2012年11月04日

2012/11/04、オカルト・死後の自我の行方5・鬼2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)



2012/11/3、私の記事



これは、フィクションであり同調を求めない。


「 魂 」という日本語を解釈したい。


「 雲 」の原字である「 云 」に「 鬼 」をプラスしたのが「 魂 」である。


鬼が雲のように発達したのが「 魂 」か、あるいは雲が小さくなったのが「 魂 」かもしれない。


私は、人間を気(ki)というエネルギーと情(zyou)という情報で考えているが、気(ki)には「 魂 」を、情(zyou)には「 霊 」をあてはめて、前者は空中の「 シューマン共振 」になり、後者は、文化や価値観となって、「 共感 」により「 霊長類 」の間で伝達されると考えた。


気(ki)が「 魂 」であるが、鬼は(ki)と(oni)の両方の発音を持つ。


気(ki)は鬼(ki)であり、「 雲 」のように湧き上がり、空中の「 シューマン共振 」になり、あるいは「 シューマン共振 」が、人間の肉体に入ったと考えるが、もう一方の鬼(oni)は、日本書紀には「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」であり、その両者をプラスしたのが「 魂 」であると思う。


鬼(oni)を、「 死霊 」という言葉で考えるから、「 人に危害を加える怪物 」のようなイメージを持つと思う。

私は、気(ki)の中で鬼(ki)と鬼(oni)を考える。

鬼(ki)と鬼(oni)の違いは、善いエネルギーと悪いエネルギーであると考える。

それは、気(ki)の中の「 創造 」と「 破壊 」のエネルギーであると思う。

気(ki)というエネルギーは、エーテルを媒体とするから宇宙から胎内まで障壁もなく浸透し、精子と卵子の結合の際にも入り込むから、鬼(ki)も鬼(oni)も、生殖行為の中に現れることは考えられると思う。


気(ki)というエネルギーは鬼(ki)と鬼(oni)とともに「 魂 」となり、その「 魂 」が「 霊 」と結びついて「 霊魂 」となり、生命に対する精神になると考える。


すると、人間は誰でも「 魂 」として、気(ki)というエネルギーとして鬼(ki)と鬼(oni)、それに情(zyou)を持ち、鬼(ki)と鬼(oni)はエネルギーや行為だから小脳に属し、情(zyou)は大脳に属すると思う。



「 霊 」は、情(zyou)であると思うが、気(ki)である鬼(oni)も内包して「 霊魂 」となり、破壊の鬼(oni)が情(zyou)により記憶や翻訳されて「 心や精神が形になった得体の知れぬ「カミ」や「モノ」である状態(エネルギー)として、歴史的に伝承されて来たのだと思う。


気(ki)は、無明であり、精神的に方向が無いエネルギーで、人知では想像することが不能なエネルギーで、創造する面を鬼(ki)であると考える。


気(ki)の破壊するエネルギーを人が想像したのが鬼(oni)であると思う。


人は気(ki)として、@Tに分類する創造のエネルギーとしての鬼(ki)と、A破壊のエネルギーを人間が行為に想像した鬼(oni)と、B大脳による情(zyou)を持ち、気(ki)と情(zyou)を結ぶのが破壊する鬼(oni)で、鬼(oni)は、人間がエネルギーを感じて行為する小脳に属する情(zyou)であると思う。

行為が思考を破壊する、つまり「 無常である 」とは、鬼(oni)の行為であるかも知れない。


人はすべて鬼(oni)を飼っているとは、人は生まれたときから、「 魂 」として人知では想像することが出来ないエネルギーである鬼(ki)と、それを行為に想像した鬼(oni)のエネルギーを持っていて、それは遺伝子情報に組み込まれた情(zyou)と共に生きていて、情(zyou)のすべての発現の中に含まれる、言い換えると、すべての心の状態や行為の中に、創造の鬼(ki)と破壊の鬼(oni)が現れ、「 人間はすべての破壊の鬼(oni)になる可能性があるから注意しなさい」という宗教的な教えだと思う。




2012/11/4、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


それでは、生きているとき、鬼をどのように考えるか?


人間は誰でも気(ki)として鬼(ki)と鬼(oni)、それに情(zyou)を持っているという結論になり、創造する鬼(ki)は独自的で無明だが、破壊する鬼(oni)は「 人に危害を与えるもの 」として「 共感 」が可能であり、社会的で文化的である。


破壊する鬼(oni)が社会的で文化的である事は、情(zyou)により記録や記憶され「 心や精神が形になった 」状態だから、歴史的に共感や伝達することが出来ると思う。


一方、創造する鬼(ki)は、無明であり、精神的に方向が無く、エネルギーに近く、人知で想像することが不能なエネルギーであると思う。


感情などの情(zyou)と創造する鬼(ki)が結合したとき、自分の本来の方向に向いた情(zyou)、自分の個性とも言われる率直な情(zyou)のエネルギーの発揮であり、これが、プラス思考のエネルギーであると思う。

これは、創造する鬼(ki)が無明であり、精神的な方向が定まっていないことには変化はなく、生きている自分の無明が、この創造的な鬼(ki)の方向に一致することが創造ではない。


この場合、自我は堅持され、創造する鬼(ki)に対して、自己の力不足を考え、「 無常 」を感じることが、この創造的な鬼(ki)に接する態度だと思う。


創造とは、自分の内部の自己を変革することであり、自分の目的から離れて創造する鬼(ki)の方向に、方向を統一すること、たとえば「 超能力を求めること 」は、自己の放棄であり、「 マインドコントロール 」される危険があると思う。


一方、恨みや憎しみという感情の情(zyou)と破壊的な鬼(oni)が結合したとき、自分を見失った「 人に危害を与える方向 」へのエネルギーの発揮であり、これが、マイナス思考のエネルギーであると思う。


この場合、破壊的な鬼(oni)により自我は失われ、一見したところ「 悟った 」と思われるが、そうではなく、自己喪失であり、自分の判断の放棄であり、いわゆる「 マインドコントロール 」の状態であり、無責任である。


「 超能力 」を求めることも、自分には存在しないものを求めることであり、自己変革ではない。


これは、新興宗教などの教祖を鬼(oni)と考えると、教祖への服従は「 マインドコントロール 」であり、オカルト教団や教祖の実態を見れば、正当でないことは明らかである。


創造や破壊と言えど、鬼(oni)は鬼(oni)であり、鬼(oni)に「 心を奪われること 」は、真理への陶酔や解脱ではなく、自殺行為に等しい。


創造や破壊は、自己変革であり、自分の肉体を離れることは、正当ではない。


気(ki)のプラスのエネルギーを体内から引き出すか、マイナスのエネルギーを引き出すかは、情(zyou)が鬼(ki)と結びつくか、あるいは鬼(oni)と結びつくかの違いがあると思う。


鬼(ki)や鬼(oni)は、善悪の違いはあるが、「 人知を超えるエネルギー 」という意味では同じで、人知である情(zyou)の領域を広げたり、狭めたりする。


「 良い方向 」にも「 悪い方向 」にも、人知を超えることができるのが人間だと思う。


人はみんな鬼(oni)を持ち、殺人鬼などのような自分中心の「 悪い方向 」の鬼(oni)を飼うのも自由だが、「 自分中心の発想を変えて、自分の中から他者を憎む鬼を消すこと 」がプラスのエネルギーを取得することであり、「 自我 」という肉体と精神の障壁である「 殻 」を破ることが、創造することだと思う。

なぜなら、すべての原因は自分にあるからだ。


何のために手や足があり、何のために目や耳があるかを考えるとき、人の役に立って奉仕し、真理を求めることが、創造の鬼(ki)に従うことであり、そのとき鬼(oni)は消え、本来の情(zyou)すなわち人を益する情報(zyouhou)の先端に立つことが「 創造 」であると、私は思う。






http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC

マイナス思考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B9%E6%80%9D%E8%80%83

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2012年11月03日

2012/11/03、オカルト・死後の自我の行方 4・鬼1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)


2012/10/28、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これは、私が考えた物語であり、まったくのフィクションである。


それは、前回に続いて、死後の自我はどんな道を行くのかについて気(ki)と情(zyou)の観点から考える。


死後は、天国や地獄などに行くと言うが、天国も地獄も、体験した人も無く、体験をすることが出来ないので、すべて想像だろう。


「 六道 」の中に鬼(oni)がいるというが、何だろう?


「 六道 」と「 輪廻転生 」や「 鬼(oni)」など、下記のようなネット情報はあるが、これらを結ぶ物語が無く、これらを物語にするのは僧侶だろうが、ネット情報にも物語はないので、自分で考えることにした。


これから、私だけの方法で「 六道 」と「 輪廻転生 」や「 鬼 」を物語にする。


「 輪廻転生 」は先日書いたように、生前に子孫を残す生殖行為が「 目に見える輪廻 」であり、死後の自我の行方は「 目に見えない輪廻 」であり、両者は「 生と死を繰り返すと想像すること 」は同じである。


「 六道 」は、以下のように「 心の状態 」であると思うが、私は上記のように「 心 」は情(zyou)であると考え、この情(zyou)が残るとき霊として世界に漂い、生命の気(ki)である「 魂 」と結びついて「 六道 」の中に「 霊魂 」を持って生まれると思っている。


「 六道 」の中の「 家畜 」に生まれたと仮定して、「 家畜 」になった「 私 」を殺して食肉にしようとする人間は「 家畜の私 」にとっては「 鬼(oni) 」と思うだろう。


鬼(oni)は、人間にとっての鬼(oni)ばかりでなく、「 家畜 」にとっても鬼(oni)が存在して、それが人間であるかも知れない。


鬼(oni)は鬼神(kizin)と言うように鬼(ki)とも呼ぶ。


鬼(ki)を気(ki)と同義に考えると、「 家畜としての気(ki)」以外の気(ki)の持ち主、すなわち異種の生き物が鬼(oni)であると思う。


すると、現在の自分が他の動物にとって鬼(oni)であることになる。


自分の死後、気(ki)はエーテルの中に消えても、残った情(zyou)により「 輪廻転生 」して「 家畜 」になった自分が、人間から生命の危険を感じるとき人間は鬼(oni)であり、違った気(ki)を持つ鬼(ki)だと思うだろう。


人間の場合は、情(zyou)の中に鬼(oni)がいるのではなく、気(ki)の中にいる。


「 鬼 」が「 亡霊 」や「 死霊 」ではなく、つまり人間が持つ情(zyou)から生まれるのではなく、気(ki)すなわち、人知では不可能なTに分類するような気(ki)、あるいは神(God)の中に鬼(ki)がいることになる。


情(zyou)つまり霊や心の状態の「 六道 」の動物の階層ごとに、鬼(oni)がいて、違った気(ki)を持つ鬼(ki)の人間から生命が危険に晒される。


生きた人から人への情(zyou)が肉体を作り(だから、情は(nasake)とも言い、情事(zyouzi)という性交の意味も持つ)、霊が入るが、魂は気(ki)として、鬼(ki)として(精子の中の気(ki)という生命として?)、個の男性から個の女性の中に入ると思うから、人間はみんな内部に鬼(ki)を持つと考える。


人間はみんな鬼(oni)を内部に飼っているから、人間の行為とは思えない殺人の罪を犯すこともできる。


殺人は、人間とは違う鬼(ki)を持つ鬼(oni)の具現化である。


「 あの世 」だけでなく、「 この世 」にも鬼(oni)がいることは、地獄も「 この世 」にあるということだろう。


「 地獄 」を「 心の状態 」と解釈すれば、肯定できる。



2012/11/3、私の考え



これは、フィクションであり同調を求めない。


「 魂 」という日本語を解釈したい。


「 雲 」の原字である「 云 」に「 鬼 」をプラスしたのが「 魂 」である。


鬼が雲のように発達したのが「 魂 」か、あるいは雲が小さくなったのが「 魂 」かもしれない。


私は、人間を気(ki)というエネルギーと情(zyou)という情報で考えているが、気(ki)には「 魂 」を、情(zyou)には「 霊 」をあてはめて、前者は空中の「 シューマン共振 」になり、後者は、文化や価値観となって、「 共感 」により「 霊長類 」の間で伝達されると考えた。


気(ki)が「 魂 」であるが、鬼は(ki)と(oni)の両方の発音を持つ。


気(ki)は鬼(ki)であり、「 雲 」のように湧き上がり、空中の「 シューマン共振 」になり、あるいは「 シューマン共振 」が、人間の肉体に入ったと考えるが、もう一方の鬼(oni)は、日本書紀には「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」であり、その両者をプラスしたのが「 魂 」であると思う。


鬼(oni)を、「 死霊 」という言葉で考えるから、「 人に危害を加える怪物 」のようなイメージを持つと思う。

私は、気(ki)の中で鬼(ki)と鬼(oni)を考える。

鬼(ki)と鬼(oni)の違いは、善いエネルギーと悪いエネルギーであると考える。

それは、気(ki)の中の「 創造 」と「 破壊 」のエネルギーであると思う。

気(ki)というエネルギーは、エーテルを媒体とするから宇宙から胎内まで障壁もなく浸透し、精子と卵子の結合の際にも入り込むから、鬼(ki)も鬼(oni)も、生殖行為の中に現れることは考えられると思う。


気(ki)というエネルギーは鬼(ki)と鬼(oni)とともに「 魂 」となり、その「 魂 」が「 霊 」と結びついて「 霊魂 」となり、生命に対する精神になると考える。


すると、人間は誰でも「 魂 」として、気(ki)というエネルギーとして鬼(ki)と鬼(oni)、それに情(zyou)を持ち、鬼(ki)と鬼(oni)はエネルギーや行為だから小脳に属し、情(zyou)は大脳に属すると思う。



「 霊 」は、情(zyou)であると思うが、気(ki)である鬼(oni)も内包して「 霊魂 」となり、破壊の鬼(oni)が情(zyou)により記憶や翻訳されて「 心や精神が形になった得体の知れぬ「カミ」や「モノ」である状態(エネルギー)として、歴史的に伝承されて来たのだと思う。


気(ki)は、無明であり、精神的に方向が無いエネルギーで、人知では想像することが不能なエネルギーで、創造する面を鬼(ki)であると考える。


気(ki)の破壊するエネルギーを人が想像したのが鬼(oni)であると思う。


人は気(ki)として、@Tに分類する創造のエネルギーとしての鬼(ki)と、A破壊のエネルギーを人間が行為に想像した鬼(oni)と、B大脳による情(zyou)を持ち、気(ki)と情(zyou)を結ぶのが破壊する鬼(oni)で、鬼(oni)は、人間がエネルギーを感じて行為する小脳に属する情(zyou)であると思う。

行為が思考を破壊する、つまり「 無常である 」とは、鬼(oni)の行為であるかも知れない。


人はすべて鬼(oni)を飼っているとは、人は生まれたときから、「 魂 」として人知では想像することが出来ないエネルギーである鬼(ki)と、それを行為に想像した鬼(oni)のエネルギーを持っていて、それは遺伝子情報に組み込まれた情(zyou)と共に生きていて、情(zyou)のすべての発現の中に含まれる、言い換えると、すべての心の状態や行為の中に、創造の鬼(ki)と破壊の鬼(oni)が現れ、「 人間はすべての破壊の鬼(oni)になる可能性があるから注意しなさい」という宗教的な教えだと思う。






http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC

鬼の学説

文芸評論家の馬場あき子は5種類に分類している[1]。
1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。


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2012年10月28日

2012/10/28、オカルト・死後の自我の行方 3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)


2012/10/27、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない


私は以前、思考は具現化すると書いて来たが、思考とは情(zyou)であり、この情(zyou)が、「 霊 」として、ミラーニューロンなどを通して伝達されると思う。


共感することが「 学ぶこと 」で、情(zyou)が伝達されたとき、「 認識 」と言い、情(zyou)や気(ki)が大気(taiki)の中にあるならば、「 認識 」は、電離層で行われることは、以前に書いてきた。


共感し伝達する情(zyou)は「 心 」と考える。


情(zyou)や「 心 」がミラーニューロンによる共感で人から人へ伝達されるから、人間は「 霊長類 」と呼ばれるのだろう。


共感する事が出来る人は、「 霊 」も共感により伝わり、結局、共感することが出来るという感受性を持った人だけが、「 霊 」を見ることが出来るから、その人が「 霊長類 」なのだと思う。


過去と現在、そして未来へと、人類は「 誕生 」と「 死 」を繰り返すが、「 輪廻 」を「 生と死を繰り返すこと 」と考えると次のようになる。


自分の死後、「 輪廻転生 」すると考えることは、自分が死んだ後に子孫を残すことと同じである。


前者が、「 精神の生死を繰り返すと想像すること 」であり、後者は、「 肉体が(遺伝子情報が)現実に生死を繰り返すと想像すること 」であり、前者が、「 あの世 」で、自分の情(zyou)を、その情(zyou)に相応しい動物に生まれ変わるという精神世界の連続であるのに対し、後者は、「 この世 」で、自分の遺伝子情報という「 実体 」を生きている人から人に直接に連続させるところが違うだけで、「 生死を繰り返すことを想像すること 」は同じである。


生殖行為も「 輪廻 」の一つの考えである。


「 輪廻 」というのは、東洋の宗教だけでなく、子孫を残す限り、西洋も普段の生活で同じことをしていると思う。


いや、私の考えでは、世界中の人が「 輪廻 」を信じていることになる。


「 転生 」は、死後、情(zyou)に相応しい動物に生まれ変わることだと思うから、精神世界にあっても、現実の肉体の世界では存在しないかもしれない。



2012/10/28、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これは、私が考えた物語であり、まったくのフィクションである。


それは、前回に続いて、死後の自我はどんな道を行くのかについて気(ki)と情(zyou)の観点から考える。


死後は、天国や地獄などに行くと言うが、天国も地獄も、体験した人も無く、体験をすることが出来ないので、すべて想像だろう。


「 六道 」の中に鬼(oni)がいるというが、何だろう?


「 六道 」と「 輪廻転生 」や「 鬼(oni)」など、下記のようなネット情報はあるが、これらを結ぶ物語が無く、これらを物語にするのは僧侶だろうが、ネット情報にも物語はないので、自分で考えることにした。


これから、私だけの方法で「 六道 」と「 輪廻転生 」や「 鬼 」を物語にする。


「 輪廻転生 」は先日書いたように、生前に子孫を残す生殖行為が「 目に見える輪廻 」であり、死後の自我の行方は「 目に見えない輪廻 」であり、両者は「 生と死を繰り返すと想像すること 」は同じである。


「 六道 」は、以下のように「 心の状態 」であると思うが、私は上記のように「 心 」は情(zyou)であると考え、この情(zyou)が残るとき霊として世界に漂い、生命の気(ki)である「 魂 」と結びついて「 六道 」の中に「 霊魂 」を持って生まれると思っている。


「 六道 」の中の「 家畜 」に生まれたと仮定して、「 家畜 」になった「 私 」を殺して食肉にしようとする人間は「 家畜の私 」にとっては「 鬼(oni) 」と思うだろう。


鬼(oni)は、人間にとっての鬼(oni)ばかりでなく、「 家畜 」にとっても鬼(oni)が存在して、それが人間であるかも知れない。


鬼(oni)は鬼神(kizin)と言うように鬼(ki)とも呼ぶ。


鬼(ki)を気(ki)と同義に考えると、「 家畜としての気(ki)」以外の気(ki)の持ち主、すなわち異種の生き物が鬼(oni)であると思う。


すると、現在の自分が他の動物にとって鬼(oni)であることになる。


自分の死後、気(ki)はエーテルの中に消えても、残った情(zyou)により「 輪廻転生 」して「 家畜 」になった自分が、人間から生命の危険を感じるとき人間は鬼(oni)であり、違った気(ki)を持つ鬼(ki)だと思うだろう。


人間の場合は、情(zyou)の中に鬼(oni)がいるのではなく、気(ki)の中にいる。


「 鬼 」が「 亡霊 」や「 死霊 」ではなく、つまり人間が持つ情(zyou)から生まれるのではなく、気(ki)すなわち、人知では不可能なTに分類するような気(ki)、あるいは神(God)の中に鬼(ki)がいることになる。


情(zyou)つまり霊や心の状態の「 六道 」の動物の階層ごとに、鬼(oni)がいて、違った気(ki)を持つ鬼(ki)の人間から生命が危険に晒される。


生きた人から人への情(zyou)が肉体を作り(だから、情は(nasake)とも言い、情事(zyouzi)という性交の意味も持つ)、霊が入るが、魂は気(ki)として、鬼(ki)として(精子の中の気(ki)という生命として?)、個の男性から個の女性の中に入ると思うから、人間はみんな内部に鬼(ki)を持つと考える。


人間はみんな鬼(oni)を内部に飼っているから、人間の行為とは思えない殺人の罪を犯すこともできる。


殺人は、人間とは違う鬼(ki)を持つ鬼(oni)の具現化である。


「 あの世 」だけでなく、「 この世 」にも鬼(oni)がいることは、地獄も「 この世 」にあるということだろう。


「 地獄 」を「 心の状態 」と解釈すれば、肯定できる。



参考


六道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。

地獄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

地獄(じごく、Skt:नरक Naraka、音写:奈落)とは仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界。欲界・冥界・六道、また十界の最下層である。一般的に、大いなる罪悪を犯した者が死後に生まれる世界とされる。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC

鬼の学説

文芸評論家の馬場あき子は5種類に分類している[1]。
1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。

馬場によれば、元々は死霊を意味する中国の鬼(キ)が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという。「オニ」とは祖霊、地霊であり「目1つ」の姿で現されており、片目という神の印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。いずれにせよ一つ目の鬼は死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせる。また日本書紀にはまつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が鬼として観念されている。説話の人を食う凶暴な鬼のイメージは「カミ」、「モノ」から仏教の獄鬼、怪獣、妖怪など想像上の変形から影響を受け成立していったと言える。平安の都人が闇に感じていた恐怖がどのようなものかが窺える[1]。

また、大東文化大学講師の岡部隆志によれば、鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在だという。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がるとしている[1]。

平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であり、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていた。『伊勢物語』第六段に夜女をつれて逃げる途中に鬼に女を一口で食べられる話がありここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになるが、岡部隆志はこれを、戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものであり、人の体が消えていくことのリアルな実演であり、この世に現れた鬼が演じてしまうものと推測している。また岡部は、鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔であり、昔話のように福を残して去る神ともしている(例、一寸法師、瘤取り爺さんの鬼)。異界と幻想される地名として大江山が著名であるが、それは京都の都として異界の山であったためであり、異界としての山に接する地域には鬼伝承は多い[1]。

国文学者・阿部正路、歴史学者・松本新八郎、評論家・馬場あき子が指摘するように、鬼の形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは皆女性の形であり『源氏物語』に登場する鬼とは怨霊の事だが、渡辺綱の一条戻橋に出てくるように、初めのころは女性の形で出てくる。 また鬼の一つ、茨木童子の鬼などは説話中、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあり、そこから女の本質は鬼であり、また母親が持っている、自分の子供を戦争で傷つけたものに対する憎悪のようなものが読み取れ、その怖さに合理性がかいま見えてくる[2]。

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2012年10月27日

2012/10/27、オカルト・死後の自我の行方 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)






2012/10/21、私の記事




これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

………(省略)………………………………

その先は、どうなるのか?


宇宙に発散された気(ki)は電磁波として「 連続 」して発散して、「 シューマン共振 」になり、情(zyou)は霊長類の間(hazama)で、「 霊 」と「 霊 」が「 不連続 」に伝わり、それが「 文化 」になると、私は思っている。

「 文化 」は死者の情(zyou)が「 可能性 」として残っている状態だと、私は思う。


情(zyou)が完全に消滅したのが「 悟る 」状態で、死ぬときに光に包まれるとは、電磁波の意識が地球を回る「 シューマン共振 」になる状態であり、そこが「 天国 」であり「 あの世 」だろうと私は思う。


他方、情(zyou)が、わずかでも残ったら、情(zyou)は「 霊 」として、「 幽霊 」として、「 この世 」を迷い続け、その状態が「 地獄 」だと思う。




生命は、生きた男性の精子と生きた女性の卵子が出会うことにより生まれると思うが、このDNAの二重螺旋が離れ、再び遺伝子情報が絡み合うとき、ホルモンに気(ki)である「 シューマン共振 」が加わり、活動電位が変化して「 精神 」や「 意識 」が生まれ、「 魂 」と「 霊 」が合致して「 霊魂 」になると、私は思っている。



そして、気(ki) は「 無明 」で方向性がないから、死亡した人間の「 霊魂 」が、人間の「 霊魂 」に具現化する保証は無いと、私は思う。


生きている、さまざまな動物の精子と卵子による生命の中でDNAの二重螺旋が絡むときに霊魂として具現化し、さまざまな動物に生まれ変わることもあると私は思う。


それが、「 六道輪廻 」であり、迷う「 霊 」の水準により動物が決まり、動物という対象がある「 地獄 」と、動物に具現化することが出来なく「 霊 」のまま、次の動物の誕生を待つ「 地獄 」もあると、私は思う。


それが、「 地獄絵図 」に書かれた地獄であるかも知れない。


自殺した霊魂は、最終段階まで行かずに肉体と遊離するのだから、未熟な「 霊 」と「 魂 」であり、その未熟の水準の生き物に具現化すると、私は思う。


その水準とは、動物に生まれ変わることもできず、迷い続ける「 霊 」であるかも知れない。


天国や地獄、あるいは精神や人格は「 不連続 」であると思っているが、実は「 連続 」していると、私は思っている。


2012/10/27、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

これは、まったくのフィクションである。


私は以前、思考は具現化すると書いて来たが、思考とは情(zyou)であり、この情(zyou)が、「 霊 」として、ミラーニューロンなどを通して伝達されると思う。


共感することが「 学ぶこと 」で、情(zyou)が伝達されたとき、「 認識 」と言い、情(zyou)や気(ki)が大気(taiki)の中にあるならば、「 認識 」は、電離層で行われることは、以前に書いてきた。


共感し伝達する情(zyou)は「 心 」と考える。


情(zyou)や「 心 」がミラーニューロンによる共感で人から人へ伝達されるから、人間は「 霊長類 」と呼ばれるのだろう。


共感する事が出来る人は、「 霊 」も共感により伝わり、結局、共感することが出来るという感受性を持った人だけが、「 霊 」を見ることが出来るから、その人が「 霊長類 」なのだと思う。


過去と現在、そして未来へと、人類は「 誕生 」と「 死 」を繰り返すが、「 輪廻 」を「 生と死を繰り返すこと 」と考えると次のようになる。


自分の死後、「 輪廻転生 」すると考えることは、自分が死んだ後に子孫を残すことと同じである。


前者が、「 精神の生死を繰り返すと想像すること 」であり、後者は、「 肉体が(遺伝子情報が)現実に生死を繰り返すと想像すること 」であり、前者が、「 あの世 」で、自分の情(zyou)を、その情(zyou)に相応しい動物に生まれ変わるという精神世界の連続であるのに対し、後者は、「 この世 」で、自分の遺伝子情報という「 実体 」を生きている人から人に直接に連続させるところが違うだけで、「 生死を繰り返すことを想像すること 」は同じである。


生殖行為も、「 輪廻 」の考えの一つだと思う。


「 輪廻 」というのは、東洋の宗教だけでなく、子孫を残す限り、西洋も普段の生活で同じことをしていると思う。


いや、私の考えでは、世界中の人が「 輪廻 」を信じていることになる。


「 転生 」は、死後、情(zyou)に相応しい動物に生まれ変わることだと思うから、精神世界にあっても、現実の肉体の世界では存在しないかもしれない。




輪廻

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

輪廻(りんね、サンスクリット:संसार saṃsāra)は、ヴェーダ、仏典などに見られる用語で、人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わること、また、そう考える思想のこと。漢字の輪廻は生命が無限に転生を繰り返すさまを、輪を描いて元に戻る車輪の軌跡に喩えたことから来ている。

転生
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E7%94%9F

転生(てんせい, てんしょう)とは、死後に別の存在として生まれ変わること。肉体・記憶・人格などの同一性が保たれないことから復活と区別される。また一部の宗教では再生とも言われる。仏教では、特に輪廻と区別はされていない。また、再び生まれる、「再生」という語ではなく、再び存在する、「再有」という語を用いる。仏教では、魂の存在を認めていないため、輪廻における主体(アートマン)を想定する他の思想と区別するためである。転生する前の人生のことを前世、転生した後の人生のことを来世と言う。輪廻のように人間は動物を含めた広い範囲で転生すると主張する説と、人間は人間にしか転生しないという説がある。

一般には仏教を語る上でのみ触れられるが、仏教に固有の思想ではなく、釈迦以前の思想家にも見られ、インドのみならずギリシア古代の宗教思想にも認められる。インドでは六道輪廻にみられるような生まれ変わり(→輪廻)による苦から解脱することが目的とされた。現代の日本では、仏教における転生を、単に民衆を道徳へ導くための建前として語られたにすぎないとする者も多くいるが、過去の日本では、輪廻思想は仏教において前提とされる一般的な考え方であり、浄土教の源信などのように、転生を信じながら真摯な布教活動をした宗教家が多くいた。

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2012年10月21日

2012/10/21、オカルト・病気6・死後の自我の行方

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)






2012/10/16、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これは、私のブログからの「 自殺と自我 」に対する考えであり、間違っているかも知れない


さて、私は、自分を気(ki)と情(zyou)に別けて考えてきた。


「 自我を殺すのは、自殺ではない 」ということについて書く。


Tの気(ki)とUの情(zyou)の区別を参照して欲しい。


自我は、以前書いたように情(zyou)の「 閉じる 」働きで、他者と区別することだと思うが、情(zyou)は社会的な存在意識であり、自分の感情が形成する統一体であっても自我は自分だけが所有するのではないと思う。


自分の感情が「 自我 」を決めるかも知れないが、他者が決める「 自我 」、他者に反射して決める「 自我 」があり、それは社会的な自我であり、自分の感情を消しても、他者の中に存在すると思う。


気(ki)は生命で終わりがあり、肉体が灰になったから消えたと思うだろうが、気(ki)は「 連続するもの 」であり、死んで灰となっても、気(ki)は残ると考えるのが「 エネルギー保存の法則 」であると思う。


そして、情(zyou)、つまり感情(kanzyou)も残ると考える。


人は、無常と知りつつ、何かの痕跡を残す(たとえば、遺書など)が、残さないで死んだとしても、周囲の親族や友達の頭脳の中には、死んだ人への同情や自殺の原因に対する疑問が残る。


前者の痕跡は、周囲の人が読めば死んだ人の価値観を思い出す物語であり、後者の同情や思い出は、死んだ人が周囲に表現した行為や人格の物語であるだろう。


情(zyou)は、人間にミラーニューロンがある限り、死後の時間の「 不連続 」を埋めるように「 共感 」することにより果てしなく伝わる。


死後も、「 価値観 」や「 可能性(シュミレーションするもの) 」は、時間や時代を超えて、人間がミラーニューロンを持つ限り、そのミラーニューロンの力で「 共感 」することにより伝わる。


気(ki)は、エーテルという媒体を通じて「 連続 」し、情(zyou)は、人体と人体の間(hazama)で、「 不連続 」であるが、大気の媒体を伝わる情(zyou)や情報の中にある「 可能性(シュミレーションするもの) 」や「 価値観 」を「 共感 」することにより伝わり、結果としてそれらが「 承継 」され、文化として「 連続 」すると思う。


自殺して何も残らないと考えるのは、自殺する人の情(zyou)による「 不連続 」の解釈であり、私のブログでは、「 すべてが連続し、人為的に不連続を作ることは出来ない 」という結果になり、自殺しても宇宙の中の別の存在になるだけだという結果になる。


だから、自殺しても自我は死なず、違った形での「 宇宙の産物 」になるだけであると解釈する。



2012/10/21、私の考え




これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記のように、「 自我 」は消滅しないと考えると、「 自我 」は、どこへ行くのだろうか?

私は、「 自我 」をTの気(ki)と、情(zyou)に別けて考える。


Tの気(ki)としての「 自我 」はエネルギーであると考え、意識が電磁波であるということも考えると、意識はUの情(zyou)に分類するが、「 死亡 」により、肉体が他の宇宙の産物になるのに合わせて、肉体から分離し、意識は電磁波というエネルギーからTの気(ki)に合流すると私は考える。


気(ki)はエネルギーだから、「 魂 」と呼ぶものになるだろうと、私は思う。


体内の電気は「 魂 」であると考え、「 死亡 」により「 意識 」の電磁波と一緒に宇宙へ発散されるだろうと、私は思う。


他方、Uの情(zyou)は、「 遺書 」や「 思い出 」として社会に残り、社会の構成員が共感することにより、死者の情(zyou)が伝わり「 文化 」になると私は思う。


気(ki)は、電磁波として「 連続 」して発散し、情(zyou)は、「 不連続 」の霊長類の間(hazama)で、「 共感 」により伝わると、私は思う。


その先は、どうなるのか?


宇宙に発散された気(ki)は電磁波として「 連続 」して発散して、「 シューマン共振 」になり、情(zyou)は霊長類の間(hazama)で、「 霊 」と「 霊 」が「 不連続 」に伝わり、それが「 文化 」になると、私は思っている。

「 文化 」は死者の情(zyou)が「 可能性 」として残っている状態だと、私は思う。


情(zyou)が完全に消滅したのが「 悟る 」状態で、死ぬときに光に包まれるとは、電磁波の意識が地球を回る「 シューマン共振 」になる状態であり、そこが「 天国 」であり「 あの世 」だろうと私は思う。


他方、情(zyou)が、わずかでも残ったら、情(zyou)は「 霊 」として、「 幽霊 」として、「 この世 」を迷い続け、その状態が「 地獄 」だと思う。




生命は、生きた男性の精子と生きた女性の卵子が出会うことにより生まれると思うが、このDNAの二重螺旋が離れ、再び遺伝子情報が絡み合うとき、ホルモンに気(ki)である「 シューマン共振 」が加わり、活動電位が変化して「 精神 」や「 意識 」が生まれ、「 魂 」と「 霊 」が合致して「 霊魂 」になると、私は思っている。



そして、気(ki) は「 無明 」で方向性がないから、死亡した人間の「 霊魂 」が、人間の「 霊魂 」に具現化する保証は無いと、私は思う。


生きている、さまざまな動物の精子と卵子による生命の中でDNAの二重螺旋が絡むときに霊魂として具現化し、さまざまな動物に生まれ変わることもあると私は思う。


それが、「 六道輪廻 」であり、迷う「 霊 」の水準により動物が決まり、動物という対象がある「 地獄 」と、動物に具現化することが出来なく「 霊 」のまま、次の動物の誕生を待つ「 地獄 」もあると、私は思う。


それが、「 地獄絵図 」に書かれた地獄であるかも知れない。


自殺した霊魂は、最終段階まで行かずに肉体と遊離するのだから、未熟な「 霊 」と「 魂 」であり、その未熟の水準の生き物に具現化すると、私は思う。


その水準とは、動物に生まれ変わることもできず、迷い続ける「 霊 」であるかも知れない。


天国や地獄、あるいは精神や人格は「 不連続 」であると思っているが、実は「 連続 」していると、私は思っている。



参考

シューマン共振
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%85%B1%E6%8C%AF

ミラーニューロン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3

活動電位

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E9%9B%BB%E4%BD%8D

頭頂葉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E9%A0%82%E8%91%89


一次運動野

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%AC%A1%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8E

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2012年10月20日

2012/10/20、オカルト・病気(byouki)5・自殺せず逆襲する

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)





2012/10/14、私の記事


これは、私の考えであり、同調を求めない


………………(省略)………………………



自我を殺すことは、自殺ではない。


先にも書いたが、情(zyou)は、「 自我 」を形成し、「 閉じる 」性質を持つと思う。


閉じこもりや引きこもりは「 自然な行動 」であり、「 保身 」であり、本人は「 不安 」を解消するつもりでも、事態は悪い方向に向かい、「 自然の行為が病気 」だと判断されるようになる。


「 不安 」を「 現実逃避 」や「 保身 」のために使ってはいけない。


生きる方向が不明であるため、「 無明 」で「 不安 」なのだが、生きるためのは王道を行くしかないと思うことが、依存から逃れることであり、安易な方法を選ばず、無常を恐れず自分が生きる価値を求めていく強い考えが必要であると思う。


「 病気 」とは、社会的に普通の行為とは違うとき、下される判断であるだろう。


このとき、本人は「 自己中心的の考え 」であるが、周囲は、病気を早く快癒させようとして本人の考えを責めるのではなく、神社や仏閣、あるいは山登りに連れ出すなど、本人を「 自然の気(ki) 」に触れさせるのが良いと思う。


Aの情(zyou)の無常と@の気(ki)の無常と衝突させ、新たな価値観を発見させる。


その当時の本人は面倒だと思うかもしれないが、本人が正常に戻ったとき、「 それらの行為が、すべて感謝の気持ちとして返って来て 」、それが「 自我 」から逃れた証拠であり、これからの「 不安 」への防波堤になるだろう。



「 不安 」は、自分だけでなく、周囲の人も「 不安 」を持ち、「 同じ方向に進んでいる同志 」であることに気づけば、自分の「 非 」に気づくだろう。



当面の病状に「 薬 」は必要であるだろうが、「 薬 」だけでは、霊長類は満足しない。


「 薬 」は病院が処方する薬だけではない。


本人に対する周囲や家族の行為も「 薬 」なのだと思う。



「 死への可能性 」を共有することにより、連帯感が生まれ、生命に気づき、同朋への気遣いや心配りが出来るようになるとき、「 自分 」という「 殻 」から脱皮することが出来るだろう。


2012/10/16、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これは、私のブログからの「 自殺と自我 」に対する考えであり、間違っているかも知れない


さて、私は、自分を気(ki)と情(zyou)に別けて考えてきた。


「 自我を殺すのは、自殺ではない 」ということについて書く。


Tの気(ki)とUの情(zyou)の区別を参照して欲しい。


自我は、以前書いたように情(zyou)の「 閉じる 」働きで、他者と区別することだと思うが、情(zyou)は社会的な存在意識であり、自分の感情が形成する統一体であっても自我は自分だけが所有するのではないと思う。


自分の感情が「 自我 」を決めるかも知れないが、他者が決める「 自我 」、他者に反射して決める「 自我 」があり、それは社会的な自我であり、自分の感情を消しても、他者の中に存在すると思う。


気(ki)は生命で終わりがあり、肉体が灰になったから消えたと思うだろうが、気(ki)は「 連続するもの 」であり、死んで灰となっても、気(ki)は残ると考えるのが「 エネルギー保存の法則 」であると思う。


そして、情(zyou)、つまり感情(kanzyou)も残ると考える。


人は、無常と知りつつ、何かの痕跡を残す(たとえば、遺書など)が、残さないで死んだとしても、周囲の親族や友達の頭脳の中には、死んだ人への同情や自殺の原因に対する疑問が残る。


前者の痕跡は、周囲の人が読めば死んだ人の価値観を思い出す物語であり、後者の同情や思い出は、死んだ人が周囲に表現した行為や人格の物語であるだろう。


情(zyou)は、人間にミラーニューロンがある限り、死後の時間の「 不連続 」を埋めるように「 共感 」することにより果てしなく伝わる。


死後も、「 価値観 」や「 可能性(シュミレーションするもの) 」は、時間や時代を超えて、人間がミラーニューロンを持つ限り、そのミラーニューロンの力で「 共感 」することにより伝わる。


気(ki)は、エーテルという媒体を通じて「 連続 」し、情(zyou)は、人体と人体の間(hazama)で、「 不連続 」であるが、大気の媒体を伝わる情(zyou)や情報の中にある「 可能性(シュミレーションするもの) 」や「 価値観 」を「 共感 」することにより伝わり、結果としてそれらが「 承継 」され、文化として「 連続 」すると思う。


自殺して何も残らないと考えるのは、自殺する人の情(zyou)による「 不連続 」の解釈であり、私のブログでは、「 すべてが連続し、人為的に不連続を作ることは出来ない 」という結果になり、自殺しても宇宙の中の別の存在になるだけだという結果になる。


だから、自殺しても自我は死なず、違った形での「 宇宙の産物 」になるだけであると解釈する。



2012/10/20、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記のように、自殺したからと言って「 自我 」を消すことは出来ない。


それでは、「 自我 」を周囲に知らせたいと思うだろう。


しかし、自殺して自分の「 自我 」を伝えるた場合は、Tに分類する気(ki)である生命は無く、従って行為も不能になり、「 自我 」を知らせるのは、Uに分類する「 遺書 」などの情(zyou)を他人に「 共感 」して貰うしか方法は無い。


他殺なら、警察が犯人を捕らえるが、自殺したら、逆襲することが出来ないから、自殺は死んだら終わりであるかも知れない。


自殺は自由だが、自殺は「 死んだら終わり 」である。

While there is life, there is hope.


そうであれば、生きて戦おうと思う人を、私は期待する。


「 忍 」とは、刃(yaiba)の下に心(kokoro)と書く。


外国であれば、「 銃口を恐れない心 」であるかも知れない。


悔しいだろうが、「 無常 」を信じて、不安に思うことなく、逆境に耐え、忍んで生きてほしい。


たとえば、小学校や中学校での「 いじめ 」を、「 無常 」、つまりこの状態が恒常ではないことを信じて、自殺せずに生き続けてほしい。


学校の先生は何もしないだろうが、時は過ぎ、大人になれば、状況も違ってくる。


不登校と責められても、「 病気 」になっても、生き続けてほしい。


学校を卒業すれば、きっと、逆襲することが出来る。


それを信じて、気(ki)を養うことが必要だと思う。


何のために本を読むのか?

目や耳は、何のために存在するのか?


それは、自分のミラーニューロンで「 共感 」する、自分の「 可能性 」を求めて、「 将来の自分の姿 」を探しているのだと思う。


そうであれば、学校へ行かなくても、職場を休んでも、「 学ぶ 」ことを忘れてはいけないと思う。


学校を卒業したとき、あるいは職場に復帰したとき、「 学んだこと 」が本領を発揮する。


何もせず、現実を逃避した者と学び続けた者には、それぞれに違う結果が現れる。


それを信じて、現実を「 忍ぶ 」ことが、「 無常 」を信じて生きることであると思う。


自殺しようと思ったら、自分は何のために、自分の命を捧げるのか、よく考えてほしい。


「 忍ぶ 」ことを「 学び 」、卒業したとき、職場復帰して「 死んだつもりで学んだこと 」を発揮することを夢見て「 病気 」の「 薬 」や気(ki)を頂き、そして卒業したとき、職場復帰したとき、心配してくれた周囲の人に感謝をすることを考えてほしい。


飛ぶ前には、屈んで、これから飛ぶ力を蓄える。


「 病気 」も休養だと思って、現実逃避するのではなく、更に自分の人格を発展させる契機にしてほしい。

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2012年10月16日

2012/10/16、オカルト・病気(biyouki)4・自我と自殺

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)




2012/10/13、私の記事

これは、私の考えであり、同調を求めない。


人は常に「 自分であり続ける 」という宿命を背負っているから、Uの情(zyou)の限界は、自分が自分の未来の姿を把握することが出来ない状態だと思う。


Tの気(ki)も、「 精神的に不能だ 」と認識すれば「 無常 」の認識になると思うから、あとは「 絶望 」しか方法は無いと思うかも知れない。


しかし、気(ki)を「 精神的に不能だ 」と認識すれば「 無常 」の認識になるという意味は、気(ki)とは「 電磁場や重力場が存在する空間の中のエネルギー 」であり、その気(ki)であるエネルギーが無い状態になるのではなくて、「 常に流転する 」状態で、常に存在することが、「 気(ki)が無常である 」ということであると考える。


Uの情(zyou)、すなわち「 大脳の意識で考えた価値観 」は、自分が自分の未来の姿を把握することが出来なく「 絶望 」の状態であるかも知れないが、「 大気はエーテルと同時に存在するように 」、その根底には、「 常に流転する 」気(ki)のエネルギーは存在するのであり、このエネルギーで、「 絶望 」を変えることが出来るかも知れない。


「 常に流転する 」、すなわち「 無常 」の気(ki)のエネルギーの力により、新しい価値観を得ることや、本当に「 人倫の、義の、人としての幸福 」は何かを知ることが出来るかも知れない。


経済的な富だけが幸福ではない。


情(zyou)、すなわち認識による「 無常 」は絶望かも知れないが、気(ki)の「 無常 」は、「 常に流転するエネルギー 」であり、「 絶望を希望に変える力 」になるかも知れない。


これが、「 無常に身を任せること 」であり、「 何もしないで諦めること 」ではない。


2012/10/14、私の記事


これは、私の考えであり、同調を求めない


@気(ki)の無常

気(ki)を「 精神的に不能だ 」と認識すれば「 無常 」の認識になるという意味は、気(ki)とは「 電磁場や重力場が存在する空間の中のエネルギー 」であり、その気(ki)であるエネルギーが無い状態になるのではなくて、「 常に流転する 」状態で、常に存在することが、「 気(ki)が無常である 」ということであると考える。


A情(zyou)の無常


「 薬物 」で治療することが出来るのは、ストレスであり、「 自分が自分の価値を把握したとき」であり、満足した状況だろう。


「 不安 」は、満足が「 無常 」であることから始まる。


自分が価値を見つけたのが、本当に自分が進む道なのかと問うたとき、否定するのが無常であり、不安が生まれるからだ。


「 薬物 」で治癒することが出来なく、「 精神的に自立すること 」で治癒するとき、原因が不安であることになる。


不安を克服するためには、思考のエネルギーであるC1とC2の力で脱出することが必要だろう。


The mind rules the body.


これは、気(ki)が原因で病気になるのではなく、病気の克服には気(ki)が必要であると解釈する。


B無常の克服


病気の克服には気(ki)が必要であるとは何か?


Aの情(zyou)の無常が、「 病気 」であり「 不安 」であると考え、これを如何にして克服するか?


自殺を選ぶのが、もっとも愚かな選択である。


自我を殺すことは、自殺ではない。


先にも書いたが、情(zyou)は、「 自我 」を形成し、「 閉じる 」性質を持つと思う。


閉じこもりや引きこもりは「 自然な行動 」であり、「 保身 」であり、本人は「 不安 」を解消するつもりでも、事態は悪い方向に向かい、「 自然の行為が病気 」だと判断されるようになる。


「 不安 」を「 現実逃避 」や「 保身 」のために使ってはいけない。


生きる方向が不明であるため、「 無明 」で「 不安 」なのだが、生きるためのは王道を行くしかないと思うことが、依存から逃れることであり、安易な方法を選ばず、無常を恐れず自分が生きる価値を求めていく強い考えが必要であると思う。


「 病気 」とは、社会的に普通の行為とは違うとき、下される判断であるだろう。


このとき、本人は「 自己中心的の考え 」であるが、周囲は、病気を早く快癒させようとして本人の考えを責めるのではなく、神社や仏閣、あるいは山登りに連れ出すなど、本人を「 自然の気(ki) 」に触れさせるのが良いと思う。


Aの情(zyou)の無常と@の気(ki)の無常と衝突させ、新たな価値観を発見させる。


その当時の本人は面倒だと思うかもしれないが、本人が正常に戻ったとき、「 それらの行為が、すべて感謝の気持ちとして返って来て 」、それが「 自我 」から逃れた証拠であり、これからの「 不安 」への防波堤になるだろう。



「 不安 」は、自分だけでなく、周囲の人も「 不安 」を持ち、「 同じ方向に進んでいる同志 」であることに気づけば、自分の「 非 」に気づくだろう。



当面の病状に「 薬 」は必要であるだろうが、「 薬 」だけでは、霊長類は満足しない。


「 薬 」は病院が処方する薬だけではない。


本人に対する周囲や家族の行為も「 薬 」なのだと思う。



「 死への可能性 」を共有することにより、連帯感が生まれ、生命に気づき、同朋への気遣いや心配りが出来るようになるとき、「 自分 」という「 殻 」から脱皮することが出来るだろう。


2012/10/16、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これは、私のブログからの「 自殺と自我 」に対する考えであり、間違っているかも知れない


さて、私は、自分を気(ki)と情(zyou)に別けて考えてきた。


「 自我を殺すのは、自殺ではない 」ということについて書く。


Tの気(ki)とUの情(zyou)の区別を参照して欲しい。


自我は、以前書いたように情(zyou)の「 閉じる 」働きで、他者と区別することだと思うが、情(zyou)は社会的な存在意識であり、自分の感情が形成する統一体であっても自我は自分だけが所有するのではないと思う。


自分の感情が「 自我 」を決めるかも知れないが、他者が決める「 自我 」、他者に反射して決める「 自我 」があり、それは社会的な自我であり、自分の感情を消しても、他者の中に存在すると思う。


気(ki)は生命で終わりがあり、肉体が灰になったから消えたと思うだろうが、気(ki)は「 連続するもの 」であり、死んで灰となっても、気(ki)は残ると考えるのが「 エネルギー保存の法則 」であると思う。


そして、情(zyou)、つまり感情(kanzyou)も残ると考える。


人は、無常と知りつつ、何かの痕跡を残す(たとえば、遺書など)が、残さないで死んだとしても、周囲の親族や友達の頭脳の中には、死んだ人への同情や自殺の原因に対する疑問が残る。


前者の痕跡は、周囲の人が読めば死んだ人の価値観を思い出す物語であり、後者の同情や思い出は、死んだ人が周囲に表現した行為や人格の物語であるだろう。


情(zyou)は、人間にミラーニューロンがある限り、死後の時間の「 不連続 」を埋めるように「 共感 」することにより果てしなく伝わる。


死後も、「 価値観 」や「 可能性(シュミレーションするもの) 」は、時間や時代を超えて、人間がミラーニューロンを持つ限り、そのミラーニューロンの力で「 共感 」することにより伝わる。


気(ki)は、エーテルという媒体を通じて「 連続 」し、情(zyou)は、人体と人体の間(hazama)で、「 不連続 」であるが、大気の媒体を伝わる情(zyou)や情報の中にある「 可能性(シュミレーションするもの) 」や「 価値観 」を「 共感 」することにより伝わり、結果としてそれらが「 承継 」され、文化として「 連続 」すると思う。


自殺して何も残らないと考えるのは、自殺する人の情(zyou)による「 不連続 」の解釈であり、私のブログでは、「 すべてが連続し、人為的に不連続を作ることは出来ない 」という結果になり、自殺しても宇宙の中の別の存在になるだけだという結果になる。


だから、自殺しても自我は死なず、違った形での「 宇宙の産物 」になるだけであると解釈する。

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2012年10月14日

2012/10/14、オカルト・病気3・病気の治療

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)




2012/10/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


もしも、「 病気 」が「 薬物 」で治癒するならば、原因は「 不安 」ではないと思う。


「 薬物 」で治療することが出来るのは、ストレスであり、「 自分が自分の価値を把握したとき」であり、満足した状況だろう。


「 不安 」は、満足が「 無常 」であることから始まる。


自分が価値を見つけたのが、本当に自分が進む道なのかと問うたとき、否定するのが無常であり、不安が生まれるからだ。


「 薬物 」で治癒することが出来なく、「 精神的に自立すること 」で治癒するとき、原因が不安であることになる。


不安を克服するためには、思考のエネルギーであるC1とC2の力で脱出することが必要だろう。


The mind rules the body.


これは、気(ki)が原因で病気になるのではなく、病気の克服には気(ki)が必要であると解釈する。


そして、これを「 共感的反感、反感的共感 」と同義に考える。


前者の気(ki)は「 不安 」であるが、後者の気(ki)は、ミラーニューロンの「 学び 」であり、「 信じること 」あるいは「 自然に任せること 」だろう。


「 自然に任せる 」とは、無常に任せることであり、自然に共感し自然から学ぶというミラーニューロンの働きに任せて、自我を否定することだろう。


これは、「 不安症 」だけでなく、「 依存症 」の克服にも有用だと思う。


生きている限り、「 無明 」であり、「 不安 」であり、「 不安 」から逃れることはできない。


「不安 」から逃れるために、依存症になるのかもしれないが、これは全く「 逆の方向 」であると思う。


「 不安 」を「 現実逃避 」や「 保身 」のために使ってはいけない。


生きる方向が不明であるため、「 無明 」で「 不安 」なのだが、生きるためのは王道を行くしかないと思うことが、依存から逃れることであり、安易な方法を選ばず、無常を恐れず自分が生きる価値を求めていくしか方法はないと思う。


「 死 」と言っても、情(zyou)の「 死 」であり、「 死 」を体験したのではない。


「 死 」まで、自分が何をすることが出来るかを考えると、「 死に場所 」や「 生きがい 」を判断することが出来るだろう。


「 死に場所 」や「 生きがい 」を発見したならば、「 死 」まで「 依存症 」になる時間は無いと思う。


「 依存症 」は、生きていながら死んでいるのであり、「 死 」を見つめて、「 死 」への距離を測りながら生きるとすれば、「 王道を生きることが出来る 」ことこそ、感謝すべきであろう。


2012/10/13、私の記事



これは、私の考えであり、同調を求めない。


人は常に「 自分であり続ける 」という宿命を背負っているから、Uの情(zyou)の限界は、自分が自分の未来の姿を把握することが出来ない状態だと思う。


Tの気(ki)も、「 精神的に不能だ 」と認識すれば「 無常 」の認識になると思うから、あとは「 絶望 」しか方法は無いと思うかも知れない。


しかし、気(ki)を「 精神的に不能だ 」と認識すれば「 無常 」の認識になるという意味は、気(ki)とは「 電磁場や重力場が存在する空間の中のエネルギー 」であり、その気(ki)であるエネルギーが無い状態になるのではなくて、「 常に流転する 」状態で、常に存在することが、「 気(ki)が無常である 」ということであると考える。


Uの情(zyou)、すなわち「 大脳の意識で考えた価値観 」は、自分が自分の未来の姿を把握することが出来なく「 絶望 」の状態であるかも知れないが、「 大気はエーテルと同時に存在するように 」、その根底には、「 常に流転する 」気(ki)のエネルギーは存在するのであり、このエネルギーで、「 絶望 」を変えることが出来るかも知れない。


「 常に流転する 」、すなわち「 無常 」の気(ki)のエネルギーの力により、新しい価値観を得ることや、本当に「 人倫の、義の、人としての幸福 」は何かを知ることが出来るかも知れない。


経済的な富だけが幸福ではない。


情(zyou)、すなわち認識による「 無常 」は絶望かも知れないが、気(ki)の「 無常 」は、「 常に流転するエネルギー 」であり、「 絶望を希望に変える力 」になるかも知れない。


これが、「 無常に身を任せること 」であり、「 何もしないで諦めること 」ではない。


2012/10/14、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない


@気(ki)の無常

気(ki)を「 精神的に不能だ 」と認識すれば「 無常 」の認識になるという意味は、気(ki)とは「 電磁場や重力場が存在する空間の中のエネルギー 」であり、その気(ki)であるエネルギーが無い状態になるのではなくて、「 常に流転する 」状態で、常に存在することが、「 気(ki)が無常である 」ということであると考える。


A情(zyou)の無常


「 薬物 」で治療することが出来るのは、ストレスであり、「 自分が自分の価値を把握したとき」であり、満足した状況だろう。


「 不安 」は、満足が「 無常 」であることから始まる。


自分が価値を見つけたのが、本当に自分が進む道なのかと問うたとき、否定するのが無常であり、不安が生まれるからだ。


「 薬物 」で治癒することが出来なく、「 精神的に自立すること 」で治癒するとき、原因が不安であることになる。


不安を克服するためには、思考のエネルギーであるC1とC2の力で脱出することが必要だろう。


The mind rules the body.


これは、気(ki)が原因で病気になるのではなく、病気の克服には気(ki)が必要であると解釈する。




B無常の克服


病気の克服には気(ki)が必要であるとは何か?


Aの情(zyou)の無常が、「 病気 」であり「 不安 」であると考え、これを如何にして克服するか?


自殺を選ぶのが、もっとも愚かな選択である。


自我を殺すことは、自殺ではない。


先にも書いたが、情(zyou)は、「 自我 」を形成し、「 閉じる 」性質を持つと思う。


閉じこもりや引きこもりは「 自然な行動 」であり、「 保身 」であり、本人は「 不安 」を解消するつもりでも、事態は悪い方向に向かい、「 自然の行為が病気 」だと判断されるようになる。


「 不安 」を「 現実逃避 」や「 保身 」のために使ってはいけない。


生きる方向が不明であるため、「 無明 」で「 不安 」なのだが、生きるためのは王道を行くしかないと思うことが、依存から逃れることであり、安易な方法を選ばず、無常を恐れず自分が生きる価値を求めていく強い考えが必要であると思う。


「 病気 」とは、社会的に普通の行為とは違うとき、下される判断であるだろう。


このとき、本人は「 自己中心的の考え 」であるが、周囲は、病気を早く快癒させようとして本人の考えを責めるのではなく、神社や仏閣、あるいは山登りに連れ出すなど、本人を「 自然の気(ki) 」に触れさせるのが良いと思う。


Aの情(zyou)の無常と@の気(ki)の無常と衝突させ、新たな価値観を発見させる。


その当時の本人は面倒だと思うかもしれないが、本人が正常に戻ったとき、「 それらの行為が、すべて感謝の気持ちとして返って来て 」、それが「 自我 」から逃れた証拠であり、これからの「 不安 」への防波堤になるだろう。



「 不安 」は、自分だけでなく、周囲の人も「 不安 」を持ち、「 同じ方向に進んでいる同志 」であることに気づけば、自分の「 非 」に気づくだろう。



当面の病状に「 薬 」は必要であるだろうが、「 薬 」だけでは、霊長類は満足しない。


「 薬 」は病院が処方する薬だけではない。


本人に対する周囲や家族の行為も「 薬 」なのだと思う。



「 死への可能性 」を共有することにより、連帯感が生まれ、生命に気づき、同朋への気遣いや心配りが出来るようになるとき、「 自分 」という「 殻 」から脱皮することが出来るだろう。
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2012年10月08日

2012/10/8、オカルト・病気2・薬と思考

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体








2012/9/30、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 欲 」は気(ki)であり、情(zyou)のバイオリズムが、ミラーニューロンにより「 欲 」とう気(ki)が「 共感 」し、それが「 価値観 」であると現時点では思っている。


情(zyou)のバイオリズムは、「 閉じるもの 」であり人体を「 不連続 」な自我を形成するが、「 閉じるもの 」とは、「 存在意識 」であり、「 存在意識 」の間(hazama)の中の「 欲 」という気(ki)が「 共感 」するのであり、その間(hazama)の「 段階や程度 」を「 流動性選好 」という「 遺伝子情報 」で決めたのが「 価値観 」だろうと思う。


「 何を存在意識とするか」は、個人のバイオリズムという無意識で決定し、その無意識が社会的な集合的無意識と共通するから、「 存在意識 」の間(hazama)を調節することにより、「 政治や経済 」の「 価値観 」の教育や「 宗教 」という生き方の価値観の教育も可能だと思う。


どれを選択するかは、「 個人のバイオリズム 」であり、「 個人の価値観 」であり、結局は「 個人次第 」であるだろう。


選択は、「 自分の価値観 」を選択しているのであり、他人の価値観と「 共感 」する自分の価値観を選択しているのだと思う。


人は常に「 自分であり続ける 」という宿命を背負っていると思う。



2012/10/6、私の記事

これは、私だけの思いつきであり、同調を求めない。




Aについては、人間は必ず「 欲 」を持ち、記憶が加わった精神的「 欲望 」の先端で、ミラーニューロンを働かせて、自分のバイオリズムで決めた「 自分の価値 」と「 共感 」する行為を選択する。

人は常に「 自分であり続ける 」という宿命を背負っていると思う。


ここで、「 自分の価値 」と「 共感 」する行為を選択することができなかったとき、「 自己実現 」が出来なかったとき、「 (欲求)不満 」が生じるだろう。


ネットで調べると、「 不安 」が原因の病気があるが、私は、「 不安 」ではなく「 (欲求)不満 」が原因で病気になるのではないかと疑っている。




これは、全くの素人判断である。


私は、ミラーニューロンが感情という情(zyou)の基礎であり、Tの気(ki)とUの情(zyou)を結ぶエネルギーであり、無意識であると考える。


Tの気(ki)の無意識であり、Uの情(zyou)の無意識である。


目から入る大小などの空間的刺激、耳から入る強弱の時間的刺激という気(ki)は、ミラーニューロンにより、「 快ストレス 」と「 不快ストレス 」という情(zyou)に別れ、「 快ストレス 」であれば、「 自己実現 」であり、「 不快ストレス 」ならば「 (欲求)不満 」に陥り、それが「 病気 」だと思う。


 「 快ストレス 」と「 不快ストレス 」という情(zyou)は、思考エネルギーの強弱や大小に応じて「 流動性選好 」する、「 存在意識 」の間(hazama)に存在する「 欲 」という気(ki)の「 共感 」だと思う。



「 共感 」が、ミラーニューロンの活動電位によって惹起されていると考えると、「 反感 」は情(zyou)であり、感情であり、「 不快ストレス 」であり、、「反感的共感であり、共感的反感である」とは、「 不快ストレス 」という情(zyou)が作るミラーニューロンの活動電位であり、ミラーニューロンの活動電位が作る、「 不快ストレス 」という情(zyou)である」と同義であると私は考える。



「 不快ストレス 」は投薬で改善し、治癒することが出来るかもしれないが、病気の原因が「 不安 」であれば、いくら投薬しても、完治しないだろう。


「 不安 」は、「 死 」を知ったら誰でも持っている「 死に対して心惹かれるもの 」であり、「 死への恐れ 」であり、「 人間が無明であること 」から生じ、「 不安 」を忘れさせるのは、@のような、理論や宗教のような精神的な「 信じるもの 」を持つことだと思うからだ。


「 死に対して心惹かれ 」たり、「 死を恐れる 」のは、人間存在が「 無明 」であるからだと思う。


キリストや仏陀は、「 宇宙の心理 」を悟ることにより、「 不安 」から逃れたと思うし、私のような「 凡人 」は、「 死んだら終わり 」と考えず、「 地球はひとつの生命体で、あらゆるものに輪廻転生する 」と考えることにより、少しは「 不安 」も消えている。


何かを「 信じること 」により、「 不安 」を忘れるだろう。


「 死に場所 」を見つけることは、「 生きがい 」を見つけることでもある。


どうして、ここに生を受け、私は何をするのが使命であるかを知れば、不安は小さくなるだろう。


その意味で、テロリストに「 不安 」は無いかもしれない。


私は、「 不安 」をTの気(ki)に分類し、「 不満 」はUの情(zyou)に分類し、「 不安 」という気(ki)は、投薬などで解消せず、理論や宗教という情(zyou)で方向づけられることにより小さくなるが、人が死ぬ運命であるから消滅することは無いだろう。


2012/10/8、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


もしも、「 病気 」が「 薬物 」で治癒するならば、原因は「 不安 」ではないと思う。


「 薬物 」で治療することが出来るのは、ストレスであり、「 自分が自分の価値を把握したとき」であり、満足した状況だろう。


「 不安 」は、満足が「 無常 」であることから始まる。


自分が価値を見つけたのが、本当に自分が進む道なのかと問うたとき、否定するのが無常であり、不安が生まれるからだ。


「 薬物 」で治癒することが出来なく、「 精神的に自立すること 」で治癒するとき、原因が不安であることになる。


不安を克服するためには、思考のエネルギーであるC1とC2の力で脱出することが必要だろう。


The mind rules the body.


これは、気(ki)が原因で病気になるのではなく、病気の克服には気(ki)が必要であると解釈する。


そして、これを「 共感的反感、反感的共感 」と同義に考える。


前者の気(ki)は「 不安 」であるが、後者の気(ki)は、ミラーニューロンの「 学び 」であり、「 信じること 」あるいは「 自然に任せること 」だろう。


「 自然に任せる 」とは、無常に任せることであり、自然に共感し自然から学ぶというミラーニューロンの働きに任せて、自我を否定することだろう。


これは、「 不安症 」だけでなく、「 依存症 」の克服にも有用だと思う。


生きている限り、「 無明 」であり、「 不安 」であり、「 不安 」から逃れることはできない。


「不安 」から逃れるために、依存症になるのかもしれないが、これは全く「 逆の方向 」であると思う。


「 不安 」を「 現実逃避 」や「 保身 」のために使ってはいけない。


生きる方向が不明であるため、「 無明 」で「 不安 」なのだが、生きるためのは王道を行くしかないと思うことが、依存から逃れることであり、安易な方法を選ばず、無常を恐れず自分が生きる価値を求めていくしか方法はないと思う。


「 死 」と言っても、情(zyou)の「 死 」であり、「 死 」を体験したのではない。


「 死 」まで、自分が何をすることが出来るかを考えると、「 死に場所 」や「 生きがい 」を判断することが出来るだろう。


「 死に場所 」や「 生きがい 」を発見したならば、「 死 」まで「 依存症 」になる時間は無いと思う。


「 依存症 」は、生きていながら死んでいるのであり、「 死 」を見つめて、「 死 」への距離を測りながら生きるとすれば、「 王道を生きることが出来る 」ことこそ、感謝すべきであろう。

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2012年10月06日

2012/10/6、オカルト・病気1・共感と不安2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体





2012/9/16、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である 」とは、実際に行動しなくても行動している気持ちになることだろう。



気持ちも気(ki)であると考えるから、「 活動電位 」も気(ki)であると思う。


生気論の気(ki)と共通する。


ネットによると、この「 活動電位 」は、細胞ごとに相違するという(参照を見てください)


私は、ひとつの「 活動電位 」が、細胞ごとに相違した結果、ミラーニューロンが「 意図の理解 」や「 共感 」や「 言語 」や「 シュミレーション 」などに関係すると思うが、私は、これらは、ミラーニューロンだけではなく、他のニューロンと協同して、このような特徴になっていると思う。


私は、ミラーニューロンを気(ki)というエネルギーと情(zyou)の「 思考エネルギー 」を連結するものと考えている。


「 活動電位 」は気(ki)であり、ミラーニューロンを持つ生物は、「 エーテル 」を通して全て共通に持つが、それには「 段階 」があると思う。


「 段階 」とは、経済学でいう「 流動性選好 」のようなもので、思考エネルギーにより決まるだろう。


もし、思考エネルギー(E=M×C1×C2)の中でC1やC2が無いなら、Mの遺伝子情報だけで決まるだろう。


C1やC2が加わることにより、「 流動性選好 」が生まれ、「 無常 」である情報の中で、どれほどの確定や実在を求めるかに現れる。


ミラーニューロンは、情(zyou)の基礎であるが、「 実在 」や「 現実 」や「 絶対 」はミラーニューロンにより「 心・精神に形を与えられる 」つまり、無意識のバイオリズムや「 欲 」が「 流動性選好 」の結果として現れるから、無意識の選んだ「 活動電位 」こそ、「 実在 」を決定する「 価値観 」であると考える。


「 共感 」で終わるのか、あるいは「 共感 」を生かして「 自己の人格向上 」に向かうかは、思考エネルギー次第だと思う。


これを、情(zyou)の共通点であると、現時点では考えている。



2012/9/22、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記のように、「 共感 」をミラーニューロンの特徴と考えると、「 不安 」も、ミラーニューロンが働いた結果だろう思う。


それは、下記の参照にある、キルケゴールについての叙述からも言えると思う。


「 彼は 著作中に不安について「反感的共感であり、共感的反感である」とし、不安とは「恐れているものに心惹かれている」ことであると表現している。」


この「 共感 」が、ミラーニューロンの活動電位によって惹起されていると考えると、「 反感 」は情(zyou)であり、感情であり、「反感的共感であり、共感的反感である」とは、「 感情などの情(zyou)が作るミラーニューロンの活動電位であり、ミラーニューロンの活動電位が作る、感情などの情(zyou)である」と同義であると私は考える。


それは、活動電位という気(ki)が、「 無意識(=エネルギー) 」を媒介として、情(zyou)に伝わると考える。


ここで、私が以前書いてきた考えと合流する。


私の考えでは、「 流れるもの 」は気(ki)であり、「 派生するもの 」は情(zyou)であり、「 流れるもの 」は、エネルギーであり、「 連続 」し、「 派生するもの 」は、意識であり、「 不連続 」であるということになる。



「 無意識(=エネルギー)」を媒介するため、思考エネルギー(情)に伝わることができると思う。


この、「 連続 」する「 無意識(=エネルギー)」は「 欲 」であり、「 不連続 」の思考エネルギーが「 存在意識 」の形になり、行為に現れると思う。



「恐れているものに心惹かれている」とは、「 死に対して心惹かれている 」ことだと思う。


人間は「 無明 」であるがため、精神的な方向が無い生命の「 欲 」を持ち、「 死 」に対して常に「 不安 」であるのが「 心惹かれている 」ことだと思う。


これは、明白に不安に言及することは勿論、「 死について何も考えない」ことも「 不安 」の範囲内だと思う。


人体が構造的にミラーニューロンを持つから、死に対する「 不安 」は必然であり、自然であるが、「 精神 」という知性を持つため、無明で無常であるにもかかわらず、思考エネルギーの強弱や大小に応じて「 流動性選好 」するように、種々の段階で「 確かな存在意識 」の形を作る。


それが、道具としての理論であり、論理だと思う。


道具や理論などの「 存在意識 」により、死の不安から逃れることが出来ないが、下記の「 賽の河原の積み石 」のように、無明で無常であると知りつつも「 存在意識 」を作り続ける、あるいは「 報われざる努力 」すなわち「 徒労 」を続けることが宿命であるのが人間だろう。


2012/9/30、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 欲 」は気(ki)であり、情(zyou)のバイオリズムが、ミラーニューロンにより「 欲 」とう気(ki)が「 共感 」し、それが「 価値観 」であると現時点では思っている。


情(zyou)のバイオリズムは、「 閉じるもの 」であり人体を「 不連続 」な自我を形成するが、「 閉じるもの 」とは、「 存在意識 」であり、「 存在意識 」の間(hazama)の中の「 欲 」という気(ki)が「 共感 」するのであり、その間(hazama)の「 段階や程度 」を「 流動性選好 」という「 遺伝子情報 」で決めたのが「 価値観 」だろうと思う。


「 何を存在意識とするか」は、個人のバイオリズムという無意識で決定し、その無意識が社会的な集合的無意識と共通するから、「 存在意識 」の間(hazama)を調節することにより、「 政治や経済 」の「 価値観 」の教育や「 宗教 」という生き方の価値観の教育も可能だと思う。


どれを選択するかは、「 個人のバイオリズム 」であり、「 個人の価値観 」であり、結局は「 個人次第 」であるだろう。


選択は、「 自分の価値観 」を選択しているのであり、他人の価値観と「 共感 」する自分の価値観を選択しているのだと思う。


人は常に「 自分であり続ける 」という宿命を背負っていると思う。


2012/10/6、私の考え

これは、私だけの思いつきであり、同調を求めない。


私は、以下のように書いた。


@

人体が構造的にミラーニューロンを持つから、死に対する「 不安 」は必然であり、自然であるが、「 精神 」という知性を持つため、無明で無常であるにもかかわらず、思考エネルギーの強弱や大小に応じて「 流動性選好 」するように、種々の段階で「 確かな存在意識 」の形を作る。

A

「 何を存在意識とするか」は、個人のバイオリズムという無意識で決定し、その無意識が社会的な集合的無意識と共通するから、「 存在意識 」の間(hazama)を調節することにより、「 政治や経済 」の「 価値観 」の教育や「 宗教 」という生き方の価値観の教育も可能だと思う。


どれを選択するかは、「 個人のバイオリズム 」であり、「 個人の価値観 」であり、結局は「 個人次第 」であるだろう。


選択は、「 自分の価値観 」を選択しているのであり、他人の価値観と「 共感 」する自分の価値観を選択しているのだと思う。



これについて、少し書く。


Aについては、人間は必ず「 欲 」を持ち、記憶が加わった精神的「 欲望 」の先端で、ミラーニューロンを働かせて、自分のバイオリズムで決めた「 自分の価値 」と「 共感 」する行為を選択する。

人は常に「 自分であり続ける 」という宿命を背負っていると思う。


ここで、「 自分の価値 」と「 共感 」する行為を選択することができなかったとき、「 自己実現 」が出来なかったとき、「 (欲求)不満 」が生じるだろう。


ネットで調べると、「 不安 」が原因の病気があるが、私は、「 不安 」ではなく「 (欲求)不満 」が原因で病気になるのではないかと疑っている。




これは、全くの素人判断である。


私は、ミラーニューロンが感情という情(zyou)の基礎であり、Tの気(ki)とUの情(zyou)を結ぶエネルギーであり、無意識であると考える。


Tの気(ki)の無意識であり、Uの情(zyou)の無意識である。


目から入る大小などの空間的刺激、耳から入る強弱の時間的刺激という気(ki)は、ミラーニューロンにより、「 快ストレス 」と「 不快ストレス 」という情(zyou)に別れ、「 快ストレス 」であれば、「 自己実現 」であり、「 不快ストレス 」ならば「 (欲求)不満 」に陥り、それが「 病気 」だと思う。


 「 快ストレス 」と「 不快ストレス 」という情(zyou)は、思考エネルギーの強弱や大小に応じて「 流動性選好 」する、「 存在意識 」の間(hazama)に存在する「 欲 」という気(ki)の「 共感 」だと思う。



「 共感 」が、ミラーニューロンの活動電位によって惹起されていると考えると、「 反感 」は情(zyou)であり、感情であり、「 不快ストレス 」であり、、「反感的共感であり、共感的反感である」とは、「 不快ストレス 」という情(zyou)が作るミラーニューロンの活動電位であり、ミラーニューロンの活動電位が作る、「 不快ストレス 」という情(zyou)である」と同義であると私は考える。



「 不快ストレス 」は投薬で改善し、治癒することが出来るかもしれないが、病気の原因が「 不安 」であれば、いくら投薬しても、完治しないだろう。


「 不安 」は、「 死 」を知ったら誰でも持っている「 死に対して心惹かれるもの 」であり、「 死への恐れ 」であり、「 人間が無明であること 」から生じ、「 不安 」を忘れさせるのは、@のような、理論や宗教のような精神的な「 信じるもの 」を持つことだと思うからだ。


「 死に対して心惹かれ 」たり、「 死を恐れる 」のは、人間存在が「 無明 」であるからだと思う。


キリストや仏陀は、「 宇宙の心理 」を悟ることにより、「 不安 」から逃れたと思うし、私のような「 凡人 」は、「 死んだら終わり 」と考えず、「 地球はひとつの生命体で、あらゆるものに輪廻転生する 」と考えることにより、少しは「 不安 」も消えている。


何かを「 信じること 」により、「 不安 」を忘れるだろう。


「 死に場所 」を見つけることは、「 生きがい 」を見つけることでもある。


どうして、ここに生を受け、私は何をするのが使命であるかを知れば、不安は小さくなるだろう。


その意味で、テロリストに「 不安 」は無いかもしれない。


私は、「 不安 」をTの気(ki)に分類し、「 不満 」はUの情(zyou)に分類し、「 不安 」という気(ki)は、投薬などで解消せず、理論や宗教という情(zyou)で方向づけられることにより小さくなるが、人が死ぬ運命であるから消滅することは無いだろう。





参考


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9_(%E7%94%9F%E4%BD%93)

ストレス反応

ストレス反応とはホメオスタシス(恒常性)によって一定に保たれている生体の諸バランスが崩れた状態(ストレス状態)から回復する際に生じる反応をいう。ストレスには生体的に有益である快ストレスと不利益である不快ストレスの2種類がある。これらのストレスが適度な量だけ存在しなければ本来的に有する適応性が失われてしまうために適切なストレスが必要である。しかし過剰なストレスによってバランスが失われてしまう場合があるため、様々なストレス反応が生じる。しかしストレスがある一定の限界を超えてしまうと、そのせいで身体や心に摩耗が生じる。この摩耗の事をアロスタティック負荷と呼ぶ。

posted by kandk55 at 06:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 40 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする