2012年07月15日

2012/7/15、オカルト・考えよう5・無明と金銭

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。




2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続



情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体


2012/6/16、私の記事


これは、私だけに考えであり、同調を求めない。


TとUに分けると、Tは、宇宙の構成物で、Uは、人間の大脳、特に「 記憶 」が働く領域であると思う。


「 人格 」は「 無意識 」であり、バイオリズムであると考えるが、バイオリズムも無意識もTとUに分けて考える。


Tにおけるバイオリズムはエネルギーであり、「 小脳 」の領域のリズムであり、心臓や脳や腸などの細胞や臓器の不随意筋のリズムだろう。


リズムは周期であり、人間は、太陽を回る惑星のような「 空間関係 」を体内に持ち、この関係が「 小脳の可能性 」であり、「 可能性を探すこと 」は「 行為の可能性 」即ち「 人格形成の可能性 」を探すことであり、常に人格を形成していると考える。


不随意筋というのは、「 意の従わない 」という「 無意識 」を持ち、これが「 小脳の無意識 」で「 欲 」という「 関係を実体化する 」作用を持つと考える。


人間は、根源的に「 欲 」を持つが、常に「 人格形成 」をする生き物であると、私は思う。


Uにおけるバイオリズムは「 大脳 」の領域のリズムであり、Tのリズムを「 記憶 」という情(zyou)である意識の力で増幅し、分類したのが、一般的に「 人格 」といわれるのだろう。


学問の精神病や仏教の「 六道 」やバイオリズムなどが、「 人格 」といわれるのだと思う。


Tの「 欲 」が、情(zyou)により着色されたのが「 人格 」であり、「 人格 」の源は清らかであると思う。


どうしてリズムが生まれるのかは、「 プラズマ宇宙論 」の「 ビルケランド電流 」とフィラメント構造のように、「 欲 」という気(ki)という電流が習慣によりDNA(神経回路)に主要な電気として形成された電流がリズムとなるのであり、リズムは、個人のDNA(神経回路)により相違すると思う。

2012/7/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、人間は、精神的に「 無明 」であると同時に、肉体的には「 無常 」であると思う。



しかし、私の考えでは、「 無明 」は人間に与えられた「 欲 」であり、生命維持のため「 欲 」が必要である限り、人間は無明の中で迷い続けると思う。


「 不安 」は対象がなくても発生すると言われるが、「 不安 」は、人間が「 無明 」であるから生まれるのだと思う。


2012/7/15、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 欲 」は宇宙の産物であり、「 本能 」という呼吸も心臓の鼓動は気(ki)の「 行為 」の領域の無意識であり、「 大脳 」の情報や記憶の情(zyou)の領域ではないと思う。


「 行為 」や「 欲 」は、Tの「 因縁や縁起 」であり、全ての人類に共通で、「 行為 」や「 欲 」が、個人にとっての記憶や予測などの情(zyou)と結びついた、Uの「 欲情 」になったとき、個人の「 人格 」になると思う。


「 因果 」から「 始めと終わり 」を取出して不連続な「 因果関係 」とすることにより、「 関係 」が、生々しい現実に「 実体化 」し、「 無明 」から逃れたのではなく、「 無明 」の実体化であり、不安の実体化であるため、常に「 何かが 」不足して、満足しない。


それは、「 行為 」が「 因縁や縁起 」の領域であり、不条理なことも、必然のように実現されるから、「 不安 」になると思う。


気(ki)が情(zyou)で説明できない。

私は、「 無明 」から逃れることは出来ないが、気(ki)という無意識やエネルギーを、「 関係 」に分解し、知覚で判断した実体化を避け、実体を「 無常 」とみて、「 関係 」に分解すること、常に自分が無関係ではないと考えることが必要だと思う。


金銭は、「 無明 」や「 欲 」から発生する不安を「 実体化 」し、不安を解消する、「 心的存在意識 」で、流通する社会が前提となっていると考える。


金銭には「 過去や未来 」があり、情報は「 金 」というように、金銭は情(zyou)である。


それは、食糧にもならない貨幣を、なぜ集めるのかという問題であると思う。


金銭が、人の善意を期待しない社会では、自分の将来の不安を解消する「 欲情 」のために、貯蓄するだろう。


あるいは、金銭で人の善意を買うことができると思う人、金銭で人の善意を期待することなく、人を働かせようとする「 欲情を持つ人 」は金銭を貯蓄するだろう。


社会が人の善意で成立し、金銭が必要でない社会では、食糧にもならない金銭を貯蓄しようと思わないだろう。


金銭が不安の「 心的存在意識 」であるため、貨幣に不信を抱けば、自分の「 欲情 」が不安になるのも理解できる。


不安になれば、人の善意を期待しないので、貨幣を流通させるシステムに不安を感じ、貯蓄を引き出すだろう。


貨幣不安ではなく、人間不信なのだと思う。


不安の解消は、最終的には大脳の「 欲情 」を小脳の「 欲 」に変える「 生き方 」をする必要があるが、目に見える貨幣ではなく、「 欲情 」を捨てた人間関係の一体感を持つことが、「 可能性 」を生きることだろう。
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2012年07月08日

2012/7/8、オカルト・考えよう4・無明

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続



情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体



2009/5/6、ゴーギャン展(名古屋ボストン美術館)


2009/5/5、名古屋ボストン美術館へ行き、「 ゴーギャン展 」を鑑賞しました。


これは、ゴーギャンの代表作です。

「我々はどこから来たのか

我々は何者か

我々はどこへ行くのか」


ゴーギャン


2009/4/18〜2009/6/21まで、名古屋ボストン美術館の開館10周年記念で、この絵画は、ボストン美術館が所蔵して、アメリカ以外で公開されるのは3度目であるというのがネット情報です。




ゴーギャン展の感想。

展示された多くの絵画の一例。

@オスニー村の入り口

Aアリスカンの並木道

B女性と白馬

C二人のブルターニュ女のいる風景

D我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか

感想

ゴーギャンの思想や「 心 」が、キャンバスの全面で感じられた。

構図が魅力的であり、版画で表現しても、彼の考えは充分に伝えられる力を持っていると思う。

@からCまでは、キャンバスが対角線で区切られている感じがした。

これは、遠近法を利用して観客を絵画の中に引き込む効果はあるが、不安な気持ちになる。

Dは、これに反して、対角線は無く、平らな地面の上の人物だが、絵画の内容が「不安」である。

ゴーギャン展では、これ以外の作品も展示されているが、「悪霊」などが描かれていて、「 霊 」に対する見解が私とは違う。

Dの代表作で、中央に描かれている青年は、果実を取っている姿であるが、私は、腰に巻かれている布や立っている姿や配色により、私は「 キリスト 」を描いていると思った。

ネットで調べると、ゴーギャンは「黄色のキリスト」を描いている事を知り、今では、それを確信している。

貧困と病気で苦しみながら、ゴーギャンはこれを描いたが、彼は幼い頃、神学生であった。

母国から遠いタヒチに居住しても、彼の脳裏には、キリストが存在していたと思う。

彼は、右から左へと人物を配置する事により、時間を表現したと思うが、私は、それは違う意味に解釈する。

地面に配置された人物は、人類の全てを表現し、題名で判断する事が出来るが、人類は皆、「不安」である。

中央の青年が「キリスト」だと思うのは、この「不安」の中で、人類は不安を和らげるために、神に祈る人が存在する事を表現したかったのだろう。

中央には、神学生であった、昔の自分を描いているかも知れない。

私は、目で見る世界に光と影があるように、人生にも楽しい気持ちと「不安」な気持ちが存在すると思う。


2012/7/8、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。

今日は、「 無明 」について補足する。


私は、以前、ゴーギャン展を鑑賞したとき、以上のような感想を書いた。


私は、人間は、精神的に「 無明 」であると同時に、肉体的には「 無常 」であると思う。


もしも、ゴーギャンが中央の人物を「 キリスト 」であると考えたなら、「 無明 」は「 キリスト 」により解消できると考えたのだろうと思う。


仏教の場合は、「 悟り 」の状態が「 無明 」を克服した状態だろうと思うが、「 キリスト 」を信じることにより、「 無明 」の世界から脱出することが出来るかも知れない。


しかし、私の考えでは、「 無明 」は人間に与えられた「 欲 」であり、生命維持のため「 欲 」が必要である限り、人間は無明の中で迷い続けると思う。


「 不安 」は対象がなくても発生すると言われるが、「 不安 」は、人間が「 無明 」であるから生まれるのだと思う。


宇宙の始まりと終わりが不明であると同じく、人間の精神の去就も不明であり、人間が宇宙の産物である証拠が、精神の「 無明 」であると考える。
posted by kandk55 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 37 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月30日

2012/6/30、オカルト・考えよう2・金銭

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続



情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

2012/6/25、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


TとUから連想するものを書こう。


Tは「 小脳 」でUは「 大脳 」に関するとは、以前、書いた。


内臓の不随意筋が前者で、随意筋が後者であることだと思うが、前者が「 欲 」で、後者は情(zyou)で着色された「 意欲 」であると思う。


Tは、人間の力では不可能な「 因縁 」や「 縁起 」の世界であり、何者かの複合物であるだろうし、Uは、Tを分析する「 自意識 」であるだろう。


Uの「 自意識」は「 欲 」の中の「 利己欲 」であり、人間の生命維持には必要だろうが、自分の意思を主張し、利益を独占する、人格には「 毒 」であると思う。




2012/6/27、私の記事


これは、私の考えであり、同調を求めない。



Tの「 人間が無明であるため 」その無明から逃れようとして、Uの「 金銭 」という「 心的存在意識 」を作ったと思う。


「 金銭 」という実体に「 人間の心 」は無いが、情(zyo)であるため、「 過去や未来 」を持っている。


だから、「 人格 」など無くても、心が無くても、未来がある。


しかし、タイ国の僧侶や昔の日本の僧侶は、「 托鉢 」をして、その日だけの食糧を、人の善意で頂戴し、明日、食糧が無いことを心配して、今日の糧を「 蓄える 」ということをしないことが、僧侶の修行だと、私はかって聞いたことがある。


今日の余剰を「 金銭 」として蓄え、明日、人の善意が無くても生き延びようとするのは、人の善意を信じない立場だろう。

2012/6/30、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


宇宙の産物としての人間はTであり、宇宙と同じく「 無明 」だろう。


Uの情(zyou)とは、生命から発する精神であり、記憶であり、「 無明 」が「 心的存在意識 」として現れるだろう。


「 金銭 」は「 無明 」からの不安を解消するための「 情(zyou)」であると思う。


金銭やコインや紙幣は、食物でもなく、何かを作る道具でもない。


それは、「 体験上では、このままで過去から未来へ続く精神的価値 」であり、「 無明の顕在化した心的存在意識 」であると思う(無常であるが……)。


現在のヨーロッパの経済危機が「 金銭 」では「 安心 」することができないのは、「 ギリシャの無明 」と「 その他のヨーロッパの国の無明 」の相違であり、「 それぞれの遺伝子が持つ不安 」であり「 遺伝子が持つ無明 」であるのだと思う。


「 貨幣 」を一つに統一しても、「 その国が持つ無明 」、即ち「 国力への不安 」が「 統一貨幣 」の前で、自信をなくすのだと思う。


Tの無明であるために、「 金銭 」の金額で安心することができず、次の金銭を求めるのは、強欲であるからではなく、「 金銭 」が情(zyou)、即ち精神的なものであり、それが「 無常 」であるため、不安になるのだと思う。


ヨーロッパがすべきなのは「 金銭 」に拘らない「 人格形成 」だが、それが無理ならば「 相互援助 」で、即ち「 私も一緒の運命共同体 」という最初の目的と、その「 構想力 」をシステムにして、「 不安 」を薄めることだろう。


このように、金銭は無明の顕在化であり、文化であり、「 安心 」するためには資本主義や社会主義を超越した「 人格 」が必要だろう。


資本主義や社会主義になっても「 聖人 」が出てこないのは何故だろう。

それは、「 金銭 」を超越した人が出てこないからだと思う。
posted by kandk55 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 37 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月27日

2012/6/27、オカルト・考えよう・何が買えるのか?

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続



情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

2012/6/25、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


TとUから連想するものを書こう。


Tは「 小脳 」でUは「 大脳 」に関するとは、以前、書いた。


内臓の不随意筋が前者で、随意筋が後者であることだと思うが、前者が「 欲 」で、後者は情(zyou)で着色された「 意欲 」であると思う。


Tは、人間の力では不可能な「 因縁 」や「 縁起 」の世界であり、何者かの複合物であるだろうし、Uは、Tを分析する「 自意識 」であるだろう。


Uの「 自意識」は「 欲 」の中の「 利己欲 」であり、人間の生命維持には必要だろうが、自分の意思を主張し、利益を独占する、人格には「 毒 」であると思う。


ある教授がテレビで、「 金銭で全てを買えるか? 」という問題を出したが、これは愚問であるだろう。


資本主義や社会主義などの「 金銭 」で、ルールを買うものは独裁者であり、「 金銭 」がUであれば、Tを「 金銭 」では買えないことは明らかであるからだ。


Uは「 存在 」という「 心的存在意識 」の上に成立するから、「 心的存在意識 」を生むTに支配が及ばないことは明らかである。


「 金銭 」という「 心的存在意識 」に心を奪われるから、「 心配 」や「 不安 」になるのであり、本当の「 幸せ 」は、資本主義や社会主義を超越した、即ち「 金銭 」という「 心的存在意識 」が及ばない、あるいは「 商売にならない 」ところに、存在すると思うからだ。


死ぬ間際に、「 金銭 」で「 天国 」や「 極楽 」は買えない。


それは、いつも言うように「 善因善果、悪因悪果 」という言葉があるように、個人は個人の「 行為 」によってのみ、「 因縁 」や「 縁起 」に参加し、日々、その報酬を受けるのみだと思う。


2012/6/27、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。



Tの「 人間が無明であるため 」その無明から逃れようとして、Uの「 金銭 」という「 心的存在意識 」を作ったと思う。


「 金銭 」という実体に「 人間の心 」は無いが、情(zyo)であるため、「 過去や未来 」を持っている。


だから、「 人格 」など無くても、心が無くても、未来がある。


しかし、タイ国の僧侶や昔の日本の僧侶は、「 托鉢 」をして、その日だけの食糧を、人の善意で頂戴し、明日、食糧が無いことを心配して、今日の糧を「 蓄える 」ということをしないことが、僧侶の修行だと、私はかって聞いたことがある。


今日の余剰を「 金銭 」として蓄え、明日、人の善意が無くても生き延びようとするのは、人の善意を信じない立場だろう。


それらの過去の行為が「 善因善果、悪因悪果 」として、現在や未来の自分に「 報酬 」として、「 結果 」として現れ、その最後が、「 死に際 」に現れると思う。


それは、日本の過去の「 忠臣蔵 」の大石のような死に際の和歌を見れば理解されると思う。


「 金銭 」や心残りだった家族のことも書かずに、使命を果たせたことの喜びを書いた心を見れば、彼らは、「 金銭 」で心が動いた人ではないことが判断できる。


彼らの心を、「 買えるか?」。


金銭が出来ない相談だろう。
posted by kandk55 at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 37 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする