2015年06月20日

2015/6/20、私の現在の考え26・心は磁場である・霊的に生まれ変わる事V

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/6/16、私の記事

私は「 神 」はエネルギーで、「 神 」の身体はエーテルであると考え、「 神 」はエネルギーであるから、人間から見れば「 悪 」であったり「 善 」である場合もあると考える。
「 神社 」は、エネルギーという自然神を奉る建物であると考える(たとえば、静岡県の浅間神社は、富士山をご神体とし、富士山の噴火(悪)を宥め、湧水(善)を感謝する建物であると思う)。
「 神社 」は自然神を奉る所であるから、超能力など神がかり的な力を求める人が集まって来ると思う。
その「 神社 」に憑いている「 悪霊 」に油を注ぐ行為をした「 金山医師 」が信じる宗教が自然神を奉じているのなら、少しは肯定もできる。
しかし、「 金山医師 」が信じるのはキリスト教であり、仏教と同じく「 人が人として生きる思想 」や「 人格の完成を目指す思想 」であるならば、「 金山医師 」の行為を肯定することは出来ない。
私は、宗教を人格完成の思想と考え、太陽や風などの自然を崇拝する思想であると考えないから、IS(イスラム国)や「 金山医師 」の行動を肯定することはできない。
「 金山医師 」の宗教がキリスト教ならば、彼の行為は、イエス・キリストの行為から判断する「 価値観 」に全面的に従い、キリストの「 心 」をくみ取って行為することだとは思えない。
自分勝手に切り取った「 価値観 」ではなく、教祖のすべての「 価値観 」を受け入れることが「 霊的に生まれ変わること 」であると思う。
イエス・キリストが、神社仏閣に油を注ぐなら、私の負けであるが……。

2015/6/20、私の考え


Yahooニュース

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150619-00000005-gnasia-asia

【タイ】韓国お笑い番組のタイ仏教コメディにタイ人激怒

Global News Asia 6月19日(金)17時0分配信

タイの僧侶は、多くの戒律を守り、人々に道を説き導くことで多くの尊敬を集める。しかし、逆に戒律を破った僧侶への罰則は厳しく、時には検挙される事もある。

 2015年6月18日、タイのSNSに掲載された韓国のお笑い番組が多くのタイ人のひんしゅくを買っている。タイの僧侶の格好をしたコメディアンたちが、面白おかしく演じている映像は、タイ人たちは見るに耐えないようだ。

タイの僧侶が女性に触れる事は重大な戒律破りになる。僧侶との記念撮影でも女性が隣に来る事なく、少し距離を置くことが通例だ。

 問題となっている映像は、タイのSNSにアップされると瞬く間にネチズン(ネット市民)たちが噛み付いた。番組の中では、女性に触れたり、叩き合ったりすることや、女性がオレンジ色の袈裟を着ているなど、タイの僧侶は絶対にしてはならないとして、戒律に定められていることを次々と、お笑いのネタとして繰り出している
……………(省略)…………………


(私の考え)


私は、宗教を人格完成の思想と考え、「 人が人として生きる思想 」や「 人格の完成を目指す思想 」であると思う(つまり、人の生き方だと思う)。
韓国はキリスト教の生き方をしている人が多いと思うが、韓国のお笑い番組を創る人が、仏教国であるタイ人の宗教(生き方)をお笑いのネタとする行為は、イエス・キリストの行為から判断する「 価値観 」に全面的に従い、キリストの「 心 」をくみ取って行為しているとは思えない(仏教徒は、こんなことは決してしないのが常識である)。
自分勝手に切り取った「 価値観 」を持ち、教祖のすべての「 価値観 」を受け入れていない人は、「 霊的に生まれ変わること 」が不可能であると思う。
イエス・キリストが仏教徒をお笑いのネタとするのなら、私の負けであるが……。

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2015年06月16日

2015/6/16私の現在の考え25・心は磁場である・霊的に生まれ変わる事U

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/6/8、私の記事

上記のように、「 人 」を形作るのが「 人格 」と考え、最終的にはDNAやRNAによる価値の決定として行為に現れると考えるなら、「 霊的に生まれ変わる 」とは、「 人格を変えよ 」という意味だろうと思う。
それでは、DNAやRNAを変えるしか方法が無いのかといえば、他に手段は有る。
「 人格の完成者 」を仏教では釈迦、キリスト教ではイエス・キリストとすれば、その人たちが残した「 心 」を、そのまま受け入れることだと思う。
「 死んだら終わり 」ではない。
その人が為した行為が「 心 」として、後世に伝わる筈である。
難しいことかも知れないが、釈迦やイエス・キリストの行為から判断される「 価値観 」の全面受け入れ、つまり、「 信仰しなさい 」ということだと思う。
前述したように、DNAやRNAが行為を選んだ「 価値観 」として現れるのが「 人格 」であるが、その逆を辿って、自分のDNAやRNAが持つ気(ki)に変化を及ぼすことにより、「 人格が変わる 」、信仰することにより「 人格 」を変える方法があると思う。
現在のような信仰ではなく、「 本当に信仰してください 」という意味ではないだろうか?
「 本当の信仰とは何か? 」
私は、仏教では釈迦、キリスト教ではイエス・キリストの行為から判断する「 価値観 」に全面的に従い、その人たちの「 心 」をくみ取って行為することだと思うが、僧侶ではないため、私にはわかりません。

2015/6/16、私の考え


Yahooニュース
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150609-00010002-shincho-soci

国宝級「神社仏閣」に油を掛けた「カルト教祖」は在米産婦人科医〈週刊新潮〉


 国宝級の神社仏閣に油を掛けるとは、多くの日本人にとって不愉快極まりない行為であることはいうまでもない。しかし、急浮上した容疑者は、意外にも米国在住の日本人産婦人科医。その上、この男、カルト教団の創始者だという。驚くべき、その正体とは――。
…………………(中略)………………………
カルト教団について情報収集をしている、アッセンブリー京都教会の村上密牧師によれば、

「油の撒布が問題になる中、キリスト教の教会が被害に遭っていないことに気付きました。そこで、こんなことをやるのはキリスト教系のカルト的なグループのはず、悪霊にまつわる活動を行っているIMM(インターナショナル・マーケットプレイス・ミニストリー)が怪しい、という考えに至った。その後、IMMの内情に詳しい人に連絡。ある韓国系のキリスト教団のHPに、金山が神社仏閣に油を撒いている映像がアップされているとの情報を掴んだのです」

 村上牧師は、その映像を入手。5月22日、京都府警南署に提出したという。

 IMMは、金山によって2013年5月に設立されたキリスト教系の教団だ。

 まず、金山医師の経歴について触れておこう。

 1962年9月、東京・深川で在日韓国人の両親の下に生れた。名門の駒場東邦高校へ進学。その後、帰化し、17歳の時には韓国系の教団で洗礼を受けたという。
…………………(中略)………………………

(私の考え)

私は「 神 」はエネルギーで、「 神 」の身体はエーテルであると考え、「 神 」はエネルギーであるから、人間から見れば「 悪 」であったり「 善 」である場合もあると考える。
「 神社 」は、エネルギーという自然神を奉る建物であると考える(たとえば、静岡県の浅間神社は、富士山をご神体とし、富士山の噴火(悪)を宥め、湧水(善)を感謝する建物であると思う)。
「 神社 」は自然神を奉る所であるから、超能力など神がかり的な力を求める人が集まって来ると思う。
その「 神社 」に憑いている「 悪霊 」に油を注ぐ行為をした「 金山医師 」が信じる宗教が自然神を奉じているのなら、少しは肯定もできる。
しかし、「 金山医師 」が信じるのはキリスト教であり、仏教と同じく「 人が人として生きる思想 」や「 人格の完成を目指す思想 」であるならば、「 金山医師 」の行為を肯定することは出来ない。
私は、宗教を人格完成の思想と考え、太陽や風などの自然を崇拝する思想であると考えないから、IS(イスラム国)や「 金山医師 」の行動を肯定することはできない。
「 金山医師 」の宗教がキリスト教ならば、彼の行為は、イエス・キリストの行為から判断する「 価値観 」に全面的に従い、キリストの「 心 」をくみ取って行為することだとは思えない。
自分勝手に切り取った「 価値観 」ではなく、教祖のすべての「 価値観 」を受け入れることが「 霊的に生まれ変わること 」であると思う。
イエス・キリストが、神社仏閣に油を注ぐなら、私の負けであるが……。

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2015年06月08日

2015/6/8、私の現在の考え24心は磁場である・霊的に生まれ変わる事を考える

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
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2015/4/26、私の記事

人はすべて人格者である。
ただ、その「 完成度 」が、すべて違うのだと考える。
なぜなら、DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))が脳波(バイオリズム)という電流になり、それから派生した磁場が「 自我意識 」となり、「 心 」となり、その磁極を脳波(バイオリズム)が決定し(たとえば南極と北極)、磁極と磁極を結ぶ「 定在波 」(バイオリズム)が価値観であり、自我意識の価値観を決定するのは小脳レベルの可能性から生じた電荷が脳波(バイオリズム)というように、電場から磁場へ、そして磁場から電場へと循環して自我意識は進展すると考える。
磁場である「 心 」のなかの磁極は、さまざまな情(zyou)の力(エネルギー)により影響をうけるが、これを情動(zyoudou)と呼び、そのなかに言語や宗教や絵画などの芸術や音楽という文化を含み、これにより人類は重複した価値観、「 定在波 」を持ち、これを自我の価値観と決定するのはDNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))を集めた脳波(バイオリズム)であり、それを気(ki)を含む「 気持ち 」(kimochi)というと考える。
この気(ki)を含む「 気持ち 」(kimochi)の集合体が「 人格 」であり、気持ちがある以上、人格者であると考える。
人は社会的で、情(zyou)は人から人に伝わるだろう。
人の「 人格 」が他人の「 人格 」に作用するので、教師や僧侶は完成度が高い「 人格者 」であることが望ましい。
自我の価値観と決定するのはDNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷を集めた脳波(バイオリズム)であり、それが文化という情(zyou)に結集する以上、情(zyou)は「 心 」が具現化したものであり、人は死後、その人が残した文化を通して「 心 」や「 人格 」を伝達し、後世の者は、小脳レベルの「 無意識 」(エネルギー)により、先人の「 心 」を受け取る。「 心 」は「 魂 」と同義かもしれない。
ここにも、電場から磁場、磁場から電場への道程があると考える。
「 死んだら終わり 」ではない。


2015/6/8、私の考え



上記のように、「 人 」を形作るのが「 人格 」と考え、最終的にはDNAやRNAによる価値の決定として行為に現れると考えるなら、「 霊的に生まれ変わる 」とは、「 人格を変えよ 」という意味だろうと思う。

それでは、DNAやRNAを変えるしか方法が無いのかといえば、他に手段は有る。

「 人格の完成者 」を仏教では釈迦、キリスト教ではイエス・キリストとすれば、その人たちが残した「 心 」を、そのまま受け入れることだと思う。

「 死んだら終わり 」ではない。

その人が為した行為が「 心 」として、後世に伝わる筈である。

難しいことかも知れないが、釈迦やイエス・キリストの行為から判断される「 価値観 」の全面受け入れ、つまり、「 信仰しなさい 」ということだと思う。

前述したように、DNAやRNAが行為を選んだ「 価値観 」として現れるのが「 人格 」であるが、その逆を辿って、自分のDNAやRNAが持つ気(ki)に変化を及ぼすことにより、「 人格が変わる 」、信仰することにより「 人格 」を変える方法があると思う。

現在のような信仰ではなく、「 本当に信仰してください 」という意味ではないだろうか?

「 本当の信仰とは何か? 」

私は、仏教では釈迦、キリスト教ではイエス・キリストの行為から判断する「 価値観 」に全面的に従い、その人たちの「 心 」をくみ取って行為することだと思うが、僧侶ではないため、私にはわかりません。


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2015年05月17日

2015/5/17、私の現在の考え23・心は磁場である・価値の決定

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
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2015/4/28、私の考え

価値観について考えを変更します。

DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))から生じる脳波(バイオリズム)を@とします。

DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される大脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))から生じる脳波(バイオリズム)をAとします。

@により磁場である自我意識の無意識の磁極を決めます。
これは地球でいえば南極と北極のようなものです。
小脳が決めるでしょう。
この磁極の間に地磁気のような磁気の流れの可能性があるでしょう。これをAとします。

Aにより磁場である自我意識の磁極を決めます。
これは、思考上の両極端です。
大脳が決めるでしょう。
この磁極の間にはあいまいな領域の可能性があります。これをBとします。

@が気(ki)である可能性の磁極であるのに対し、Aは情(zyou)、情報の可能性の極端です。
Aは情動(zyoudou)により影響を受けます(考え方により磁極が変わる)が、@は影響を受けません(考え方を変えても、自分が他人に変わることはない)

Bは、情(zyou)、情報の数に対応して、重複してあるでしょう。
「 気持ち 」の単語は気(ki)を持つこと(hold)ですから、重複して持つことを「 気持ち 」とし、その全体が磁場の「 心 」と考えます。
AもBも「 定在波 」(了解や理解か可能な波、バイオリズム)を持ち、可能性の定在波を実生活で自我意識に具現化する、あるいは決定する(価値観を表明する)のはBではなくAであると考えます。
磁場の「 心 」や「 気持ち 」が、「 良い 」や「 悪い 」という言語などの情(zyou)に具現化するのは、無意識のAであると考えます。
Aは生死のレベルであり、無意識であり、Bは常にAに従うものです。


2015/5/17、私の考え



このように、@により磁場である自我意識の無意識の磁極を決め、地球でいえば南極と北極のようなものです。
@の小脳が決める気(ki)である「 生 」と「 死 」が極であり、それを重複するようにAの大脳が決める情(zyou)である「 生 」と「 死 」があり、その「 緯度 」であるのが社会的価値の目盛で、Bであり、@の「 極 」のどちらの極の近いかが主観的「 快 」や「 不快 」や「 利益 」や「 不利益 」であり、Aの「 極 」のどちらの極の近いかが客観的「 快 」や「 不快 」や「 利益 」や「 不利益 」であり、選択という行動で「 具現化 」あるいは「 実体化 」するのがAであると考える。

この構造の上に「 善 」や「 悪 」の磁極や「 地獄 」や「 極楽 」の磁極が重複してあり(たとえば、行為が客観的、社会的に「 悪 」であっても主観的に「 快 」であるとか、行為の結果が客観的、社会的に「 不利益 」でも主観的には「 快 」であるとか、行為が客観的、社会的に「 善 」であっても主観的に「 不快 」とか、行為の結果が客観的、社会的に「 利益 」であっても主観的に「 不快 」であるとか)それらを貫いて行為として具現化し実体化するのが、個人のDNAやRNAから生じた脳波(バイオリズム)であり、それが「 行動スタイル 」であり「 人格 」であると思う。

使用価値は主観的であり気(ki)であり、交換価値は客観的、社会的であり、情(zyou)であると考える。

「 宗教 」は「 行動スタイル 」であり「 如何なる人格を形成するか 」とういう「 生き方 」の問題であり、「 宗教 」のない共産主義は「 生き方が画一で選択が無い思想 」で人格形成する余地は無い人格欠陥者であり、「 宗教 」がIS(イスラム国)がいう「 戦う生き方 」であれば、「 破壊する生き方 」しか正当でなく、「 人間は生と死の戦いの統一体である 」ことを否定する「 人間破壊の思想 」であることになるだろう。

すべては、個人のDNAやRNA次第であるが。

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2015年04月30日

2015/4/30、私の現在の考え22・心は磁場である・使用価値と交換価値

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/28、私の考え

価値観について考えを変更します。

DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))から生じる脳波(バイオリズム)を@とします。

DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される大脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))から生じる脳波(バイオリズム)をAとします。

@により磁場である自我意識の無意識の磁極を決めます。
これは地球でいえば南極と北極のようなものです。
小脳が決めるでしょう。
この磁極の間に地磁気のような磁気の流れの可能性があるでしょう。これをAとします。

Aにより磁場である自我意識の磁極を決めます。
これは、思考上の両極端です。
大脳が決めるでしょう。
この磁極の間にはあいまいな領域の可能性があります。これをBとします。

@が気(ki)である可能性の磁極であるのに対し、Aは情(zyou)、情報の可能性の極端です。
Aは情動(zyoudou)により影響を受けます(考え方により磁極が変わる)が、@は影響を受けません(考え方を変えても、自分が他人に変わることはない)

Bは、情(zyou)、情報の数に対応して、重複してあるでしょう。
「 気持ち 」の単語は気(ki)を持つこと(hold)ですから、重複して持つことを「 気持ち 」とし、その全体が磁場の「 心 」と考えます。
AもBも「 定在波 」(了解や理解か可能な波、バイオリズム)を持ち、可能性の定在波を実生活で自我意識に具現化する、あるいは決定する(価値観を表明する)のはBではなくAであると考えます。
磁場の「 心 」や「 気持ち 」が、「 良い 」や「 悪い 」という言語などの情(zyou)に具現化するのは、無意識のAであると考えます。
Aは生死のレベルであり、無意識であり、Bは常にAに従うものです。
BではなくA単独で行動する場合もあります(呼吸や血液の循環のように)。
Aは情(zyou)ではなく、気(ki)であると思います。
自我意識の価値観を決定するのは、Aで、「 人格 」を決定し、変化しているBを把握し、AからBへ、BからAへと進み、現象上はAからAへ変わるとみられ、それが自我が自我を把握することであり、「 生きること 」であり、人生であると考える。
電場から磁場、磁場から電場へと変わるので、自我から自我への進展は不連続であることになる。


2015/4/30、私の考え


これを、経済学について考えてみる。

価値は、マルクス経済学に使用価値や交換価値があるが、これを考察したい。

使用価値は@で決められるAであろう。
交換価値はAで決められるBであろう。

前述したように、@やAは小脳の領域に属し、生命、欲求、などの気(ki)に属する。
Aはその可能性(エネルギーの価値)のバイオリズムで、最終的には、個人のDNAやRNAに依存し同一ということは無い。
欲求(エネルギー)の大小は、そのバイオリズムの定在波により、変化するだろう。

AやBは、大脳の領域であり、情報や教育など文化的、社会的な情(zyou)に属する。
Bは「 始めと終わり 」がある物語で、その可能性は社会の可能性であり、方向はAに従うが、決めるのは社会であり、個人はそれを大脳で「 物語 」として受け入れるときに、社会の可能性(価値)の大小は個人の教育や教養から得た磁極間の定在波として現れ、変化し、個人のDNAやRNAからなるAにより決定したとき、価格として具現化すると考える。

「 物 」の物神性は、物をエネルギー(神)として崇拝するとき「 物神性 」というだろうが、それは人格形成を目指す「 宗教 」とは違う自然宗教であり、貨幣に物神性があるとするのは「 拝金主義 」であり、私には受け入れられない。
「 物 」は音楽の音符のように、価値のバイオリズムを示す目印にすぎず、貨幣も価値の大小の目盛としてしか価値は無い。

交換価値の内容が、抽象的人間労働や希少性であるとするのは、思考体系から要望される「 物語 」であり、情(zyou)の種類であり、社会の可能性として社会が決定すると思うが、個人の「 心 」の中では、教育や教養が決めた磁極間の定在波(B)が「 交換価値 」として重複して変化するのであり、交換する「 価格 」として決定するのは、個人のDNAやRNAからなるAであり、個人の欲求(自我・エネルギー)が自我を把握するのが、経済活動であると考えると、私の考えは、「 近代経済学 」の「 効用価値説 」に近いと考える。

Eagles eat no flies.

価値(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%A1%E5%80%A4


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2015年04月28日

2015/4/28、私の現在の考え21・心は磁場である・心・価値観 

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/26、私の記事

人はすべて人格者である。
ただ、その「 完成度 」が、すべて違うのだと考える。
なぜなら、DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))が脳波(バイオリズム)という電流になり、それから派生した磁場が「 自我意識 」となり、「 心 」となり、その磁極を脳波(バイオリズム)が決定し(たとえば南極と北極)、磁極と磁極を結ぶ「 定在波 」(バイオリズム)が価値観であり、自我意識の価値観を決定するのは小脳レベルの可能性から生じた電荷が脳波(バイオリズム)というように、電場から磁場へ、そして磁場から電場へと循環して自我意識は進展すると考える。
磁場である「 心 」のなかの磁極は、さまざまな情(zyou)の力(エネルギー)により影響をうけるが、これを情動(zyoudou)と呼び、そのなかに言語や宗教や絵画などの芸術や音楽という文化を含み、これにより人類は重複した価値観、「 定在波 」を持ち、これを自我の価値観と決定するのはDNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))を集めた脳波(バイオリズム)であり、それを気(ki)を含む「 気持ち 」(kimochi)というと考える。
この気(ki)を含む「 気持ち 」(kimochi)の集合体が「 人格 」であり、気持ちがある以上、人格者であると考える。
人は社会的で、情(zyou)は人から人に伝わるだろう。
人の「 人格 」が他人の「 人格 」に作用するので、教師や僧侶は完成度が高い「 人格者 」であることが望ましい。
自我の価値観と決定するのはDNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷を集めた脳波(バイオリズム)であり、それが文化という情(zyou)に結集する以上、情(zyou)は「 心 」が具現化したものであり、人は死後、その人が残した文化を通して「 心 」や「 人格 」を伝達し、後世の者は、小脳レベルの「 無意識 」(エネルギー)により、先人の「 心 」を受け取る。「 心 」は「 魂 」と同義かもしれない。
ここにも、電場から磁場、磁場から電場への道程があると考える。
「 死んだら終わり 」ではない。


2015/4/28、私の考え



価値観について考えを変更します。


DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))から生じる脳波(バイオリズム)を@とします。

DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される大脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))から生じる脳波(バイオリズム)をAとします。

@により磁場である自我意識の無意識の磁極を決めます。
これは地球でいえば南極と北極のようなものです。
小脳が決めるでしょう。
この磁極の間に地磁気のような磁気の流れの可能性があるでしょう。これをAとします。

Aにより磁場である自我意識の磁極を決めます。
これは、思考上の両極端です。
大脳が決めるでしょう。
この磁極の間にはあいまいな領域の可能性があります。これをBとします。

@が気(ki)である可能性の磁極であるのに対し、Aは情(zyou)、情報の可能性の極端です。
Aは情動(zyoudou)により影響を受けます(考え方により磁極が変わる)が、@は影響を受けません(考え方を変えても、自分が他人に変わることはない)

Bは、情(zyou)、情報の数に対応して、重複してあるでしょう。
「 気持ち 」の単語は気(ki)を持つこと(hold)ですから、重複して持つことを「 気持ち 」とし、その全体が磁場の「 心 」と考えます。
AもBも「 定在波 」(了解や理解か可能な波、バイオリズム)を持ち、可能性の定在波を実生活で自我意識に具現化する、あるいは決定する(価値観を表明する)のはBではなくAであると考えます。
磁場の「 心 」や「 気持ち 」が、「 良い 」や「 悪い 」という言語などの情(zyou)に具現化するのは、無意識のAであると考えます。
Aは生死のレベルであり、無意識であり、Bは常にAに従うものです。
BではなくA単独で行動する場合もあります(呼吸や血液の循環のように)。
Aは情(zyou)ではなく、気(ki)であると思います。
自我意識の価値観を決定するのは、Aで、「 人格 」を決定し、変化しているBを把握し、AからBへ、BからAへと進み、現象上はAからAへ変わるとみられ、それが自我が自我を把握することであり、「 生きること 」であり、人生であると考える。
電場から磁場、磁場から電場へと変わるので、自我から自我への進展は不連続であることになる。
その結果、「 人が生きる道を示す宗教 」などの影響により、人格や自我が向上する場合もあれば、性や麻薬により人格や心や自我が汚れる場合もあり、その程度は「 人格の完成度 」として社会に示されるであろう。
「 宗教 」は、頭脳で考えた情(zyou)であり、情報であり、その種類が問題ではない。
どんな宗教でも宗教ならば、「 人格の向上 」を願うはずであり、IS(イスラム国)のように、イスラム教に改宗する必要は、まったく無く、「 神 」をエネルギーと考えると、彼らは、神の名をかたる「 神の冒涜者 」であると思う。

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2015年04月26日

2015/4/26、私の現在の考え20・心は磁場である・人格・価値観

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/15、私の記事


「 心 」を以上のように「 磁場である 」と考えるのは、有史以来、私が初めてだろう。
「 心 」は、大脳レベルの、意識である 情(zyou)としての「 精神 」であり、「 思考されたもの 」である部分と小脳レベルの無意識の気(ki)としての「 精神 」を考え、前者が「 自意識 」による極を持った「 始めと終わり 」がある「 物語 」であるのに対して、後者は「 自意識 」ではあるが「 生命 」、あるいは本能として、「 可能性 」として、前者をコントロールする機能(kinou)と考える。
両者の共通するのはDNAとRNAの「 フィラメント構造 」から得られた脳波から派生した「 磁場 」であるが、前者は思考という始めと終わりがある「 物語 」であり、後者は始めと終わりを作る「 可能性 」であり、前者は「 意識 」と呼び、後者を「 無意識 」と呼ぶと考える。

磁極を結ぶ地磁気にあたるのが「 バイオリズム 」だと考える。
バイオリズムが重複して無意識も「 好き嫌い 」の価値観を生じ、それは無意識を基にしているから、小脳レベルの「 自意識 」であり「 生命 」、あるいは本能として、あたかも地球上の重力のように、情(zyou)であり、「 物語 」(物体)である思考や精神を「 好きな物語 」や「 嫌いな物語 」として、バイオリズムで決めると考える。
DNAやRNAから生まれたバイオリズムと音楽や宗教や言語や物語の波長が合致したとき、「 好き 」になる。

2015/4/16、私の記事


磁極を決めるのはDNAやRNAの「 フィラメント構造 」を流れる気(ki)である脳波だが、これはバイオリズムとういう脳波であることになる。
磁極を結ぶ地磁気のようなものもバイオリズム(脳波)であるが、DNAやRNAが持つ「 遺伝子情報 」という情(zyou)が混在したバイオリズム(脳波)であり、バイオリズム(脳波)から派生した「 精神 」であり、その「 定在波 」が「 価値観 」であり、それが重複したのが「 人格 」という「 形 」であると考える。

価値観である「 定在波 」は磁極を変えることにより共変するが、「 遺伝子情報 」は情(zyou)であり、同じ情(zyou)である文化を変えることにより、「 形 」である「 人格 」は変化し、「 無常 」な物となる。

バイオリズム(脳波)を変えることにより磁極が変わるが、これはエネルギー(神)であり、「 生命 」、あるいは本能である「 無意識 」であり、これを変えることが「 人格 」を変えることだが、DNAやRNAを変えることが出来ないから、情(zyou)である磁極を人間の教育で変えることしか出来ないかもしれない。


2015/4/21、私の記事


このように「 人格 」を考えるとき、「 人格の完成 」を目指すのが「 宗教 」であると思う。
「 宗教 」は情(zyou)であるが、決められた価値観を生む予定の「 始めと終わり 」の磁極を提示し(物語)、そこから生じる「 定在波 」(理解や了解)を利用して人格や人の生き方である人生を変えようとする思想であると思う。

生命や本能に近い磁極は小脳のバイオリズムだから「 定在波 」は人類には共通で、好きや嫌いも容易に形成されるが、人間は精神であり、この「 定在波 」を承知の上、精神的な磁極、大脳のバイオリズムによる「 定在波 」(死中生あり、生中生なし)に従う情動(zyoudou)もある。
この情動(zyoudou)というエネルギー(神)こそ、人格という「 形 」を変えるものであり、そこが宗教の狙いでもあるが、危険な点でもあると思う。
「 精神的な磁極 」が、人格の完成へ向かうならば危険ではないが、多数の人の死を目的としたときは殺人であり、危険である。
宗教は個人の人格完成であり、集団の人の人格完成はありえない。

「 心は磁場 」であり、派生したものであるから、派生した精神から生じる人の言動や行為により、その人の「 人格完成の度合い 」がわかるだろう。


2015/4/26、私の考え



人はすべて人格者である。
ただ、その「 完成度 」が、すべて違うのだと考える。
なぜなら、DNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))が脳波(バイオリズム)という電流になり、それから派生した磁場が「 自我意識 」となり、「 心 」となり、その磁極を脳波(バイオリズム)が決定し(たとえば南極と北極)、磁極と磁極を結ぶ「 定在波 」(バイオリズム)が価値観であり、自我意識の価値観を決定するのは小脳レベルの可能性から生じた電荷が脳波(バイオリズム)というように、電場から磁場へ、そして磁場から電場へと循環して自我意識は進展すると考える。
磁場である「 心 」のなかの磁極は、さまざまな情(zyou)の力(エネルギー)により影響をうけるが、これを情動(zyoudou)と呼び、そのなかに言語や宗教や絵画などの芸術や音楽という文化を含み、これにより人類は重複した価値観、「 定在波 」を持ち、これを自我の価値観と決定するのはDNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷(気(ki))を集めた脳波(バイオリズム)であり、それを気(ki)を含む「 気持ち 」(kimochi)というと考える。
この気(ki)を含む「 気持ち 」(kimochi)の集合体が「 人格 」であり、気持ちがある以上、人格者であると考える。
人は社会的で、情(zyou)は人から人に伝わるだろう。
人の「 人格 」が他人の「 人格 」に作用するので、教師や僧侶は完成度が高い「 人格者 」であることが望ましい。
自我の価値観と決定するのはDNAやRNAの「 ラセン構造 」から構成される小脳レベルの可能性から生じた電荷を集めた脳波(バイオリズム)であり、それが文化という情(zyou)に結集する以上、情(zyou)は「 心 」が具現化したものであり、人は死後、その人が残した文化を通して「 心 」や「 人格 」を伝達し、後世の者は、小脳レベルの「 無意識 」(エネルギー)により、先人の「 心 」を受け取る。「 心 」は「 魂 」と同義かもしれない。
ここにも、電場から磁場、磁場から電場への道程があると考える。
「 死んだら終わり 」ではない。


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2015年04月21日

2015/4/21、私の現在の考え19・心は磁場である・宗教・IS(イスラム国)

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/15、私の記事


「 心 」を以上のように「 磁場である 」と考えるのは、有史以来、私が初めてだろう。
「 心 」は、大脳レベルの、意識である 情(zyou)としての「 精神 」であり、「 思考されたもの 」である部分と小脳レベルの無意識の気(ki)としての「 精神 」を考え、前者が「 自意識 」による極を持った「 始めと終わり 」がある「 物語 」であるのに対して、後者は「 自意識 」ではあるが「 生命 」、あるいは本能として、「 可能性 」として、前者をコントロールする機能(kinou)と考える。
両者の共通するのはDNAとRNAの「 フィラメント構造 」から得られた脳波から派生した「 磁場 」であるが、前者は思考という始めと終わりがある「 物語 」であり、後者は始めと終わりを作る「 可能性 」であり、前者は「 意識 」と呼び、後者を「 無意識 」と呼ぶと考える。

磁極を結ぶ地磁気にあたるのが「 バイオリズム 」だと考える。
バイオリズムが重複して無意識も「 好き嫌い 」の価値観を生じ、それは無意識を基にしているから、小脳レベルの「 自意識 」であり「 生命 」、あるいは本能として、あたかも地球上の重力のように、情(zyou)であり、「 物語 」(物体)である思考や精神を「 好きな物語 」や「 嫌いな物語 」として、バイオリズムで決めると考える。
DNAやRNAから生まれたバイオリズムと音楽や宗教や言語や物語の波長が合致したとき、「 好き 」になる。

2015/4/16、私の記事


磁極を決めるのはDNAやRNAの「 フィラメント構造 」を流れる気(ki)である脳波だが、これはバイオリズムとういう脳波であることになる。
磁極を結ぶ地磁気のようなものもバイオリズム(脳波)であるが、DNAやRNAが持つ「 遺伝子情報 」という情(zyou)が混在したバイオリズム(脳波)であり、バイオリズム(脳波)から派生した「 精神 」であり、その「 定在波 」が「 価値観 」であり、それが重複したのが「 人格 」という「 形 」であると考える。

価値観である「 定在波 」は磁極を変えることにより共変するが、「 遺伝子情報 」は情(zyou)であり、同じ情(zyou)である文化を変えることにより、「 形 」である「 人格 」は変化し、「 無常 」な物となる。

バイオリズム(脳波)を変えることにより磁極が変わるが、これはエネルギー(神)であり、「 生命 」、あるいは本能である「 無意識 」であり、これを変えることが「 人格 」を変えることだが、DNAやRNAを変えることが出来ないから、情(zyou)である磁極を人間の教育で変えることしか出来ないかもしれない。


2015/4/21、私の考え



このように「 人格 」を考えるとき、「 人格の完成 」を目指すのが「 宗教 」であると思う。
「 宗教 」は情(zyou)であるが、決められた価値観を生む予定の「 始めと終わり 」の磁極を提示し(物語)、そこから生じる「 定在波 」(理解や了解)を利用して人格や人の生き方である人生を変えようとする思想であると思う。

生命や本能に近い磁極は小脳のバイオリズムだから「 定在波 」は人類には共通で、好きや嫌いも容易に形成されるが、人間は精神であり、この「 定在波 」を承知の上、精神的な磁極、大脳のバイオリズムによる「 定在波 」(死中生あり、生中生なし)に従う情動(zyoudou)もある。
この情動(zyoudou)というエネルギー(神)こそ、人格という「 形 」を変えるものであり、そこが宗教の狙いでもあるが、危険な点でもあると思う。
「 精神的な磁極 」が、人格の完成へ向かうならば危険ではないが、多数の人の死を目的としたときは殺人であり、危険である。
宗教は個人の人格完成であり、集団の人の人格完成はありえない。

「 心は磁場 」であり、派生したものであるから、派生した精神から生じる人の言動や行為により、その人の「 人格完成の度合い 」がわかるだろう。

IS(イスラム国)の場合も、彼らの行動や言語より、「 人格の完成の度合い 」が測られ、彼らがいう宗教が「 イスラム 」であれば、その宗教は「 人格の完成 」ではなく、「 人殺し 」の宗教であるだろう。
情(zyou)である宗教の前に、人間の平等は無く、気(ki)であるエネルギー(神)の前にあることを、IS(イスラム国)は知らない。
人間が、太陽の下に平等であるなら、「 人殺し 」ができるはずがない。
これは、IS(イスラム国)だけでなく、日本の「 オーム真理教 」にも、同じく言うことができる。
両者が「 テロリズムの集団 」であることは、共通であるが。

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2015年04月16日

2015/4/16、私の現在の考え18・心は磁場である・バイオリズム・価値観・人格

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
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2015/4/8、私の記事


この気(ki)としての小脳レベルの「 自意識 」や「 自分 」であるという大脳レベルの「 自意識 」が磁場である「 心 」の磁極を規定し、それは同時に「 物と物の関係 」であり、物を安定させる重力である「 価値観 」の「 始めと終わり 」(たとえば「 善 」と「 悪 」、「 天国 」と「 地獄 」)という極を規定することになり、その極の間で生じる幾重にも重なる「 定在波 」が「 人格 」を形成すると考える。


2015/4/15、私の記事


両者の共通するのはDNAとRNAの「 フィラメント構造 」から得られた脳波から派生した「 磁場 」であるが、前者は思考という始めと終わりがある「 物語 」であり、後者は始めと終わりを作る「 可能性 」であり、前者は「 意識 」と呼び、後者を「 無意識 」と呼ぶと考える。


磁極を結ぶ地磁気にあたるのが「 バイオリズム 」だと考える。
バイオリズムが重複して無意識も「 好き嫌い 」の価値観を生じ、それは無意識を基にしているから、小脳レベルの「 自意識 」であり「 生命 」、あるいは本能として、あたかも地球上の重力のように、情(zyou)であり、「 物語 」(物体)である思考や精神を「 好きな物語 」や「 嫌いな物語 」として、バイオリズムで決めると考える。
DNAやRNAから生まれたバイオリズムと音楽や宗教や言語や物語の波長が合致したとき、「 好き 」になる。

2015/4/16、私の考え



磁極を決めるのはDNAやRNAの「 フィラメント構造 」を流れる気(ki)である脳波だが、これはバイオリズムとういう脳波であることになる。
磁極を結ぶ地磁気のようなものもバイオリズム(脳波)であるが、DNAやRNAが持つ「 遺伝子情報 」という情(zyou)が混在したバイオリズム(脳波)であり、バイオリズム(脳波)から派生した「 精神 」であり、その「 定在波 」が「 価値観 」であり、それが重複したのが「 人格 」という「 形 」であると考える。

価値観である「 定在波 」は磁極を変えることにより共変するが、「 遺伝子情報 」は情(zyou)であり、同じ情(zyou)である文化を変えることにより、「 形 」である「 人格 」は変化し、「 無常 」な物となる。

バイオリズム(脳波)を変えることにより磁極が変わるが、これはエネルギー(神)であり、「 生命 」、あるいは本能である「 無意識 」であり、これを変えることが「 人格 」を変えることだが、DNAやRNAを変えることが出来ないから、情(zyou)である磁極を人間の教育で変えることしか出来ないかもしれない。

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2015年04月15日

2015/4/15、私の現在の考え17・心は磁場である・バイオリズム

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/8、私の記事


以上から、次のように考える。

「 可能性 」は「 能 」を含んだ単語であり、「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、DNAやRNAの電荷となった宇宙のエネルギーの「 力 」であるだろう。
それらからの「 ビルケランド電流 」である脳波が「 無意識 」である気(ki)の「 自意識 」となり、生まれながらに持っていた時空(法身としての時空)を、「 物と物の関係 」を認識させ、情(zyou)であり、報身である「 時間意識 」と「 空間意識 」を目覚めさせ、磁場である「 心 」を作ると考える。
報身は「 文化 」であり「 言語 」であり、「 精神 」であり、ここに言葉上の、宗教の「 神 」が生まれるが、「 神 」は宇宙のエネルギーであり、「 神 」の身体は「 エーテル 」であるというのが私の考えである。
この気(ki)としての小脳レベルの「 自意識 」や「 自分 」であるという大脳レベルの「 自意識 」が磁場である「 心 」の磁極を規定し、それは同時に「 物と物の関係 」であり、物を安定させる重力である「 価値観 」の「 始めと終わり 」(たとえば「 善 」と「 悪 」、「 天国 」と「 地獄 」)という極を規定することになり、その極の間で生じる幾重にも重なる「 定在波 」が「 人格 」を形成すると考える。


2015/4/15、私の考え



「 心 」を以上のように「 磁場である 」と考えるのは、有史以来、私が初めてだろう。
「 心 」は、大脳レベルの、意識である 情(zyou)としての「 精神 」であり、「 思考されたもの 」である部分と小脳レベルの無意識の気(ki)としての「 精神 」を考え、前者が「 自意識 」による極を持った「 始めと終わり 」がある「 物語 」であるのに対して、後者は「 自意識 」ではあるが「 生命 」、あるいは本能として、「 可能性 」として、前者をコントロールする機能(kinou)と考える。
両者の共通するのはDNAとRNAの「 フィラメント構造 」から得られた脳波から派生した「 磁場 」であるが、前者は思考という始めと終わりがある「 物語 」であり、後者は始めと終わりを作る「 可能性 」であり、前者は「 意識 」と呼び、後者を「 無意識 」と呼ぶと考える。


地球は、南極と北極をもつ磁場であるが、地球自体が宇宙の産物としての気(ki)であり、地球上の精神生活は「 磁場 」の中での生活であり、情(zyou)である「 心 」が脳波という気(ki)から派生した「 磁場 」であるから生活が可能であると考える。
地球の気(ki)と情(zyou)である「 心 」を結ぶものは、前述した「 無意識 」であり「 可能性 」として現れる気(ki)である「 自意識 」であると考える。
磁気(ziki)が直接に「 心 」を支配することはなく(心は派生したものだから),磁気(ziki)を無意識の気(ki)を通して支配する(心は派生したものだから)。
磁気(ziki)が「 心 」を派生させるのではなく、脳波が「 心 」を派生させるから。

磁極を結ぶ地磁気にあたるのが「 バイオリズム 」だと考える。
バイオリズムが重複して無意識も「 好き嫌い 」の価値観を生じ、それは無意識を基にしているから、小脳レベルの「 自意識 」であり「 生命 」、あるいは本能として、あたかも地球上の重力のように、情(zyou)であり、「 物語 」(物体)である思考や精神を「 好きな物語 」や「 嫌いな物語 」として、バイオリズムで決めると考える。
DNAやRNAから生まれたバイオリズムと音楽や宗教や言語や物語の波長が合致したとき、「 好き 」になる。

この気(ki)が含まれる単語は小脳レベルの「 自意識 」であり「 生命 」の特徴であることは生気論(seikiron)に共通すると考える。

「 始めと終わりがある 」物語が物体の形であり、「 無常 」であるのに対して、気(ki)は循環するため「 始めと終わりが無く」エネルギーであり、「 無明 」というと考える。
前者が情(zyou)であり、後者は気(ki)であり、気(ki)と情(zyou)である「 心 」を結ぶものは、前述した「 無意識 」であり「 可能性 」として現れる気(ki)である「 自意識 」と考えれば、「 本を読んだりや宗教から生きる可能性を発見する 」ことも可能だろう。

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2015年04月08日

2015/4/8、私の現在の考え16・心は磁場である・可能性・意識・心・価値観・人格

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/6、私の記事

私は、「 ビッグバン理論 」ではなく、「 プラズマ宇宙論 」を採用し、後者の「 電気 」が主に気(ki)というエネルギーであり、それを「 神 」とみなし、「 エーテル 」を通して人体のDNAやRNAに浸透して「 流れるもの 」となり、脳波となり、電場を作り、DNAやRNAから磁場として「 派生するもの 」として意識を考える。
その意識は「 心 」を作るが、それは「 派生したもの 」で、宇宙の産物ではない。
宇宙の産物はエネルギーが物化したものであり、人体のDNAもRNAも含むが、それは始めや終わりがある「 物語 」ではなく、「 無 」はなく「 すべて有 」であり、すべてが連続し、循環し、これを「 無明 」というと考える。
一方のDNAやRNAから派生する「 意識 」は機能としては、無意識という気(ki)で電場であり、情(zyou)を「 派生させ」、「 時間意識 」や「 空間意識 」を作り、「 心 」を作るが、それらは磁場であり、重力のように磁場を支配するのは「 価値観 」であり、地球には磁極というのがあるように「 価値観 」にも磁極があり、「 善と悪 」や「 天国と地獄 」などが、それであると考える。
人類すべての意識が相違するのは、DNAやRNAが相違するからで、これは、人類の「 文化 」がすべて相違することで、相対論の「 同時性 」のように、同一であるものは個人の中にのみ存在すると考える。
「 文化 」は物語であり、始めと終わりがある「 形 」を持つが、それが崩れるとき「 無常 」というと考える。


2015/2/9、私の記事


以上のように「 人体 」は複雑な構造であり、私の考えでは「 意識の生成 」で申しましたように、意識は太古の創造のようなことを行っており、意識は無意識を内容とした「 心 」を伝達すると思います。

「 太古の創造 」はエネルギー(神)の仕業であり、物質を創るのでしようが、「 太古の創造のようなこと 」はエネルギー(神)から派生したもので、派生するのは「 意識 」であり、伝達するのは「 心 」であると思います。
「 心 」は法身(hotsusinn)ではなく、報身(housin)であり、宇宙の産物ではなく、人類の産物であり、根本的には法身(hotsusinn)である「 宇宙 」や「 物質 」を規定することはできず(規定は誤りであり)、人類だけの人類愛のようなもので、人類しか判別することができない「 霊 」かもしれません。
言葉に「 霊 」があれは、それであると思います。

このように考えたとき、「 可能性 」とはどのように考えるのでしょう。
「 可能性 」は「 能 」を含んだ単語であり、「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが言語や絵画などの文化の全部に具現化する契機であり、「 情(zyou)」であり情報であると思います。


2015/2/27、私の記事

自意識も意識である以上、頭脳の派生物であるだろう。
自意識は存在意識から派生したものであるが、「 派生するもの」を「 関係するもの」と考える。
存在意識の中での「 関係 」は、存在意識に依存した(派生した)社会的な意識だろう。
「 存在意識 」と関係する意識が自意識で、それは、「 自分のフィラメント構造の自覚である」と思う。
自意識は頭脳の派生物で情(zyou)であるが、無意識にちかい(私は電磁波だと思う)から、エネルギー(神)に近く、無明で方向性が無いと思う。
フィラメント構造(生まれながらの時空)を流れる中で形成する意識だから、気(ki)にも似た無意識であるがために、細胞の不連続性(無常)に気づかない無明のエネルギー(神)であるから、自己の不変や自己の永遠を信じる、あるいは、「 死んだら終わり 」という無明に始まり無明に消えてゆくフィラメント構造であるのかもしれない。
気(ki)にも似た無意識であるため、細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という社会的な「 一定の関係 」という意識を固持するため、「 自分はいつまでも不変だ 」と思うかもしれない。
「 関係 」は、本来、自己中心的な自意識に情(zyou)を吹き込む社会的なエネルギーであり、「 欲 」が「 欲望 」に変化する契機になるだろう。



2015/4/8、私の考え



以上から、次のように考える。

「 可能性 」は「 能 」を含んだ単語であり、「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、DNAやRNAの電荷となった宇宙のエネルギーの「 力 」であるだろう。
それらからの「 ビルケランド電流 」である脳波が「 無意識 」である気(ki)の「 自意識 」となり、生まれながらに持っていた時空(法身としての時空)を、「 物と物の関係 」を認識させ、情(zyou)であり、報身である「 時間意識 」と「 空間意識 」を目覚めさせ、磁場である「 心 」を作ると考える。
報身は「 文化 」であり「 言語 」であり、「 精神 」であり、ここに言葉上の、宗教の「 神 」が生まれるが、「 神 」は宇宙のエネルギーであり、「 神 」の身体は「 エーテル 」であるというのが私の考えである。
この気(ki)としての小脳レベルの「 自意識 」や「 自分 」であるという大脳レベルの「 自意識 」が磁場である「 心 」の磁極を規定し、それは同時に「 物と物の関係 」であり、物を安定させる重力である「 価値観 」の「 始めと終わり 」(たとえば「 善 」と「 悪 」、「 天国 」と「 地獄 」)という極を規定することになり、その極の間で生じる幾重にも重なる「 定在波 」が「 人格 」を形成すると考える。


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2015年04月06日

2015/4/6、私の現在の考え15・心は磁場である

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/2、私の記事


気(ki)である「 エネルギー 」と情(zyou)との共通した構造は、「 フィラメント構造 」である。
宇宙の気(ki)であるエネルギー(神)はどこから人体の中に入るかと言えば、私の考えでは、「 DNA 」と「 RNA 」を通して人体に入るとする。
DNAやRNAはラセン構造であるがこれを「 フィラメント構造 」とし、不安定なRNAの孤立電子対の負の電荷こそエネルギー(神)が入る箇所であると考える。
この頭脳の電荷の電気が「 フィラメント構造 」を通り、「 ビルケランド電流 」になったのが「 脳波 」であると考える。
「 脳波 」は電場を作り、磁場の「 意識 」や「 精神 」を生むと考える。
その結果、DNAの違いに応じて「 意識 」や「 精神 」が相違する。
したがって、人間は「 流れるもの 」として「 生まれながらにして時空(宇宙空間・法身) 」を持ち、誕生と同時に「 派生するもの 」として「 時間意識 」と「 空間意識 」という報身である「 時間と空間 」を持つ。
このように、「 エーテル(神の身体) 」の中の「 エネルギー(神)」と人体の中のDNAを通してエネルギーが一致する。
それらは、プラズマ宇宙論の「 フィラメント構造 」と「 ビルケランド電流 」を共通して持つと考える。

2015/3/14、私の記事

頭脳は「 フィラメント構造 」を流れる脳波という気(ki)であるが、意識は脳波を原因とした磁場で、それが精神であり、ちょうどビデオテープに残された映像のように記録されたのが記憶であるかもしれない。
そして今、現在、生活するとき、過去に向けて電磁波を発し出てくるのが「 思い出 」や記憶であるかもしれない。
私は、これらすべてを情報(zyouhou)である情(zyou)と呼び、これは感性や悟性や感情や理論や理性や宗教のすべてを含むと考える。
情(zyou)は、意識の内容であり、意識を持つのは人類共通であるが、その内容はすべて相違するだろう。
これは、地球上のどんなところでも時間意識、空間意識は相違するし、同じ場所や同じ時間は自分以外に存在しないし、相対性理論の「 同時性 」は「 自分以外 」に理論で拡張したものであることからも推察できる(エーテルも無視している)。
情(zyou)は、「 物語 」であり、「 心 」や「 心情(sinzyou)」であり、始めがあって終わりがあり、思考が人類すべて相違するように、「 物語 」もすべて相違するから、言語に変換して、他人の変換を待って伝達されると考える(心が伝わると表現する)。
つまり、「 循環 」することはなく、その単体のみで終わるのが「 物語 」であると思う。
人間をすべて言語で表現されても、人間を精神と規定することはできないと思う。
感情などを言語で表現されたとしても、人間には気(ki)があり、エーテルやエネルギーを言語で表現しない限り、人間を規定したものとはいえないだろう。
宗教で使われる「 無 」は頭脳の産物で宇宙は「 有 」であり、人間は無の状態を経験していないから「 無 」とは「 情(zyou)の無 」であり、「 フィラメント構造 」や気(ki)に近い状態であると考える。

2015/4/6、私の考え


私は、「 ビッグバン理論 」ではなく、「 プラズマ宇宙論 」を採用し、後者の「 電気 」が主に気(ki)というエネルギーであり、それを「 神 」とみなし、「 エーテル 」を通して人体のDNAやRNAに浸透して「 流れるもの 」となり、脳波となり、電場を作り、DNAやRNAから磁場として「 派生するもの 」として意識を考える。
その意識は「 心 」を作るが、それは「 派生したもの 」で、宇宙の産物ではない。
宇宙の産物はエネルギーが物化したものであり、人体のDNAもRNAも含むが、それは始めや終わりがある「 物語 」ではなく、「 無 」はなく「 すべて有 」であり、すべてが連続し、循環し、これを「 無明 」というと考える。
一方のDNAやRNAから派生する「 意識 」は機能としては、無意識という気(ki)で電場であり、情(zyou)を「 派生させ」、「 時間意識 」や「 空間意識 」を作り、「 心 」を作るが、それらは磁場であり、重力のように磁場を支配するのは「 価値観 」であり、地球には磁極というのがあるように「 価値観 」にも磁極があり、「 善と悪 」や「 天国と地獄 」などが、それであると考える。
人類すべての意識が相違するのは、DNAやRNAが相違するからで、これは、人類の「 文化 」がすべて相違することで、相対論の「 同時性 」のように、同一であるものは個人の中にのみ存在すると考える。
「 文化 」は物語であり、始めと終わりがある「 形 」を持つが、それが崩れるとき「 無常 」というと考える。
「 物 」が崩れるのを「 無常 」というのかもしれないが、「 物 」自体の構成物は依然として有り続けるが、「 物 」の文化の意味が崩れるだけである。
唯物論で、「 観念や精神、心などの根底には物質がある 」というのは、ただ現象面だけの哲学であり、「 物質から精神が派生した」 とか「 精神は物質から派生した 」などは説得力がない。
「 物質 」も「 精神も心 」も説明されてはいない。
私の考えでは、「 物質 」も「 精神も心 」もすべて情(zyou)であり、宇宙のエネルギー(神)が、気(ki)が、DNAやRNAを通して頭脳の中に派生させた情(zyou)、即ち情報であり、唯物論では、「 物質 」も「 心 」も「 精神 」も「 意識 」も、まったく解明されておらず、ただ言葉の遊びであると考える。
物質からどのようにして精神や意識や心が派生するのかを考えるのが「 哲学 」であると考える。
どうせ考えるなら、宇宙規模で、(もちろんエーテルも説明して)哲学することを提案する。


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2015年04月02日

2015/4/2、私の現在の考え14・流れるものと派生するもの・三身即一

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。



2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

2015/4/2、私の考え



気(ki)である「 エネルギー 」と情(zyou)との共通した構造は、「 フィラメント構造 」である。
宇宙の気(ki)であるエネルギー(神)はどこから人体の中に入るかと言えば、私の考えでは、「 DNA 」と「 RNA 」を通して人体に入るとする。
DNAやRNAはラセン構造であるがこれを「 フィラメント構造 」とし、不安定なRNAの孤立電子対の負の電荷こそエネルギー(神)が入る箇所であると考える。
この頭脳の電荷の電気が「 フィラメント構造 」を通り、「 ビルケランド電流 」になったのが「 脳波 」であると考える。
「 脳波 」は電場を作り、磁場の「 意識 」や「 精神 」を生むと考える。
その結果、DNAの違いに応じて「 意識 」や「 精神 」が相違する。
したがって、人間は「 流れるもの 」として「 生まれながらにして時空(宇宙空間・法身) 」を持ち、誕生と同時に「 派生するもの 」として「 時間意識 」と「 空間意識 」という報身である「 時間と空間 」を持つ。
このように、「 エーテル(神の身体) 」の中の「 エネルギー(神)」と人体の中のDNAを通してエネルギーが一致する。
それらは、プラズマ宇宙論の「 フィラメント構造 」と「 ビルケランド電流 」を共通して持つと考える。

Every miler draw water to his own mill.



DNAとRNA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%9C%E6%A0%B8%E9%85%B8#DNA.E3.81.AE.E5.90.88.E6.88.90

1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を電気陰性度の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から求核攻撃を受けやすく、攻撃によりホスホジエステル結合が切れ、リン酸とリボースの骨格が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)。安定RNAでは1本鎖に水素結合を形成し、らせん構造となるなど、多様な二次構造、三次構造を取り、安定性を増している。

孤立電子対

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A4%E7%AB%8B%E9%9B%BB%E5%AD%90%E5%AF%BE
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2015年03月20日

2015/3/20、私の現在の考え13・流れるものと派生するもの2

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)」が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/3/20、私の考え



自分を考えてみよう。
(流れるもの・循環するもの・始まりや終わりが無いもの)
人体と宇宙(両者は宇宙の産物・法身)であるが、これらのの間で浸透あるいは往来するのは何か?
前者の「 気持ち(kimochi)」や病気(byouki)と後者の「 天気(tenki)」や「 気候(kikou)」には共通して気(ki)が使われている。
最初は気(ki)か入る孔があるかと思ったが、両者はエーテルに浮かんでおり、エーテルやエネルギーを気(ki)と考えると、エーテルに浮かぶ人体のすべてから気(ki)が入ると考えるようになった。
エネルギーが人体の中に入ったかどうかは、意識していない。
これを「 無意識 」といえば、人体は無意識にエネルギーを摂取しているのだろう。
人体を動かす(たとえば脳)を動かすエネルギーは、食物や日光のような法身によるエネルギーと書籍などの文化のような報身によるエネルギーを意識することはできない(無意識に摂取している)。
前述したようにエーテルは神の身体でありエネルギーは宇宙の温度や電気や光や物化した宇宙の星のすべてで、人体もエネルギーが物化したものと考え、エネルギーがエーテルの中の物質中で相互循環し、そのエネルギーを神と呼ぶと思う。

(派生するもの・循環しないもの・始まりと終わりがあるもの)
自分の中で考える。
頭脳は「 フィラメント構造 」を流れる脳波という気(ki)であるが、意識は脳波を原因とした磁場で、それが精神であり、ちょうどビデオテープに残された映像のように記録されたのが記憶であるかもしれない。
そして今、現在、生活するとき、過去に向けて電磁波を発し出てくるのが「 思い出 」や記憶であるかもしれない。
私は、これらすべてを情報(zyouhou)である情(zyou)と呼び、これは感性や悟性や感情や理論や理性や宗教のすべてを含むと考える。
情(zyou)は、意識の内容であり、意識を持つのは人類共通であるが、その内容はすべて相違するだろう。
これは、地球上のどんなところでも時間意識、空間意識は相違するし、同じ場所や同じ時間は自分以外に存在しないし、相対性理論の「 同時性 」は「 自分以外 」に理論で拡張したものであることからも推察できる(エーテルも無視している)。
情(zyou)は、「 物語 」であり、「 心 」や「 心情(sinzyou)」であり、始めがあって終わりがあり、思考が人類すべて相違するように、「 物語 」もすべて相違するから、言語に変換して、他人の変換を待って伝達されると考える(心が伝わると表現する)。
つまり、「 循環 」することはなく、その単体のみで終わるのが「 物語 」であると思う。
人間をすべて言語で表現されても、人間を精神と規定することはできないと思う。
感情などを言語で表現されたとしても、人間には気(ki)があり、エーテルやエネルギーを言語で表現しない限り、人間を規定したものとはいえないだろう。
宗教で使われる「 無 」は頭脳の産物で宇宙は「 有 」であり、人間は無の状態を経験していないから「 無 」とは「 情(zyou)の無 」であり、「 フィラメント構造 」や気(ki)に近い状態であると考える。

Every miler draw water to his own mill.

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2015年03月14日

2015/3/14、私の現在の考え12・流れるものと派生するもの

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)」が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/3/14、私の考え



私は、これまで、無意識や意識、気(ki)と情(zyou)、小脳と大脳を書き、それらを人間の足と考え、人間が二足歩行をするように、それらを交互に往来して認識が生じると考えた。
これは、「 意識が電磁波である }の延長上の考えで、電場(エネルギー・神・たとえば空間意識)と磁場(精神・たとえば時間意識)が交互に現れ、電場と磁場が直交したとき認識が生まれ、「 心 」が生まれ、行動のエネルギーや力(神)が現れると考えた。

気(ki)と情(zyou)は、「 流れるもの 」と「 派生するもの 」だと考える。

「 流れるもの」は無明であり始点と終点をもたないもの(たとえばエネルギーや宇宙)、「 派生するもの 」は始点と終点を持ち(たとえば物語や宇宙観)、後者は前者の一部であり、後者は前者から生じ、前者の中に終わると考える。
その過程が「 無常 」と呼ぶもので、「 形あるものは崩れる 」ことになる。

「 流れるもの 」は「 循環するもの 」と同義と考える。

「 人格 」も「 派生するもの 」であり、「 形 」を持った瞬間に人格が現れ、「 六道 」の中に分類されるが、それは「 無常 」であり、始点と終点を持ち、それらを変化させるならば変化の余地があるだろう。

「 人格 」が始まり、終わることが「 人生 」であり、その結果として「 人生 」は人格であり、エネルギー(神)から「 派生した物語 」であり、人格を表現する人体が消滅しても、それはエネルギーである「 神 」に戻るだけで、「 死んだら終わり 」ではないと考える。

「 人格 」は、遺品に現れた「 心 」としてのこり、「 心 」が凍結したエネルギー(神)であるから、凍結を解く「 無意識 」と「 感受性 」により、エネルギー(神)が人間の「 精神 」として後世に伝達されると考える。

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2015年02月27日

2015/2/27、私の現在の考え11・自意識

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2009/1/2、私の反省(欲望と利己愛)

、「 利己愛 」の中に、「 自意識 」と、「利己の愛欲」とを分けて、前者は「電磁波」の構造を持ち、後者は、「台風」の構造を持つと考えます。

「 自意識 」は、末那識(manasiki)の働きであり、肉体が単独である限り、他の存在に同化する事は出来ない。

「私」を「あなた」と同一にする事は出来ない。

「六道」の何処に位置しても、存在するものです。

人間ならば、誰でも持つ意識だと思います。

これは、本能であると思います。


他方「利己の愛欲」は、欲望であり、自分を生き生きとして豊かにするが、自分の利益中心の定在波を持ち、定在波に対応する「六道」のどれかに位置します。

2008/10/23、自意識は末那識であり、電磁波である。

末那識

潜在的精神活動。
意識の底の流れとして存在し、自他を区別する根本。
自分は自分であって、自分に対する他人がある心。

Wikipedia では、次のように書いてある。

末那識は、特に「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)との二義を兼ねて有して、他の七識に勝っているから、末那(意)識という。

私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。

2008/11/6・私の展開(自我意識は悪者ではない)

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。

その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

2012/3/4、オカルト・私の思い11・自意識

「 自意識 」は、「 自分は自分 」であり、自分の顔が鏡に写すことにより意識されるように、「 自意識 」自体は、死ぬまで不変であり、当事者は知ることが出来ない「 一定の関係 」であると思う。

しかし、これが盲点であり、「 自意識 」こそが、「 無明 」の中心だと思う。

「 自意識 」は生命であり、無意識の中で、自分が自分を選択し、自分という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」で細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という「 一定の関係 」であり、外部に表現することにより、「 殻 」を知り、破る対象も知る。

2015/2/15 意識と可能性と欲


バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

このよう考えたとき、「 人間 」の分析には「 流れるもの 」と「 派生するもの 」前者が「 気(ki)}であり後者が情(zyou)だとするのが私の考えである。
欲望や心やエーテルやエネルギー(神)など小脳の感受性の部分が前者であるし、時間や空間の意識や思想や文化一般などの大脳の感覚の部分は後者になるだろう。
行動は「 宇宙的運動の一つ 」であり宇宙と連動するのに対して、思考は「 始めと終わり 」を持つ非宇宙的な頭脳の派生物である。

2015/2/27、私の考え


自意識も意識である以上、頭脳の派生物であるだろう。
自意識は存在意識から派生したものであるが、「 派生するもの」を「 関係するもの」と考える。
存在意識の中での「 関係 」は、存在意識に依存した(派生した)社会的な意識だろう。
「 存在意識 」と関係する意識が自意識で、それは、「 自分のフィラメント構造の自覚である」と思う。
自意識は頭脳の派生物で情(zyou)であるが、無意識にちかい(私は電磁波だと思う)から、エネルギー(神)に近く、無明で方向性が無いと思う。
フィラメント構造(生まれながらの時空)を流れる中で形成する意識だから、気(ki)にも似た無意識であるがために、細胞の不連続性(無常)に気づかない無明のエネルギー(神)であるから、自己の不変や自己の永遠を信じる、あるいは、「 死んだら終わり 」という無明に始まり無明に消えてゆくフィラメント構造であるのかもしれない。
気(ki)にも似た無意識であるため、細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という社会的な「 一定の関係 」という意識を固持するため、「 自分はいつまでも不変だ 」と思うかもしれない。
「 関係 」は、本来、自己中心的な自意識に情(zyou)を吹き込む社会的なエネルギーであり、「 欲 」が「 欲望 」に変化する契機になるだろう。
自意識は、電磁波に似たフィラメント構造から派生した、自己保存の意識だろうし、利己愛は、自意識が自分に適合したフィラメント構造に適合した欲望を伴った煩悩であり、「 台風 」や「 ハリケーン」のようなものだろう。
人間、生きているので、利己愛も自意識も必要かもしれないが、「 死 」に向かったとき、存在意識ではなくて、どんな自意識を持っていたのか(自分らしく生きたか?)が、エネルギー(神)により苦しみを伴った審判が下されるだろう。


Every miler draw water to his own mill.
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2015年02月24日

2015/2/24、私の現在の考え10・これまでの流れ

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

………………(引用する)………………………………

2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

2015/2/15 意識と可能性と欲


2008/10/26、生まれながらの時空より引用すると「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」

バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

このよう考えたとき、「 人間 」の分析には「 流れるもの 」と「 派生するもの 」前者が「 気(ki)}であり後者が情(zyou)だとするのが私の考えである。
欲望や心やエーテルやエネルギー(神)など小脳の感受性の部分が前者であるし、時間や空間の意識や思想や文化一般などの大脳の感覚の部分は後者になるだろう。
行動は「 宇宙的運動の一つ 」であり宇宙と連動するのに対して、思考は「 始めと終わり 」を持つ非宇宙的な頭脳の派生物である。

2015/2/21、私の考え


このように、小脳の生理、快感、ストレスを気(ki)の「 フィラメント 」、大脳の快楽、欲望を情(zyou)の「 フィラメント 」を流れる「 ビルケランド電流 」とし、総体が「 心 」というエネルギー(神)と考える。
以前に書いたように、人間は「 生まれながらの時空 」しか持っておらず、それは人類すべてが相違する時空であり、「 真の時空 」を人間は知らないと考える。
この「 生まれながらの時空 」で「 ビルケランド電流 」を区切り、それぞれの「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)を持っていると考える。
認識は「 心 」の了解、「 心 」というエネルギー(神)の融合、電場と磁場が直交してエネルギー(神)である行動する「 力 」を生じるが、それは「 電離層 」の中で行われるだろう。
その「 電離層 」の壁が「 六道 」であり、「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)が「 人格 」であるだろう。
「 類は類を呼ぶ 」や「 同類相憐れむ 」など、「 六道 」の中での「 定在波 」である人格の同調や「 心 」というエネルギー(神)の崩壊であり、「 六道 」の種類(系)の違いにより異なるだろう。
違う種類の「 六道 」に移るためには、情(zyou)である精神による「 始めと終わり 」を区切る壁を変えるいうエネルギー(神)が必要なのかもしれない。
「 電離層 」を回るシューマン波が、人間一般に共通する「 愛 」という電波・エネルギー(神)であるから、誰によっても独占されず、「 人のものであって人のものでないもの 」かもしれない。

………………(引用を終わる)………………………………

2015/2/24,私の考え



このように、「 三身即一 」の状態が人間で、精神的な生き物が人間であれば、精神、すなわち報身(housin)から観た宇宙は広がる真空状態が法身(otsusin)という神仏の身体で、真空状態の広がる温度が宇宙のエネルギー(神)であり(私はそれをプラズマと思うが)、エネルギー(神)が細胞として物化したのが人体で、「 頭脳 」もエネルギー(神)が物化したのだが、意識はそれから「 派生する 」宇宙の産物であると思う。
すべてが「 フィラメント構造 」を持っていて、そのためエネルギー(神)の往来が可能であり、「 フィラメント構造 」は精神においては「 物語 」であり、物化した「 心 」を交流させるのが人体の無意識を司る小脳の「 可能性 」である「 感受性 」であり、「 ストレス 」として、あるいは「 欲 」として、人体の行動のエネルギー(神)になる。
思考も「 論理可能性 」という物語を通じて行動のエネルギー(神)となるだろう。
エネルギー(神)は「 電気(denki)」の気(ki)であると思う。
認識が「 力 」というエネルギー(神)になるのは、空間意識である電場(空間)と時間意識である地場(時間)が直交するときフレミングの理論により「 力 」が生じ、その「 力 」がエネルギー(神)となると思う。
このように、「 フィラメント構造 」がすべてで、気(ki)から情(zyou)へ一貫としたエネルギー(神)が流れると考え、人体の染色体も「 物語 」で、人生も「 物語 」で、人間は「 無明 」のエネルギー(神)から生まれ、死によって「 無明 」のエネルギー(神)に戻るのかもしれない。

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2015年02月21日

2015/2/21、私の現在の考え 9 六道 ・心・ 愛

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

………………(引用する)………………………………

2008/12/21
これは、私の解釈であるから、主観的な見解であり、間違いだと思うが、書くことにする。

私は、意識が電磁波的な構造を持ち、情(zyou)を過去から現在そして未来の阿頼耶識(arayasiki)へと、伝達する働きや機能を末那識(manasiki)の機能であり、これは本能であると解釈する。

生理的、本能的な「快感」は、神経細胞により、脳の部分に伝達され、エネルギーが飽和や均衡するのだと思う。

この「快感」は、「無明」の一種だと解釈する。

これが、生理的な「電流」であるならば、精神的な「電磁波」を生むと思うが、その電磁波は末那識(manasiki)であり、「快感」の意識として阿頼耶識(arayasiki)に伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)は、「快感」だけでなく、「快感」を生じた原因や行為の全てを記録する。

私の考えでは、「快感」という感覚の刺激によりエネルギーが均衡する部分と、感覚の刺激による意識の飽和や均衡の部分とは違うという結論になる。

これは、間違いかも知れないが、私のブログでは、その意識を「欲望」あるいは「欲」の「情(zyou)」と解釈する。

「快感」は、一つの刺激ではなく、五感の刺激により伝達されるのに従い、「欲」の「情(zyou)」も、五感の意識の電磁波の塊である。



「快感」と、「欲」の「情(zyou)」の違い。

生理と精神の違いは、精神は末那識(manasiki)により、波長を増幅したり、持続したりする事が出来る事である。

そして、末那識(manasiki)の「現象」の世界の「道具」による可能性の拡大という特徴が現れる。

末那識(manasiki)により「道具」的な因果関係を固定し、保存し、波長を繰り返したり、増幅して「遊ぶ」事を可能にする。

その力によって、「快感」が、増幅された「欲」の「情(zyou)」という意識の定在波となり、「六道」を選ぶ事になる。

選択する力は、意識であるし、エネルギーでもあると解釈する。

そして、「快感」を得る事が習慣的意思になると、煩悩になる。


慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。

これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。

2015/2/15

バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

………………(引用を終わる)………………………………

2015/2/21、私の考え



このように、小脳の生理、快感、ストレスを気(ki)の「 フィラメント 」、大脳の快楽、欲望を情(zyou)の「 フィラメント 」を流れる「 ビルケランド電流 」とし、総体が「 心 」というエネルギー(神)と考える。
以前に書いたように、人間は「 生まれながらの時空 」しか持っておらず、それは人類すべてが相違する時空であり、「 真の時空 」を人間は知らないと考える。
この「 生まれながらの時空 」で「 ビルケランド電流 」を区切り、それぞれの「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)を持っていると考える。
認識は「 心 」の了解、「 心 」というエネルギー(神)の融合、電場と磁場が直交してエネルギー(神)である行動する「 力 」を生じるが、それは「 電離層 」の中で行われるだろう。
その「 電離層 」の壁が「 六道 」であり、「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)が「 人格 」であるだろう。
「 類は類を呼ぶ 」や「 同類相憐れむ 」など、「 六道 」の中での「 定在波 」である人格の同調や「 心 」というエネルギー(神)の崩壊であり、「 六道 」の種類(系)の違いにより異なるだろう。
違う種類の「 六道 」に移るためには、情(zyou)である精神による「 始めと終わり 」を区切る壁を変えるいうエネルギー(神)が必要なのかもしれない。
「 電離層 」を回るシューマン波が、人間一般に共通する「 愛 」という電波・エネルギー(神)であるから、誰によっても独占されず、「 人のものであって人のものでないもの 」かもしれない。

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2015年02月15日

2015/2/15、私の現在の考え8 意識と可能性と欲

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。


2015/2/15 意識と可能性と欲



2008/10/26、生まれながらの時空より引用すると「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」

バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

このよう考えたとき、「 人間 」の分析には「 流れるもの 」と「 派生するもの 」前者が「 気(ki)}であり後者が情(zyou)だとするのが私の考えである。
欲望や心やエーテルやエネルギー(神)など小脳の感受性の部分が前者であるし、時間や空間の意識や思想や文化一般などの大脳の感覚の部分は後者になるだろう。
行動は「 宇宙的運動の一つ 」であり宇宙と連動するのに対して、思考は「 始めと終わり 」を持つ非宇宙的な頭脳の派生物である。

ゆえに、前者を統括する「 人格 」が問題になると思う。

「 宗教 」が人格の問題なら、エネルギー(神)を信仰するのではなく、エネルギー(神)の行動に沿ったことを学ぶために存在価値があり、イスラムが唱えるアラーは理解不能である。

Every miler draw water to his own mill.
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2015年02月09日

2015/2/9、現在の私の考え 7・ 可能性

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/1/21、私の記事

以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。



2015/2/9、私の考え



以上のように「 人体 」は複雑な構造であり、私の考えでは「 意識の生成 」で申しましたように、意識は太古の創造のようなことを行っており、意識は無意識を内容とした「 心 」を伝達すると思います。

「 太古の創造 」はエネルギー(神)の仕業であり、物質を創るのでしようが、「 太古の創造のようなこと 」はエネルギー(神)から派生したもので、派生するのは「 意識 」であり、伝達するのは「 心 」であると思います。
「 心 」は法身(hotsusinn)ではなく、報身(housin)であり、宇宙の産物ではなく、人類の産物であり、根本的には法身(hotsusinn)である「 宇宙 」や「 物質 」を規定することはできず(規定は誤りであり)、人類だけの人類愛のようなもので、人類しか判別することができない「 霊 」かもしれません。
言葉に「 霊 」があれは、それであると思います。

このように考えたとき、「 可能性 」とはどのように考えるのでしょう。
「 可能性 」は「 能 」を含んだ単語であり、「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが言語や絵画などの文化の全部に具現化する契機であり、「 情(zyou)」であり情報であると思います。

これまで述べましたように、情(zyou)は「 物語 」であり「 始めと終わり 」を規定します。
無明(mumyou)というエネルギー(神)であり無意識を始点とし、無明(mumyu)のエネルギー(神)を終点と規定するから成立する「 意識 」であり情(zyou)であり、無明(mumyou)は「 心 」であると思います。

ゴーギャンがいう「 我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこに行くのか 」は、私には、「 無明(mumyou)というエネルギー(神)から始まり無明(mumyou)のエネルギー(神)で終わるもので、人間はエネルギー(神)の産物であり、死によりエネルギー(神)に帰ると思うが、生存中は意識が「 心 」をどこからどこへ伝達するのかということに似ている 」と考えます。

「 可能性 」は、無明(mumyou)のエネルギー(神)のなかの「 方向性 」という情(zyou)であり、法身(hotsusinn)のなかの報身(housin)であり、仏教で、如来(nyorai)が法身(hotsusinn)であれば、如来へ導く「 菩薩 」や「 観音様 」などが「 方向性 」を示す「 可能性 」である報身(housin)だろうと思います。

無意識の中の「 小脳の運動可能性 」つまり「 生きることができるか 」がエネルギー(神)と人体の境界であり、報身(housin)の限界であり、「 蓋然性 」を現わすとき「 意識 」の、論理の可能性であり、法身(hotsusinn)ではなく、法身(hotsusinn)=真理に近づく「 可能性 」であり、「 可能性 」はすべて報身(housin)に属すると思います。

「 人体 」は複雑な構造であり、私の考えでは「 意識の生成 」で申しましたように、意識は太古の創造のようなことを行っており、意識は無意識を内容とした「 心 」を伝達すると思います。

「 太古の創造 」はエネルギー(神)の仕業であり、物質を創るのでしようが、「 太古の創造のようなこと 」はエネルギー(神)から派生したもので、派生するのは「 意識 」であり、伝達するのは「 心 」であると思います。
「 意識 」は「 可能性 」の「 方向性 」を取りまとめたエネルギー(神)であり、伝達するのは「 真理(=法身(hotsusinn)と一致すること)」ではない「 心 」であると考えます。
「 真理 」ではないから、「 心 」は常にその意識が真理に向かっているのか方向性を点検する必要があると思います。

Every miler draw water to his own mill.
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