2009年04月05日

2009/4/5・創作2(意思と形態)拡大した機能を使う方法

機能が拡大する事は、止められないから、それを何処に使うのかを考える。

経歴に従う事は、経験に従う事で、個人の人生であり、個人の智慧である。

経歴が不明の「感受性」は、社会的な智慧だろう。

「感受性」は、人間には誰にとっても同じであり、社会的な「 意思形成 」でパソコンでも達成する事が出来る。

パソコン普及によるグローバルな世界が存在するので、これを積極的に取り入れる。

「感受性」は、情報収集など、戦争に使うのではなく、国際紛争の解決のために使うべきだろう。

戦争の前に、嘘も真実も、全てを明らかにして議論する。

誰にとっても隠れた、自分の方向から見る事が出来ない座標という考えが存在する。

自分の座標に対して、「 反対称 」の座標は存在する。

人は現象として一つの方向からしか、見る事は出来ない。

パソコンなどの機械を利用して、同時に判断する事が必要である。

一方からは知る事が出来ない座標を持っている人類の誰もが、不当に扱われてはならない。



個人の思想や信条は、基本的人権として国内でも国際的にも、保護が必要だし、それを理由にした紛争は、国際的な裁判に応じて解決すべきだろう。

安達峰一郎博士が考えた、国際司法の「応訴義務」を、世界の各国は国際社会の構成員の義務として、全て、受け入れるべきだろう。

グローバルな情報を集め、戦争だけでなく、経済の「金融規制」にも、国際的な判断機関を「 国際連合 」に設置して、「 意思 」や「 形態 」を判断してはどうかという提案である。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2009/4/5・創作2(意思は形態)機能拡大の意味

私は、「 機能 」を「 能力 」ではなくて、」「 機会 」に対する「 脳の働き 」と拡大した。

「 機能 」を「 能力 」と解釈しないのは、「 自分 」を「 私が思っている自分 」と解釈しない事に結びつく。

「 機能 」が「 意思 」と「 形態 」に影響するとは、「 自分 」を見る時、「 意思 」は「 自意識 」だろうし、「 形態 」は、「 心 」だと思う。

「 機能 」とは、能力で考えると「 記憶 」だろうが、拡大した機能は「 感受性 」と考える。

「 頭脳 」の信号伝達の容量だと考える。

物理的刺激の他に、「 意識 」を必ず伴うと考える。

「意識」は電磁波だから、電気刺激を伝達する身体の「能力」では、伝達しない。

電磁波は電気から生じるが、電気ではなく、感覚という機能が得た実体を作る働きをすると考える。

感覚の全てから生じる「 意識 」は、同じ一定であり、同じ速度で、干渉し、不足分を補う。

左右の脳が補うように、視覚が不足すれば、聴覚が補って、「 存在 」を知る。

左右の眼からの干渉が、映像の知覚かも知れない。

眼も耳も、一つ存在すれば用件は足りるのに、二つ存在する事は、干渉を知覚しているのかも知れない。

その意識を統覚するのが、「 拡大した機能 」つまり、「感受性」であると考える。

光の経路を判断する事が出来ないように、多くの意識は、光と考えられ、その意識の経路は不明だろう。

「脳波」など計測する時の模様は、脳の中で「プラズマ」が起きていると私は考える。

そう考えると、「ビッグ・バン」理論ではなく「 プラズマ宇宙論 」の方がフィットする。

「 機能 」を「 能力 」ではなくて、」「 機会 」に対する「 脳の働き 」と拡大するのは、意識が物理的な「 頭脳の産物 」ではなくて、必然であるかも知れないが、落雷の経路のように自由に経路を変える電磁波だという解釈に結びつく。

その落雷が「 直感 」かも知れない。

自我から自意識を開放するように、頭脳も神経細胞の結合である「能力」から開放して、未来への自己組織を可能にする。

「能力」と言うと、三流大学卒業という経歴が影響するが、「 感受性 」と言うと、人間は皆、同じである。

鋭いか鈍いかが問題で経路は問題ではない。

これは、光は全ての経路を通るから、どの経路から来たかを判断する事が出来ない事情と似ている。

判断する事が出来ないなら、全てを受け取る力を「能力」ではなく、「感受性」として「機能」を考えた方が、私にとっては、開発が簡単である。

これも、ガリレオ以前の時間意識に戻る事、私にとっては「人間性の解放」に戻る事を意味するが……。

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2009年04月04日

2009/4/4・創作2(意思は形態) ミサイル 3

「 意思 」と「 形態 」は、「 機能 」に依存すると思います。

私が、「 死中生有り、生中生無し 」と言っても、それは、私個人の思想でして、これが社会に拡大解釈されるのを恐れます。

国際社会でも国内社会でも、法律による制限があります。

もし、制限が無いならば、「 機能 」が強い個人や国家が、他の個人や国家を制圧するでしょう。

「 意思 」と「 形態 」が結合しているから、日本国憲法で、象徴としての天皇を認めるが、軍備や戦争を認めないという憲法九条が存在しているのだと思います。

現在は、天皇のために死ぬ人は少ないと思いますが、自分や家族は守る人は存在すると思います。

その生命を維持するために、憲法九条を守っているのですが、ミサイルが隣国から飛来する状態であるなら、それが「 機会 」としての「 脳 」の拡大となり、憲法の趣旨に反する「 形態 」になる可能性も生まれます。

このミサイルは、問題提議だと思います。

ロビンフッドが弓矢で、息子の頭上のリンゴを落としますが、その時の息子は、何と思うか想像してごらんなさい。

その息子が、「 日本 」として、ロビンフッドの隣国の腕前を信じるしか方法は無いのです。

ミサイルは、平和に対する挑戦の一つだと思います。


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2009/4/4・創作2(意思は形態)ミサイル 2

私の記事を、Yahoo USA は掲載してくれた。

Yahoo USA 「意思は形態 ミサイル m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkme.DtdJJeYAs7Cl87UF?p=%E6%84%8F%E6%80%9D%E3%81%AF%E5%BD%A2%E6%85%8B%E3%80%80%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

アメリカにミサイルは届かないから、日本の対応を見ているのだろう。

今日、ミサイル発射の予定が、天候不良のために、延期された。

これは、「 形態 」で「 意思 」を表現していると思う。

日本の戦国時代に、「 上杉謙信 」という武将が存在した。

彼は、

「死中生有り、


生中生無し」



という言葉を残した。

これは、「 形態 」を見世物にする態度とは反対に、「 意思 」により、相手に「 形態 」の変化を予想させる事で、武士の心意気である。

死中生有り、生中生無し 」について、外国語で、翻訳は困難だと思うが、もし知りたいならば、日本語学校の先生に聞けば理解する事が出来るかも知れない。

それは、毎日が戦場である武士の心意気であるために、翻訳は困難である。

ただ、これは、「 上杉謙信 」が、仏教から会得した物であると、ネット情報には書いてある。

「 上杉謙信 」を検索するか、あるいはNHK の大河ドラマ「天地人」を見れば少しは理解できるかも知れない。

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2009年04月02日

2009/4/2・創作2(意思と形態)ミサイル

TV番組で、北朝鮮が、日本の上空を通過する「人工衛星」を上げる予定である事を知った。

「人工衛星」なら、中国かロシアに依頼すれば、安価で取得できるのに、北朝鮮があげるという。

一方で、「 核 」も保有している。

老人や子供などの、「 弱者 」を脅すには良い方法だ。

「 核 」を持ち、「 不正確な 」弾道ミサイルを保有しているだけでも脅威なのに、自分の国内の不安を解消するために、国際法違反の行為をするとは、「 大根役者 」が演じる第二次世界大戦以前の戦法だ。

保有する事は、自慢でない。 

保有する事を「 後悔 」する時が来るかも知れない。

勇気有る者は、裸で寝る

これは、私が創った言葉です。

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2009年04月01日

2009/4/1・創作2(意思は形態) 機能と認識と文化

Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれた。

Yahoo USA 「機能と認識 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxQHNdNJdPkANhtXNyoA?p=%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%81%A8%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-501

私は、私の記事が掲載された意味は、「あなたの言う意味は何ですか? 」と問われているように感じるので、また続きを書く事にする。

2009/3/29・考えた事

「 意思は形態として具現化する 」という記事でも書いたが、機能は、「 機会 」に際しての「 頭脳 」の働きと解釈する。

「 機会 」は、地球が自転するので同一の機会は無い。
しかし、「 頭脳 」で、生きる。
その「 順応 」する行為が体験である。

それらは、「 虚時間 」の中で行われ、智慧となり、知識となり、記憶される。

記憶とは、信号に応答する「 意味を持った形態 」の手順であり、主に、意識の中で、操作可能な「知識」として存在するが、無意識の中にも、「智慧」として存在するだろう。

その応答の感受性が、「 記憶力 」だと思う。

「意識」が「光」であるならば、「知識」が可視光線で「智慧」が、赤外線やX線などの不可視光線であるだろう。

「 機会 」に対して、「頭脳」は、全ての記憶を動員する。

眼で「見る」が、眼球は水晶体であり、網膜に映る映像は倒立している。

それを、反転させるのが、「頭脳」である。

そこにも、「 認識には反転、あるいは回転が必要である」事は明白である。

それは、「 虚時間 」と「 反対称 」が、「頭脳」の中で行われている事だと思う。

「謙虚に聞く」とか、「心を虚しくして聞く」という態度には、現実に対応する時に、座標軸を転換して、座標を反対称にして、聞く事である。

神経の刺激の反対方向に、意識を集中する事だと思う。

「視覚」や「聴覚」は、単独で存在しない。

「 意思は形態として具現化する」という記事で書いたが、人間は「文化的」であり、「文化」から離れる事は出来ない。

神経刺激は、左右の頭脳により、「意味ある形態」に結びついて、判断される。

神経の刺激に対して、「色」を見る意識や、「何かの音」という意識が必ず存在する。

それを、哲学者は、「志向性」と言うのだと思う。

彼らが「体験」というのは、「神経刺激」であり、刺激の伝達と「意識」の分析とは別であるというのが私の考えである。


2009/3/30・考えた事。

私が、「 機能 」を、視覚や聴覚から拡大して考えるのは、次の事を計画しています。

@
認識は、単独の機能では不可能である。

A
文化、芸術の交流には、「機能」の拡大解釈が有効である。

2009/4/1・考えた事。

前述したが、「意思も形態も文化である」。

私が考える事や表現した記事も、文化であり、ネットの上で不可逆の痕跡として残るが、私は、このゲームを止める事は出来ない。

フィクションとして、許して頂ければありがたい。

「芸術は爆発だ」

日本の著名な画家の言葉である。

芸術家らしい言葉だが、私のブログから芸術の一つの絵画について書く事にする。



普通、絵画を描く場合、自分の視野の全部を描かない。

また、視野の全部を描く事は不可能である。

生理的に考えても、「 盲点 」が存在するし、電離層まで続くキャンバスは存在しない。

普通、決まったキャンバスに「 構図 」や「 色 」で、自分の感動や印象を表現する。

それは、視覚により、ニューロンを刺激して、感動や印象を伝えようとするが、簡単ではない。

鑑賞する私の「 感受性 」が無い場合は、感動は伝わらない。

画家は、物理的な色彩による神経の刺激と同時に、社会的な「 意識 」の発生を待っているのだ。

絵画は「 思想 」である。

「 構図 」は、全体の中から一部を切り取る「 意思 」であり、「 色 」は、「 印象 」という感情の強さである。

描かれた「 線 」は、「 意識の力線 」である。

絵画を見て、物理的な印象は、子供も大人も同じだろう。

違うのは、その「構図」や「色」が作る形を、鑑賞し、共感する内容だと思う。

それは、個人の「 感受性 」により、感動が生まれると思う。

画家は、

「座標を反対称の座標へ転換して考えて描いている」

のだと思う。

それは、絵画だけでなく、文化の全てに適用されると思う。



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2009年03月30日

2009/3/30・創作2(意思は形態) 機能と認識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれました。

Yahoo USA 「機能の解釈 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkj1qk9BJA1sBt5Gl87UF?p=%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

Yahoo USA に感謝します。

私は、これから機能の解釈を展開します。

2009/3/29・考えた事

「 意思は形態として具現化する 」という記事でも書いたが、機能は、「 機会 」に際しての「 頭脳 」の働きと解釈する。

「 機会 」は、地球が自転するので同一の機会は無い。
しかし、「 頭脳 」で、生きる。
その「 順応 」する行為が体験である。

それらは、「 虚時間 」の中で行われ、智慧となり、知識となり、記憶される。

記憶とは、信号に応答する「 意味を持った形態 」の手順であり、主に、意識の中で、操作可能な「知識」として存在するが、無意識の中にも、「智慧」として存在するだろう。

その応答の感受性が、「 記憶力 」だと思う。

「意識」が「光」であるならば、「知識」が可視光線で「智慧」が、赤外線やX線などの不可視光線であるだろう。

「 機会 」に対して、「頭脳」は、全ての記憶を動員する。

眼で「見る」が、眼球は水晶体であり、網膜に映る映像は倒立している。

それを、反転させるのが、「頭脳」である。

そこにも、「 認識には反転、あるいは回転が必要である」事は明白である。

それは、「 虚時間 」と「 反対称 」が、「頭脳」の中で行われている事だと思う。

「謙虚に聞く」とか、「心を虚しくして聞く」という態度には、現実に対応する時に、座標軸を転換して、座標を反対称にして、聞く事である。

神経の刺激の反対方向に、意識を集中する事だと思う。

「視覚」や「聴覚」は、単独で存在しない。

「 意思は形態として具現化する」という記事で書いたが、人間は「文化的」であり、「文化」から離れる事は出来ない。

神経刺激は、左右の頭脳により、「意味ある形態」に結びついて、判断される。

神経の刺激に対して、「色」を見る意識や、「何かの音」という意識が必ず存在する。

それを、哲学者は、「志向性」と言うのだと思う。

彼らが「体験」というのは、「神経刺激」であり、刺激の伝達と「意識」の分析とは別であるというのが私の考えである。


2009/3/30・考えた事。

私が、「 機能 」を、視覚や聴覚から拡大して考えるのは、次の事を計画しています。

@
認識は、単独の機能では不可能である。

A
文化、芸術の交流には、「機能」の拡大解釈が有効である。

B
その他

@

「認識」とは、社会的な行為であり、対話、コミュニケーションであり、私自身が何かを認識する事も、私自身の単独の行為ではなくて、社会的で文化的な行為だと思う。

文字や絵画を使う事自体が、社会的行為だと思う。

それらは、祖先が作った社会的道具であり、私自身か創造した物は、全く無い。

私の場合は、視覚や聴覚などの単独の「機能」だけで、認識は成立しない。

「 愛 」や「 人情 」が、視覚や聴覚だけで理解する事が出来るとは思わない。

電磁波の構造で運ばれる情(zyou)も、神経の刺激であると共に、意識の伝達である。

神経の刺激が、頭脳のニューロンを動かすと聞いても、私は納得しない。

ニューロンの結合する形態や個数が、「 愛 」という意識を生むだろうか?

形態は意思だから、「 愛 」を知る契機になるだろうが、全てではない。

「 愛 」や情(zyou)を他人から受け取る時、意識や知覚を必要としない場合も考える。

「気持ち」という無意識の感覚だけで、「愛されている」事が、親から子に伝わる事もある。

あるいは、「察する」事により、「愛されている」という情(zyou)を受け取る事が出来る。

それは、知覚ではなく、「 機会の中の頭脳と拡大した機能 」による信頼感、あるいは連帯感という形態の情(zyou)の獲得である。

大切なのは、情(zyou)を受け取る感受性である。

「 感受性 」という「 器 」を持ち続けた方が良いだろう。

「 器 」は、「形態」の受け取りに合致する「 拡大した機能 」であり、天賦の物かも知れない。


AとBは後日、書きます。

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2009年03月29日

2009/3/29・創作2(意思は形態として具現化する)機能の解釈

「 意思は形態として具現化する 」という記事でも書いたが、機能は、「 機会 」に際しての「 頭脳 」の働きと解釈する。

「 機会 」は、地球が自転するので同一の機会は無い。
しかし、「 頭脳 」で、生きる。
その「 順応 」する行為が体験である。

それらは、「 虚時間 」の中で行われ、智慧となり、知識となり、記憶される。

記憶とは、信号に応答する「 意味を持った形態 」の手順であり、主に、意識の中で、操作可能な「知識」として存在するが、無意識の中にも、「智慧」として存在するだろう。

その応答の感受性が、「 記憶力 」だと思う。

「意識」が「光」であるならば、「知識」が可視光線で「智慧」が、赤外線やX線などの不可視光線であるだろう。

「 機会 」に対して、「頭脳」は、全ての記憶を動員する。

眼で「見る」が、眼球は水晶体であり、網膜に映る映像は倒立している。

それを、反転させるのが、「頭脳」である。

そこにも、「 認識には反転、あるいは回転が必要である」事は明白である。

それは、「 虚時間 」と「 反対称 」が、「頭脳」の中で行われている事だと思う。

「謙虚に聞く」とか、「心を虚しくして聞く」という態度には、現実に対応する時に、座標軸を転換して、座標を反対称にして、聞く事である。

神経の刺激の反対方向に、意識を集中する事だと思う。

「視覚」や「聴覚」は、単独で存在しない。

「 意思は形態として具現化する」という記事で書いたが、人間は「文化的」であり、「文化」から離れる事は出来ない。

神経刺激は、左右の頭脳により、「意味ある形態」に結びついて、判断される。

神経の刺激に対して、「色」を見る意識や、「何かの音」という意識が必ず存在する。

それを、哲学者は、「志向性」と言うのだと思う。

彼らが「体験」というのは、「神経刺激」であり、刺激の伝達と「意識」の分析とは別であるというのが私の考えである。

私は、「 機会 」の中で「 頭脳 」が神経の刺激により興奮して電気を発生させ、その「磁場」が「意識」であると考えている。

「時間」も「空間」も、「意識」として考えるべきなのに、「時間意識」や「空間意識」など、哲学者が考えてもいないだろう。

彼らは、時間や空間を何と思うのだろうか?

「視覚」や「聴覚」を「機能」と考えると、人間が誕生と同時に何故、所持しているのかという疑問が出て来る。

「視覚」や「聴覚」というのは、「機会に対応する頭脳の働き」であるから、古代の人が考えた、観音菩薩のように「音」を「観る」人が存在するかも知れない。

私は、「霊性」や「テレパシー」の開発は可能だと思う。

聞こえない音を聞き、見えない物を見る。

天才と狂人は、紙一重である。


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2009年03月28日

2009/3/28創作2(意思は形態として具現化する)私の意味

Yahoo USA でも「意思は形態として具現化する」という記事が掲載されている。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkS3rs1JDScA1FCl87UF?p=%E6%84%8F%E6%80%9D%E3%81%AF%E5%BD%A2%E6%85%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E5%85%B7%E7%8F%BE%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

私の考えは、主観的で、単純です。

「 意思 」は、意識の集合を意味し、「 形態 」とは、形として現れる事を意味します。

単純に言えば、意思と形態は、「 文化 」である事であり、「 心 」の状態ならば、「 形態 」は阿頼耶識(arayasiki)の状態です。

「 心 」の構成力は、末那識(manasiki)です。

それは、自分の事だけを考える、利己心・自愛です。

その構成力が、「 意思 」であり、現実に現れる物が「 形態 」です。

次に「 機能 」の事です。

「機」は、「機会」と解釈して、「脳」は「頭脳」と考えます。

「 機能 」は、人間が持っている器官や能力ではなくて、「 機会の中の脳の働き 」であると考えます。

「 機会 」は、地球が自転しますから、同じ状況は存在しません。

その違った状況や環境で、「 脳 」の働く形態を「 機能 」だと考えます。

その「 機能 」が、「 形態 」に影響することは、ネット情報に存在しますが、「 意思の形成 」にも影響すると思います。

「 意思 」と「 形態 」は、状況に順応した行為の結果としての体験により結ばれ、社会的な知識や「内なる宇宙」の智慧を結ぶと思います。

私は、ある機会で得た情報を、マニュアルという形態を残します。

それが、私の意識が現象として現れる事でしょう。

マニュアルが「 論理 」になれば、何度も同じ結果になるという意味で論理が「 存在 」という形態になると思います。

これらが、感情や情(zyou)と一緒に、「 意味を伴った形態 」として記憶されると思います。

それは「 左脳 」の思考回路であり、時間意識の中で「経路」や「手順」として記憶されると思います。

また現象や存在として、外部に表現した物は、「 形態 」として「 右脳 」の空間意識により把握可能物として記憶されると思います。

時間意識の「 意思 」と空間意識の「 形態 」が、左脳と右脳の働きだと思います。

人間は左右の頭脳を持っているから、時間や空間を理解する事ができると思います。

「意思」と「形態」は「文化」であり、

人間が作った人工物です。


時間意識と言っても、「 虚時間 」ですから、頭脳の中では時間を感じません。

私は、突然、違った因果関係を結合して、ブログを書きますが、このような任意の結合も、「 無知 」だから可能かも知れません。

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2009年03月11日

2009/3/11・創作2(意思は形態として具現化する)機能

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理学の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


今日は、「 意思 」から「 形態 」へと座標が転換する事について考えた。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

……(中略)……


2009/3/9・考えた事。

「意識は電磁波(光)である」というのは、「 光 」を太陽の光ではなくて、「 蛍光灯 」の「 光 」から連想すると、簡単に理解が可能であるかも知れない。

「 蛍光灯 」の光は、物質波であり、太陽の光では無く、意識も物質波であると思う。

……(中略)……

その一瞬に、「時間意識」と「空間意識」が交差し、座標が、「 対称 」と「 反対称 」に交互に転換されて、現実と「内なる宇宙」が、「 形態 」と「 意思 」になって外部に現れるというのが、私の考えである。



2009/3/10・考えた事。


「 内なる宇宙 」を「 意思 」に置き換えたが、「 意思 」や「 形態 」の意味は何だろう?


私の「 意思 」が意味する物は、「 内なる宇宙 」と「 普通の宇宙 」の境界と接する「 内なる宇宙 」の部分であり、「 形態 」が意味するのは、境界に接する「 普通の宇宙 」の部分である。



@境界に近い場合の「意思」と「形態」

瞬間的に時空間座標が、「 対称 」と「 反対称 」に移る時の、短い意識を「 知覚 」というなら、感覚器官を対象に向ける意識が「 意思 」であり、対象の形状や形態質(ゲシュタルト質)が、「 形態 」だと思う。


A境界から離れた「 意思」と「形態」

意識は電磁波であり、「 自意識 」は、プラズマ宇宙論のフィラメント構造のように、多くの意識の束であるかも知れない。

フッサールは、「 意識流 」と、イデーンに書いている。

「 内なる宇宙 」は、意識に充満していると思う。

意識が、習慣により、安定した意識の定在波を形成している場合、その定在波を選択する意識が「 意思 」であり、それに対する空間には、社会的に「六道」と言われる生き方が、「 形態 」だと思う。


私は、意識が充満する「 内なる宇宙 」の意識の層や感覚野の層から発する意識を「 意思 」だと思うから、「 内なる宇宙 」の全部を「 意思 」と置き換えたのである。

「 心 」は全て「 意思 」であるが、生命維持に関係する末那識(manasiki)の働きを、本当の「 意思 」だと思う。




2009/3/11・考えた事。

「 意思 」から「 形態 」へと座標が転換する事について考えた。


意識が電磁波であり、その時空間の構造が、「 自意識 」のエントロピの時間の増大の方向と交差する点で、「普通の時間」と「虚時間」や「普通の宇宙」と「内なる宇宙」へと、座標が転換する。

交点の前半を「 意思 」、後半を「 形態 」と置き換えた。

交点での「 反対称 」の座標転換には、エネルギーの領域の機能が働くと考える。


@境界に近い場合の「 意思 」と「 形態 」の転換。

これは、「知覚」であり、私が出来るのは、意識を対象に向けて自己同一を確認するだけである。

行為が「 形態 」ならば、「知覚」は行為であり、「 意思 」と「 機能 」と「 形態 」は、瞬時に結合して、計算する事が不可能だから、「 意思 」という時間を無視して「生物学」や「心理学」が成立するのだろう。

あるいは、「虚時間」だから、無視して、「形態」という空間だけを考えるのかも知れない。

A境界から遠い場合の「 意思 」と「 形態 」の転換。

形態から意思への転換が「 認識 」で、意思から形態への転換が「 表現 」であると考えている。

この場合、意識構造とは別で、可能性やエネルギーの領域である「機能の変化による容量の変化」を必要とする。

ネットで調べると、「 形態は機能に依存する 」から、物質の世界の「 五感 」の容量を増大する、あるいは「 形態の変化を可能にする機能の容量が増大した時 」に、高揚した「 意思 」という時間が、新たな空間の「 形態 」へと、転換して「 芸術 」が生まれると思う。

「 意思 」により「 機能 」の容量を増大させて、新たな「 形態 」を生む。

物理学では、機能の可能性を増加させる道具が発明された時、または、「 意思 」の高揚の結果、新たな関係を発見した場合、新たな「 形態 」に入ると思う。

B「 形態 」から「 意思 」への転換。


「 形態 」から「 意思 」への「 反対称 」の座標の転換は、「機能」を持っていなければ、転換する事が出来ない。

つまり、「感覚」という機能が無い場合は、物理学の方程式も理解する事は出来ないし、「芸術」を理解する事も出来ないと思う。

C意識の定在波の転換。


それに対して、人間の類型の「六道」の形態は、機能を増大させての転換ではなくて、人の生き方として、「 意思 」を高揚させる事によって変化すると考える。

機能が発達した現代人が、古代人より、生き方が改善されたとは考えないのが理由である。


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2009年03月10日

2009/3/10・創作2(意思は形態として具現化する)意思と形態

今日は、「 意思 」と「 形態 」について考えた。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

……(中略)……


2009/3/9・考えた事。

「意識は電磁波(光)である」というのは、「 光 」を太陽の光ではなくて、「 蛍光灯 」の「 光 」から連想すると、簡単に理解が可能であるかも知れない。

「 蛍光灯 」の光は、物質波であり、太陽の光では無く、意識も物質波であると思う。

……(中略)……

その一瞬に、「時間意識」と「空間意識」が交差し、座標が、「 対称 」と「 反対称 」に交互に転換されて、現実と「内なる宇宙」が、「 形態 」と「 意思 」になって外部に現れるというのが、私の考えである。



2009/3/10・考えた事。


「 内なる宇宙 」を「 意思 」に置き換えたが、「 意思 」や「 形態 」の意味は何だろう?


私の「 意思 」が意味する物は、「 内なる宇宙 」と「 普通の宇宙 」の境界と接する「 内なる宇宙 」の部分であり、「 形態 」が意味するのは、境界に接する「 普通の宇宙 」の部分である。



@境界に近い場合の「意思」と「形態」

瞬間的に時空間座標が、「 対称 」と「 反対称 」に移る時の、短い意識を「 知覚 」というなら、感覚器官を対象に向ける意識が「 意思 」であり、対象の形状や形態質(ゲシュタルト質)が、「 形態 」だと思う。

人は、一部を示す事によって全部を表現する、現象が全体を暗示する「 形態 」が持つ「 力線 」を使って、「 意思 」を伝達すると思う。

それは、「 象徴 」により、伝達する事と似ている。

あるいは、事物の一部を知る事により、全体を知る。

知覚する時、「 意思 」が「 形態 」の選択を間違えた時、社会は「 病気 」だと判断するかも知れない。

例えば、被害妄想の場合、選択する本人は、「 意思 」と「 形態 」が合致していると思うが、社会から見れば「病気」なのだ。




A境界から離れた「 意思」と「形態」

意識は電磁波であり、「 自意識 」は、プラズマ宇宙論のフィラメント構造のように、多くの意識の束であるかも知れない。

フッサールは、「 意識流 」と、イデーンに書いている。

「 内なる宇宙 」は、意識に充満していると思う。

意識が、習慣により、安定した意識の定在波を形成している場合、その定在波を選択する意識が「 意思 」であり、それに対する空間には、社会的に「六道」と言われる生き方が、「 形態 」だと思う。


私は、意識が充満する「 内なる宇宙 」の意識の層や感覚野の層から発する意識を「 意思 」だと思うから、「 内なる宇宙 」の全部を「 意思 」と置き換えたのである。

「 心 」は全て「 意思 」であるが、生命維持に関係する末那識(manasiki)の働きを、本当の「 意思 」だと思う。

「 意思 」に対応する「 形態 」は、個人の感覚野に現れる「 力線 」も存在するし、物理学などの精神世界では、関数の方程式が「 形態 」であると思うし、現実社会の企業では組織の編隊が「 形態 」であるだろう。

「 形態 」は、「 意思 」の現実面であり、物質の現象面でもあり、「 意思 」に対応して多様で無数に「 形態 」は存在すると思う。

その両面を、意識的に同時に表現する事が、「 芸術は爆発である 」として芸術が生まれる事であり、「 人生は芸術である 」というのは、人間の一生が、「 内なる宇宙 」の表現だと言う事かも知れない。

生命を維持する末那識(manasiki)が「 意思 」であれば、その表現の「 芸術 」は、生命の爆発であると思う。



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2009年03月09日

2009/3/9・創作2(意思は形態として具現化する)形態から意思へ

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学は知らない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/3/5・考えた事。

私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

……(中略)……

意識の定在波、つまり「 意思 」を変えるためには、励起により、定在波を変える事が出来る。

救いを必要とするならば、目標とする人の「 意思 」を、自分の「 意思 」にして、自分が励起して、自分の「形態」を変えなくてはならない。

……(中略)……

意識の座標は、「 反対称 」の状態で連結しているから、その逆の事も言えるが、後日、書くことにする。


2009/3/9・考えた事。

「意識は電磁波(光)である」というのは、「 光 」を太陽の光ではなくて、「 蛍光灯 」の「 光 」から連想すると、簡単に理解が可能であるかも知れない。

「 蛍光灯 」の光は、物質波であり、太陽の光では無く、意識も物質波であると思う。

意識も物質波であり、体内の電気により電磁波が起きて、まるでTVのスイッチを押すと画面が見えるように、頭脳に「時間意識」と「空間意識」を起こし、事物を認識させるのだと思う。

蛍光灯の光が連続では無いように、意識も連続では無いと思う。

その一瞬に、「時間意識」と「空間意識」が交差し、座標が、「 対称 」と「 反対称 」に交互に転換されて、現実と「内なる宇宙」が、「 形態 」と「 意思 」になって外部に現れるというのが、私の考えである。

今回は、「 形態 」から「 意思 」への動きであるが、これは、事物を見る事や聞く事などの「 認識 」の事だと思う。

ある事物に眼を向けるのが「 心 」だが、私の考えでは「 意思 」が、眼を向けさせるのだと思う。

見たくない物は、見ない。

聞きたくない物は、聞かない。

表象を無視して、一つの事に集中させるのは、この「 意思 」である。

なぜなら、「 心 」は、阿頼耶識(arayasiki)であり、全てを記録し、全てを知ろうとする。

限定するのは、「 意思 」であり、末那識(manasiki)であり、これは、生きている時は、必然的なものであり、「 主観的 」と呼ばれるが、人間である限り、逃れる事は不可能であると思う。

この「 意思 」が見る物は、全体の中の一部としての「 形態 」を見るのであり、「 形態 」が、自分の内部に「 力線 」や「 動線 」を作るからである。

「 世界内自分 」であるから、認識する物は、全て社会的な意味を持っている。

人は、全てを知る事は不可能であり、自分の生活に必要な情報を処理すると思う。

「認識」は事物に現れている意味の理解であり、「 力線 」として把握した表象への答えを出す事であると思う。

また後日、考えます。


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2009年03月08日

2009/3/8・創作2(意思は形態として具現化する)2

2009/3/5・考えた事。

私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

それは、「 知識 」と「 智慧 」の関係に似て、一方の変化は、他方の変化になる。

意識の定在波は、習慣によって、安定した状態の「 意思 」となり、自分の外部の社会に、同じ類型の人間を探すだろう。

自分が安心して住む事が出来る状態の意識を持つと思う。

マフィアの「 意思 」を持つ人は、マフィアの仲間になるだろう。

私は、自分で決定しなければ、最低の意識の定在波、つまり最低の「 意思 」しか持たないと思う。

意識の定在波、つまり「 意思 」を変えるためには、励起により、定在波を変える事が出来る。

救いを必要とするならば、目標とする人の「 意思 」を、自分の「 意思 」にして、自分が励起して、自分の「形態」を変えなくてはならない。

これは、「 禁煙 」をする時も、同じ事だと思う。


意思は形態と連結して、社会に具現化する。

意識の座標は、「 反対称 」の状態で連結しているから、その逆の事も言えるが、後日、書くことにする。


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2009年03月07日

2009/3/7・創作2(意思は形態となって具現化する)

2009/3/5・考えた事。

私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

物質が光速で移動すれば、「 光 」となるだろうから、自我が存在せず、時空も存在しない死後の世界は、自意識が電磁波であっても到達しない「 光 」の世界かも知れない。

それ以外は、物質は、物質波であれど、「 光 」の光波に変化しないと思うから、「 意思 」が、「光」と同じ効果を持つためには、「構造」や「形態」の変化が必要だと思う。

意思が形態を伴って、具現化するのだ。

これは、「六道」という人間の形態が、社会の階層の人々と自分の「意思」の間を往来すると考える。



仏教の僧侶は、次のように言う。

「意(あるいは「意根」)が習慣性となり、私どもの人格の核となる。

言い換えますと、私どもの日々の所作に従って、この身体の中に一種の習慣性という子供が妊娠して次第に生長します。

そして、「餓鬼」や「畜生」、ないし人や天といわるべき習慣性の子供が、まさに生まれ出るばかりになると、この肉体の死後、その「意」が、一生の間に造った習慣性に相応する世界に生まれ変わるのです。

かくして私どもは「六道輪廻」を致します」

( 笹本戒浄上人全集、上巻、483ページより引用 )

既述したが、私は、残念とか無念とか言う「念」を、この世に残さないように生きる事を目標にしている。

「ここで死んで、残念無念」と、思わないように、生きている間に、自分の出来る事をする。

それは無理だろうから、どんな生き物に「六道輪廻」して生まれ変わっても、不満を言わないと決めている。

以上、「意思は形態となって具現化する」でした。

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2009年02月26日

2009/2/26・創作2(Departures) おくりびと・おくられびと

Yahoo USA が、私の記事を登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0geu8JBb6ZJts4Ay22l87UF?p=Departures+%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

「 おくりびと 」の公式ブログを見ると、「おくりびと」は、「おくる人」だから、死者を見送る遺族からの記事が多いです。

私は、「おくられる人」として、書くことにします。

私も、自分の父母や妻の父母の葬儀を執行しました。

私の母は、私が中学校の二年生の時に死亡しましたから、45年前です。

しかし、「母の死」は、時間の経過を忘れさせます。

この映画のワンシーンを見ただけで、まるで母が昨日、死亡したかのような衝撃を受けます。

記憶に残っている限り、母が生きているのですが、私の死と共に、母も死ぬでしょう。

父は、生前に後妻を迎えましたから、私の心の中では、既に死んでいます。

今度は、私の姿を、「おくりびと」の妻や息子に見せなくてはなりません。

私が死亡して、私の死体を、妻や息子が囲んで、生前の私の事を話すでしょう。

その時に、もし賛美の言葉が発せられるなら、「そうだ」と肯定する事が出来るように、今、自分らしく生きようと思います。

既に「老い」は始まっています。

アルツハイマーや脳梗塞などの病気になったら、正常な思考は出来ません。

40歳から、若年性認知症は、介護保険の対象になります。

余命を告げられたら、何も出来ないと思います。

While there is life,there is hope.

私の考えでは、「 自意識は電磁波(光)であり」、生きている事の証です。

生きている限り、「生」を楽しみます。

死後は、自我意識が無く、時間も空間も無い物質の世界になるでしょう。

しかし、魂は、地球の一つの生命体(私の立場では、阿弥陀如来で時空意識の創造主)に集まり、再び、生物の命になって、地球を覆うつもりです。

宇宙の中で、地球が大気や水が青々と存在して、生命体が存在する事は、稀な事だと思います。

私が「六道輪廻」した結果、犬や猫、馬や牛として生まれたとしても、「 地球防衛隊 」の一員として、地球を守りたいと思います。



繰り返しますが、私の死体を、妻や息子が囲んで、生前の私の事を話す時に、もし賛美の言葉が発せられるなら、「そうだ」と肯定する事が出来るように、現在の今を、自分らしく生きようと思います。



Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年02月24日

2009/2/24・創作2(Departures)・おくりびと

「 おくりびと 」(英語.Departures)のアカデミー賞外国語映画賞の受賞、おめでとうございます。


「 Departure 」を日本語に翻訳すると、「出発」や「門出」という意味もありますが、やはり「死去」という意味もあります。


六十歳を迎えた私は、この「 Departure 」に対して考えた事を書きます。

既述しましたように、目の前の一瞬間に、「 普通の時間 」と「 虚時間 」は交差して、外部の宇宙と「内なる宇宙」が交流します。

私は、働く時が「 普通の時間 」で、夜の睡眠時間を「 虚時間 」と考えるのです。

「 認識 」の箇所でも書きましたが、眠る事により、認識が更新されると思っています。

この「 眠っている時間 」は、時間の経過を「時計」で測定しないという意味で「 虚時間 」であり、人体の本能が求める睡眠ですから、人間という「物の時間」でもあります。



それが、「 Departure 」と何の関係があるのだろうか?



それは、「死」は、「永遠の眠り」と申します。

「眠るように死んでいった」と申します。

これは、世界中の共通した認識だと思います。

「死」が「永遠の眠り」ならば、人生では、「生」が「 普通の時間 」で、「死」は「 虚時間 」だと思います。

私の「生」が途切れる時、この世と別れる時は、「死去」でしょう。

しかし、「出発」や「門出」というのは、あの世への出発と解釈して、「 虚時間 」という「物の時間」に戻る事と解釈します。

死後の世界は、自我意識が作る「 時間 」や「 空間 」が無い事は確実です。

時間の観念が全く欠落した「 虚時間 」の世界から「生まれて」、「 虚時間 」の世界へと出発するのです。

その「 虚時間 」の世界が「天国」や「地獄」であるとは思いません。

死後の世界を、測量して、提示する能力は持っていませんが、「 虚時間 」に対応する「 虚空間 」は「 内なる宇宙 」だと思います。


私は、死去する事は、この世と別れて、私の永遠の「 内なる宇宙 」に戻る事だと思います。

あるいは、既に、死後の世界と「 内なる宇宙 」が連結しているかも知れない。

もしそうなら、私は、自分が最も好きな「 内なる宇宙 」を、この世で描いて、その宇宙の中で永遠に眠りたいと思います。


「 永遠の眠り 」は、必ず到来しますが、それは、この世の私の能力の呪縛から逃れるチャンスでもあります。

「霊界」に生まれる事を信じて、死去された映画俳優は、その「霊界」に生まれていると思います。

私も、生きている間に、最も好きな「 内なる宇宙 」を発見したいと思います。

思想は具現化する。

今は、それを信じています。

Poor thinking is as good as no thinking.
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