2013年10月11日

2013/10/11、オカルト・エーテルと神仏32・私の神仏考11、帰結2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/10/6、私の記事


これは、フィクションです


このように、「 エーテル 」を無視した(あるいは棚上げした)相対論と、相対論を無視し「 エーテル 」を無視する量子論が宇宙を支配する理論ではないことは明瞭です。


宇宙は何一つ除外せず、「 エーテル 」が中心の連続した広がりであることは明白で、宇宙には「 エーテル 」が実有するのも事実だと思います。

相対論と量子論を統合することが出来たとしても(私はエーテルを除外する限り統合することは出来ないと思います)、ブラックホールなどの事実は解明されないと思います。

私は、「膜 」という考えに興味があります。

光が重力により曲げられるのもエネルギーが通過する「 膜 」が重力により変形していると考えるのが妥当と考えるからです。

それを拡大して、「 膜 」の相違が「 次元 」の相違だと考えます。

気(ki)と情(zyou)が、互いに排斥するのは「 膜 」の違いだと考えます。

エーテルと大気、エネルギーと質量、「 愛 」と「 愛情 」などは「 膜 」が相違するのであり、実有が実体と認識される「 次元 」が「 膜 」であると考えます。

E=MC2はEとMが実体になる「次元 」すなわち「 膜 」が、C2というエネルギーで連結していることを示し、両者を四次元で観察することは出来ないと思います。

宇宙は四次元以上の次元で構成され、我々が四次元だと思うことは、間違った考えであり、人間の恣意的な考えであるかも知れない。

とにかく、「 エーテル 」を解明しないで、相対論と量子論は統合しないというのが、私の考えです

2013/10/11、私の考え

これは、フィクションです。


私は、この「 膜 」が「 エーテル 」で、重力もすべてのエネルギーは、この「 膜 」の中を通して伝達すると考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」ことは当然で、プランクの定数やすべての物理の数値は「 エーテルを無視して計算されたもの 」であり、これらが宇宙の真理であるとは考えません。

エネルギーがエーテルの中で伝達することなど考えず、地球上で計測したのが飛び飛びの数値のプランクの定数であり、宇宙空間で計測された場合は相違するかもしれません。

空気とエーテルを分離することが出来ないのは、エーテルがエネルギーを通す「 膜 」であるかもしれません。

人体を考えても、太陽エネルギーは「 空気 」ではなく「 エーテル 」を通して人体の伝達され、人間の知覚や感受性は無意識ですが「 膜 」を通過するから「 連続 」であり、意識は無意識から生じると考えると、エーテルという「 膜 」を通して「 エネルギー 」を摂取し、外部に発散するのが「 意識 」であり、それは「 太陽光から意識が生じる 」ことだと考えます。

気(ki)であるエネルギーはエーテルという「 膜 」を通して人体に届き、同じ気(ki)である無意識がエネルギーを感受し、「 力 」として発揮するとき「 意識 」であると考えます。

人は皆、エーテルという「 膜 」の中で無意識にエネルギーを摂取し、意識的に発散させるので、人体そのものが「 神の仕業 」であることになります。

自殺する人も、ジハードする人も「 神の仕業 」であり、その行動を支配する情(zyou)が「 自殺 」させ「 ジハード 」させるのだと考えます。

情(zyou)は文化的であり、政治的であり、遺伝子情報の結果だろうと考えます。

この情(zyou)の典型が「 宗教 」だと考えます。

これまで、宗教も「 エーテル 」のことを考えていませんが、私にとって、この「 エーテル 」こそが「 信仰 」には必須のものなのです。

以前に書きましたが「 私が死んだら星になる 」と「 私はお前たちのそばにいる 」とか「 神はそばにいる 」とか「 二人同行 」ということが同時に成立するためには、「 エーテル 」が必要です。

「 エーテル 」に乗って何万里も離れた星や西方浄土からもあなたのそばでも、あなたの「 意識次第 」で存在(意識)になりますということです。

今という時間意識の中で「 永遠 」なのは「 エーテル 」であるからです。

「 無 」は人間が経験しないブラックホールの中であり、私は信じません。

いろいろ書きましたが、「 エーテル 」を除外した相対論と量子力学は統合が不可能であることと、「 エーテル 」を考えない「 宗教 」は、「 人倫の道 」を示すべきであって、「 神 」とは「 全く 」無関係というか、「 神を含んだ宗教は間違いである 」と私は、考えます。
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2013年10月06日

2013/10/6、オカルト・エーテルと神仏31・私の神仏考10・エーテル2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/9/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

これは、すべて、フィクションです。




私は物理を知らないが、相対論と量子論が、以上であるならば、両者を統合する理論の中に「 エーテル 」の概念が必要だと思います。

今まで「 無視 」してきたエーテルを考えることが、統合するのに必要でしょう。

私は、M理論の「 膜 」という考えに関心があります。

質量が大きい惑星の周囲の空間がゆがむのは、空間は「 膜 」であり、ブラックホールは、電磁波を含んだ「 膜 」全体を、大きな質量で吸い込んでいるから、空間もゆがむのだと思います。

「 膜 」はエーテルであり、エネルギーが移動すると考えます。

「 膜 」はどこに行っても人間には四次元であり、エネルギーが四次元の特徴である「 衝突 」による「 仕事量 」で表現することが出来るように思うかも知れませんが、実は四次元に交差する「 膜 」の上で「 エネルギー」が移動しているのであり、「 エネルギー 」は四次元では「 現象 」として現れたものだと思います。

交差する「 膜 」が、M理論の2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜だと思います。

四次元は「 切り口 」であり、不連続であり、四次元に交差し連続させるのが「 膜 」である「 エーテル 」と考えます。

「 エーテル 」は相対論も量子論も包摂する「 エネルギー 」の次元だと思います。

エネルギーの次元と四次元を合わせてM理論の次元になるかも知れません。

人間の認識は四次元であり、宇宙の構造からみれば、エネルギーの次元を含めてM理論の次元になるかも知れません。

四次元で「 無 」であり、実体では「 無 」であるが、「 実有 」であるのは、四次元に交差し、四次元を包摂する次元の「 膜 」の状態の空間が「 エーテル 」というエネルギーに満ちた「 実有 」であるかも知れません。

四次元の特徴である「 衝突 」でしかエネルギーを測定することが出来ないのは、「 マク 」が四次元と交差し、エネルギーが現象として現れるからであると思います。

相対論と量子論の統合が不能なのは、エーテルを考えていないことが原因であり、現代物理学はエーテルの解明をする使命があると思います。


2013/10/6、私の考え


これは、フィクションです


このように、「 エーテル 」を無視した(あるいは棚上げした)相対論と、相対論を無視し「 エーテル 」を無視する量子論が宇宙を支配する理論ではないことは明瞭です。


宇宙は何一つ除外せず、「 エーテル 」が中心の連続した広がりであることは明白で、宇宙には「 エーテル 」が実有するのも事実だと思います。

相対論と量子論を統合することが出来たとしても(私はエーテルを除外する限り統合することは出来ないと思います)、ブラックホールなどの事実は解明されないと思います。

私は、「膜 」という考えに興味があります。

光が重力により曲げられるのもエネルギーが通過する「 膜 」が重力により変形していると考えるのが妥当と考えるからです。

それを拡大して、「 膜 」の相違が「 次元 」の相違だと考えます。

気(ki)と情(zyou)が、互いに排斥するのは「 膜 」の違いだと考えます。

エーテルと大気、エネルギーと質量、「 愛 」と「 愛情 」などは「 膜 」が相違するのであり、実有が実体と認識される「 次元 」が「 膜 」であると考えます。

E=MC2はEとMが実体になる「次元 」すなわち「 膜 」が、C2というエネルギーで連結していることを示し、両者を四次元で観察することは出来ないと思います。

宇宙は四次元以上の次元で構成され、我々が四次元だと思うことは、間違った考えであり、人間の恣意的な考えであるかも知れない。

とにかく、「 エーテル 」を解明しないで、相対論と量子論は統合しないというのが、私の考えです。
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2013年09月28日

2013/9/28、エーテルと神仏30・私の神仏考9・エーテル

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/6/22、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルを否定することが、科学の進歩であれば、成功だったと同時に、失敗であったと思います。

一般相対性理論と特殊相対性理論があるが、前者はエーテルや涅槃の領域であり、後者は「 神の愛 」の領域であると思います。

「 神の愛 」である地球上では、一般相対性理論と特殊相対性理論が重なり、特殊相対性理論で物理が説明されるというが、それは「 エーテルと大気(空気)が一体となり分離できなく、大気だけを考え、エーテルを考えなくても物理は説明することができる 」ということだと思います。

しかし、重力がエーテルの中で伝わると考えると、エーテルの中で物理が成立していることを忘れてはならないと思います。

それは、「 神仏の身体 」の中に「 神の愛 」であることで、後者だけを考え前者を無視することは正しい理論ではないと思います。

一般性総体理論やエーテルや「 神仏の身体 」が「 涅槃 」で「 必然 」あり、特殊相対性理論や空気や「 神の愛 」は本来は「 偶然 」や現象であり、「 必然性 」であると思います。

「 必然 」と「 必然性 」は、前者が「 人間を必要とせずに因果が成立 」し、エーテルが必要であり、連続する「 実有 」であるのに対し、後者は「 人間の頭脳の中で成立する因果 」で、エーテルは必要でなく、不連続な「 実体 」であると思います。


もし、エネルギーがエーテルの中で伝達されるならば、特殊相対性理論でエネルギーを説明することは出来ないと思います。

私は、量子力学の不確実性理論は、エーテルを考慮していないのが原因であり、「 神様はサイコロをふらない 」ことを認めないことも同様で、量子理論は特殊な理論であると思います。

とても、宇宙を解明することは出来ない理論が量子理論であると思います。


2013/9/28、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

これは、すべて、フィクションです。




私は物理を知らないが、相対論と量子論が、以上であるならば、両者を統合する理論の中に「 エーテル 」の概念が必要だと思います。

今まで「 無視 」してきたエーテルを考えることが、統合するのに必要でしょう。

私は、M理論の「 膜 」という考えに関心があります。

質量が大きい惑星の周囲の空間がゆがむのは、空間は「 膜 」であり、ブラックホールは、電磁波を含んだ「 膜 」全体を、大きな質量で吸い込んでいるから、空間もゆがむのだと思います。

「 膜 」はエーテルであり、エネルギーが移動すると考えます。

「 膜 」はどこに行っても人間には四次元であり、エネルギーが四次元の特徴である「 衝突 」による「 仕事量 」で表現することが出来るように思うかも知れませんが、実は四次元に交差する「 膜 」の上で「 エネルギー」が移動しているのであり、「 エネルギー 」は四次元では「 現象 」として現れたものだと思います。

交差する「 膜 」が、M理論の2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜だと思います。

四次元は「 切り口 」であり、不連続であり、四次元に交差し連続させるのが「 膜 」である「 エーテル 」と考えます。

「 エーテル 」は相対論も量子論も包摂する「 エネルギー 」の次元だと思います。

エネルギーの次元と四次元を合わせてM理論の次元になるかも知れません。

人間の認識は四次元であり、宇宙の構造からみれば、エネルギーの次元を含めてM理論の次元になるかも知れません。

四次元で「 無 」であり、実体では「 無 」であるが、「 実有 」であるのは、四次元に交差し、四次元を包摂する次元の「 膜 」の状態の空間が「 エーテル 」というエネルギーに満ちた「 実有 」であるかも知れません。

四次元の特徴である「 衝突 」でしかエネルギーを測定することが出来ないのは、「 マク 」が四次元と交差し、エネルギーが現象として現れるからであると思います。

相対論と量子論の統合が不能なのは、エーテルを考えていないことが原因であり、現代物理学はエーテルの解明をする使命があると思います。


M理論
http://ja.wikipedia.org/wiki/M%E7%90%86%E8%AB%96

M理論(えむりろん)とは、現在知られている5つの超弦理論を統合するとされる、11次元 (空間次元が10個、時間次元が1個)の仮説理論である。尚、この理論には弦は存在せ ず、2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜が構成要素であると考えられている。

エーテル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB_(%E7%89%A9%E7%90%86)

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2013年09月24日

2013/9/24、エーテルと神仏29、私の神仏考8、帰結1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。



2013/9/1、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。


2013/9/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで述べたように、エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であるならば、神は情(zyou)である宗教の対象にならないというのが、私の考えです。

古代の日本の八百万の神のように、エネルギーを持つ全てが神でありますから、前述した「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波も「 神 」であり、それらは人間に不幸をもたらしますが、神は気(ki)であり、元来、全ての生物を育てるエネルギーですが、人間の幸福や不幸を無視するものであると考えます。

この「 神 」を情(zyou)である宗教が対象とするならば、日本の古代のように、すべてに神が宿るという「 八百万の神 」が正当で、「 神 」は恐れ奉る対象であると考えます。

元来、気(ki)である「 神 」を情(zyou)である宗教で実体化するのは不可能だと思います。

宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと考えます。

「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波を本尊とする宗教は無く、宗教の目的は、「 即身成仏 」や生き仏(a living Buddha)や有徳の人(a saint-like person)になることで、エネルギーの取得ではないと思います。

エネルギーの取得が「 神 」を身に着けることであれば、日本古代の山岳信仰や現在の「 パワースポット巡り 」などが適当で、これは宗教ではないと思います。

エネルギーの取得は「 奇跡 」を起こすことでしょうが、これは私の考えでは「 宗教 」ではありません。

常時、奇跡を起こすのが神であり、その神は「 太陽神 」という「 人間に都合のよい神 」だけでなく、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波という「 非情な神 」でもあるからです。

「 神 」は恐れ敬うものであり、「 宗教 」は人格を高めるものだと思います。


2013/9/17、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、「 神 」は気(ki)であり、情(zyou)である宗教の及ぶ範囲外にあると考えますと、次のように考えます。

「 能力 」は内在のエネルギーであり神や気(ki)に属し、「 超能力 」を得ることを宗教に求めることは間違っていると思います。

先に述べたように、宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと思います。

「 神 」の気(ki)に敵対する情(zyou)は「 科学 」だと思います。

この場合に、科学が神に合致すれば、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波などの「 非情な神 」を制圧することが出来、合致しなければ、科学は「 無能 」(つまりエネルギーが無い)であるという評価を得ると思います。

私は、福島原発事故は「 神にたいする科学の無能 」であり、科学では処理不能な神(エネルギー)であり、無能な科学は関わるべこでないと思うから、「 原発ゼロ 」を支持するのです。

「 神 」に敵対するのは「 科学 」であり、「 宗教 」ではないと思います。

天動説など、「 神 」を宗教の範囲内にするから、「 宗教 」は「 科学 」と敵対すると評価され、宗教による科学の弾圧になると思います。

2013/8/4 私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、仏教を信じていますが、信者ではないと思います。

これは、私の考えであり、仏教の教えではありません。


仏教では、法身(hostusin)と報身(housin)と応身(ouzin)を三身と言います。これは参考を見てください。

三身は、仏の身体であり、神仏については不明です。

私は、法身(hostusin)をエーテルと考え、報身(housin)を大気や人類が考えるすべての知識と考え、応身(ouzin)を、遺伝子情報と考えます。

三身即一というのは当然であり、法身(hostusin)であるエーテルは報身(housin)である大気と応身(ouzin)である人体の遺伝子情報を包摂し、前者の涅槃と必然は、後者の「 神の愛 」であり、「無明 」である、煩悩や欲望の中で、「 必然的 」関係として現れると考えます。

「 必然的 」な関係として現れるとは、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有する力が「 偶然で自由 」な意識、すなわち報身(housin)と人体、すなわち応身(ouzin)の中で衝突することにより、物体内部に蓄えられた、仕事をする「 必然的 」な能力であると認められることだと考えます。

この物体内部に蓄えられた、仕事をする能力がエーテルの中で伝わる「 神仏 」と考え、法身(hostusin)であるエーテルと、報身(housin)である大気や人類が考えるすべての知識と、応身(ouzin)である遺伝子情報を境目なく伝わると考えます。

報身(housin)と応身(ouzin)が「 神の愛 」であるなら、神の「 愛 」は物体内部に蓄えられた、仕事をする能力であり、神仏であり、宇宙と人体を連続させるエーテルの中で伝わると考えます。


2013/9/24、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように、神仏を考えた結果、エーテルの中のエネルギーという気(ki)が「 神 」であり、それを具現化する情(zyou)が「 科学 」であり、「 宗教 」は人が生きる「 掟 」だと考えると、次のような帰結になると思います。

以前書きましたように、エネルギーである「 神 」には、人間を生存させるエネルギーと人間を破滅させる「 非情な 」エネルギーがあり、その両方に「 科学 」が具現化すると考えます。

「 科学 」は人間に役立つ場合と、人間を破滅させる場合があり、遺伝子情報を組み換えたり、クローンを作る「 ES細胞 」や原爆や原子力発電など、「 科学 」は「 非情な神 」の領域まで進行することが出来ます。

私たちは「 倫理規定 」という情(zyou)、人の進むべき道(人倫)で、「 科学 」という情(zyou)を規制しなければ、台風やハリケーンや地震や津波の前で無能力な「 科学 」と同じ意味で、「 神 」の前で無力な人間になってしまうと思います。

「 科学 」を人倫で規制するという点で、「 宗教 」は「 科学 」に対立しますが、これは「 宗教 」が「 神 」と関係するのではないと考えます。

「 宗教 」は無明から涅槃へ導く情(zyou)であり、その実体は個人の遺伝子情報を含んだ無意識の人格や心で決定するのであり、宗教は一般の知識であるが、「 実体化 」するのは個人の「 能力 」(エネルギー、あるいは神)つまり、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」の力であり、従って個人的であり意識がすべての人類で相違するように、「 能力 」はすべて相違し、神の「 存在意識 」もすべて相違し、マネーを支払ったり、一定の行事を行うことが「 免罪符 」にはならないと考えます。

次は、「 神の身体 」であるエーテルをどのように考えるかについては、後日書くことにします。

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2013年09月17日

2013/9/17,オカルト・エーテルと神仏28・私の神仏考7・神と宗教2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。



2013/9/1、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。


2013/9/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで述べたように、エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であるならば、神は情(zyou)である宗教の対象にならないというのが、私の考えです。

古代の日本の八百万の神のように、エネルギーを持つ全てが神でありますから、前述した「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波も「 神 」であり、それらは人間に不幸をもたらしますが、神は気(ki)であり、元来、全ての生物を育てるエネルギーですが、人間の幸福や不幸を無視するものであると考えます。

この「 神 」を情(zyou)である宗教が対象とするならば、日本の古代のように、すべてに神が宿るという「 八百万の神 」が正当で、「 神 」は恐れ奉る対象であると考えます。

元来、気(ki)である「 神 」を情(zyou)である宗教で実体化するのは不可能だと思います。

宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと考えます。

「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波を本尊とする宗教は無く、宗教の目的は、「 即身成仏 」や生き仏(a living Buddha)や有徳の人(a saint-like person)になることで、エネルギーの取得ではないと思います。

エネルギーの取得が「 神 」を身に着けることであれば、日本古代の山岳信仰や現在の「 パワースポット巡り 」などが適当で、これは宗教ではないと思います。

エネルギーの取得は「 奇跡 」を起こすことでしょうが、これは私の考えでは「 宗教 」ではありません。

常時、奇跡を起こすのが神であり、その神は「 太陽神 」という「 人間に都合のよい神 」だけでなく、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波という「 非情な神 」でもあるからです。

「 神 」は恐れ敬うものであり、「 宗教 」は人格を高めるものだと思います。


2013/9/17、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、「 神 」は気(ki)であり、情(zyou)である宗教の及ぶ範囲外にあると考えますと、次のように考えます。

「 能力 」は内在のエネルギーであり神や気(ki)に属し、「 超能力 」を得ることを宗教に求めることは間違っていると思います。

先に述べたように、宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと思います。

「 神 」の気(ki)に敵対する情(zyou)は「 科学 」だと思います。

この場合に、科学が神に合致すれば、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波などの「 非情な神 」を制圧することが出来、合致しなければ、科学は「 無能 」(つまりエネルギーが無い)であるという評価を得ると思います。

私は、福島原発事故は「 神にたいする科学の無能 」であり、科学では処理不能な神(エネルギー)であり、無能な科学は関わるべこでないと思うから、「 原発ゼロ 」を支持するのです。

「 神 」に敵対するのは「 科学 」であり、「 宗教 」ではないと思います。

天動説など、「 神 」を宗教の範囲内にするから、「 宗教 」は「 科学 」と敵対すると評価され、宗教による科学の弾圧になると思います。

福島原発事故を宗教で「 心 」を変えることで許してはいけないと思います。

原発は絶対に安全で、事故には水をかければ解決するなど、科学者は国民を愚弄したのであり、これからの私は、「 科学により心から安心する 」のではなく、原子力発電は原爆と同じであるという考えで、今までの物理学者が「 原爆反対 」を主張したように、原子力発電にも「 原発ゼロ 」を主張することが「 神 」に従うことになると考えます。

エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であり、神は情(zyou)である宗教の対象にならなく、心や無意識や人格向上を宗教が目指すのなら、進んで科学を受け入れ、心や無意識や人格や無明や煩悩の解明に科学を道具に使えばよいと思います。
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2013年09月08日

2013/9/8、オカルト・エーテルと神仏27・私の神仏考6・神と宗教

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。

死ぬときに、神が迎えにきて頂くと言うのは、「 涅槃 」に行くこと、エーテルになる事で、宗教の違いで、仏が迎えに来て頂くというのかも知れません。

神は気(ki)であり、生きている間は「 神が存在し 」死後は「 非情な神 」、エーテルを満たすエネルギーになると考えます。

自殺する人も、死ぬまで「 神 」が付き添っているのです。

「 神など存在しないから死ぬ 」というのは間違いで、自殺しようと思うときも、自殺を実行するときも「 神が付き添って頂いている 」のです。

神をエネルギーと考えると、生きている限り、神は存在するのですから、無神論は、言葉の遊戯だと思います。

神は「 イメージがない 」から、情(zyou)や宗教で考えた「 イメージがある 」仏(hotoke)に、死ぬときに迎えに来て頂くという発想になると考えます。


2013/9/1、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。


2013/9/8、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで述べたように、エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であるならば、神は情(zyou)である宗教の対象にならないというのが、私の考えです。

古代の日本の八百万の神のように、エネルギーを持つ全てが神でありますから、前述した「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波も「 神 」であり、それらは人間に不幸をもたらしますが、神は気(ki)であり、元来、全ての生物を育てるエネルギーですが、人間の幸福や不幸を無視するものであると考えます。

この「 神 」を情(zyou)である宗教が対象とするならば、日本の古代のように、すべてに神が宿るという「 八百万の神 」が正当で、「 神 」は恐れ奉る対象であると考えます。

元来、気(ki)である「 神 」を情(zyou)である宗教で実体化するのは不可能だと思います。

宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと考えます。

「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波を本尊とする宗教は無く、宗教の目的は、「 即身成仏 」や生き仏(a living Buddha)や有徳の人(a saint-like person)になることで、エネルギーの取得ではないと思います。

エネルギーの取得が「 神 」を身に着けることであれば、日本古代の山岳信仰や現在の「 パワースポット巡り 」などが適当で、これは宗教ではないと思います。

エネルギーの取得は「 奇跡 」を起こすことでしょうが、これは私の考えでは「 宗教 」ではありません。

常時、奇跡を起こすのが神であり、その神は「 太陽神 」という「 人間に都合のよい神 」だけでなく、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波という「 非情な神 」でもあるからです。

「 神 」は恐れ敬うものであり、「 宗教 」は人格を高めるものだと思います。

人間がエネルギーを持つから「 神 」は宿っているのであり、自殺者や殺人犯にも神は宿っているのであり、その人が、人の道(倫理)から外れた思想、ないしは宗教を持っているため、自殺や殺人の罪を犯すのであり、人間の行動は「 神 」ではなく、「 宗教 」、つまり「 生き方 」に左右されると考えます。

「 神 」は誕生と同時にすでに宿っているのであり、私が可能なのは、自分の中の「 神 」をどのように行動に発揮させるかですが、これは自分の内部世界で文化的、思想的な感情や情報などの情(zyou)の持ち方に左右されると考えます。
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2013年09月01日

2013/9/1、オカルト・エーテルと神仏26・私の神仏考5・神と仏2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。

死ぬときに、神が迎えにきて頂くと言うのは、「 涅槃 」に行くこと、エーテルになる事で、宗教の違いで、仏が迎えに来て頂くというのかも知れません。

神は気(ki)であり、生きている間は「 神が存在し 」死後は「 非情な神 」、エーテルを満たすエネルギーになると考えます。

自殺する人も、死ぬまで「 神 」が付き添っているのです。

「 神など存在しないから死ぬ 」というのは間違いで、自殺しようと思うときも、自殺を実行するときも「 神が付き添って頂いている 」のです。

神をエネルギーと考えると、生きている限り、神は存在するのですから、無神論は、言葉の遊戯だと思います。

神は「 イメージがない 」から、情(zyou)や宗教で考えた「 イメージがある 」仏(hotoke)に、死ぬときに迎えに来て頂くという発想になると考えます。


2013/9/1、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。

「 思想 」などの観念は頭脳で「 神 」ですから、実体はなく、「 機能 」であり、「 心 」や「 無意識 」は仏(hotoke)であり、実体を決めると思います。

認識について考えると、情(zyou)を運ぶものは「 神 」であり、伝達されるのは情(zyou)のエネルギーで、実体である「 心や無意識 」という仏(hotoke)だと考えています。

前者が「 魂 」であり、後者は「 霊 」であり、人間は霊長類であるから、ミラーニューロンにより、情(zyou)のエネルギーが実体化した「 言葉 」や絵画により、認識すると思います。

認識の機能は「 神 」の働きであり、認識する内容は「 仏(hotoke)」であると考えます。

論理的に考えるのが「 神 」の働きであり、情報を自分で実感するのが「 仏(hotoke)」の働きであり、両者はエネルギーであるので、「 人ではなく 」人間という物体に蓄えられた力であると考えます。

人間は神仏の働きにより、生きることを可能にしていると考えます。

「 生気 」という気(ki)により宇宙と連結し、情(zyou)により、人体内部のDNAなどの遺伝子情報に連結し、前者は宇宙の時間であり、後者は「 主観的時間 」になり、政治や経済上、両者を結ぶのが「 客観的時間 」や「 世界時間 」であると思います。

日本では、神をまつる神社と仏教の寺院がありますが、前者は機能であり、後者は実体であると考えると、矛盾はないと思います。

「 運 」を祈るのが神社であり、先祖供養して仏教により人格を高めるのが寺院であり、両者は願う目的が相違すると考えます。
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2013年08月25日

2013/8/25、エーテルと神仏25・私の神仏考4・神と仏

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

2013/8/11、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、エーテルを神仏の身体とし、神仏は宇宙のエネルギーであり、両者を気(ki)と分類し、死後に行く涅槃であると考える。

生命維持に必要な「 神の愛 」である地球の周りの大気は、エーテルと分離することが出来なく、涅槃であるエーテルを感じることも出来るが、その多くは、煩悩であり欲であると考える。

神仏である生きるエネルギーは煩悩ではなく、生命維持器官である小脳の運動可能性と結合して「 欲 」となり、遺伝子情報などの情(zyou)と結合することにより「 欲望 」や煩悩になると考える。

神仏である生きるエネルギーは気(ki)であり、「 魂 」であり、形がないものであるが実有であり、神仏である生きるエネルギーが情(zyou)と結合して、形を作ったとき「 霊 」であると考える。

食物や空気が体内でエネルギーに変換されるが、食物や空気という実体は「 霊 」であり、体内で変換するエネルギーが神仏であり、エーテルの中で動く「 魂 」であると考える。

これは人工知能についても言えるが、コンピューターは作れても、神仏である魂が宿ることはなく、無明や無常や不安を思考する人工知能を作ることは不可能で、「 道具 」の領域から出ない。

「 霊 」は情(zyou)であるから、ミラーニューロンで「 同情 」し伝承することは可能であり、情(zyou)であるから、時代や時を超えて続くように思われるが、私は「 世代で受け継がれるもの 」であり、エーテルの「 連続 」や「 実有 」や「 永遠 」とは違い、思想的、大脳的な精神であると思う。

「 祖先の霊 」などと言うように、世代で受け継がれる遺伝子情報であり、エーテルの連続ではなく、意識による存在意識を必要とすると考える。

「 霊 」は情(zyou)で個別的であるから、日本古来の、八百万の神は「 霊 」ではなく、従って個人に個別的な神ではなく、内包するエネルギーや「 魂 」を信仰したものと考える。

「 霊 」は情(zyou)であり、感情移入して魂(エネルギー)に変換することが出来るから、霊媒師などという人が現れるのだと思う。

「 霊 」は情(zyou)であるため、霊界というのは、人間的、社会的、宗教的、な人造の世界であり、信じることは自由だが、私は、死後はエーテルと大気の中のエネルギーになると考えるから、霊界へ行くことは要望しない。


2013/8/25、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。

死ぬときに、神が迎えにきて頂くと言うのは、「 涅槃 」に行くこと、エーテルになる事で、宗教の違いで、仏が迎えに来て頂くというのかも知れません。

神は気(ki)であり、生きている間は「 神が存在し 」死後は「 非情な神 」、エーテルを満たすエネルギーになると考えます。

自殺する人も、死ぬまで「 神 」が付き添っているのです。

「 神など存在しないから死ぬ 」というのは間違いで、自殺しようと思うときも、自殺を実行するときも「 神が付き添って頂いている 」のです。

神をエネルギーと考えると、生きている限り、神は存在するのですから、無神論は、言葉の遊戯だと思います。

神は「 イメージがない 」から、情(zyou)や宗教で考えた「 イメージがある 」仏(hotoke)に、死ぬときに迎えに来て頂くという発想になると考えます。
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2013年08月11日

2013/8/11、オカルト・エーテルと神仏24・私の神仏考3・霊魂

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

人間はエーテルの中で生存し、意識や認識するエネルギー自体も、人間の中のエーテルの中のエネルギーですから神仏ですし、食物や空気の内部に蓄えられた、仕事をする能力というエネルギーの神仏と同化すると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、どんな個人内の遺伝子情報と結びつくかにより、どのような煩悩や欲などの情(zyou)になるかが決まると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は神仏であり、エネルギーが煩悩や情(zyou)ではないと思います。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は気(ki)であり、宇宙の産物としての人間の知覚が持つ情(zyou)の認識する能力でとらえたことにより、実体となり、煩悩となり、煩悩は個人の遺伝子により相違すると考えます。

私の行為の動機となる気(ki)や情(zyou)のエネルギーが神仏であるとすれば、自分の身体は神仏により生かされていて、自分が所有するのではない結果になり、「 今 」という一瞬の時間の中の「 永遠 」であるエーテルの中で自分の行為する時点が神仏を感じることができる契機になると考えます。

現時点では、仏教の他力本願を、これと同義に考えています。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、人間の中に現れた神仏であり、人類以外の生物が持つエネルギーも神仏であり、生物が生きることを可能とする地球の周囲の大気も気(ki)であり、宇宙空間を走るプラズマ宇宙論の電気が神仏であるかも知れないと思います。


2013/8/11、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、エーテルを神仏の身体とし、神仏は宇宙のエネルギーであり、両者を気(ki)と分類し、死後に行く涅槃であると考える。

生命維持に必要な「 神の愛 」である地球の周りの大気は、エーテルと分離することが出来なく、涅槃であるエーテルを感じることも出来るが、その多くは、煩悩であり欲であると考える。

神仏である生きるエネルギーは煩悩ではなく、生命維持器官である小脳の運動可能性と結合して「 欲 」となり、遺伝子情報などの情(zyou)と結合することにより「 欲望 」や煩悩になると考える。

神仏である生きるエネルギーは気(ki)であり、「 魂 」であり、形がないものであるが実有であり、神仏である生きるエネルギーが情(zyou)と結合して、形を作ったとき「 霊 」であると考える。

食物や空気が体内でエネルギーに変換されるが、食物や空気という実体は「 霊 」であり、体内で変換するエネルギーが神仏であり、エーテルの中で動く「 魂 」であると考える。

これは人工知能についても言えるが、コンピューターは作れても、神仏である魂が宿ることはなく、無明や無常や不安を思考する人工知能を作ることは不可能で、「 道具 」の領域から出ない。

「 霊 」は情(zyou)であるから、ミラーニューロンで「 同情 」し伝承することは可能であり、情(zyou)であるから、時代や時を超えて続くように思われるが、私は「 世代で受け継がれるもの 」であり、エーテルの「 連続 」や「 実有 」や「 永遠 」とは違い、思想的、大脳的な精神であると思う。

「 祖先の霊 」などと言うように、世代で受け継がれる遺伝子情報であり、エーテルの連続ではなく、意識による存在意識を必要とすると考える。

「 霊 」は情(zyou)で個別的であるから、日本古来の、八百万の神は「 霊 」ではなく、従って個人に個別的な神ではなく、内包するエネルギーや「 魂 」を信仰したものと考える。

「 霊 」は情(zyou)であり、感情移入して魂(エネルギー)に変換することが出来るから、霊媒師などという人が現れるのだと思う。

「 霊 」は情(zyou)であるため、霊界というのは、人間的、社会的、宗教的、な人造の世界であり、信じることは自由だが、私は、死後はエーテルと大気の中のエネルギーになると考えるから、霊界へ行くことは要望しない。



霊界(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%95%8C

霊界(れいかい、spirit world)とは、
死後に霊ないしそれに類するものが行き着くとされる世界[1]。死後の世界。
精神の世界[2]。非物質世界。

霊界という言葉が意味する内容は個々人や信仰(宗教的立場)によって異なる。

一般に霊界といった場合は前者の意味で用いられることが多く、あの世や後世や死後世などの表現でも呼ばれている。伝統的な宗教の中には、死者が存命中にこの世で行った善悪の行いや信仰心などに応じて、行き先が天国と地獄に分かれるとするものもある。また近年では、霊界は階層状の世界であり、魂の状態に応じてふさわしい層に行くとも言われるようになった。

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2013年08月04日

2013/8/4、オカルト・エーテルと神仏23・私の神仏考2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/20、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。


2013/7/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

人間はエーテルの中で生存し、意識や認識するエネルギー自体も、人間の中のエーテルの中のエネルギーですから神仏ですし、食物や空気の内部に蓄えられた、仕事をする能力というエネルギーの神仏と同化すると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、どんな個人内の遺伝子情報と結びつくかにより、どのような煩悩や欲などの情(zyou)になるかが決まると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は神仏であり、エネルギーが煩悩や情(zyou)ではないと思います。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は気(ki)であり、宇宙の産物としての人間の知覚が持つ情(zyou)の認識する能力でとらえたことにより、実体となり、煩悩となり、煩悩は個人の遺伝子により相違すると考えます。

私の行為の動機となる気(ki)や情(zyou)のエネルギーが神仏であるとすれば、自分の身体は神仏により生かされていて、自分が所有するのではない結果になり、「 今 」という一瞬の時間の中の「 永遠 」であるエーテルの中で自分の行為する時点が神仏を感じることができる契機になると考えます。

現時点では、仏教の他力本願を、これと同義に考えています。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、人間の中に現れた神仏であり、人類以外の生物が持つエネルギーも神仏であり、生物が生きることを可能とする地球の周囲の大気も気(ki)であり、宇宙空間を走るプラズマ宇宙論の電気が神仏であるかも知れないと思います。


2013/8/4 私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、仏教を信じていますが、信者ではないと思います。

これは、私の考えであり、仏教の教えではありません。


仏教では、法身(hostusin)と報身(housin)と応身(ouzin)を三身と言います。これは参考を見てください。

三身は、仏の身体であり、神仏については不明です。

私は、法身(hostusin)をエーテルと考え、報身(housin)を大気や人類が考えるすべての知識と考え、応身(ouzin)を、遺伝子情報と考えます。

三身即一というのは当然であり、法身(hostusin)であるエーテルは報身(housin)である大気と応身(ouzin)である人体の遺伝子情報を包摂し、前者の涅槃と必然は、後者の「 神の愛 」であり、「無明 」である、煩悩や欲望の中で、「 必然的 」関係として現れると考えます。

「 必然的 」な関係として現れるとは、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有する力が「 偶然で自由 」な意識、すなわち報身(housin)と人体、すなわち応身(ouzin)の中で衝突することにより、物体内部に蓄えられた、仕事をする「 必然的 」な能力であると認められることだと考えます。

この物体内部に蓄えられた、仕事をする能力がエーテルの中で伝わる「 神仏 」と考え、法身(hostusin)であるエーテルと、報身(housin)である大気や人類が考えるすべての知識と、応身(ouzin)である遺伝子情報を境目なく伝わると考えます。

報身(housin)と応身(ouzin)が「 神の愛 」であるなら、神の「 愛 」は物体内部に蓄えられた、仕事をする能力であり、神仏であり、宇宙と人体を連続させるエーテルの中で伝わると考えます。


人体のすべてのエネルギーが神仏であり、自分のすべてが「 神の愛 」であり、自分が所有するのではないと自覚することが、エネルギー(神仏)を獲得することであり、それが、命ある者の「 涅槃 」だと思います。

私は「 慈愛 」という意味を理解していませんが、「 慈愛 」とは、天上から降り注がれる「 愛 」ではなくて、自分の中のエネルギー(神仏)を感じて感謝することであり、神から与えられるのではなく、自分のエネルギーがすべて神仏のエネルギーであることを自覚し感謝することが「 慈愛 」を感じることだと、現時点では、思っています。

エネルギーの形が変わることはエネルギーの存在意識が変わることであり、存在意識である「 実体 」は「 無常 」ですが、エネルギー(神仏)は、エーテルの中で「 恒常 」であり、「 実有 」であると思います。

エネルギー(神仏)は、エーテルの中で「 保存 」されることは、意識の中で現れる、物理の「 エネルギー保存の法則 」が例証していると考えます。

エネルギーが神仏であると考えると、古来、自然のものすべてに神が宿っているという日本の八百万の神の考えも、私は、受け入れます。



参考

三身

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB

三身(さんじん、または さんしん、梵:trikaya)は、大乗仏教における、仏の3種類の身のあり方(法身・報身・応身)で、仏身観の一種である。

神道(Wikipedia)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E_(%E7%A5%9E%E9%81%93)


八百万の神

自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、欧米の辞書にはShintoとして紹介されている。日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。八百万とは無限に近い神がいることを表しており、数ある多神教の中でも、数が多い考え方であると言える。 またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。

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2013年07月28日

2013/7/28、オカルト・エーテルと神仏22・私の神仏考

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/20、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。


2013/7/28、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

人間はエーテルの中で生存し、意識や認識するエネルギー自体も、人間の中のエーテルの中のエネルギーですから神仏ですし、食物や空気の内部に蓄えられた、仕事をする能力というエネルギーの神仏と同化すると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、どんな個人内の遺伝子情報と結びつくかにより、どのような煩悩や欲などの情(zyou)になるかが決まると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は神仏であり、エネルギーが煩悩や情(zyou)ではないと思います。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は気(ki)であり、宇宙の産物としての人間の知覚が持つ情(zyou)の認識する能力でとらえたことにより、実体となり、煩悩となり、煩悩は個人の遺伝子により相違すると考えます。

私の行為の動機となる気(ki)や情(zyou)のエネルギーが神仏であるとすれば、自分の身体は神仏により生かされていて、自分が所有するのではない結果になり、「 今 」という一瞬の時間の中の「 永遠 」であるエーテルの中で自分の行為する時点が神仏を感じることができる契機になると考えます。

現時点では、仏教の他力本願を、これと同義に考えています。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、人間の中に現れた神仏であり、人類以外の生物が持つエネルギーも神仏であり、生物が生きることを可能とする地球の周囲の大気も気(ki)であり、宇宙空間を走るプラズマ宇宙論の電気が神仏であるかも知れないと思います。

エーテルと大気(空気)と人体という物質の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が神仏であると思います。

世間一般の情(zyou)による神仏、宗教による神仏に満足することが出来ないのが悩みです。
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2013年07月21日

2013/7/21、オカルト・エーテルと神仏21・情(zyou)6・宗教2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/7/20、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。

大気汚染や地球温暖化を推進するのも後退するのも「 人間の意識 」であるから神仏を存在させるのか消滅させるのかは、人間の意識次第だと思います。

大気汚染や地球温暖化は、神仏が人間に対して「 意識を変えなさい 」という警告かもしれません。

「 信仰 」についても、「 神と共に在る 」とか「 二人同行 」などという事は、個人の意識次第であり、修行すれば得ることが出来るとか金銭で神を買うことが出来るなど、あるいはある場所に巡礼すれば得ることが出来るようなものでは「 ない 」と思います。

「 無余涅槃 」が宇宙を満たすエーテルで、涅槃であり、死後の行き場であり、「 有余涅槃 」は空気と混合したエーテルであり、生の中の死を考えることであり、死を見つめながら人格を磨くことだと思います。

その前者が宗教であれば、死後の行き場を説明すべきであり、後者であれば、「 いかに生きるべきか 」あるいは、「 いかに死すべきか 」を宗教は教えるべきだろうと思います。

死の前に、意識はどうあるべきかを考えるのが宗教であり、迷いが無くなるように説くのが宗教であり、それは仏教もキリスト教も説いているかもしれませんが、それが、「 個人の意識次第であり 」、現世を神の世界にすることが宗教の役割ではないと思います。

「 信じる者は救われる 」と言いますが、神仏を意識する生活こそ、宗教が求める世界であり、国を統治したり、人を支配する社会を目指すことではないと思います。

神仏(エネルギー)の前にいかに多くの金銭を寄贈しても、地獄へ行く人は地獄に行くのだと思います。

金銭で、地獄や極楽行きの切符は買えない。

それは、心の中、つまり意識の中に在るからだと思います。

極悪人も極楽に行けるというのは、極悪人がすべて極楽に行くのではなく、彼の意識が神仏に従うと変わった結果、極楽に行くのだと思います。

愛情の愛と情(zyou)を分離して、情(zyou)は金銭で買うことが出来るかも知れないが、愛は「 心の中 」であり、金銭では買えないと思います。

これは、日本と隣国の事情を考えると「 憎しみ 」という情(zyou)にも「 愛 」と同様に言えるから、「 愛憎 」というのだと思います。

「 愛情 」も「 憎しみ 」も、因果関係を知った功利的な損得の感情は金銭で解決することが出来るかも知れませんが、「 愛 」や「 憎しみ 」は、自分の意識の変革がないと解消しないと思います。

愛憎は「 目には目を、歯には歯を 」の感情であると思います。

金銭の贈呈により、愛情の証とするかも知れませんが、その結果としての婚姻に「 愛 」が在るとは限らないと思います。

離婚も愛情は慰謝料として妥協しますが、金銭の授受が有っても「 愛 」は復活しない。

「 愛 」には「 愛 」が、「 愛情 」には「 愛情 」がつり合い、両者は混合しないと思います。

話は戻りますが、「 解脱 」や「 涅槃 」を説く僧侶は涅槃である死と向き合わなくては、涅槃を説くことは出来ないと思います。

僧侶が「 死と向き合って生活する 」とは、生活するすべての時間に「 死 」を考えることではないと思います。

宗教の修行で「 死ぬほどの苦行をすること 」が死である涅槃に近づくことかも知れませんが、僧侶が、人の善意で生き、人から受け取ったものを明日のために蓄えるのではなく、その日のうちに消化し、また翌日は人の善意で生活するのが「 死と向き合った生活 」であると思います。

損得という功利を避け、金儲けにならず、人の善意で生きるのが僧侶だと思います。

それが死と向き合った生活であり、その生活を基礎としているから「 いかに生きるか 」を説くことが出来ると思います。

「 死ぬほどの苦行 」をした人でも、金銭のことばかり考える人は、僧侶に適格ではないと思います。


2013/7/21、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 無余涅槃 」が宇宙を満たすエーテルで、涅槃であり、死後の行き場であり、「 有余涅槃 」は空気と混合したエーテルであり、生の中の死を考えることであり、死を見つめながら人格を磨くことだと思います。

その前者が宗教であれば、死後の行き場を説明すべきであり、後者であれば、「 いかに生きるべきか 」あるいは、「 いかに死すべきか 」を宗教は教えるべきだろうと思います。

死の前に、意識はどうあるべきかを考えるのが宗教であり、迷いが無くなるように説くのが宗教であり、それは仏教もキリスト教も説いているかもしれませんが、それが、「 個人の意識次第であり 」、現世を神の世界にすることが宗教の役割ではないと思います。

「 信じる者は救われる 」と言いますが、神仏を意識する生活こそ、宗教が求める世界であり、国を統治したり、人を支配する社会を目指すことではないと思います。

このように考えるとき、「 目には目を、歯には歯を 」という言葉をどのように解釈すべきでしょうか?

私は、宗教は意識の領域であり、損得の情(zyou)を混入すべきでない。

損得の情(zyou)は、政治の領域であるろ考えます。

日本国憲法は「 政教分離 」の立場ですが、私は、これが妥当であると現在は考えます。

「 目には目を、歯には歯を 」を、「 宗教には宗教を、政治には政治を 」あるいは「 愛には愛を、愛情には愛情を 」と考えます。

宗教は神の存在意識の問題であり、損得勘定の政治ではないと思います。

宗教が生き方の問題というのは、宗教を政治で解決するのではなく、宗教は生や死後の世界を説き、迷える衆生を解脱させ、人間本来の生き方をすることだろうと思います。

仏教の仏典やキリスト教の聖書やイスラム教のコーランを信じることは、これまで述べたように、関係の実体化、実有の実体化の助けとして、仏典や聖書やコーランや聖者の言葉を考えることであり、その主体は、「 自分 」であり、自分が実体化することは明白です。

仏典や聖書やコーランや聖者の言葉を信じることで僧侶や信者に認められるのではなく、仏典や聖書やコーランや聖者の言葉を通して「 神(エネルギー)」の存在意識を、「 自分 」が持つための、一つの方法であると思います。

仏典や聖書やコーランや聖者の言葉のために死んでも、信者ではないと思います。

「 神(エネルギー)の存在意識」は、生きているから感じられるのであり、死んで得ることは出来ないと思います。

もしも聖職者の命令で死ぬのであれば、明らかに「 政治的に死ぬこと 」だと思います。

先に述べたように、死のことを考えながら生きることは、人の善意(愛)のみで生きることと同義だと思います。

人の善意を信じることなしに、わが身を捨てるのは「 自殺 」であると思います。

宗教戦争といいますが、それは混乱した考えであり、宗教の良し悪しを決める主体は国や社会ではなく「 個人 」であり「 自分自身 」であると思います。

人の善意(愛)を信じることなく、戦って殺しあうことは、「 殺人 」です。

生き方は、死に方であり、生きながら死ぬとは、あるいはこの世で涅槃を求めるなら、人の善意(愛)のみで生きることと同義であると、現在は考えます。

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2013年07月20日

2013/7/20、オカルト・エーテルと神仏20・情(zyou)5・宗教 1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/7/14、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



私は、これまで、エーテルは涅槃で、大気(空気)は煩悩であり、地球上では、両者を分離することは出来ず、人間は空気と共にエーテルも一緒に肺の中に吸い込んだり、吐き出したりしていて、その運動は、生命を司る小脳の欲がエネルギーとなっていると考えます。

そのエネルギーは神仏だと考え、エーテルの中で移動し、従ってエーテルと同じく「 連続 」であり、エーテルが人体内から宇宙の果てまで「 連続 」した実有であるように、エネルギーはエーテルが存在する限り連続した実有であると考えます。

エーテルとエネルギーが情(zyou)に入ったとき、すなわち「 知覚 」されたとき「 実体 」を形成しますが、それは「 形 」で存在意識であり、「 不連続 」な「 実体 」であるため、「 無常 」であり、情(zyou)は、エーテルを必要としないから「 無明 」であると考えます。

生存中の聖人は上記のことを知る人で「 有余涅槃 」に到達した人で霊魂は涅槃に到達するかも知れませんが、私のような一般人は死後は、物質的にはエーテルにで精神的には涅槃になり、私の霊魂は、地球上の生命のエネルギーである神仏に戻り、エーテルと共に、生き物の中で「 輪廻転生 」すると考えます。

このことは、気(ki)についてでしたが、人間の内部の情(zyou)でも考えます。

エーテルと大気(空気)を「 価値観 」と「 欲 」とに対比します。

価値観は世界を安定させ、重力に相当し「 実有 」であり、欲はエネルギーを物質に変え、不連続な実体であり、加速度に相当し、両者は「 等価 」あるいは「 共変する 」と考えます。

「 等価 」というのは、区別や分離することが出来ないことで、エーテルと大気が区別できないのと同じだと思います。

「 知覚 」を、関係の実体化、実有の実体化と考え、量子力学の「 収束 」と考えます。

価値観を欲で実体化したのが「 存在 」であり、それは情(zyou)であるので、文化や遺伝子情報の違いだけ「 存在 」し「 無常 」であると考えます。

エネルギーは物質に変換されますから、「 存在 」は物質だけではなくて、神仏というエネルギーも含むと考えます。

何億光年も離れていても目の前の空気でも、エーテルが連続し(それは神仏が移動可能であることを意味します)、意識をいう電磁波が「 存在 」を「 知覚 」したとき、物質や神仏が「 実体化 」すると考えます。

「 知覚 」とは、エネルギーと物質という「 存在の形式 」を変えることだと考えます。

その程度は人間個人の文化や遺伝子情報により異なると考えます。


2013/7/20、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。

大気汚染や地球温暖化を推進するのも後退するのも「 人間の意識 」であるから神仏を存在させるのか消滅させるのかは、人間の意識次第だと思います。

大気汚染や地球温暖化は、神仏が人間に対して「 意識を変えなさい 」という警告かもしれません。

「 信仰 」についても、「 神と共に在る 」とか「 二人同行 」などという事は、個人の意識次第であり、修行すれば得ることが出来るとか金銭で神を買うことが出来るなど、あるいはある場所に巡礼すれば得ることが出来るようなものでは「 ない 」と思います。

「 無余涅槃 」が宇宙を満たすエーテルで、涅槃であり、死後の行き場であり、「 有余涅槃 」は空気と混合したエーテルであり、生の中の死を考えることであり、死を見つめながら人格を磨くことだと思います。

その前者が宗教であれば、死後の行き場を説明すべきであり、後者であれば、「 いかに生きるべきか 」あるいは、「 いかに死すべきか 」を宗教は教えるべきだろうと思います。

死の前に、意識はどうあるべきかを考えるのが宗教であり、迷いが無くなるように説くのが宗教であり、それは仏教もキリスト教も説いているかもしれませんが、それが、「 個人の意識次第であり 」、現世を神の世界にすることが宗教の役割ではないと思います。

「 信じる者は救われる 」と言いますが、神仏を意識する生活こそ、宗教が求める世界であり、国を統治したり、人を支配する社会を目指すことではないと思います。

神仏(エネルギー)の前にいかに多くの金銭を寄贈しても、地獄へ行く人は地獄に行くのだと思います。

金銭で、地獄や極楽行きの切符は買えない。

それは、心の中、つまり意識の中に在るからだと思います。

極悪人も極楽に行けるというのは、極悪人がすべて極楽に行くのではなく、彼の意識が神仏に従うと変わった結果、極楽に行くのだと思います。

愛情の愛と情(zyou)を分離して、情(zyou)は金銭で買うことが出来るかも知れないが、愛は「 心の中 」であり、金銭では買えないと思います。

これは、日本と隣国の事情を考えると「 憎しみ 」という情(zyou)にも「 愛 」と同様に言えるから、「 愛憎 」というのだと思います。

「 愛情 」も「 憎しみ 」も、因果関係を知った功利的な損得の感情は金銭で解決することが出来るかも知れませんが、「 愛 」や「 憎しみ 」は、自分の意識の変革がないと解消しないと思います。

愛憎は「 目には目を、歯には歯を 」の感情であると思います。

金銭の贈呈により、愛情の証とするかも知れませんが、その結果としての婚姻に「 愛 」が在るとは限らないと思います。

離婚も愛情は慰謝料として妥協しますが、金銭の授受が有っても「 愛 」は復活しない。

「 愛 」には「 愛 」が、「 愛情 」には「 愛情 」がつり合い、両者は混合しないと思います。

話は戻りますが、「 解脱 」や「 涅槃 」を説く僧侶は涅槃である死と向き合わなくては、涅槃を説くことは出来ないと思います。

僧侶が「 死と向き合って生活する 」とは、生活するすべての時間に「 死 」を考えることではないと思います。

宗教の修行で「 死ぬほどの苦行をすること 」が死である涅槃に近づくことかも知れませんが、僧侶が、人の善意で生き、人から受け取ったものを明日のために蓄えるのではなく、その日のうちに消化し、また翌日は人の善意で生活するのが「 死と向き合った生活 」であると思います。

損得という功利を避け、金儲けにならず、人の善意で生きるのが僧侶だと思います。

それが死と向き合った生活であり、その生活を基礎としているから「 いかに生きるか 」を説くことが出来ると思います。

「 死ぬほどの苦行 」をした人でも、金銭のことばかり考える人は、僧侶に適格ではないと思います。
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2013年07月14日

2013/7/14、オカルト・エーテルと神仏19・情(zyou)4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/6/9、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


2013/6/30、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで、「存在 」について、マルチン・ハイデガーの「 存在と時間 」やジャンポール・サルトルの「 存在と無 」などの本が有りましたが、私は、下記のような量子力学の波動関数と収束と観測者の問題(観測者の意識の問題)が、「 存在 」については正当であると現時点では思っています。


しかし、「 収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える 」と言いますが、その瞬間こそ「 実有 」が「 実体 」になり、観測する対象になると思いますから、意識の介在は重要なことだと思います。


エーテルと大気は分離することが出来ないように、「 実有 」と「 実体 」は分離することが出来ず、分離するのが意識であると思います。


気(ki)と情(zyou)で、前者が実有でエーテル、後者は実体で空気(大気)、前者は連続で後者は不連続、実体を決めるのは情(zyou)であり、それが理論であると思います。

存在は存在意識であり、収束を成立させる意識であると思います。

意識によって「 存在 」は成立しますがそれは実体であり、存在意識であり、連続を断ち切った不連続であり、エネルギーが質量となったときだと思います。

エネルギーはエーテルの中に在り、質量は存在意識ですので、頭脳の中では、相互に入れ替わることも可能だと思います。



2013/7/7、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記により、宇宙法則は、エーテルが在る所で成立すると考えますと、人間の頭脳の中の理論、つまり情(zyou)は、エーテルという気(ki)は含まないから、エーテルが存在しなくても成立すると思います。

これは情(zyou)がエーテルを必要としないから宇宙法則には従わないことであり、情(zyou)は物理ではなくて物理学であり、宇宙の法則と必ずしも一致しないと思います。

そのことが、「 無明 」であり「 煩悩 」であり「 一般相対性理論 」でなく「 特殊相対性理論 」を考える原因だと思います。

気(ki)である、エーテルと大気が背中合わせで分離できない状態は、情(zyou)では「 可能性 」と「 欲 」が背中合わせで分離することが出来ない状態であると思います。

「 可能性 」は「 小脳の運動可能性 」であり、ミラーニューロンが働く範囲で、「 欲 」は、呼吸や心臓の動きなど、行動のエネルギーであり、人間という物質が持つエネルギーであり、「 小脳の可能性 」の中で働くエネルギーは、エーテル内で働く気(ki)のエネルギーと同化するだろうと思います。

「 欲 」は一般相対性理論の「 重力 」に似ていると思いますが、等価である「 加速度 」は「 欲 」を取り去る力で、これらは、「 価値観 」で測定すればよいと、現在は考えています。

「 欲 」である「 重力 」は自己中心的であり、価値観に包まれた実体が、「 無明 」や「 煩悩 」であり、「 私 」であり自我であり、生き生きとした実体であり、特殊相対性理論で判断される価値観が支配するでしょう。

これに対する「 無我 」つまり「 私心が無い状態 」が「 加速度 」であり、「 私 」を奪い取る力が、「 欲 」という重力と等価でしょう。

古来、「 奉仕 」とか「 犠牲 」とか言うのが「 加速度 」であると思います。

「 有余涅槃 」の状態の人は、「 重力 」と「 加速度 」が等価であることを知っている人で、特殊相対性理論の世界内で、一般相対性理論を展開することが出来る人だと思います。



2013/7/14、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



私は、これまで、エーテルは涅槃で、大気(空気)は煩悩であり、地球上では、両者を分離することは出来ず、人間は空気と共にエーテルも一緒に肺の中に吸い込んだり、吐き出したりしていて、その運動は、生命を司る小脳の欲がエネルギーとなっていると考えます。

そのエネルギーは神仏だと考え、エーテルの中で移動し、従ってエーテルと同じく「 連続 」であり、エーテルが人体内から宇宙の果てまで「 連続 」した実有であるように、エネルギーはエーテルが存在する限り連続した実有であると考えます。

エーテルとエネルギーが情(zyou)に入ったとき、すなわち「 知覚 」されたとき「 実体 」を形成しますが、それは「 形 」で存在意識であり、「 不連続 」な「 実体 」であるため、「 無常 」であり、情(zyou)は、エーテルを必要としないから「 無明 」であると考えます。

生存中の聖人は上記のことを知る人で「 有余涅槃 」に到達した人で霊魂は涅槃に到達するかも知れませんが、私のような一般人は死後は、物質的にはエーテルにで精神的には涅槃になり、私の霊魂は、地球上の生命のエネルギーである神仏に戻り、エーテルと共に、生き物の中で「 輪廻転生 」すると考えます。

このことは、気(ki)についてでしたが、人間の内部の情(zyou)でも考えます。

エーテルと大気(空気)を「 価値観 」と「 欲 」とに対比します。

価値観は世界を安定させ、重力に相当し「 実有 」であり、欲はエネルギーを物質に変え、不連続な実体であり、加速度に相当し、両者は「 等価 」あるいは「 共変する 」と考えます。

「 等価 」というのは、区別や分離することが出来ないことで、エーテルと大気が区別できないのと同じだと思います。

「 知覚 」を、関係の実体化、実有の実体化と考え、量子力学の「 収束 」と考えます。

価値観を欲で実体化したのが「 存在 」であり、それは情(zyou)であるので、文化や遺伝子情報の違いだけ「 存在 」し「 無常 」であると考えます。

エネルギーは物質に変換されますから、「 存在 」は物質だけではなくて、神仏というエネルギーも含むと考えます。

何億光年も離れていても目の前の空気でも、エーテルが連続し(それは神仏が移動可能であることを意味します)、意識をいう電磁波が「 存在 」を「 知覚 」したとき、物質や神仏が「 実体化 」すると考えます。

「 知覚 」とは、エネルギーと物質という「 存在の形式 」を変えることだと考えます。

その程度は人間個人の文化や遺伝子情報により異なると考えます。

価値観と欲は国という文化の上では「 共変 」し区別することは出来ませんが、両者が「 等価 」であることは、世界の誰もが共通であると考えます。

共通であるから、国や時代が変わっても、世界の偉人や聖人の「 価値観 」と「 欲 」を、現実社会の意識という電磁波で、同調することが出来ると考えます。


価値観と欲を、自分中心に考えるのが「 自我 」であり、ミラーニューロンを使い、自分だけでなく他者のことを考えるのが「 有余涅槃 」に到達する道だと思います。
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2013年07月07日

2013/7/7、オカルト・エーテルと神仏 18・情(zyou)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/6/9、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


2013/6/30、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで、「存在 」について、マルチン・ハイデガーの「 存在と時間 」やジャンポール・サルトルの「 存在と無 」などの本が有りましたが、私は、下記のような量子力学の波動関数と収束と観測者の問題(観測者の意識の問題)が、「 存在 」については正当であると現時点では思っています。


しかし、「 収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える 」と言いますが、その瞬間こそ「 実有 」が「 実体 」になり、観測する対象になると思いますから、意識の介在は重要なことだと思います。


エーテルと大気は分離することが出来ないように、「 実有 」と「 実体 」は分離することが出来ず、分離するのが意識であると思います。


気(ki)と情(zyou)で、前者が実有でエーテル、後者は実体で空気(大気)、前者は連続で後者は不連続、実体を決めるのは情(zyou)であり、それが理論であると思います。

存在は存在意識であり、収束を成立させる意識であると思います。

意識によって「 存在 」は成立しますがそれは実体であり、存在意識であり、連続を断ち切った不連続であり、エネルギーが質量となったときだと思います。

エネルギーはエーテルの中に在り、質量は存在意識ですので、頭脳の中では、相互に入れ替わることも可能だと思います。

意識は量子力学の存在を決めるでしょうが、それは実体であり、「 無常 」であり、実有を定義することは出来ません。


物理学の法則が、系が違っても同じと言いますが、エーテルが前提に在る、すなわち、重力が観測者も観測対象物も共変することが前提になっていると思います。

換言すれば、宇宙の中でしか法則が成り立たないから、エーテルが必要だと思います。


従って、エーテルを考慮しない量子力学は宇宙の謎を解くことは出来ないと思います。



2013/7/7、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記により、宇宙法則は、エーテルが在る所で成立すると考えますと、人間の頭脳の中の理論、つまり情(zyou)は、エーテルという気(ki)は含まないから、エーテルが存在しなくても成立すると思います。

これは情(zyou)がエーテルを必要としないから宇宙法則には従わないことであり、情(zyou)は物理ではなくて物理学であり、宇宙の法則と必ずしも一致しないと思います。

そのことが、「 無明 」であり「 煩悩 」であり「 一般相対性理論 」でなく「 特殊相対性理論 」を考える原因だと思います。

気(ki)である、エーテルと大気が背中合わせで分離できない状態は、情(zyou)では「 可能性 」と「 欲 」が背中合わせで分離することが出来ない状態であると思います。

「 可能性 」は「 小脳の運動可能性 」であり、ミラーニューロンが働く範囲で、「 欲 」は、呼吸や心臓の動きなど、行動のエネルギーであり、人間という物質が持つエネルギーであり、「 小脳の可能性 」の中で働くエネルギーは、エーテル内で働く気(ki)のエネルギーと同化するだろうと思います。

「 欲 」は一般相対性理論の「 重力 」に似ていると思いますが、等価である「 加速度 」は「 欲 」を取り去る力で、これらは、「 価値観 」で測定すればよいと、現在は考えています。

「 欲 」である「 重力 」は自己中心的であり、価値観に包まれた実体が、「 無明 」や「 煩悩 」であり、「 私 」であり自我であり、生き生きとした実体であり、特殊相対性理論で判断される価値観が支配するでしょう。

これに対する「 無我 」つまり「 私心が無い状態 」が「 加速度 」であり、「 私 」を奪い取る力が、「 欲 」という重力と等価でしょう。

古来、「 奉仕 」とか「 犠牲 」とか言うのが「 加速度 」であると思います。

「 有余涅槃 」の状態の人は、「 重力 」と「 加速度 」が等価であることを知っている人で、特殊相対性理論の世界内で、一般相対性理論を展開することが出来る人だと思います。

「 有余涅槃 」は行動で示されるべきで、情(zyou)、つまり頭脳の中だけに止まり行動しない人は、エーテルの中ではなく、宇宙法則は適用されず、「 自我 」の状態であり、自己中心的であり、「 涅槃 」に達した人ではないと思います。

情(zyou)である限り気(ki)が適用されないことは、情(zyou)は、エーテルの中では無く「 自由 」であり「 偶然 」であり「 必然的 」であっても、「 必然 」ではないことになります。

「 必然 」は、「 行動 」で示されてこそ、「 涅槃 」であることになると考えます。

「 結果 」で「 涅槃 」を判断するのではなく、「 行動した欲 」で判断すべきであり、「 結果 」を求めると「 涅槃 」という内面の「 欲 」は判断することは出来ないと思います。

「 結果 」はエーテルの中での不可逆な「 形 」であり、エーテルでない情(zyou)の「 欲 」を判断することは間違いだと思います。
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2013年06月30日

2013/6/30、オカルト・エーテルと神仏 17・情(zyou)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/6/1、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

以上により、エーテルは神仏の身体であり、連続した必然の「 実有 」であると考えます。

電気というエネルギーが神仏であり、大気(空気)に包まれた地球は神仏が創造した偶然の産物であり、「 神の愛 」であると考えます。

地球上の生命を育み、生命というエネルギーが満ち、しかも、人間の情(zyou)により、穢れることもなく、増減するのでもなく、一定である状態を「 神の愛 」と考え、これのみが「 神の愛 」であり、宗教や哲学がいう「 神の愛 」は解釈であると考えます。

これは、ビッグ・バン理論ではなく、プラズマ宇宙論を採用しますから、神仏はビッグ・バンを起こしたエネルギーではなく、神仏はプラズマであり、その身体は宇宙を満たすエーテルであると考えています。

人間が死ねばエーテルとなり、情(zyou)では涅槃に入り、「 無余涅槃 」という神仏の身体になり、遠く西方浄土から人体の内部まで移動が可能であり、人間が気(ki)である生命というエネルギーを持ち、記憶で想像し、実体化する「 存在意識 」に相応して「 神仏 」が現れ、それが四方浄土に現れるのか、この世に現れるのかは情(zyou)の内容次第ですが、この世に「 神仏 」という存在意識を持った状態は「 有余涅槃 」であり仏教では「 即身成仏 」であると思います。

人間は意識があるため、過去や未来を考え、「 無明 」や「 無常 」と考えますが、自分が、すべて必然に流転して、死期が判明しているならば、絶望するでしょう。

「 無明 」や「 無常 」は人間に与えられた「 神の愛 」であり、「 無明 」や「 無常 」を克服した「 有余涅槃 」の状態であっても、地球上の生命を育み、生命というエネルギーが満ち、しかも、人間の情(zyou)により、穢れることもなく、増減するのでもなく、一定である状態の「 神の愛 」を持つ人が、「 悟った人 」(たとえば、キリストや仏陀)と考えます。

「 神の愛 」の中で生まれて、生き、死後の魂は「 神の愛 」に還ると思います。


神の存在が証明されても、自分の身体の中の神仏を信じ、神仏に従って行動しなければ、だだの学問上の言葉の遊びで神を証明しただけで、「 悟った人 」ではないと思います。

「 悟った人 」には神の証明は不要で、行動が「 神の愛 」だと思います。


2013/6/9、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


2013/6/30、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで、「存在 」について、マルチン・ハイデガーの「 存在と時間 」やジャンポール・サルトルの「 存在と無 」などの本が有りましたが、私は、下記のような量子力学の波動関数と収束と観測者の問題(観測者の意識の問題)が、「 存在 」については正当であると現時点では思っています。


しかし、「 収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える 」と言いますが、その瞬間こそ「 実有 」が「 実体 」になり、観測する対象になると思いますから、意識の介在は重要なことだと思います。


エーテルと大気は分離することが出来ないように、「 実有 」と「 実体 」は分離することが出来ず、分離するのが意識であると思います。


気(ki)と情(zyou)で、前者が実有でエーテル、後者は実体で空気(大気)、前者は連続で後者は不連続、実体を決めるのは情(zyou)であり、それが理論であると思います。

存在は存在意識であり、収束を成立させる意識であると思います。

意識によって「 存在 」は成立しますがそれは実体であり、存在意識であり、連続を断ち切った不連続であり、エネルギーが質量となったときだと思います。

エネルギーはエーテルの中に在り、質量は存在意識ですので、頭脳の中では、相互に入れ替わることも可能だと思います。

意識は量子力学の存在を決めるでしょうが、それは実体であり、「 無常 」であり、実有を定義することは出来ません。


物理学の法則が、系が違っても同じと言いますが、エーテルが前提に在る、すなわち、重力が観測者も観測対象物も共変することが前提になっていると思います。

換言すれば、宇宙の中でしか法則が成り立たないから、エーテルが必要だと思います。


従って、エーテルを考慮しない量子力学は宇宙の謎を解くことは出来ないと思います。



量子力学(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6

量子力学と意識

コペンハーゲン解釈はどのようにして観測によって波動関数が一つの状態に物理的に収縮するのかは説明しない。隠れた変数理論が数学的に成り立たないことがフォン・ノイマンによって証明された(しかし、後に、その証明に使われた仮定の1つが誤りであることが、デヴィッド・ボームによって指摘されている。)。そこで、ノイマンは、収縮は観測という人間の行為と同時に起こる、として、量子力学の枠組みで説明できない意識を導入し、意識と相互作用する際に収束がおきるという主張をした。ウィグナーは人間の意識の特別な意義を重要視する姿勢を示した。他に、ペンローズも意識や心と量子力学を関連させて論じている[6]。 しかし、観測の過程において、何時、どのようにして収縮が起きたかについては、それを論じる理論もなければ、それを示す証拠もなく、今日でも完全な合意は形成されていない。収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える。

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2013年06月22日

2013/6/22、オカルト・エーテルと神仏 16・相対性理論

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/15、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


宇宙誕生の必然(エーテルや涅槃)の中に偶然に大気が生じたと考えて、大気(空気)を「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域で、エーテルを「 神の身体 」の領域であると考え、エーテルは宇宙空間を満たし、人間の身体も満たし、電磁波や重力を通過させる「 実有 」する空間であり、この空間だけが、エネルギーを通過させると考えます。

エネルギーは、「 物体や系が持っている仕事をする能力 」でしょうが、伝搬する媒体はエーテルという「 空間 」であり、エネルギーはあらゆる形に変化する「 神の愛 」であり、変化した結果で測ることを「 仕事をする能力 」と言い、エネルギー自体を観測することはできないと思います。

人体に中でエネルギーを取り出すことの測定ができないように、物体や系が持つ能力は、「 実体 」に変化したとき測定するのが「 仕事をする能力 」だと思います。

エネルギーはエーテルの中で伝わると考えますから、能力が「 実体 」に変化するのは「 必然 」で、人間の生活は「 必然 」の中であると思います。

そのため、行動は能力が実体化する「 必然 」であり、行動は人格の現れであると考えます。

人間には意識があり、宇宙の産物で「 神の身体 」の一部であると思いますが、意識が持つエネルギーをエーテルを通じて発揮されたとき、内面の意識が「 必然的 」な「 偶然 」や「 自由 」や「 無明 」に現れたとき、「 煩悩 」と呼び、意識の内面が「 必然的 」に「 必然 」になったとき、即ち、思うがままに行動した結果が必然的な結果になったとき、「 涅槃 」に達したというのだと思います(有余涅槃)。

人間のすべての行動は、行動する当事者にとっては「 偶然 」や「 自由 」であっても、意識の内面がエーテルを通して、必然的に行動となったという意味では「 必然 」の行動であると考えると、私は、決定論者になるのかも知れません。

エネルギーがエーテルを通して伝わることは、頭脳の内部での「 認知 」や「 了解 」もエーテルの中で行われ、すべてが「 必然 」であり、「 認知 」や「 行動 」の責任は、すべて自分の内部にあることを意味します。

私が、科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であると言いますのは、真理は確率ではなくて「 必然 」であり、「 実有 」であり、確率で真理を処理するのは、その人が、確率的な人格であることを意味します。

これは、エーテルのことを考慮していないのが原因だと思います。


2013/6/22、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルを否定することが、科学の進歩であれば、成功だったと同時に、失敗であったと思います。

一般相対性理論と特殊相対性理論があるが、前者はエーテルや涅槃の領域であり、後者は「 神の愛 」の領域であると思います。

「 神の愛 」である地球上では、一般相対性理論と特殊相対性理論が重なり、特殊相対性理論で物理が説明されるというが、それは「 エーテルと大気(空気)が一体となり分離できなく、大気だけを考え、エーテルを考えなくても物理は説明することができる 」ということだと思います。

しかし、重力がエーテルの中で伝わると考えると、エーテルの中で物理が成立していることを忘れてはならないと思います。

それは、「 神仏の身体 」の中に「 神の愛 」であることで、後者だけを考え前者を無視することは正しい理論ではないと思います。

一般性総体理論やエーテルや「 神仏の身体 」が「 涅槃 」で「 必然 」あり、特殊相対性理論や空気や「 神の愛 」は本来は「 偶然 」や現象であり、「 必然性 」であると思います。

「 必然 」と「 必然性 」は、前者が「 人間を必要とせずに因果が成立 」し、エーテルが必要であり、連続する「 実有 」であるのに対し、後者は「 人間の頭脳の中で成立する因果 」で、エーテルは必要でなく、不連続な「 実体 」であると思います。


もし、エネルギーがエーテルの中で伝達されるならば、特殊相対性理論でエネルギーを説明することは出来ないと思います。

私は、量子力学の不確実性理論は、エーテルを考慮していないのが原因であり、「 神様はサイコロをふらない 」ことを認めないことも同様で、量子理論は特殊な理論であると思います。

とても、宇宙を解明することは出来ない理論が量子理論であると思います。
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2013年06月16日

2013/6/16、オカルト・エーテルと神仏15・今の中の永遠

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/15、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


宇宙誕生の必然(エーテルや涅槃)の中に偶然に大気が生じたと考えて、大気(空気)を「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域で、エーテルを「 神の身体 」の領域であると考え、エーテルは宇宙空間を満たし、人間の身体も満たし、電磁波や重力を通過させる「 実有 」する空間であり、この空間だけが、エネルギーを通過させると考えます。

エネルギーは、「 物体や系が持っている仕事をする能力 」でしょうが、伝搬する媒体はエーテルという「 空間 」であり、エネルギーはあらゆる形に変化する「 神の愛 」であり、変化した結果で測ることを「 仕事をする能力 」と言い、エネルギー自体を観測することはできないと思います。

人体に中でエネルギーを取り出すことの測定ができないように、物体や系が持つ能力は、「 実体 」に変化したとき測定するのが「 仕事をする能力 」だと思います。

エネルギーはエーテルの中で伝わると考えますから、能力が「 実体 」に変化するのは「 必然 」で、人間の生活は「 必然 」の中であると思います。

そのため、行動は能力が実体化する「 必然 」であり、行動は人格の現れであると考えます。

人間には意識があり、宇宙の産物で「 神の身体 」の一部であると思いますが、意識が持つエネルギーをエーテルを通じて発揮されたとき、内面の意識が「 必然的 」な「 偶然 」や「 自由 」や「 無明 」に現れたとき、「 煩悩 」と呼び、意識の内面が「 必然的 」に「 必然 」になったとき、即ち、思うがままに行動した結果が必然的な結果になったとき、「 涅槃 」に達したというのだと思います(有余涅槃)。

人間のすべての行動は、行動する当事者にとっては「 偶然 」や「 自由 」であっても、意識の内面がエーテルを通して、必然的に行動となったという意味では「 必然 」の行動であると考えると、私は、決定論者になるのかも知れません。

エネルギーがエーテルを通して伝わることは、頭脳の内部での「 認知 」や「 了解 」もエーテルの中で行われ、すべてが「 必然 」であり、「 認知 」や「 行動 」の責任は、すべて自分の内部にあることを意味します。

私が、科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であると言いますのは、真理は確率ではなくて「 必然 」であり、「 実有 」であり、確率で真理を処理するのは、その人が、確率的な人格であることを意味します。

これは、エーテルのことを考慮していないのが原因だと思います。


2013/6/16、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これまで、「 今 」は気(ki)であり、因果関係は不明だと考えました。

それは、引き続き考えますが、「 今 」や「 現在 」は、生物的には生と死の混合であるとか、一般的な考えは、現象と本質であるとか、自由と必然であるとか、神が存在するとか言いますが、私はこれには賛成しません。

生物的に生と死と考えますが、仏教では「 煩悩 」と「 涅槃 」であり、それは、大気(空気)とエーテルであり、エーテルは涅槃であり、「 生 」の場合は有余涅槃であり、「 死 」の場合は無余涅槃であることは、前述しました。

私は、「 煩悩 」を「 神の愛 」、「 涅槃 」を「 神の身体 」と考え、後者は「 必然 」であると結論を出しました。

「 今 」は、「 自由 」や「 無明 」と「 必然 」の混合であり、「 必然 」は「 実有であるエーテル 」であり「 永遠の実有 」であると考えます。

「 生 」の煩悩や自由の実体は「 意識 」であり、「 死 」の必然の実体は、この「 永遠の実有であるエーテル 」であると考えます。

「 今 」は、現象や無明という「 神の愛 」と、必然であり涅槃という「 永遠の実有であるエーテル 」の混合であると思います。

「 混合 」とは、分離することが出来ないことであり、宇宙空間に出ればエーテルだけになるように、人間の情(zyou)が無くなれば現れる気(ki)であることです。

「 存在と時間 」とか「 存在と無 」とか主張する本が有りますが、これらは、情(zyou)の内部での主張であり、それらは、「 意識 」のことにすぎません。

呼吸する空気にはエーテルが一体となって実有し、それらを呼吸して「 意識 」にエネルギーを供給することを考えると、本来の気(ki)であるエーテルを考えることが必要です。

一部の学者がいうように、「 意識 」で世界が成立することは間違いで、「 死んだら終わり 」ではありません。

私がエーテルを「 神の身体 」と考えるのは、無神論者ではありません。

人間は「 無 」を体験することはなく、「 実有 」の世界で生きています。

私は「 実有 」をエーテルと考え、それが「 永遠 」と呼べるほど連続して果しなく広がっていると考えるからです。

「 実体 」を形成するのは情(zyou)であり、体験であり、無意識だと思います。

エーテルを「 実体 」と考えても、「 体験 」で不連続を想像することはできない「 実有 」であるから、永遠と呼びます。

永遠を「 死 」や「 神 」であると考えなくても、宇宙空間を満たすエーテルを「 永遠 」と考え、それが死後の「 涅槃 」であり、「 今 」の中に「 涅槃 」があると考えることも出来ると思います。

生前と死後を繋ぐのが「 涅槃 」であると考え、その実体をエーテルと考え、生前も死後もエーテルに包まれていると考えることが、死後の不安を和らげることができると思います。
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2013年06月15日

2013/6/15、オカルト・エーテルと神仏 14、涅槃は必然 4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



偶然と必然


自由と決定論


煩悩と涅槃


有余涅槃と無余涅槃


情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル



このように連想して考えると、前者は大気の「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域であり、後者はエーテルという「 神の身体 」の領域であると考えます。

前者と後者は、地球上では分離することが出来ず、一体であるので、前者は後者に達すると考えがちだが、実際は、前者が「 実体 」であり、後者は「 実有 」であり、領域が違いますので、両者は一致しないと考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」というのは、「 実体 」の世界でエーテルや実有の世界を考えた哲学であり、科学者は受け入れることはできないかも知れませんが、正当な考えであり、「 有余涅槃 」に達すると思います。

科学はすべて「 実体 」の世界であり、情(zyou)であり、人間が考えた物語であり、定義された始めと終わりがありますが、そのため、不連続であり、「 真実 」ではないと思います。

科学に謎があるのは、「 実体 」の世界で、不連続で、「 死んだら終わり 」の世界であり、科学に精通しても、「 有余涅槃 」や「 悟り 」に達することはできず、「 煩悩 」の世界で死ぬことになると思います。

科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であります。

エーテルを否定することは、実体の世界の物理学では認められるかも知れませんが、エーテルと大気を分離することが出来ないので、神仏を考えるとき、エーテルを否定しないで考えることが必要だと思います。


2013/6/15、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


宇宙誕生の必然(エーテルや涅槃)の中に偶然に大気が生じたと考えて、大気(空気)を「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域で、エーテルを「 神の身体 」の領域であると考え、エーテルは宇宙空間を満たし、人間の身体も満たし、電磁波や重力を通過させる「 実有 」する空間であり、この空間だけが、エネルギーを通過させると考えます。

エネルギーは、「 物体や系が持っている仕事をする能力 」でしょうが、伝搬する媒体はエーテルという「 空間 」であり、エネルギーはあらゆる形に変化する「 神の愛 」であり、変化した結果で測ることを「 仕事をする能力 」と言い、エネルギー自体を観測することはできないと思います。

人体に中でエネルギーを取り出すことの測定ができないように、物体や系が持つ能力は、「 実体 」に変化したとき測定するのが「 仕事をする能力 」だと思います。

エネルギーはエーテルの中で伝わると考えますから、能力が「 実体 」に変化するのは「 必然 」で、人間の生活は「 必然 」の中であると思います。

そのため、行動は能力が実体化する「 必然 」であり、行動は人格の現れであると考えます。

人間には意識があり、宇宙の産物で「 神の身体 」の一部であると思いますが、意識が持つエネルギーをエーテルを通じて発揮されたとき、内面の意識が「 必然的 」な「 偶然 」や「 自由 」や「 無明 」に現れたとき、「 煩悩 」と呼び、意識の内面が「 必然的 」に「 必然 」になったとき、即ち、思うがままに行動した結果が必然的な結果になったとき、「 涅槃 」に達したというのだと思います(有余涅槃)。

人間のすべての行動は、行動する当事者にとっては「 偶然 」や「 自由 」であっても、意識の内面がエーテルを通して、必然的に行動となったという意味では「 必然 」の行動であると考えると、私は、決定論者になるのかも知れません。

エネルギーがエーテルを通して伝わることは、頭脳の内部での「 認知 」や「 了解 」もエーテルの中で行われ、すべてが「 必然 」であり、「 認知 」や「 行動 」の責任は、すべて自分の内部にあることを意味します。

私が、科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であると言いますのは、真理は確率ではなくて「 必然 」であり、「 実有 」であり、確率で真理を処理するのは、その人が、確率的な人格であることを意味します。

これは、エーテルのことを考慮していないのが原因だと思います。
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2013年06月09日

2013/6/9、オカルト・エーテルと神仏 13、涅槃は必然3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



偶然と必然


自由と決定論


煩悩と涅槃


有余涅槃と無余涅槃


情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル



このように連想して考えると、前者は大気の「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域であり、後者はエーテルという「 神の身体 」の領域であると考えます。

前者と後者は、地球上では分離することが出来ず、一体であるので、前者は後者に達すると考えがちだが、実際は、前者が「 実体 」であり、後者は「 実有 」であり、領域が違いますので、両者は一致しないと考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」というのは、「 実体 」の世界でエーテルや実有の世界を考えた哲学であり、科学者は受け入れることはできないかも知れませんが、正当な考えであり、「 有余涅槃 」に達すると思います。

科学はすべて「 実体 」の世界であり、情(zyou)であり、人間が考えた物語であり、定義された始めと終わりがありますが、そのため、不連続であり、「 真実 」ではないと思います。

科学に謎があるのは、「 実体 」の世界で、不連続で、「 死んだら終わり 」の世界であり、科学に精通しても、「 有余涅槃 」や「 悟り 」に達することはできず、「 煩悩 」の世界で死ぬことになると思います。

科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であります。

エーテルを否定することは、実体の世界の物理学では認められるかも知れませんが、エーテルと大気を分離することが出来ないので、神仏を考えるとき、エーテルを否定しないで考えることが必要だと思います。


2013/6/9、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


私は、上杉謙信が言った「 死中生あり、生中生あり 」を思います。



@とCは、次のように解釈します。

エーテルの中に大気(空気)があり、(エーテルの無い)大気の中に大気は無い。

必然の中に偶然があり、(必然が無い)偶然の中に偶然は無い。

エーテルの無い大気を考えることはできないし、偶然を偶然に選ぶこともできないと思います。


AとBは、次のように解釈します。

自由も煩悩も「 神の愛 」、「 神の偶然 」であり、因果や涅槃は「 必然 」であり人知では解決不能である。

涅槃という必然の中に自由や煩悩という「 神の愛 」があり、(涅槃という必然が無い)自由や煩悩という「 神の愛 」の中に、自由や煩悩は無い。

「 神の愛 」も必然の一種であると思いますから、「 死 」の存在意識が無い中で、「 神の愛 」は無いと思います。

「 死 」があるから、エーテルがあるから、「 神の愛 」である大気(空気)を感じるのだと思います。

このように、私は「 決定論 」を支持し、以下の参照の中にあります、物理学者とは反対の考えになります。




偶然(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%B6%E7%84%B6

偶然性と決定論

偶然は、言葉として用いられるだけでなく、哲学や科学の分野において研究され、「偶然はそもそも存在せず全てが必然である」という立場を唱える学説(決定論)もある。

決定論によって仮定される全てを見通すような存在であるラプラスの悪魔のような存在は、物理学では、ハイゼンベルクの不確定性原理によって否定されている。不確定性原理が含まれる量子力学によって決定論が覆されそうになった時、その量子力学の創始者の一人であるアインシュタインは「神はサイコロを振らない」として決定論の正当性を訴え量子力学のEPRパラドックスなどを提示した。しかし、ベルの不等式により定式化されたこの「パラドックス」は、後年実験的に確かめられてしまい、パラドックスではなくなった。現在、量子力学の解釈で(観測問題)アインシュタインの立場を採る学者はほとんどいない。したがって、現在の物理学では決定論の立場を採る学者はほとんどいない。

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