2014年06月29日

2014/6/29、Chromecast とスマートフォン 1

Google社からの説明
https://support.google.com/chromecast/answer/3212934?hl=ja&ref_topic=3058948

Chromecast のセットアップに必要なものは次のとおりです:
•HDMI 入力対応のディスプレイ デバイス(高解像度テレビ(HDTV)など)
•電源コンセント、または HDMI 対応ディスプレイの USB ポート(サービス以外のポート)が使用可能であること
•安全な無線ネットワークへのアクセス(無線ネットワークのパスワードをすぐ使えるようにしておく)
•Mac、Windows、または Chromebook のパソコン、もしくは Android や iOS 搭載のスマートフォンまたはタブレット

2014/6/29、私の考え


私の場合は、プリンターの関係で、無線LANを導入していたので都合が良かった。

Chromecast とテレビを接続すると、スマートフォン(端末)の名前とパスワードが求められる。

名前は自分がつけるが、パスワードは無線ネットワークのパスワードなので、無線LAN機器に貼りつけてある、パスワードを書き出しておいたほうが良いと思う。

スマートフォンからパスワードを入力するとスマートフォンとChromecast とテレビが繋がり、Chromecast 準備完了となる。

アプリケーションは、YouTube とRealPlayer Cloud しか知らないが、YouTube を選択して、上部にある小さな四角があるのを発見した。

YouTube を再生して、その上部の小さな四角に触れると、スマートフォンの画面が固定され、内容がテレビに映しだされる。

YouTube の「 お気に入り 」の一番上を Cast すると、あとは連続してテレビに映しだされ、「 お気に入り 」に登録したすべての動画を見ることが出来る。

RealPlayer Cloud については、研究中なので後日書くことにする。
posted by kandk55 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月21日

2014/6/21、原発は必要か?「 金目 」発言について

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140621-00000086-san-pol

「金目」発言の石原環境相 不信任・問責案を否決 通常国会閉会

産経新聞 6月21日(土)7時55分配信

 通常国会の事実上の閉会日となった20日、野党各党は東京電力福島第1原発事故に伴う中間貯蔵施設建設に絡んで「最後は金目(かねめ)でしょ」と発言した石原伸晃環境相に対し、「閣僚としての資質を欠いている」として衆院に不信任決議案を提出した。19日に提出した石原氏の問責決議案も含め、20日の衆参両院本会議の採決で、いずれも与党の反対多数で否決された。


2014/6/21、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

これで、自民党は、自らの路線が、「 最後は金目でしょ」ということを追認したと考える

自民党によれば、すべてが「 最後は金目でしょ 」で済むことになる。

沖縄の軍事施設も、原発の設置も、「 最後は金目でしょ」で終わる。

自民党の言う政治も、「 最後は金目でしょ 」で終わる。

集団自衛権の問題も、TPPも、すべてが「 最後は金目でしょ 」で終わり、国民の安全や安心は、考慮されず、すべて「 最後は金目でしょ」で終わる。

これは、離婚のとき、愛憎を金銭で代替するという非常手段を、自民党は常等手段に変えた。

これこそ、「 日本版のチェンジ 」と言ってもよいと思う。

自分たちが「 憲法違反の選挙でえらばれた 」というのに、自分の立場を理解もせず、「 最後は金目でしょ 」と思うから、自分たちの議員報酬も減少させず、国民が汗や血を流して納税した「 金(money)」を、惜し気もなく、自らの報酬や原発設置、軍事基地設置に注ぎ込むのだろう。

何と、日本の恥知らずな国会議員であることよ!!
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2014年06月17日

2014/6/17、原発は必要か?「 最後は金目でしょ 」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140617-00000019-mai-env

<最後は金目でしょ>石原環境相が陳謝「誤解を招いた」

毎日新聞 6月17日(火)10時31分配信

 石原伸晃環境相は17日の閣議後記者会見で、福島第1原発事故の除染で出た汚染土などの中間貯蔵施設を巡る被災地との交渉に関し「最後は金目でしょ」と発言したことについて、「誤解を招いたことを心からおわびしたい」と陳謝した。


 石原環境相は「最後は用地補償額や生活再建策、地域振興策の金額を示すことが重要な課題になるという趣旨だった」と改めて釈明し、「品を欠く発言で不快な思いをされた方々には心からおわびしたい」と述べた。一方、発言の撤回は「正式な会見で話したことではない」と否定した。

 石原環境相は16日、首相官邸で菅義偉官房長官に中間貯蔵施設の今後の予定などを報告した後、記者団に「最後は金目でしょ」と語った。交付金など金銭で最終解決できるとの発言とも取れ、佐藤雄平福島県知事をはじめ地元が反発。来年1月の搬入開始を目指す施設整備のスケジュールにも影響する恐れが出ている。【阿部周一】

2014/6/17、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない

ついに出た自民党の本音。

「 安心 」は気(ki)であり信頼で、「 安全 」は情(zyou)であり、金銭(money)であると言ってきたが、石原環境相は「 安心 」など考えておらず、人の顔を札束で叩くという自民党の考えの吐露であると言わざるを得ない。

原発事故に対して、ついに、自民党の本音が出たという感じだ。

福島でも敦賀でも、人の顔を札束で叩けば、原発事故を忘れると思うのだろうか?

自民党は、原発の廃止について、真剣の考えていない証拠だと思う。

世界の時流に乗って、「 何が成長戦略だ 」。

彼らがいう戦略は以前からのインフレの促進だけしか頭に無く、原発を廃止して新たなエネルギー対策が「 成長戦略 」であることを思いもしない。

それにしても、何とお粗末な内閣であることか!!! c
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2014年06月08日

2014/6/8、戦争反対・無駄死には嫌だ・戦没者

2014/6/1、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない

以上、述べたように、「 明治維新 」は決して国民のための戦争ではない。

戦争で死んだのは、薩摩・長州の兵隊が多いだろうし、その流血を犠牲にしないために、天皇をかつぎあげて、薩摩・長州を中心とした明治政府を作り、財閥を育て、財閥の欲のために第二次世界大戦を起こした。

そして、一般国民が兵隊に徴収され、陸軍や海軍として死んでいったのだが、その霊を「 靖国神社 」に祀ったと思うが、ここで死んでいったのは特攻隊を始め多くの「 国民 」であったことだ。

彼らは「 臣民 」として、天皇の子と称されて、都合が良く、中央の軍閥に殺された、戦争の犠牲になったのだが、彼らは、「 こんな政府は間違っている。死ぬのは嫌だ 」と言い切れずに死んでいったと思う

そうである以上、我々は「 戦争反対 」を叫ぶべきであり、「 靖国神社参拝 」と何の矛盾もない

「 靖国神社参拝 」すれば、必ず「 戦争反対 」と言うべきであり、それを隣国との対立に使用するのは間違いである。

2014/6/8、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない

戦没者が無駄死にであったかについて、考えよう。

戦没者の全員が「 自分は天皇の臣民だ 」と思って死んでいったのなら、前述したように、人間は気(ki)の前では平等であるから、本来人間に差別が無いのに差別した情(zyou)である戦前の教育が間違いで、それを信じて死んだのだから無駄死にでしょう。

しかし、もし、彼らは、「 こんな政府は間違っている。死ぬのは嫌だ 」と言い切れずに死んでいったと思うならば、アメリカから与えられた日本国憲法は、彼らの「 死の結晶 」であり、戦没者の死が無駄死にでなかったことになると私は考える。

彼らは、家族を守るために戦場に行ったのであり、天皇のために行ったのではない事は、特攻隊の遺言からも推察される。

彼らは、「 国民 」のために死んだのであり、帝国国家を守るという意識は無かったと信じたい。

そうすれば、彼らは「 平和日本 」の人柱(犠牲)になったのであり、彼らの死は「 無駄死に 」ではないことになると思う。

彼らは「 臣民 」として、天皇の子と称されて、都合が良く、中央の軍閥に殺された、戦争の犠牲になったから、その戦争をする意思を受け継ぎ、日本国憲法を改正して、戦争が可能にする体制を作ることこそ、「 戦没者を無駄死にさせる事 」であり、死を死としてしか受け取らない現実的で冷徹な精神の持ち主だろう。

それが、自民党であると思う。

国民を国民と認めないから、「 民意 」である原発廃止もしないし、自分たちの議員の報酬を削減もせず、国会議員の定数も減らさないし、地方分権も無視する。

憲法違反の基準で選挙した違法な自民党が、憲法を改正するという。

「 靖国神社参拝 」でも、戦前の指導者の考えから、一歩も前進していない。

憲法を改正する前に、上記のことを検討すべきだと思う。

汚れた手で、憲法改正など、「 バカな人間がする事だ 」。
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2014年06月01日

2014/6/1、戦争反対・無駄死には嫌だ

2013/8/16、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


毎年、8月15日は終戦記念日として、戦争責任や靖国神社参拝や憲法改正のことが話題になります。

私は詳しくは知りませんが、私の考えを書きます。

革命は「 流血 」を必要とします。

「 フランス革命 」「 アメリカの南北戦争 」「 中国の天安門事件 」など、世界各国は「 流血 」により何を獲得したのかを知っているので、獲得したものを手放そうとしません。

日本のことを考えますと、古代から「 戦 」がありましたが、戦国時代は武士のため、倒幕した「 明治維新 」は、庶民のためではなく(国民は臣民でした)、薩摩や長州などの下級武士のために「 流血 」して自分たちの社会を作ったと思います。

そして、その延長上に、「 第二次世界大戦 」が起こったと思います。

第二次世界大戦は、薩摩や長州の武士たちが作り上げてきた軍備を、財閥と共に海外に使った「 戦 」であり、マルクス主義の帝国主義の終末だと思います。

それと同時に、敗戦により、薩摩や長州の武士たちが作り上げてきた「 富国強兵 」の国家の敗退であり、道徳や規範が崩壊しました。

「 明治維新 」は、国民のための流血ではなかった(国民は君主の従属者)ことは参考で見てください。

第二次世界大戦の戦死者や戦没者の流血、神風特別攻撃隊の流血を考えますと、彼らは反抗すれば「 非国民 」というレッテルを家族に貼られるから、家族のために戦争に行かなくてはならないという社会の犠牲であり、自分たちが死んで国家が生まれ変わるならばそれでも良いと考えたかも知れません。

特に、神風特別攻撃隊で出撃する人が、自分に「 神になれ 」と言いながら自分の背後で酒を飲み女を抱く司令官のことを知らないで、死んだとは思えません。

死ぬ人は、涅槃に行く人ですから、すべてを知っていたと思います。

敗戦により国家が崩れ、国民を主権とする「 日本国憲法 」が、占領国のアメリカの意向で制定されました。

神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者の流血が、国民を主権とする「 日本国憲法 」を子孫にプレゼントしたのだと考えますと、現在の平和な憲法に感謝するならば、「 靖国神社参拝 」は、子孫の義務だと思います。

「 日本国憲法 」や「 憲法九条 」は、「 流血 」の結果に獲得したものですから、それを手放したくないと思うなら、靖国神社参拝は、神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者の流血の上に立つ「 国民 」の行為として、当然に良いことだと思います。

神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者の流血の上にたつ政治家ならば、獲得した平和を護る「 戦争放棄 」を語るべきだと思います。

戦前に憲兵を作り、「 非国民 」を作り、国民を兵隊として戦争させたのは、政治家と財閥や経済界であり、神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者を作ったのです。

政治家が終戦記念日に靖国神社の参拝する気持ちがあれば、政教分離に従って「 日本国憲法 」を護る集会でも開いたらどうでしょう?

憲法記念日に憲法の話をするだけでなく、終戦記念日にも憲法の話をするのが政治家だと思います。

憲法改悪のことですが、占領された国家のもとでの憲法だから改正するという考えに賛成しません。

中国で「 黒い猫でも、白い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ 」というように、現在の、「 国民主権 」「 基本的人権の保障 」「 戦争放棄 」の憲法が、占領国から押し付けられた憲法であっても「 国民のため 」には「 良い憲法 」であり、これをを侵害することは、神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者も同意しないと思います。

2014/6/1、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない

以上、述べたように、「 明治維新 」は決して国民のための戦争ではない。

戦争で死んだのは、薩摩・長州の兵隊が多いだろうし、その流血を犠牲にしないために、天皇をかつぎあげて、薩摩・長州を中心とした明治政府を作り、財閥を育て、財閥の欲のために第二次世界大戦を起こした。

そして、一般国民が兵隊に徴収され、陸軍や海軍として死んでいったのだが、その霊を「 靖国神社 」に祀ったと思うが、ここで死んでいったのは特攻隊を始め多くの「 国民 」であったことだ。

彼らは「 臣民 」として、天皇の子と称されて、都合が良く、中央の軍閥に殺された、戦争の犠牲になったのだが、彼らは、「 こんな政府は間違っている。死ぬのは嫌だ 」と言い切れずに死んでいったと思う

そうである以上、我々は「 戦争反対 」を叫ぶべきであり、「 靖国神社参拝 」と何の矛盾もない

「 靖国神社参拝 」すれば、必ず「 戦争反対 」と言うべきであり、それを隣国との対立に使用するのは間違いである。

それは、薩摩・長州の軍部の考えの延長線上にあり、現在の首相の行動は、「 三本の矢 」の例えのもわかるように、同じ考えのように思う。

私は、無駄死には嫌いである。

上杉謙信のように、「 義 」に死ぬことを理想としている。
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2014年05月25日

2014/5/25、原発は必要か?「 安全 」と「 安心 」

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21020_R20C14A5000000/

大飯原発の運転差し止め、福井地裁判決 再稼働厳しく
2014/5/21 15:24

 東京電力福島第1原発事故後、安全性の保証をせずに大飯原発3、4号機(福井県おおい町)を再稼働させたとして、福井県の住民らが関西電力に運転差し止めを求めた訴訟で、福井地裁(樋口英明裁判長)は21日、現在定期検査中の2基を「運転してはならない」と命じ、再稼働を認めない判決を言い渡した。福島事故後、原発の差し止めを認める判決は初めて

2015/5/25、私の考え

「 安全 」は、過失責任の限界を決めるもので、「 原発 」は、史上最高の危険物であるから、無過失責任であるべきで、それに近い基準で再稼働を決めていると思う。

しかるに、大飯原発は、若狭湾に突き出た半島の先端部分に位置し、発電所から3キロメートルほどの若狭湾には、北西から南東方向に伸びる断層が存在する。施設内にも活断層が存在する、という見方も存在する。また、山がちの半島の先端に位置するため、大地震、津波などが起きた際には、発電所と外部を結ぶ道路が寸断され、発電所が孤立する危険があるとの指摘もある。(以上、Wikipedia)

このような発電所は、廃炉にすべきであり、再稼働など、まったく許されないと考えるのが自然である。

先に書いたように、「 安全 」は情(zyou)であり金(money)であり、再稼働を正当化する論理である。

ところが「 安心 」は気(ki)であり、気持ちであり、無意識の「 信頼 」に依存する(現在の原発は、「 信頼 」を得ていない)。

その点を、判決が「 人格権 」ということは賛成である。

関西電力が控訴し、高等裁判所から最高裁判所へ続くのだろうが、どこで、だれが判決を否定するのか。

その機関は、法律を誤認」する人たちで、人格の欠陥者である。

「 もんじゅ」「 志賀原発 」と、最高裁判所が、反民意の判断をしている。

日本には、「 専門バカ 」が多いから、また最高裁が同じ民意に反する判断をするだろう。

もし、原発事故が起こったら、政府、民間、裁判所のすべてが、責任をもつことになる。
posted by kandk55 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 原発は必要か? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014/5/21、原発は必要か?大飯原発の運転差し止め判決、再稼働厳しく

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21020_R20C14A5000000/

大飯原発の運転差し止め、福井地裁判決 再稼働厳しく
2014/5/21 15:24

 東京電力福島第1原発事故後、安全性の保証をせずに大飯原発3、4号機(福井県おおい町)を再稼働させたとして、福井県の住民らが関西電力に運転差し止めを求めた訴訟で、福井地裁(樋口英明裁判長)は21日、現在定期検査中の2基を「運転してはならない」と命じ、再稼働を認めない判決を言い渡した。福島事故後、原発の差し止めを認める判決は初めて。
 運転再開を決定した当時の民主党政権の判断が否定されるとともに、その後に事実上追認した原子力規制委員会の姿勢も問われる。関電が再稼働を目指し規制委で審査中の2基だけでなく、各原発の審査にも影響を与えそうだ。

 原発差し止め訴訟で住民側が勝訴したのは、金沢地裁が2006年、北陸電力志賀原発2号機(石川県志賀町)の運転停止を命じた判決(名古屋高裁金沢支部で逆転、確定)に次いで2例目。

2014/5/25 私の考え


私は、この判決を支持します。

法律とは、国家権力から国民を守るために作られたとすれば、民間人とはいえ、国家権力の手先である電力会社が、断層があるにもかかわらず原子力発電の再稼働をするとすれば、国民の不安は計り知れないものがある。

「 安全 」とは過去のデーターによる過失責任の限界を決めたもので、国民の「 安心 」を保障するものでは決してない。

「 安全 」は記憶などの情(zyou)であり、「 安心 」は気持ちの気(ki)であり、両者の背景は全く違うもので、「 経費や国富の流出 」は情(zyou)であり金(money)の問題であり、「 安心 」を「 安全 」で騙すことは、「 心 」を金(money)で買うことであり、従来の自民党の政治手法であり、このことは「 許されない 」というのが、この判決であると思う。

「 日本海 」に地震が無いことは間違いで、断層の上の原子力発電所が地震に耐えられる保障は、どこにもない。

日本の再稼働の基準が世界で一番厳しいと言うなら、「 断層が存在する地盤にある原子力発電所は再稼働しない 」と決めるのが最低の基準だと思う。

もし、この基準で再稼働したならば、もし原子力発電所に事故が起きれば、すべての責任は、自民党をはじめ基準を承認した国会議員にあり、すべての国会議員は報酬を返上して、事故を賠償すべきだろう。
(福島の原発事故でも、国会議員の報酬には少しの減少もなかった。)

「 原発ゼロ 」は、民意であり、もう一度、原子力発電所に事故が起きたら、「 日本国の恥 」であり、「 国会議員の無知 」であり、自民党の消滅は必至だと思う。

人間は「 無明 」の存在だから、人間は人間らしく、自然に対して謙虚であるべきだと思う。

福島原発の教訓は、どこに行ったのか?

自民党。

今度、原発事故が起こったら、あなたの責任ですよ。
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2014年05月18日

2014/5/18、オカルト・エーテル考28・死ぬこと生きること

最近、テレビで、人間は空間の中で生きているという話がありました。

普通に考えると、空間が無ければ、肉体も無く、私が言う「 小脳の運動可能性 」も無いのですが、空間さえあれば、肉体は死んでも、生きているという話です。

普通に考えた「 生きること 」は、肉体も持ち、呼吸もする状態ですが、「 生きること 」は、もっと広い範囲で捉える必要があると思います。

空間とは「 エーテル 」に満ちていて、エネルギーに満ちていて、呼吸が止まり「 死んだ 」と思っても、空間のエーテルの中に「 生 」のエネルギーが残っていると思います。
ちょうど、「 エネルギー保存の法則 」のように。

それは「 霊 」といっても良いでしょう。

人間は霊長類の最高の形態だから「 霊 」として残るから、昔から伝わるように、僧侶の「 弔いの念仏 」が必要なのでしょう。

僧侶が「 弔いの念仏 」をしても、「 生 」のエネルギーがある限り、「 生きている 」と思います。

太陽が光を放つように、死後の「 生 」のエネルギー、言い換えれば「 魂 」は、四方八方に光輪のように広がり、「 弔いの念仏 」で収束することは無いと思います。

「 魂 」は、エネルギーとして数万光年先に広がるだろうし、人の口で呼吸するエーテルと共に、他人の生きた身体の中にあるかも知れません。

「 生きること 」を以上のように考えると、「 死ぬこと 」は呼吸が止まり、脳死の状態だと思いますが、それは「 肉体的な現象 」であり、客観的な「 死 」であり、人間が考える情(zyou)としての「 死 」であり、気(ki)としての「 生 」はまだ残っていると思います。

生と死を、現象の次元で考えると、仏陀が「 四苦 」というように、「 死 」は「 苦 」であるかも知れないが、生と死が現象の次元の「 別れ 」であるならば、本来の生死は、エーテルの次元で言えば「 区別することは出来ないもの 」であり、普通に言う「 生死 」は「 儀式 」でしかないことになると思います。

空間はエーテルやエネルギーに満ちていますから、空間さえあれば、「 生きている 」という考えには賛成します。
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2014年05月11日

2014/5/11、オカルト・エーテル考27・自由と責任

2014/4/20、私の記事

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」は、無(mu)を否定と考え、「 人間の悲しみ 」であると考えると、知らないという無知、自分の立つ位置が不明である無明、すべての変化を把握できない無常、などは「 自由 」から生まれる「 人間の悲しみ 」であるが、その「 自由 」は、存在論的には有(yuu)の選択であり、否定する「 自由 」で気(ki)としての無(mu)を消すことは出来ないと思います。

自殺で自分を否定することは出来るが、自殺も有(yuu)の選択であり、自分を無(mu)にすることは出来ないので、身体を持たない霊やエーテルとして続けるかも知れず、現実逃避であることは明白であると思います。

それは、空気を抜いても真空を満たすエーテルが消えないのと同じです。

弁証法などは、有(yuu)の論理であり、情(zyouu)としての無(mu)、否定としての無(mu)であり、思考の「 自由 」であるから、発生元であるエーテルを含む、気(ki)としての無(mu)で成立する事を必要とする。

それが「 科学 」であると思います。

気(ki)としての無(mu)は、否定しようが肯定しようが有(yuu)であり、エネルギーの段階の有(yuu)であり、因果や因縁の領域であると思います。

そこには、エネルギーを伴った否定は「 破壊 」ですし、エネルギーを伴った肯定は「 創造 」であり、これらが神(God)に委ねられるとは、エネルギーに委ねられることであり、頭脳の思考はエネルギーの産物であり、その頭脳から生まれた「 自由 」は、気(ki)の産物で神(God)の産物であるが、エネルギーを持たず、「 破壊 」も「 創造 」も出来ないという結論になります。

「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えます。

2014/5/11、私の考え

これは、フィクションです

以上に書いた、「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えるのは何故かを考えました。

私は、人間は、無意識に、個人のDNA情報を具現化するのだと思います。

「 あれかこれか 」の選択があるのは究極の不安定であり、この不安定を自分のDNA情報に合わせることを無意識にしている。

これが「 好み 」であると思います・

同一の人物や絵画や音楽などから、人それぞれに「 好み 」が分かれるのはDNA情報に合致した安定を求めることであり、この作用や機能を「 価値観 」というのだと思います。

「地球の引力や重力」と「月(Moon)の引力や重力」が違うように、個人の「 好み 」や「 価値観 」も違います。

人間は、気(ki)の無(mu)を知らず、従って真実の無(mu)や有(yuu)を知らず、大脳の判断として記憶による有(yuu)しか知らず、否定としての情(zyou)の無(mu)を「 自由 」と感じ、選択肢を否定して、肯定としての情(zyou)の有(yuu)を選んで安定することを、無意識に行動していると思います。

物事や事象は、気(ki)としての無(mu)や有(yuu)の「 必然 」の変化ですから、情(zyou)の無(mu)である「 自由 」の思考の中での変化と祖語が生じます。

物事は「 必然 」に進行し、その祖語が、DNA情報に帰属させた個人の「 責任 」となると思います。

人間は、エネルギーの領域、すなわち神(God)の領域で行為することは不可能で、エーテルや涅槃の状態で行為することは不可能で、情(zyou)の領域での行為が、エネルギーの領域の進行を代表する、すなわち、人格が行為に具現化するのであり、これは人間が避けることが出来ない「 悲しみ 」であることを意味すると思います。

個人は、個人が持つDNA情報を具現化するために「 生きている 」のであり、これが、必然的な「 宿命 」であると思います。

物事は「 必然 」に進行し、その祖語が、DNA情報に帰属させた個人の「 責任 」になるから、「 ストレス 」になり、この気(ki)の「 ストレス 」が情(zyou)である「 責任 」の意識であり、人間は無意識に、その道理を知っているから「 ストレス 」を感じるのであり、この「 ストレス 」もエネルギーの領域であることから、人格を具現化、あるいは創造する因縁の一つの要素だと思います。

「 責任 」の意識がなければ「 ストレス 」は感じず、人格形成もそこで終わっていると思います。

「 あれかこれか 」の選択があるのは究極の不安定であり、この不安定を自分のDNA情報に合わせることを無意識にしているのが「 好み 」であるなら、この「 好み 」と事象の進行との祖語が「 責任 」となると思います。

好き勝ってに行動するなら責任をとれ、というのが社会の常識でしょう。

でも、好き勝ってにしか行動することが出来ないのが「 人間 」であるかも知れません。

その裏には無知ゆえに行動する「 悲しみ 」があることも事実です。

考えているばかりでは、呼吸は出来ません。

思考の前に、行動があることは、人間の「 悲しみ 」であり「 自由 」という喜びであるかも知れません。

自分のDNA情報に修正した結果の事象との祖語は、「 責任 」として個人の「 負の財産 」として持つことが、善因善果、悪因悪果であると思います。0,
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2014年05月04日

2014/5/4、Realpayer Cloud とスマートフォン

久々に、Realplyerを更新してみました。
それが、大変な更新でした。
何と、Realplayer Cloud に変化しました。

@ 更新

パスワードを要求するなど、ダウンロードするなど、何か変だなと思いましたが、指示に従い更新(アップロード)しました。
すると、前述しましたように、Realplayer Cloud に変わりました。
困ったのが、Realplayer で、簡単にDVDへの書き込みが出来ていたのが、「 再生 」と「 PC&cloud ライブラリー 」と「 動画 」から選ぶしか方法がないので、「 PC&cloudライブラリー 」を選んでクリックし、「 CD/DVD」をクリックして、「 CDまたはDVDを挿入するか、ここをクリックしてCDへの書き込みを行ってください」という指示に従いクリックすると「 オーデオCDライター」が開き、「 ビデオディスクライター 」をクリックすると、書き込みに必要なソフトウェアーをインストールすることになり、私は会員でしたので、インストールして、書き込みが可能になりました。
ここまでは、普通の更新だと思い、DVDに書き込みが出来る状態で満足していました。
ところが、これからが、大いに違ったのです。

A Realplayer Cloud

Realplayer Clud とういう項目が出来て、何だろうとクリックしますと、クラウドの容量が「 2GB」まで無料で、動画をアップロードすれば、「 250MB 」追加され、iPoneやAndroidやKindleのRealplayer Cloud のアプリケーションでログインすると「 250MB 」追加されたり、フェイスブックなどで友達にRialplayer Cloud を紹介すると「 1GB」追加されますとの記事がありました。
ここで、やっと、スマートフォンとRealplayer Cloud が作られた意味がわかりました。
動画をRealplayer Cloud にアップロードしたのを、スマートフォンやiPoneで閲覧することが出来るのです。

B Realprayer Cloud とスマートフォン

スマートフォンでRealprayer Cloud のアプリケーションを探しましたら、Google Play で、無料のアプリケーションを発見し、インストールすることが出来ました。
私は、Realprayer ではなく、Realplayer Cloud をインストールしました。
あとは、普通のクラウドと同じで、スマートフォンでRialplayer Cloudのアプリケーションを開いて、サインインすれば、アップロードした動画を閲覧することが出来ます。

スマートフォンで動画をダウンロードして閲覧することに比べて、時間が短くて途切れることがなく、途中で止めても、止めたところから閲覧することが出来て、多分、ウイルスの心配もなく安心して閲覧することが出来ると思います。
クラウドで保存した「 2GB 」の動画を、少ないスマートフォンの容量で閲覧することが出来るし、アップロードもパソコンや他の記憶媒体に保存したファイルを「 右クリック 」して「 Realplayer Cloud にアップロード 」をクリックすれば簡単に可能だし、アップロードした動画も「 右クリック 」で簡単に消去することが出来ます。
スマートフォンでRialplayer Cloudのアプリケーションを開いて、サインインすれば、アップロードした「 2GB 」の動画を閲覧することが出来ることだけでも喜ばしいことだと思います。


経営と所有、あるいは機能と保存を分けたような感じで、私の気(ki)と情(zyou)を分けて考えることと似ていると思います。
また、私は、無線LANを使っていますから、室内ではスマートフォンで、クラウドにアップロードしていないパソコンで保存するMP4形式のビデオも閲覧することが出来ることを付け加えておきます。
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2014年04月27日

2014/4/27、オカルト・エーテル考26・自由と破壊と創造

2014/4/13、私の記事

これは、フィクションです。

無(mu)は、絶対無のように考えますが、そのような「 否定 」は情(zyou)である意識(大脳)で考えるのであり、過去の記憶から否定と考えるでしょうが、気(ki)としての絶対無はないと思います。

大脳の情(zyou)でエーテルを否定しても、小脳では気(ki)であるエーテルを必須としている。

人間は無(mu)も有(yuu)も証明することは出来ず、情(zyou)では判断することが出来ず、ただ無(mu)を否定と考えるしか方法はないが、実際はすべてが有(yuu)であり、気(ki)としての無(mu)は有(yuu)であり、それがエーテルであると考えます。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると規定します。
………(中略)……
「 自由 」と「 必然 」は言葉の遊びではなく、無(mu)を否定と考えるのか、あるいは情(zyou)である意識で把握することが出来ない、気(ki)としての実有(zitsuyuu)を認めるかの問題だと思います。

空気と判別することが出来ないエーテルがあるように、情(zyu)では判別する事が出来ない実有(zitsuyuu)が有るから、「 存在 」という意識が生じると思います。

私は「 存在 」とは意識であり、意識から離れた「 存在 」は無(mu)であり、実有(zitsuyuu)であるエーテルであり、それが、「 存在意識 」を生じさせ、エネルギー(神)を伝達するのだと考えています。

宇宙の構造は理解できませんが、エネルギー(神)の身体であるエーテルは宇宙に満ちていると思います。

そのエーテルが、人間の思考の中に存在しないことが、人間の悲しみだと思います。

そのエーテルを無(mu)という否定の意味、あるいは「 自由 」という意味に考えるのが人間の思考。


2014/4/20、私の記事

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」は、無(mu)を否定と考え、「 人間の悲しみ 」であると考えると、知らないという無知、自分の立つ位置が不明である無明、すべての変化を把握できない無常、などは「 自由 」から生まれる「 人間の悲しみ 」であるが、その「 自由 」は、存在論的には有(yuu)の選択であり、否定する「 自由 」で気(ki)としての無(mu)を消すことは出来ないと思います。

自殺で自分を否定することは出来るが、自殺も有(yuu)の選択であり、自分を無(mu)にすることは出来ないので、身体を持たない霊やエーテルとして続けるかも知れず、現実逃避であることは明白であると思います。

それは、空気を抜いても真空を満たすエーテルが消えないのと同じです。

弁証法などは、有(yuu)の論理であり、情(zyouu)としての無(mu)、否定としての無(mu)であり、思考の「 自由 」であるから、発生元であるエーテルを含む、気(ki)としての無(mu)で成立する事を必要とする。

それが「 科学 」であると思います。

気(ki)としての無(mu)は、否定しようが肯定しようが有(yuu)であり、エネルギーの段階の有(yuu)であり、因果や因縁の領域であると思います。

そこには、エネルギーを伴った否定は「 破壊 」ですし、エネルギーを伴った肯定は「 創造 」であり、これらが神(God)に委ねられるとは、エネルギーに委ねられることであり、頭脳の思考はエネルギーの産物であり、その頭脳から生まれた「 自由 」は、気(ki)の産物で神(God)の産物であるが、エネルギーを持たず、「 破壊 」も「 創造 」も出来ないという結論になります。

「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えます。

「 必然 」は因果の領域、エネルギーの領域、神(God)の領域であり、「 創造 」も「 破壊 」も包摂し、否定としての「 自由 」を包摂すると考えます。

2014/4/27、私の考え

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」と「 必然 」と「 破壊 」と「 創造 」は、無(mu)を介在することにより、リンクしていると思います。

「 自由 」は無(mu)ですが、気としての無(mu)ではなく、情(zyou)として、記憶で考える無(mu)であり、「 破壊 」や「 創造 」が「 自由 」によって可能なのは、それぞれ、情(zyou)としての「 破壊 」や「 創造 」であり、目で見える物の範囲に限られ、気(ki)としての「 破壊 」や「 創造 」は「 自由 」ではなく「 必然 」であると思います。

「 形ある物 」の破壊や創造は可能ですが、「 形が無い 」破壊や創造は、人間の目には「 無常 」や「 無明 」と現前し、人知が及ばない「 エネルギーの変化 」であり、神(God)の領域だと思います。

前者は、記憶による大脳の範囲であるのに対し、後者は大脳を機能させるエネルギーの範囲ですから、「 自由 」によう否定も肯定も後者に包摂され、前者の無(mu)は「 自由 」による否定であり、破壊であり、他の物の存在の肯定であり、後者の気(ki)としての無(mu)を選択することは出来ず、破壊も肯定もできず、空気を抜いても真空があるように、有(yuu)の形態を変えるだけだと思います。

真空自体も無(mu)ではなく、無(mu)と考えるのは、エーテルを含まない思考の中の「 否定 」であり、真空状態の有(yuu)が、人の死後も残る永遠の有(yuu)であるのかも知れません。

無(mu)を知らず、「 破壊 」も「 創造 」もできない人間が、無(mu)になることは出来ません。

「 破壊 」や「 創造 」ではなく「 変化 」しか許されないのが「 人間の悲しみ 」だと思います。

「 自由 」や「 破壊 」や「 創造 」を欠いて人は生活することは出来ませんが、これは形ある物を「 否定する自由 」であることを考えるべきだと思います。

生物的には新陳代謝でしょうし、社会的には世論や価値観の変化だと思います。

この「 自由 」と「 破壊 」と「 創造 」は、「 心 」の問題にもあてはまるように思います。

なぜなら、「 心 」は無意識(muisiki)であり、情(zyou)や気(ki)の無(mu)と結びつき、その両方から影響されるが、「 心 」が変化しても、無(mu)になることは無いと思います。

例えば、金銭の力により結婚したとしても、彼女の「 心 」を奪っても、無(mu)にすることは出来ず、金銭で離婚の清算をしても、「 心 」が結婚前の無(mu)に戻ることは出来ません。

「 無心 」(musin)と言いますが、これは「 心 」をは何かに集中していることで、「 心 」が無(mu)になったとしても、それは頭の中のエーテルがない否定の無(mu)であり、徹底的に否定しても、気(ki)の無(mu)は依然としてあるのです。

人が死んでも、無(mu)になることは無く、「 心 」や魂というエネルギーは保存法則に従い、エーテルの中のエネルギーとして宇宙のどこかに保存されるかも知れません。

私が「 輪廻転生 」と言うのも、この残存する生命エネルギーが生物の中で循環すると思うからです。

そのエネルギーは数億光年も先にあるのか、極楽にあるのか地獄にあるのか、あるいは吸い込む呼吸の中にあるのかは知りませんが、必要なとき、必要な生物に、魂が憑依するのだと思います。
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2014年04月20日

2014/4/20、オカルト・エーテル考25.破壊と創造

2014/4/13、私の記事

これは、フィクションです。

無(mu)は、絶対無のように考えますが、そのような「 否定 」は情(zyou)である意識(大脳)で考えるのであり、過去の記憶から否定と考えるでしょうが、気(ki)としての絶対無はないと思います。

大脳の情(zyou)でエーテルを否定しても、小脳では気(ki)であるエーテルを必須としている。

人間は無(mu)も有(yuu)も証明することは出来ず、情(zyou)では判断することが出来ず、ただ無(mu)を否定と考えるしか方法はないが、実際はすべてが有(yuu)であり、気(ki)としての無(mu)は有(yuu)であり、それがエーテルであると考えます。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると規定します。

「 自由 」には「 責任 」が有ると申します。

{ 自由 」と「 必然 」と申します。

これらは、何でしょうか?

人間の思考は否定する「 自由 」があるが、エーテルが欠如していて、エーテルが無いから「 責任 」があるのだと思います。

もしも、思考がエーテルを所持し、「 必然 」の行為をすれば、「 宿命 」や「 運命 」であり、「 責任 」は考えなくても良いのだと思います。

人間の思考で無(mu)を否定と考えることが出来て、それが「 自由 」であるが、エーテルという実有を考えていないから、実有であり必然であるエーテルを含んだ「 必然 」が構成する「 責任 」を社会的に負わされていると考えます。

「 自由 」と「 必然 」は言葉の遊びではなく、無(mu)を否定と考えるのか、あるいは情(zyou)である意識で把握することが出来ない、気(ki)としての実有(zitsuyuu)を認めるかの問題だと思います。

空気と判別することが出来ないエーテルがあるように、情(zyu)では判別する事が出来ない実有(zitsuyuu)が有るから、「 存在 」という意識が生じると思います。

私は「 存在 」とは意識であり、意識から離れた「 存在 」は無(mu)であり、実有(zitsuyuu)であるエーテルであり、それが、「 存在意識 」を生じさせ、エネルギー(神)を伝達するのだと考えています。

宇宙の構造は理解できませんが、エネルギー(神)の身体であるエーテルは宇宙に満ちていると思います。

そのエーテルが、人間の思考の中に存在しないことが、人間の悲しみだと思います。

そのエーテルを無(mu)という否定の意味、あるいは「 自由 」という意味に考えるのが人間の思考。

そんな思考を所持していることが、人間の悲しみだと思います。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると否定する人間の悲しみ。

死んだら終わりと考える悲しみ。

それが、無知や無明や無常という表現になるのだと思います

2014/4/20、私の考え

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」は、無(mu)を否定と考え、「 人間の悲しみ 」であると考えると、知らないという無知、自分の立つ位置が不明である無明、すべての変化を把握できない無常、などは「 自由 」から生まれる「 人間の悲しみ 」であるが、その「 自由 」は、存在論的には有(yuu)の選択であり、否定する「 自由 」で気(ki)としての無(mu)を消すことは出来ないと思います。

自殺で自分を否定することは出来るが、自殺も有(yuu)の選択であり、自分を無(mu)にすることは出来ないので、身体を持たない霊やエーテルとして続けるかも知れず、現実逃避であることは明白であると思います。

それは、空気を抜いても真空を満たすエーテルが消えないのと同じです。

弁証法などは、有(yuu)の論理であり、情(zyouu)としての無(mu)、否定としての無(mu)であり、思考の「 自由 」であるから、発生元であるエーテルを含む、気(ki)としての無(mu)で成立する事を必要とする。

それが「 科学 」であると思います。

気(ki)としての無(mu)は、否定しようが肯定しようが有(yuu)であり、エネルギーの段階の有(yuu)であり、因果や因縁の領域であると思います。

そこには、エネルギーを伴った否定は「 破壊 」ですし、エネルギーを伴った肯定は「 創造 」であり、これらが神(God)に委ねられるとは、エネルギーに委ねられることであり、頭脳の思考はエネルギーの産物であり、その頭脳から生まれた「 自由 」は、気(ki)の産物で神(God)の産物であるが、エネルギーを持たず、「 破壊 」も「 創造 」も出来ないという結論になります。

「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えます。

「 必然 」は因果の領域、エネルギーの領域、神(God)の領域であり、「 創造 」も「 破壊 」も包摂し、否定としての「 自由 」を包摂すると考えます。

「 必然 」は運命であり宿命であり、神(God)の領域ですから、「 自由 」の及ぶところではなく、地球が宇宙のエーテルに包まれているように、「 自由 」も「 一つの契機 」として含まれ、それが縁(en)であると思います。

結婚は、地縁(chen)や血縁(ketsuen)などの縁(en)で成立します。

本人たちが、恋することも縁(en)、相思相愛も縁(en)ですが、経済状態や血縁者の反対が無いことも縁(en)であり、すべてが整ったとき良縁(ryouen)となり、結婚するのだと思います。

その縁(en)が欠けても強行して結婚したとき、その人の本性に任せて縁(en)を否定し、「 自由 」に行為したのですから、「 責任 」は当事者が負うことになります。

このように結婚は縁(en)で決まりますから、「 破壊 」や「 創造 」や縁(en)の領域である神(God)の前で婚姻するのだと思います。

善因善果、悪因悪果というように、良縁(ryouen)であれば末永く婚姻状態が続くでしょうし、縁(en)に欠陥があれば。離婚、離縁(rien)になるでしょう。
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2014年04月13日

2014/4/13、オカルト・エーテル考24・存在の謎と自由と必然

2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。

2014/4/13、私の考え

これは、フィクションです。

無(mu)は、絶対無のように考えますが、そのような「 否定 」は情(zyou)である意識(大脳)で考えるのであり、過去の記憶から否定と考えるでしょうが、気(ki)としての絶対無はないと思います。

大脳の情(zyou)でエーテルを否定しても、小脳では気(ki)であるエーテルを必須としている。

人間は無(mu)も有(yuu)も証明することは出来ず、情(zyou)では判断することが出来ず、ただ無(mu)を否定と考えるしか方法はないが、実際はすべてが有(yuu)であり、気(ki)としての無(mu)は有(yuu)であり、それがエーテルであると考えます。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると規定します。

「 自由 」には「 責任 」が有ると申します。

{ 自由 」と「 必然 」と申します。

これらは、何でしょうか?

人間の思考は否定する「 自由 」があるが、エーテルが欠如していて、エーテルが無いから「 責任 」があるのだと思います。

もしも、思考がエーテルを所持し、「 必然 」の行為をすれば、「 宿命 」や「 運命 」であり、「 責任 」は考えなくても良いのだと思います。

人間の思考で無(mu)を否定と考えることが出来て、それが「 自由 」であるが、エーテルという実有を考えていないから、実有であり必然であるエーテルを含んだ「 必然 」が構成する「 責任 」を社会的に負わされていると考えます。

「 自由 」と「 必然 」は言葉の遊びではなく、無(mu)を否定と考えるのか、あるいは情(zyou)である意識で把握することが出来ない、気(ki)としての実有(zitsuyuu)を認めるかの問題だと思います。

空気と判別することが出来ないエーテルがあるように、情(zyu)では判別する事が出来ない実有(zitsuyuu)が有るから、「 存在 」という意識が生じると思います。

私は「 存在 」とは意識であり、意識から離れた「 存在 」は無(mu)であり、実有(zitsuyuu)であるエーテルであり、それが、「 存在意識 」を生じさせ、エネルギー(神)を伝達するのだと考えています。

宇宙の構造は理解できませんが、エネルギー(神)の身体であるエーテルは宇宙に満ちていると思います。

そのエーテルが、人間の思考の中に存在しないことが、人間の悲しみだと思います。

そのエーテルを無(mu)という否定の意味、あるいは「 自由 」という意味に考えるのが人間の思考。

そんな思考を所持していることが、人間の悲しみだと思います。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると否定する人間の悲しみ。

死んだら終わりと考える悲しみ。

それが、無知や無明や無常という表現になるのだと思います。
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2014年04月06日

2014/4/6、オカルト・エーテル考23・エネルギー

これは、フィクションです。

これまで書いて来たことを、そのまま要約する自信はありませんが、思いつくことを書いておきます。

自我を考えるとき、変わらない自我と絶えず変化する人体があり、人体は宇宙の一部であり、宇宙に連続すると考えました。
自我とは意識であり、その下には無意識があると考え、時間や空間は意識であり、電磁波の構造だと考えました。
しかし、その後、意識と無意識は、まったく別物で、無意識はエーテルの中のエネルギーを感じて「 力 」として働き、意識はエーテルを感じることは出来ず、合理性だけを追求し、エーテルは「 無 」と規定すると考えました。
時間や空間は意識として、「 合理的 」に存在し、この「 存在 」も意識であると考えました。
存在物は素粒子でしょうが、それは「 弦 」の集合であり、「 弦 」という形態がエネルギーを運ぶ形態であり、意識は説明できないと思います。
無意識(muisiki)は意識から見れば「 無(mu) 」であると思います。
ところが、無意識(muisiki)が感じる「 エーテル 」や「 エネルギー 」こそが人体と宇宙を結び、連続するものだと考えました。
意識としての時間や空間は合理的ですが、エーテルやエネルギーの時間や空間は、合理的ではなく、「 無(mu) 」であると考えるのだと思います。
あとで考えたのですが、宇宙を満たすエーテルが神の身体である法身(hotsusin)であり、エネルギーが神であり、人体の中では「 気(ki」として現れ、宇宙と連続するのに対し、意識は神が変化した情(zyou)なのですが、意識を生むエーテルやエネルギーを合理的に説明することは出来ず、ストレスや快感などとしか説明するしかなく、その原因は意識は記憶から生まれることだと思います。
時間意識や空間意識は記憶から生まれた感情である情(zyou)であり、時間は記憶ですが、記憶を生む「 空間 」であるエーテルは未だに解明できていないと思います。
この、エーテルやエネルギー、即ち神を解明するのは、宗教という情(zyou)ではなく、科学という数式だと思います。
数式は情(zyou)ではないからです。
そして、ゴーギャン考のところでも書きましたように、人間は無明(mumyou)から生まれ無明に消えていくと考え、無明や無常(muzyou)は何かを考えました。
そこから、「 無(mu) 」は意識の中だけにあり、宇宙はすべて「 有(yuu)」であり、エネルギー保存の法則があるように、神と神の身体はどんな変化があっても、保存されると思います。
その結果、「 死んだら終わり 」ではなく、「 死んでも有り続け、保存される 」から、自殺は現状からの逃避であり、「 無(mu) 」にはならないということです。
「 無明(mumyu) 」は「 何かが有る 」状態であり、「 無(mu) 」にはならないと考えます。
死んだら、人体は崩壊し、エネルギーとエーテルになるでしょうが、エーテルを、科学で考えるように「 無(mu) 」であると考えますと「 死んだら終わり 」であり、間違いだと思います。
エーテルを「 有(yuu)」と考え、宇宙のすべてが「 有(yuu)」であり、呼吸する空気と共にエーテルも人体の中に取り込んでいるのであり、その空気の中のエーテルは数億光年も先と連続し、神は数億光年から人体まで連続していることになります。
そうすることにより、子どもたちに「 死んだらお星さまになる 」とか「 死んだら、あなたのそばで、見守ってあげる 」ということも、真実になるのだと思います。
この、エネルギーは気(ki)であり、生気論(seikiron)に繋がり、プラズマ宇宙論に繋がり、プラズマが神ではないかと考えています。
その意味で、神、すなわち気(ki)の前で平等であり、情(zyou)である宗教の神の前で平等とは書きません。
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2014年04月05日

2014/4/5、快挙、リトルなでしこW杯で初優勝

リトルなでしこがU−17女子W杯で初優勝…6戦全勝で23得点1失点

 コスタリカで開催されているU−17女子ワールドカップの決勝が4日に行われ、U−17女子日本代表とU−17女子スペイン代表が対戦した。

....................
テレビで見ていました。
前半で1点、後半で1点を挙げたのですが、苦しい試合だったと思います。
日本はパスが多いのに対して、スペインはドリブルが上手でした。
スペインは、ロングパスで日本を攻めようとしたそうですが、逆に、日本がロングパスで勝機を掴んだと思います。
日本から離れて一か月だと言います。
よく頑張りました。
これから、さらに成長して、オリンピックに出場する「 なでしこジャパン 」のメンバーの一員になってほしいと思います。

U−17、ワールドカップ初優勝、おめでとう。
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2014年03月23日

箱根旅行と富士山

これは、私です。
息子が撮ってくれました。

P1000329.JPG




私の退職記念の旅行先に、箱根を選んだのですが、これは私にとっては、二度目の箱根と富士山でした。

最初は、高校の修学旅行で、同じく、箱根の駒ヶ岳を訪れたのですが、その時は夕方でして、山頂に着いたとき富士山を見ましたら、真っ赤な夕日の中に黒々とした富士山で、富士山の方向から冷たい風が吹いて来ました。

その時は「 なんと怖い山だ 」というのが富士山の印象で、人を寄せ付けない厳しい富士山だったのを覚えています。

「 赤富士は縁起が良い 」と言いますが、私が見たのは、真っ赤な夕日の中の黒い富士山で、「 赤富士 」と言えば黒い富士山の強烈な思い出が浮かび、もう二度とここに来ることは無いだろうと思いました。

ところが、時は巡って退職のとき、妻や息子に富士山を見せようと、箱根に来たとき、すでに公開したような富士山を見ることが出来たのです。

それは、私の誤解を解くかのように、素晴らしく大きく美しい富士山で、私に写真を撮ってくれと要求するモデルのような気がしまして、何枚かの写真を撮ることが出来ました。

私が望むのは、修学旅行で箱根の富士山を見た高校生や中学生が、富士山はいかに大きく素晴らしく美しいのかという印象を持ってほしいことです。

間違っても、私のように、怖い富士山という印象を持たないように。



「 箱根旅行と富士山 」forkN が写真集です。

http://forkn.jp/book/7411/


「 箱根旅行と富士山 U」forkN もあります
     ↓
http://forkn.jp/book/7479/
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2014年03月21日

城崎温泉と城崎マリンワールド forkN

本日、「 城崎温泉と城崎マリンワールド 」forkN を公開しました。
     ↓
http://forkn.jp/book/7459/

ブログで公開した写真です。
無料ですので、見てやってください。
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2014年03月16日

2014/3/16、オカルト・エーテル考22・価値観と満足感5

2014/3/1、私の記事

これは、フィクションです

これまで書いて来たことを振り返りますと、意識は電磁波の構造を持ち、電場はエネルギーの領域で「 空間意識 」であり、磁場は精神の領域であり、「 時間意識 」であると思います。

時間や空間は、「 今、ここ 」を超越するエーテルであり、意識の中では、無(mu)あるいは有(yuu)を把握することが不能であり、無(mu)をエネルギー(電場)で区切って実体化し、具現化したのが「 空間意識 」で、精神(磁場)で区切って実体化し、具現化したのが「 時間意識 」と考えます。

無(mu)は、エーテルであり、法身(hotsusin)の無(mu)を媒介にして、宇宙からのエネルギーがストレスとして体内に摂取され、その飽和点が「 満足感 」であり、その一定の「 定在波 」が「 人格 」として、行為となって外部に具現化すると思います。

「 定在波 」である「 人間関係 」に「 価値観 」という精神が満足したのが「 六道 」の人間であると思います。

満足感は「 六道 」の一つの「 定在波 」であり、他の「 定在波 」に乗り換えたいと思うとき、「 価値観 」の変化が必要であると思います。

例えば、タバコの喫煙や大麻の喫煙の習慣や人間関係から逃れる行為をするとき、「 価値観 」の変化が求められます。

2014/3/2、私の記事

これは、フィクションです。

情(zyou)は、地球、国家、地域、社会、DNAなどにより、相違しますが、意識の構造を、以上のように考えたとき、情(zyou)についても、「 満足感 」と「 価値観 」で考えることにします。

「 満足感 」は、「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」などのベクトルやストレスや「 感情 」や感性であり、電場、つまり空間のエネルギーや「 小脳 」に関係すると考えます。

「 価値観 」は、「 満足感 」を選択する基準であり、精神、磁場、記憶などの大脳に関連し、時間意識に関係すると思います。

「 電場 」は、共通のエネルギーであるのに対し、「 磁場 」は「 テンソル計算 」でもわかるように、一定の磁場は無いと思います。

「 満足感 」は自己中心的で動物的であるのに対し、「 価値観 」は社会的で精神的であると思います。

それゆえに、「 満足感 」の「 教育 」は必要でないのに対し、「 価値観 」は万人が相違するため、「 教育 」が必要であると思います。

「 満足感 」や感性などは、「 感じるもの 」であり、「 感受性 」の問題であるのに対し、「 価値観 」や精神は「 思考するもの 」であり、「 記憶 」の問題で、前者は「 エーテル 」を含む無意識(muisiki)であり、後者は、「 エーテル 」を無視する意識(無(mu)という記憶は無い)に特有のものだと思います。

これらは、電磁波のごとく、繰り返して意識に惹起し、意識が無意識から生じるように思いますが、実際は領域が違い、無意識から意識が生じると思うのは、意識も無意識も、「 心 」や「 行為 」から生じるからだと思います。

その「 電磁波 」の「 定在波 」が、満足し安心した軌道であり、心が生む行為であり、「 人格 」であることは、以前に述べました。

2014/3/16、私の考え

これは、フィクションです。

このように、「 意識 」を電磁波の構造と捉え、電場を気(ki)であるエネルギーや空間意識、磁場を情(zyou)である思考や価値観や時間意識と考え、電場が小脳、磁場が大脳が担当し、この妥協点が「 行為 」や「 人格 」と考えると、愛情や憎悪が際限なく進むのは、電磁波が進むことと同じだと思います。

それは、次のようになると思います。

「 好き 」や「 嫌い 」というエネルギーが小脳で「 満足感 」を感じ「 人格 」が形成された後、大脳で、この「 満足感 」を否定して「 もっと好き 」や「 もっと嫌い 」を増幅させ、それに対応した「 価値観 」を形成し、その後、小脳で、現状に対しストレスというエネルギーを形成し、「 自然界 」には存在しない、愛情や憎悪が増幅することになると思います。

愛情や憎悪の増幅を止めるのは、行為や人格として「 具現化 」することではなく、電磁波を逆に進めることだと思います。

電場、つまり好き嫌いという気(ki)である感情や感性を止めると、小脳が「 満足感 」を感じず、ストレスを感じて病気になるから、情(zyou)を変化させることであり、情(zyou)とは思考であり悟性であるから、記憶の考え方を変化させることであり、社会通念や価値観を変化させること、つまり「 相手の愚行を許すこと 」で、電磁波であり意識の進行方向を逆にすることが出来ると思います。

嫌いだから「 ヘイトスピーチ 」を発するのではなく、相手の行動の価値観を許すことが必要で、それは相手の言うとうりに「 行為 」して妥協点(人格や政策決定)をつくるのではなく、地球の重力(価値観)と月の重力(価値観)が違い、それによって行為が違うように、本来は妥協が無く、相手の価値観を変えることは戦争など強制を必要としますが、自分の価値観を変えることは可能であり、「 価値観を変えましたよ 」と相手に告知することにより、地球から月に移動したことを、相手が持つ価値観を自覚させ、相手の価値観を変えることが出来るかも知れないと考えます。

これは、愛情や憎悪一般に適用し、個人対個人、国家対国家、に適用が可能であり、両者の思考や悟性を強化する「 教育 」を改善することが、「 政治 」だと思います。

個人は「 教育 」が出来ないから、個人のDNAの働きによる「 人格の向上 」に期待するしかないでしょう。

愛情や憎悪が進行するのは、意識に電磁波的な構造が原因であり、仏教では「 苦 」であり、思いどうりに進行しないのは、大脳で「 無(mu)」を否定と考え、「 無(mu)の存在であるエーテルや無意識(muisiki)の存在 」を考えないことであり、小脳の「 生命に関する満足感の可能性 」を考えないこと、「 相手がどのように生きて満足するのか 」を考えないことだと思います。

生命の関する満足感の可能性とは、動物同士の「 思いやり 」や「 譲り合い 」の「 精神 」であると考えます。

それは、その困った現場を脱するだけの妥協ではなく、私も必要だが、私が必要とするものを贈呈するという「 布施 」であり、相手に屈することでないことも、相手に理解させることが必要であると思います。

「 布施 」の概念は「 精神 」ですから教育することは可能であると思います。
posted by kandk55 at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 44 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月13日

箱根旅行と富士山 forkN ・近所の桜 forkN


ここで、私の電子書籍の閲覧状況を確認したいと思います。

箱根旅行と富士山 forkN
   ↓
http://forkn.jp/book/7411/



近所の桜 forkN
   ↓
http://forkn.jp/book/7403/

追加しました。
「 城崎温泉と城崎マリンワールド 」forkN

http://forkn.jp/book/7459/

追加しました「 箱根旅行と富士山U 」forkN

http://forkn.jp/book/7479/
posted by kandk55 at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 電子書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月10日

2014/3/10、箱根旅行と富士山


電子書籍「 箱根旅行と富士山 」です。
ブログで公開した写真です。
      ↓
http://forkn.jp/book/7411/page/1

無料です。
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