2015年04月08日

2015/4/8、私の現在の考え16・心は磁場である・可能性・意識・心・価値観・人格

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/6、私の記事

私は、「 ビッグバン理論 」ではなく、「 プラズマ宇宙論 」を採用し、後者の「 電気 」が主に気(ki)というエネルギーであり、それを「 神 」とみなし、「 エーテル 」を通して人体のDNAやRNAに浸透して「 流れるもの 」となり、脳波となり、電場を作り、DNAやRNAから磁場として「 派生するもの 」として意識を考える。
その意識は「 心 」を作るが、それは「 派生したもの 」で、宇宙の産物ではない。
宇宙の産物はエネルギーが物化したものであり、人体のDNAもRNAも含むが、それは始めや終わりがある「 物語 」ではなく、「 無 」はなく「 すべて有 」であり、すべてが連続し、循環し、これを「 無明 」というと考える。
一方のDNAやRNAから派生する「 意識 」は機能としては、無意識という気(ki)で電場であり、情(zyou)を「 派生させ」、「 時間意識 」や「 空間意識 」を作り、「 心 」を作るが、それらは磁場であり、重力のように磁場を支配するのは「 価値観 」であり、地球には磁極というのがあるように「 価値観 」にも磁極があり、「 善と悪 」や「 天国と地獄 」などが、それであると考える。
人類すべての意識が相違するのは、DNAやRNAが相違するからで、これは、人類の「 文化 」がすべて相違することで、相対論の「 同時性 」のように、同一であるものは個人の中にのみ存在すると考える。
「 文化 」は物語であり、始めと終わりがある「 形 」を持つが、それが崩れるとき「 無常 」というと考える。


2015/2/9、私の記事


以上のように「 人体 」は複雑な構造であり、私の考えでは「 意識の生成 」で申しましたように、意識は太古の創造のようなことを行っており、意識は無意識を内容とした「 心 」を伝達すると思います。

「 太古の創造 」はエネルギー(神)の仕業であり、物質を創るのでしようが、「 太古の創造のようなこと 」はエネルギー(神)から派生したもので、派生するのは「 意識 」であり、伝達するのは「 心 」であると思います。
「 心 」は法身(hotsusinn)ではなく、報身(housin)であり、宇宙の産物ではなく、人類の産物であり、根本的には法身(hotsusinn)である「 宇宙 」や「 物質 」を規定することはできず(規定は誤りであり)、人類だけの人類愛のようなもので、人類しか判別することができない「 霊 」かもしれません。
言葉に「 霊 」があれは、それであると思います。

このように考えたとき、「 可能性 」とはどのように考えるのでしょう。
「 可能性 」は「 能 」を含んだ単語であり、「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが言語や絵画などの文化の全部に具現化する契機であり、「 情(zyou)」であり情報であると思います。


2015/2/27、私の記事

自意識も意識である以上、頭脳の派生物であるだろう。
自意識は存在意識から派生したものであるが、「 派生するもの」を「 関係するもの」と考える。
存在意識の中での「 関係 」は、存在意識に依存した(派生した)社会的な意識だろう。
「 存在意識 」と関係する意識が自意識で、それは、「 自分のフィラメント構造の自覚である」と思う。
自意識は頭脳の派生物で情(zyou)であるが、無意識にちかい(私は電磁波だと思う)から、エネルギー(神)に近く、無明で方向性が無いと思う。
フィラメント構造(生まれながらの時空)を流れる中で形成する意識だから、気(ki)にも似た無意識であるがために、細胞の不連続性(無常)に気づかない無明のエネルギー(神)であるから、自己の不変や自己の永遠を信じる、あるいは、「 死んだら終わり 」という無明に始まり無明に消えてゆくフィラメント構造であるのかもしれない。
気(ki)にも似た無意識であるため、細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という社会的な「 一定の関係 」という意識を固持するため、「 自分はいつまでも不変だ 」と思うかもしれない。
「 関係 」は、本来、自己中心的な自意識に情(zyou)を吹き込む社会的なエネルギーであり、「 欲 」が「 欲望 」に変化する契機になるだろう。



2015/4/8、私の考え



以上から、次のように考える。

「 可能性 」は「 能 」を含んだ単語であり、「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、DNAやRNAの電荷となった宇宙のエネルギーの「 力 」であるだろう。
それらからの「 ビルケランド電流 」である脳波が「 無意識 」である気(ki)の「 自意識 」となり、生まれながらに持っていた時空(法身としての時空)を、「 物と物の関係 」を認識させ、情(zyou)であり、報身である「 時間意識 」と「 空間意識 」を目覚めさせ、磁場である「 心 」を作ると考える。
報身は「 文化 」であり「 言語 」であり、「 精神 」であり、ここに言葉上の、宗教の「 神 」が生まれるが、「 神 」は宇宙のエネルギーであり、「 神 」の身体は「 エーテル 」であるというのが私の考えである。
この気(ki)としての小脳レベルの「 自意識 」や「 自分 」であるという大脳レベルの「 自意識 」が磁場である「 心 」の磁極を規定し、それは同時に「 物と物の関係 」であり、物を安定させる重力である「 価値観 」の「 始めと終わり 」(たとえば「 善 」と「 悪 」、「 天国 」と「 地獄 」)という極を規定することになり、その極の間で生じる幾重にも重なる「 定在波 」が「 人格 」を形成すると考える。


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2015年04月06日

2015/4/6、私の現在の考え15・心は磁場である

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/4/2、私の記事


気(ki)である「 エネルギー 」と情(zyou)との共通した構造は、「 フィラメント構造 」である。
宇宙の気(ki)であるエネルギー(神)はどこから人体の中に入るかと言えば、私の考えでは、「 DNA 」と「 RNA 」を通して人体に入るとする。
DNAやRNAはラセン構造であるがこれを「 フィラメント構造 」とし、不安定なRNAの孤立電子対の負の電荷こそエネルギー(神)が入る箇所であると考える。
この頭脳の電荷の電気が「 フィラメント構造 」を通り、「 ビルケランド電流 」になったのが「 脳波 」であると考える。
「 脳波 」は電場を作り、磁場の「 意識 」や「 精神 」を生むと考える。
その結果、DNAの違いに応じて「 意識 」や「 精神 」が相違する。
したがって、人間は「 流れるもの 」として「 生まれながらにして時空(宇宙空間・法身) 」を持ち、誕生と同時に「 派生するもの 」として「 時間意識 」と「 空間意識 」という報身である「 時間と空間 」を持つ。
このように、「 エーテル(神の身体) 」の中の「 エネルギー(神)」と人体の中のDNAを通してエネルギーが一致する。
それらは、プラズマ宇宙論の「 フィラメント構造 」と「 ビルケランド電流 」を共通して持つと考える。

2015/3/14、私の記事

頭脳は「 フィラメント構造 」を流れる脳波という気(ki)であるが、意識は脳波を原因とした磁場で、それが精神であり、ちょうどビデオテープに残された映像のように記録されたのが記憶であるかもしれない。
そして今、現在、生活するとき、過去に向けて電磁波を発し出てくるのが「 思い出 」や記憶であるかもしれない。
私は、これらすべてを情報(zyouhou)である情(zyou)と呼び、これは感性や悟性や感情や理論や理性や宗教のすべてを含むと考える。
情(zyou)は、意識の内容であり、意識を持つのは人類共通であるが、その内容はすべて相違するだろう。
これは、地球上のどんなところでも時間意識、空間意識は相違するし、同じ場所や同じ時間は自分以外に存在しないし、相対性理論の「 同時性 」は「 自分以外 」に理論で拡張したものであることからも推察できる(エーテルも無視している)。
情(zyou)は、「 物語 」であり、「 心 」や「 心情(sinzyou)」であり、始めがあって終わりがあり、思考が人類すべて相違するように、「 物語 」もすべて相違するから、言語に変換して、他人の変換を待って伝達されると考える(心が伝わると表現する)。
つまり、「 循環 」することはなく、その単体のみで終わるのが「 物語 」であると思う。
人間をすべて言語で表現されても、人間を精神と規定することはできないと思う。
感情などを言語で表現されたとしても、人間には気(ki)があり、エーテルやエネルギーを言語で表現しない限り、人間を規定したものとはいえないだろう。
宗教で使われる「 無 」は頭脳の産物で宇宙は「 有 」であり、人間は無の状態を経験していないから「 無 」とは「 情(zyou)の無 」であり、「 フィラメント構造 」や気(ki)に近い状態であると考える。

2015/4/6、私の考え


私は、「 ビッグバン理論 」ではなく、「 プラズマ宇宙論 」を採用し、後者の「 電気 」が主に気(ki)というエネルギーであり、それを「 神 」とみなし、「 エーテル 」を通して人体のDNAやRNAに浸透して「 流れるもの 」となり、脳波となり、電場を作り、DNAやRNAから磁場として「 派生するもの 」として意識を考える。
その意識は「 心 」を作るが、それは「 派生したもの 」で、宇宙の産物ではない。
宇宙の産物はエネルギーが物化したものであり、人体のDNAもRNAも含むが、それは始めや終わりがある「 物語 」ではなく、「 無 」はなく「 すべて有 」であり、すべてが連続し、循環し、これを「 無明 」というと考える。
一方のDNAやRNAから派生する「 意識 」は機能としては、無意識という気(ki)で電場であり、情(zyou)を「 派生させ」、「 時間意識 」や「 空間意識 」を作り、「 心 」を作るが、それらは磁場であり、重力のように磁場を支配するのは「 価値観 」であり、地球には磁極というのがあるように「 価値観 」にも磁極があり、「 善と悪 」や「 天国と地獄 」などが、それであると考える。
人類すべての意識が相違するのは、DNAやRNAが相違するからで、これは、人類の「 文化 」がすべて相違することで、相対論の「 同時性 」のように、同一であるものは個人の中にのみ存在すると考える。
「 文化 」は物語であり、始めと終わりがある「 形 」を持つが、それが崩れるとき「 無常 」というと考える。
「 物 」が崩れるのを「 無常 」というのかもしれないが、「 物 」自体の構成物は依然として有り続けるが、「 物 」の文化の意味が崩れるだけである。
唯物論で、「 観念や精神、心などの根底には物質がある 」というのは、ただ現象面だけの哲学であり、「 物質から精神が派生した」 とか「 精神は物質から派生した 」などは説得力がない。
「 物質 」も「 精神も心 」も説明されてはいない。
私の考えでは、「 物質 」も「 精神も心 」もすべて情(zyou)であり、宇宙のエネルギー(神)が、気(ki)が、DNAやRNAを通して頭脳の中に派生させた情(zyou)、即ち情報であり、唯物論では、「 物質 」も「 心 」も「 精神 」も「 意識 」も、まったく解明されておらず、ただ言葉の遊びであると考える。
物質からどのようにして精神や意識や心が派生するのかを考えるのが「 哲学 」であると考える。
どうせ考えるなら、宇宙規模で、(もちろんエーテルも説明して)哲学することを提案する。


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2015年04月02日

2015/4/2、私の現在の考え14・流れるものと派生するもの・三身即一

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
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2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

2015/4/2、私の考え



気(ki)である「 エネルギー 」と情(zyou)との共通した構造は、「 フィラメント構造 」である。
宇宙の気(ki)であるエネルギー(神)はどこから人体の中に入るかと言えば、私の考えでは、「 DNA 」と「 RNA 」を通して人体に入るとする。
DNAやRNAはラセン構造であるがこれを「 フィラメント構造 」とし、不安定なRNAの孤立電子対の負の電荷こそエネルギー(神)が入る箇所であると考える。
この頭脳の電荷の電気が「 フィラメント構造 」を通り、「 ビルケランド電流 」になったのが「 脳波 」であると考える。
「 脳波 」は電場を作り、磁場の「 意識 」や「 精神 」を生むと考える。
その結果、DNAの違いに応じて「 意識 」や「 精神 」が相違する。
したがって、人間は「 流れるもの 」として「 生まれながらにして時空(宇宙空間・法身) 」を持ち、誕生と同時に「 派生するもの 」として「 時間意識 」と「 空間意識 」という報身である「 時間と空間 」を持つ。
このように、「 エーテル(神の身体) 」の中の「 エネルギー(神)」と人体の中のDNAを通してエネルギーが一致する。
それらは、プラズマ宇宙論の「 フィラメント構造 」と「 ビルケランド電流 」を共通して持つと考える。

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DNAとRNA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%9C%E6%A0%B8%E9%85%B8#DNA.E3.81.AE.E5.90.88.E6.88.90

1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を電気陰性度の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から求核攻撃を受けやすく、攻撃によりホスホジエステル結合が切れ、リン酸とリボースの骨格が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)。安定RNAでは1本鎖に水素結合を形成し、らせん構造となるなど、多様な二次構造、三次構造を取り、安定性を増している。

孤立電子対

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A4%E7%AB%8B%E9%9B%BB%E5%AD%90%E5%AF%BE
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2015年03月20日

2015/3/20、私の現在の考え13・流れるものと派生するもの2

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)」が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/3/20、私の考え



自分を考えてみよう。
(流れるもの・循環するもの・始まりや終わりが無いもの)
人体と宇宙(両者は宇宙の産物・法身)であるが、これらのの間で浸透あるいは往来するのは何か?
前者の「 気持ち(kimochi)」や病気(byouki)と後者の「 天気(tenki)」や「 気候(kikou)」には共通して気(ki)が使われている。
最初は気(ki)か入る孔があるかと思ったが、両者はエーテルに浮かんでおり、エーテルやエネルギーを気(ki)と考えると、エーテルに浮かぶ人体のすべてから気(ki)が入ると考えるようになった。
エネルギーが人体の中に入ったかどうかは、意識していない。
これを「 無意識 」といえば、人体は無意識にエネルギーを摂取しているのだろう。
人体を動かす(たとえば脳)を動かすエネルギーは、食物や日光のような法身によるエネルギーと書籍などの文化のような報身によるエネルギーを意識することはできない(無意識に摂取している)。
前述したようにエーテルは神の身体でありエネルギーは宇宙の温度や電気や光や物化した宇宙の星のすべてで、人体もエネルギーが物化したものと考え、エネルギーがエーテルの中の物質中で相互循環し、そのエネルギーを神と呼ぶと思う。

(派生するもの・循環しないもの・始まりと終わりがあるもの)
自分の中で考える。
頭脳は「 フィラメント構造 」を流れる脳波という気(ki)であるが、意識は脳波を原因とした磁場で、それが精神であり、ちょうどビデオテープに残された映像のように記録されたのが記憶であるかもしれない。
そして今、現在、生活するとき、過去に向けて電磁波を発し出てくるのが「 思い出 」や記憶であるかもしれない。
私は、これらすべてを情報(zyouhou)である情(zyou)と呼び、これは感性や悟性や感情や理論や理性や宗教のすべてを含むと考える。
情(zyou)は、意識の内容であり、意識を持つのは人類共通であるが、その内容はすべて相違するだろう。
これは、地球上のどんなところでも時間意識、空間意識は相違するし、同じ場所や同じ時間は自分以外に存在しないし、相対性理論の「 同時性 」は「 自分以外 」に理論で拡張したものであることからも推察できる(エーテルも無視している)。
情(zyou)は、「 物語 」であり、「 心 」や「 心情(sinzyou)」であり、始めがあって終わりがあり、思考が人類すべて相違するように、「 物語 」もすべて相違するから、言語に変換して、他人の変換を待って伝達されると考える(心が伝わると表現する)。
つまり、「 循環 」することはなく、その単体のみで終わるのが「 物語 」であると思う。
人間をすべて言語で表現されても、人間を精神と規定することはできないと思う。
感情などを言語で表現されたとしても、人間には気(ki)があり、エーテルやエネルギーを言語で表現しない限り、人間を規定したものとはいえないだろう。
宗教で使われる「 無 」は頭脳の産物で宇宙は「 有 」であり、人間は無の状態を経験していないから「 無 」とは「 情(zyou)の無 」であり、「 フィラメント構造 」や気(ki)に近い状態であると考える。

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2015年03月14日

2015/3/14、私の現在の考え12・流れるものと派生するもの

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)」が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/3/14、私の考え



私は、これまで、無意識や意識、気(ki)と情(zyou)、小脳と大脳を書き、それらを人間の足と考え、人間が二足歩行をするように、それらを交互に往来して認識が生じると考えた。
これは、「 意識が電磁波である }の延長上の考えで、電場(エネルギー・神・たとえば空間意識)と磁場(精神・たとえば時間意識)が交互に現れ、電場と磁場が直交したとき認識が生まれ、「 心 」が生まれ、行動のエネルギーや力(神)が現れると考えた。

気(ki)と情(zyou)は、「 流れるもの 」と「 派生するもの 」だと考える。

「 流れるもの」は無明であり始点と終点をもたないもの(たとえばエネルギーや宇宙)、「 派生するもの 」は始点と終点を持ち(たとえば物語や宇宙観)、後者は前者の一部であり、後者は前者から生じ、前者の中に終わると考える。
その過程が「 無常 」と呼ぶもので、「 形あるものは崩れる 」ことになる。

「 流れるもの 」は「 循環するもの 」と同義と考える。

「 人格 」も「 派生するもの 」であり、「 形 」を持った瞬間に人格が現れ、「 六道 」の中に分類されるが、それは「 無常 」であり、始点と終点を持ち、それらを変化させるならば変化の余地があるだろう。

「 人格 」が始まり、終わることが「 人生 」であり、その結果として「 人生 」は人格であり、エネルギー(神)から「 派生した物語 」であり、人格を表現する人体が消滅しても、それはエネルギーである「 神 」に戻るだけで、「 死んだら終わり 」ではないと考える。

「 人格 」は、遺品に現れた「 心 」としてのこり、「 心 」が凍結したエネルギー(神)であるから、凍結を解く「 無意識 」と「 感受性 」により、エネルギー(神)が人間の「 精神 」として後世に伝達されると考える。

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2015年02月27日

2015/2/27、私の現在の考え11・自意識

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
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2009/1/2、私の反省(欲望と利己愛)

、「 利己愛 」の中に、「 自意識 」と、「利己の愛欲」とを分けて、前者は「電磁波」の構造を持ち、後者は、「台風」の構造を持つと考えます。

「 自意識 」は、末那識(manasiki)の働きであり、肉体が単独である限り、他の存在に同化する事は出来ない。

「私」を「あなた」と同一にする事は出来ない。

「六道」の何処に位置しても、存在するものです。

人間ならば、誰でも持つ意識だと思います。

これは、本能であると思います。


他方「利己の愛欲」は、欲望であり、自分を生き生きとして豊かにするが、自分の利益中心の定在波を持ち、定在波に対応する「六道」のどれかに位置します。

2008/10/23、自意識は末那識であり、電磁波である。

末那識

潜在的精神活動。
意識の底の流れとして存在し、自他を区別する根本。
自分は自分であって、自分に対する他人がある心。

Wikipedia では、次のように書いてある。

末那識は、特に「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)との二義を兼ねて有して、他の七識に勝っているから、末那(意)識という。

私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。

2008/11/6・私の展開(自我意識は悪者ではない)

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。

その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

2012/3/4、オカルト・私の思い11・自意識

「 自意識 」は、「 自分は自分 」であり、自分の顔が鏡に写すことにより意識されるように、「 自意識 」自体は、死ぬまで不変であり、当事者は知ることが出来ない「 一定の関係 」であると思う。

しかし、これが盲点であり、「 自意識 」こそが、「 無明 」の中心だと思う。

「 自意識 」は生命であり、無意識の中で、自分が自分を選択し、自分という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」で細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という「 一定の関係 」であり、外部に表現することにより、「 殻 」を知り、破る対象も知る。

2015/2/15 意識と可能性と欲


バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

このよう考えたとき、「 人間 」の分析には「 流れるもの 」と「 派生するもの 」前者が「 気(ki)}であり後者が情(zyou)だとするのが私の考えである。
欲望や心やエーテルやエネルギー(神)など小脳の感受性の部分が前者であるし、時間や空間の意識や思想や文化一般などの大脳の感覚の部分は後者になるだろう。
行動は「 宇宙的運動の一つ 」であり宇宙と連動するのに対して、思考は「 始めと終わり 」を持つ非宇宙的な頭脳の派生物である。

2015/2/27、私の考え


自意識も意識である以上、頭脳の派生物であるだろう。
自意識は存在意識から派生したものであるが、「 派生するもの」を「 関係するもの」と考える。
存在意識の中での「 関係 」は、存在意識に依存した(派生した)社会的な意識だろう。
「 存在意識 」と関係する意識が自意識で、それは、「 自分のフィラメント構造の自覚である」と思う。
自意識は頭脳の派生物で情(zyou)であるが、無意識にちかい(私は電磁波だと思う)から、エネルギー(神)に近く、無明で方向性が無いと思う。
フィラメント構造(生まれながらの時空)を流れる中で形成する意識だから、気(ki)にも似た無意識であるがために、細胞の不連続性(無常)に気づかない無明のエネルギー(神)であるから、自己の不変や自己の永遠を信じる、あるいは、「 死んだら終わり 」という無明に始まり無明に消えてゆくフィラメント構造であるのかもしれない。
気(ki)にも似た無意識であるため、細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という社会的な「 一定の関係 」という意識を固持するため、「 自分はいつまでも不変だ 」と思うかもしれない。
「 関係 」は、本来、自己中心的な自意識に情(zyou)を吹き込む社会的なエネルギーであり、「 欲 」が「 欲望 」に変化する契機になるだろう。
自意識は、電磁波に似たフィラメント構造から派生した、自己保存の意識だろうし、利己愛は、自意識が自分に適合したフィラメント構造に適合した欲望を伴った煩悩であり、「 台風 」や「 ハリケーン」のようなものだろう。
人間、生きているので、利己愛も自意識も必要かもしれないが、「 死 」に向かったとき、存在意識ではなくて、どんな自意識を持っていたのか(自分らしく生きたか?)が、エネルギー(神)により苦しみを伴った審判が下されるだろう。


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2015年02月24日

2015/2/24、私の現在の考え10・これまでの流れ

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

………………(引用する)………………………………

2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

2015/2/15 意識と可能性と欲


2008/10/26、生まれながらの時空より引用すると「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」

バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

このよう考えたとき、「 人間 」の分析には「 流れるもの 」と「 派生するもの 」前者が「 気(ki)}であり後者が情(zyou)だとするのが私の考えである。
欲望や心やエーテルやエネルギー(神)など小脳の感受性の部分が前者であるし、時間や空間の意識や思想や文化一般などの大脳の感覚の部分は後者になるだろう。
行動は「 宇宙的運動の一つ 」であり宇宙と連動するのに対して、思考は「 始めと終わり 」を持つ非宇宙的な頭脳の派生物である。

2015/2/21、私の考え


このように、小脳の生理、快感、ストレスを気(ki)の「 フィラメント 」、大脳の快楽、欲望を情(zyou)の「 フィラメント 」を流れる「 ビルケランド電流 」とし、総体が「 心 」というエネルギー(神)と考える。
以前に書いたように、人間は「 生まれながらの時空 」しか持っておらず、それは人類すべてが相違する時空であり、「 真の時空 」を人間は知らないと考える。
この「 生まれながらの時空 」で「 ビルケランド電流 」を区切り、それぞれの「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)を持っていると考える。
認識は「 心 」の了解、「 心 」というエネルギー(神)の融合、電場と磁場が直交してエネルギー(神)である行動する「 力 」を生じるが、それは「 電離層 」の中で行われるだろう。
その「 電離層 」の壁が「 六道 」であり、「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)が「 人格 」であるだろう。
「 類は類を呼ぶ 」や「 同類相憐れむ 」など、「 六道 」の中での「 定在波 」である人格の同調や「 心 」というエネルギー(神)の崩壊であり、「 六道 」の種類(系)の違いにより異なるだろう。
違う種類の「 六道 」に移るためには、情(zyou)である精神による「 始めと終わり 」を区切る壁を変えるいうエネルギー(神)が必要なのかもしれない。
「 電離層 」を回るシューマン波が、人間一般に共通する「 愛 」という電波・エネルギー(神)であるから、誰によっても独占されず、「 人のものであって人のものでないもの 」かもしれない。

………………(引用を終わる)………………………………

2015/2/24,私の考え



このように、「 三身即一 」の状態が人間で、精神的な生き物が人間であれば、精神、すなわち報身(housin)から観た宇宙は広がる真空状態が法身(otsusin)という神仏の身体で、真空状態の広がる温度が宇宙のエネルギー(神)であり(私はそれをプラズマと思うが)、エネルギー(神)が細胞として物化したのが人体で、「 頭脳 」もエネルギー(神)が物化したのだが、意識はそれから「 派生する 」宇宙の産物であると思う。
すべてが「 フィラメント構造 」を持っていて、そのためエネルギー(神)の往来が可能であり、「 フィラメント構造 」は精神においては「 物語 」であり、物化した「 心 」を交流させるのが人体の無意識を司る小脳の「 可能性 」である「 感受性 」であり、「 ストレス 」として、あるいは「 欲 」として、人体の行動のエネルギー(神)になる。
思考も「 論理可能性 」という物語を通じて行動のエネルギー(神)となるだろう。
エネルギー(神)は「 電気(denki)」の気(ki)であると思う。
認識が「 力 」というエネルギー(神)になるのは、空間意識である電場(空間)と時間意識である地場(時間)が直交するときフレミングの理論により「 力 」が生じ、その「 力 」がエネルギー(神)となると思う。
このように、「 フィラメント構造 」がすべてで、気(ki)から情(zyou)へ一貫としたエネルギー(神)が流れると考え、人体の染色体も「 物語 」で、人生も「 物語 」で、人間は「 無明 」のエネルギー(神)から生まれ、死によって「 無明 」のエネルギー(神)に戻るのかもしれない。

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2015年02月21日

2015/2/21、私の現在の考え 9 六道 ・心・ 愛

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

………………(引用する)………………………………

2008/12/21
これは、私の解釈であるから、主観的な見解であり、間違いだと思うが、書くことにする。

私は、意識が電磁波的な構造を持ち、情(zyou)を過去から現在そして未来の阿頼耶識(arayasiki)へと、伝達する働きや機能を末那識(manasiki)の機能であり、これは本能であると解釈する。

生理的、本能的な「快感」は、神経細胞により、脳の部分に伝達され、エネルギーが飽和や均衡するのだと思う。

この「快感」は、「無明」の一種だと解釈する。

これが、生理的な「電流」であるならば、精神的な「電磁波」を生むと思うが、その電磁波は末那識(manasiki)であり、「快感」の意識として阿頼耶識(arayasiki)に伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)は、「快感」だけでなく、「快感」を生じた原因や行為の全てを記録する。

私の考えでは、「快感」という感覚の刺激によりエネルギーが均衡する部分と、感覚の刺激による意識の飽和や均衡の部分とは違うという結論になる。

これは、間違いかも知れないが、私のブログでは、その意識を「欲望」あるいは「欲」の「情(zyou)」と解釈する。

「快感」は、一つの刺激ではなく、五感の刺激により伝達されるのに従い、「欲」の「情(zyou)」も、五感の意識の電磁波の塊である。



「快感」と、「欲」の「情(zyou)」の違い。

生理と精神の違いは、精神は末那識(manasiki)により、波長を増幅したり、持続したりする事が出来る事である。

そして、末那識(manasiki)の「現象」の世界の「道具」による可能性の拡大という特徴が現れる。

末那識(manasiki)により「道具」的な因果関係を固定し、保存し、波長を繰り返したり、増幅して「遊ぶ」事を可能にする。

その力によって、「快感」が、増幅された「欲」の「情(zyou)」という意識の定在波となり、「六道」を選ぶ事になる。

選択する力は、意識であるし、エネルギーでもあると解釈する。

そして、「快感」を得る事が習慣的意思になると、煩悩になる。


慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。

これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。

2015/2/15

バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

………………(引用を終わる)………………………………

2015/2/21、私の考え



このように、小脳の生理、快感、ストレスを気(ki)の「 フィラメント 」、大脳の快楽、欲望を情(zyou)の「 フィラメント 」を流れる「 ビルケランド電流 」とし、総体が「 心 」というエネルギー(神)と考える。
以前に書いたように、人間は「 生まれながらの時空 」しか持っておらず、それは人類すべてが相違する時空であり、「 真の時空 」を人間は知らないと考える。
この「 生まれながらの時空 」で「 ビルケランド電流 」を区切り、それぞれの「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)を持っていると考える。
認識は「 心 」の了解、「 心 」というエネルギー(神)の融合、電場と磁場が直交してエネルギー(神)である行動する「 力 」を生じるが、それは「 電離層 」の中で行われるだろう。
その「 電離層 」の壁が「 六道 」であり、「 電離層 」の中の「 定在波 」を形作っている情(zyou)が「 人格 」であるだろう。
「 類は類を呼ぶ 」や「 同類相憐れむ 」など、「 六道 」の中での「 定在波 」である人格の同調や「 心 」というエネルギー(神)の崩壊であり、「 六道 」の種類(系)の違いにより異なるだろう。
違う種類の「 六道 」に移るためには、情(zyou)である精神による「 始めと終わり 」を区切る壁を変えるいうエネルギー(神)が必要なのかもしれない。
「 電離層 」を回るシューマン波が、人間一般に共通する「 愛 」という電波・エネルギー(神)であるから、誰によっても独占されず、「 人のものであって人のものでないもの 」かもしれない。

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2015年02月15日

2015/2/15、私の現在の考え8 意識と可能性と欲

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。


2015/2/15 意識と可能性と欲



2008/10/26、生まれながらの時空より引用すると「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」

バイオリズムなどを「 主観的時間 」と考え、考えることができるすべての空間を「 主観的空間 」と考えそれにより規定された「 方向性 」である「 可能性 」と、アラヤシキ(arayasiki)や末那識(manasiki)の経験の「 始めと終わり 」の「 物語 」を「 フィラメント構造 」とみなし、内部を流れる電流を「 意識 」とし、伝達するのが「 心 」あるいは「 欲 」であり、行動のエネルギー(神)である気(ki)になると考える。
人生も「 フィラメント構造 」をしており、人間の一生も、気(ki)に始まり気(ki)に終わるから、無明というのだろう。
煩悩は「 フィラメント構造 」を通る意識や欲の総体であり、その様子は「 台風 」や「 ハリケーン 」と似た形かもしれない。

このよう考えたとき、「 人間 」の分析には「 流れるもの 」と「 派生するもの 」前者が「 気(ki)}であり後者が情(zyou)だとするのが私の考えである。
欲望や心やエーテルやエネルギー(神)など小脳の感受性の部分が前者であるし、時間や空間の意識や思想や文化一般などの大脳の感覚の部分は後者になるだろう。
行動は「 宇宙的運動の一つ 」であり宇宙と連動するのに対して、思考は「 始めと終わり 」を持つ非宇宙的な頭脳の派生物である。

ゆえに、前者を統括する「 人格 」が問題になると思う。

「 宗教 」が人格の問題なら、エネルギー(神)を信仰するのではなく、エネルギー(神)の行動に沿ったことを学ぶために存在価値があり、イスラムが唱えるアラーは理解不能である。

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2015年02月09日

2015/2/9、現在の私の考え 7・ 可能性

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/1/21、私の記事

以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。



2015/2/9、私の考え



以上のように「 人体 」は複雑な構造であり、私の考えでは「 意識の生成 」で申しましたように、意識は太古の創造のようなことを行っており、意識は無意識を内容とした「 心 」を伝達すると思います。

「 太古の創造 」はエネルギー(神)の仕業であり、物質を創るのでしようが、「 太古の創造のようなこと 」はエネルギー(神)から派生したもので、派生するのは「 意識 」であり、伝達するのは「 心 」であると思います。
「 心 」は法身(hotsusinn)ではなく、報身(housin)であり、宇宙の産物ではなく、人類の産物であり、根本的には法身(hotsusinn)である「 宇宙 」や「 物質 」を規定することはできず(規定は誤りであり)、人類だけの人類愛のようなもので、人類しか判別することができない「 霊 」かもしれません。
言葉に「 霊 」があれは、それであると思います。

このように考えたとき、「 可能性 」とはどのように考えるのでしょう。
「 可能性 」は「 能 」を含んだ単語であり、「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが言語や絵画などの文化の全部に具現化する契機であり、「 情(zyou)」であり情報であると思います。

これまで述べましたように、情(zyou)は「 物語 」であり「 始めと終わり 」を規定します。
無明(mumyou)というエネルギー(神)であり無意識を始点とし、無明(mumyu)のエネルギー(神)を終点と規定するから成立する「 意識 」であり情(zyou)であり、無明(mumyou)は「 心 」であると思います。

ゴーギャンがいう「 我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこに行くのか 」は、私には、「 無明(mumyou)というエネルギー(神)から始まり無明(mumyou)のエネルギー(神)で終わるもので、人間はエネルギー(神)の産物であり、死によりエネルギー(神)に帰ると思うが、生存中は意識が「 心 」をどこからどこへ伝達するのかということに似ている 」と考えます。

「 可能性 」は、無明(mumyou)のエネルギー(神)のなかの「 方向性 」という情(zyou)であり、法身(hotsusinn)のなかの報身(housin)であり、仏教で、如来(nyorai)が法身(hotsusinn)であれば、如来へ導く「 菩薩 」や「 観音様 」などが「 方向性 」を示す「 可能性 」である報身(housin)だろうと思います。

無意識の中の「 小脳の運動可能性 」つまり「 生きることができるか 」がエネルギー(神)と人体の境界であり、報身(housin)の限界であり、「 蓋然性 」を現わすとき「 意識 」の、論理の可能性であり、法身(hotsusinn)ではなく、法身(hotsusinn)=真理に近づく「 可能性 」であり、「 可能性 」はすべて報身(housin)に属すると思います。

「 人体 」は複雑な構造であり、私の考えでは「 意識の生成 」で申しましたように、意識は太古の創造のようなことを行っており、意識は無意識を内容とした「 心 」を伝達すると思います。

「 太古の創造 」はエネルギー(神)の仕業であり、物質を創るのでしようが、「 太古の創造のようなこと 」はエネルギー(神)から派生したもので、派生するのは「 意識 」であり、伝達するのは「 心 」であると思います。
「 意識 」は「 可能性 」の「 方向性 」を取りまとめたエネルギー(神)であり、伝達するのは「 真理(=法身(hotsusinn)と一致すること)」ではない「 心 」であると考えます。
「 真理 」ではないから、「 心 」は常にその意識が真理に向かっているのか方向性を点検する必要があると思います。

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2015年02月01日

2015/2/1、私の現在の考え 6 意識の生成

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2012/1/14、私の記事

「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う

2012/5/19、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調は求めない。

私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。


2012/6/12、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為

無明

生命



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続



情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体


2012/8/私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない

私の出発点である「 意識は電磁波である 」ということを考えよう。

私は、プラズマ宇宙論と「 生気論 」を支持し、Tの気(ki)は電気であると思うから、「 意識は電磁波である 」と考えた。

太陽光は意識を発生させると思うが、なぜ、そう思うのか?

頭脳を持つ動物は、世界各国で誕生するのであり、その全てに「 意識 」があり、精神がある。

それを可能にするのは「 神 」かも知れないが、私は世界を包む「 太陽光 」であると考える。

動物が持つ臓器のバイオリズムもDNAの違いで全てが相違する。

「 太陽光 」は紫外線から可視光線や赤外線まで「 連続 」し、このDNAがプリズムのような働きをして、「 太陽光 」から「 可視光線 」を分離し、「 赤 」や「 青 」や「 黄色 」の三原色という記憶を媒介としたUの「 意識 」という情(zyou)を作り、紫外線や赤外線はTの気(ki)が吸収すると思う。

動物が持つ臓器のバイオリズムもDNAの違いで全てが相違するから、Uの情(zyou)やTの気(ki)は全て相違する。

「 太陽光 」も「 バイオリズム 」も連続しTの領域であるが、前者は電磁波で、後者は物質波で、無意識の中で、「 太陽光 」の「 可視光線 」は知覚され、紫外線や赤外線は人体のバイオリズムを変えることもあるだろう。

紫外線が「 皮膚がん 」を起こすのも、人体のバイオリズムを変える証拠だろう。

物質波であるバイオリズムがTの気(ki)であり、「 太陽光 」の「 可視光線 」以外を吸収するだろう。

Uの情(zyou)もバイオリズムであり、物質波であるが知覚器官により、Tの気(ki)の領域の「 可視光線 」の三原色という「 関係(法則) 」をDNAというバイオリズムをプリズムのよう使って実体化することが出来るのは、「 知覚意識は電磁波に同調する性質を持つから可能だ 」と考える。

それは、電磁波と物質波の関係だろうが、私はプラズマ宇宙論と「 生気論 」を支持し、Tの気(ki)は電気であると思うから「 知覚 」は電気で行われているかも知れないと思っている




2015/2/1、私の考え





2012/6/12、私の記事で「 無意識 」を修正した。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考えた。

私は「 無意識 」と「アラヤシキ(arayasiki)}を区別したいのだ。

「 小脳の無意識 」が前者であり、後者の「 大脳の無意識 」を「 アラヤシキ(araysiki)」とし、前者を気(ki)のエネルギー(神)とし、後者を情(zyou)の思考や体験とする。

「 意識 」と「 無意識 」の関係を考えるとき、この区別は前者が「 意識の生成 」であるのに対し、後者は「 合理的な思考(末那識(manasiki)}の生成 」であり、それぞれが、「 プラズマ理論 」と似たような生成をすると考える。

つまり、私たちの頭脳の中では、「 太古の人類(精神)の生成が行われている 」と考える。

………(引用すると)………

フィラメント構造とビルケランド電流

上記に書いたように、宇宙には多くのフィラメント構造が存在している。
このフィラメントと、その内部を流れるビルケランド電流は、太陽フレア、オーロラ、太陽系、星雲、銀河の形成、そして大規模構造などの理解にも必要なものである。
プラズマ宇宙論の重要なファクターと言える。

その形成過程は非常に単純である。
まず、「ピンチ効果 (Z-pinch)」と呼ばれる現象がこの形を作り出す。
直線的な電流がプラズマの中を通るとき、そのまわりに円筒状の磁場が生じる。
これが同じ方向を流れている他の電流を引き寄せるのである。
このようにして小さな電流の糸は互いに引き寄せ合う(ピンチ)傾向がある。
その際に周囲のプラズマを引き寄せる効果が働き収束する。
収束した糸はよじれてフィラメント状の巨大な渦巻きを生み出すのである。
このフィラメントの内部を電流が通る事が知られている。

その電流はビルケランド電流と呼ばれている。

このような特性のために宇宙のフィラメントは、しばしば送電網に例えられる。
この送電は次第に他の送電を引き寄せ、つながり合い巨大な送電網を作りだすことによって宇宙のなかで大量の電流を運んでいる。
………(引用を終わる)………
以上の「 小さな電療 」が、前者では、小脳で感じるストレスという力(エネルギー・神)であり、後者では「 アラヤシキ(arayasiki)」であると考える。

これが、次の考えにつながります。

………(引用すると)………

2015/1/2私の記事

以上から、「 心 」を考えます。

以上のように、「 死んだら終わり 」ではなく、エネルギーが保存されると考えると、「 心 」は、生きているときは「 無意識 」にあるでしょうが、死後の「 心 」は遺品や文化が持つエネルギーとして保存されるのだと思います。

生きているときでも、部屋の中の配置に「 心 」を感じることがありますが、それは、その人が持つ「 脳 」の「 能力 」の具現化であり、潜在するエネルギーであると思います。

「 脳 」の「 能力 」が末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayaski)であり脳のエネルギーである「 心 」が顕在化したのが前者であり、潜在するのが後者だろうと思いますが、潜在する「 心 」が、部屋の配置などの、人から離れた、あるいは死後の「 心 」というエネルギーとして保存され、文化として受け継がれるのだろう思います。

だから、文化財に触れて「 心 」を感じ、自分の中にエネルギーが湧き、文化財の「 心 」を自分の「 心 」に同化することが可能だと思います。

これは、アラヤシキ(arayasiki)の無意識の中で、同化され、エネルギーは導入されるのだと思います。

昔は「 発禁本 」などがありましたが、以上の私が述べた考えで、「 発禁本 」に為政者がしたのだと思います。

このエネルギーは、エーテルがある限り伝達されるものだと思いますので、人間に五感がある限り、その「 感受性 」という無意識を通して伝達され、アラヤシキ(arayasiki)になるでしょう。

末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayasiki)は「 意識の区別 」ではなくて、エネルギーの顕在化や潜在化の問題で、「 心 」の問題で、前者の生前の「 自意識 」と後者の部屋の配置などの「 心配り 」や「 配慮 」あるいは「 人格 」の問題だと思います。

アラヤシキ(arayasiki)が意識が潜在していることに留まらず、その「 機能 」や「 能力 」に注目すれば、私の考えでは、「 心 」を伝達するものだということになります。

………(引用を終わる)………

小脳で感じたストレスなどの力(エネルギー・神)を始点とする「 意識 」は、力(エネルギー・神)が曖昧であるため、「 無明(mumyou)」 であり、大脳の末那識(manasiki)は曖昧な思考や体験であるアラヤシキ(arayasiki)を始点とするため、「 無常(muzyou)」 であると考える。



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2015年01月30日

2015/1/30、私の現在の考え 5 意識は電磁波である

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

以下、過去の記事を引用したあと、私の考えを書きます。

2008/11/12、私の展開(意識は電磁波である)

私は、人類の歴史上で初めて「意識は電磁波である」と言う文句を作りました。

詳しい事は、別の記事に書いています。

何度も言いますが、赤ん坊に時間も空間も教育する必要がありません。

赤ん坊は、既に、知っているのです。

昼や夜、時刻を知らないだけです。

少し考えると、これ等は、社会の生活様式です。

知っていても知らなくても、人間として生きる事ができます。


私は、時間や空間を意識する事は、遺伝子の中に組み込まれていて、全ての人間が持つ力であると思うのに、人類が今まで考えた事も無かった事が不思議です。

私の欠点は、「意識は電磁波である」事を証明する事が出来ない所です。

私は、認識した事を、無意識のレベルで感じる事が、「意識は電磁波である」事の証拠とします。

2008/10/26、生まれながらの時空

私の考えが、一般と違うのは次の事である。

「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」

2009/1/24、私のブログ(プラズマ宇宙論)1

プラズマ宇宙論出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96

フィラメント構造とビルケランド電流

上記に書いたように、宇宙には多くのフィラメント構造が存在している。
このフィラメントと、その内部を流れるビルケランド電流は、太陽フレア、オーロラ、太陽系、星雲、銀河の形成、そして大規模構造などの理解にも必要なものである。
プラズマ宇宙論の重要なファクターと言える。

その形成過程は非常に単純である。
まず、「ピンチ効果 (Z-pinch)」と呼ばれる現象がこの形を作り出す。
直線的な電流がプラズマの中を通るとき、そのまわりに円筒状の磁場が生じる。
これが同じ方向を流れている他の電流を引き寄せるのである。
このようにして小さな電流の糸は互いに引き寄せ合う(ピンチ)傾向がある。
その際に周囲のプラズマを引き寄せる効果が働き収束する。
収束した糸はよじれてフィラメント状の巨大な渦巻きを生み出すのである。
このフィラメントの内部を電流が通る事が知られている。

その電流はビルケランド電流と呼ばれている。

このような特性のために宇宙のフィラメントは、しばしば送電網に例えられる。
この送電は次第に他の送電を引き寄せ、つながり合い巨大な送電網を作りだすことによって宇宙のなかで大量の電流を運んでいる。
身近な例ではオーロラもビルケランド電流によって生じている。
太陽系や銀河、大規模構造などにも巨大なフィラメントがあり大量の電流が宇宙を駆け巡っている。

(以上で引用を終わる)

私の考え。

私は、これまで、「 意識は電磁波(光)である」という考えで、末那識(manasiki)が、「 自意識 」として中心に存在し、その周りに、暴風雨のように阿頼耶識(arayasiki)を、引き寄せて、「煩悩」を作ると書いた。

この末那識(manasiki)が「 ビルケランド電流 」から生じる「 最も最初の電磁場 」として考えると、この「 プラズマ宇宙論 」が、私のブログに、良く適合する。

「 ビッグ・バン」の理論ではなくて、非主流派の「 プラズマ宇宙論 」が、私のブログを先導する理論として考える事に決めました。

2015/1/26、私の現在の考え 2

以上から、「 心 」を考えます。

以上のように、「 死んだら終わり 」ではなく、エネルギーが保存されると考えると、「 心 」は、生きているときは「 無意識 」にあるでしょうが、死後の「 心 」は遺品や文化が持つエネルギーとして保存されるのだと思います。

生きているときでも、部屋の中の配置に「 心 」を感じることがありますが、それは、その人が持つ「 脳 」の「 能力 」の具現化であり、潜在するエネルギーであると思います。

「 脳 」の「 能力 」が末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayaski)であり脳のエネルギーである「 心 」が顕在化したのが前者であり、潜在するのが後者だろうと思いますが、潜在する「 心 」が、部屋の配置などの、人から離れた、あるいは死後の「 心 」というエネルギーとして保存され、文化として受け継がれるのだろう思います。

だから、文化財に触れて「 心 」を感じ、自分の中にエネルギーが湧き、文化財の「 心 」を自分の「 心 」に同化することが可能だと思います。

これは、アラヤシキ(arayasiki)の無意識の中で、同化され、エネルギーは導入されるのだと思います。

昔は「 発禁本 」などがありましたが、以上の私が述べた考えで、「 発禁本 」に為政者がしたのだと思います。

このエネルギーは、エーテルがある限り伝達されるものだと思いますので、人間に五感がある限り、その「 感受性 」という無意識を通して伝達され、アラヤシキ(arayasiki)になるでしょう。

末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayasiki)は「 意識の区別 」ではなくて、エネルギーの顕在化や潜在化の問題で、「 心 」の問題で、前者の生前の「 自意識 」と後者の部屋の配置などの「 心配り 」や「 配慮 」あるいは「 人格 」の問題だと思います。

アラヤシキ(arayasiki)が意識が潜在していることに留まらず、その「 機能 」や「 能力 」に注目すれば、私の考えでは、「 心 」を伝達するものだということになります。


2015/1/30、私の考え



よく、失神することを「 気を失う 」とか、意識が回復したことを「 気を取り戻す 」など、気(ki)という漢字を使います。

これは、我々が、「 意識は電気である」と知っているからだと思います。

私の考えでは、気(ki)はエネルギーであり、電気であり、その派生物である意識は、電磁波の構造を持ち、それは、人間がアプリオリに持つ「 生まれながらの時空」という意識を認識する「 能力 」「 脳の力 」を持っていることで、「 能力 」が、「 プラズマ宇宙論 」でいう「 フィラメント 」である「 生まれながらの時空 」を走る「 ビルケランド電流 」であり、大脳で作った記憶という情(zyou)によし、人、それぞれの時空になると想定します。

意識の周囲に「 小さな電流 」であるアラヤシキ(arayasiki)という無意識があり、人体の外部にあるエネルギーを取り入れると想定します。

末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayasiki)は「 意識の区別 」ではなくて、エネルギーの顕在化や潜在化の問題で、「 心 」の問題で、前者の生前の「 自意識 」と後者の部屋の配置などの「 心配り 」や「 配慮 」あるいは「 人格 」の問題で、両者が伴って、「 心 」を運び、電離層で、他者と交流するのだと考えます。


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2015年01月28日

2015/1/28、私の現在の考え 4 存在

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

「 世界内存在 」について、以下のように書きましたが、これは世界の中に自分がいることだけで、「 存在 」ということに触れていません。

少し、継ぎ足しをします。

2015/1/27、私の記事

「 世界内存在 」も、上記のことから考えます。

このように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

「 自分 」は、「 三身即一 」ですから、法身(hotsusinn)と「 自分 」、報身(housin)と「 自分 」が考えられます。

前者がエネルギー(神)が物化した人体、宇宙の構成物としての「 自分 」であり、後者はエネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の中の「 自分 」であると考えます。

前者が気(ki)の中の自分であり、後者は情(zyou)の中の自分であり、人間が精神ならば、「 存在 」事態が意識であれば、後者の自分が自我であると思います。

「 自分 」から前者を観たとき、人体は宇宙の構成体、エネルギー(神)の産物であることに感謝し、「 自分 」から後者を観たとき自分の思考は、エネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の産物であることに感謝するでしょう。

このように、「 世界と自分 」を二重に考えると、自分がエネルギー(神)や人類の最先端にいることがわかると思います。



2015/1/28、私の考え



2014/2/2、オカルト・エーテル考 16 存在の謎 4(カテゴリー44)で、以下のように書きました。

……………………以下は引用です…………………

2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の記事

これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。



2014/2/1、私の記事


これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。



2014/2/2、私の記事


これは、フィクションです。


私が、「 無(mu)」の存在を、エネルギーを交換する場であるエーテルとするのは、私のブログの都合上であるから、無視していただいても結構です。

私は、「 今、ここ」で、「 今 」の中で「 永遠 」なもの、「 ここ 」のなかで、無限(mugen)に遠くて無限(mugen)に近いもの、即ち「 今、ここ 」を超越するものは何かを考えます。

私は、時間を時間意識、空間を空間意識という脳波(電磁波)の定在波で、情(zyou)であると考えますから、情(zyou)では解決不可能なもの、情(zyou)を生じさせるものが「 超越 」と考えるなら、それは気(ki)である「 エネルギーやエーテル 」であると考えます。

私は、時間は時間意識、空間は空間意識という情(zyou)であり、それが「 過去や現在や未来 」を作ると考えますから、「 超越 」は、「 過去や現在や未来 」の超越を考えるのではなく、情(zyou)には無いもの、つまり情(zyou)が無視して来たものが超越として現れたものであると思います。

私は、哲学で「 空間 」といいながら、本当に「 空間 」を考えたのか疑問に思います。

エネルギーを含んだ空間が「 エーテル 」ならば、「 エーテル 」を考えることが「 超越 」を考えることであると思います。

存在しないから「 無(mu)」と考えるのではなく、すべての存在と共存する「 有(yuu)」であると考えることは前述しました。

呼吸で吸い込むのは空気だけでなく「 エーテル 」も吸い込んでいて、その「 エーテル 」は無限のかなたまで連続してひろがり、吸い込む「 エーテル 」も無限にひろがる「 エーテル 」も、情(zyou)では、認識することが出来ない「 無(mu)」であるが、存在を否定することが出来ない「 無(mu)」であると思います。

死んで、人間の身体は宇宙のゴミとなっても、エーテル(涅槃)という「 無(mu)」になります。

「 無(mu)」は、存在の否定ではなく、すべての存在を受け入れる「 有(yuu)」となり、空気のエネルギーと共に連続して、人体の中に出入りすると思います。

このように考えるとき、死に向かう人が、残された人に向かって「 私は星になってあなたを見守る 」ということや「 いつもあなたのそばで、見守っている 」とか「 私を呼べば、すぐ来てあげる 」ということが同時に成立するのです。

「 死に向かう人 」が、聖人や仏陀であっても、一般人であっても同じです。

こうして、エーテルや「 無(mu)」を考えることにより、物理と哲学と宗教が結びつくと思います。

……………………引用を終わります…………………

前述しましたように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

「 自分 」は、「 三身即一 」ですから、法身(hotsusinn)と「 自分 」、報身(housin)と「 自分 」が考えられます。

前者がエネルギー(神)が物化した人体、宇宙の構成物としての「 自分 」であり、後者はエネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の中の「 自分 」であると考えます。

前者が気(ki)の中の自分であり、後者は情(zyou)の中の自分であり、人間が精神ならば、「 存在 」自体が意識であれば、後者の自分が自我であると思います。

自我は情(zyou)であり、生まれてからの関係上で獲得する知識も情(zyou)であり、大脳の働きです。

存在は意識でありますが、存在は有(yuu)でありません。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は報身(housin)であり大気のようなものであり後者は法身(hotsusin)であり、神(エネルギー)の身体であり、エーテルのようなもので、大気を矛盾なく包摂するものだと思います。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。

人体は無意識という無(mu)を通して、小脳を通して、外気からエネルギー(神)を取り入れるのだと思います。

思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギー(神)を交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、存在意識であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギー(神)である有(yuu)と無(mu)である思います。

無明や無意識という気(ki)から始まった「 存在意識 」という情(zyou)は、無明で意識することができない有(yuu)という気(ki)により、破壊される。

そのことを「 無常 」というのだと考えます。

情(zyou)である宗教に、気(ki)である神(エネルギー)を持ち込むことに疑問を感じます。

宗教が神(エネルギー)持ち込めば、科学と対決しなければなりません。

宗教は「 人が進む道 」や「 生き方 」を教えるもので、神(エネルギー)を信仰することではないと考えます。

神(エネルギー)と対決するのは科学で、人が進む道を教えるのが宗教であり哲学である報身(houssin)であるが、それらはすべて神(エネルギー)の身体である法身(hotsusin)であるエーテルの内部のことであるし、報身(houssin)である思考(存在意識)が法身(hotsusin)である「 脳 」(存在・有(yuu))を解明することはできないと考えます。

思考は、宇宙の産物ではなく、人間の頭脳の産物だからです。

以上、総括とはならないと思いますが、書いてみました。


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2015年01月27日

2015/1/27、私の現在の考え 3、世界内存在

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。



2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

これは仏教から遠く乖離した考えであり、私の考えであり、仏教の教えではありません。

死後はどうなるかは、2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーで書いたことだと思いますが、死んだら無になるというのは、間違いで、人体という「 三身が一体となった統一物体 」は無になりますが、つまり「 自我 」という「 膜 」は無になりますが、分解したエネルギーは「 在り続ける 」のであり、宇宙のかなたの星になることもあるし、エーテルを通して他人のエネルギーとして「 在り続ける 」かもしれません。
例えば「 本を読めば生きる力(エネルギー)になった 」ということも、他人の中で「 神 」となった作者の考え(エネルギー・神)が現れたと思います。

なぜなら、人類は気(ki)である全くの「 有(yuu)」や全くの「 無(mu)」を知らないからです。
応身(ouzin)である人類は「 情(zyou)」としての有無を知るだけだからです。

「 死んだら終わり 」と考えるのは「 情(zyou)」の段階であり、気(ki)の段階では、「 死んでも有り続け、保存され 」て、「 無(mu) 」にはならないということです。

私は、このように死後は宇宙のエーテルの中のエネルギー、即ち「 神 」になると「 信じ 」ます。

神風特攻隊が、「 死んだら神になる 」のと同じように。



2015/1/27、私の考え



「 世界内存在 」も、上記のことから考えます。

このように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

「 自分 」は、「 三身即一 」ですから、法身(hotsusinn)と「 自分 」、報身(housin)と「 自分 」が考えられます。

前者がエネルギー(神)が物化した人体、宇宙の構成物としての「 自分 」であり、後者はエネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の中の「 自分 」であると考えます。

前者が気(ki)の中の自分であり、後者は情(zyou)の中の自分であり、人間が精神ならば、「 存在 」事態が意識であれば、後者の自分が自我であると思います。

「 自分 」から前者を観たとき、人体は宇宙の構成体、エネルギー(神)の産物であることに感謝し、「 自分 」から後者を観たとき自分の思考は、エネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の産物であることに感謝するでしょう。

このように、「 世界と自分 」を二重に考えると、自分がエネルギー(神)や人類の最先端にいることがわかると思います。

自分を規定し、自分の存在が意識であるならば、宗教でいう「 神 」も情(zyou)としての神であると思いますが、日本の「 八百万の神 」はエネルギーを神と考えていると思います。


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2015年01月26日

2015/1/26、私の現在の考え 2

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。



2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

これは仏教から遠く乖離した考えであり、私の考えであり、仏教の教えではありません。

死後はどうなるかは、2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーで書いたことだと思いますが、死んだら無になるというのは、間違いで、人体という「 三身が一体となった統一物体 」は無になりますが、つまり「 自我 」という「 膜 」は無になりますが、分解したエネルギーは「 在り続ける 」のであり、宇宙のかなたの星になることもあるし、エーテルを通して他人のエネルギーとして「 在り続ける 」かもしれません。
例えば「 本を読めば生きる力(エネルギー)になった 」ということも、他人の中で「 神 」となった作者の考え(エネルギー・神)が現れたと思います。

なぜなら、人類は気(ki)である全くの「 有(yuu)」や全くの「 無(mu)」を知らないからです。
応身(ouzin)である人類は「 情(zyou)」としての有無を知るだけだからです。

「 死んだら終わり 」と考えるのは「 情(zyou)」の段階であり、気(ki)の段階では、「 死んでも有り続け、保存され 」て、「 無(mu) 」にはならないということです。

私は、このように死後は宇宙のエーテルの中のエネルギー、即ち「 神 」になると「 信じ 」ます。

神風特攻隊が、「 死んだら神になる 」のと同じように。

2015/1/26・私の考え



以上から、「 心 」を考えます。

以上のように、「 死んだら終わり 」ではなく、エネルギーが保存されると考えると、「 心 」は、生きているときは「 無意識 」にあるでしょうが、死後の「 心 」は遺品や文化が持つエネルギーとして保存されるのだと思います。

生きているときでも、部屋の中の配置に「 心 」を感じることがありますが、それは、その人が持つ「 脳 」の「 能力 」の具現化であり、潜在するエネルギーであると思います。

「 脳 」の「 能力 」が末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayaski)であり脳のエネルギーである「 心 」が顕在化したのが前者であり、潜在するのが後者だろうと思いますが、潜在する「 心 」が、部屋の配置などの、人から離れた、あるいは死後の「 心 」というエネルギーとして保存され、文化として受け継がれるのだろう思います。

だから、文化財に触れて「 心 」を感じ、自分の中にエネルギーが湧き、文化財の「 心 」を自分の「 心 」に同化することが可能だと思います。

これは、アラヤシキ(arayasiki)の無意識の中で、同化され、エネルギーは導入されるのだと思います。

昔は「 発禁本 」などがありましたが、以上の私が述べた考えで、「 発禁本 」に為政者がしたのだと思います。

このエネルギーは、エーテルがある限り伝達されるものだと思いますので、人間に五感がある限り、その「 感受性 」という無意識を通して伝達され、アラヤシキ(arayasiki)になるでしょう。

末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayasiki)は「 意識の区別 」ではなくて、エネルギーの顕在化や潜在化の問題で、「 心 」の問題で、前者の生前の「 自意識 」と後者の部屋の配置などの「 心配り 」や「 配慮 」あるいは「 人格 」の問題だと思います。

アラヤシキ(arayasiki)が意識が潜在していることに留まらず、その「 機能 」や「 能力 」に注目すれば、私の考えでは、「 心 」を伝達するものだということになります。


Every miler draw water to his own mill.

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2015年01月21日

2015/1/21・私の現在の考え 1

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。
今思いますと、最初の疑問に答えるためにブログを続けてきたと思っています。

その結論を引用します。


2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーから引用

あとで考えたのですが、宇宙を満たすエーテルが神の身体である法身(hotsusin)であり、エネルギーが神であり、人体の中では「 気(ki」として現れ、宇宙と連続するのに対し、意識は神が変化した情(zyou)なのですが、意識を生むエーテルやエネルギーを合理的に説明することは出来ず、ストレスや快感などとしか説明するしかなく、その原因は意識は記憶から生まれることだと思います。
時間意識や空間意識は記憶から生まれた感情である情(zyou)であり、時間は記憶ですが、記憶を生む「 空間 」であるエーテルは未だに解明できていないと思います。
この、エーテルやエネルギー、即ち神を解明するのは、宗教という情(zyou)ではなく、科学という数式だと思います。
数式は情(zyou)ではないからです。
そして、ゴーギャン考のところでも書きましたように、人間は無明(mumyou)から生まれ無明に消えていくと考え、無明や無常(muzyou)は何かを考えました。
そこから、「 無(mu) 」は意識の中だけにあり、宇宙はすべて「 有(yuu)」であり、エネルギー保存の法則があるように、神と神の身体はどんな変化があっても、保存されると思います。
その結果、「 死んだら終わり 」ではなく、「 死んでも有り続け、保存される 」から、自殺は現状からの逃避であり、「 無(mu) 」にはならないということです。
「 無明(mumyu) 」は「 何かが有る 」状態であり、「 無(mu) 」にはならないと考えます。
死んだら、人体は崩壊し、エネルギーとエーテルになるでしょうが、エーテルを、科学で考えるように「 無(mu) 」であると考えますと「 死んだら終わり 」であり、間違いだと思います。
エーテルを「 有(yuu)」と考え、宇宙のすべてが「 有(yuu)」であり、呼吸する空気と共にエーテルも人体の中に取り込んでいるのであり、その空気の中のエーテルは数億光年も先と連続し、神は数億光年から人体まで連続していることになります。
そうすることにより、子どもたちに「 死んだらお星さまになる 」とか「 死んだら、あなたのそばで、見守ってあげる 」ということも、真実になるのだと思います。
この、エネルギーは気(ki)であり、生気論(seikiron)に繋がり、プラズマ宇宙論に繋がり、プラズマが神ではないかと考えています。
その意味で、神、すなわち気(ki)の前で平等であり、情(zyou)である宗教の神の前で平等とは書きません。


2015/1/21、私の考え



以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

これは仏教から遠く乖離した考えであり、私の考えであり、仏教の教えではありません。

死後はどうなるかは、2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーで書いたことだと思いますが、死んだら無になるというのは、間違いで、人体という「 三身が一体となった統一物体 」は無になりますが、つまり「 自我 」という「 膜 」は無になりますが、分解したエネルギーは「 在り続ける 」のであり、宇宙のかなたの星になることもあるし、エーテルを通して他人のエネルギーとして「 在り続ける 」かもしれません。
例えば「 本を読めば生きる力(エネルギー)になった 」ということも、他人の中で「 神 」となった作者の考え(エネルギー・神)が現れたと思います。

なぜなら、人類は気(ki)である全くの「 有(yuu)」や全くの「 無(mu)」を知らないからです。
応身(ouzin)である人類は「 情(zyou)」としての有無を知るだけだからです。

「 死んだら終わり 」と考えるのは「 情(zyou)」の段階であり、気(ki)の段階では、「 死んでも有り続け、保存され 」て、「 無(mu) 」にはならないということです。

私は、このように死後は宇宙のエーテルの中のエネルギー、即ち「 神 」になると「 信じ 」ます。

神風特攻隊が、「 死んだら神になる 」のと同じように。

Every miler draw water to his own mill.


三身(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB

三身即一
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E8%BA%AB%E5%8D%B3%E4%B8%80
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2015年01月18日

2015.1.18 ポスター販売のお願い

一年ぶりに投稿します。
私は今年で65才になり、三月で現在の職場から完全失業の状態となり、年金生活になります。
年金の金額は少ないですから、生活費を補うために何かをしなければなりません。
そこで考えたのが「 ポスター販売 」です。
以下のように、ポスターを二種類、用意しましたが、どのように販売するかが問題でした。
インターネット販売が適当だろうと思いますが、郵送費が必要です。
郵送費を少なくして販売するのは、店頭販売です。
ですから、店頭で販売が可能な人を探しています。
販売が可能な人は、私にメールでご連絡して頂けるとありがたいです。

私のメールアドレス→   moka555@y7.dion.ne.jp


Tポスター

@

oowaku2

A

hakonero-pu1


U ポスターのサイズ

縦は約 42 センチメートル

横は約 59.5 センチメートル

V 販売価格

ピンボケで恐縮ですが、一枚500円程度

写真に入った文字は消します

もしも、販売して頂きますならば、メールをくださいますようお願いします。
posted by kandk55 at 02:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ポブター販売 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月02日

2014/1/27、二見浦と伊勢内宮への旅U 外宮

今年の1月27日、伊勢神宮に参拝しました。

内宮と共に外宮も参拝しましたので、その様子の写真をupします。

外宮の説明

http://www.isejingu.or.jp/geku.html
wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%8F%97%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE


伊勢神宮
wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE


遷宮後の「 新正宮 」

IMGA0016-1.jpg



遷宮後の「 旧正宮 」

IMGA0015-1.jpg



確か、遷宮後、三か月間しか「 旧正宮 」が保存されない筈ですから、参拝しても、「 旧正宮 」を見ることは出来ないと思います。
posted by kandk55 at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見浦と伊勢内宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

2014/1/27、二見浦と伊勢内宮への旅・U内宮

今年の1月27日、伊勢神宮に参拝しました。

入口です。

IMGA0003-1.jpg

五十鈴川の水です。

IMGA0004-1.jpg

外幣殿

宝物を収納する所です。

P1010567-1.jpg

荒祭宮
wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%A5%AD%E5%AE%AE

お願いをする所です。

P1010568-1.jpg
posted by kandk55 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見浦と伊勢内宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

2014/7/6、原発は必要か?福島も沖縄も「 金目 」が自民党

2012/12/23、私の記事



これは、私だけの考えである


先の衆議院選挙で、自民党が圧勝した。

この政党は、原発を含めてエネルギーのベストミックスを図るということを明言していた。

この政党の「 安全」に対する考えは、「 安全は政府が保障すること 」であり、「 政府が安全と言えば、事故の賠償はマネーで済ます 」ということで、住民に対する「 生命の安全 」ではなく「 政府が安全をマネーで買うこと 」であり、「 生命が安全でなくても、政府が安全をマネーで担保する 」という考えだと思う。

この政党は、過去に「 活断層 」でない限り、「 断層が存在しても 」原発設置を認めた政党である。

この「 危険性 」は、原子力規制委員会が指摘した通りである。

日銀の独立性も考えず、憲法を改正することを目論む政党である。

この考えの裏に、「 原発も東京や大阪から遠く離れた過疎地であれば、万一、原発事故があっても、東京や大阪は安全だし、過疎地の雇用や開発に繋がるマネーの使い方であれば許される 」だろうし「 万一の原発事故は想定している 」という考えであるかも知れない。

「 沖縄も、東京や大阪から、遠く離れており、日米安保のためにはマネーで解決し、沖縄の犠牲もやむを得ない 」という考えであるかも知れない。

これは、「 沖縄」と「 原発 」は同じ考えで放置されてきた考えであり、赤字国債を出して結論を先延ばしして、原発廃棄物の最終保存を先延ばししてきた、歴代の自民党の考えが一貫して流れているし、自然再生エネルギーについてビジョンを持つどころか、安全の基準も無い原発を再稼働する、従来の考えの延長の上の考えであると思う。

「 沖縄 」も「 原発 」も、付近の住民にマネーを配布しマネーで解決しようとする考えは、自衛隊を国防軍にして武力で解決する安易な考えであり、三流大学卒業の私にもわかる、憲法九条違反であり、「 戦争への道 」である。

「 安全 」もマネーで買うことが出来るという考えだ。

「 マネーは出しても人は出さない 」のが従来の考えで、本当にエネルギーや安全や国家の安全保障を考えているかは疑問である。

「 福島 」は自民党の責任である。

「 沖縄 」は自民党の責任である。

2014/6/17、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない

ついに出た自民党の本音。

「 安心 」は気(ki)であり信頼で、「 安全 」は情(zyou)であり、金銭(money)であると言ってきたが、石原環境相は「 安心 」など考えておらず、人の顔を札束で叩くという自民党の考えの吐露であると言わざるを得ない。

原発事故に対して、ついに、自民党の本音が出たという感じだ。

福島でも敦賀でも、人の顔を札束で叩けば、原発事故を忘れると思うのだろうか?

自民党は、原発の廃止について、真剣の考えていない証拠だと思う。

2014/7/8、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない

「 福島 」も「 沖縄 」も、「 金目の問題でしょ 」ということだ。

集団自衛権や個別自衛権でも、戦争をしないというのではなく、「 犠牲が出たら金目でしょ 」と言うに等しい。

自民党は、戦争放棄も原発ゼロも、想定外で、「 犠牲が出たら金目でしょ 」というにきまっている。

自民党は、政治を「 金目 」の問題としか考えていないのだと思う。

つまり、自民党は、ヤジ発言でもわかるように、国民の対する「 誠実 」さを欠いているということであると考えている。
posted by kandk55 at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 原発は必要か? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする