というのは、感覚それ自体が「 心 」によるもので、認識不能であると同じ意味で、「 直感 」が「 構想力 」と「 夢 」の混合であり認識不能であるが、エネルギーとして持っているから、六番目の感覚というのだと思う。


論理の積み重ねはコンピューターが得意であるが、コンピューターが人工知能であっても「 直感 」することが出来ないのは、「 直感 」が生命に「 関係するもの 」であり、「 生きる過程 」が「 直感 」という無意識での行為であり「 直感 」である。


「 直感するコンピューター 」の下で働くというのも好きでない。


常識では考えられないことを結びつけることにより、発明や発見が生まれ、これが「 夢を実現した 」といわれるが、「 実現 」は構想が現実になることで、「 夢 」は「 構想力 」であると思う。


「 夢 」は無意識で、意識である「 構想 」を導き、気(ki)という現在の中で、「 思う力 」としてエネルギーになったとき、「 直感 」が働いたというのだと思う。





直感(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A6%B3
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2012年04月07日

2012/4/7、オカルト・私の思い17・構想力と夢

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/3/31、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 構想力 」が、悟性と感性に共通した別物であるならば、悟性を意識、感性をバイオリズムや無意識、それに共通な別物として「 関係 」を考えたとき、「 構想力 」とは何だろうか?


ネットで調べると、カントは、「 構想力 」は「 時間 」と考えたそうである。


「 時間 」は生命だと考えたのだろう。


「 無意識 」を考えたくない気持ちは理解できるが、私は、「 意識 」と「 無意識 」と一旦は分けて考え、前者は「 気(ki)」であり、「 無明 」の領域であり、後者は「 情(zyou)」であり、無明から生まれた「 一定の関係 」を相対化する「 無常 」の領域だと考える。


私は「 先験的 」で認識不可能なものとして、大脳の覚醒した「 意識 」では「 構想力 」であり、小脳の睡眠の「 無意識 」では「 夢 」であると考える。


覚醒した状態(意識)も睡眠した状態(無意識)でも、呼吸は続き、従って「 現在 」であるし、両者は「 今 」の中で働く、物語を結合させる「 力 」である。


覚醒した状態(意識)は、「 行動 」の可能性を目的とするから、「 関係 」という「 物語 」を「 一定の関係 」に変える「 力 」が「 構想力 」だと思う。


「 一定の関係 」から「 一定の関係 」を連想するのも「 構想力 」だろう。


睡眠した状態(無意識)では、「 行動 」の目的は無く、無作為に「 物語 」を結合するのが「 夢 」であるだろう。


「 構想力 」は何を「 一定の関係 」、即ち「 存在 」と認識したかで判断し、「 夢 」もどのような夢をみたのかは、記憶により思い出すだけで、働く「 力 」は認識不能である。


両者は、「 認識不能 」ということでは、「 先験的 」であり、生命の維持に必要であるから、生命と「 共変 」する、即ち「 構想力 」や「 夢 」が生命の一部であると考える。


2012/4/7、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、「 構想力 」と「 夢 」は、脳の覚醒したときか睡眠しているときかの違いであり、両者は同じ脳の働きであると思う。


前者が、「 関係 」から「 関係 」へと意識的に「 因果 」を思う力であり、後者は、前者の力から「 因果 」を除いた脳の力であるかも知れない。


両者は、気(ki)の領域であり、意識的にも無意識でも認識は不可能で、先験的であるが、気(ki)の領域の「 現在 」の「 行為 」(例えば、呼吸)への具現化により、認識される。


前者では、「 発明 」や「 発見 」したときに、呼吸や脈拍数が多くなるだろうし、後者は「 悪夢 」をみたとき、呼吸が乱れるだろう。


呼吸という「 行為 」による認識は情(zyou)であり、感情であり、過去や未来の「 因果 」へ連結する。


「 関係 」から「 関係 」へと意識的に「 因果 」を思う力は、過去の知識や遺伝情報などの情(zyou)から発生すると思うが、「 力そのもの 」は、情(zyou)ではなく、気(ki)であると考える。


それは、「 時間 」により自然に発生する「 力 」ではないことであり、「 今 」「 現在 」、思うことから生じる力であり、それゆえに「 構想力 」も「 夢 」も、無意識の「 エネルギー 」の領域であることである。


「 思うこと 」が「 エネルギー 」に変換されると、「 私は思う 」。


「 構想力 」や「 夢 」という「 思い 」は気(ki)という「 現在 」の「 行為 」に具現化する「 力 」、言い換えれば「 エネルギー 」であると思う。


人間は、みんな、「 思うとおりに 」生活しているのであり、「 思い 」が「 行為 」の「 エネルギー 」になって生活しているのであり、「 可能性 」は「 行為の可能性 」であり、新たな「 自分 」を発見する原動力は、「 構想力 」や「 夢 」という「 思い 」であると思う。


気(ki)という「 現在 」の呼吸の中で、「 構想力 」や「 夢 」という「 思い 」が原動力になって「 行為 」をしていると考える。


われ思う、ゆえにわれは生きる。
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2012年03月31日

24/3/31、オカルト・私の思い16・構想力と夢

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


これは、私の考えであり、同調を求めない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。



私は、上述したように、「 共変する関係は、認識不能である 」と思うが、これは、カントの「 先験的 」というのに似ていると思う。


前述したように、「 時間 」も「 無明 」だから「 時計 」で計測し、「 空間 」も、宇宙的規模で見れば常に動いていて「 無常 」で「 無明 」であるから、意識の思考上に「 絶対静止 」という概念を作り、これを基礎にして諸学問が成立している。


地球上で、宇宙時間も宇宙空間も、認識不能である。


この、根源的に認識不能であるのを、「 無明 」であり、「 先験的 」であると思うのだ。


以前書いたように、認識は、無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」で行われるが、前者は小脳中心で、後者は大脳中心で行われ、前者が「 過去と未来 」を、後者が「 現在 」を決めるが、「 現在 」は小脳の呼吸で決まるというのが私の考えである。


根源的に認識不能である、「 無明 」や「 先験的 」である「 時間 」と「 空間 」を、「 気(ki)」の中で「 時間意識 」と「 空間意識 」として電磁波的に認識するが、時空を超える「 直感 」などは、「 関係 」の力だろう。


時間や空間を測定可能とする「 存在 」は、存在論的には「 関係 」の習慣の結果の「 一定の関係 」であり、この「 一定の関係を作る力 」即ち「 存在を作る力 」が、カントの「 構想力 」であると思う。



2012/3/31、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 構想力 」が、悟性と感性に共通した別物であるならば、悟性を意識、感性をバイオリズムや無意識、それに共通な別物として「 関係 」を考えたとき、「 構想力 」とは何だろうか?


ネットで調べると、カントは、「 構想力 」は「 時間 」と考えたそうである。


「 時間 」は生命だと考えたのだろう。


「 無意識 」を考えたくない気持ちは理解できるが、私は、「 意識 」と「 無意識 」と一旦は分けて考え、前者は「 気(ki)」であり、「 無明 」の領域であり、後者は「 情(zyou)」であり、無明から生まれた「 一定の関係 」を相対化する「 無常 」の領域だと考える。


私は「 先験的 」で認識不可能なものとして、大脳の覚醒した「 意識 」では「 構想力 」であり、小脳の睡眠の「 無意識 」では「 夢 」であると考える。


覚醒した状態(意識)も睡眠した状態(無意識)でも、呼吸は続き、従って「 現在 」であるし、両者は「 今 」の中で働く、物語を結合させる「 力 」である。


覚醒した状態(意識)は、「 行動 」の可能性を目的とするから、「 関係 」という「 物語 」を「 一定の関係 」に変える「 力 」が「 構想力 」だと思う。


「 一定の関係 」から「 一定の関係 」を連想するのも「 構想力 」だろう。


睡眠した状態(無意識)では、「 行動 」の目的は無く、無作為に「 物語 」を結合するのが「 夢 」であるだろう。


「 構想力 」は何を「 一定の関係 」、即ち「 存在 」と認識したかで判断し、「 夢 」もどのような夢をみたのかは、記憶により思い出すだけで、働く「 力 」は認識不能である。


両者は、「 認識不能 」ということでは、「 先験的 」であり、生命の維持に必要であるから、生命と「 共変 」する、即ち「 構想力 」や「 夢 」が生命の一部であると考える。


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2012年03月18日

2012/3/18、オカルト・私の思い15・構想力2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


これは、私の考えであり、同調を求めない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。



私は、上述したように、「 共変する関係は、認識不能である 」と思うが、これは、カントの「 先験的 」というのに似ていると思う。


前述したように、「 時間 」も「 無明 」だから「 時計 」で計測し、「 空間 」も、宇宙的規模で見れば常に動いていて「 無常 」で「 無明 」であるから、意識の思考上に「 絶対静止 」という概念を作り、これを基礎にして諸学問が成立している。


地球上で、宇宙時間も宇宙空間も、認識不能である。


この、根源的に認識不能であるのを、「 無明 」であり、「 先験的 」であると思うのだ。


以前書いたように、認識は、無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」で行われるが、前者は小脳中心で、後者は大脳中心で行われ、前者が「 過去と未来 」を、後者が「 現在 」を決めるが、「 現在 」は小脳の呼吸で決まるというのが私の考えである。


根源的に認識不能である、「 無明 」や「 先験的 」である「 時間 」と「 空間 」を、「 気(ki)」の中で「 時間意識 」と「 空間意識 」として電磁波的に認識するが、時空を超える「 直感 」などは、「 関係 」の力だろう。


時間や空間を測定可能とする「 存在 」は、存在論的には「 関係 」の習慣の結果の「 一定の関係 」であり、この「 一定の関係を作る力 」即ち「 存在を作る力 」が、カントの「 構想力 」であると思う。


2012/3/18、私の考え


これは私だけの考えであり、同調を求めない。


「 構想力 」が、悟性と感性に共通した別物であるならば、悟性を意識、感性をバイオリズムや無意識、それに共通な別物として「 関係 」を「 構想力 」と考える。


悟性も感性も、自分と「 共変 」しないものを目安にして成立し、地球上で物体は、自分と「 共変 」するから静止してると思って、宇宙規模の動きを意識的にも無意識でも認識することは出来ない(空間的認識不能)し、宇宙規模の時間も意識的にも無意識でも認識することが出来ない(時間的認識不能)。


この地球上で認識不能な「 本当の空間 」や「 本当の時間 」を「 先験的 」と考える。



以前に書いたように、悟性(意識)や感性(バイオリズムや無意識)に共通な別物として「 関係 」を考え、「 一定の関係 」が「 存在 」と考え、この「 存在 」を基点として、悟性や感性が成立すると考える。


「 存在 」を「 一定の関係 」と考えるのは、関係の具現化、関係への悟性(意識)や感性(無意識)の「 当てはめ 」が、個人の「 本質直感 」には必要だからである。


「 本当の空間 」や「 本当の時間 」が「 先験的 」で、認識不能であれば、空間意識や時間意識に従って悟性や感性を使っても、「 本質直感 」は出来ないだろう。


時間や空間を越えた「 本質直感 」は、時間意識や空間意識に頼った測定ではなく、「 先験的 」な「 本当の時間や空間 」と意識や無意識を繋いでいる「 関係 」に沿って、意識や無意識を当てはめて、「 一定の関係 」を具現化することであると思う。


この地球上で認識不能な「 本当の空間 」や「 本当の時間 」を「 先験的 」と書いたが、これは「 無常 」と「 無明 」であるかも知れない。


人間は「 無明 」であり、かつ「 無常 」であるから、人間は根源的に「 先験的 」であり、一定の時空を生きるのが人間であるかも知れない。


根源的に「 先験的 」であるから、意識や無意識と「 先験的 」なもの(生命)を繋ぐ「 関係 」を「 一定の関係 」という「 存在 」に具現化するのが「 人格形成 」であり、それは「 本質直感 」と同じ「 意味 」を持つと思う。


「 本質直感 」は、時空を超えて「 関係 」を把握し「 一定の関係 」に具現化することで、行為としては彫刻や絵画などの芸術と同じだと思う。


もちろん、それは個人の「 確信 」であり、「 主観的真理 」であり、社会の「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」により承認されて、無明から脱することになるだろう。


「 関係 」の把握と「 一定の関係 」という「 存在 」の発見こそ、「 本質直感 」であると思う。

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2012年03月17日

2012/3/17、オカルト・私の思い 14・構想力

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/3/14、私の記事


これは、私の考えであり、同調を求めない。



人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。



「 気(ki)」に対して、「 関係 」と「 情(zyou)」を考えているが、「 情(zyou)」は上記のように、人間のリズムで「 過去や未来 」を決め、「 関係 」は、細胞などの自然のリズムと考える。


時間で考えると「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であるかも知れない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。


例えば、列車や自動車が走る動きは、自分と共変しない関係であり、地球の自転を実感することが出来ないのが、共変する関係と考える。


情(zyou)と共変しない(変化の認識が可能な)関係と、情(zyou)と共変する(変化の認識が不可能な)関係と合体した「 一定の関係 」が「 無常 」という感覚で現れ、それが人間の「 情(zyou)」に反映して、「 無明 」になると、現時点では思っている。


「 情(zyou)」と「 関係 」が共変して、認識が不可能なことが、「 無明 」であり、気(ki)であるのかも知れない。


上記の例でいえば、「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であり、両者は認識不能で、両者が同一であるかも知れないことが「 無明 」であることかも知れない。


私は、宇宙の時間は、「 うるう年 」を作った地球上の時間とは違うかも知れないと思うし、体内時間が測定できないことが宇宙の時間と同一ではないかも知れないが、共変する時間であると思う。

それが、「 無明 」であることだと思う。


2012/3/17、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。



私は、上述したように、「 共変する関係は、認識不能である 」と思うが、これは、カントの「 先験的 」というのに似ていると思う。


前述したように、「 時間 」も「 無明 」だから「 時計 」で計測し、「 空間 」も、宇宙的規模で見れば常に動いていて「 無常 」で「 無明 」であるから、意識の思考上に「 絶対静止 」という概念を作り、これを基礎にして諸学問が成立している。


地球上で、宇宙時間も宇宙空間も、認識不能である。


この、根源的に認識不能であるのを、「 無明 」であり、「 先験的 」であると思うのだ。


以前書いたように、認識は、無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」で行われるが、前者は小脳中心で、後者は大脳中心で行われ、前者が「 過去と未来 」を、後者が「 現在 」を決めるが、「 現在 」は小脳の呼吸で決まるというのが私の考えである。


根源的に認識不能である、「 無明 」や「 先験的 」である「 時間 」と「 空間 」を、「 気(ki)」の中で「 時間意識 」と「 空間意識 」として電磁波的に認識するが、時空を超える「 直感 」などは、「 関係 」の力だろう。


時間や空間を測定可能とする「 存在 」は、存在論的には「 関係 」の習慣の結果の「 一定の関係 」であり、この「 一定の関係を作る力 」即ち「 存在を作る力 」が、カントの「 構想力 」であると思う。


「 構想力 」という考えは、「 無明 」と「 無常 」を繰り返す脳細胞の力であり、カントが構想を止めたからと言って、単純に否定すべきではないと思う。


無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」以外の「 関係 」こそ、無意識と意識を成立させる力として考える。


それは、「 生命 」かも知れない。
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2012年03月14日

2012/3/14、オカルト・私の思い 13・希望と失望

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/3/11、私の記事


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。



これは、私の考えであり、同調を求めない。


人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。


細胞の塊である「 人体 」は「 無常 」であるため、「 無明 」が作る「 心的存在意識 」はすべて「 無常 」であるし、「 精神 」が「 無明 」であるため「 無常 」である「 心的存在意識 」は全て「 無明 」であると思う。


通常の「 心的存在意識 」は、無明と無常の両者を含むと思う。


「 精神 」が「 無明 」を脱したとき、即ち「 客観的真理 」を把握したとき、「 心的存在意識 」は、自然法則と同様に「 無常 」であると思う。


自然法則は、「 心的存在意識 」であるが、繰り返し現れるから「 一定の関係 」として物質と同じ「 存在 」であると思う。


「 精神 」の目的は「 自意識 」が「 無常 」となることであり、「 無常を意識すること 」であり、「 知性のリズム 」の実現であり、「 過去と未来 」に通じることだと思う。


「 無常を意識する 」とは、絶望の中に「 希望 」を発見することだと思う。


言い換えれば、「 希望 」とは、「 無常を意識すること 」であるだろう。



2012/3/14、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。



人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。



「 気(ki)」に対して、「 関係 」と「 情(zyou)」を考えているが、「 情(zyou)」は上記のように、人間のリズムで「 過去や未来 」を決め、「 関係 」は、細胞などの自然のリズムと考える。


時間で考えると「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であるかも知れない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。


例えば、列車や自動車が走る動きは、自分と共変しない関係であり、地球の自転を実感することが出来ないのが、共変する関係と考える。


情(zyou)と共変しない(変化の認識が可能な)関係と、情(zyou)と共変する(変化の認識が不可能な)関係と合体した「 一定の関係 」が「 無常 」という感覚で現れ、それが人間の「 情(zyou)」に反映して、「 無明 」になると、現時点では思っている。


「 情(zyou)」と「 関係 」が共変して、認識が不可能なことが、「 無明 」であり、気(ki)であるのかも知れない。


上記の例でいえば、「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であり、両者は認識不能で、両者が同一であるかも知れないことが「 無明 」であることかも知れない。


私は、宇宙の時間は、「 うるう年 」を作った地球上の時間とは違うかも知れないと思うし、体内時間が測定できないことが宇宙の時間と同一ではないかも知れないが、共変する時間であると思う。

それが、「 無明 」であることだと思う。


地球上の時間は、変化するもの、共変しないものを比較して決まった「 定義 」であり、宇宙の時間とは思わない。



「 情(zyou)」が「 関係 」を認識し、関係が実現可能なとき「 希望 」であり、「 生きがい」であり、「 関係 」を認識することが出来ないとき、「 生きることを諦めた失望 」に変わると思う。


「 関係 」が認識することが出来ない場合でも「 関係 」を認識することが出来るようになるのが「 無常 」であり、それを意識することが「 無常を意識すること 」であり、「 死 」の絶望の中に「 生きがい 」を発見することが「 希望 」であり、生きている間に「 生きがい 」という「 希望 」を発見することであると思う。



常に「 無常を意識する 」ことを続ければ、持続する「 希望 」「 生きがい 」という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」の「 存在 」になると思うが、「 精神 」であるため、「 無明 」であることから逃れることは出来ないだろう。

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2012年03月11日

2012/3/11、オカルト・私の思い12・希望

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。




2012/3/4、私の記事

「 無明 」の中に「 存在 」するのも、「 脱却 」するのも、「 自意識 」次第であるという考えにより、「 自意識 」は無明の中心であると思う。


2012/3/11、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。


人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。


細胞の塊である「 人体 」は「 無常 」であるため、「 無明 」が作る「 心的存在意識 」はすべて「 無常 」であるし、「 精神 」が「 無明 」であるため「 無常 」である「 心的存在意識 」は全て「 無明 」であると思う。


通常の「 心的存在意識 」は、無明と無常の両者を含むと思う。


「 精神 」が「 無明 」を脱したとき、即ち「 客観的真理 」を把握したとき、「 心的存在意識 」は、自然法則と同様に「 無常 」であると思う。


自然法則は、「 心的存在意識 」であるが、繰り返し現れるから「 一定の関係 」として物質と同じ「 存在 」であると思う。


「 精神 」の目的は「 自意識 」が「 無常 」となることであり、「 無常を意識すること 」であり、「 知性のリズム 」の実現であり、「 過去と未来 」に通じることだと思う。


「 無常を意識する 」とは、絶望の中に「 希望 」を発見することだと思う。


言い換えれば、「 希望 」とは、「 無常を意識すること 」であるだろう。


例にはならないと思うが、「 宗教画 」や「 仏像 」を作るとき、信じること(気(ki))が無いならば作ることは出来ないし、信じることを物体化したのが「 仏像 」であり、「 仏像 」を通して、信じること(気(ki))が時代を超えて支持されるならば、「 集合的無意識 」や「 知性のリズム 」に合致して無明を脱するかも知れないが、「 心的存在意識 」の支持であるので、自然法則と同じ意味で「 無常 」である。



「 時代を超えて支持される心的存在意識を持つこと 」が「 無常を意識すること 」であり、「 希望 」であるというのが私の現時点の考えである。

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2012年03月04日

2012/3/4、オカルト・私の思い11・自意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/26、私の記事


これは、私だけの考えであり、日記であり、同調を求めない。


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。


その「 自然 」が「 忘却 」であり、「 夢 」や「 希望 」や「 想像 」であると思う。


生命が「 自意識 」であれば、「 自意識 」という電磁波に似た意識の範囲が「 現在 」であり、それが「 無常 」と「 無明 」の構造であるだろう。


人間には「 人格 」を作り続けるから、人間は「 普遍性 」と「 確信 」を求めるように作られているのかも知れない。


また、それとは別に、「 意識 」も「 無意識 」も、「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」を持ち、前者が「 確信 」であり、「 無明 」であり、後者が「 普遍性 」であり、「 無常 」であると思っている。


私は、個人の脳波が、地球のシューマン波の一部であると考え、「 無明 」が「 無常 」の一部であるから、想像と破壊が生じると思っている。


これは、「 事物や事象 」を作る「 無明 」と、「 関係 」である「 無常 」も同様に考え、関係が事物や事象として現れ、事物や事象は関係に消えると考え、その「 中継点 」は「 心的存在意識 」であると思っている。



2012/3/4、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。


上記のことを、「 自意識 」について考える。

「 自意識 」は、「 自分は自分 」であり、自分の顔が鏡に写すことにより意識されるように、「 自意識 」自体は、死ぬまで不変であり、当事者は知ることが出来ない「 一定の関係 」であると思う。

しかし、これが盲点であり、「 自意識 」こそが、「 無明 」の中心だと思う。

……(上記から引用)……


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。

……(引用を終わる)……


「 自意識 」は生命であり、無意識の中で、自分が自分を選択するのだが、自分という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」であるとすれば、「 無常 」を感じて「 確信 」という「 殻 」を破り続けるのが、自然であるだろう。


「 自意識 」は生命であり、無意識の中で、自分が自分を選択し、自分という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」で細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という「 一定の関係 」であり、外部に表現することにより、「 殻 」を知り、破る対象も知る。


「 関係 」から「 関係 」を選択するのが「 自意識 」であり、「 自分は自分 」とは選択しないのではなく、無意識の中で、既に選択した結果なのに、「 選択した 」と思わないのが問題である。


社会と関係が無いのではなく、社会と自分の「 今の関係を選択している 」のである。


「 選択する力 」はエネルギーであり、気(ki)であり、「 現在 」の「 自意識 」が持っていると思う。


その選択は、「 無常 」を感じて「 確信 」という「 殻 」を破り続けるのが、自然であり、それに反して「 自分は自分 」であり、不変であると思うのが、後退した考えであり、「 無明 」の中に「 存在を続けること 」であり、違う関係を選択する余地があるのだから、それをしないのは、あるいは関係を認識しないのが「 無明 」から脱却できないことだと思う。


「 無明 」は「 信仰 」の方向であるので、「 現在 」という時制の中で、宗教や思想など、「 関係 」を意識により取り入れ「 自分は自分 」という考えを破る余地はあると思う。


「 自分 」と「 自分 」の不連続を知ることが、脱却する契機であるかも知れない。


「 無明 」の中に「 存在 」するのも、「 脱却 」するのも、「 自意識 」次第であるという考えにより、「 自意識 」は無明の中心であると思う。


脱却が、人格の向上であるかも知れない。


2015/2/27、私の現在の考え11・自意識を参照
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2012年02月28日

2012/2/28、オカルト・私の思い10・言葉

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/26、私の記事


これは、私だけの考えであり、日記であり、同調を求めない。


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。


その「 自然 」が「 忘却 」であり、「 夢 」や「 希望 」や「 想像 」であると思う。


生命が「 自意識 」であれば、「 自意識 」という電磁波に似た意識の範囲が「 現在 」であり、それが「 無常 」と「 無明 」の構造であるだろう。


人間には「 人格 」を作り続けるから、人間は「 普遍性 」と「 確信 」を求めるように作られているのかも知れない。


また、それとは別に、「 意識 」も「 無意識 」も、「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」を持ち、前者が「 確信 」であり、「 無明 」であり、後者が「 普遍性 」であり、「 無常 」であると思っている。


私は、個人の脳波が、地球のシューマン波の一部であると考え、「 無明 」が「 無常 」の一部であるから、想像と破壊が生じると思っている。


これは、「 事物や事象 」を作る「 無明 」と、「 関係 」である「 無常 」も同様に考え、関係が事物や事象として現れ、事物や事象は関係に消えると考え、その「 中継点 」は「 心的存在意識 」であると思っている。

2012/2/28、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のことを「 言葉 」について考える。


私は、言語学者ではないから、これは「 私の物語 」である。


人は無意識で、自然に連結し、「 無明 」が実体化、「 無常 」が関係を生み、「 心的存在意識 」が「 中継点 」と考える。


以上のことを「 言葉 」に適用すると、「 言葉 」が「 中継点 」であり、「 意味 」というのは無意識であり、「 無明 」の方向と「 無常 」の方向に「 心的存在意識 」で、「 殻 」である「 言葉 」を作ると思う。


「 言葉 」を理解できるのは、「 言葉 」という意識の「 殻 」の「 集合的意識 」と、「 意味 」という「 集合的無意識 」を、「 了解 」することが出来るからであると思う。


それぞれ、「 文化圏 」により、無意識の了解が容易である場合や困難な場合があると思う。


「 風土と文化 」といわれるように、無意識が自然に連結しているので、自然に対する感受性により、相違するだろう。


これは、「 現在 」だけでなく、「 古代人 」が用いた意味の解読も、自然に対する感受性を一致させなければ不可能だと思う。


「 主観的 」というのは「 確信 」であり、「 無明 」の精神構造であるがゆえに、安心を求めて作る「 殻 」であり、安心したとき、主観的真理と言われるだろう。


「 客観的 」というのは、「 普遍性 」であり、万物が流転する自然界から無意識を通して得た「 無常 」の中の、「 一定の関係 」「 繰り返す一定の関係 」を「 言葉 」という「 殻 」を作り、不安から安定に変わったとき、客観的真理と言われるだろう。


両者とも、「 無明 」という精神構造の上に成り立つから、客観的真理といえど、変化する。


客観的真理が、「 言葉 」という「 殻 」に具現化したとき、「 無常 」は開始して「 無明 」へ向かう。


言葉の意味が変化するというが、これは、人間が持つ「 無明 」と「 無常 」が変化する力を付与すると考える。
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2012年02月26日

2012/2/26、オカルト・私の思い・人

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/2/18、私の記事


「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。


「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。


「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。


「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。


「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。


人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。


両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。


両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。


2011/2/26、私の考え


これは、私だけの考えであり、日記であり、同調を求めない。


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。


その「 自然 」が「 忘却 」であり、「 夢 」や「 希望 」や「 想像 」であると思う。


生命が「 自意識 」であれば、「 自意識 」という電磁波に似た意識の範囲が「 現在 」であり、それが「 無常 」と「 無明 」の構造であるだろう。


人間には「 人格 」を作り続けるから、人間は「 普遍性 」と「 確信 」を求めるように作られているのかも知れない。


また、それとは別に、「 意識 」も「 無意識 」も、「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」を持ち、前者が「 確信 」であり、「 無明 」であり、後者が「 普遍性 」であり、「 無常 」であると思っている。


私は、個人の脳波が、地球のシューマン波の一部であると考え、「 無明 」が「 無常 」の一部であるから、想像と破壊が生じると思っている。


これは、「 事物や事象 」を作る「 無明 」と、「 関係 」である「 無常 」も同様に考え、関係が事物や事象として現れ、事物や事象は関係に消えると考え、その「 中継点 」は「 心的存在意識 」であると思っている。

これは、現時点の考えである。
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2012年02月19日

2012/2/19、オカルト・私の思い8・人格

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/2/18、私の記事


「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。


「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。


「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。


「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。


「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。


人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。


両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。


両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。


2012/2/19、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調することを求めない


脳細胞と無意識を考えるとき、脳細胞が衰退する方向が時間の方向であり、意識(情(zyou))で判断すれば「 過去と現在と未来 」という時制だろう。


脳細胞の新陳代謝が「 生命 」であり、新陳代謝のリズムがバイオリズムであり、無意識を生じ、呼吸が「 現在 」であり、エネルギーを生む「 気 」であり、バイオリズムが集中したのが「 行為 」であると思う。


他者から見れば「 行為 」が習慣となったものが「 人格 」だが、自分の内部では「 関係 」に対する無意識や意識を適用した「 実体化 」であり、過去や未来を行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在 」であると思う。


現在の中で、意識を行為に具現化するエネルギー(気(ki))が「 人格 」であると思う。


「 人格 」はエネルギーであるから無意識であり、「 魂 」であるかも知れない。


これを社会的に考えると人間の行為の総体である「 文化 」であり、社会の過去や未来を人間の行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在様式 」であると思う。


こんなことは私が言う前に、人類の全てが、既に行っている行為だと思う。


何かを考えるのは、行為の可能性を考えているのであり、行為の可能性は、どのような「 人格 」が好きかを選択しているのであると思う。


既に、人は「 人格 」を選択しながら生きているのだと思う。


人は食物でさえ、他の動物や植物を犠牲にしていて、その贖罪のため、常に「 人格の向上 」を義務づけられている。


それが、人が常に行為の可能性を考えている原因だと思う。


お金を選ぶ人や、肉欲を選ぶ人も、それぞれ、「 自分の人格を形成している 」のだと思う。


「 関係 」に、お金や肉欲を当てはめて満足する「 人格者 」である。


そんな人には、お金や肉欲が「 魂 」であるかも知れない。
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2012年02月18日

2012/2/18、オカルト・私の思い・時間

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/2/11、私の記事


私は、以前の投稿で、「 見える物は、無意識に中でストレスを生む 」、知らず知らずのうちに、強弱や遠近を比較し、力線(ストレス)を感じる。

これは、小脳の運動可能性(欲)から生まれる生命維持のストレスであるが、これを生むのが、先日、書いたことだと思う。


繰り返せば、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が作り出す「 心的存在意識 」による「 形 」が、小脳の運動可能性(欲)のストレスを生み、その妥協点である「 安心 」や「 不安 」が生じると思う。

「 生きること 」は、「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が「 心的存在意識 」による「 形 」を作り出す。

それが「 文化 」であり、「 安心 」や「 不安 」という「 心の状態 」の表現であると思う。

私は、「 文化 」とは、以上のように考える。


生きている人間の「 心的存在意識 」を表現する「 形 」は、絵画や彫刻として「 現在 」に出現するが、これは「 過去 」や「 未来 」に対して「 一定の関係 」として「 存在 」するだろう。


「 現在や過去と未来 」は無意識が決定し、その無意識に含まれないのが「 一定の関係 」である「 存在 」である。


「 一定の関係 」だから、「 現在 」からも「 過去 」の「 心的存在意識 」の現れである芸術作品を理解することが可能である。

「 一定の関係 」は物体だけでなく思想も含まれるが関係であるため不安定で「 無常 」である。

「 無常 」を「 現在 」の「 心的存在意識 」に実体化して「 安心 」しようとする意識や無意識は、「 無明 」であるため「 安定 」を求めるし、「 過去や未来や現在 」も「 無明 」であり、「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。



2012/2/18、私の考え



これは、私の考えであり、同調されるのを期待しない。



「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。


「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。


「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。


「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。


「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。


人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。


両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。


両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。


それは、個人の死生観や社会の死生観に関する思想や宗教に現れると思う。


私も同列であるが、現代は「 無常 」や「 無明 」ということを考えることが少ない。


知覚するものが全てであり、「 死んだらお終い 」という思想はお粗末である。


それは、「 存在は物体である 」と考えるからであり、「 存在は一定の関係である 」と考えることにより、自分の習慣となっている行動を考え直す契機になり、今の「 人格 」という「 殻 」を破って、新たな「 人格 」へと伸びる契機になると思う。


ある「 人格 」を維持することは「 安心 」であるが、満足すれば後退になる。


「 死中生有り、生中生無し 」である。


人間の細胞が「 無常 」であるから、思想も無常を維持し、絶えず「 人格 」という「 殻 」を破り続ける方向が、生命にとって自然であるかも知れない。


自分の「 殻 」を破るためには、「 人倫 」や「 義 」を考えたほうがよい。


現代人には、以前に紹介した上杉謙信のように、「 義 」に生きる努力が必要だろう。
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2012年02月11日

2012/2/11、オカルト・私の思い6・文化

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/1/14、私の記事


@ 私は無常の中で無明な塊(霊)である。


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う。


「 過去や未来 」は前者が決め、「 現在 」は後者が決め、前者はバイオリズムや遺伝子情報などの無意識であり、後者は、無意識の中で電磁波に似た構造の意識だろう。


「 無常 」と「 無明 」は、無意識の中で連結していると思う。


A 「 存在 」は物質ではなく、「 一定の関係 」だと思う。


「 関係 」は無常から生まれるバイオリズムや無意識であり、本来は無限だが、五感の意識が有限にする。


内部に無限の「 関係 」(自分が変われば相手も変わる)無意識を、「 過去や未来 」を、「 現実 」の意識というエネルギーで満たした「 一定の関係 」、「 習慣 」が、自分にとっての「 存在 」、つまり「 心的存在意識 」であると思う。


自分にとっての「 存在 」、「 心的存在意識 」は性格であり、「 癖 」であり、それが自分という「 人物 」や「 人格 」を形成すると思う。


「 存在 」は物質に限らず、「 一定の関係 」であれば、意識内にも「 存在 」し、それが「 心的存在意識 」であると思う。


無常が全てに関連していることから、「 心的存在意識 」も全てに関連すべきなのに、それを阻害しているのが「 自我 」であり、「 阻害している状況 」が「 無明 」であると思う。



B 「 見える(知覚する)ものが、執着を生む 」と思う。

知覚するものを「 絶対視 」するのではなく、「 自分の関係の中の知覚 」を「 絶対視 」することにより、執着を少なくすると思う。


五感で知覚するから「 有限 」と思い、「 心的存在意識 」が生まれて、執着が始まると思う。


2012/2/5、私の記事


私は、現時点では、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


全ては、「 心 」の投影であり、「 人格 」という人を特徴づける「 心的存在意識 」の現れとして知覚されるだろう。



2012/2/11、私の考え


私は、以前の投稿で、「 見える物は、無意識に中でストレスを生む 」、知らず知らずのうちに、強弱や遠近を比較し、力線(ストレス)を感じる。

これは、小脳の運動可能性(欲)から生まれる生命維持のストレスであるが、これを生むのが、先日、書いたことだと思う。


繰り返せば、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が作り出す「 心的存在意識 」による「 形 」が、小脳の運動可能性(欲)のストレスを生み、その妥協点である「 安心 」や「 不安 」が生じると思う。

「 生きること 」は、「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が「 心的存在意識 」による「 形 」を作り出す。

それが「 文化 」であり、「 安心 」や「 不安 」という「 心の状態 」の表現であると思う。

私は、「 文化 」とは、以上のように考える。


生きている人間の「 心的存在意識 」を表現する「 形 」は、絵画や彫刻として「 現在 」に出現するが、これは「 過去 」や「 未来 」に対して「 一定の関係 」として「 存在 」するだろう。


「 現在や過去と未来 」は無意識が決定し、その無意識に含まれないのが「 一定の関係 」である「 存在 」である。


「 一定の関係 」だから、「 現在 」からも「 過去 」の「 心的存在意識 」の現れである芸術作品を理解することが可能である。

「 一定の関係 」は物体だけでなく思想も含まれるが関係であるため不安定で「 無常 」である。

「 無常 」を「 現在 」の「 心的存在意識 」に実体化して「 安心 」しようとする意識や無意識は、「 無明 」であるため「 安定 」を求めるし、「 過去や未来や現在 」も「 無明 」であり、「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


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2012年02月05日

2012/2/5、オカルト・私の思い5・無明と無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/1/14、私の記事


@ 私は無常の中で無明な塊(霊)である。


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う。


「 過去や未来 」は前者が決め、「 現在 」は後者が決め、前者はバイオリズムや遺伝子情報などの無意識であり、後者は、無意識の中で電磁波に似た構造の意識だろう。


「 無常 」と「 無明 」は、無意識の中で連結していると思う。


A 「 存在 」は物質ではなく、「 一定の関係 」だと思う。


「 関係 」は無常から生まれるバイオリズムや無意識であり、本来は無限だが、五感の意識が有限にする。


内部に無限の「 関係 」(自分が変われば相手も変わる)無意識を、「 過去や未来 」を、「 現実 」の意識というエネルギーで満たした「 一定の関係 」、「 習慣 」が、自分にとっての「 存在 」、つまり「 心的存在意識 」であると思う。


自分にとっての「 存在 」、「 心的存在意識 」は性格であり、「 癖 」であり、それが自分という「 人物 」や「 人格 」を形成すると思う。


「 存在 」は物質に限らず、「 一定の関係 」であれば、意識内にも「 存在 」し、それが「 心的存在意識 」であると思う。


無常が全てに関連していることから、「 心的存在意識 」も全てに関連すべきなのに、それを阻害しているのが「 自我 」であり、「 阻害している状況 」が「 無明 」であると思う。



B 「 見える(知覚する)ものが、執着を生む 」と思う。

知覚するものを「 絶対視 」するのではなく、「 自分の関係の中の知覚 」を「 絶対視 」することにより、執着を少なくすると思う。


五感で知覚するから「 有限 」と思い、「 心的存在意識 」が生まれて、執着が始まると思う。


2012/2/5、私の考え


私は、現時点では、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


全ては、「 心 」の投影であり、「 人格 」という人を特徴づける「 心的存在意識 」の現れとして知覚されるだろう。


キリストも仏陀も、「 人格の完成者 」として現れたのかも知れない。


「 人格の完成者 」は「 無常 」と「 無明 」を超えた人であり、私は、関係と存在の中で、不安と安心の中で、「 一定の関係 」を絶えず破り続けなくてはならないだろう。


「 心的存在意識 」があることで、「 満足 」し、「 安心 」していることが問題だと思う。


人は、知覚可能な物体から「 心的存在意識 」を持っているのであり、それが「 生命 」に対する安定度であり、「 無明 」から出てはいないのが問題だと思う。


例えば、生命を維持するために「 お金 」を貯金したり、住む家を買ったりするなど、日常的だと思われることだが、「 独りで暮らさなければならない事 」を前提としているのであり、社会の体制を前提とした「 生命維持 」である。


「 心 」の問題であるのが「 社会 」の問題になっているが、これは本来の解決ではないと思う。


将来、助け合う社会が来るかもしれないし、それが実現すれば、知覚可能な「 お金 」や「 家 」に執着する必要がない。


これは、現実的な社会を問題であるが、これを精神的に考えると「 極楽 」の「 存在意義 」の問題となると考えている。
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2012年01月21日

2012/1/21、オカルト・私の思い 4(有る)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/1/17、私の記事

それでは、西方十万億の仏土を過ぎて彼方にあるという「 極楽 」は、文字で書かれたように、遥かな宇宙空間に「 有る 」のだろうか?


私は「 有る 」は「 無い 」の反対語であり、「 有る 」は「 存在 」を意味しない。


「 無明 」の人間の真理が「 無常 」の中で、相対的な真理(相対的な関係)として存在するかも知れないが、現在の私は「 無常が真理である 」と思っている。


人間は「 無明 」で「 無常 」な「 存在 」であるから、真理は相対的な「 存在 」であり、「 有る 」とはいえない。


「 存在 」は無意識が決めるのであり、「 有る 」ということは無意識では決められないと思う。


「 苦 」が、「 無常という真理に迷う無明 」であれば、「 無明 」から抜け出した、つまり「 苦 」から抜け出した「 楽 」が「 有る 」かも知れない。


私は、「 苦 」や「 楽 」は神仏が決める「 有る 」であり、人間の無意識で決める「 存在 」ではないと思う。


前述したように、「 神 」の領域は、無明(生命)と共変する方向であり、測定が不可能な領域で、「 時間 」の中に、人間の中に在るのかも知れないと考えると、「 苦 」や「 楽 」は、遥かな宇宙空間に「 有る 」のではなく、共変するために計測不能な「 無意識の時間 」や「 生命 」の中に「 有る 」かも知れない。


仏陀が「 楽ばかりが有る極楽が有る 」と言ったならば、それは、「 苦 」を克服した「 楽 」が「 有る 」ということで、「 克服した心境が有る 」ことだろうと思う。


2012/1/21、私の考え


「 存在 」は無意識が決めるのであり、「 有る 」ということは無意識では決められないとは、何か。


「 存在 」は、「 無明 」の中で真実に迷いながら形成する無意識の「 一定の関係 」であり、「 有る 」は「 無い 」の反対語で、「 意識 」の「 一定の関係の肯定 」であり、「 一定の関係 」に五感などの知覚を当てはめたものと、私は思う。


「 存在を信じる 」ならば、反証が出来るかもしれないが、「 有ると信じる 」とは、意識による存在の肯定であり、それを否定することは個人の主観に委ねられている「 考え方 」を否定することだと思う。


「 個人の主観 」とは、生命の方向であり、精神であると思う。


「 存在 」の把握が間違えば、医学による救済も出来るが、「 有ると信じる 」ことの間違いは科学による救済ではなく、「 考え方 」などの精神の救済によると思う。


精神は薬物などの科学による救済や治療もあるが、結局は、「 個人の主観 」の訂正が最も良い治療であると思う。


「 存在 」は無意識が決めるのであり、「 有る 」ということは無意識では決められないとは「 有る 」が意識での肯定であることで、「 関係 」も、この精神の中にあるかも知れない。


「 有る 」ことが精神であり、それを信じるため、「 無明 」の中で真実に迷いながら形成する無意識の「 一定の関係 」が「 心的存在意識 」であり、これを通じて「 信じる 」ことに導かれると思う。


「 極楽の存在を信じること 」ではなく、「 極楽が有ると信じること 」の中に「 極楽 」が有ると思う。


「 有る 」とは信じることであるが、人類はみんな何かを信じているのであり、信じなくては生活が不能であるだろう。


「 お金 」を信じるから働くだろうし、人を信じるから人間関係も成立するだろうし、「 人格 」がある限り、人は無意識で「 心的存在意識 」を作り、「 関係 」を作り、何かを信じていると思う。
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2012年01月17日

2012/1/17、オカルト・私の思い 3(極楽)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/01/16、私の記事

このように、「 時制 」を決める無意識と、「 存在 」を決める無意識が、「 一定の関係 」を境にして連結している


この、「 時制 」を決める無意識と、「 存在 」を決める無意識が、「 一定の関係 」を境にして連結しているとは、何だろう。


無意識が、一方では「 時制 」を決め、他方では「 存在 」を決めている。


「 時間 」を考えるとき、「 存在 」の変化で、時間を感じるだろう。


それが、私がいう「 時間意識 」なのだが、「 変化を感じる 」とは、自分と違う方向への存在の動きであると思う。


「 存在と時間 」は、無意識の中の「 無明 」から生じる「 存在 」という「 一定の関係 」と、「 無常 」から生じる「 過去や未来や現在 」という「 時制 」の「 一定の関係 」の関係であると思う。


「 関係 」とは、「 係わり合い 」であり、自分とは違う方向(生命とは違う方向)が「 変化 」であり、自分と同じ方向(生命と同じ方向)は「 共変 」の関係であり、「 共変するものは測定することが出来ない 」が、それは無明(生命)の方向であるから「 神 」ともいうべき、「 自分を導くもの 」で、それが「 時間 」であるならば、「 本当の時間は測定することは出来ない 」というのが、「 私の考え 」である。


「 時間 」というのは「 時間意識 」であり「 無意識の時間 」ではないから測定するが、「 今 」や「 瞬間 」は無意識で決められるから、測定はできない。


時制の「 今 」や「 瞬間 」という「 無常 」の無意識の「 一定の関係 」と、「 存在 」という「 無明 」の無意識の「 一定の関係 」が混在する場所で、「 時間意識 」と「 空間意識 」が生じると思う。


「 空間意識 」とは、無意識が「 一定の関係 」に具現したときに、認識するのであり、「 一定の関係 」が及ばない場所、例えば遥かな宇宙空間では「 空間意識 」は生じないし、それの比較から生じる「 時間意識 」も生じないだろう。


反対に、「 及ぶところ 」は、時間や空間の意識が生じることになる。


私は、「 遥かな宇宙空間 」が「 神 」の領域であるとは思わない。


「 神 」の領域は、無明(生命)と共変する方向であり、測定が不可能な領域で、「 時間 」の中に、人間の中に在るのかも知れない。



2012/1/17、私の考え


それでは、西方十万億の仏土を過ぎて彼方にあるという「 極楽 」は、文字で書かれたように、遥かな宇宙空間に「 有る 」のだろうか?


私は「 有る 」は「 無い 」の反対語であり、「 有る 」は「 存在 」を意味しない。


「 無明 」の人間の真理が「 無常 」の中で、相対的な真理(相対的な関係)として存在するかも知れないが、現在の私は「 無常が真理である 」と思っている。


人間は「 無明 」で「 無常 」な「 存在 」であるから、真理は相対的な「 存在 」であり、「 有る 」とはいえない。


「 存在 」は無意識が決めるのであり、「 有る 」ということは無意識では決められないと思う。


「 苦 」が、「 無常という真理に迷う無明 」であれば、「 無明 」から抜け出した、つまり「 苦 」から抜け出した「 楽 」が「 有る 」かも知れない。


私は、「 苦 」や「 楽 」は神仏が決める「 有る 」であり、人間の無意識で決める「 存在 」ではないと思う。


前述したように、「 神 」の領域は、無明(生命)と共変する方向であり、測定が不可能な領域で、「 時間 」の中に、人間の中に在るのかも知れないと考えると、「 苦 」や「 楽 」は、遥かな宇宙空間に「 有る 」のではなく、共変するために計測不能な「 無意識の時間 」や「 生命 」の中に「 有る 」かも知れない。


仏陀が「 楽ばかりが有る極楽が有る 」と言ったならば、それは、「 苦 」を克服した「 楽 」が「 有る 」ということで、「 克服した心境が有る 」ことだろうと思う。


一般的には「 極楽 」は「 無い 」というはずなのに、古代の人が、なぜ「 極楽 」が「 有る 」と言ったのかについての私の考えは、後日、書く予定である。




参照

極楽

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E6%B5%84%E5%9C%9F

極楽(ごくらく、Skt:sukhaavatii)とは、阿弥陀仏の浄土であり、サンスクリット語「スクヮーヴァティー」は「スクヮー」(sukhaa)に「ヴァト」(vat)を加えたもので「幸福のあるところ」「幸福にみちみちてあるところ」の意味。須呵摩提(しゅかまだい)、蘇珂嚩帝(そかばってい)、須摩提(しゅまだい)、須摩題などと音表され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。
『阿弥陀経』には「衆苦あることなく、ただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」というが、梵蔵文では、衆苦を身心の諸々の苦といい、諸楽を楽の材料というから、極楽とは身心が共に苦を離れていて、幸福の材料だけがあるところの意味。

……(中略)……
この浄土について、古来、「唯心の弥陀、己心の浄土」、「己心の弥陀、唯心の浄土」と説く。すなわち、極楽といい、それが西方十万億の仏土を過ぎて彼方にあるというが、衆生引接のためで、実は己心こそ浄土であり、阿弥陀仏とはいってもただ心に外ならないというのである。
この主張は主に華厳宗や禅宗でいわれる


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2012年01月16日

2012/1/16、オカルト・私の思い 2(存在と時間)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/1/14、私の記事



「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う。


「 過去や未来 」は前者が決め、「 現在 」は後者が決め、前者はバイオリズムや遺伝子情報などの無意識であり、後者は、無意識の中で電磁波に似た構造の意識だろう。


「 無常 」と「 無明 」は、無意識の中で連結していると思う。



2012/1/16、私の考え


このように、「 時制 」を決める無意識と、「 存在 」を決める無意識が、「 一定の関係 」を境にして連結している


この、「 時制 」を決める無意識と、「 存在 」を決める無意識が、「 一定の関係 」を境にして連結しているとは、何だろう。


無意識が、一方では「 時制 」を決め、他方では「 存在 」を決めている。


「 時間 」を考えるとき、「 存在 」の変化で、時間を感じるだろう。


それが、私がいう「 時間意識 」なのだが、「 変化を感じる 」とは、自分と違う方向への存在の動きであると思う。


「 存在と時間 」は、無意識の中の「 無明 」から生じる「 存在 」という「 一定の関係 」と、「 無常 」から生じる「 過去や未来や現在 」という「 時制 」の「 一定の関係 」の関係であると思う。


「 関係 」とは、「 係わり合い 」であり、自分とは違う方向(生命とは違う方向)が「 変化 」であり、自分と同じ方向(生命と同じ方向)は「 共変 」の関係であり、「 共変するものは測定することが出来ない 」が、それは無明(生命)の方向であるから「 神 」ともいうべき、「 自分を導くもの 」で、それが「 時間 」であるならば、「 本当の時間は測定することは出来ない 」というのが、「 私の考え 」である。


「 時間 」というのは「 時間意識 」であり「 無意識の時間 」ではないから測定するが、「 今 」や「 瞬間 」は無意識で決められるから、測定はできない。


時制の「 今 」や「 瞬間 」という「 無常 」の無意識の「 一定の関係 」と、「 存在 」という「 無明 」の無意識の「 一定の関係 」が混在する場所で、「 時間意識 」と「 空間意識 」が生じると思う。


「 空間意識 」とは、無意識が「 一定の関係 」に具現したときに、認識するのであり、「 一定の関係 」が及ばない場所、例えば遥かな宇宙空間では「 空間意識 」は生じないし、それの比較から生じる「 時間意識 」も生じないだろう。


反対に、「 及ぶところ 」は、時間や空間の意識が生じることになる。


私は、「 遥かな宇宙空間 」が「 神 」の領域であるとは思わない。


「 神 」の領域は、無明(生命)と共変する方向であり、測定が不可能な領域で、「 時間 」の中に、人間の中に在るのかも知れない。
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