2014年04月13日

2014/4/13、オカルト・エーテル考24・存在の謎と自由と必然

2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。

2014/4/13、私の考え

これは、フィクションです。

無(mu)は、絶対無のように考えますが、そのような「 否定 」は情(zyou)である意識(大脳)で考えるのであり、過去の記憶から否定と考えるでしょうが、気(ki)としての絶対無はないと思います。

大脳の情(zyou)でエーテルを否定しても、小脳では気(ki)であるエーテルを必須としている。

人間は無(mu)も有(yuu)も証明することは出来ず、情(zyou)では判断することが出来ず、ただ無(mu)を否定と考えるしか方法はないが、実際はすべてが有(yuu)であり、気(ki)としての無(mu)は有(yuu)であり、それがエーテルであると考えます。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると規定します。

「 自由 」には「 責任 」が有ると申します。

{ 自由 」と「 必然 」と申します。

これらは、何でしょうか?

人間の思考は否定する「 自由 」があるが、エーテルが欠如していて、エーテルが無いから「 責任 」があるのだと思います。

もしも、思考がエーテルを所持し、「 必然 」の行為をすれば、「 宿命 」や「 運命 」であり、「 責任 」は考えなくても良いのだと思います。

人間の思考で無(mu)を否定と考えることが出来て、それが「 自由 」であるが、エーテルという実有を考えていないから、実有であり必然であるエーテルを含んだ「 必然 」が構成する「 責任 」を社会的に負わされていると考えます。

「 自由 」と「 必然 」は言葉の遊びではなく、無(mu)を否定と考えるのか、あるいは情(zyou)である意識で把握することが出来ない、気(ki)としての実有(zitsuyuu)を認めるかの問題だと思います。

空気と判別することが出来ないエーテルがあるように、情(zyu)では判別する事が出来ない実有(zitsuyuu)が有るから、「 存在 」という意識が生じると思います。

私は「 存在 」とは意識であり、意識から離れた「 存在 」は無(mu)であり、実有(zitsuyuu)であるエーテルであり、それが、「 存在意識 」を生じさせ、エネルギー(神)を伝達するのだと考えています。

宇宙の構造は理解できませんが、エネルギー(神)の身体であるエーテルは宇宙に満ちていると思います。

そのエーテルが、人間の思考の中に存在しないことが、人間の悲しみだと思います。

そのエーテルを無(mu)という否定の意味、あるいは「 自由 」という意味に考えるのが人間の思考。

そんな思考を所持していることが、人間の悲しみだと思います。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると否定する人間の悲しみ。

死んだら終わりと考える悲しみ。

それが、無知や無明や無常という表現になるのだと思います。
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2014年04月06日

2014/4/6、オカルト・エーテル考23・エネルギー

これは、フィクションです。

これまで書いて来たことを、そのまま要約する自信はありませんが、思いつくことを書いておきます。

自我を考えるとき、変わらない自我と絶えず変化する人体があり、人体は宇宙の一部であり、宇宙に連続すると考えました。
自我とは意識であり、その下には無意識があると考え、時間や空間は意識であり、電磁波の構造だと考えました。
しかし、その後、意識と無意識は、まったく別物で、無意識はエーテルの中のエネルギーを感じて「 力 」として働き、意識はエーテルを感じることは出来ず、合理性だけを追求し、エーテルは「 無 」と規定すると考えました。
時間や空間は意識として、「 合理的 」に存在し、この「 存在 」も意識であると考えました。
存在物は素粒子でしょうが、それは「 弦 」の集合であり、「 弦 」という形態がエネルギーを運ぶ形態であり、意識は説明できないと思います。
無意識(muisiki)は意識から見れば「 無(mu) 」であると思います。
ところが、無意識(muisiki)が感じる「 エーテル 」や「 エネルギー 」こそが人体と宇宙を結び、連続するものだと考えました。
意識としての時間や空間は合理的ですが、エーテルやエネルギーの時間や空間は、合理的ではなく、「 無(mu) 」であると考えるのだと思います。
あとで考えたのですが、宇宙を満たすエーテルが神の身体である法身(hotsusin)であり、エネルギーが神であり、人体の中では「 気(ki」として現れ、宇宙と連続するのに対し、意識は神が変化した情(zyou)なのですが、意識を生むエーテルやエネルギーを合理的に説明することは出来ず、ストレスや快感などとしか説明するしかなく、その原因は意識は記憶から生まれることだと思います。
時間意識や空間意識は記憶から生まれた感情である情(zyou)であり、時間は記憶ですが、記憶を生む「 空間 」であるエーテルは未だに解明できていないと思います。
この、エーテルやエネルギー、即ち神を解明するのは、宗教という情(zyou)ではなく、科学という数式だと思います。
数式は情(zyou)ではないからです。
そして、ゴーギャン考のところでも書きましたように、人間は無明(mumyou)から生まれ無明に消えていくと考え、無明や無常(muzyou)は何かを考えました。
そこから、「 無(mu) 」は意識の中だけにあり、宇宙はすべて「 有(yuu)」であり、エネルギー保存の法則があるように、神と神の身体はどんな変化があっても、保存されると思います。
その結果、「 死んだら終わり 」ではなく、「 死んでも有り続け、保存される 」から、自殺は現状からの逃避であり、「 無(mu) 」にはならないということです。
「 無明(mumyu) 」は「 何かが有る 」状態であり、「 無(mu) 」にはならないと考えます。
死んだら、人体は崩壊し、エネルギーとエーテルになるでしょうが、エーテルを、科学で考えるように「 無(mu) 」であると考えますと「 死んだら終わり 」であり、間違いだと思います。
エーテルを「 有(yuu)」と考え、宇宙のすべてが「 有(yuu)」であり、呼吸する空気と共にエーテルも人体の中に取り込んでいるのであり、その空気の中のエーテルは数億光年も先と連続し、神は数億光年から人体まで連続していることになります。
そうすることにより、子どもたちに「 死んだらお星さまになる 」とか「 死んだら、あなたのそばで、見守ってあげる 」ということも、真実になるのだと思います。
この、エネルギーは気(ki)であり、生気論(seikiron)に繋がり、プラズマ宇宙論に繋がり、プラズマが神ではないかと考えています。
その意味で、神、すなわち気(ki)の前で平等であり、情(zyou)である宗教の神の前で平等とは書きません。
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2014年04月05日

2014/4/5、快挙、リトルなでしこW杯で初優勝

リトルなでしこがU−17女子W杯で初優勝…6戦全勝で23得点1失点

 コスタリカで開催されているU−17女子ワールドカップの決勝が4日に行われ、U−17女子日本代表とU−17女子スペイン代表が対戦した。

....................
テレビで見ていました。
前半で1点、後半で1点を挙げたのですが、苦しい試合だったと思います。
日本はパスが多いのに対して、スペインはドリブルが上手でした。
スペインは、ロングパスで日本を攻めようとしたそうですが、逆に、日本がロングパスで勝機を掴んだと思います。
日本から離れて一か月だと言います。
よく頑張りました。
これから、さらに成長して、オリンピックに出場する「 なでしこジャパン 」のメンバーの一員になってほしいと思います。

U−17、ワールドカップ初優勝、おめでとう。
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2014年03月23日

箱根旅行と富士山

これは、私です。
息子が撮ってくれました。

P1000329.JPG




私の退職記念の旅行先に、箱根を選んだのですが、これは私にとっては、二度目の箱根と富士山でした。

最初は、高校の修学旅行で、同じく、箱根の駒ヶ岳を訪れたのですが、その時は夕方でして、山頂に着いたとき富士山を見ましたら、真っ赤な夕日の中に黒々とした富士山で、富士山の方向から冷たい風が吹いて来ました。

その時は「 なんと怖い山だ 」というのが富士山の印象で、人を寄せ付けない厳しい富士山だったのを覚えています。

「 赤富士は縁起が良い 」と言いますが、私が見たのは、真っ赤な夕日の中の黒い富士山で、「 赤富士 」と言えば黒い富士山の強烈な思い出が浮かび、もう二度とここに来ることは無いだろうと思いました。

ところが、時は巡って退職のとき、妻や息子に富士山を見せようと、箱根に来たとき、すでに公開したような富士山を見ることが出来たのです。

それは、私の誤解を解くかのように、素晴らしく大きく美しい富士山で、私に写真を撮ってくれと要求するモデルのような気がしまして、何枚かの写真を撮ることが出来ました。

私が望むのは、修学旅行で箱根の富士山を見た高校生や中学生が、富士山はいかに大きく素晴らしく美しいのかという印象を持ってほしいことです。

間違っても、私のように、怖い富士山という印象を持たないように。



「 箱根旅行と富士山 」forkN が写真集です。

http://forkn.jp/book/7411/


「 箱根旅行と富士山 U」forkN もあります
     ↓
http://forkn.jp/book/7479/
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2014年03月21日

城崎温泉と城崎マリンワールド forkN

本日、「 城崎温泉と城崎マリンワールド 」forkN を公開しました。
     ↓
http://forkn.jp/book/7459/

ブログで公開した写真です。
無料ですので、見てやってください。
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2014年03月16日

2014/3/16、オカルト・エーテル考22・価値観と満足感5

2014/3/1、私の記事

これは、フィクションです

これまで書いて来たことを振り返りますと、意識は電磁波の構造を持ち、電場はエネルギーの領域で「 空間意識 」であり、磁場は精神の領域であり、「 時間意識 」であると思います。

時間や空間は、「 今、ここ 」を超越するエーテルであり、意識の中では、無(mu)あるいは有(yuu)を把握することが不能であり、無(mu)をエネルギー(電場)で区切って実体化し、具現化したのが「 空間意識 」で、精神(磁場)で区切って実体化し、具現化したのが「 時間意識 」と考えます。

無(mu)は、エーテルであり、法身(hotsusin)の無(mu)を媒介にして、宇宙からのエネルギーがストレスとして体内に摂取され、その飽和点が「 満足感 」であり、その一定の「 定在波 」が「 人格 」として、行為となって外部に具現化すると思います。

「 定在波 」である「 人間関係 」に「 価値観 」という精神が満足したのが「 六道 」の人間であると思います。

満足感は「 六道 」の一つの「 定在波 」であり、他の「 定在波 」に乗り換えたいと思うとき、「 価値観 」の変化が必要であると思います。

例えば、タバコの喫煙や大麻の喫煙の習慣や人間関係から逃れる行為をするとき、「 価値観 」の変化が求められます。

2014/3/2、私の記事

これは、フィクションです。

情(zyou)は、地球、国家、地域、社会、DNAなどにより、相違しますが、意識の構造を、以上のように考えたとき、情(zyou)についても、「 満足感 」と「 価値観 」で考えることにします。

「 満足感 」は、「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」などのベクトルやストレスや「 感情 」や感性であり、電場、つまり空間のエネルギーや「 小脳 」に関係すると考えます。

「 価値観 」は、「 満足感 」を選択する基準であり、精神、磁場、記憶などの大脳に関連し、時間意識に関係すると思います。

「 電場 」は、共通のエネルギーであるのに対し、「 磁場 」は「 テンソル計算 」でもわかるように、一定の磁場は無いと思います。

「 満足感 」は自己中心的で動物的であるのに対し、「 価値観 」は社会的で精神的であると思います。

それゆえに、「 満足感 」の「 教育 」は必要でないのに対し、「 価値観 」は万人が相違するため、「 教育 」が必要であると思います。

「 満足感 」や感性などは、「 感じるもの 」であり、「 感受性 」の問題であるのに対し、「 価値観 」や精神は「 思考するもの 」であり、「 記憶 」の問題で、前者は「 エーテル 」を含む無意識(muisiki)であり、後者は、「 エーテル 」を無視する意識(無(mu)という記憶は無い)に特有のものだと思います。

これらは、電磁波のごとく、繰り返して意識に惹起し、意識が無意識から生じるように思いますが、実際は領域が違い、無意識から意識が生じると思うのは、意識も無意識も、「 心 」や「 行為 」から生じるからだと思います。

その「 電磁波 」の「 定在波 」が、満足し安心した軌道であり、心が生む行為であり、「 人格 」であることは、以前に述べました。

2014/3/16、私の考え

これは、フィクションです。

このように、「 意識 」を電磁波の構造と捉え、電場を気(ki)であるエネルギーや空間意識、磁場を情(zyou)である思考や価値観や時間意識と考え、電場が小脳、磁場が大脳が担当し、この妥協点が「 行為 」や「 人格 」と考えると、愛情や憎悪が際限なく進むのは、電磁波が進むことと同じだと思います。

それは、次のようになると思います。

「 好き 」や「 嫌い 」というエネルギーが小脳で「 満足感 」を感じ「 人格 」が形成された後、大脳で、この「 満足感 」を否定して「 もっと好き 」や「 もっと嫌い 」を増幅させ、それに対応した「 価値観 」を形成し、その後、小脳で、現状に対しストレスというエネルギーを形成し、「 自然界 」には存在しない、愛情や憎悪が増幅することになると思います。

愛情や憎悪の増幅を止めるのは、行為や人格として「 具現化 」することではなく、電磁波を逆に進めることだと思います。

電場、つまり好き嫌いという気(ki)である感情や感性を止めると、小脳が「 満足感 」を感じず、ストレスを感じて病気になるから、情(zyou)を変化させることであり、情(zyou)とは思考であり悟性であるから、記憶の考え方を変化させることであり、社会通念や価値観を変化させること、つまり「 相手の愚行を許すこと 」で、電磁波であり意識の進行方向を逆にすることが出来ると思います。

嫌いだから「 ヘイトスピーチ 」を発するのではなく、相手の行動の価値観を許すことが必要で、それは相手の言うとうりに「 行為 」して妥協点(人格や政策決定)をつくるのではなく、地球の重力(価値観)と月の重力(価値観)が違い、それによって行為が違うように、本来は妥協が無く、相手の価値観を変えることは戦争など強制を必要としますが、自分の価値観を変えることは可能であり、「 価値観を変えましたよ 」と相手に告知することにより、地球から月に移動したことを、相手が持つ価値観を自覚させ、相手の価値観を変えることが出来るかも知れないと考えます。

これは、愛情や憎悪一般に適用し、個人対個人、国家対国家、に適用が可能であり、両者の思考や悟性を強化する「 教育 」を改善することが、「 政治 」だと思います。

個人は「 教育 」が出来ないから、個人のDNAの働きによる「 人格の向上 」に期待するしかないでしょう。

愛情や憎悪が進行するのは、意識に電磁波的な構造が原因であり、仏教では「 苦 」であり、思いどうりに進行しないのは、大脳で「 無(mu)」を否定と考え、「 無(mu)の存在であるエーテルや無意識(muisiki)の存在 」を考えないことであり、小脳の「 生命に関する満足感の可能性 」を考えないこと、「 相手がどのように生きて満足するのか 」を考えないことだと思います。

生命の関する満足感の可能性とは、動物同士の「 思いやり 」や「 譲り合い 」の「 精神 」であると考えます。

それは、その困った現場を脱するだけの妥協ではなく、私も必要だが、私が必要とするものを贈呈するという「 布施 」であり、相手に屈することでないことも、相手に理解させることが必要であると思います。

「 布施 」の概念は「 精神 」ですから教育することは可能であると思います。
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2014年03月13日

箱根旅行と富士山 forkN ・近所の桜 forkN


ここで、私の電子書籍の閲覧状況を確認したいと思います。

箱根旅行と富士山 forkN
   ↓
http://forkn.jp/book/7411/



近所の桜 forkN
   ↓
http://forkn.jp/book/7403/

追加しました。
「 城崎温泉と城崎マリンワールド 」forkN

http://forkn.jp/book/7459/

追加しました「 箱根旅行と富士山U 」forkN

http://forkn.jp/book/7479/
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2014年03月10日

2014/3/10、箱根旅行と富士山


電子書籍「 箱根旅行と富士山 」です。
ブログで公開した写真です。
      ↓
http://forkn.jp/book/7411/page/1

無料です。
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2014年03月09日

2014/3/9、本日公開・電子書籍「 近所の桜 」

本日、公開しました電子書籍 「 近所の桜 」です。
    ↓
http://forkn.jp/book/7403/page/1

無料です。

追加しました「 箱根旅行と富士山 」です。
     ↓
http://forkn.jp/book/7411/page/1


http://forkn.jp/book/7411/



hakonero-pu1


なお、kandk55 と m24658 の本名は、高口克則(katsunori kouguchi)です。
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2014/3/9、seesaaブログへ移行します

LOVELOGはサービスを終了するので、この際、私のブログも閉じようかと思いました。

しかし、過去の記事の総括も出来ていないし、来年は、完全失業状態になり、ブログを書く時間も増えると考えて、seesaaブログに移行することにしました。

LOVELOGの皆様、さようなら。


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2014年03月02日

2014/3/2、オカルト・エーテル考21・「 価値観 」と「 満足感 」4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2014/2/23、私の記事

これは、フィクションです。



情(zyou)は、意識であると思いますが、合理的で理性的ですが、エーテルを含まないため、無(mu)を「 否定 」と把握し、無(mu)の存在を認めないと思います。

私は、意識を電磁波的な構造と考え、電場がエネルギーの領域、磁場は精神の領域と解釈し、前者に「 満足感 」で後者に「 価値観 」を当てはめ、「 価値観 」という精神の柱に沿って、「 満足感 」を中心とするエネルギーが変化した実体の「 関係 」があると考えます。

例えば、台風やハリケーンのように、何層もの低気圧(これを関係と考えます)を縦に重ねたような構造が、思考であると考えます。

見るもの聞くもの、五感すべてから取り入れる「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」という知覚は、電場、つまりエネルギーの関係で安定し、無意識を中心とした「エーテル 」の影響がある安定であるのに対して、「 価値観 」は物と物を秩序づけるエネルギーで合理的で過去の記憶や社会的規範の影響があるエネルギーだと思います。

「 知覚 」から生じる感情や「 価値観 」は行動するための合理的精密機械のようなものですが、「 エーテル 」を含まないため、無(mu)を「 否定 」と考えるため、無(mu)が有(yuu)として有る自分の外部の関係に触れると、エーテルを「 否定 」と考えるため、思ったように事態は進まず、「 ストレス 」が蓄積された状態になると考えます。


つまり、現実を知覚すれば、ストレスになると考えます。



2014/3/1、私の記事




これは、フィクションです



これまで書いて来たことを振り返りますと、意識は電磁波の構造を持ち、電場はエネルギーの領域で「 空間意識 」であり、磁場は精神の領域であり、「 時間意識 」であると思います。

時間や空間は、「 今、ここ 」を超越するエーテルであり、意識の中では、無(mu)あるいは有(yuu)を把握することが不能であり、無(mu)をエネルギー(電場)で区切って実体化し、具現化したのが「 空間意識 」で、精神(磁場)で区切って実体化し、具現化したのが「 時間意識 」と考えます。

無(mu)は、エーテルであり、法身(hotsusin)の無(mu)を媒介にして、宇宙からのエネルギーがストレスとして体内に摂取され、その飽和点が「 満足感 」であり、その一定の「 定在波 」が「 人格 」として、行為となって外部に具現化すると思います。

「 定在波 」である「 人間関係 」に「 価値観 」という精神が満足したのが「 六道 」の人間であると思います。

満足感は「 六道 」の一つの「 定在波 」であり、他の「 定在波 」に乗り換えたいと思うとき、「 価値観 」の変化が必要であると思います。

例えば、タバコの喫煙や大麻の喫煙の習慣や人間関係から逃れる行為をするとき、「 価値観 」の変化が求められます。

科学は実験により正当性を保つように、精神である「 思想 」も実践で正当性を保つというのは、「 科学的に考える 」のでは無く、精神(磁場)そのものが行為(電場)により両端を結合されている「 弦 」の「 定在波 」である構造であることだと思います。

「 科学的に考える 」ことが精神や人格の向上に繋がるのではなく、電場と磁場で構成されrた「 意識 」の内在的構造により、精神や人格が向上すると思います。

精神は行為するためにあると考え、現状の行為に満足しない価値観を持つことが、精神や人格の向上になると思います。

価値観が最高であるのは、無(mu)だと思います。

虚無主義の無(mu)ではなく、時間や空間の概念や意識を超越する有(yuu)を持つことです。



2014/3/2、私の考え


これは、フィクションです。



情(zyou)は、地球、国家、地域、社会、DNAなどにより、相違しますが、意識の構造を、以上のように考えたとき、情(zyou)についても、「 満足感 」と「 価値観 」で考えることにします。

「 満足感 」は、「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」などのベクトルやストレスや「 感情 」や感性であり、電場、つまり空間のエネルギーや「 小脳 」に関係すると考えます。

「 価値観 」は、「 満足感 」を選択する基準であり、精神、磁場、記憶などの大脳に関連し、時間意識に関係すると思います。

「 電場 」は、共通のエネルギーであるのに対し、「 磁場 」は「 テンソル計算 」でもわかるように、一定の磁場は無いと思います。

「 満足感 」は自己中心的で動物的であるのに対し、「 価値観 」は社会的で精神的であると思います。

それゆえに、「 満足感 」の「 教育 」は必要でないのに対し、「 価値観 」は万人が相違するため、「 教育 」が必要であると思います。

「 満足感 」や感性などは、「 感じるもの 」であり、「 感受性 」の問題であるのに対し、「 価値観 」や精神は「 思考するもの 」であり、「 記憶 」の問題で、前者は「 エーテル 」を含む無意識(muisiki)であり、後者は、「 エーテル 」を無視する意識(無(mu)という記憶は無い)に特有のものだと思います。

これらは、電磁波のごとく、繰り返して意識に惹起し、意識が無意識から生じるように思いますが、実際は領域が違い、無意識から意識が生じると思うのは、意識も無意識も、「 心 」や「 行為 」から生じるからだと思います。

その「 電磁波 」の「 定在波 」が、満足し安心した軌道であり、心が生む行為であり、「 人格 」であることは、以前に述べました。

「 好き 」や「 嫌い 」も行為するためであり、「 思考 」や記憶も行為するためのものです。

行為は個人の自由であり、法によって制限するしか方法は無いと思います。

ポルノを見ることや、タバコや麻薬は、「 満足感 」がある限り止めないだろうし、やめさせるやめには、ポルノを発行禁止にしたり、タバコや麻薬を吸うことを禁じても復活するだろうから、人生に対する「 価値観 」、つまり「 死んだら終わり 」ではなく、死んでもエーテルとして有り続け、ポルノや麻薬を求める霊として迷い続け、輪廻転生するということを教育したらどうかと思う。
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2014年03月01日

2014/3/1、オカルト・エーテル考20・価値観と満足感3小脳の可能性

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2014/2/23、私の記事

これは、フィクションです。



情(zyou)は、意識であると思いますが、合理的で理性的ですが、エーテルを含まないため、無(mu)を「 否定 」と把握し、無(mu)の存在を認めないと思います。

私は、意識を電磁波的な構造と考え、電場がエネルギーの領域、磁場は精神の領域と解釈し、前者に「 満足感 」で後者に「 価値観 」を当てはめ、「 価値観 」という精神の柱に沿って、「 満足感 」を中心とするエネルギーが変化した実体の「 関係 」があると考えます。

例えば、台風やハリケーンのように、何層もの低気圧(これを関係と考えます)を縦に重ねたような構造が、思考であると考えます。

見るもの聞くもの、五感すべてから取り入れる「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」という知覚は、電場、つまりエネルギーの関係で安定し、無意識を中心とした「エーテル 」の影響がある安定であるのに対して、「 価値観 」は物と物を秩序づけるエネルギーで合理的で過去の記憶や社会的規範の影響があるエネルギーだと思います。

「 知覚 」から生じる感情や「 価値観 」は行動するための合理的精密機械のようなものですが、「 エーテル 」を含まないため、無(mu)を「 否定 」と考えるため、無(mu)が有(yuu)として有る自分の外部の関係に触れると、エーテルを「 否定 」と考えるため、思ったように事態は進まず、「 ストレス 」が蓄積された状態になると考えます。


つまり、現実を知覚すれば、ストレスになると考えます。



2014/3/1、私の考え




これは、フィクションです



これまで書いて来たことを振り返りますと、意識は電磁波の構造を持ち、電場はエネルギーの領域で「 空間意識 」であり、磁場は精神の領域であり、「 時間意識 」であると思います。

時間や空間は、「 今、ここ 」を超越するエーテルであり、意識の中では、無(mu)あるいは有(yuu)を把握することが不能であり、無(mu)をエネルギー(電場)で区切って実体化し、具現化したのが「 空間意識 」で、精神(磁場)で区切って実体化し、具現化したのが「 時間意識 」と考えます。

無(mu)は、エーテルであり、法身(hotsusin)の無(mu)を媒介にして、宇宙からのエネルギーがストレスとして体内に摂取され、その飽和点が「 満足感 」であり、その一定の「 定在波 」が「 人格 」として、行為となって外部に具現化すると思います。

「 定在波 」である「 人間関係 」に「 価値観 」という精神が満足したのが「 六道 」の人間であると思います。

満足感は「 六道 」の一つの「 定在波 」であり、他の「 定在波 」に乗り換えたいと思うとき、「 価値観 」の変化が必要であると思います。

例えば、タバコの喫煙や大麻の喫煙の習慣や人間関係から逃れる行為をするとき、「 価値観 」の変化が求められます。

科学は実験により正当性を保つように、精神である「 思想 」も実践で正当性を保つというのは、「 科学的に考える 」のでは無く、精神(磁場)そのものが行為(電場)により両端を結合されている「 弦 」の「 定在波 」である構造であることだと思います。

「 科学的に考える 」ことが精神や人格の向上に繋がるのではなく、電場と磁場で構成されrた「 意識 」の内在的構造により、精神や人格が向上すると思います。

精神は行為するためにあると考え、現状の行為に満足しない価値観を持つことが、精神や人格の向上になると思います。

価値観が最高であるのは、無(mu)だと思います。

虚無主義の無(mu)ではなく、時間や空間の概念や意識を超越する有(yuu)を持つことです。

呼吸する息から宇宙の果てまで、連続するエーテルが有り、死後は無(mu)になりますが、この無(mu)はエーテルであり、現実にある実有(zituyuu)であり、数億光年先から呼吸する肺の中まで、一気に移動するエーテルです。

空気とエーテルを分離することなく、呼吸している働きをするのは「 小脳 」です。

私は、「 大脳 」の精神(磁場)が、「 心 」や行為(電場)を司る「 小脳 」により「 派生 」したもので、「 小脳 」は「 必然的 」であり、「 小脳の可能性 」というとき、「 必然 」やエーテルを無(mu)としか判断することしかできない、無明(mumyou)な「 大脳 」が考える「 必然性 」と「 小脳 」の「 必然 」との相違だと思います。

「 小脳 」は生死を瞬時に判断し、必然といえるが、「 小脳の可能性 」とは「 心 」であり、エーテルを含まず、合理的な蓋然性であり、「 小脳の可能性 」を無(mu)にすることが、必然に近づくことだと思います。

自己を自然の中に消えさせることは無(mu)になることだが、自己の拡大であり(これは自殺である)、そうではなく、無(mu)を考えの中に入れることであり、絶え間ない自己崩壊が、「 小脳の可能性 」を無(mu)に近づけることだと思います。
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2014年02月23日

2014/2/23、オカルト・エーテル考19・価値観と満足感 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2014/2/16、私の記事


これは、私の考えであり、フィクションです。


情(zyou)は、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などに関するすべての文化や精神であり、とても私には解読する力はありません。

ですから、私だけの、オリジナルな考えを書くことにします。

私は、情(zyou)を情報と考え、知識やすべての文化と考えますが、この情報は、人間の存在を前提とし、「 エーテル 」を含まない、エネルギーから派生したものと考えます。

これらは、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、無(mu)は「 否定 」として無視されていると考えます。

実体と実体が、相当因果関係で結ばれ、エネルギーの段階である、「 因縁や縁起 」は無視されます。

実体と実体は不連続であり、それらは「 関係 」で結ばれるため、関係を選択することが「 実存 」というのかも知れません。

質から質を、量的変化で説明し、エネルギーの変化で説明しても、実体を認識する限り、不連続であると思います。

哲学的に、あるいは科学的に説明しても、気(ki)であるエネルギーが派生した実体の中での説明であり、無(mu)である「 エーテル 」を無視する限り、宇宙を解明することは不可能だと思います。

自分が吸い込む空気と不可分な「 エーテル 」を認識しないで、宇宙が解明されるとは思いません。

この意味で、相対論と量子力学を組み合わせた「 統一理論 」は不可能であると考えます。

私は、エネルギーが伝達される領域を「 エーテル 」と考え、この「 エーテル 」の連続を信じて、実体と実体の不連続を「 エーテル 」の連続で埋めます。

すると、私の「 内的世界 」が「 エーテル 」を媒介にして宇宙と繋がることになるでしょう。

「 エーテル 」の連続を信じることは、時空(時間意識や空間意識)を超越した、無(mu)を信じることであり、無限(mugen)を信じることです。

私は、神はエネルギーであると思いますから、無限(mugen)を信じることは、神(エネルギー)を信じることではありません。

神(エネルギー)の身体(body)を信じることであり、エネルギーが行き着く所を「 信じる 」ことであり、自分の身体から宇宙の果てまでを「 信じる 」ことです。

「 信じること 」は情(zyou)ですから、情(zyou)について考えます。

情(zyou)は、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、エネルギーによる根拠があると思います。

合理的で体系的な知識に必要なのは「 価値観 」で、「 価値観 」により、上下左右や前後などの秩序が保たれると思います。

その一方で、実体を構成するのは「 弦 」です。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

「 弦 」は閉じることにより感情や思想などの波動を生じますが、「 弦 」を閉じるのは、「 価値観 」ではなくて「 満足感 」であると思います。

「 満足感 」により、感情や思想が生じると思います。

「 価値観(kachikan) 」も「 満足感(manzokukan) 」も、同じ「 カン(kan) 」と発音しますが、「 価値観 」の「 カン(kan) 」は「 観る 」という漢字を当て、「 満足感 」の「 カン(kan) 」は「 感覚(kankaku) 」の「 感(kan) 」という漢字を当てます。

私は、「 価値観 」を「 重力 」と考え、「 満足感 」を、「 電気などのエネルギー 」であると考え、前者が「 秩序 」を作り、後者は「 実体 」を作ると考えます。

「 価値観 」である「 重力 」は体系内である限り、等しく存在するのに対し、「 満足感 」は「 感覚 」であり、すべての人が相違するように、個人的で等しく存在せず、各種各人、みんな違います。

前者が「 秩序 」であり、後者は「 実体 」であるのが原因だと思います。

男神を「 プラス 」、女神を「 マイナス 」と考えると、男性は男神の権化であり、女性は女神の権化であり、「 恋愛 」は両者にとって「 不安定 」な状態で、「 結婚 」あるいは「 出産 」が「 安定 」の状態であれば、「 安定 」を作り出すのは「 満足感 」であり「 価値観 」ではないと考えます。

感情や思想や人格は「 電気などのエネルギー 」であり、「 満足感 」で「 安定 」し、「 価値観 」を共有することでは「 安定しない 」と思います。

「 価値観 」は「 満足感 」を破って不安定にするのであり、「 価値観 」は常に不安定です。

「 重力 」は同じ地球の上では同じだが、同じだから「 満足感 」が同じであるとは限らない。

「 重力 」、言い換えると「 価値観 」(秩序)は同じ国、あるいは同じ家庭に住んでいるが、「 満足感 」は違う。

前者と後者はエネルギーが相違し、重力と電気が違うように、エネルギーの作用も違うし、飽和点、あるいは妥協点である「 満足感 」も違うと思います。

「 価値観 」が同じ人と結婚するのではなく、「 満足感 」が同じ人と結婚するから、「 結婚は妥協だ 」と言うのであり、「 価値観の妥協だ 」とは言いません。

プロの選手と一般人と違うのは、「 価値観 」が相違するのではなく、「 満足感 」が違うからだと思います。

このようにして、気(ki)は、情(zyou)の中に介入するのだと思います。

無(mu)は、情(zyou)の中に「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」として、無限(mugen)な無(mu)の存在として介入するのだと思います。

無(mu)を「 否定 」と解釈しないで、思考不能な無(mu)が有(yuu)として存在すると「 信じる 」ことは、人を謙虚にし、地球が回転することを受け入れるように、宇宙を受け入れることに通じると思います。

これは、現実でも、空気を抜いて真空にしても、エネルギーを通す空間を否定することは出来ないことからも、明らかだと思います。



2014/2/23、私の考え

これは、フィクションです。



情(zyou)は、意識であると思いますが、合理的で理性的ですが、エーテルを含まないため、無(mu)を「 否定 」と把握し、無(mu)の存在を認めないと思います。

私は、意識を電磁波的な構造と考え、電場がエネルギーの領域、磁場は精神の領域と解釈し、前者に「 満足感 」で後者に「 価値観 」を当てはめ、「 価値観 」という精神の柱に沿って、「 満足感 」を中心とするエネルギーが変化した実体の「 関係 」があると考えます。

例えば、台風やハリケーンのように、何層もの低気圧(これを関係と考えます)を縦に重ねたような構造が、思考であると考えます。

見るもの聞くもの、五感すべてから取り入れる「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」という知覚は、電場、つまりエネルギーの関係で安定し、無意識を中心とした「エーテル 」の影響がある安定であるのに対して、「 価値観 」は物と物を秩序づけるエネルギーで合理的で過去の記憶や社会的規範の影響があるエネルギーだと思います。

「 知覚 」から生じる感情や「 価値観 」は行動するための合理的精密機械のようなものですが、「 エーテル 」を含まないため、無(mu)を「 否定 」と考えるため、無(mu)が有(yuu)として有る自分の外部の関係に触れると、エーテルを「 否定 」と考えるため、思ったように事態は進まず、「 ストレス 」が蓄積された状態になると考えます。


つまり、現実を知覚すれば、ストレスになると考えます。


仏教の「 苦(ku)」が「 思うとおりにならないこと 」であるなら、このストレスが「 苦(ku)」であり、「 苦(ku)」が蓄積し、未来になっても逃れられないから、人生は、生・老・病・死と、「 苦(ku)」の連続であると言うのだと思います。

生きている間は苦(ku)の連続であるのは、台風やハリケーンの状態が生まれてから死ぬまで続くようなものです。

私の考えでは、台風やハリケーンが無(mu)から有(yuu)に変化したのではなく、有(yuu)から生まれ有(yuu)に還るように、人間は有(yuu)から生まれ有(yuu)に還るのであり、死によっても無(mu)にはならず有(yuu)であり続けるのだと思います。

有(yuu)とは、物理的にいえば、「 エーテル 」です。

「 ストレス 」を生むのも苦(ku)を生むのも無(mu)である「 エーテル 」であると思います。

「 ストレス 」や苦(ku)を消滅させるのは、無(mu)を有(yuu)、実有として、人間の頭脳の中に取り入れることです。

無意識(muisiki)を無(mu)、あるいは有(yuu)と一致させることで、無(mu)を、何も無い「 否定 」とは考えずに、無(mu)を有(yuu)と考えることだと思います。

無意識(muisiki)を、自然の無(mu)に合わせることは、自然になかに妥協することではありません。

知覚の妥協点である「 満足感 」を否定した「 価値観 」は、頭の中の「 関係 」を更に高次元の「 関係 」の向上することは出来るかも知れませんが、「 否定 」と考えるため、「 自殺 」へも繋がる危険もあると思います。


「 価値観 」で、無(mu)をエネルギーの段階の「 否定 」とは考えずに、「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)であると考えると、絶望している今、「 いかに生きるべきか 」を考えるようになり、「 ストレス 」をいかに発散するかを考えることになると思います。

「 価値観 」という精神で無(mu)を「 無限(mugen)」の有(yuu)と考え、「 生死に関係なく有り続ける 」と決意することは、「 神 」を信じることと同じことであると思います。

「 神 」はどこかに居ると思うから信仰するのであり、それは「 今、ここ 」を超越するものがあると思うから信じるのであり、何も無いことを信じることは「 虚無主義 」になるでしょう。

「 価値観 」という精神で無(mu)を「 否定 」と考えると、人の死によって無(mu)になることは人の否定であり、「 死中死 」であり、「 死んだら終わり 」であり、現実への自己投降、自己喪失であり、現実肯定であると思います。

これは、虚無主義と同じであると思います。

理性の中で、無(mu)を「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)と認めることが「 信仰 」であり、無(mu)を「 否定 」に考えるのが虚無主義であると思います。

無(mu)を「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)と考えたとき、死んだ場合でも有(yuu)であり、生きていても、「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)である証明することが出来ない無(mu)は有ります。

死と生の区別は、生きるという「 満足感 」による実体(存在)の有り無しであり、死によって「 満足感 」を得ようとしても(自殺)、「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)である無(mu)は続き、「 死んだら終わり 」ではなく、無限(mugen)の有(yuu)の中に戻るだけであると思います。

「 死んだら終わり 」と考えても「 死中生有り 」と考えても、人間が認める実体が在ろうと無かろうと、証明することが出来ない「 エーテル 」があるように、無限(mugen)の有(yuu)である無(mu)の連続であることに変化は無い。

「 死んだら終わり 」を選択するか、「 死中生有り 」を選択するかは、「 満足感 」の相違であり太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などから生じる「 価値観 」の違いであると思います。

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2014年02月16日

2014/2/16、オカルト・エーテル考18・価値観と満足感 1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。





2014/2/1、私の記事


これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。


2014/2/16、私の考え


これは、私の考えであり、フィクションです。


情(zyou)は、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などに関するすべての文化や精神であり、とても私には解読する力はありません。

ですから、私だけの、オリジナルな考えを書くことにします。

私は、情(zyou)を情報と考え、知識やすべての文化と考えますが、この情報は、人間の存在を前提とし、「 エーテル 」を含まない、エネルギーから派生したものと考えます。

これらは、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、無(mu)は「 否定 」として無視されていると考えます。

実体と実体が、相当因果関係で結ばれ、エネルギーの段階である、「 因縁や縁起 」は無視されます。

実体と実体は不連続であり、それらは「 関係 」で結ばれるため、関係を選択することが「 実存 」というのかも知れません。

質から質を、量的変化で説明し、エネルギーの変化で説明しても、実体を認識する限り、不連続であると思います。

哲学的に、あるいは科学的に説明しても、気(ki)であるエネルギーが派生した実体の中での説明であり、無(mu)である「 エーテル 」を無視する限り、宇宙を解明することは不可能だと思います。

自分が吸い込む空気と不可分な「 エーテル 」を認識しないで、宇宙が解明されるとは思いません。

この意味で、相対論と量子力学を組み合わせた「 統一理論 」は不可能であると考えます。

私は、エネルギーが伝達される領域を「 エーテル 」と考え、この「 エーテル 」の連続を信じて、実体と実体の不連続を「 エーテル 」の連続で埋めます。

すると、私の「 内的世界 」が「 エーテル 」を媒介にして宇宙と繋がることになるでしょう。

「 エーテル 」の連続を信じることは、時空(時間意識や空間意識)を超越した、無(mu)を信じることであり、無限(mugen)を信じることです。

私は、神はエネルギーであると思いますから、無限(mugen)を信じることは、神(エネルギー)を信じることではありません。

神(エネルギー)の身体(body)を信じることであり、エネルギーが行き着く所を「 信じる 」ことであり、自分の身体から宇宙の果てまでを「 信じる 」ことです。

「 信じること 」は情(zyou)ですから、情(zyou)について考えます。

情(zyou)は、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、エネルギーによる根拠があると思います。

合理的で体系的な知識に必要なのは「 価値観 」で、「 価値観 」により、上下左右や前後などの秩序が保たれると思います。

その一方で、実体を構成するのは「 弦 」です。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

「 弦 」は閉じることにより感情や思想などの波動を生じますが、「 弦 」を閉じるのは、「 価値観 」ではなくて「 満足感 」であると思います。

「 満足感 」により、感情や思想が生じると思います。

「 価値観(kachikan) 」も「 満足感(manzokukan) 」も、同じ「 カン(kan) 」と発音しますが、「 価値観 」の「 カン(kan) 」は「 観る 」という漢字を当て、「 満足感 」の「 カン(kan) 」は「 感覚(kankaku) 」の「 感(kan) 」という漢字を当てます。

私は、「 価値観 」を「 重力 」と考え、「 満足感 」を、「 電気などのエネルギー 」であると考え、前者が「 秩序 」を作り、後者は「 実体 」を作ると考えます。

「 価値観 」である「 重力 」は体系内である限り、等しく存在するのに対し、「 満足感 」は「 感覚 」であり、すべての人が相違するように、個人的で等しく存在せず、各種各人、みんな違います。

前者が「 秩序 」であり、後者は「 実体 」であるのが原因だと思います。

男神を「 プラス 」、女神を「 マイナス 」と考えると、男性は男神の権化であり、女性は女神の権化であり、「 恋愛 」は両者にとって「 不安定 」な状態で、「 結婚 」あるいは「 出産 」が「 安定 」の状態であれば、「 安定 」を作り出すのは「 満足感 」であり「 価値観 」ではないと考えます。

感情や思想や人格は「 電気などのエネルギー 」であり、「 満足感 」で「 安定 」し、「 価値観 」を共有することでは「 安定しない 」と思います。

「 価値観 」は「 満足感 」を破って不安定にするのであり、「 価値観 」は常に不安定です。

「 重力 」は同じ地球の上では同じだが、同じだから「 満足感 」が同じであるとは限らない。

「 重力 」、言い換えると「 価値観 」(秩序)は同じ国、あるいは同じ家庭に住んでいるが、「 満足感 」は違う。

前者と後者はエネルギーが相違し、重力と電気が違うように、エネルギーの作用も違うし、飽和点、あるいは妥協点である「 満足感 」も違うと思います。

「 価値観 」が同じ人と結婚するのではなく、「 満足感 」が同じ人と結婚するから、「 結婚は妥協だ 」と言うのであり、「 価値観の妥協だ 」とは言いません。

プロの選手と一般人と違うのは、「 価値観 」が相違するのではなく、「 満足感 」が違うからだと思います。

このようにして、気(ki)は、情(zyou)の中に介入するのだと思います。

無(mu)は、情(zyou)の中に「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」として、無限(mugen)な無(mu)の存在として介入するのだと思います。

無(mu)を「 否定 」と解釈しないで、思考不能な無(mu)が有(yuu)として存在すると「 信じる 」ことは、人を謙虚にし、地球が回転することを受け入れるように、宇宙を受け入れることに通じると思います。

これは、現実でも、空気を抜いて真空にしても、エネルギーを通す空間を否定することは出来ないことからも、明らかだと思います。
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2014年02月09日

2014/2/9、オカルト・エーテル考17・ゴーギャン考

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2014/2/2、私の記事


これは、フィクションです。


私が、「 無(mu)」の存在を、エネルギーを交換する場であるエーテルとするのは、私のブログの都合上であるから、無視していただいても結構です。

私は、「 今、ここ」で、「 今 」の中で「 永遠 」なもの、「 ここ 」のなかで、無限(mugen)に遠くて無限(mugen)に近いもの、即ち「 今、ここ 」を超越するものは何かを考えます。

私は、時間を時間意識、空間を空間意識という脳波(電磁波)の定在波で、情(zyou)であると考えますから、情(zyou)では解決不可能なもの、情(zyou)を生じさせるものが「 超越 」と考えるなら、それは気(ki)である「 エネルギーやエーテル 」であると考えます。

私は、時間は時間意識、空間は空間意識という情(zyou)であり、それが「 過去や現在や未来 」を作ると考えますから、「 超越 」は、「 過去や現在や未来 」の超越を考えるのではなく、情(zyou)には無いもの、つまり情(zyou)が無視して来たものが超越として現れたものであると思います。

私は、哲学で「 空間 」といいながら、本当に「 空間 」を考えたのか疑問に思います。

エネルギーを含んだ空間が「 エーテル 」ならば、「 エーテル 」を考えることが「 超越 」を考えることであると思います。

存在しないから「 無(mu)」と考えるのではなく、すべての存在と共存する「 有(yuu)」であると考えることは前述しました。

呼吸で吸い込むのは空気だけでなく「 エーテル 」も吸い込んでいて、その「 エーテル 」は無限のかなたまで連続してひろがり、吸い込む「 エーテル 」も無限にひろがる「 エーテル 」も、情(zyou)では、認識することが出来ない「 無(mu)」であるが、存在を否定することが出来ない「 無(mu)」であると思います。

死んで、人間の身体は宇宙のゴミとなっても、エーテル(涅槃)という「 無(mu)」になります。

「 無(mu)」は、存在の否定ではなく、すべての存在を受け入れる「 有(yuu)」となり、空気のエネルギーと共に連続して、人体の中に出入りすると思います。

このように考えるとき、死に向かう人が、残された人に向かって「 私は星になってあなたを見守る 」ということや「 いつもあなたのそばで、見守っている 」とか「 私を呼べば、すぐ来てあげる 」ということが同時に成立するのです。

「 死に向かう人 」が、聖人や仏陀であっても、一般人であっても同じです。

こうして、エーテルや「 無(mu)」を考えることにより、物理と哲学と宗教が結びつくと思います。


2014/2/9、私の考え


これは、フィクションです。


このように、宇宙を「 エーテル 」を必須とするひとつの弦と考え、太陽系、地球、国家、社会、民族、親、子、DNAなどの「 弦 」の積み重ねが「 実体 」という「 意識 」であり、意識が「 エーテル 」を欠いた虚の世界であり、意識の中の「 無常(muzyou) 」や「 無明(mumyou) 」が、エネルギーと一体となった、連続する「 エーテル 」であり、意識は無意識(muisiki)の無(mu)で「 弦 」を閉じる、あるいは結合していると考えます。

因縁は気(ki)の領域であり、方向が不明のエネルギーであり、情(zyou)の領域である因果関係は「 物語 」であり、思考を一定の方向に向けるために、ストレスを生むと思います。

「 エーテル 」は、考えられない、証明することが出来ないから、情(zyou)の中では、無(mu)であり、意識は無意識で繋がった弦であり、その弦の定在波が、人間の存在を示す「 人格 」と考えます。

情(zyou)は、太陽系、地球、国家、社会、民族、親、子、DNAなど多岐に別れ、その数だけ相違する「 実体 」が存在することになります。

死後は、逆にたどるだけで、「 エーテル 」が無い、大脳で考える関係で縛られた「 実体 」から解放されて、「 エーテル 」を必須とするひとつの弦である無(mu)に戻るのですが、その無(mu)は、前述しましたように、すべての「 実体 」を受け入れる有(yuu)あり、「 今、ここ 」を超越した「 実有 」であると思います。

人間は無(mu)を知らないので、有(yuu)も知らず、すべてが無(mu)と、すべてが有(yuu)とは、同義であると考えます。

私は、ゴーギャンの「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」に対しては次のように考えます。

無(mu)から、神の力(エネルギー)により、関係という弦のエネルギーに縛られた「 実体 」になり、死により再び無(mu)に戻るが、無(mu)は何も無いという否定ではなく、現実の存在をすべて包摂する有(yuu)であり、「 今、ここ 」を超越した有(yuu)に戻ると思います。

「 エーテル 」やエネルギーを無視した原因と結果の物語の世界から、「 エーテル 」やエネルギーを必須とし、物語を作る因縁(無明(mumyou))の世界へ戻ると思います。

大地に雪が降り、雪を固めて(関係で縛って)実体を作り、雪が融けたあとには、縛った痕跡と大地に水が残るように、実体は無(mu)に変化しても、総体である有(yuu)は変化しないと思います。 

生物は死により、(意識により)否定された無(mu)には戻らず、有(yuu)に戻り、エネルギー(神)の関係により再び「 実体 」となると考えます。

それが、輪廻転生を肯定する考えを生むと思います。

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2014年02月02日

2014/2/2、オカルト・エーテル考16・存在の謎4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の記事

これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。



2014/2/1、私の記事


これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。



2014/2/2、私の考え


これは、フィクションです。


私が、「 無(mu)」の存在を、エネルギーを交換する場であるエーテルとするのは、私のブログの都合上であるから、無視していただいても結構です。

私は、「 今、ここ」で、「 今 」の中で「 永遠 」なもの、「 ここ 」のなかで、無限(mugen)に遠くて無限(mugen)に近いもの、即ち「 今、ここ 」を超越するものは何かを考えます。

私は、時間を時間意識、空間を空間意識という脳波(電磁波)の定在波で、情(zyou)であると考えますから、情(zyou)では解決不可能なもの、情(zyou)を生じさせるものが「 超越 」と考えるなら、それは気(ki)である「 エネルギーやエーテル 」であると考えます。

私は、時間は時間意識、空間は空間意識という情(zyou)であり、それが「 過去や現在や未来 」を作ると考えますから、「 超越 」は、「 過去や現在や未来 」の超越を考えるのではなく、情(zyou)には無いもの、つまり情(zyou)が無視して来たものが超越として現れたものであると思います。

私は、哲学で「 空間 」といいながら、本当に「 空間 」を考えたのか疑問に思います。

エネルギーを含んだ空間が「 エーテル 」ならば、「 エーテル 」を考えることが「 超越 」を考えることであると思います。

存在しないから「 無(mu)」と考えるのではなく、すべての存在と共存する「 有(yuu)」であると考えることは前述しました。

呼吸で吸い込むのは空気だけでなく「 エーテル 」も吸い込んでいて、その「 エーテル 」は無限のかなたまで連続してひろがり、吸い込む「 エーテル 」も無限にひろがる「 エーテル 」も、情(zyou)では、認識することが出来ない「 無(mu)」であるが、存在を否定することが出来ない「 無(mu)」であると思います。

死んで、人間の身体は宇宙のゴミとなっても、エーテル(涅槃)という「 無(mu)」になります。

「 無(mu)」は、存在の否定ではなく、すべての存在を受け入れる「 有(yuu)」となり、空気のエネルギーと共に連続して、人体の中に出入りすると思います。

このように考えるとき、死に向かう人が、残された人に向かって「 私は星になってあなたを見守る 」ということや「 いつもあなたのそばで、見守っている 」とか「 私を呼べば、すぐ来てあげる 」ということが同時に成立するのです。

「 死に向かう人 」が、聖人や仏陀であっても、一般人であっても同じです。

こうして、エーテルや「 無(mu)」を考えることにより、物理と哲学と宗教が結びつくと思います。

2015/1/28、私の現在の考え 4 存在 
カテゴリー、足跡 T
 を参照
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2014年02月01日

2014/2/1、オカルト・エーテル考15・存在の謎 3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の記事

これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。



2014/2/1、私の考え



これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。
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2014年01月30日

2014年01月29日

2014/1/29、二見浦と伊勢内宮への旅 U 二見浦

2014/1/27、伊勢神宮に参拝しました。

今年、撮影した、二見浦の夫婦岩の写真です。


IMGA0009.JPG
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2014年01月26日

2014/1/26、オカルト・エーテル考14・存在の謎2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の考え



これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。


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