2011年11月18日

2011/11/18、想像・「死中生有り、生中生無し」の解釈

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/4/17・考えた事



私は、上杉謙信について、詳しく知りません。
私は、次に掲載するURL を見て考えただけです。

義ー武士道
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。

フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

(引用を終わる)


直江兼続ー謙信の教えを胸に刻んで
http://www.tentijin.jp/2007/09/post-98.html



上杉謙信が49歳で死去する城の壁に次のような言葉が書いてありましたので、抜粋して引用します。

彼は、これを心意気として、記したものだと思います。

外国の人が、詳しい事を知りたい時は、日本語学校の先生に聞いてください。



「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。

帰ると思えば、これまた帰らぬものなり」



私の解釈

私は、上杉謙信が残した「 死中生有り、生中生無し 」というのは、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまう」事だと思います。

上杉謙信は、「 義 」を標榜した武士でした。

それは、紹介した「 義―武士道 」のURL をクリックすれば、知る事が出来ます。

ですから、私は、「 死中生有り、生中生無し 」の前提として、「 義 に生きる武士は 」という主語を付けます。

死ぬのが予見されている戦場に「 生 」を求めるのは、無謀です。

そこに「 義 」を組み込む事により、「打算や損得を超えて、人としての正しい行為」として戦う時、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまうのだ」という教えだと思います。

「大義名分」という言葉がありますが、「 義 」のために、死の戦場に赴けば、鬼も、神も、その気配に対して、退くと解釈します。

彼らが若い時は、少数の手勢で決死の「奇襲」を行いました。

その時の心意気は、「死中生有り」であるでしょう。

大国の領主になって、生きたいと、「 保身 」の気持ちで戦えば、多数の軍勢で戦っても滅びる。

それが「 生中生無し 」だと解釈します。


2011/11/10、私の記事

ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。





2011/11/13、私の記事

「 無常を受諾する 」とは、「 諦めること 」ではない。


人間の存在自体が、「 常でないこと 」、すなわち「 無常 」であることの受諾である。


「 今 」「 現在 」という気(ki)の中で「 知覚されたもの 」には情(zyou)は無いが、無常は可能性として意識に現れる。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果であり、新陳代謝がなければ、進展や発達は無い。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


今日の自分は明日の自分ではない。


「 無常 」を受諾することは、明日の自分は今日の自分ではないことを期待することが出来ることである。


「 無常 」という可能性を持っていることに感謝することが、「 無常 」を受諾する動機になると思う。


2011/11/14、私の記事

これは、私の架空の物語である。


「 無常 」という自覚と「 無常の受諾 」の次に、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の設定を勧めようと思う。


「 無常 」という無意識の情(zyou)の関係に「 気づく 」ことにより、「 一定の関係 」として「 心的存在意識 」が出来るだろう。


その「 気づく 」ことにより、同時に「 感謝 」の気持ちが生じるだろう。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことに対する心の喜びを、相手に示すことだと思うが、私は、「 気づく 」ことから、「 感謝 」が生じると思う。


空気や水があり、生きてゆくことが「 有り難い 」というのが「 感謝 」であろうが、全てが「 無常 」で、恒常なものは無いと考えれば、現在、恒常と思われているものに囲まれて生活していると「 気づく 」ことにより、「 有り難い 」という「 感謝 」の気持ちになる。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことが原因で生じる感情であり情(zyou)であると思うが、私は、「 気づくことから生じる感情 」と解釈し、自分に不利益なことも「 気づく 」限り「 感謝 」の範囲内に入り、そうすることにより、「 全てのものに感謝する 」ことが出来ると思う。


「 無常 」と「 無常の受諾・感謝 」と「 目的 」と並べば、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の障壁となる困難なことも、目的の達成には必要であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、困難なことが「 無常 」という「 関係 」であるので、「 目的 」の方向の可能性を選択することが出来ると思う


2011/11/18、私の考え


「 死中生有り、生中生無し 」について。


「 目的 」を「 義 」とし、「 困難なこと 」を「 死 」とし、「 目的を達成すること 」を「 生 」として、上記の文章に代入します。

………………………………………

「 無常 」と「 無常の受諾・感謝 」と「 目的 ( 義 )」と並べば、自分の命をかけても達成すべき「 目的(義) 」の障壁となる困難なこと(死)も、目的の達成には必要であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、困難なこと(死)が「 無常 」という「 関係 」であるので、「 目的(義) 」の方向の可能性(生の可能性)を選択することが出来ると思う

………………………………………


知覚するもの(死)を絶対視すれば絶望になるでしょう。

知覚するものは「 無常 」であるという関係を絶対視します。


知覚するもの(死)は可能性であり、(生)にも変化する可能性である「 無常 」だと考えます。


知覚するもの(死)を目的の達成(生)には必要な「 試練 」であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、知覚するもの(死)が「 無常 」という恒常では無いという「 関係 」であるので、知覚するもの(死)を、「 目的(義) 」の方向の可能性(生の可能性)に変換することが出来るかも知れません。


「 死中生有り、生中生無し 」は、「 生死 」を「 無常 」と考え、「 死 」という状況を「 義 」という目的を達成するための「 試練 」と「 気づき 」感謝して受諾し、自分にとって損か得かの保身の価値観を捨てて「 義 」という目的への行為の過程が「 生 」であり、「 死 」から「 生 」への変換であり、「 生きること 」は「 無常 」であり「 生 」ではないというのが、私の現時点の考えです。
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2011年11月14日

2011/11/14、想像・人生は無常が基本3・目的

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/10、私の記事


ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。




2011/11/12、私の記事




「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であるが、これは、「 知覚することが出来るもの 」だけでなく、目には見えない背後の関係を加えて知覚することである。


「 背後の関係 」とは目に見えるものだけでなく、目に見えるものが存在する状況を、意味を知ることである。


事物の「 存在 」は、「 一定の関係 」であり、「 恒常なもの 」ではない。


「 無常 」は「 恒常ではないこと 」と解釈し、「 無常 」を真剣に考えたほうが良い結果が生まれると思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは、「 時間 」ではなく、「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、「 時間の終わりである死 」を考えて生きる必要はない。


「 死 」を考えずに、「 無常 」を自覚して生きれることで、「 死 」を考えることと同じ効果を得られると思う。


「 無常 」を真剣に考えるなら、自分が「 今 」、何をすべきか、わかると思う。


短い「 人生 」の中で、自分が何を為すべきかを。




2011/11/13、私の記事


「 無常を受諾する 」とは、「 諦めること 」ではない。


人間の存在自体が、「 常でないこと 」、すなわち「 無常 」であることの受諾である。


「 今 」「 現在 」という気(ki)の中で「 知覚されたもの 」には情(zyou)は無いが、無常は可能性として意識に現れる。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果であり、新陳代謝がなければ、進展や発達は無い。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


今日の自分は明日の自分ではない。


「 無常 」を受諾することは、明日の自分は今日の自分ではないことを期待することが出来ることである。


「 無常 」という可能性を持っていることに感謝することが、「 無常 」を受諾する動機になると思う。


2011/11/14、私の考え


これは、私の架空の物語である。


「 無常 」という自覚と「 無常の受諾 」の次に、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の設定を勧めようと思う。


「 無常 」という無意識の情(zyou)の関係に「 気づく 」ことにより、「 一定の関係 」として「 心的存在意識 」が出来るだろう。


その「 気づく 」ことにより、同時に「 感謝 」の気持ちが生じるだろう。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことに対する心の喜びを、相手に示すことだと思うが、私は、「 気づく 」ことから、「 感謝 」が生じると思う。


空気や水があり、生きてゆくことが「 有り難い 」というのが「 感謝 」であろうが、全てが「 無常 」で、恒常なものは無いと考えれば、現在、恒常と思われているものに囲まれて生活していると「 気づく 」ことにより、「 有り難い 」という「 感謝 」の気持ちになる。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことが原因で生じる感情であり情(zyou)であると思うが、私は、「 気づくことから生じる感情 」と解釈し、自分に不利益なことも「 気づく 」限り「 感謝 」の範囲内に入り、そうすることにより、「 全てのものに感謝する 」ことが出来ると思う。


「 無常 」と「 無常の受諾・感謝 」と「 目的 」と並べば、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の障壁となる困難なことも、目的の達成には必要であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、困難なことが「 無常 」という「 関係 」であるので、「 目的 」の方向の可能性を選択することが出来ると思う。


これは、マイナス思考を克服する方法だと、私は思う。




マイナス思考(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B9%E6%80%9D%E8%80%83

船井幸雄の造語。古くは「心配性」「取り越し苦労」などとも呼ばれたが、行動を起こす前に否定的な結論を出したり、想像をめぐらせたりして内向的になりやがて自己否定につながってゆく。多くは一つの失敗から、またこの次も失敗するだろうと考え、自分は何をしてもだめなんだ、どうせやってみても無駄だろうと脳内において負の連鎖が起こり何事にも消極的になる。原因は生まれつきの性格や小児期における親のしつけや教育、友達からのいじめや喧嘩などのなかで、否定的な思考を植え込まれたケースなどが考えられるが、最近の脳生理学的な研究によりセロトニンという脳内物質の不足との関係が指摘されている

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2011年11月13日

2011/11/13、想像・人生は無常が基本2・受諾

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/10、私の記事


ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。




2011/11/12、私の記事




「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であるが、これは、「 知覚することが出来るもの 」だけでなく、目には見えない背後の関係を加えて知覚することである。


「 背後の関係 」とは目に見えるものだけでなく、目に見えるものが存在する状況を、意味を知ることである。


事物の「 存在 」は、「 一定の関係 」であり、「 恒常なもの 」ではない。


「 無常 」は「 恒常ではないこと 」と解釈し、「 無常 」を真剣に考えたほうが良い結果が生まれると思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは、「 時間 」ではなく、「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、「 時間の終わりである死 」を考えて生きる必要はない。


「 死 」を考えずに、「 無常 」を自覚して生きれることで、「 死 」を考えることと同じ効果を得られると思う。


「 無常 」を真剣に考えるなら、自分が「 今 」、何をすべきか、わかると思う。


短い「 人生 」の中で、自分が何を為すべきかを。


「 情(zyou)」を含まない「 今 」、「 現在 」に、「 無常 」という社会的関係は満ちていて、その「 無常(muzyou) 」という情(zyou)に対して自分の可能性を具現化する手段として「 逃避 」「 対決 」「 受諾 」の態度があると思う。


「 逃避 」は、無常を考えず娯楽などで気持ちを紛らわすことであり、「 対決 」は無常を否定することだろうが、これらは「 目に見えるものだけが客観的である 」という態度であると思う。



「 逃避 」する生き方に自分の可能性を発見するか、「 対決 」する生き方に自分の可能性を発見するかは自由だが、「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方に自分の可能性を発見するのが最も望ましいと思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、人生は「 無常 」から、逃れることは出来ないからだ。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


生きる限り無常であり、全てが無常であると思う。


2011/11/13、私の考え


「 無常を受諾する 」とは、「 諦めること 」ではない。


人間の存在自体が、「 常でないこと 」、すなわち「 無常 」であることの受諾である。


「 今 」「 現在 」という気(ki)の中で「 知覚されたもの 」には情(zyou)は無いが、無常は可能性として意識に現れる。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果であり、新陳代謝がなければ、進展や発達は無い。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


今日の自分は明日の自分ではない。


「 無常 」を受諾することは、明日の自分は今日の自分ではないことを期待することが出来ることである。


「 無常 」という可能性を持っていることに感謝することが、「 無常 」を受諾する動機になると思う。
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2011年11月12日

2011/11/12、想像・人生は無常が基本1・無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/10、私の記事


ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。




2011/11/12、私の考え


科学や哲学が、体系の姿をして、絶えず崩れる根底には、「 無常 」という「 関係 」が存在するからだと思う。


私と物体との間が不変であると思えても、地球規模では自転する地球の上の出来事であり、それを宇宙規模でいえば「 太陽系 」が宇宙の中を動き、しかも宇宙自体も膨張していることを考えると、地球上の全ては運動の観点から相互に運動している。


エネルギーの観点からは、人間の全てが新陳代謝をして、観察者の全てが変化している。


この、「 常でないこと 」「 無常(muzyou)」という関係、すなわち情(zyou)の上に、科学や哲学が成立していることが原因で、体系が崩れるのだと思う。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であるが、これは、「 知覚することが出来るもの 」だけでなく、目には見えない背後の関係を加えて知覚することである。


「 背後の関係 」とは目に見えるものだけでなく、目に見えるものが存在する状況を、意味を知ることである。


事物の「 存在 」は、「 一定の関係 」であり、「 恒常なもの 」ではない。


「 無常 」は「 恒常ではないこと 」と解釈し、「 無常 」を真剣に考えたほうが良い結果が生まれると思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは、「 時間 」ではなく、「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、「 時間の終わりである死 」を考えて生きる必要はない。


「 死 」を考えずに、「 無常 」を自覚して生きれることで、「 死 」を考えることと同じ効果を得られると思う。


「 無常 」を真剣に考えるなら、自分が「 今 」、何をすべきか、わかると思う。


短い「 人生 」の中で、自分が何を為すべきかを。


「 情(zyou)」を含まない「 今 」、「 現在 」に、「 無常 」という社会的関係は満ちていて、その「 無常(muzyou) 」という情(zyou)に対して自分の可能性を具現化する手段として「 逃避 」「 対決 」「 受諾 」の態度があると思う。


「 逃避 」は、無常を考えず娯楽などで気持ちを紛らわすことであり、「 対決 」は無常を否定することだろうが、これらは「 目に見えるものだけが客観的である 」という態度であると思う。



「 逃避 」する生き方に自分の可能性を発見するか、「 対決 」する生き方に自分の可能性を発見するかは自由だが、「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方に自分の可能性を発見するのが最も望ましいと思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、人生は「 無常 」から、逃れることは出来ないからだ。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


生きる限り無常であり、全てが無常であると思う。


「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方に自分の可能性を発見するとは、「 諦めること 」ではない。


日本語の辞書で調べれば「 無常とは諦めること 」かも知れないが、「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方は、それとは、全く反対方向の生き方である。


「 諦める人 」は、「 逃避する人 」であり、無常を真剣に考えない人だと思う。



私が考える「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方は「 無常を感謝すること 」から始まるが、これは、後日、書くことにする。

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2011年11月10日

2011/11/10、想像・絶望と無常2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/11/8、私の記事



以上の考えにより、私は、次のように考える。


@絶望

「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視すること
により「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、これを「 絶対視 」するのが「 絶望 」であると思う。


社会的一般常識では、これが、「 諦め 」となり、「 無常 」というのかも知れないが、私は、「 無常 」については違う見解である。



A無常


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることである。


「 知覚した現状は、必ず変化すること 」であり、「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」だけであり、万物は流転するのが基本的な考えであると思う。


実際、「 今 」静止していると観察されても、地球規模、あるいは宇宙規模では「 動いている 」のであり、学問的な要請で、静止していると精神で規定しただけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であると、私は考える。


Bこれからの方法


生きるためには、「 今 」の中に、関係は無数に存在し、それが永遠的な関係も含まれるから、ひとつの可能性を絶対視して絶望するのではなく、他の関係も探すことが必要だろう。


ただし、その「 関係 」は無意識(バイオリズム)であるから、個人の内部に存在し、その個人しか発見できないと思う。



2011/11/10、私の考え



私は、これまで次のように書いてきた。



@

無意識や小脳の可能性というのは、バイオリズムという「 情(zyou)」であり、「 意識 」には「 心的存在意識 」として現れるだろう。


A

心的存在意識を、「 今 」、自分の可能性の方向に取捨選択するのが「 価値観 」であり、「 人格 」だろう。


B

心的存在意識は「 関係 」であり、「 知覚したもの 」ではないから、見えるものだけでなく、関係も考える必要がある。


C

「 今 」「 現在 」は気(ki)であり、呼吸で決められ、「 今 」の中に「 過去や未来 」を決める情(zyou)は、未来への可能性という「 心的存在意識 」や「 関係 」として現れる。


D

「 今 」「 現在 」の中に、「 永遠 」なのは「 時間 」ではなく「 関係 」である。




E

ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。

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2011年11月08日

2011/11/8、想像・絶望と無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/11/6、私の記事



以前にも書いたが、「 心的存在保持意識 」は、「 フィーリング 」であり「 気持ち 」であり、「 気分 」であると思う。


人類の全てが「 気持ち 」や「 気分 」を持ち、それが「 心的存在保持意識 」であると思う。


「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視することにより「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、一致するときは「 無意識 」(バイオリズム)による行為として具現化していて、「 気分 」として知覚しないと思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するときは、考えるという意識が生まれない。


「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、自分が正当で他者が間違っていると考えるのではなく、一致しない原因は自分の中にあることの自覚が必要だろう。

2011/11/8、私の考え



以上の考えにより、私は、次のように考える。


@絶望

「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視すること
により「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、これを「 絶対視 」するのが「 絶望 」であると思う。


社会的一般常識では、これが、「 諦め 」となり、「 無常 」というのかも知れないが、私は、「 無常 」については違う見解である。



A無常


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることである。


「 知覚した現状は、必ず変化すること 」であり、「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」だけであり、万物は流転するのが基本的な考えであると思う。


実際、「 今 」静止していると観察されても、地球規模、あるいは宇宙規模では「 動いている 」のであり、学問的な要請で、静止していると精神で規定しただけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であると、私は考える。


Bこれからの方法


生きるためには、「 今 」の中に、関係は無数に存在し、それが永遠的な関係も含まれるから、ひとつの可能性を絶対視して絶望するのではなく、他の関係も探すことが必要だろう。


ただし、その「 関係 」は無意識(バイオリズム)であるから、個人の内部に存在し、その個人しか発見できないと思う。

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2009年06月16日

2009/6/16・オカルトの展開(盲目のピアニスト)

Yahoo USA は、「オカルトの展開(派生する物)」という記事を掲載してくれたが、私の考えは、まだ成熟していない。

私が具体的な事案を出せば、私の考えが未熟である事を理解する事が出来るだろう。



派生する物としての「意識」が、「実体」に依存するのが普通である。

「感覚」を確かめる(自分が自分と確認する自意識を持つ)という事が、夢と現実が相違するのだという考えも同意しますが、私は違う考えを持っている。

「感覚」の中で「視覚」について少し考えた。

物体の色彩を感じるのは、物質が光を反射するからであり、現実生活で命への危険を避けるために、網膜の倒立した像を更に倒立させ、二つの眼から入った光の干渉で自分の身体との距離を計測する。

眼から入った光のエネルギーや頭脳への伝達の過程も伝達物質は判明していない。

これが、「視覚」であり、「 意識の世界 」であれば、私は物質と光に依存した、光に反応する動物であるとも考える。

この物質に依存した生活をする人を「健常者」と呼ぶ。

しかし、先日、米国・バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さん(20歳)の事を考えると、ヒトは、身体への太陽光には影響されるが、光に依存する「視覚」だけで生きているのではないと思う。

辻井さんは全盲であり、鍵盤の配置を身体で感じ、楽譜を見る事もなく身体で旋律を記憶し、ピアノを弾いて、コンクールで優勝した。

全盲でありながら、日本人で初めて優勝した彼の才能と努力は、誉めても誉め足りないくらい、素晴らしいものだと思う。

これは、眼で見なくても、「光」に依存しなくてもピアノを弾く事が出来ると実証したもので、障害を持つ人ばかりでなく、「 健常者 」の私達も、一つの感覚を喪失しても、他の感覚で補填する事が可能であるという「 可能性 」が広がったと考える。

全盲で、国際的なピアノコンクールで優勝するという現実が「 夢 」である。

「感覚」を確かめる(自分が自分と確認する自意識を持つ)という事が、夢と現実が相違するのだという考えに同意するが、「 違う感覚で補填する事が出来る 」という事、「 意識ある現実生活 」を決める「 意識 」は社会で決められた意識でない事を、辻井さんは実証したと考える。


霊界から判断すると、普通の感覚を持つ「健常者」の私たちが「障害者」で、「光」に依存せず、「楽譜」にも依存せず、耳から得た旋律だけでピアノを弾く辻井さんが、「健常者」であるかも知れない。


辻井さんの業績は素晴らしいものだが、それは「障害を持つ人」だけでなく、五体満足な「健常者」の可能性を拡大した、霊界からの使者かも知れない。



Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年06月13日

2009/6/13・「死中生有り、生中生無し」と政治

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/4/17・考えた事



私は、上杉謙信について、詳しく知りません。
私は、次に掲載するURL を見て考えただけです。

義ー武士道
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。

フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

(引用を終わる)


直江兼続ー謙信の教えを胸に刻んで
http://www.tentijin.jp/2007/09/post-98.html



上杉謙信が49歳で死去する城の壁に次のような言葉が書いてありましたので、抜粋して引用します。

彼は、これを心意気として、記したものだと思います。

外国の人が、詳しい事を知りたい時は、日本語学校の先生に聞いてください。



「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。

帰ると思えば、これまた帰らぬものなり」



私の解釈

私は、上杉謙信が残した「 死中生有り、生中生無し 」というのは、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまう」事だと思います。

上杉謙信は、「 義 」を標榜した武士でした。

それは、紹介した「 義―武士道 」のURL をクリックすれば、知る事が出来ます。

ですから、私は、「 死中生有り、生中生無し 」の前提として、「 義 に生きる武士は 」という主語を付けます。

死ぬのが予見されている戦場に「 生 」を求めるのは、無謀です。

そこに「 義 」を組み込む事により、「打算や損得を超えて、人としての正しい行為」として戦う時、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまうのだ」という教えだと思います。

「大義名分」という言葉がありますが、「 義 」のために、死の戦場に赴けば、鬼も、神も、その気配に対して、退くと解釈します。

彼らが若い時は、少数の手勢で決死の「奇襲」を行いました。

その時の心意気は、「死中生有り」であるでしょう。

大国の領主になって、生きたいと、「 保身 」の気持ちで戦えば、多数の軍勢で戦っても滅びる。

それが「 生中生無し 」だと解釈します。

現代でも、この精神を持ち、何が「正しい行為」かについては社会の法に従いますが、「 保身 」の気持ちを持って事態を収拾すると「 滅びる 」と解釈した時、事態を判断する「 反対称 」の座標として有用だと思います。




2009/6/20・考えた事。



鳩山総務大臣は、自らの考えを「 正義 」と思って、正義を貫くために辞任したと言う。

ヒトは、「社会」の中の「精神」の「 正義 」に加えて、自分の「 主観的 」な「 正義 」を持ち、その方向が一致する場合もあれば、相違する場合もあると、私は考える。

その考えで、2009/6/12「鳩山総務大臣の辞任の意味」を書いた。

もう一つは、「意思は形態として具現化する」事も、考えた方が良いが、これは次の機会に書く。

今日は、「 死中生有り、生中生無し 」の話題である。

近年、日本の政治家に、尊敬する人は存在しない。

それは、「 義 」の為に死ぬ人や「 義 」の為に行動する人が存在しないのだと思う。

「 正義 」を笑う人も存在するが、「 政治家 」は、「 義 」の為に働く人であると思う。

今、そのヒトが必要であるのに、政治家が「 義 」を持っているか否か、国民には、非常に判別が困難である。



米国では、大統領選挙の前に予備選挙があり、経歴から考えまで、プライバシーまで接触するほど、候補者の情報が公開されると思うが、日本では、選挙の前に、政治家が手を振り、「皆さんの清き一票をお願いします」という宣伝をする。


公民館で政策の発表ではなく、「 激励会 」であり、聞きたいという欲求も起こらない。

後は、選挙民の、金銭目的の利己心で動く「一票」を待つヒトが多い。

テレビの情報も、一方的で、放送料金の無駄遣いである。

国民に、候補者が「 義 」の為に働くのか、あるいは自分の金銭や世襲した「家」の為に働くのかを、明確に判断できるシステムを要求する。

例えば、インターネットを利用した政見放送とか掲示板を使った公約についての話し合いなどだ。

政治家の世襲反対などは、口実であり、政治家の制限も必要だが、「 義 」の為に働くか否かが問題である。


政治家は、日本の「 上杉謙信 」の言葉を勉強して、「 義 」とは何かを知って、実践して欲しい。


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2009年04月17日

2009/4/17・私の解釈・「死中生有り、生中生無し」

Yahoo USA は、私のブログを「上杉謙信」でも「死中生有り、生中生無し」でも掲載しています。

上杉謙信 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklpc_.ZJTboAbpul87UF?p=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

死中生有り 生中生無し m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkw7e_.ZJtaIA4sNXNyoA?p=%E6%AD%BB%E4%B8%AD%E7%94%9F%E6%9C%89%E3%82%8A%E3%80%80%E7%94%9F%E4%B8%AD%E7%94%9F%E7%84%A1%E3%81%97%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-501&fr2=sb-top

私は、上杉謙信について、詳しく知りません。

私は、次に掲載するURL を見て考えただけです。



義ー武士道
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。

フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

(引用を終わる)


直江兼続ー謙信の教えを胸に刻んで
http://www.tentijin.jp/2007/09/post-98.html



上杉謙信が49歳で死去する城の壁に次のような言葉が書いてありましたので、抜粋して引用します。

彼は、これを心意気として、記したものだと思います。

外国の人が、詳しい事を知りたい時は、日本語学校の先生に聞いてください。



「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。

帰ると思えば、これまた帰らぬものなり」



私の解釈

私は、上杉謙信が残した「 死中生有り、生中生無し 」というのは、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまう」事だと思います。

上杉謙信は、「 義 」を標榜した武士でした。

それは、紹介した「 義―武士道 」のURL をクリックすれば、知る事が出来ます。

ですから、私は、「 死中生有り、生中生無し 」の前提として、「 義 に生きる武士は 」という主語を付けます。

死ぬのが予見されている戦場に「 生 」を求めるのは、無謀です。

そこに「 義 」を組み込む事により、「打算や損得を超えて、人としての正しい行為」として戦う時、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまうのだ」という教えだと思います。

「大義名分」という言葉がありますが、「 義 」のために、死の戦場に赴けば、鬼も、神も、その気配に対して、退くと解釈します。

彼らが若い時は、少数の手勢で決死の「奇襲」を行いました。

その時の心意気は、「死中生有り」であるでしょう。

大国の領主になって、生きたいと、「 保身 」の気持ちで戦えば、多数の軍勢で戦っても滅びる。

それが「 生中生無し 」だと解釈します。

現代でも、この精神を持ち、何が「正しい行為」かについては社会の法に従いますが、「 保身 」の気持ちを持って事態を収拾すると「 滅びる 」と解釈した時、事態を判断する「 反対称 」の座標として有用だと思います。


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2008年09月05日

2008/9/5・ SEX 画像

私の空想

哲学者は、将来、意識や無意識について書物を書くだろうが、私の空想を書いておく。


氷山の絵が書いてあり、海上に現れている部分が「意識」で、海面に隠れている塊を「無意識」と呼ぶという考えを、私は、捨てた。

「意識」は、情報や信号の応答が可能な範囲の頭脳の回路。

「無意識」は、情報が届いていない他の部分とする。

「意識」の速さは、信号の伝わる時間が上限とする普遍定数の光速以下だろう。
普遍定数の光速を超えるものは、「霊」かも知れない。
それが存在するか否かは、保留する。

その「意識」の重なる総体を「心」とする。
心の能力としては、主観的時間に結ばれた記憶の力がある。


海面に隠れた氷山を想像して、「意識」と「無意識」を考えるのではなく、主観的時間を軸とした、記憶の平面、情報の伝達可能性の平面を、私は空想している。

意識の面は、次の通りである。

「可能性の制約」の「制約」が、相対論の光速による同時性の定義と解釈して、制約の中で「点の存在を形成」するのは「可能性」を思考している「自意識」が存在すると解釈する。


これは、私が、デカルトの「われ思う。故にわれあり」を「自意識」として「 霊 」として、「自国の民族意識 」として認めた事を表現した文章である。




2008年9月5日に考えた事

私が、何故、光円錐のように、意識と無意識を考えたのは、人間は、@如来様(nyoraisama)の「宇宙」の産物でA精神と意識を持ったB自意識であるからだ。

Bの「自意識」は、「 今 」という現在に存在する。
聞く物、見る物、全て、過去の出来事を認識している。
その過去は、仏教の「 阿頼耶識 」に通じる。
何故ならば、人間は全て、祖先を持つからだ。
無意識とは、生まれてから全部、体験した経歴が重なっているのだ。
だから、人間は、繰り返し「 背徳 」行為を行う。
物語を完成させようと、自分の過去の物語の先を読んで将来に投影するのだ。

しかも、自分の好きな分野を……。

阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98

SEX が好きな人も考えてください。

あなたは、なぜ、

老人のSEX を検索するのですか?

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2008年06月11日

6月11日・人生とは、死とは(念仏)

私は如来様(Nyoraisama)は、「宇宙の力」と思っている。

2008年2月21日
私は何をするために誕生したのですか?身体は如来様(Nyoraisama)だから、身体を使って如来様(Nyoraisama)と対話するしか方法が無い。
宗教には、行為や儀式が必要なのは、それが理由だろう。
何を対話するのか?


この時点では、如来様(Nyoraisama)は、外部に存在すると思っていた。

しかし、2008年5月21日の記事。

「死は、リセットである。それは夢の終わりである。それは如来様(Nyoraisama)の夢の終わりである。私の死により、夢から目覚めた如来様(Nyoraisama)は、私の身体から離れて、また別の人体で夢を見られるだろう」

私の人生は、如来様(Nyoraisama)は、眠った状態で「自分」に中に滞在している状態という事を意味する。

5月24日、念仏三昧について

自分が既に如来様(Nyoraisama)であり、ただ眠った状態であり、夢から目覚めさせるのが「悟り」と思う。

自分の中の、如来様(Nyoraisama)と、お会いしたいと強く思って、念仏していると、「自分内世界」の中に、まるで外部の「世界内自分」から如来様(Nyoraisama)が来たように、自分の中から、如来様(Nyoraisama)が現われる。


6月11日に考えた事。

以前、「自分内世界」と「世界内自分」の境界が無くなると書いたが、これは誤りだった。
如来様(Nyoraisama)に対して、「自分」という意識が無くなるのだ。
念仏して、自分を忘れる事だ。
日常生活でも、「自分」が何を見て、何を考えて、どのように行動したかは、「自由」と言えば、全て、世界の人に理解してもらえる。
意識の自由は、「夢を見ている」如来様(Nyoraisama)の働きである。
その意識の、「自由」な選択が、如来様(Nyoraisama)の「必然性」と一致すれば、「自由」は消滅して、如来様(Nyoraisama)が「夢から目覚める」。

「必然性」とは、絶対的因果関係である。

自分という意識が、如来様(Nyoraisama)の「宇宙の領域」へ消滅した事により、如来様(Nyoraisama)を含んだ「大我」になるという意味で「自分の拡大」であると思う。
それは、「精神世界」の全てを知った人という意味の「大我」ではないと思う。

自分の中の、如来様(Nyoraisama)と、お会いしたいと強く思って、念仏していると、「自分内世界」の中に、まるで外部の「世界内自分」から如来様(Nyoraisama)が来たように、自分の中から、如来様(Nyoraisama)が現われる。

「自分という意識」が消えて、如来様(Nyoraisama)になるのだ。

SEX の快感で、自分を忘れる事もあるかも知れないが、これは別の問題だと思う。

まだ、迷っている。
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2008年06月08日

6月8日・人生とは、死とは(結婚式)

6月になり、結婚する人も多いと思う。
結婚式には、神式、仏式、キリスト教の教会などあるが、神主や神父などを、どうして必要とするのだろう。

「今日から夫婦となると発表します」というなら、披露宴を開催すればよい。

「今日から、夫婦となり SEX をします」というなら、神主や神父は必要が無いだろう。

「神様、仏様に誓います」といえば、必要だろうと思う。

しかし、何を誓うのか?

夫婦の「愛情」か?
「情」は崩れやすい。
そんな事を、神様には通用しない。
愛情の永遠などを、誓っても無駄だろう。


「夫婦の愛を神様や仏様に誓います」といえば、同意する。


病気の時も災難の時も、離婚せず励ましあうのが「愛」かもしれないが、私は少し違う。

離婚する場合も「愛」の表現である場合があるかも知れない。


「愛情」が不足すれば離婚すると思うが、私は少し違う。

「情」と「愛」は別の事と私は思うから、「情」が無くても「愛」がある場合があるし、「愛」が無くても「情」がある場合がある。

だから、「愛情」が無くても、離婚はしない事も考えられる。


「情」は如来様(Nyoraisama)の領域の本能の部分であり、「愛」は「精神世界」の領域に存在し、本能の中では本能を抑制するものだと思う。


二人の間で、お互いを人格者と認め「愛」や「尊敬」や「人間の尊厳」を神様や仏様に誓うのが結婚式である。

結婚する前に、「愛」を確認した方が良いだろう。

これは、フィクションだから、参考にしない方が良いだろう。


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2008年06月06日

6月6日・人生とは、死とは(愛と愛情)

私の基本的立場は、2008年4月23日の記事から進んでいない。

私は、自分の努力では何も達成する事ができない身体的な物。
例えば、人種や肌の色や身体の構造を、如来様(Nyoraisama)が与えた個性と考えます。
その中に、「本能」を含んで考えます。
例えば、性欲や食欲や睡眠などの生命維持のために必要な物です。
それを、「精神」ではなくて、「宇宙」の中に入れます。
これは、学問的には、間違いかも知れませんが、今は、そう思います。

6月6日に考えた事。

愛情と書いて、「愛」と「情」が一つの事のように思えるが、私は違う考えだ。

@「情」

「人情」という言葉があるが、「有情」や「無情」や「同情」という言葉もある。

「情」は、如来様(Nyoraisama)の領域の言葉で、生命と生命が共鳴する「宇宙の領域」だと思う。
有限の生命同士が、有限の存在である事を確認する領域。
「情」と「事」を組み合わせると SEX すると言う意味になる。
「情」は命と考え、「自分内世界」の中で、自分の命を維持する本能と、認識した他者の生命体と分ける。



A「愛情」

頭脳の中の「世界」では「愛」かもしれないが、人間は生命体だから、相手に対して「情」が加わって、「愛情」として、態度に現われる。
「母の愛」とか「父の愛」とか言うが、「愛」ではなくて「愛情」である。
「愛」を「愛情」と思うのは間違いだと思う。

母親が子を愛し、子が母親を愛する事が理想とは思わない。
それは、「愛」ではなくて「愛情」だからである。
「情」が加わるから、私は、賛成しない。



B「愛」

頭脳に「愛」が有るとすれば、その原因は、如来様(Nyoraisama)の中に有ると思う。
「情」は命と考え、「自分内世界」の中で、自分の命を維持する本能と、認識した他者の生命体と分けたが、他者の生命体への配慮が「愛」だと思う。

「愛」は、「自分内世界」の中に存在するのではなく、「世界内自分」を考えた時に、他者の生命体への配慮が結実した思想であり、観念であると思う。

それは、社会の規範や宗教の「愛」であり、本来の人間の中には、存在しないと思う。

教育すべきなのが「愛」だと思う。

釈迦やキリストは、「愛」を創る事が出来たが、私は学ぶしか方法がない。
「愛」が無くても、生きられるかも知れない。
「愛」は、宗教や民族の数と同じ数は存在するだろう。



大きく、間違っていると思うが、私は、独り言を書いているのであり、同調や批判は求めない。

妄想を進むだけである。

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2008年06月01日

6月1日・人生とは、死とは(業)

独り言Tに、フィクションの要約をしたが、更に省略して書く。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」

「宇宙」は絶対的な因果関係で結ばれ、生じる事も消滅する事も必然であると思う。

「宇宙」と言うが、遥か遠くの天体の話では無い。

遠い天体間の距離も、目の前の距離も、「宇宙空間」であり、世界中の皆が、如来様(Nyoraisama)が創った「宇宙の塵」である。

生まれる前も、「宇宙の塵」で、死ぬと「宇宙の塵」に戻る。

佛(hotoke)を創ると同時に生命体となると思うが、私は、他の動物も含めて、「生命」について理解していない。


A「世界」は意識であり、「精神」である。

人間は、頭の中に、つまり「精神」の中に、如来様(Nyoraisama)が創った「宇宙の塵」を持っていない。
知覚して、「宇宙の塵」のイメージを、意味という情報にして、自分の意識で、自分が生きるための情報に採用するか否かを判断して脳の中に蓄える。
その、想像する空間が「世界」であると思う。
「世界」とは、価値観を含んだ頭の中の空間であり、如来様(Nyoraisama)の「宇宙の空間」ではない。

人間は、「相当因果関係」の範囲内で、知覚可能な物しか、知覚しない。
大きい物や小さい物は知覚できず、中間の物を知覚している。

6月1日に考えた事。

Wikipedia によれば、「業」とは、行為の意味。
因果思想と結合し、業はその善悪に応じて果報を与え、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、代々伝わる。

生命を理解していないから、輪廻転生も理解していない。
独断と偏見で書くことにする。

生命や霊が佛(hotoke)という「宇宙の塵」に寄宿する時、それは誕生だろうが、「精神世界」に入ると考えるのは、間違いだと思う。
親の精子の中の DNA が、既に「精神世界」を運んでいるかも知れない。
人類の進化は、人類の DNA に、情報が貯蓄され、それがSEX により、母の胎内の中に、直接、伝達されると思う。
昔の時代と今の時代の子供は、頭脳が違うと思う。
子供の脳の中には、今までの親の情報が混入しているのだと思う。

祖先から伝わった行為に、親の行為が加わったものが「業」であり、親が死んでも子供に伝わると考える。
親が、「何を喜びとし、何を苦にした」事実が、沈殿して伝わると思う。
それを、相当因果関係としてしか判断しないから、自分の子供には、自分の特徴は無いが、自分が死んだ次世代に、その特徴が現われるかもしれない。
しかし、私は、両親を知っていても、「精神」が何処から来たのかは、知らない。
親の「業」の全てが、子孫に伝わるとは限らないし、輪廻転生と言って、如来様(Nyoraisama)により、親を替えて伝わるかも知れない。
絶対的因果関係では保存されるが、相当因果関係では判別が不能ということだろうか?

そう、考えると、釈迦の次の言葉が少し、心配になる。


Wikipedia より引用

人間は、生まれによって尊いものでも、賤しいものでもない。その行為によって、尊くも賤しくもなる。



私のフィクションでは、自分の精神は、自分を生んだ親の「尊くも賤しくもなる」行為の結果であり、自分の子孫は、自分の行為によって、「尊くも、賤しくもなる」かも知れないというのが、その帰結なのだ。

私の「精神世界」は、先祖の「精神世界」を引き継ぎながら、自分の「精神世界」を作って、子孫に残すという結論になる。

釈迦とは違った考えだから、間違いと思うが、今は、捨てられない。

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2008年05月30日

5月30日・人生とは、死とは(SEX)

性については、以前、考えた事から、進展していないので、その記事を掲載する。

Big Dikz
   ↓
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=t&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4SUNA_jaJP253JP254&q=Big+dikz

私のブログが、「 SEX画像 」として検索の上位に登録されているし、毎日、それを検索する人が多い。
人間の性器や「SEX」に関しては、共通の話題で、賛否が別れると思うが、私の考えを書く。


2008年4月23日の記事。

私は、自分の努力では何も達成する事ができない身体的な物。
例えば、人種や肌の色や身体の構造を、如来様(Nyoraisama)が与えた個性と考えます。
その中に、「本能」を含んで考えます。
例えば、性欲や食欲や睡眠などの生命維持のために必要な物です。
それを、「精神」ではなくて、「宇宙」の中に入れます。
これは、学問的には、間違いかも知れませんが、今は、そう思います。

「性欲」自体は、非難すべき悪い事では無いと思います。
如来様(Nyoraisama)が与えた子孫を残す方法ですから、社会の規範や道徳で非難するのは間違いです。
裁判官も道徳者も、教育者も、性器をもちSEX して子孫を残しています。

私のフィクションを発展させると、抑制しなくてはならないのは、「性欲」が「精神」に発展する事です。
「精神」は「意識」ですから、性欲を意識する事を抑制する事です。
性欲だけで精神が無い行為は、動物の行為と同じと考えます。
これは、私のフィクションでは、許されます。
許されないのは「性欲を意識して、発散させる事」です。

如来様(Nyoraisama)が創る物を「宇宙」と呼ぶ。
男性の身体は如来様(Nyoraisama)の「宇宙」で、射精された女性の身体も「宇宙」で、受胎も「宇宙」。
その中に、「神経の刺激を快感と感じる精神」を持つことが、「射精」に必要かも知れないが、「宇宙」に対しては価値が低い事だと思う。
価値の低い「快感」という精神を追求しても、それは無限に大きくなるから、抑制すべきだと思う。

それが、

Big Dikz でも小さなDikz でも、小便や生殖が可能ならば、悩む必要は無い

という理由である。

快楽という「精神」を楽しむならば、「Big Dikz」を好むのは、当然かも知れない。
しかし、快感という精神は、肉体の刺激だけで達成されるのではない。
「自分は、他人とは違った、特別の行為をしている」という意識も、精神の中に入るだろうし、「小さなDikz」でも、愛情で「快感」と感じるかも知れない。
あるいは、Animal を相手に行為するアブノーマルな行為で快感を感じるかも知れない。
他にも、快感は得られると思うから、「精神」の領域は、無限大と思う。

5月30日の記事。

性器の摩擦による刺激が、脳に伝達されて、射精をさせて子孫を残す事は、動物に許された子作りの快感である。
動物は、発情期に支配され、生理の周期を考えたり、快感だけを追及する行為はしない。

人間は、Big Dikz を求めたり、コンドームを使ったりして、快感という「精神」を追求する。
「生殖行為」から「快感」という精神を楽しむ。

私は、夜を昼のように明るくしたり、夏と冬を冷暖房で調整するように、「生殖」という如来様(Nyoraisama)という「宇宙の力」を、人工的な装置でオモチャにしていると思う。
原始生活に戻れとは言わないが、人工的な産物で楽しむ間に、命を尊重する気持ちや、地震の予知などの「宇宙の力」は、自分から無くなるかも知れない。
仏教で「中道」という言葉を聞くが、違う意味だと思うが、人間と動物の「中道」としての考えを持つのが良いと思う。


学校の性教育も、「生理」を教えて、快感を追求する方法ではなくて、命についての教育が必要だと思う。


それと、AnimalのSEX動画を見ると、出演する人間は、人間の限界を見せてくれるから、貴重な画像である。
しかし、人間に調教されたAnimalが、発情期に交尾するという自然の摂理から離れ、人間の欲望のままに交尾かる姿を見る時、動物の哀れさを感じる。

動物を愛するならば、自然の摂理に従った飼育法をした方が良いと思う。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2008年05月28日

5月28日・人生とは、死とは(生きる)

2008年5月26日の記事に、こんな事を書いた。

「世界」の中に如来様(Nyoraisama)は存在しない。
「世界」を創るのが如来様(Nyoraisama)だ。
……(省略)……
私は、「小さなDikz」で書いたように、自分の努力で解決する事が出来ないのは、「個性」として受け入れる態度である。

2008年5月28日の記事

生きる事については、独り言Tの要約などで、書いて、繰り返しになるが、少し考えた。
これは、フィクションであり、同調を期待しない。
いつものように、独断と偏見で書く。

「世界内自分」は、権利義務の帰属として「自分」を考えた。
如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を「自分内世界」では与えられた物として如来様(Nyoraisama)に不満を言わないが、「世界内自分」では、「人類としての自分」として、人類の特殊な自分を正当に扱うように要求する。
「小さなDikz」であっても、平等な扱いを社会に要求する。

社会には、平等な扱いを。

如来様(Nyoraisama)には、感謝を。

どうして感謝するのか?

これは、フィクションであり、間違っているかも知れない。

それは、如来様(Nyoraisama)が、自分の身体を選び、修行、あるいは夢を見ているからだ。
自分を選んでもらった事に感謝する。
そして、自分の「苦」のように思えるが、それは如来様(Nyoraisama)の「苦」が自分の身体の上に現われていると思い、「自分」の「苦」だとは思わない。

それは、「自分」が選択する余地が無いものであり、責任は如来様(Nyoraisama)にある。

これは、自分の力では解決する事が出来ない事は、受け入れる態度であると思う。

自分の姿は、如来様(Nyoraisama)が修行する姿だと考える。
すると、人生が「苦」であっても、それは如来様(Nyoraisama)の「苦」であり、死によって、終止符を打たれても、無念という気持ちは無くなるのではないかと思う。

これは、健常者が言う、つまらない事かもしれない。

Poor thinking is as good as no thinking.

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2008年05月26日

5月26日・人生とは(如来様)

今日、TV のニュースで、若くて美人のアナウンサーが自殺したと報道していた。
それで、「死とは」をタイトルから外すことにした。

さて、フィクションの如来様(Nyoraisama)について理屈を考える。

想像して得られるイメージは、S F 作家に任せる。
それ以上のイメージを、私は持っていない。
「世界」の中に如来様(Nyoraisama)は存在しない。
「世界」を創るのが如来様(Nyoraisama)だ。

最近、四川省の地震が話題になっている。
地震も、サイクロンも、地球温暖化も、「宇宙」の問題だ。
その力が、「宇宙の力」であると思う。
太陽からエネルギーを得て、育つ樹木は、どうした。
動物は、どうした。
樹木は、サイクロンの力の前に倒され、動物は地震から逃げた。
「南無阿弥陀仏」と言って、自分は全部、阿弥陀の物だと祈る人間はどうした?
阿弥陀仏が助けてくれたのか?
倒されるでも無いし、逃げるでもない。
逃げられずに、死者が出た。

私は、「小さなDikz」で書いたように、自分の努力で解決する事が出来ないのは、「個性」として受け入れる態度である。

地震も、サイクロンも、地球温暖化も、「人類としての意識」で受け入れるが、逃げるならば、もっと早く、他の動物よりも早く、逃げられないのかと残念に思う。
人間は、霊長類の王様だから、それくらい知恵がほしい。
それと、地球温暖化だが、科学が発達しても、樹木の「葉」一枚が作れないのだろうか?
大規模な「葉」を作れば、酸素も作れるし、炭酸化物も作れて、食料難も、解決するのではないのか?
何か、行動しないと「人類の絶滅」も考えられる。
「絶滅」は、自然界に珍しい事ではない。

砂漠に育つ樹木とか、あるいは、小学校で学んだが、光合成が可能な「葉」を人工的に作る事は出来ないのか?
これらを、自由自在に創る人は、「神様」だろう。

如来様(Nyoraisama)は、全てを創る「宇宙の力」で、人間に解決不能な現象して現われると思う。

仏教が、「精神世界」ならば、如来様(Nyoraisama)は存在しないと思う。
存在を祈る身体を宿舎にして、眠っている。
posted by kandk55 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5月26日・人生とは、死とは(夢)

妄想は、ここから始まった。
2008年5月21日の記事。

「死は、リセットである。それは夢の終わりである。それは如来様(Nyoraisama)の夢の終わりである。私の死により、夢から目覚めた如来様(Nyoraisama)は、私の身体から離れて、また別の人体で夢を見られるだろう」

半覚斎さんのブログを拝見して、「どうして夢なのか?」について、再び説明する必要があると思います


考えている間に、自分は間違っているだろうと思いますが、説明をします。


生きている事が如来様(Nyoraisama)の夢という私の理屈。

独り言Tで書いたように、「宇宙の塵」が人体で、「宇宙の塵」を含まないのが「精神世界」です。
人生は、「精神世界」を自分中心に考えた、終わりが有る世界です。

日常の夢

脳は「宇宙の塵」で、生きている間は活動を続け、眠ると、私は、「精神世界」の夢を見る。
夢の中では、目覚めた生活の断片が、因果関係を無視して結合されて、思いもしない結果になる。

如来様(Nyoraisama)の夢

勿論、私の脳や夢は、如来様(Nyoraisama)の夢とは違うが、「宇宙の塵」と「精神世界」を融合するのが「宇宙の力」つまり如来様(Nyoraisama)だと考える。
目覚めた如来様(Nyoraisama)の領域は「精神世界」など必要とせず、「精神世界」が無くても、「宇宙」は存在すると思う。
人類が滅亡すれば、「精神世界」は無くなるが、「宇宙」は存在する事は必然だろう。
「宇宙」は「精神」が無くても存在する。
「宇宙」は、絶対的因果関係だが、「精神世界」は相当的因果関係しか知らない。
「自由意志」と言って、人間の勝手で、「宇宙の塵」や物事を結合する。
如来様(Nyoraisama)からは、これは「悪夢」であると思う。
大きい物体も小さな物体も、完全には見る事が出来ない。
科学は、万人に共通だけど、守備範囲は、人間だけである。
そんな「精神世界」が「宇宙」と同等には考えられない。


人類誕生については、知らないが、何かの偶然だと思う。
「宇宙」の必然として、人類が誕生したのではないと思う。
釈迦やキリストが、「精神世界」に「宇宙の力」を表現したから、彼らは「神」として扱われる。
それは、「精神世界」は「宇宙の力」では無い事だと思う。
「精神世界」が間違っているという意味で、「宇宙の力」の「夢」だと書いた。
素晴らしいという意味の「夢」ではない。


「精神世界」の真ん中を生きている自分は、如来様(Nyoraisama)を中に埋めたまま、勝手に生きている。
これは、如来様(Nyoraisama)の夢を体現している事であると思う。

昨日、TV で放送していたが、クリーブランドの氷河が全部溶けると仮定すれば、海面が6メートル程、上昇するという。
如来様(Nyoraisama)、つまり「宇宙の力」で「精神世界」を充満させないと、人類の破滅も有るかも知れない。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2008年05月25日

5月25日・半覚斎 様 へ感謝

今日、半覚斎様のブログを拝見させて頂きました。

ブログのタイトルは、次のとおりです。
カテゴリーは、「独り言」で、私のブログと同じです。
Yahoo USA にも、紹介されています。


 「 半覚斎閑時種 」


私は、仏教については、念仏会で講話をお聞きするぐらいで、勉強はしてません。

しかし、父母の死や上司の死を見て、私は死ぬ前に、人生とは何か、死とは何かについて知識を持っているならば、私が死ぬ時に私を看取る妻や子に何と言えば、私の気持ちが伝わるか便利だと思い、ブログを書いています。

私が、脳梗塞や心筋梗塞のために身体が麻痺して、言葉が出ないとき、あるいは死ぬ間際のとき、僧侶が私に説法し、私が「ありがたい。私も仏になれる」と言って死ぬのが理想でした。

しかし、人を頼ってはいけない。
人には、それぞれ事情がある。

それでは、自分が納得するように理屈を考えようと思ったのが、このブログでした。


仏教に興味を持った人は、「 半覚斎閑時種 」の半覚斎さんのブログを見てください。


私は、私のために、このブログをフィクションという形で書いているのです。
老人になれば、有ることも無いことも、混在させて話を作る傾向があります。
私のブログが、それに該当します。

仏教の教えは、間違った道では、到達しないと思います。
私は、迷いながら、記事を書いています。
皆さんの参考には、なりません。
用心して、閲覧してください。
posted by kandk55 at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5月25日・人生とは、死とは・人生

5月21日、このように書いた。

「死は、リセットである。それは夢の終わりである。それは如来様(Nyoraisama)の夢の終わりである。私の死により、夢から目覚めた如来様(Nyoraisama)は、私の身体から離れて、また別の人体で夢を見られるだろう」

5月25日、人生について

私のフィクションから考えると、人生は如来様(Nyoraisama)が人体を通して、この世で夢を見ている歴史だという事になる。

私が、人生の中で物事を解決する際、「自由意志」で決定しただろうか?
(「自由意志」については後日考える)
親の意見や教師や友達など、「人類としての自分」の意志で、決めて生きて来た。
しかも、因果関係を考慮して生きて来た。
それは、「宇宙の理法」を利用する事であり、全くの「自由意志」ではない。
過去を思うと、全て人に助けられながら、綱渡りの状態で、人生を歩いてきたのだ。

その事は、私の人体の根底に如来様(Nyoraisama)が眠り、如来様(Nyoraisama)が選択したといえば、責任回避になるだろうか?

「小さなDikz」でも書いたが、自分が努力しても変える事が出来ない物がある。
それを個性と考えたが、それは如来様(Nyoraisama)が創った「宇宙の塵」であり、自分の選択ではない。

如来様(Nyoraisama)は、人生のスタートの時に、既にその人の人生の物語を決めているのだと思う。
障害を持つ人のブログを閲覧すると、私が如何に恵まれているかを教えられる。

その個性を、如来様(Nyoraisama)がその姿になって、夢を見ている。
夢を見ているという意味は、「現実の生活に忙しい、つまり現実の生活の中で自分の使命に従って生きていないという事」である。
夢を夢だと知り、夢から脱出しようとする事は、如来様(Nyoraisama)のように行為しよう(成仏(zyoubutu)しよう)とする事だと思う。

私の過去の人生を取り戻す事は出来ないが、人生は終わっていない。
私は、余命10年と診断された病人だと思って、ブログを書いている。

死を目前にして、「人生とは何か」を考えると、満足する結果は得られないと思う。
生きている間に、「人生とは何か」とかこの世に思い残す事は無いかを考えた方が良い。

この世に、残念や無念の気持ちを残さないようにする。
お金、財産、知識などは、死後に残す物であり、それらに思いを残す事は、一切を所有しなければ、止まらない。
他のブログに書いてあるように、これらを全て所有したものと思い、自分の魂の価値を上げる事を考えた方がよい。
例えば、満員電車で年寄りに席を譲るとか、自分で可能な小さな善行をする方が良いかも知れない。
そうすれば、自分が死ぬ時、「貴方は、あのような善行をした。如来様(Nyoraisama)が見ていたから、天国に行ける」と慰めの一つをもらえるかも知れない。


話は変わるが、死ぬと人の魂は一箇所で会うという考えには、反対である。
「特攻隊員」に、靖国神社の桜となって会おうなどと言う、間違った考えになると思う。
私の考えは、仏典の言葉を無視しているので間違いだと思うが、その考えを維持する。
「諸上善人、倶会一処」が、死んだら一箇所で会えるという意味ならば反対である。
死んでも生きても、如来様(Nyoraisama)は、一つの根底となり、霊的生物を貫通していると思う。
死んでも生きても、人間は、「自分」という殻を抜け出して、如来様(Nyoraisama)を通じて、一箇所で会っているのだ。
現在の姿が、如来様(Nyoraisama)と同居して、死亡した祖先と同居している姿なのだ。
全て差別化され、同じ物は無いが、その根底は一つである。
霊的な理解可能性も、そこから生じると思う。

仏教について、興味がある人は、他に仏教のブログがあるから、それを見てください。
私は、フィクションを書いているのです。
posted by kandk55 at 06:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする