2014年03月09日

2014/3/9、本日公開・電子書籍「 近所の桜 」

本日、公開しました電子書籍 「 近所の桜 」です。
    ↓
http://forkn.jp/book/7403/page/1

無料です。

追加しました「 箱根旅行と富士山 」です。
     ↓
http://forkn.jp/book/7411/page/1


http://forkn.jp/book/7411/



hakonero-pu1


なお、kandk55 と m24658 の本名は、高口克則(katsunori kouguchi)です。
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2014/3/9、seesaaブログへ移行します

LOVELOGはサービスを終了するので、この際、私のブログも閉じようかと思いました。

しかし、過去の記事の総括も出来ていないし、来年は、完全失業状態になり、ブログを書く時間も増えると考えて、seesaaブログに移行することにしました。

LOVELOGの皆様、さようなら。


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2014年03月02日

2014/3/2、オカルト・エーテル考21・「 価値観 」と「 満足感 」4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2014/2/23、私の記事

これは、フィクションです。



情(zyou)は、意識であると思いますが、合理的で理性的ですが、エーテルを含まないため、無(mu)を「 否定 」と把握し、無(mu)の存在を認めないと思います。

私は、意識を電磁波的な構造と考え、電場がエネルギーの領域、磁場は精神の領域と解釈し、前者に「 満足感 」で後者に「 価値観 」を当てはめ、「 価値観 」という精神の柱に沿って、「 満足感 」を中心とするエネルギーが変化した実体の「 関係 」があると考えます。

例えば、台風やハリケーンのように、何層もの低気圧(これを関係と考えます)を縦に重ねたような構造が、思考であると考えます。

見るもの聞くもの、五感すべてから取り入れる「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」という知覚は、電場、つまりエネルギーの関係で安定し、無意識を中心とした「エーテル 」の影響がある安定であるのに対して、「 価値観 」は物と物を秩序づけるエネルギーで合理的で過去の記憶や社会的規範の影響があるエネルギーだと思います。

「 知覚 」から生じる感情や「 価値観 」は行動するための合理的精密機械のようなものですが、「 エーテル 」を含まないため、無(mu)を「 否定 」と考えるため、無(mu)が有(yuu)として有る自分の外部の関係に触れると、エーテルを「 否定 」と考えるため、思ったように事態は進まず、「 ストレス 」が蓄積された状態になると考えます。


つまり、現実を知覚すれば、ストレスになると考えます。



2014/3/1、私の記事




これは、フィクションです



これまで書いて来たことを振り返りますと、意識は電磁波の構造を持ち、電場はエネルギーの領域で「 空間意識 」であり、磁場は精神の領域であり、「 時間意識 」であると思います。

時間や空間は、「 今、ここ 」を超越するエーテルであり、意識の中では、無(mu)あるいは有(yuu)を把握することが不能であり、無(mu)をエネルギー(電場)で区切って実体化し、具現化したのが「 空間意識 」で、精神(磁場)で区切って実体化し、具現化したのが「 時間意識 」と考えます。

無(mu)は、エーテルであり、法身(hotsusin)の無(mu)を媒介にして、宇宙からのエネルギーがストレスとして体内に摂取され、その飽和点が「 満足感 」であり、その一定の「 定在波 」が「 人格 」として、行為となって外部に具現化すると思います。

「 定在波 」である「 人間関係 」に「 価値観 」という精神が満足したのが「 六道 」の人間であると思います。

満足感は「 六道 」の一つの「 定在波 」であり、他の「 定在波 」に乗り換えたいと思うとき、「 価値観 」の変化が必要であると思います。

例えば、タバコの喫煙や大麻の喫煙の習慣や人間関係から逃れる行為をするとき、「 価値観 」の変化が求められます。

科学は実験により正当性を保つように、精神である「 思想 」も実践で正当性を保つというのは、「 科学的に考える 」のでは無く、精神(磁場)そのものが行為(電場)により両端を結合されている「 弦 」の「 定在波 」である構造であることだと思います。

「 科学的に考える 」ことが精神や人格の向上に繋がるのではなく、電場と磁場で構成されrた「 意識 」の内在的構造により、精神や人格が向上すると思います。

精神は行為するためにあると考え、現状の行為に満足しない価値観を持つことが、精神や人格の向上になると思います。

価値観が最高であるのは、無(mu)だと思います。

虚無主義の無(mu)ではなく、時間や空間の概念や意識を超越する有(yuu)を持つことです。



2014/3/2、私の考え


これは、フィクションです。



情(zyou)は、地球、国家、地域、社会、DNAなどにより、相違しますが、意識の構造を、以上のように考えたとき、情(zyou)についても、「 満足感 」と「 価値観 」で考えることにします。

「 満足感 」は、「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」などのベクトルやストレスや「 感情 」や感性であり、電場、つまり空間のエネルギーや「 小脳 」に関係すると考えます。

「 価値観 」は、「 満足感 」を選択する基準であり、精神、磁場、記憶などの大脳に関連し、時間意識に関係すると思います。

「 電場 」は、共通のエネルギーであるのに対し、「 磁場 」は「 テンソル計算 」でもわかるように、一定の磁場は無いと思います。

「 満足感 」は自己中心的で動物的であるのに対し、「 価値観 」は社会的で精神的であると思います。

それゆえに、「 満足感 」の「 教育 」は必要でないのに対し、「 価値観 」は万人が相違するため、「 教育 」が必要であると思います。

「 満足感 」や感性などは、「 感じるもの 」であり、「 感受性 」の問題であるのに対し、「 価値観 」や精神は「 思考するもの 」であり、「 記憶 」の問題で、前者は「 エーテル 」を含む無意識(muisiki)であり、後者は、「 エーテル 」を無視する意識(無(mu)という記憶は無い)に特有のものだと思います。

これらは、電磁波のごとく、繰り返して意識に惹起し、意識が無意識から生じるように思いますが、実際は領域が違い、無意識から意識が生じると思うのは、意識も無意識も、「 心 」や「 行為 」から生じるからだと思います。

その「 電磁波 」の「 定在波 」が、満足し安心した軌道であり、心が生む行為であり、「 人格 」であることは、以前に述べました。

「 好き 」や「 嫌い 」も行為するためであり、「 思考 」や記憶も行為するためのものです。

行為は個人の自由であり、法によって制限するしか方法は無いと思います。

ポルノを見ることや、タバコや麻薬は、「 満足感 」がある限り止めないだろうし、やめさせるやめには、ポルノを発行禁止にしたり、タバコや麻薬を吸うことを禁じても復活するだろうから、人生に対する「 価値観 」、つまり「 死んだら終わり 」ではなく、死んでもエーテルとして有り続け、ポルノや麻薬を求める霊として迷い続け、輪廻転生するということを教育したらどうかと思う。
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2014年03月01日

2014/3/1、オカルト・エーテル考20・価値観と満足感3小脳の可能性

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2014/2/23、私の記事

これは、フィクションです。



情(zyou)は、意識であると思いますが、合理的で理性的ですが、エーテルを含まないため、無(mu)を「 否定 」と把握し、無(mu)の存在を認めないと思います。

私は、意識を電磁波的な構造と考え、電場がエネルギーの領域、磁場は精神の領域と解釈し、前者に「 満足感 」で後者に「 価値観 」を当てはめ、「 価値観 」という精神の柱に沿って、「 満足感 」を中心とするエネルギーが変化した実体の「 関係 」があると考えます。

例えば、台風やハリケーンのように、何層もの低気圧(これを関係と考えます)を縦に重ねたような構造が、思考であると考えます。

見るもの聞くもの、五感すべてから取り入れる「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」という知覚は、電場、つまりエネルギーの関係で安定し、無意識を中心とした「エーテル 」の影響がある安定であるのに対して、「 価値観 」は物と物を秩序づけるエネルギーで合理的で過去の記憶や社会的規範の影響があるエネルギーだと思います。

「 知覚 」から生じる感情や「 価値観 」は行動するための合理的精密機械のようなものですが、「 エーテル 」を含まないため、無(mu)を「 否定 」と考えるため、無(mu)が有(yuu)として有る自分の外部の関係に触れると、エーテルを「 否定 」と考えるため、思ったように事態は進まず、「 ストレス 」が蓄積された状態になると考えます。


つまり、現実を知覚すれば、ストレスになると考えます。



2014/3/1、私の考え




これは、フィクションです



これまで書いて来たことを振り返りますと、意識は電磁波の構造を持ち、電場はエネルギーの領域で「 空間意識 」であり、磁場は精神の領域であり、「 時間意識 」であると思います。

時間や空間は、「 今、ここ 」を超越するエーテルであり、意識の中では、無(mu)あるいは有(yuu)を把握することが不能であり、無(mu)をエネルギー(電場)で区切って実体化し、具現化したのが「 空間意識 」で、精神(磁場)で区切って実体化し、具現化したのが「 時間意識 」と考えます。

無(mu)は、エーテルであり、法身(hotsusin)の無(mu)を媒介にして、宇宙からのエネルギーがストレスとして体内に摂取され、その飽和点が「 満足感 」であり、その一定の「 定在波 」が「 人格 」として、行為となって外部に具現化すると思います。

「 定在波 」である「 人間関係 」に「 価値観 」という精神が満足したのが「 六道 」の人間であると思います。

満足感は「 六道 」の一つの「 定在波 」であり、他の「 定在波 」に乗り換えたいと思うとき、「 価値観 」の変化が必要であると思います。

例えば、タバコの喫煙や大麻の喫煙の習慣や人間関係から逃れる行為をするとき、「 価値観 」の変化が求められます。

科学は実験により正当性を保つように、精神である「 思想 」も実践で正当性を保つというのは、「 科学的に考える 」のでは無く、精神(磁場)そのものが行為(電場)により両端を結合されている「 弦 」の「 定在波 」である構造であることだと思います。

「 科学的に考える 」ことが精神や人格の向上に繋がるのではなく、電場と磁場で構成されrた「 意識 」の内在的構造により、精神や人格が向上すると思います。

精神は行為するためにあると考え、現状の行為に満足しない価値観を持つことが、精神や人格の向上になると思います。

価値観が最高であるのは、無(mu)だと思います。

虚無主義の無(mu)ではなく、時間や空間の概念や意識を超越する有(yuu)を持つことです。

呼吸する息から宇宙の果てまで、連続するエーテルが有り、死後は無(mu)になりますが、この無(mu)はエーテルであり、現実にある実有(zituyuu)であり、数億光年先から呼吸する肺の中まで、一気に移動するエーテルです。

空気とエーテルを分離することなく、呼吸している働きをするのは「 小脳 」です。

私は、「 大脳 」の精神(磁場)が、「 心 」や行為(電場)を司る「 小脳 」により「 派生 」したもので、「 小脳 」は「 必然的 」であり、「 小脳の可能性 」というとき、「 必然 」やエーテルを無(mu)としか判断することしかできない、無明(mumyou)な「 大脳 」が考える「 必然性 」と「 小脳 」の「 必然 」との相違だと思います。

「 小脳 」は生死を瞬時に判断し、必然といえるが、「 小脳の可能性 」とは「 心 」であり、エーテルを含まず、合理的な蓋然性であり、「 小脳の可能性 」を無(mu)にすることが、必然に近づくことだと思います。

自己を自然の中に消えさせることは無(mu)になることだが、自己の拡大であり(これは自殺である)、そうではなく、無(mu)を考えの中に入れることであり、絶え間ない自己崩壊が、「 小脳の可能性 」を無(mu)に近づけることだと思います。
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2014年02月23日

2014/2/23、オカルト・エーテル考19・価値観と満足感 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2014/2/16、私の記事


これは、私の考えであり、フィクションです。


情(zyou)は、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などに関するすべての文化や精神であり、とても私には解読する力はありません。

ですから、私だけの、オリジナルな考えを書くことにします。

私は、情(zyou)を情報と考え、知識やすべての文化と考えますが、この情報は、人間の存在を前提とし、「 エーテル 」を含まない、エネルギーから派生したものと考えます。

これらは、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、無(mu)は「 否定 」として無視されていると考えます。

実体と実体が、相当因果関係で結ばれ、エネルギーの段階である、「 因縁や縁起 」は無視されます。

実体と実体は不連続であり、それらは「 関係 」で結ばれるため、関係を選択することが「 実存 」というのかも知れません。

質から質を、量的変化で説明し、エネルギーの変化で説明しても、実体を認識する限り、不連続であると思います。

哲学的に、あるいは科学的に説明しても、気(ki)であるエネルギーが派生した実体の中での説明であり、無(mu)である「 エーテル 」を無視する限り、宇宙を解明することは不可能だと思います。

自分が吸い込む空気と不可分な「 エーテル 」を認識しないで、宇宙が解明されるとは思いません。

この意味で、相対論と量子力学を組み合わせた「 統一理論 」は不可能であると考えます。

私は、エネルギーが伝達される領域を「 エーテル 」と考え、この「 エーテル 」の連続を信じて、実体と実体の不連続を「 エーテル 」の連続で埋めます。

すると、私の「 内的世界 」が「 エーテル 」を媒介にして宇宙と繋がることになるでしょう。

「 エーテル 」の連続を信じることは、時空(時間意識や空間意識)を超越した、無(mu)を信じることであり、無限(mugen)を信じることです。

私は、神はエネルギーであると思いますから、無限(mugen)を信じることは、神(エネルギー)を信じることではありません。

神(エネルギー)の身体(body)を信じることであり、エネルギーが行き着く所を「 信じる 」ことであり、自分の身体から宇宙の果てまでを「 信じる 」ことです。

「 信じること 」は情(zyou)ですから、情(zyou)について考えます。

情(zyou)は、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、エネルギーによる根拠があると思います。

合理的で体系的な知識に必要なのは「 価値観 」で、「 価値観 」により、上下左右や前後などの秩序が保たれると思います。

その一方で、実体を構成するのは「 弦 」です。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

「 弦 」は閉じることにより感情や思想などの波動を生じますが、「 弦 」を閉じるのは、「 価値観 」ではなくて「 満足感 」であると思います。

「 満足感 」により、感情や思想が生じると思います。

「 価値観(kachikan) 」も「 満足感(manzokukan) 」も、同じ「 カン(kan) 」と発音しますが、「 価値観 」の「 カン(kan) 」は「 観る 」という漢字を当て、「 満足感 」の「 カン(kan) 」は「 感覚(kankaku) 」の「 感(kan) 」という漢字を当てます。

私は、「 価値観 」を「 重力 」と考え、「 満足感 」を、「 電気などのエネルギー 」であると考え、前者が「 秩序 」を作り、後者は「 実体 」を作ると考えます。

「 価値観 」である「 重力 」は体系内である限り、等しく存在するのに対し、「 満足感 」は「 感覚 」であり、すべての人が相違するように、個人的で等しく存在せず、各種各人、みんな違います。

前者が「 秩序 」であり、後者は「 実体 」であるのが原因だと思います。

男神を「 プラス 」、女神を「 マイナス 」と考えると、男性は男神の権化であり、女性は女神の権化であり、「 恋愛 」は両者にとって「 不安定 」な状態で、「 結婚 」あるいは「 出産 」が「 安定 」の状態であれば、「 安定 」を作り出すのは「 満足感 」であり「 価値観 」ではないと考えます。

感情や思想や人格は「 電気などのエネルギー 」であり、「 満足感 」で「 安定 」し、「 価値観 」を共有することでは「 安定しない 」と思います。

「 価値観 」は「 満足感 」を破って不安定にするのであり、「 価値観 」は常に不安定です。

「 重力 」は同じ地球の上では同じだが、同じだから「 満足感 」が同じであるとは限らない。

「 重力 」、言い換えると「 価値観 」(秩序)は同じ国、あるいは同じ家庭に住んでいるが、「 満足感 」は違う。

前者と後者はエネルギーが相違し、重力と電気が違うように、エネルギーの作用も違うし、飽和点、あるいは妥協点である「 満足感 」も違うと思います。

「 価値観 」が同じ人と結婚するのではなく、「 満足感 」が同じ人と結婚するから、「 結婚は妥協だ 」と言うのであり、「 価値観の妥協だ 」とは言いません。

プロの選手と一般人と違うのは、「 価値観 」が相違するのではなく、「 満足感 」が違うからだと思います。

このようにして、気(ki)は、情(zyou)の中に介入するのだと思います。

無(mu)は、情(zyou)の中に「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」として、無限(mugen)な無(mu)の存在として介入するのだと思います。

無(mu)を「 否定 」と解釈しないで、思考不能な無(mu)が有(yuu)として存在すると「 信じる 」ことは、人を謙虚にし、地球が回転することを受け入れるように、宇宙を受け入れることに通じると思います。

これは、現実でも、空気を抜いて真空にしても、エネルギーを通す空間を否定することは出来ないことからも、明らかだと思います。



2014/2/23、私の考え

これは、フィクションです。



情(zyou)は、意識であると思いますが、合理的で理性的ですが、エーテルを含まないため、無(mu)を「 否定 」と把握し、無(mu)の存在を認めないと思います。

私は、意識を電磁波的な構造と考え、電場がエネルギーの領域、磁場は精神の領域と解釈し、前者に「 満足感 」で後者に「 価値観 」を当てはめ、「 価値観 」という精神の柱に沿って、「 満足感 」を中心とするエネルギーが変化した実体の「 関係 」があると考えます。

例えば、台風やハリケーンのように、何層もの低気圧(これを関係と考えます)を縦に重ねたような構造が、思考であると考えます。

見るもの聞くもの、五感すべてから取り入れる「 好き 」や「 嫌い 」や「 大小 」という知覚は、電場、つまりエネルギーの関係で安定し、無意識を中心とした「エーテル 」の影響がある安定であるのに対して、「 価値観 」は物と物を秩序づけるエネルギーで合理的で過去の記憶や社会的規範の影響があるエネルギーだと思います。

「 知覚 」から生じる感情や「 価値観 」は行動するための合理的精密機械のようなものですが、「 エーテル 」を含まないため、無(mu)を「 否定 」と考えるため、無(mu)が有(yuu)として有る自分の外部の関係に触れると、エーテルを「 否定 」と考えるため、思ったように事態は進まず、「 ストレス 」が蓄積された状態になると考えます。


つまり、現実を知覚すれば、ストレスになると考えます。


仏教の「 苦(ku)」が「 思うとおりにならないこと 」であるなら、このストレスが「 苦(ku)」であり、「 苦(ku)」が蓄積し、未来になっても逃れられないから、人生は、生・老・病・死と、「 苦(ku)」の連続であると言うのだと思います。

生きている間は苦(ku)の連続であるのは、台風やハリケーンの状態が生まれてから死ぬまで続くようなものです。

私の考えでは、台風やハリケーンが無(mu)から有(yuu)に変化したのではなく、有(yuu)から生まれ有(yuu)に還るように、人間は有(yuu)から生まれ有(yuu)に還るのであり、死によっても無(mu)にはならず有(yuu)であり続けるのだと思います。

有(yuu)とは、物理的にいえば、「 エーテル 」です。

「 ストレス 」を生むのも苦(ku)を生むのも無(mu)である「 エーテル 」であると思います。

「 ストレス 」や苦(ku)を消滅させるのは、無(mu)を有(yuu)、実有として、人間の頭脳の中に取り入れることです。

無意識(muisiki)を無(mu)、あるいは有(yuu)と一致させることで、無(mu)を、何も無い「 否定 」とは考えずに、無(mu)を有(yuu)と考えることだと思います。

無意識(muisiki)を、自然の無(mu)に合わせることは、自然になかに妥協することではありません。

知覚の妥協点である「 満足感 」を否定した「 価値観 」は、頭の中の「 関係 」を更に高次元の「 関係 」の向上することは出来るかも知れませんが、「 否定 」と考えるため、「 自殺 」へも繋がる危険もあると思います。


「 価値観 」で、無(mu)をエネルギーの段階の「 否定 」とは考えずに、「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)であると考えると、絶望している今、「 いかに生きるべきか 」を考えるようになり、「 ストレス 」をいかに発散するかを考えることになると思います。

「 価値観 」という精神で無(mu)を「 無限(mugen)」の有(yuu)と考え、「 生死に関係なく有り続ける 」と決意することは、「 神 」を信じることと同じことであると思います。

「 神 」はどこかに居ると思うから信仰するのであり、それは「 今、ここ 」を超越するものがあると思うから信じるのであり、何も無いことを信じることは「 虚無主義 」になるでしょう。

「 価値観 」という精神で無(mu)を「 否定 」と考えると、人の死によって無(mu)になることは人の否定であり、「 死中死 」であり、「 死んだら終わり 」であり、現実への自己投降、自己喪失であり、現実肯定であると思います。

これは、虚無主義と同じであると思います。

理性の中で、無(mu)を「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)と認めることが「 信仰 」であり、無(mu)を「 否定 」に考えるのが虚無主義であると思います。

無(mu)を「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)と考えたとき、死んだ場合でも有(yuu)であり、生きていても、「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)である証明することが出来ない無(mu)は有ります。

死と生の区別は、生きるという「 満足感 」による実体(存在)の有り無しであり、死によって「 満足感 」を得ようとしても(自殺)、「 今、ここ 」を超越する無限(mugen)の有(yuu)である無(mu)は続き、「 死んだら終わり 」ではなく、無限(mugen)の有(yuu)の中に戻るだけであると思います。

「 死んだら終わり 」と考えても「 死中生有り 」と考えても、人間が認める実体が在ろうと無かろうと、証明することが出来ない「 エーテル 」があるように、無限(mugen)の有(yuu)である無(mu)の連続であることに変化は無い。

「 死んだら終わり 」を選択するか、「 死中生有り 」を選択するかは、「 満足感 」の相違であり太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などから生じる「 価値観 」の違いであると思います。

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2014年02月16日

2014/2/16、オカルト・エーテル考18・価値観と満足感 1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。





2014/2/1、私の記事


これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。


2014/2/16、私の考え


これは、私の考えであり、フィクションです。


情(zyou)は、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などに関するすべての文化や精神であり、とても私には解読する力はありません。

ですから、私だけの、オリジナルな考えを書くことにします。

私は、情(zyou)を情報と考え、知識やすべての文化と考えますが、この情報は、人間の存在を前提とし、「 エーテル 」を含まない、エネルギーから派生したものと考えます。

これらは、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、無(mu)は「 否定 」として無視されていると考えます。

実体と実体が、相当因果関係で結ばれ、エネルギーの段階である、「 因縁や縁起 」は無視されます。

実体と実体は不連続であり、それらは「 関係 」で結ばれるため、関係を選択することが「 実存 」というのかも知れません。

質から質を、量的変化で説明し、エネルギーの変化で説明しても、実体を認識する限り、不連続であると思います。

哲学的に、あるいは科学的に説明しても、気(ki)であるエネルギーが派生した実体の中での説明であり、無(mu)である「 エーテル 」を無視する限り、宇宙を解明することは不可能だと思います。

自分が吸い込む空気と不可分な「 エーテル 」を認識しないで、宇宙が解明されるとは思いません。

この意味で、相対論と量子力学を組み合わせた「 統一理論 」は不可能であると考えます。

私は、エネルギーが伝達される領域を「 エーテル 」と考え、この「 エーテル 」の連続を信じて、実体と実体の不連続を「 エーテル 」の連続で埋めます。

すると、私の「 内的世界 」が「 エーテル 」を媒介にして宇宙と繋がることになるでしょう。

「 エーテル 」の連続を信じることは、時空(時間意識や空間意識)を超越した、無(mu)を信じることであり、無限(mugen)を信じることです。

私は、神はエネルギーであると思いますから、無限(mugen)を信じることは、神(エネルギー)を信じることではありません。

神(エネルギー)の身体(body)を信じることであり、エネルギーが行き着く所を「 信じる 」ことであり、自分の身体から宇宙の果てまでを「 信じる 」ことです。

「 信じること 」は情(zyou)ですから、情(zyou)について考えます。

情(zyou)は、エネルギーによって生まれ、すべてが気(ki)であるエネルギーの実体化であり、人間だけが認識が可能な合理的で体系的な「 内的世界 」であり、エネルギーによる根拠があると思います。

合理的で体系的な知識に必要なのは「 価値観 」で、「 価値観 」により、上下左右や前後などの秩序が保たれると思います。

その一方で、実体を構成するのは「 弦 」です。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

「 弦 」は閉じることにより感情や思想などの波動を生じますが、「 弦 」を閉じるのは、「 価値観 」ではなくて「 満足感 」であると思います。

「 満足感 」により、感情や思想が生じると思います。

「 価値観(kachikan) 」も「 満足感(manzokukan) 」も、同じ「 カン(kan) 」と発音しますが、「 価値観 」の「 カン(kan) 」は「 観る 」という漢字を当て、「 満足感 」の「 カン(kan) 」は「 感覚(kankaku) 」の「 感(kan) 」という漢字を当てます。

私は、「 価値観 」を「 重力 」と考え、「 満足感 」を、「 電気などのエネルギー 」であると考え、前者が「 秩序 」を作り、後者は「 実体 」を作ると考えます。

「 価値観 」である「 重力 」は体系内である限り、等しく存在するのに対し、「 満足感 」は「 感覚 」であり、すべての人が相違するように、個人的で等しく存在せず、各種各人、みんな違います。

前者が「 秩序 」であり、後者は「 実体 」であるのが原因だと思います。

男神を「 プラス 」、女神を「 マイナス 」と考えると、男性は男神の権化であり、女性は女神の権化であり、「 恋愛 」は両者にとって「 不安定 」な状態で、「 結婚 」あるいは「 出産 」が「 安定 」の状態であれば、「 安定 」を作り出すのは「 満足感 」であり「 価値観 」ではないと考えます。

感情や思想や人格は「 電気などのエネルギー 」であり、「 満足感 」で「 安定 」し、「 価値観 」を共有することでは「 安定しない 」と思います。

「 価値観 」は「 満足感 」を破って不安定にするのであり、「 価値観 」は常に不安定です。

「 重力 」は同じ地球の上では同じだが、同じだから「 満足感 」が同じであるとは限らない。

「 重力 」、言い換えると「 価値観 」(秩序)は同じ国、あるいは同じ家庭に住んでいるが、「 満足感 」は違う。

前者と後者はエネルギーが相違し、重力と電気が違うように、エネルギーの作用も違うし、飽和点、あるいは妥協点である「 満足感 」も違うと思います。

「 価値観 」が同じ人と結婚するのではなく、「 満足感 」が同じ人と結婚するから、「 結婚は妥協だ 」と言うのであり、「 価値観の妥協だ 」とは言いません。

プロの選手と一般人と違うのは、「 価値観 」が相違するのではなく、「 満足感 」が違うからだと思います。

このようにして、気(ki)は、情(zyou)の中に介入するのだと思います。

無(mu)は、情(zyou)の中に「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」として、無限(mugen)な無(mu)の存在として介入するのだと思います。

無(mu)を「 否定 」と解釈しないで、思考不能な無(mu)が有(yuu)として存在すると「 信じる 」ことは、人を謙虚にし、地球が回転することを受け入れるように、宇宙を受け入れることに通じると思います。

これは、現実でも、空気を抜いて真空にしても、エネルギーを通す空間を否定することは出来ないことからも、明らかだと思います。
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2014年02月09日

2014/2/9、オカルト・エーテル考17・ゴーギャン考

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2014/2/2、私の記事


これは、フィクションです。


私が、「 無(mu)」の存在を、エネルギーを交換する場であるエーテルとするのは、私のブログの都合上であるから、無視していただいても結構です。

私は、「 今、ここ」で、「 今 」の中で「 永遠 」なもの、「 ここ 」のなかで、無限(mugen)に遠くて無限(mugen)に近いもの、即ち「 今、ここ 」を超越するものは何かを考えます。

私は、時間を時間意識、空間を空間意識という脳波(電磁波)の定在波で、情(zyou)であると考えますから、情(zyou)では解決不可能なもの、情(zyou)を生じさせるものが「 超越 」と考えるなら、それは気(ki)である「 エネルギーやエーテル 」であると考えます。

私は、時間は時間意識、空間は空間意識という情(zyou)であり、それが「 過去や現在や未来 」を作ると考えますから、「 超越 」は、「 過去や現在や未来 」の超越を考えるのではなく、情(zyou)には無いもの、つまり情(zyou)が無視して来たものが超越として現れたものであると思います。

私は、哲学で「 空間 」といいながら、本当に「 空間 」を考えたのか疑問に思います。

エネルギーを含んだ空間が「 エーテル 」ならば、「 エーテル 」を考えることが「 超越 」を考えることであると思います。

存在しないから「 無(mu)」と考えるのではなく、すべての存在と共存する「 有(yuu)」であると考えることは前述しました。

呼吸で吸い込むのは空気だけでなく「 エーテル 」も吸い込んでいて、その「 エーテル 」は無限のかなたまで連続してひろがり、吸い込む「 エーテル 」も無限にひろがる「 エーテル 」も、情(zyou)では、認識することが出来ない「 無(mu)」であるが、存在を否定することが出来ない「 無(mu)」であると思います。

死んで、人間の身体は宇宙のゴミとなっても、エーテル(涅槃)という「 無(mu)」になります。

「 無(mu)」は、存在の否定ではなく、すべての存在を受け入れる「 有(yuu)」となり、空気のエネルギーと共に連続して、人体の中に出入りすると思います。

このように考えるとき、死に向かう人が、残された人に向かって「 私は星になってあなたを見守る 」ということや「 いつもあなたのそばで、見守っている 」とか「 私を呼べば、すぐ来てあげる 」ということが同時に成立するのです。

「 死に向かう人 」が、聖人や仏陀であっても、一般人であっても同じです。

こうして、エーテルや「 無(mu)」を考えることにより、物理と哲学と宗教が結びつくと思います。


2014/2/9、私の考え


これは、フィクションです。


このように、宇宙を「 エーテル 」を必須とするひとつの弦と考え、太陽系、地球、国家、社会、民族、親、子、DNAなどの「 弦 」の積み重ねが「 実体 」という「 意識 」であり、意識が「 エーテル 」を欠いた虚の世界であり、意識の中の「 無常(muzyou) 」や「 無明(mumyou) 」が、エネルギーと一体となった、連続する「 エーテル 」であり、意識は無意識(muisiki)の無(mu)で「 弦 」を閉じる、あるいは結合していると考えます。

因縁は気(ki)の領域であり、方向が不明のエネルギーであり、情(zyou)の領域である因果関係は「 物語 」であり、思考を一定の方向に向けるために、ストレスを生むと思います。

「 エーテル 」は、考えられない、証明することが出来ないから、情(zyou)の中では、無(mu)であり、意識は無意識で繋がった弦であり、その弦の定在波が、人間の存在を示す「 人格 」と考えます。

情(zyou)は、太陽系、地球、国家、社会、民族、親、子、DNAなど多岐に別れ、その数だけ相違する「 実体 」が存在することになります。

死後は、逆にたどるだけで、「 エーテル 」が無い、大脳で考える関係で縛られた「 実体 」から解放されて、「 エーテル 」を必須とするひとつの弦である無(mu)に戻るのですが、その無(mu)は、前述しましたように、すべての「 実体 」を受け入れる有(yuu)あり、「 今、ここ 」を超越した「 実有 」であると思います。

人間は無(mu)を知らないので、有(yuu)も知らず、すべてが無(mu)と、すべてが有(yuu)とは、同義であると考えます。

私は、ゴーギャンの「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」に対しては次のように考えます。

無(mu)から、神の力(エネルギー)により、関係という弦のエネルギーに縛られた「 実体 」になり、死により再び無(mu)に戻るが、無(mu)は何も無いという否定ではなく、現実の存在をすべて包摂する有(yuu)であり、「 今、ここ 」を超越した有(yuu)に戻ると思います。

「 エーテル 」やエネルギーを無視した原因と結果の物語の世界から、「 エーテル 」やエネルギーを必須とし、物語を作る因縁(無明(mumyou))の世界へ戻ると思います。

大地に雪が降り、雪を固めて(関係で縛って)実体を作り、雪が融けたあとには、縛った痕跡と大地に水が残るように、実体は無(mu)に変化しても、総体である有(yuu)は変化しないと思います。 

生物は死により、(意識により)否定された無(mu)には戻らず、有(yuu)に戻り、エネルギー(神)の関係により再び「 実体 」となると考えます。

それが、輪廻転生を肯定する考えを生むと思います。

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2014年02月02日

2014/2/2、オカルト・エーテル考16・存在の謎4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の記事

これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。



2014/2/1、私の記事


これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。



2014/2/2、私の考え


これは、フィクションです。


私が、「 無(mu)」の存在を、エネルギーを交換する場であるエーテルとするのは、私のブログの都合上であるから、無視していただいても結構です。

私は、「 今、ここ」で、「 今 」の中で「 永遠 」なもの、「 ここ 」のなかで、無限(mugen)に遠くて無限(mugen)に近いもの、即ち「 今、ここ 」を超越するものは何かを考えます。

私は、時間を時間意識、空間を空間意識という脳波(電磁波)の定在波で、情(zyou)であると考えますから、情(zyou)では解決不可能なもの、情(zyou)を生じさせるものが「 超越 」と考えるなら、それは気(ki)である「 エネルギーやエーテル 」であると考えます。

私は、時間は時間意識、空間は空間意識という情(zyou)であり、それが「 過去や現在や未来 」を作ると考えますから、「 超越 」は、「 過去や現在や未来 」の超越を考えるのではなく、情(zyou)には無いもの、つまり情(zyou)が無視して来たものが超越として現れたものであると思います。

私は、哲学で「 空間 」といいながら、本当に「 空間 」を考えたのか疑問に思います。

エネルギーを含んだ空間が「 エーテル 」ならば、「 エーテル 」を考えることが「 超越 」を考えることであると思います。

存在しないから「 無(mu)」と考えるのではなく、すべての存在と共存する「 有(yuu)」であると考えることは前述しました。

呼吸で吸い込むのは空気だけでなく「 エーテル 」も吸い込んでいて、その「 エーテル 」は無限のかなたまで連続してひろがり、吸い込む「 エーテル 」も無限にひろがる「 エーテル 」も、情(zyou)では、認識することが出来ない「 無(mu)」であるが、存在を否定することが出来ない「 無(mu)」であると思います。

死んで、人間の身体は宇宙のゴミとなっても、エーテル(涅槃)という「 無(mu)」になります。

「 無(mu)」は、存在の否定ではなく、すべての存在を受け入れる「 有(yuu)」となり、空気のエネルギーと共に連続して、人体の中に出入りすると思います。

このように考えるとき、死に向かう人が、残された人に向かって「 私は星になってあなたを見守る 」ということや「 いつもあなたのそばで、見守っている 」とか「 私を呼べば、すぐ来てあげる 」ということが同時に成立するのです。

「 死に向かう人 」が、聖人や仏陀であっても、一般人であっても同じです。

こうして、エーテルや「 無(mu)」を考えることにより、物理と哲学と宗教が結びつくと思います。

2015/1/28、私の現在の考え 4 存在 
カテゴリー、足跡 T
 を参照
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2014年02月01日

2014/2/1、オカルト・エーテル考15・存在の謎 3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の記事

これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。



2014/2/1、私の考え



これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。
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2014年01月30日

2014年01月29日

2014/1/29、二見浦と伊勢内宮への旅 U 二見浦

2014/1/27、伊勢神宮に参拝しました。

今年、撮影した、二見浦の夫婦岩の写真です。


IMGA0009.JPG
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2014年01月26日

2014/1/26、オカルト・エーテル考14・存在の謎2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。






2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の考え



これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。


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2014年01月19日

2014/1/19、オカルト・エーテル考13・存在の謎

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/12/29、私の記事

これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。


2014/1/5、私の記事



これは、フィクションです。



以上より、宇宙(これは、私の身体を出入りする空気も宇宙だと考えます)は、一つの物質ではない「 無(mu)」という弦であり、すべてを包摂するが、情(zyou)により、エーテル、大気、物質、意識と区別しているのであり、「 死 」により、そのすべての区別が解かれて、人類は宇宙と一つになると考えます。

「 弦(gen)」は、YouTube などを拝見しますと、バイオリンのような弦ではなく、丸い輪のような形状をしていると想定します。

無限小が素粒子で、無限大が宇宙と言いましたが、丸い輪でもバイオリンの絃であっても、情(zyou)は、「 始めと終わり 」で「 有 」を区別するのだと思います。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。のは相対論者です。

私は、エーテルが、物質ではない「 無(mu) 」として宇宙のすべてを満たす「 実有 」であると思います。

「 実有 」は、すべての規定(物質や意識)を受け入れ、すべてを否定する「 有 」であり、意識で否定しても、否定しても、疑いなく「 実在する 」「 有 」で、これが宇宙を満たしている、一つの「 弦 」や「 膜 」であると思います。

先に述べましたように、「 死 」により地獄や極楽に行くのではなく(それは、政治的、宗教的、社会的、教育的な善なる行為を推奨する結末)、「 実有 」で「 無(mu)」である一つの「 弦 」に回帰することであり、すべての情(zyou)の規定を拒み、包摂する「 無(mu) 」であるエーテルに回帰することであると思います。

情(zyou)による区別は以下のように考えます。

エーテルは情(zyou)で規定することができないから「 無限(mugen) 」であり、「 永遠 」と想定し、エネルギーは、日本では「 神 」に「 男神 」と「 女神 」があるように、プラスとマイナスという始まりと終わりを持つ、「 気(ki) 」であると想定します。

「 物質 」は素粒子の集まりですから、「 弦(gen)」の組み合わせだと想定します。

人体は宇宙の一部と考えると、暗黒物質の一部でしょうし、「 魔法のランプ 」の一部でしょう。

意識も、「 始めと終わり 」があり、私が今まで「 定在波 」と言って来たのが「 弦(gen) 」でしょうし、「 始めと終わり 」が無意識というエネルギーから生まれるとすれば、「 弦(gen) 」は一定のエネルギーであると考えます。

「 存在 」という「 存在意識 」は、エネルギーから生まれた「 弦(gen) 」であり、「 弦(gen) 」が集合した「 束 」が、「 定在波 」となり「 人格 」となり、何を好み、何に快楽を求めるかの「 弦(gen) 」の違いが「 人格 」の違いであると思います。

この「 束 」の成立に、プラズマ宇宙論を考えます。

このように考えると、意識から人格からエネルギーやエーテルが「 弦(gen) 」でつながり、すべてが、「 無(mu) 」という「 実有 」のエーテルの中での「 有 」であり、前述した気(ki)と情(zyou)の特徴は、「 無(mu) 」と「 有 」、エネルギーやエーテルと意識を分ける結界だと考えます。


2014/1/19、私の考え



これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。


参考


「 エーテル 」とは
アインシュタインは「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。
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2014年01月12日

2014/1/12、OfficeSuite Pro 7 で串刺し集計をする

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2014/1/12、私の考え



私の業務の一つに、一日の集計を報告し、その集計表を月末に集計する業務があります。

私は、この業務に、パソコンで作った表計算を、SkyDrive をとおして、officeSuite Pro 7 でデーターを入力するようにしました。

表計算(エクセル)の「 串刺し集計 」をパソコンで作成して、データーを入力したところ、officeSuite Pro 7で、エクセルエラーが現れました。

「 串刺し集計 」を、エクセル関連の本で作っても、ネットの情報で作っても、エクセルエラーが表示されました。

私は、officeSuite Pro 7 で「 串刺し集計 」は出来ないのだろうかと疑いました。

しかし、本やネット情報の入力方法ではなく、エクセルの基本の入力をすれば、officeSuite Pro 7 で、エクセルエラーが出ないと知りました。

officeSuite Pro 7 ではなく、自分の入力方法に間違いがあったのです。


以下は、私の体験談です。



@ 理想的な一日の集計表を作る(エクセルの本を参照)。

A このシートを、31回コピーして、名前を付ける(エクセルの本を参照)。
(たとえば、一日、二日、三日と31日まで作り、最後に集計シートを作る)

B この31枚のシートを「 串刺し集計 」するのだが、もしパソコンを使うなら、エクセルの本やネット情報で作成することが出来る。


このパソコンで作った「 串刺し集計 」を、officeSuite Pro 7 で使いたい場合は、エクセルの本やネット情報ではなく、次のような入力をすれば可能です。

まず、集計したいセルをクリックする。

関数入力のタブ(Fx)をクリックして「SUM 」を選択する。

すると、「 セル範囲に含まれる数値をすべて合計します 」という言葉とともに、「 数値1 」「 数値2 」という数値を入力する欄が現れる。

そこで、「 数値1 」に、合計したいセルを入力する(1〜255個まで入力することが出来る)。

(たとえば、集計したいセルがB2のセルなら、「 一日 」のシートのB2をクリックし、次に「 二日 」のシートのB2をクリックし、続けて「 三日 」のシートのB2と、31日まで、続けて入力すると、パソコンが自動的に加算してくれる)

入力が終わったら、「 エンターキー 」をクリックする。

この一つのセルに入力が終わり、残ったセルも、同じ「 串刺し集計 」するのなら、書式をコピーすればよい(エクセルの本を参照)

このように、本やネット情報の入力方法ではなく、エクセルの基本の入力をすれば、Skydriveにアップロードし、スマートフォンのSkyDriveでofficeSuite Pro 7 の、テンプレートに保存すれば、エクセルエラーが出ない「 串刺し集計 」をつかうことが出来ると知りました。

間違いは無いと思いますが、一度、お試しください。

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2014年01月11日

2014/1/11、3月31日で、LOVELOG の終了




『LOVELOG』サービス提供の終了について

2014年1月8日

KDDI株式会社
沖縄セルラー電話株式会社

平素はLOVELOGをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。

au one net会員さまおよびauひかり ちゅらご契約のお客さま向けに無料で提供しておりましたブログサービス『LOVELOG』につきまして、サービスの提供を終了することになりました。
ご利用中のお客さまのブログの新規投稿・編集(既存記事の編集や削除も含みます)は2014年3月31日(月)まで、ブログの閲覧は2014年6月30日(月)を持ちまして終了します。
これまで長きにわたりご愛顧いただき、誠にありがとうございました。

LOVELOGサービス提供の終了に伴いまして、現在ご利用中のお客さまには、シーサー株式会社が提供する『Seesaaブログ』へ移行して引き続き同様のブログサービスをご利用できるよう準備を進めています。
ブログデータ移行機能をご利用できるようになり次第、改めてトピックスおよびLOVELOGトップページなどでお知らせします。


2014/1/11



ブログの新規投稿・編集(既存記事の編集や削除も含みます)は2014年3月31日(月)で終了します。

そろそろ、私のブログの総括をしなければならないでしょう。

LOVELOG で書いたことは、気(ki)と情(zyou)や、エーテルや無(mu)と気(ki)と情(zyou)の関係で結論は出ていると思います。

この結論を総括して、これまで書いてきた「 カテゴリー 」に対して、結びとなるコメントを書いていこうと思います。

3月31日で、すべてを終わらせる自信は無いが、努力したいと思います。
posted by kandk55 at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 2010年からの日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月05日

2014/1/5、オカルト・エーテル考12・無(mu)と気(ki)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。






2013/12/29、私の記事

これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。


2013/12/31、私の記事

これは、フィクションです。



このように、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、「 無限(mugen) 」の「 弦(gen) 」であることは、私にとっては、重要な帰結になります。

音波が大気という媒体が無ければ伝わらないように、「 波 」は媒介が無ければ伝わらないと思います。

「 電磁波 」や「 重力波 」も「 媒体 」が必要で、その「 媒体 」は「 エーテル 」であると思います。

相対論も量子論も「 エーテル 」を無視してきましたが、それが原因で、物理学と哲学と宗教に「 間 」を作り、不連続で異質な「 学問 」としたのだと思います。

私にとって、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、無限大から無限小まで「 無限(mu) 」の「 弦(gen) 」であることを認めることが、物理から形而上学を統合する情(zyou)になると思います。

これは、私の勝手な結論であり、同調を求めません。


2014/1/5、私の考え



これは、フィクションです。



以上より、宇宙(これは、私の身体を出入りする空気も宇宙だと考えます)は、一つの物質ではない「 無(mu)」という弦であり、すべてを包摂するが、情(zyou)により、エーテル、大気、物質、意識と区別しているのであり、「 死 」により、そのすべての区別が解かれて、人類は宇宙と一つになると考えます。

「 弦(gen)」は、YouTube などを拝見しますと、バイオリンのような弦ではなく、丸い輪のような形状をしていると想定します。

無限小が素粒子で、無限大が宇宙と言いましたが、丸い輪でもバイオリンの絃であっても、情(zyou)は、「 始めと終わり 」で「 有 」を区別するのだと思います。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。のは相対論者です。

私は、エーテルが、物質ではない「 無(mu) 」として宇宙のすべてを満たす「 実有 」であると思います。

「 実有 」は、すべての規定(物質や意識)を受け入れ、すべてを否定する「 有 」であり、意識で否定しても、否定しても、疑いなく「 実在する 」「 有 」で、これが宇宙を満たしている、一つの「 弦 」や「 膜 」であると思います。

先に述べましたように、「 死 」により地獄や極楽に行くのではなく(それは、政治的、宗教的、社会的、教育的な善なる行為を推奨する結末)、「 実有 」で「 無(mu)」である一つの「 弦 」に回帰することであり、すべての情(zyou)の規定を拒み、包摂する「 無(mu) 」であるエーテルに回帰することであると思います。

情(zyou)による区別は以下のように考えます。

エーテルは情(zyou)で規定することができないから「 無限(mugen) 」であり、「 永遠 」と想定し、エネルギーは、日本では「 神 」に「 男神 」と「 女神 」があるように、プラスとマイナスという始まりと終わりを持つ、「 気(ki) 」であると想定します。

「 物質 」は素粒子の集まりですから、「 弦(gen)」の組み合わせだと想定します。

人体は宇宙の一部と考えると、暗黒物質の一部でしょうし、「 魔法のランプ 」の一部でしょう。

意識も、「 始めと終わり 」があり、私が今まで「 定在波 」と言って来たのが「 弦(gen) 」でしょうし、「 始めと終わり 」が無意識というエネルギーから生まれるとすれば、「 弦(gen) 」は一定のエネルギーであると考えます。

「 存在 」という「 存在意識 」は、エネルギーから生まれた「 弦(gen) 」であり、「 弦(gen) 」が集合した「 束 」が、「 定在波 」となり「 人格 」となり、何を好み、何に快楽を求めるかの「 弦(gen) 」の違いが「 人格 」の違いであると思います。

この「 束 」の成立に、プラズマ宇宙論を考えます。

このように考えると、意識から人格からエネルギーやエーテルが「 弦(gen) 」でつながり、すべてが、「 無(mu) 」という「 実有 」のエーテルの中での「 有 」であり、前述した気(ki)と情(zyou)の特徴は、「 無(mu) 」と「 有 」、エネルギーやエーテルと意識を分ける結界だと考えます。

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2013年12月31日

2013/12/31、オカルト・エーテル考11・無(mu)と気(ki)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。






2013/12/29、私の記事

これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。


2013/12/31、私の考え


これは、フィクションです。



このように、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、「 無限(mugen) 」の「 弦(gen) 」であることは、私にとっては、重要な帰結になります。

音波が大気という媒体が無ければ伝わらないように、「 波 」は媒介が無ければ伝わらないと思います。

「 電磁波 」や「 重力波 」も「 媒体 」が必要で、その「 媒体 」は「 エーテル 」であると思います。

相対論も量子論も「 エーテル 」を無視してきましたが、それが原因で、物理学と哲学と宗教に「 間 」を作り、不連続で異質な「 学問 」としたのだと思います。

私にとって、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、無限大から無限小まで「 無限(mu) 」の「 弦(gen) 」であることを認めることが、物理から形而上学を統合する情(zyou)になると思います。

これは、私の勝手な結論であり、同調を求めません。

これから、「 無(mu)」から、気(ki)へ、「 無(mu)」と気(ki)から情(zyou)へと述べるのですが、先ほどの、音波が大気という媒体が無ければ伝わらないように、「 波 」は媒介が無ければ伝わらず、「 電磁波 」や「 重力波 」も「 媒体 」が必要で、その「 媒体 」は「 エーテル 」であるというのが、「 無(mu)」と気(ki)の関係であると考えます。

電磁波が地球の大気が無くても発生し、大気が無くても伝わることは、電磁波が「 エーテル 」を媒介として伝わることを示していると考えます。

エネルギーである気(ki)の媒体は「 エーテル 」であり「 無(mu)」であり、「 実有 」であり「 弦(gen) 」であり、宇宙が「エーテル 」という「 無(mu)」が連続していると考えると、エネルギーという気(ki)も「 連続 」していることになり、「 実有 」であり、「 流れるもの 」であると考えます。

この「 無(mu) 」が人間の中の「 無意識 」を通じていて、「 無意識(muisiki) 」の根本である「 小脳 」と「 無(mu) 」が繋がっていると考え、「 小脳 」の領域は「 無(mu)」であると考えると「 大脳 」の領域である情(zyou)の「 下部組織 」ではないと思います。

無意識や無(mu)や気(ki)の中心はエネルギーの中心であり、意識の中心である精神の中心とは一致せず、前者が「 エーテル 」を必須とするのに対し、後者は「 エーテル 」を無視することも、一致しない原因であると考えます。

後者は、「 無(mu)」を「 実有 」と考えるのではなく、単に「 存在しないもの 」と考えるのかも知れませんが「 有 」とは「 存在 」ではなく、人類は「 有 」も「 無(mu)」も経験していないのに、情(zyou)の都合で、「 無(mu) 」である「 エーテル 」を考えないことにしようという「 協定 」を設けているがゆえに、いつまでも「 真実 」を求めているのだと思います。

ありとあらゆるものを包摂する「 エーテル 」が「 有 」であると私は思います。
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2013年12月29日

2013/12/29、オカルト・エーテル考 10・エーテルは実有であり、無である

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。




2013/11/24、私の記事


これは、フィクションです。


このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、、頭脳の「 魔法のランプ 」がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると、以前、書きました。

後者の理論である、量子力学と相対論を組み合わせて宇宙を考える人もいますが、私は、エーテルを考慮しない「 内なる世界 」の考えは、間違いであると思います。

このことは、物理学だけでなく、哲学や宗教学も、同様であると考えます。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。


私は、「 エネルギー 」が伝達する空間を「 エーテル 」とし、これが「 永遠 」で「 不変 」であると考えます。

「 エネルギー 」が一定の条件で物質になり(E=MC2)、その物質により判断する「 内なる世界 」は相対的であり、「 諸行無常 」であり「 万物は流転する 」のであり、「 永遠 」や「 不変 」であるのは「 内なる世界 」には構造として存在しない「 エーテル 」であると考えます。

「 存在(意識)しないもの 」を「 存在(意識)する 」と考えることが「 不変 」や「 永遠 」を考えることだと思いますが、存在(意識)を変化させるので、「 相対的 」を「 絶対的 」にすることで、「 自我を否定 」することで、社会的には「 狂気 」という評価を得るかも知れませんが、これが「 永遠 」を求めることであり、「 神 」を信じることだと思います。

「 神 」を信じるためには「 エーテル 」を考えることが必須だと考えます。

「 エーテル 」という気(ki)が「 実有 」であり、「 諸行無常 」という情(zyou)は「 エネルギー 」と「 物質 」が流動的であることで、気(ki)を原因とする「 現象 」であり「 相対的 」な存在意識であると思います。

「 実有 」は存在意識という情(zyou)を含む気(ki)であり、あらゆる現象を包摂する空間で、人間の情(zyou)では、「 時間 」や「 速度 」では想定不能の「 空間 」だと思います。

「 空間 」として考える限り情(zyou)であり、測定不能の「 場 」であると考えます。

真空でも、地上のリンゴが落ちるとき、「 重力 」というエネルギーは測定可能だが、「 エネルギーが働く場 」は意識で測定不能であるが「 実有 」するように、「 エーテル 」は意識とは無関係に「 実有 」するのだと思います。



2013/12/29、私の考え


これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。




無(mu)(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1


四諦(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

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2013年12月23日

2013/12/23、携帯電話と人生・OfficeSuite 7 とSkyDrive とパソコン2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/12/23、私の考え



これは、私の拙い体験談です

前日の説明では、不明瞭なところがあると思いますので、補足します。


@ パソコンからスマートフォンに保存するまでの行程。

パソコンでワード(エクセル)文章を作成します。

パソコンのSkyDrive を開き、アップロードします。

スマートフォンのSkyDrive を開き、アップロードされているのを確認します。

アップロードされたファイル名を選択しますと、アプリケーションと、「 常時 」か「 1回のみ 」かをを聞いてきます。

「 OfficeSuite pro 7」 で「 常時 」を選びます。

スマートフォンにダウンロードされてパソコンで作成したワード(エクセル)文章が出てきます。

下部の機能を押して、保存先をテンプレートにします。

(これは、別の保存先もありますが、便宜上、テンプレートにします。)

保存されます。

OfficeSuite pro7のテンプレートを開いて保存されているか確認します。


(最初のとき、よく憶えていませんが、確認できず、Officesuite pro 7 で常時を選んで「 PDFで送る 」を選んだと思います。二度目からは、「 PDF 」を選ばなくても、テンプレートに保存されると思います。そして、エクセルは必要ないかも知れません)

確認後、変更が必要ならば変更して、保存先をテンプレートにして、ファイル名を選べば上書きして保存されます。

このとき、保存先として

Excelブック 
Excel97-2003ブック
Csv(カンマ区切り)
テンプレート

という選択先がありますから、好きなところに保存できます。

私は、保存先をテンプレートにして、ファイル名を選んで保存しました。

(このテンプレートからでも、他の選択先に保存することも出来ます)

これで、パソコンで作成した文書をスマートフォンで保存することが出来ました。



スマートフォン側で削除するとき。

パソコンで作成した文書が不要であるとき、保存先のテンプレートを開き、文章を開かないようにして、ファイル名に上を下に圧迫します。

すると、「 ファイルオプション 」が表示されて「 名前を変える 」とか「 削除 」する項目が現れ、「 削除 」を押すと削除されます。

SkyDrive にアップロードしたワード(エクセル)文書を削除する場合は、スマートフォンでSkyDrive を開き、左側にチェックして、「 ゴミ箱 」を押せば削除されます。

パソコン側で削除するときは

SkyDrive を開き、当該ファイル名を「 右クリック 」すれば、削除することが出来ます。



A スマートフォンで作成した文書をパソコンに保存するのは、前日、書いたとおりであり下に再掲します。





次に、スマートフォンで作成した文章をパソコンに保存することが出来るかについてです。

T、スマートフォンで作成したワードやエクセルを「 SkyDrive 」にアップロードする。

スマートフォンでエクセル文書を作るとき、「 officeSuite 7 Pro 」の「 テンプレート 」にも保存したほうが良いと思います。
(後日、SkyDrive にアップロードするとき、SDカードを開きますが、その中に「 My Templates 」というファイル名なので容易に判明するから)

スマートフォンにダウンロードしてインストールした「 SkyDribe 」を開き、下部にあるアップロードをクリックすると、「 写真と動画のアップロード 」か、あるいは「 ファイルのアップロード 」か? を聞いてきます。

「 ファイルのアップロード 」を選択すると、スマートフォンのSDカードの内容が表示されます。

そのSDカードの中から作成したワードやエクセルのファイルやパソコンからダウンロードしたファイルを選んでアップロードします。

すでに、アップロードした文書は、officesuiteの「 リモートファイル 」で「 SkyDrive 」を選び文章を呼び出して修正します。

それを上書きで保存します。

それは、skyDriveへのアップロードとなります(エクセルもワードも同じです)。

U、スマートフォンで作成したワードやエクセルの文書を、パソコンに取り込みワードやエクセルの文章で保存する。



スマートフォンからパソコンへの取り込みは、パソコン側のOutlookの「 ファイル共有 」を使います。

私は、Outlook 2010 を使用しています。

パソコン側の、Outlook の「 オフィスナビ 」で「 ファイル共有 」を選び、「 SkyDrive」にログインして、スマートフォンからアップロードした文書を選んで呼び出します。

「 ワード文章 」も「エクセル文書 」も同じです。


「 SkyDrive 」から呼び出したエクセル(ワード)文書を、そのまま保存するときは、まず、「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選びます。

つぎに、「 ダウンロード 」を選び、クリックしますと、「 開くか 」または「 保存する 」か?とパソコンが聞いてきます。

「 ファイルを開く 」をクリックします。

「 エクセル 」の場合、「 エクセルで開く 」を選んだとき、も「 ファイルを開く 」段階になります。

エクセルが立ち上がって、入力画面になりますが、上部に「 保護されたビュー 」と表示しますので、「 編集を有効にする 」をクリックします。

すると、普通のエクセル(ワード)の画面になります。

それから「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選ぶと、保存先の「 マイドキュメント 」が表示されるので、「 保存 」をクリックすればパソコンに保存することが出来ます。

保存する前に修正ができますが、「 ワード 」の場合は、それ以外の修正の方法もあります。

ワード文書の場合、「 編集して保存する 」ことを選ぶと「 電子メールアドレス 」と「 パスワード 」を聞いてきますが、これはSkyDriveのアカウントを設定したときのものを入力します。

「 ワード 」が開き、「 編集を有効にする 」をクリックします。
編集をして、「 ファイル 」をクリックして「 名前をつけて保存する 」を選ぶと、保存する場所を聞いてきますので、そのとき左側の「 ライブラリ 」の中の「 ドキュメント 」を指定して保存しますと、パソコンの「 ドキュマント 」に「 ワード文書 」として保存されます。
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2013年12月22日

2013/12/22、携帯電話と人生・OfficeSuite 7 とSkyDrive とパソコン

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/12/15、私の記事


これは、みなさんには既知のことだと思いますが、エクセルとスマートフォンのアプリである「 OfficeSuite 7 pro について、私の体験談を書かせてもらいます。



学んだこと

@ 自分のパソコンのメールの添付書類を読み取れるように、スマートフォンを準備した方がよい。

A 私の場合、自分のパソコンから、自分のパソコンに、エクセル表計算のデーターを添付して送信する。
自分のパソコンの受信トレイから、その添付物を、スマートフォンで読み取り、保存することにより、パソコンとスマートフォンが連携する。

B エクセルの表計算はパソコンで作り、仕事場でデーターを入力して計算した方がよい。
計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)。
このことは、別の方法を発見したので、後日、書きます。

C 自分のパソコンから自分のパソコンへ、エクセルの表計算を添付して送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、自然の「 Office Suite 7 」に保存される(有料の場合は、ダウンロードのファイル)。


2013/12/16、私の記事


これは、拙い体験談です



D 上記のように、メールを送信するしか方法は無いのだろうか?

もっと、簡単にパソコンとスマートフォンを連携することが出来ないだろうか?

と考えたとき、「 OfficeSuite 7 」の中にある、「 リモートファイル 」の「 クラウド 」を利用することに気づきました。

「 リモートアカウント追加 」の中で、5種類のクラウドが選択できますが、わたしはマイクロソフトの「 SkyDrive 」に決めました。

パソコンで「SkyDrive 」のアカウントを取得して開くと、写真や文書をアップロードすることが出来ることを知りました。

そこで、エクセル文書をアップロードしました。

そのあとは、携帯電話で、「 リモートファイル 」の「SkyDrive 」を選択して、アップロードしたエクセル文書を保存するだけでした。

このように、メールだけでなく、「 クラウド 」を使うことで、簡単にパソコンと連携することが出来ました。

E 次に、計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)方法ですが、「 上書き 」する方法と、消去するセルを選択して消去する方法があります。



2013/12/22、私の考え



これは、私の拙い体験談です。


みなさんには、すでに既知のことだと思いますが、マイクロソフト社のアプリケーションである「 SkyDrive 」と「 officeSuite 7 Pro 」と「 パソコン 」の連携についてです。

私のスマートフォンとパソコンをUSBでつなぐことは出来ません。

そこで、パソコンとスマートフォンの繋がりですが、私はマイクロソフト社の「 SkyDrive 」を利用したいと思いました。

このアプリケーションを利用すれば、OfficeSuit 7 Proからは「 リモートファイル」の中の「 SkyDrive 」を呼び出してダウンロードするだけで、パソコンでアップロードしたデーターを得ることが出来るし、OfficeSuite 7 Pro で作成したり加工したデーターは、スマートフォンの「 SkyDrive 」にアップロードし、パソコン側のOutlook2010の「 ファイル共有 」の「SkyDrive 」を使って簡単にスマートフォンからパソコン側で受け取り、エクセルやワード文書に変換することが出来ることを知りました。

それには、まず@ パソコンで「 Sky Drive 」を検索して、自分のメールと暗証番号を入力して、「 アカウント 」を取得します。

「 SkyDrive 」の内部では、「 アップロード 」の箇所がありますから、パソコンの中の文書やエクセルや写真をアップロードします。
(このアップロードは短時間で済みます)

A その後、スマートフォン(私の場合はandroidです)のGoodle社のGooglePlay のアプリケーションの中にある「 SkyDrive 」をダウンロードしてインストールします。

パソコンの「 SkyDrive」の「 アカウント取得 」やアップロードも無料ですし、容量は7ギガまで無料です。

Google社のGoogle Play の中にある「 SkyDrive 」をダウンロードやインストールすることも無料です。

B スマートフォンにインストールした「 SkyDrive 」を開き、パソコンで入力したメールアドレスと暗証番号を入力して「 サインイン 」すれば、パソコンとスマートフォンの「 SkyDrive 」が一致し、パソコンでアップロードした文書やエクセルや写真を閲覧し、ダウンロードして「 OfficeSuite 7 pro 」で加工することが出来ますし、写真はスマートフォンのピクチャに保存することも出来ます。

スマートフォンに「 officeSuite 7Pro 」をインストールし、パソコンとスマートフォンの両方に「 SkyDrive 」のアプリケーションをインストールすれば、メールなどを使わず、「 SkyDrive 」を使って、パソコンの内部データーを簡単にスマートフォンへダウンロードして、加工や保存することが出来ます。



C次に、スマートフォンで作成した文章をパソコンに保存することが出来るかについてです。

T、スマートフォンで作成したワードやエクセルを「 SkyDrive 」にアップロードする。

スマートフォンでエクセル文書を作るとき、「 officeSuite 7 Pro 」の「 テンプレート 」にも保存したほうが良いと思います。
(後日、SkyDrive にアップロードするとき、SDカードを開きますが、その中に「 My Templates 」というファイル名なので容易に判明するから)

スマートフォンにダウンロードしてインストールした「 SkyDribe 」を開き、下部にあるアップロードをクリックすると、「 写真と動画のアップロード 」か、あるいは「 ファイルのアップロード 」か? を聞いてきます。

「 ファイルのアップロード 」を選択すると、スマートフォンのSDカードの内容が表示されます。

そのSDカードの中から作成したワードやエクセルのファイルやパソコンからダウンロードしたファイルを選んでアップロードします。

すでに、アップロードした文書は、officesuiteの「 リモートファイル 」で「 SkyDrive 」を選び文章を呼び出して修正します。

それを上書きで保存します。

それは、skyDriveへのアップロードとなります(エクセルもワードも同じです)。

U、スマートフォンで作成したワードやエクセルの文書を、パソコンに取り込みワードやエクセルの文章で保存する。



スマートフォンからパソコンへの取り込みは、パソコン側のOutlookの「 ファイル共有 」を使います。

私は、Outlook 2010 を使用しています。

パソコン側の、Outlook の「 オフィスナビ 」で「 ファイル共有 」を選び、「 SkyDrive」にログインして、スマートフォンからアップロードした文書を選んで呼び出します。

「 ワード文章 」も「エクセル文書 」も同じです。


「 SkyDrive 」から呼び出したエクセル(ワード)文書を、そのまま保存するときは、まず、「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選びます。

つぎに、「 ダウンロード 」を選び、クリックしますと、「 開くか 」または「 保存する 」か?とパソコンが聞いてきます。

「 ファイルを開く 」をクリックします。

「 エクセル 」の場合、「 エクセルで開く 」を選んだとき、も「 ファイルを開く 」段階になります。

エクセルが立ち上がって、入力画面になりますが、上部に「 保護されたビュー 」と表示しますので、「 編集を有効にする 」をクリックします。

すると、普通のエクセル(ワード)の画面になります。

それから「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選ぶと、保存先の「 マイドキュメント 」が表示されるので、「 保存 」をクリックすればパソコンに保存することが出来ます。

保存する前に修正ができますが、「 ワード 」の場合は、それ以外の修正の方法もあります。

ワード文書の場合、「 編集して保存する 」ことを選ぶと「 電子メールアドレス 」と「 パスワード 」を聞いてきますが、これはSkyDriveのアカウントを設定したときのものを入力します。

「 ワード 」が開き、「 編集を有効にする 」をクリックします。
編集をして、「 ファイル 」をクリックして「 名前をつけて保存する 」を選ぶと、保存する場所を聞いてきますので、そのとき左側の「 ライブラリ 」の中の「 ドキュメント 」を指定して保存しますと、パソコンの「 ドキュマント 」に「 ワード文書 」として保存されます。

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