2009年02月23日

2009/2/23・創作1(私の虚時間の意味)再考

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私は、「意識は電磁波(光)である」という方針で、電磁波の構造を考えて、@時間やA空間やB物質波への光子の取り入れと放出について、書きました。

これは、全て、フィクションでから、物理的な根拠は全くありません。


@時間

地球は自転しますから、私が「 今 」と叫んだ時の世界の状況と、叫んだ後の「 今 」の世界の状況は、変化しています。

社会で「 今 」という瞬間が、人体の内部では、「 普通の時間 」と「 虚時間 」の合計だと書きました。

電磁波の「 ラセン状 」のサインカーブ上で、実数で表現される時空の領域が「 普通の時間 」で、複素数を乗じた時空の領域が、「 虚時間 」です。

それは、エントロピーに従う生理的な時間の方向に進む電磁波の進行方向に直角な「時間意識」と「空間意識」の座標軸の回転により、表現されます。

「 虚時間 」は、時間についてだけであり、空間も「虚空間」が存在するかも知れません。

時間意識と空間意識が、サインカーブを描いて、「 今 」と叫んだ状態と次の新しい「 今 」の状態の不連続面を結合した結果、「 連続 」していると心理的に思わせていると思います。

私は、映画の仕組みを想像します。

不連続だから、西洋の実存主義が成立すると思います。

その不連続の面を「普通の時間」と「 虚時間 」が結合していると考えます。

不連続を肉体の「 慣性 」が、連続していると意識させると思います。

その不連続な時間の中で、「 永遠 」を求めるのは、「 実体 」を求める事だと思いますが、それが、間違いだと思います。

「 実体 」は、宇宙を写して同調させただけで、「 実体 」は主観的であり、局所的であるからです。

永遠な実体は無いと思います。

私は、意識の構造が原因で、以上の事が起こる事を知るだけです。


A空間

私は、この不連続な瞬間に、「 普通の時間 」の感覚の外の宇宙と、「 虚時間 」の「 内なる宇宙 」が交差すると考えます。

それは、目の前の出来事であるが、実際は、何光年も離れた宇宙の交差かも知れません。

後日、書きますが、「 短期記憶 」と「 長期記憶 」という言葉がありますが、私は、短期や長期という記憶の区別ではなく、本人の立場で考えます。

短期や長期の区別ではなく、本人が、「 今 」に想起可能か否かの問題であり、記憶は全て「 虚時間 」や「 虚空間 」に貯蔵されると考えます。

それらは、短期や長期の区別ではなくて、数光年も離れている私の内部の「 仏の智慧 」と、ネット上の「 知識 」の関係かも知れません。

記憶が、「 虚時間 」や「 虚空間 」に蓄えられる「 智慧 」であると考えると、「 未来は、既に見えている 」人も世界に存在するかも知れません。

「 今 」の瞬間に「 宇宙 」が交差しており、過去や未来の区別が無意味なのかも知れません。

経済や天候などの予測も、「 虚時間 」だから、成立するのだと思います。



B物質波への光子の取り入れと放出。

意識はフェルミ粒子で物質から離れない物質波であると思います。

フェルミ粒子の意識は、ボーズ粒子の光子ではない。

「 普通の時間 」の中で、フェルミ粒子が偶数個、集まって、ボーズ粒子状態になり、ボーズ粒子のエネルギーを取り入れる。

そして、座標が「 虚時間 」に回転した時、フェルミ粒子に戻り、干渉して、次の「 今 」の世界に模様を作る。

それが、物の「 実体 」であると思います。

放出については、「 内なる宇宙 」の「誕生」ですが、「 虚時間 」や「 虚空間 」が、現実世界に「 形 」を持って、実体化する事です。

思想の表現や芸術の表現です。

意識が、複素数を乗じても変換されない事物、阿頼耶識(arayasiki)として出現する事です。

身(身体)・口(言葉)・意(意識)のマンホールを通過して、本人の「 内なる宇宙 」から誕生する事です。

一つの意識ではなく、身(身体)・口(言葉)・意(意識)の意識を集中させて、具現化した物体が、思想や芸術だと思います。

思想は具現化する。

これも、正しいかも知れません。

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2009年02月22日

2009/2/22・創作1(瞑想に代金は必要でない)2

Yahoo USA が、「瞑想に代金は必要でない」を登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjkaoKBJfIcAFm1XNyoA?p=%E7%9E%91%E6%83%B3%E3%81%AB%E4%BB%A3%E9%87%91%E3%81%AF%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%84&fr=yfp-t-501



Yahoo USA に、感謝して、もう少し書きます。

「 瞑想 」を検索してください。

「 瞑想 」について、CD や本が紹介されています。

瞑想って、自分の内心と対面する事だと思いますが、他人からの指示で、行為する事ではないと思います。

私は、自分の心がコントロールされたり、他の物体に依存する事が嫌いです。

「 禁煙 」も、ニコチンに依存する事からの脱却でした。

「 禁煙 」は、喫煙したいという欲求を見て、拒絶するのですが、瞑想も、方法は似ています。

「 瞑想 」は、一つの事を集中して思考するよりも、何かに従事しながら、思考する方が効果的だと思います。

私は、音楽を聴きながら、考えます。

私は、ICレコーダに、好きな曲を録音して、それを繰り返して聴く方法を採用しています。

アップル社の、アイ・ポッドで音楽を聴くのも良い方法だと思います。

普通は、音楽を聴くのですが、ブログで書くために、問題に対して私の態度を決める時があります。

その問題を考えながら、音楽を聴きます。

耳には音楽が聞こえているが、それにもかかわらず、考えが出て来た時が結論が出た時です。

耳からの音楽を楽しまず、考える事に心を集中させます。


「音を見ながら、考える」

思考には、音楽が助けになると思います。

この事を、職場への通勤時や昼休みの時に実行しています。

私が聴くのは、モーツアルトではありません。

自分が好きな、アメリカの女性歌手の曲を、何度も繰り返して聴いています。

考えが出て来ない時は、好きな音楽を楽しみます。



自分の内心を見るのに、他人の方法に依存する事は嫌いです。

自分の内心は、自分が見るのであり、暗示されて見る事ではありません。


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2009/2/22・創作1(瞑想に代金は必要でない)

2009/2/21、考えた事。

B創造するための方法。

これは、「 瞑想 」が必要だと思います。

「 瞑想 」は、黙って眼を閉じているだけではないと思います。

一つの意識の外延に立ちながら、他の事を意識する事だと思います。

それが可能なら、特定の「 瞑想 」方法を採用しなくても、自分の「 瞑想法 」でも許されると思います。

「念仏」も「お題目」も、「ヨガ」も、修行と言われる物は、この「 瞑想法 」であると思います。




2009/2/22、考えた事。

簡単な「 瞑想法 」を考える。

私の考えでは、人間は、誰でも好きな時に、創造する力を、自然(天と空)から得る事が出来ると思う。

瞑想に「 代金 」を必要としない。

自分の「 瞑想法 」で、自然から「 智慧 」を得る事が出来るならば、無料である。

私は、「 智慧 」を、自然から得る。

既述したように、「 智慧 」は、その人独自の、局所的な、主観的な考えである。

だからこそ、「 価値 」があると思う。

一流大学で教える知識が、知識の全てではない。

応用する、個人の「 今 」に役立つ知識こそ、「 智慧 」であり、それは「 心 」の中の、遥かな時空を超えて、「 今 」に現れる。

「 智慧 」とは、「 内なる宇宙 」の「 仏の智慧 」である。

私は、既述したように、「時間意識」と「空間意識」は阿弥陀仏が創った感覚であり、阿弥陀仏を創造する事が、一番の瞑想であると思う。

他の宗教ならば、その「 創造主 」を想像するのが瞑想だろう。



もっと、簡単な方法を、私は行っている。

これは、本当の「 瞑想 」ではない。

それは、「 禁煙 」により、自分の欲望を抑えて、つまり本能に逆らって、左右の「 脳 」を使う。

私が高校生の頃、「 ながら勉強 」が流行した。

ラジオを聴きながら、数学の方程式などを解くのである。

これは、良い方法ではない。

勉強という対象が存在して、それに関係しながら、ラジオを聴く事は、勧めない。

私は、対象から離れて、ブログを書く材料を探す時、音楽を聴きながら思考する方法を採用している。

私の考えで、「 脳 」を使っている。

思考が進まない時は、音楽を楽しむ事にしているが、目的は音楽を聴く事ではなくて、思考する事である。

これが、私の「 思いつき 」の方法である。


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2009年02月21日

2009/2/21・創造1(私の虚時間の意味)時間の中の粒子2

Yahoo USA で、私の記事が登録されています。

Yahoo USA 「時間の中の粒子」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkyRtPp5JNSYBeOdXNyoA?p=%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E7%B2%92%E5%AD%90%E3%80%80&fr=yfp-t-501

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/2/18・掲載した記事は以下の通りです。

光子は、ボーズ粒子です。

私は、「 普通の時間 」の座標を通る粒子は、フェルミ粒子が、偶数個、集まってボーズ粒子の状態であり、「 虚時間 」の座標を通る時は、奇数個のフェルミ粒子だと考えます。

@外部の光を見る時や考えを取り入れる時。

私の眼の外の宇宙の光は、ボーズ粒子で、それが眼と衝突した時、光を見る時、その光子を写し取るために、内部に引き入れるために、フェルミ粒子が偶数個、集まってボーズ粒子の状態になるのだと思います。

A「 内なる宇宙 」から、外部へ表現する時。

フェルミ粒子の意識の粒は、偶数個、集まってボーズ粒子になり、物質の光を出します。

その物質の光については、まだ想像していません。

しかし、「 形 」を持って「意識が物化」するのだろうと思っています



2009/2/21、考えた事

私は、物理学は、全く勉強していませんから、私のブログの方針に合うように、解釈します。


@外部の光を見る時や考えを取り入れる時。

私は、「 感覚器官 」を持っています。

外部からの刺激を感覚器官の神経で把握する時は、少しの「 刺激を受ける 」時間が必要だと思います。

その時間が「 普通の時間 」であり、刺激が、「 光子 」のエネルギーであれば、「 普通の時間 」の中で、ボーズ粒子をボーズ粒子として受け取るのが、感覚器官による外部からエネルギーの取得だと思います。

「 感覚神経 」が受け取る時間が「 普通の時間 」であり、それはフェルミ粒子が、偶数個、集まってボーズ粒子化した状態だと思います。

「 意識 」というフェルミ粒子を偶数個、集めるとは、「時間意識」と「空間意識」を集める事かも知れませんが、私は、別の事を想像します。

「時間意識」と「空間意識」は、自分の意思で集める事は出来ないと思います。

それは、物質の「 背景 」の「 場 」であるからです。

私は、「集める」とは、「二つの意識を集める事」と解釈します。

私は、感覚する事は、複数個の意識により成立すると思います。

私は、物理学でいう「超伝導」などは、考えていません。

「超伝導」は、電気の流れの中での問題ですから、神経の内部で生じるのかも知れません。

私は、意識は、「流れる物」ではなく、「派生する物」として考えていますから、「超伝導」は考えていません。

感覚器官の中で、複数個の意識により、ボーズ粒子化した時、それが「 実体 」だと思います。

「 実体 」が、物の全てではありません。

「 実体 」の他に、フェルミ粒子としての、「隠された時間の虚時間」や「内なる宇宙」が現れていない部分が存在するからです。

「 実体 」の座標により得られる物に、「 方向転換 」して得られる物を合計した物が、「 認識 」だと思います。

「 認識 」した物は、阿頼耶識(arayasiki)であり、ボーズ粒子かも知れませんが、その伝達の過程は、フェルミ粒子の過程だと思います。



A「 内なる宇宙 」から、外部へ表現する時。

これは、偶数個のフェルミ粒子を集めて、ボーズ粒子を作る事であり、「 実体 」を作る事です。

人が認識可能な「 実体 」を作るとは、「内なる宇宙」の実体化であり、意識が社会の中で「 形 」を持つ事だと思います。

例えば、「 神 」の登場には、「光」と「音楽」があるように、フェルミ粒子が層を作っている「内なる宇宙」が、外部からみれば、複数の意識に現れた時、社会はそれを「 誕生 」や「 芸術 」と言うでしょう。

私は、複数の意識が「 感動 」だと思います。

「 感動を与えない芸術は無い 」と思います。



B創造するための方法。

これは、「 瞑想 」が必要だと思います。

「 瞑想 」は、黙って眼を閉じているだけではないと思います。

一つの意識の外延に立ちながら、他の事を意識する事だと思います。

それが可能なら、特定の「 瞑想 」方法を採用しなくても、自分の「 瞑想法 」でも許されると思います。

「念仏」も「お題目」も、「ヨガ」も、修行と言われる物は、この「 瞑想法 」であると思います。

瞑想によって生じた物が、人に「 感動 」を与えるなら、それは「 芸術 」であるかも知れません。

ある宗教家は、言いました。

「人生は芸術である」

この言葉も、正しいと思います。


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2009年02月18日

2009/2/18・創造1(私の虚時間の意味)時間の中の粒子

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2009/2/15、考えた事。

電磁波のサインカーブが交差する前の時間を「 普通の時間 」、交差した後、座標の符号が変わり、複素数を乗じた座標の時間が「 虚時間 」とすれば、意識の時間は、「 普通の時間 」と「 虚時間 」の合計になります。


2009/2/17、考えた事。

この「 普通の時間 」と「 虚時間 」を空間的に考えると、前者が、眼の外の宇宙、後者が「内なる宇宙」、前者が「 社会の知識の精神的世界 」後者が「 私の智慧の世界 」と整理しました。

2009/2/18・考えた事。

私は、「意識は電磁波(光)である」と書きましたが、意識が、物理的な光だとは思いません。。

意識の構造が、電磁波の構造であり、「 意識 」そのものが、「光」ではないのです。

意識は電磁波である事は、同じ事を言ってるかも知れませんが、意識自体は、構造であり、物質とは思いません。

その意識の電磁波の構造で伝達される粒が存在するならば、電子でしょう。

情(zyou)も、電子という結論です。

電子は、フェルミ粒子であり、前述したように、波動関数は符号を変えます。

「 普通の時間 」と、「 虚時間 」の合計を波動関数と考えて、前者と後者の「 場 」の符号が変わる事により、意識により伝達される情(zyou)はフェルミ粒子だと思います。

光子は、ボーズ粒子です。

私は、「 普通の時間 」の座標を通る粒子は、フェルミ粒子が、偶数個、集まってボーズ粒子の状態であり、「 虚時間 」の座標を通る時は、奇数個のフェルミ粒子だと考えます。


@外部の光を見る時や考えを取り入れる時。

私の眼の外の宇宙の光は、ボーズ粒子で、それが眼と衝突した時、光を見る時、その光子を写し取るために、内部に引き入れるために、フェルミ粒子が偶数個、集まってボーズ粒子の状態になるのだと思います。



A「 内なる宇宙 」から、外部へ表現する時。

フェルミ粒子の意識の粒は、偶数個、集まってボーズ粒子になり、物質の光を出します。

その物質の光については、まだ想像していません。

しかし、「 形 」を持って「意識が物化」するのだろうと思っています。

「 芸術は、爆発だ 」

この考えは正しいと思います。

Poor thinking is as good as no thinking.

そして、

Every miller draws water to his own mill.






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2009年02月17日

2009/2/17・創作1(私の虚時間の意味)意味の適用と意味の付与

2009/2/15、考えた事。

電磁波のサインカーブが交差する前の時間を「 普通の時間 」、交差した後、座標の符号が変わり、複素数を乗じた座標の時間が「 虚時間 」とすれば、意識の時間は、「 普通の時間 」と「 虚時間 」の合計になります。




2009/2/17、考えた事。

この「 普通の時間 」と「 虚時間 」を空間的に考えると、前者が、眼の外の宇宙、後者が「内なる宇宙」、前者が「 社会の知識の精神的世界 」後者が「 私の智慧の世界 」と整理しました。

この前者と後者が、座標軸の一点で交わる所に、身(身体)・口(言葉)・意(意識)という「 マンホール 」、あるいは「 ワームホール 」などの、通路があると想像します。

その通路より、前者が後者に影響を及ぼす時、それを意味の「 適用 」とします。

これは、勉強とか、心理学で分析した自分が該当するでしょう。

後者が前者に影響を及ぼす時、「 意味の付与 」とします。

これは、「 芸術は爆発だ 」と言った画家も過去に存在しましたが、まさに「芸術」は、「内なる宇宙」が現在に噴出した物だと思います。

私は、知覚して頭脳で転換するのではなくて、知覚の時点で、意識は座標軸を転換して、往来していると考えます。

私は、見る意思、聞く意思が、「 心 」であり、知覚を指図すると考えます。

前者と後者が、「意識の電磁波の進む方向」に結ばれながらも、座標を変換するから、理解が可能であり、人間らしい営みだと共感が可能だと思います。

これらが、バランスを崩した時、前者は「 絶望 」になり、後者は、心理学的な「 投影 」や退避になると思います。

また、後者が「 虚時間 」というのは、時間の方向が逆と解釈して、記憶を使った過去に向かう時間意識であり、時間意識が通用しない物質的世界で、可能性を含んだ物質という意味で「 能力 」や「 本能 」の世界かも知れません。

そして、意識の時間は、「 普通の時間 」と「 虚時間 」の合計は、一回転であり、サインカーブの合計であり、基本的な一つの波長の長さである。

そして、それは、「 心臓の鼓動 」であり、「 主観的時間 」であると思います。

社会の「客観的時間」の中での、私の「主観的時間」です。

「内なる世界」は物質であるという結論になりますが、変更するかも知れません。

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2009年02月15日

2009/2/15・創作1(私の虚時間の意味) 3

2009/2/13の記事です。

「意識は電磁波(光)である」という方針から、「電場」(空間意識)と「磁場」(時間意識)が直交した座標を考えます。

サインカーブの途中で、電場と磁場の方向が変わる事を、複素数を使って座標を回転させる事で、納得します。

サインカーブを進行方向から見れば、円、サークルを描いて進んで来るように見えると思いますが、途中で見えなくなるから、進行する事を想像する。

進行方向から見れば、進行する事の想像は、座標を、複素数で回転する事と同じだと、今は、思っています。


複素数(i)を二乗すれば、符号のプラスがマイナスになる。

座標の方向が変わる。

これは、私が風景を見た時、網膜に逆に写る映像の状態を示していると思うのです。

眼の外部が、普通の宇宙で、複素数を乗じた世界が、網膜の世界、つまり「 内なる宇宙 」であると思います。

座標の符号が変わった瞬間に、智慧と知識が、「ワームホール」というマンホールを往来するのが直感だと考えます。



2009/2/15、考えた事。

電磁波のサインカーブが交差する前の時間を「 普通の時間 」、交差した後、座標の符号が変わり、複素数を乗じた座標の時間が「 虚時間 」とすれば、意識の時間は、「 普通の時間 」と「 虚時間 」の合計になります。

時間意識は、空間の関係ですから、時間は「 虚時間 」として空間の一要素となり人間を考えずに、天体の運動を計算し、天体の運動を人間的に物語る時に、「 普通の時間 」と「 虚時間 」として現れると思います。

私は、空間関係から作り出した心理的、生命的な判断基準が「時間」だと思っています。

その時間を、「 普通の時間 」と「 虚時間 」に分けて、精神を記述する事を提案するのです。

その区別を、男と女、「陽」と「陰」、精神と物質など、相い補う関係に適用します。

仏教は学んでいませんが、「密教」の「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」も、この眼に見える「 普通の時間 」と、眼に見えない「 虚時間 」に対応すると思っています。

つまり、「 座標軸の変換 」を求める区別に適用します。


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2009年02月14日

2009/2/14・創作1(私の虚時間の意味)2

Yahoo USA が、私の虚時間の意味を登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklPW1JVJUWEAq0ql87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%99%9A%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3&fr=yfp-t-305&fr2=sfp&iscqry=

私の小さなブログを掲載するという冒険に敬意を表します。

もう一つの有名な検索会社には、無視されました。

私は、電磁波の構造の意識の中に、虚時間という複素数を入れて、「 内なる宇宙 」を認識の一要素としました。

それは、認識の中に「 心 」を導入することを意味します。

見ているのは、「何かを見ている」のです。
聞くのは「何かの音」です。

それは、自分の「 心 」で、見たり、聞いたりしているのです。

認識に「 心 」が含まれます。

理論には、「 心 」が入っているから、全ての理論は主観的だと思いますので、世界中の皆が合意しても、主観的な物は主観的なのです。

「 内なる宇宙 」を認識の一要素として、認識の中に「 心 」を導入する事は、私の思想は「 主観的 」だという事です。

私は、認識する事は、絶えず現在の状況と過去の状況を照合する事だと思いますので、全て「 内なる宇宙 」が含まれます。

認識には、感覚からの意識が進む方向に、複素数による座標の変換、つまり意識の進行に「 心 」という「 内なる宇宙 」が受け入れる体勢を取る事が必要だと思います。

それが、見ているのは、「何かを見ている」のであり、聞くのは「何かの音」を聞いているのだと思います。

「何か」という意識を発生させる意味の志向性を追求している本もあります。

しかし、私は、主観性から逃げられないので、「主観的」とは何かを追求します。

社会的な「客観的」な意味の理論ではなくて、私の「主観的」な考えとは何かを追求します。

複素数を導入する事が、「 時間 」を「 虚時間 」として無視して、「空間的」に考える事であるとしたら、それも賛成します。

「 時間 」が精神的な思考だとすれば、それは、思考を止めて、「心を虚しくして」、謙虚に事実を受け入れる事だと思います。

注意して何かの音を聞くとか、注意して何かを見るとは、「 心を虚しくして」謙虚に聞く事であり、それは、「 心 」を開く事、「 心 」を感覚まで接近させる事だと思います。

思考する「時間」を止めて、「 心 」を、認識可能な領域まで接近させた後、「 虚時間 」という複素数や座標の転換を導入した経過を、「 内なる宇宙 」を適用した経過を、現実世界に提出するのが目標です。



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2009年02月12日

2009/2/12・創作1(私の虚時間の意味)

Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkw7z55NJjXEA4JBXNyoA?p=%E8%99%9A%E6%99%82%E9%96%93+m24658&fr=yfp-t-501

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、物理学の「 虚時間 」については、知りません。


知らない人間が何を書くのかと、疑問に思われるかも知れないが、私は、私の興味で、「 虚時間 」について書くのです。

「意識は電磁波(光)である」という方針から、「電場」(空間意識)と「磁場」(時間意識)が直交した座標を考えます。

サインカーブの途中で、電場と磁場の方向が変わる事を、複素数を使って座標を回転させる事で、納得します。

サインカーブを進行方向から見れば、円、サークルを描いて進んで来るように見えると思いますが、途中で見えなくなるから、進行する事を想像する。

進行方向から見れば、進行する事の想像は、座標を、複素数で回転する事と同じだと、今は、思っています。


複素数(i)を二乗すれば、符号のプラスがマイナスになる。

座標の方向が変わる。

これは、私が風景を見た時、網膜に逆に写る映像の状態を示していると思うのです。

眼の外部が、普通の宇宙で、複素数を乗じた世界が、網膜の世界、つまり「 内なる宇宙 」であると思います。

座標の符号が変わった瞬間に、智慧と知識が、「ワームホール」というマンホールを往来するのが直感だと考えます。

実際のタイムマシンではなくて、過去の体験により結ばれた知識と智慧が往来して、現在の体験の智慧となるのだと思います。

私は、複素数の導入により、「内なる宇宙」を外部へ誕生させます。

物質と精神が結びつくかも知れない。


物質には、実時間は無い。
それに「 虚時間 」を設定して、精神の中に入れる。
これは、物理の考えだと思います。

その「時間」が、「生命」であれば、草も木も、犬も猫も、地球の一つの生命体になると思います。


これは、今、思うだけで、変更するかも知れません。


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2009年02月11日

2009/2/11・創作1(虚時間)

先日、以下の文章を紹介しました。

「事象の時間表示は、普通私たちが考えるような普通の数ばかりではなく、複素数でもありうると考えれば、確定した答えを得ることができます。その場合には、別の時間方向があります。虚時間と呼ばれ、普通の時間とは垂直な時間方向です。粒子の経路は、普通の実時間での方向ではなく、虚時間の方向に起こると考えることもできるのです。これら虚時間での経路に対応した複素数を加え合わせるなら、確定した答えを得ることができます。この答えから、普通の時間で異なったことが起こる確率を計算することができるのです」


(ホーキングの最新宇宙論「ブラックホールからベビーユニバースへ」1990年12月10日発行。著者→スティーブン・W・ホーキング。訳者→佐藤勝彦 116ページより引用しました)

私の考え。

私は、「 プラズマ宇宙論 」を支持し、「 ビッグ・バン」理論は採用しません。

ですから、ホーキングのように考える必然性は無いのです。

ただ、理論的に、虚時間が成立するならば、それを利用します。

私が注目するのは、次の文章です。

@
「別の時間方向があります。虚時間と呼ばれ、普通の時間とは垂直な時間方向です。」


現在と過去の現実面が、「意識の電磁波」により、不連続だが、「電場」と「磁場」、つまり「空間意識」と「時間意識」が、サインカーブで連続していると、私は考えます。

それは、物理の本を見て欲しいのですが、電場と磁場は、一対の直角座標の方向を変えた形で、サインカーブを描いています。

私は、この「 方向の変換 」が、現象と本質、陰と陽、などの二分論を生むのだと思います。

虚時間は、時間の方向は、転換されますが、時間は逆に戻るのではない。
時間は、経過するが、その方向が違うと解釈します。


A
「粒子の経路は、普通の実時間での方向ではなく、虚時間の方向に起こると考えることもできるのです。」

時間の方向が違うとは、因果関係を無視しても許されると解釈します。

それは、「 本質直感 」の事だと思うのです。

「物体を見た瞬間に、自分の過去を振り返る。」と考えると、「 意識の光 」を前方に当てながら、過去へ反射する。

意識は、常に、現在に存在します。

Every miller draws water to his own mill.

注意してください。

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2009年02月10日

2009/2/10・創作1(意識は電磁波である)私の方針

「量子の謎をとく・著者→F.A.ウルフ、訳者→中村誠太郎」の中で、ガリレオについて書いた箇所がある。
53ページである。

ガリレオは17歳の時、故郷ピサの教会で、振り子のように揺れているシャンデリアの動きが、自分の脈拍と同じ振動を繰り返す事に気づき、力学的な時計の原理を初めて発見した。時間は、あらゆる運動を測定するための不可欠な背景となるであろう。



自分の脈拍から、時間という概念が生まれて、現代の精度が高い時間が定義されている。

しかし、「時間とは何か?」という疑問は解決していない。

私の考えは、「空想」や「想像」で書いた。

私は、このガリレイの前の時代に戻り、「時間」に拘束されない「時間感覚」や「時間意識」を持つ事が、「人間性の復活」へと続くものと信じている。



2008/9/14・私の空想(意識の座標軸U)

私は、「 自意識 」が、電磁波のような構造をしているのだと思っている。

「 自意識 」つまり「 光 」が発生するのは、電気が必要だろう。

それは、如来様(nyoraisama)の領域の「 心臓 」や「 頭脳 」の働きである。

生命があるものは、「 自意識 」を持っているかも知れない。

電磁波は「 電場 」や「 磁場 」が「 光 」の進行方向、つまり情(zyou)が伝達される方向に、交互に現れる。

これは、「時間意識」と「空間意識」だろうと思っている。

一般的に「時間」と「空間」は、同時に現れない。

物理学で、時空としての関係式が存在するが、これは両者が「 意識 」であるから、「 時空 」として一つの関係式に表現されると思う。

光速で進むのは、「自分」を確認する「 自意識 」であって、「時間」ではない。

時間」は地球の自転により発生するのであり、光速ではない。
宇宙が、時空の関係式で表現できると言うのは、ニュートンの言うように「絶対的時間」が存在するのではなくて、天体の運動が、地球の自転と同じく、正確であるからである。

なお、私の「 主観的時間 」は「 心臓 」から作られる生命のリズムと思っている。

情(zyou)は情報であるが、因果関係が時空の関係式で表現されるから、情(zyou)も時空に関係する。

それは、「 精神 」や「 意識 」の領域である。

「 自意識 」の中で、情(zyou)のエネルギーをベクトルとして生命体の「自分」が感じるから、情(zyou)が時空の関係式であっても、理解する時は、時間と空間に分けると思う。

情(zyou)の伝達には、時間も空間も必要だ。

理解する場合は、時間も空間も、「主観的時間」であり、「自意識」も個人の可能性で判断するから、人によっては、ベクトルを生命への情報として感じない場合も存在すると思う。

電場と磁場、時間と空間が、サインカーブで交点を作る時が「自分」と確認する事で、「自分」が連続しているように思えるが、実際は、不連続かも知れない。

西洋の「実存主義」の立場では、「自分」は不連続かも知れない。

電場と磁場、時間と空間が交点を作るとは「 認識 」する事である。

空間の事物を見て、主観的時間の中で全身全霊を使って、判断する。

私は、これが、時間と空間が交互に現れて交差する事だと思う。

私が考える時間と空間は、自意識を形成する「場」であり、その「場」が、サインカーブのように交差している点に「認識」が成立するのだと思う。

情(zyou)のエネルギーを「電場」か「磁場」で捉えた時、サインカーブの長さ、つまり「 主観的時間 」の幅が小さくなったり広くなったりする。
それが、興奮したり減滅したりする事だろう。

それが、現実面の「自意識」に「 人格 」として表現されるのかも知れない。

「認識」と「表現」が交互に現れる事が、意識の意味化、意味の意識化であるだろう。

私は、意味と意識を結ぶものは因果関係という物語、あるいは情(zyou)だと解釈している。



2008/9/25・私の想像(認識と欲と実存)

「世界の人類の可能性」の可能性自体は、果てしなく続くエネルギーであり、始めと終わりは存在しない。

始めと終わりを区切るのは、「精神」であり、「知識」としての可能性は、「社会」や「世界」の「定義された時間」であるし、自分の可能性は、私の「主観的時間」が区切る。


「世界の人類の可能性」から生じる知識としての波動や因果関係や物語を、自分の可能性の波動の一つに取り入れて、情(zyou)の波として考える。

それは、波動の中で、自分の実体を考える幅を与えられたという意味で、波動を生む可能性の幅が拡がった事であり、選択の幅が拡がったと言う。

「実存主義」は、「瞬間」の中に自分の進む方向を選択する事だと思う。

しかし、上記のように、波動の可能性の中で自分を選択するのであり、「瞬間」という「時間」の中に現れる「永遠」の自分を発見するのではなくて、「エネルギー」の軸の中に、自分の可能性を発見する事だと思う。

瞬間」は、私の考えでは、光速で進む「 自意識 」の面と面の間の不連続の時空であるように思われるが、「電場」や「磁場」に似た面で連続している時空であり、情(zyou)の伝達だけを役目とした時空であり、縦軸の「精神」に属し、「可能性」は存在しない。

時間は、思想という可能性を淘汰するだけであり、時間の中に可能性は「存在」しない。

私の「主観的時間」は、「内在的な時間」ではなくて、祖先から続く生命のリズムであり、可能性を区切るが、時間意識であるが、「時間」という存在ではない。

波動を生む可能性は、自分の中に存在する。

何も存在しない「時間」に、因果関係の網を投げても、自分の進む可能性を発見する事は出来ない。

「時間」があるから、可能性があるとは言えない。

「時熟」も、現れて来る自分の可能性が時間による淘汰の結果で現れる事であり、「時間」にエネルギーは「存在」しないので、「時間」を待っても、自分の可能性は現れない。

可能性を生むエネルギーは、如来様(nyoraisama)の「宇宙」に関連した横軸に属し、「宇宙」の領域で「電気」を流すと思う。

「 今 」と言う「時間」に、永遠を求めるのではなく、「 今 」で限定された、「可能性」というエネルギーの中に、未来の自分の種を発見するのが良いと思う。

地球が自転し、絶えず今であり、認識するのは全て過去の出来事である。

だから、自分の過去の延長上に、自分の可能性があるとも言えるが、意識の構造として、エネルギーの軸を認めれば、「世界」から取り入れた可能性が、「 自意識 」の形成を変化させる事もあると思う。



2009/2/10・考えた事。

この「 エネルギー 」は、神経を刺激しただけでは生じない。

例えば、キルケゴールの本を読んでも、ハイデガーの本を読んでも、「 エネルギー 」が生じる人と、生じない人が考えられる。

これは、後日、書くが、今日は、その「 エネルギー 」は、認識が成立する「人の住む世界」、あるいは「 電離層 」で生じると思う。



共感しない物事に、感動する事は、決して無い。



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注意してください。

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2009/2/10・創作1(目覚め)虚時間

「虚時間」( Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E6%99%82%E9%96%93


虚時間(きょじかん、imaginary time)は、虚の時間、つまり、単位時間の虚数(純虚数)倍で表される時間。
虚時間(の c 倍)と空間との間に対称性が成立する。このため、特殊相対性理論を虚時間を使って記述すると、数学的取り扱いが容易になる。


「事象の時間表示は、普通私たちが考えるような普通の数ばかりではなく、複素数でもありうると考えれば、確定した答えを得ることができます。その場合には、別の時間方向があります。虚時間と呼ばれ、普通の時間とは垂直な時間方向です。粒子の経路は、普通の実時間での方向ではなく、虚時間の方向に起こると考えることもできるのです。これら虚時間での経路に対応した複素数を加え合わせるなら、確定した答えを得ることができます。この答えから、普通の時間で異なったことが起こる確率を計算することができるのです」


(ホーキングの最新宇宙論「ブラックホールからベビーユニバースへ」1990年12月10日発行。著者→スティーブン・W・ホーキング。訳者→佐藤勝彦 116ページより引用しました)

私の考えは、後日、書きます。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年02月09日

2009/2/9・創作1(目覚め)

コツコツ………扉を叩く音がする。

誰だ!

魔物と戦い、やっと眠っていた「のび太」の私は、思わず、「白銀(sirogane)の剣」を握った。

オッ、ホッ、ホッ、ホ……汝の剣で、私を倒せると思っているのか?

魔物の声を聞いて、剣を見た「のび太」の私は、愕然とした。

その剣は「賞味期限」を過ぎて、使えない。

そこで、目が覚めた。

オーイ、ドラえもん。



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