2014年01月19日

2014/1/19、オカルト・エーテル考13・存在の謎

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/12/29、私の記事

これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。


2014/1/5、私の記事



これは、フィクションです。



以上より、宇宙(これは、私の身体を出入りする空気も宇宙だと考えます)は、一つの物質ではない「 無(mu)」という弦であり、すべてを包摂するが、情(zyou)により、エーテル、大気、物質、意識と区別しているのであり、「 死 」により、そのすべての区別が解かれて、人類は宇宙と一つになると考えます。

「 弦(gen)」は、YouTube などを拝見しますと、バイオリンのような弦ではなく、丸い輪のような形状をしていると想定します。

無限小が素粒子で、無限大が宇宙と言いましたが、丸い輪でもバイオリンの絃であっても、情(zyou)は、「 始めと終わり 」で「 有 」を区別するのだと思います。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。のは相対論者です。

私は、エーテルが、物質ではない「 無(mu) 」として宇宙のすべてを満たす「 実有 」であると思います。

「 実有 」は、すべての規定(物質や意識)を受け入れ、すべてを否定する「 有 」であり、意識で否定しても、否定しても、疑いなく「 実在する 」「 有 」で、これが宇宙を満たしている、一つの「 弦 」や「 膜 」であると思います。

先に述べましたように、「 死 」により地獄や極楽に行くのではなく(それは、政治的、宗教的、社会的、教育的な善なる行為を推奨する結末)、「 実有 」で「 無(mu)」である一つの「 弦 」に回帰することであり、すべての情(zyou)の規定を拒み、包摂する「 無(mu) 」であるエーテルに回帰することであると思います。

情(zyou)による区別は以下のように考えます。

エーテルは情(zyou)で規定することができないから「 無限(mugen) 」であり、「 永遠 」と想定し、エネルギーは、日本では「 神 」に「 男神 」と「 女神 」があるように、プラスとマイナスという始まりと終わりを持つ、「 気(ki) 」であると想定します。

「 物質 」は素粒子の集まりですから、「 弦(gen)」の組み合わせだと想定します。

人体は宇宙の一部と考えると、暗黒物質の一部でしょうし、「 魔法のランプ 」の一部でしょう。

意識も、「 始めと終わり 」があり、私が今まで「 定在波 」と言って来たのが「 弦(gen) 」でしょうし、「 始めと終わり 」が無意識というエネルギーから生まれるとすれば、「 弦(gen) 」は一定のエネルギーであると考えます。

「 存在 」という「 存在意識 」は、エネルギーから生まれた「 弦(gen) 」であり、「 弦(gen) 」が集合した「 束 」が、「 定在波 」となり「 人格 」となり、何を好み、何に快楽を求めるかの「 弦(gen) 」の違いが「 人格 」の違いであると思います。

この「 束 」の成立に、プラズマ宇宙論を考えます。

このように考えると、意識から人格からエネルギーやエーテルが「 弦(gen) 」でつながり、すべてが、「 無(mu) 」という「 実有 」のエーテルの中での「 有 」であり、前述した気(ki)と情(zyou)の特徴は、「 無(mu) 」と「 有 」、エネルギーやエーテルと意識を分ける結界だと考えます。


2014/1/19、私の考え



これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。


参考


「 エーテル 」とは
アインシュタインは「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。
posted by kandk55 at 05:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 44 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月12日

2014/1/12、OfficeSuite Pro 7 で串刺し集計をする

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2014/1/12、私の考え



私の業務の一つに、一日の集計を報告し、その集計表を月末に集計する業務があります。

私は、この業務に、パソコンで作った表計算を、SkyDrive をとおして、officeSuite Pro 7 でデーターを入力するようにしました。

表計算(エクセル)の「 串刺し集計 」をパソコンで作成して、データーを入力したところ、officeSuite Pro 7で、エクセルエラーが現れました。

「 串刺し集計 」を、エクセル関連の本で作っても、ネットの情報で作っても、エクセルエラーが表示されました。

私は、officeSuite Pro 7 で「 串刺し集計 」は出来ないのだろうかと疑いました。

しかし、本やネット情報の入力方法ではなく、エクセルの基本の入力をすれば、officeSuite Pro 7 で、エクセルエラーが出ないと知りました。

officeSuite Pro 7 ではなく、自分の入力方法に間違いがあったのです。


以下は、私の体験談です。



@ 理想的な一日の集計表を作る(エクセルの本を参照)。

A このシートを、31回コピーして、名前を付ける(エクセルの本を参照)。
(たとえば、一日、二日、三日と31日まで作り、最後に集計シートを作る)

B この31枚のシートを「 串刺し集計 」するのだが、もしパソコンを使うなら、エクセルの本やネット情報で作成することが出来る。


このパソコンで作った「 串刺し集計 」を、officeSuite Pro 7 で使いたい場合は、エクセルの本やネット情報ではなく、次のような入力をすれば可能です。

まず、集計したいセルをクリックする。

関数入力のタブ(Fx)をクリックして「SUM 」を選択する。

すると、「 セル範囲に含まれる数値をすべて合計します 」という言葉とともに、「 数値1 」「 数値2 」という数値を入力する欄が現れる。

そこで、「 数値1 」に、合計したいセルを入力する(1〜255個まで入力することが出来る)。

(たとえば、集計したいセルがB2のセルなら、「 一日 」のシートのB2をクリックし、次に「 二日 」のシートのB2をクリックし、続けて「 三日 」のシートのB2と、31日まで、続けて入力すると、パソコンが自動的に加算してくれる)

入力が終わったら、「 エンターキー 」をクリックする。

この一つのセルに入力が終わり、残ったセルも、同じ「 串刺し集計 」するのなら、書式をコピーすればよい(エクセルの本を参照)

このように、本やネット情報の入力方法ではなく、エクセルの基本の入力をすれば、Skydriveにアップロードし、スマートフォンのSkyDriveでofficeSuite Pro 7 の、テンプレートに保存すれば、エクセルエラーが出ない「 串刺し集計 」をつかうことが出来ると知りました。

間違いは無いと思いますが、一度、お試しください。

posted by kandk55 at 03:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月11日

2014/1/11、3月31日で、LOVELOG の終了




『LOVELOG』サービス提供の終了について

2014年1月8日

KDDI株式会社
沖縄セルラー電話株式会社

平素はLOVELOGをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。

au one net会員さまおよびauひかり ちゅらご契約のお客さま向けに無料で提供しておりましたブログサービス『LOVELOG』につきまして、サービスの提供を終了することになりました。
ご利用中のお客さまのブログの新規投稿・編集(既存記事の編集や削除も含みます)は2014年3月31日(月)まで、ブログの閲覧は2014年6月30日(月)を持ちまして終了します。
これまで長きにわたりご愛顧いただき、誠にありがとうございました。

LOVELOGサービス提供の終了に伴いまして、現在ご利用中のお客さまには、シーサー株式会社が提供する『Seesaaブログ』へ移行して引き続き同様のブログサービスをご利用できるよう準備を進めています。
ブログデータ移行機能をご利用できるようになり次第、改めてトピックスおよびLOVELOGトップページなどでお知らせします。


2014/1/11



ブログの新規投稿・編集(既存記事の編集や削除も含みます)は2014年3月31日(月)で終了します。

そろそろ、私のブログの総括をしなければならないでしょう。

LOVELOG で書いたことは、気(ki)と情(zyou)や、エーテルや無(mu)と気(ki)と情(zyou)の関係で結論は出ていると思います。

この結論を総括して、これまで書いてきた「 カテゴリー 」に対して、結びとなるコメントを書いていこうと思います。

3月31日で、すべてを終わらせる自信は無いが、努力したいと思います。
posted by kandk55 at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 2010年からの日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月05日

2014/1/5、オカルト・エーテル考12・無(mu)と気(ki)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。






2013/12/29、私の記事

これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。


2013/12/31、私の記事

これは、フィクションです。



このように、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、「 無限(mugen) 」の「 弦(gen) 」であることは、私にとっては、重要な帰結になります。

音波が大気という媒体が無ければ伝わらないように、「 波 」は媒介が無ければ伝わらないと思います。

「 電磁波 」や「 重力波 」も「 媒体 」が必要で、その「 媒体 」は「 エーテル 」であると思います。

相対論も量子論も「 エーテル 」を無視してきましたが、それが原因で、物理学と哲学と宗教に「 間 」を作り、不連続で異質な「 学問 」としたのだと思います。

私にとって、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、無限大から無限小まで「 無限(mu) 」の「 弦(gen) 」であることを認めることが、物理から形而上学を統合する情(zyou)になると思います。

これは、私の勝手な結論であり、同調を求めません。


2014/1/5、私の考え



これは、フィクションです。



以上より、宇宙(これは、私の身体を出入りする空気も宇宙だと考えます)は、一つの物質ではない「 無(mu)」という弦であり、すべてを包摂するが、情(zyou)により、エーテル、大気、物質、意識と区別しているのであり、「 死 」により、そのすべての区別が解かれて、人類は宇宙と一つになると考えます。

「 弦(gen)」は、YouTube などを拝見しますと、バイオリンのような弦ではなく、丸い輪のような形状をしていると想定します。

無限小が素粒子で、無限大が宇宙と言いましたが、丸い輪でもバイオリンの絃であっても、情(zyou)は、「 始めと終わり 」で「 有 」を区別するのだと思います。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。のは相対論者です。

私は、エーテルが、物質ではない「 無(mu) 」として宇宙のすべてを満たす「 実有 」であると思います。

「 実有 」は、すべての規定(物質や意識)を受け入れ、すべてを否定する「 有 」であり、意識で否定しても、否定しても、疑いなく「 実在する 」「 有 」で、これが宇宙を満たしている、一つの「 弦 」や「 膜 」であると思います。

先に述べましたように、「 死 」により地獄や極楽に行くのではなく(それは、政治的、宗教的、社会的、教育的な善なる行為を推奨する結末)、「 実有 」で「 無(mu)」である一つの「 弦 」に回帰することであり、すべての情(zyou)の規定を拒み、包摂する「 無(mu) 」であるエーテルに回帰することであると思います。

情(zyou)による区別は以下のように考えます。

エーテルは情(zyou)で規定することができないから「 無限(mugen) 」であり、「 永遠 」と想定し、エネルギーは、日本では「 神 」に「 男神 」と「 女神 」があるように、プラスとマイナスという始まりと終わりを持つ、「 気(ki) 」であると想定します。

「 物質 」は素粒子の集まりですから、「 弦(gen)」の組み合わせだと想定します。

人体は宇宙の一部と考えると、暗黒物質の一部でしょうし、「 魔法のランプ 」の一部でしょう。

意識も、「 始めと終わり 」があり、私が今まで「 定在波 」と言って来たのが「 弦(gen) 」でしょうし、「 始めと終わり 」が無意識というエネルギーから生まれるとすれば、「 弦(gen) 」は一定のエネルギーであると考えます。

「 存在 」という「 存在意識 」は、エネルギーから生まれた「 弦(gen) 」であり、「 弦(gen) 」が集合した「 束 」が、「 定在波 」となり「 人格 」となり、何を好み、何に快楽を求めるかの「 弦(gen) 」の違いが「 人格 」の違いであると思います。

この「 束 」の成立に、プラズマ宇宙論を考えます。

このように考えると、意識から人格からエネルギーやエーテルが「 弦(gen) 」でつながり、すべてが、「 無(mu) 」という「 実有 」のエーテルの中での「 有 」であり、前述した気(ki)と情(zyou)の特徴は、「 無(mu) 」と「 有 」、エネルギーやエーテルと意識を分ける結界だと考えます。

posted by kandk55 at 04:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 44 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月31日

2013/12/31、オカルト・エーテル考11・無(mu)と気(ki)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。






2013/12/29、私の記事

これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。


2013/12/31、私の考え


これは、フィクションです。



このように、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、「 無限(mugen) 」の「 弦(gen) 」であることは、私にとっては、重要な帰結になります。

音波が大気という媒体が無ければ伝わらないように、「 波 」は媒介が無ければ伝わらないと思います。

「 電磁波 」や「 重力波 」も「 媒体 」が必要で、その「 媒体 」は「 エーテル 」であると思います。

相対論も量子論も「 エーテル 」を無視してきましたが、それが原因で、物理学と哲学と宗教に「 間 」を作り、不連続で異質な「 学問 」としたのだと思います。

私にとって、「 無(mu)」というのが「 エーテル 」であり「 実有 」し、無限大から無限小まで「 無限(mu) 」の「 弦(gen) 」であることを認めることが、物理から形而上学を統合する情(zyou)になると思います。

これは、私の勝手な結論であり、同調を求めません。

これから、「 無(mu)」から、気(ki)へ、「 無(mu)」と気(ki)から情(zyou)へと述べるのですが、先ほどの、音波が大気という媒体が無ければ伝わらないように、「 波 」は媒介が無ければ伝わらず、「 電磁波 」や「 重力波 」も「 媒体 」が必要で、その「 媒体 」は「 エーテル 」であるというのが、「 無(mu)」と気(ki)の関係であると考えます。

電磁波が地球の大気が無くても発生し、大気が無くても伝わることは、電磁波が「 エーテル 」を媒介として伝わることを示していると考えます。

エネルギーである気(ki)の媒体は「 エーテル 」であり「 無(mu)」であり、「 実有 」であり「 弦(gen) 」であり、宇宙が「エーテル 」という「 無(mu)」が連続していると考えると、エネルギーという気(ki)も「 連続 」していることになり、「 実有 」であり、「 流れるもの 」であると考えます。

この「 無(mu) 」が人間の中の「 無意識 」を通じていて、「 無意識(muisiki) 」の根本である「 小脳 」と「 無(mu) 」が繋がっていると考え、「 小脳 」の領域は「 無(mu)」であると考えると「 大脳 」の領域である情(zyou)の「 下部組織 」ではないと思います。

無意識や無(mu)や気(ki)の中心はエネルギーの中心であり、意識の中心である精神の中心とは一致せず、前者が「 エーテル 」を必須とするのに対し、後者は「 エーテル 」を無視することも、一致しない原因であると考えます。

後者は、「 無(mu)」を「 実有 」と考えるのではなく、単に「 存在しないもの 」と考えるのかも知れませんが「 有 」とは「 存在 」ではなく、人類は「 有 」も「 無(mu)」も経験していないのに、情(zyou)の都合で、「 無(mu) 」である「 エーテル 」を考えないことにしようという「 協定 」を設けているがゆえに、いつまでも「 真実 」を求めているのだと思います。

ありとあらゆるものを包摂する「 エーテル 」が「 有 」であると私は思います。
posted by kandk55 at 07:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 44 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月29日

2013/12/29、オカルト・エーテル考 10・エーテルは実有であり、無である

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。




2013/11/24、私の記事


これは、フィクションです。


このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、、頭脳の「 魔法のランプ 」がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると、以前、書きました。

後者の理論である、量子力学と相対論を組み合わせて宇宙を考える人もいますが、私は、エーテルを考慮しない「 内なる世界 」の考えは、間違いであると思います。

このことは、物理学だけでなく、哲学や宗教学も、同様であると考えます。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。


私は、「 エネルギー 」が伝達する空間を「 エーテル 」とし、これが「 永遠 」で「 不変 」であると考えます。

「 エネルギー 」が一定の条件で物質になり(E=MC2)、その物質により判断する「 内なる世界 」は相対的であり、「 諸行無常 」であり「 万物は流転する 」のであり、「 永遠 」や「 不変 」であるのは「 内なる世界 」には構造として存在しない「 エーテル 」であると考えます。

「 存在(意識)しないもの 」を「 存在(意識)する 」と考えることが「 不変 」や「 永遠 」を考えることだと思いますが、存在(意識)を変化させるので、「 相対的 」を「 絶対的 」にすることで、「 自我を否定 」することで、社会的には「 狂気 」という評価を得るかも知れませんが、これが「 永遠 」を求めることであり、「 神 」を信じることだと思います。

「 神 」を信じるためには「 エーテル 」を考えることが必須だと考えます。

「 エーテル 」という気(ki)が「 実有 」であり、「 諸行無常 」という情(zyou)は「 エネルギー 」と「 物質 」が流動的であることで、気(ki)を原因とする「 現象 」であり「 相対的 」な存在意識であると思います。

「 実有 」は存在意識という情(zyou)を含む気(ki)であり、あらゆる現象を包摂する空間で、人間の情(zyou)では、「 時間 」や「 速度 」では想定不能の「 空間 」だと思います。

「 空間 」として考える限り情(zyou)であり、測定不能の「 場 」であると考えます。

真空でも、地上のリンゴが落ちるとき、「 重力 」というエネルギーは測定可能だが、「 エネルギーが働く場 」は意識で測定不能であるが「 実有 」するように、「 エーテル 」は意識とは無関係に「 実有 」するのだと思います。



2013/12/29、私の考え


これは、フィクションです。


このように、「 エーテル 」を「 実有 」と考え、昔の人々はこれをどのように考えていたのかを考えます。

私は、仏教しか馴染みはありませんが、昔から「 無(mu) 」という言葉で表されているのが「 エーテル 」であり「 実有 」に該当すると思います。

人類は「 有 」や「 無(mu) 」が何であるかを知ることは出来ないと思います。

もし、知ることが可能なら、エーテルも特異点も暗黒物質も容易に判明するでしょう。

「 有無 」の「 無(mu) 」は「 存在しない 」と考えるのが普通かもしれませんが、「 有 」すなわち「 存在 」を「 存在意識 」と考えると、「 無(mu) 」は「 意識 」ではなく、従って「 意識 」では定義することが出来ないと思います。

「 物体 」が無くても、「 エーテル 」は「 実有 」し、しかもすべての物体を許容し、実在界で「 縁起 」を生む下記の「 四諦 」も包摂し、在りとあらゆるものを矛盾なく包摂します。

その「 無(mu) 」こそ「 実有 」であり、情(zyou)により具現化したのが「 エーテル 」であると考えます。

「 無(mu) 」は「 無限(mugen) 」に使う「 無(mu) 」であり、「 無常(muzyou) 」で使う「 無(mu) 」です。

「 無意識(muisiki) 」にも「 無(mu) 」を使いますが、これは「 意識でないもの 」であり、「 派生する 」意識ではなくて、「 流れる 」エネルギーの領域であり、「 意識 」と「 エーテル 」をつなぐものと考えます。

「 無限(mugen) 」についてですが、無限大は宇宙ですし、無限小の物体は素粒子ですし、素粒子が「 超弦理論 」において「 弦(gen) 」であれば、素粒子を包摂する「 エーテル 」も最大の「 弦(gen) 」として宇宙を満たしているかも知れません。

宇宙は単一の法則が貫通していると考えるからです。

宇宙を満たしている「 エーテル 」が「 実有 」する「 無(mu) 」であり、「 弦(gen) 」で、エネルギーも「 弦(gen) 」であるかも知れず、宇宙の膨張も「 弦(gen) 」の広がりであり、すべてが「 弦(gen) 」として「 連続 」しているかも知れません。

このように、「 エーテル 」を「 弦(gen) 」と考えたとき、一般相対性理論で、なぜ重力により空間が「 ひずみ 」、光の直進を妨げるかを説明することが出来ると考える。

「 エーテル 」が「 弦(gen) 」であるから、その上に乗る星の重力により、弦(gen)であるエーテルが「 ゆがむ 」のであり、光の直進を阻むと考えます。

このように考えると、「 超弦理論 」は、「 物質 」だけでなく、「 エーテル 」や「 エネルギー 」の理論であるかもしれません。




無(mu)(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1


四諦(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

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2013年12月23日

2013/12/23、携帯電話と人生・OfficeSuite 7 とSkyDrive とパソコン2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/12/23、私の考え



これは、私の拙い体験談です

前日の説明では、不明瞭なところがあると思いますので、補足します。


@ パソコンからスマートフォンに保存するまでの行程。

パソコンでワード(エクセル)文章を作成します。

パソコンのSkyDrive を開き、アップロードします。

スマートフォンのSkyDrive を開き、アップロードされているのを確認します。

アップロードされたファイル名を選択しますと、アプリケーションと、「 常時 」か「 1回のみ 」かをを聞いてきます。

「 OfficeSuite pro 7」 で「 常時 」を選びます。

スマートフォンにダウンロードされてパソコンで作成したワード(エクセル)文章が出てきます。

下部の機能を押して、保存先をテンプレートにします。

(これは、別の保存先もありますが、便宜上、テンプレートにします。)

保存されます。

OfficeSuite pro7のテンプレートを開いて保存されているか確認します。


(最初のとき、よく憶えていませんが、確認できず、Officesuite pro 7 で常時を選んで「 PDFで送る 」を選んだと思います。二度目からは、「 PDF 」を選ばなくても、テンプレートに保存されると思います。そして、エクセルは必要ないかも知れません)

確認後、変更が必要ならば変更して、保存先をテンプレートにして、ファイル名を選べば上書きして保存されます。

このとき、保存先として

Excelブック 
Excel97-2003ブック
Csv(カンマ区切り)
テンプレート

という選択先がありますから、好きなところに保存できます。

私は、保存先をテンプレートにして、ファイル名を選んで保存しました。

(このテンプレートからでも、他の選択先に保存することも出来ます)

これで、パソコンで作成した文書をスマートフォンで保存することが出来ました。



スマートフォン側で削除するとき。

パソコンで作成した文書が不要であるとき、保存先のテンプレートを開き、文章を開かないようにして、ファイル名に上を下に圧迫します。

すると、「 ファイルオプション 」が表示されて「 名前を変える 」とか「 削除 」する項目が現れ、「 削除 」を押すと削除されます。

SkyDrive にアップロードしたワード(エクセル)文書を削除する場合は、スマートフォンでSkyDrive を開き、左側にチェックして、「 ゴミ箱 」を押せば削除されます。

パソコン側で削除するときは

SkyDrive を開き、当該ファイル名を「 右クリック 」すれば、削除することが出来ます。



A スマートフォンで作成した文書をパソコンに保存するのは、前日、書いたとおりであり下に再掲します。





次に、スマートフォンで作成した文章をパソコンに保存することが出来るかについてです。

T、スマートフォンで作成したワードやエクセルを「 SkyDrive 」にアップロードする。

スマートフォンでエクセル文書を作るとき、「 officeSuite 7 Pro 」の「 テンプレート 」にも保存したほうが良いと思います。
(後日、SkyDrive にアップロードするとき、SDカードを開きますが、その中に「 My Templates 」というファイル名なので容易に判明するから)

スマートフォンにダウンロードしてインストールした「 SkyDribe 」を開き、下部にあるアップロードをクリックすると、「 写真と動画のアップロード 」か、あるいは「 ファイルのアップロード 」か? を聞いてきます。

「 ファイルのアップロード 」を選択すると、スマートフォンのSDカードの内容が表示されます。

そのSDカードの中から作成したワードやエクセルのファイルやパソコンからダウンロードしたファイルを選んでアップロードします。

すでに、アップロードした文書は、officesuiteの「 リモートファイル 」で「 SkyDrive 」を選び文章を呼び出して修正します。

それを上書きで保存します。

それは、skyDriveへのアップロードとなります(エクセルもワードも同じです)。

U、スマートフォンで作成したワードやエクセルの文書を、パソコンに取り込みワードやエクセルの文章で保存する。



スマートフォンからパソコンへの取り込みは、パソコン側のOutlookの「 ファイル共有 」を使います。

私は、Outlook 2010 を使用しています。

パソコン側の、Outlook の「 オフィスナビ 」で「 ファイル共有 」を選び、「 SkyDrive」にログインして、スマートフォンからアップロードした文書を選んで呼び出します。

「 ワード文章 」も「エクセル文書 」も同じです。


「 SkyDrive 」から呼び出したエクセル(ワード)文書を、そのまま保存するときは、まず、「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選びます。

つぎに、「 ダウンロード 」を選び、クリックしますと、「 開くか 」または「 保存する 」か?とパソコンが聞いてきます。

「 ファイルを開く 」をクリックします。

「 エクセル 」の場合、「 エクセルで開く 」を選んだとき、も「 ファイルを開く 」段階になります。

エクセルが立ち上がって、入力画面になりますが、上部に「 保護されたビュー 」と表示しますので、「 編集を有効にする 」をクリックします。

すると、普通のエクセル(ワード)の画面になります。

それから「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選ぶと、保存先の「 マイドキュメント 」が表示されるので、「 保存 」をクリックすればパソコンに保存することが出来ます。

保存する前に修正ができますが、「 ワード 」の場合は、それ以外の修正の方法もあります。

ワード文書の場合、「 編集して保存する 」ことを選ぶと「 電子メールアドレス 」と「 パスワード 」を聞いてきますが、これはSkyDriveのアカウントを設定したときのものを入力します。

「 ワード 」が開き、「 編集を有効にする 」をクリックします。
編集をして、「 ファイル 」をクリックして「 名前をつけて保存する 」を選ぶと、保存する場所を聞いてきますので、そのとき左側の「 ライブラリ 」の中の「 ドキュメント 」を指定して保存しますと、パソコンの「 ドキュマント 」に「 ワード文書 」として保存されます。
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2013年12月22日

2013/12/22、携帯電話と人生・OfficeSuite 7 とSkyDrive とパソコン

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/12/15、私の記事


これは、みなさんには既知のことだと思いますが、エクセルとスマートフォンのアプリである「 OfficeSuite 7 pro について、私の体験談を書かせてもらいます。



学んだこと

@ 自分のパソコンのメールの添付書類を読み取れるように、スマートフォンを準備した方がよい。

A 私の場合、自分のパソコンから、自分のパソコンに、エクセル表計算のデーターを添付して送信する。
自分のパソコンの受信トレイから、その添付物を、スマートフォンで読み取り、保存することにより、パソコンとスマートフォンが連携する。

B エクセルの表計算はパソコンで作り、仕事場でデーターを入力して計算した方がよい。
計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)。
このことは、別の方法を発見したので、後日、書きます。

C 自分のパソコンから自分のパソコンへ、エクセルの表計算を添付して送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、自然の「 Office Suite 7 」に保存される(有料の場合は、ダウンロードのファイル)。


2013/12/16、私の記事


これは、拙い体験談です



D 上記のように、メールを送信するしか方法は無いのだろうか?

もっと、簡単にパソコンとスマートフォンを連携することが出来ないだろうか?

と考えたとき、「 OfficeSuite 7 」の中にある、「 リモートファイル 」の「 クラウド 」を利用することに気づきました。

「 リモートアカウント追加 」の中で、5種類のクラウドが選択できますが、わたしはマイクロソフトの「 SkyDrive 」に決めました。

パソコンで「SkyDrive 」のアカウントを取得して開くと、写真や文書をアップロードすることが出来ることを知りました。

そこで、エクセル文書をアップロードしました。

そのあとは、携帯電話で、「 リモートファイル 」の「SkyDrive 」を選択して、アップロードしたエクセル文書を保存するだけでした。

このように、メールだけでなく、「 クラウド 」を使うことで、簡単にパソコンと連携することが出来ました。

E 次に、計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)方法ですが、「 上書き 」する方法と、消去するセルを選択して消去する方法があります。



2013/12/22、私の考え



これは、私の拙い体験談です。


みなさんには、すでに既知のことだと思いますが、マイクロソフト社のアプリケーションである「 SkyDrive 」と「 officeSuite 7 Pro 」と「 パソコン 」の連携についてです。

私のスマートフォンとパソコンをUSBでつなぐことは出来ません。

そこで、パソコンとスマートフォンの繋がりですが、私はマイクロソフト社の「 SkyDrive 」を利用したいと思いました。

このアプリケーションを利用すれば、OfficeSuit 7 Proからは「 リモートファイル」の中の「 SkyDrive 」を呼び出してダウンロードするだけで、パソコンでアップロードしたデーターを得ることが出来るし、OfficeSuite 7 Pro で作成したり加工したデーターは、スマートフォンの「 SkyDrive 」にアップロードし、パソコン側のOutlook2010の「 ファイル共有 」の「SkyDrive 」を使って簡単にスマートフォンからパソコン側で受け取り、エクセルやワード文書に変換することが出来ることを知りました。

それには、まず@ パソコンで「 Sky Drive 」を検索して、自分のメールと暗証番号を入力して、「 アカウント 」を取得します。

「 SkyDrive 」の内部では、「 アップロード 」の箇所がありますから、パソコンの中の文書やエクセルや写真をアップロードします。
(このアップロードは短時間で済みます)

A その後、スマートフォン(私の場合はandroidです)のGoodle社のGooglePlay のアプリケーションの中にある「 SkyDrive 」をダウンロードしてインストールします。

パソコンの「 SkyDrive」の「 アカウント取得 」やアップロードも無料ですし、容量は7ギガまで無料です。

Google社のGoogle Play の中にある「 SkyDrive 」をダウンロードやインストールすることも無料です。

B スマートフォンにインストールした「 SkyDrive 」を開き、パソコンで入力したメールアドレスと暗証番号を入力して「 サインイン 」すれば、パソコンとスマートフォンの「 SkyDrive 」が一致し、パソコンでアップロードした文書やエクセルや写真を閲覧し、ダウンロードして「 OfficeSuite 7 pro 」で加工することが出来ますし、写真はスマートフォンのピクチャに保存することも出来ます。

スマートフォンに「 officeSuite 7Pro 」をインストールし、パソコンとスマートフォンの両方に「 SkyDrive 」のアプリケーションをインストールすれば、メールなどを使わず、「 SkyDrive 」を使って、パソコンの内部データーを簡単にスマートフォンへダウンロードして、加工や保存することが出来ます。



C次に、スマートフォンで作成した文章をパソコンに保存することが出来るかについてです。

T、スマートフォンで作成したワードやエクセルを「 SkyDrive 」にアップロードする。

スマートフォンでエクセル文書を作るとき、「 officeSuite 7 Pro 」の「 テンプレート 」にも保存したほうが良いと思います。
(後日、SkyDrive にアップロードするとき、SDカードを開きますが、その中に「 My Templates 」というファイル名なので容易に判明するから)

スマートフォンにダウンロードしてインストールした「 SkyDribe 」を開き、下部にあるアップロードをクリックすると、「 写真と動画のアップロード 」か、あるいは「 ファイルのアップロード 」か? を聞いてきます。

「 ファイルのアップロード 」を選択すると、スマートフォンのSDカードの内容が表示されます。

そのSDカードの中から作成したワードやエクセルのファイルやパソコンからダウンロードしたファイルを選んでアップロードします。

すでに、アップロードした文書は、officesuiteの「 リモートファイル 」で「 SkyDrive 」を選び文章を呼び出して修正します。

それを上書きで保存します。

それは、skyDriveへのアップロードとなります(エクセルもワードも同じです)。

U、スマートフォンで作成したワードやエクセルの文書を、パソコンに取り込みワードやエクセルの文章で保存する。



スマートフォンからパソコンへの取り込みは、パソコン側のOutlookの「 ファイル共有 」を使います。

私は、Outlook 2010 を使用しています。

パソコン側の、Outlook の「 オフィスナビ 」で「 ファイル共有 」を選び、「 SkyDrive」にログインして、スマートフォンからアップロードした文書を選んで呼び出します。

「 ワード文章 」も「エクセル文書 」も同じです。


「 SkyDrive 」から呼び出したエクセル(ワード)文書を、そのまま保存するときは、まず、「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選びます。

つぎに、「 ダウンロード 」を選び、クリックしますと、「 開くか 」または「 保存する 」か?とパソコンが聞いてきます。

「 ファイルを開く 」をクリックします。

「 エクセル 」の場合、「 エクセルで開く 」を選んだとき、も「 ファイルを開く 」段階になります。

エクセルが立ち上がって、入力画面になりますが、上部に「 保護されたビュー 」と表示しますので、「 編集を有効にする 」をクリックします。

すると、普通のエクセル(ワード)の画面になります。

それから「 ファイル 」をクリックして、「 名前を付けて保存 」を選ぶと、保存先の「 マイドキュメント 」が表示されるので、「 保存 」をクリックすればパソコンに保存することが出来ます。

保存する前に修正ができますが、「 ワード 」の場合は、それ以外の修正の方法もあります。

ワード文書の場合、「 編集して保存する 」ことを選ぶと「 電子メールアドレス 」と「 パスワード 」を聞いてきますが、これはSkyDriveのアカウントを設定したときのものを入力します。

「 ワード 」が開き、「 編集を有効にする 」をクリックします。
編集をして、「 ファイル 」をクリックして「 名前をつけて保存する 」を選ぶと、保存する場所を聞いてきますので、そのとき左側の「 ライブラリ 」の中の「 ドキュメント 」を指定して保存しますと、パソコンの「 ドキュマント 」に「 ワード文書 」として保存されます。

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2013年12月16日

2013/12/16、携帯電話と人生・エクセルとOfficeSuite 7 pro 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/12/15、私の記事


これは、みなさんには既知のことだと思いますが、エクセルとスマートフォンのアプリである「 OfficeSuite 7 pro について、私の体験談を書かせてもらいます。



学んだこと

@ 自分のパソコンのメールの添付書類を読み取れるように、スマートフォンを準備した方がよい。

A 私の場合、自分のパソコンから、自分のパソコンに、エクセル表計算のデーターを添付して送信する。
自分のパソコンの受信トレイから、その添付物を、スマートフォンで読み取り、保存することにより、パソコンとスマートフォンが連携する。

B エクセルの表計算はパソコンで作り、仕事場でデーターを入力して計算した方がよい。
計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)。
このことは、別の方法を発見したので、後日、書きます。

C 自分のパソコンから自分のパソコンへ、エクセルの表計算を添付して送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、自然の「 Office Suite 7 」に保存される(有料の場合は、ダウンロードのファイル)。


2013/12/16、私の考え




これは、拙い体験弾です



@ 上記のように、メールを送信するしか方法は無いのだろうか?

もっと、簡単にパソコンとスマートフォンを連携することが出来ないだろうか?

と考えたとき、「 OfficeSuite 7 」の中にある、「 リモートファイル 」の「 クラウド 」を利用することに気づきました。

「 リモートアカウント追加 」の中で、5種類のクラウドが選択できますが、わたしはマイクロソフトの「 SkyDrive 」に決めました。

パソコンで「SkyDrive 」のアカウントを取得して開くと、写真や文書をアップロードすることが出来ることを知りました。

そこで、エクセル文書をアップロードしました。

そのあとは、携帯電話で、「 リモートファイル 」の「SkyDrive 」を選択して、アップロードしたエクセル文書を保存するだけでした。

このように、メールだけでなく、「 クラウド 」を使うことで、簡単にパソコンと連携することが出来ました。

A 次に、計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)方法ですが、「 上書き 」する方法と、消去するセルを選択して消去する方法があります。



「 上書き 」は、「 ダウンロード 」の「 マイドキュメント 」(マイドキュメントという選択肢もあります)に保存してあるエクセル文書を開き、何も入力していない表計算だけの文書の保存先を「 テンプレート 」にします。

「 テンプレート 」の中で、エクセル文書を複数シート作り、一日、計算が終わったシートに、表計算だけの文書を「 上書き 」すれば、データーを消すことなく、新しい一日が始まると思います。
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2013年12月15日

2013/12/15、携帯電話と人生・エクセルとOfficeSuite 7 pro

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/12/29、私の記事

これは、非常に特殊な個人的な場合であうので、無視されても結構です。

機種変更のとき、アップル社のアイフォーンにするか、Google 社のアンドロイドにするか、OSの選択に迫られますが、国産の端末であることと検索や地図を利用する機会が多いので、アンドロイドにしました。

Google 社のGメールのアカウントを持っていることが、Google 社のYouTube 利用に便利でした。

結局、アンドロイドにしたのですが、詳しいことは、「 iPhoneとAndroid の比較 」を検索して、自分にフィットした機種を購入すれば良いと思います。

スマートフォンは、携帯電話というより、「 モバイル 」であり、手のひらに乗る小さなパソコンであり、電話も楽しめるという感じで、「 電話 」と「 パソコン 」の割合が、従来の携帯電話と逆転しているように思います。

検索は以前の携帯電話の入力と似ていますが、従来の携帯電話のメールとは別に、「 パソコンのメール 」や「 Gメール 」も受信することが出来、受信することは受信する環境も設定する必要がある点で、パソコンと似ています。

パソコンを初期化したら理解することが出来るのですが、パソコンの送受信サーバやアカウント名やパスワードを設定した後で、パソコンのメールを受信することができます。

Gメールは、Google社のアカウントを、あらかじめパソコンで取得していた方が良いでしょう。

これらの「 設定 」をして、初めてすべてのメールが、スマートフォンに入って来ます。

すると、一気にメールのすべてを閲覧し、処理することが出来ますから、「 スマートフォンは小さなパソコンだ 」と思うのです。


2013/12/15、私の考え


これは、みなさんには既知のことだと思いますが、エクセルとスマートフォンのアプリである「 OfficeSuite 7 pro について、私の体験談を書かせてもらいます。


以前、「 DVDの整理とエクセルの活用 」で書きましたが、そのエクセルの文書を簡単に見ることが出来ないだろうかと考えました。

もちろん、エクセルの文書ですから、パソコンではディスクトップのショートカットで簡単に見ることが出来ます。

しかし、もっと簡単に、スマートフォンからでも見ることが出来るかもしれないと思いました。

私のスマートフォンは、USBなどでパソコンに接続することは出来ません。

ですので、パソコンの写真をスマートフォンで見るためには、スマートフォンに写真を添付したメールを送るか、あるいは自分のパソコンで、自分宛てに写真を添付したメールを送り、その添付した写真を「 保存 」すれば、自然にスマートフォンのピクチュアの中に保存され、閲覧していました。

そこで、エクセルの文書も、メールに添付したら、スマートフォンへ送ることが出来るかも知れないと考えました。

それで、自分のパソコンから自分へ、エクセル文書を添付したメール送って、それをスマートフォンで読み取り、添付したエクセルの文書を、携帯電話の中に保存したところ、Google社の「 office Suite 7 」の無料アプリケーションに自然に保存されました。

しばらくは、DVDを整理したエクセル文書をスマートフォンで見ていましたが、有料のアプリケーションでは、データーを変化させることが出来るという説明がありました。

これは、スマートフォンで、エクセルを使った表計算が出来て、仕事にエクセルが使えるかもしれないと思って購入を決めました。

値段は、2000円未満でした。

何も知らない私にとって、実は、そこからが苦難の連続でした。

有料のダウンロードは成功し、エクセルの画面を発見しましたが、どのようにすれば良いのか分かりません。

「 セル 」をタップしたとき、データーの入力が可能になり、上部の検索のような印をタップしたとき、「 関数 」の入力可能な画面になりました。


私は、初めてですので、スマートフォンで作った表の「 行 」や「 列 」の加除が出来ず、パソコンで加除をすることに決めて、メールに添付してパソコンに送り、エクセルの表計算はパソコンで作り、データーはスマートフォンで入力して計算することにしました。

スマートフォンで入力した内容をパソコンで見たとき、SUMの範囲が、私の考えた範囲と違うのに気づきました。

基本的にエクセルを使う方法は同じのようですが、少し違うところもあると思います。


パソコンで作成したエクセルの表計算を添付し、自分のパソコンから自分のメールアドレスに送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、こんどは無料の「Office Suite 7 」には保存されず、有料の「Office Suite 7 pro」の「 ダウンロード 」の中に、自然に保存されました。



学んだこと

@ 自分のパソコンのメールの添付書類を読み取れるように、スマートフォンを準備した方がよい。

A 私の場合、自分のパソコンから、自分のパソコンに、エクセル表計算のデーターを添付して送信する。
自分のパソコンの受信トレイから、その添付物を、スマートフォンで読み取り、保存することにより、パソコンとスマートフォンが連携する。

B エクセルの表計算はパソコンで作り、仕事場でデーターを入力して計算した方がよい。
計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)。
このことは、別の方法を発見したので、後日、書きます。

C 自分のパソコンから自分のパソコンへ、エクセルの表計算を添付して送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、自然の「 Office Suite 7 」に保存される(有料の場合は、ダウンロードのファイル)。

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2013年12月08日

2013/12/8、オカルト・エーテル考 9・無意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。




私の記事


これは、フィクションです。

私は、仏教的な言葉を書きますが、仏教を勉強したこともありませんし、僧侶でもなく、仏教の門外漢です。

まして、哲学者でもありません。

しかし、フィクションとして、書きたいのです。

私は、「 神 」をエネルギーと考え、「 法身(hotsusin)」を神の身体であるエーテルと考え、「 報身(housin)」 を社会や文化のすべての思想だと考えています。

仏教に興味がある人は、ほかのブログをご覧になるようお願いします。

以上のように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotsusin)であると思います。

後者の「 魔法のランプ 」は、「 神 」であるエネルギーの身体、すなわち重力や電磁波などの気(ki)が通う空間である「 エーテル 」に包まれた宇宙の産物ですから法身(hotssin)の一部であり、人体自身は、科学の対象となる気(ki)の塊ですから科学が適用されます。

人体は「 魂 」であり気(ki)でありますから、科学が適用されると考えます(生気論)。

後者の「 魔法のランプ 」から出た「 内なる世界 」は、エーテルを含まない、法身(hotssin)でない情(zyou)であり、報身(housin)であると考えます。

この報身(housin)の中に「 宗教 」があると思うのですが、エーテルを含まないから科学的な対象とはならず、宗教が作った「 神 」は、気(ki)であるエネルギーを通過させたり、エネルギーを生んだりせず、その目的は「 人格の完成 」であり、報身(housin)が作るのは「 仏(hotoke) 」であり「 神 」ではないと思います。

「 宗教が作った神仏 」は、エーテルを必要としないことを理由として「 限界 」が生じると思います。

「 限界 」とは「 永遠 」と唱えながらも、「 永遠 」を解決していないから、人間では考えられないほどの時間や空間の概念を「 宗教 」は必要とするのだと思います。

私は、宗教が「 エーテル 」を考えていないから、そのような概念を必要とすると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」と言いますが、私は、後者の情(zyou)である宗教が作った「 神 」ではなく、前者の気(ki)であるエネルギーの「 神 」の前で「 平等 」であると思います。


ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」とは、宗教や社会的権利や文化的思考により与えられる「 平等 」ではなく、人間という存在自体が気(ki)であり、人間が生まれたときから気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」の前で「 平等 」であると考えます。



このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotusin)であるので、「 人間は宇宙の産物として平等である 」と思います。


2013/12/8、私の考え



これは、フィクションです。


私は、これまで書いてきた記事をひとつの考えで説明することが出来るかどうかに挑戦しています。

ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えます。

これは、人種や宗教や国籍を問わず、人間は宇宙の産物として、気(ki)であるエネルギー(神)の前で平等であり、人種や宗教や国籍や自我や教育やDNAなどの情報である情(zyou)が「 重いもの 」や「 軽いもの 」という差別を生むと思います。

「 差別 」自体が、「 外なる世界 」を差別する「 内なる世界 」の表現であり、「 人格 」の発露であると思います。


確実な実体を認識したと思っても、それが瞬時に「 相対的 」で「 万物が流転し 」「 無常 」となる「 実体 」で、その原因は「 外なる世界 」に有るのではなく、「 内なる世界 」にあると思います。

「 外なる世界 」が、絶えず相対的で無常で、掴んでも掴むことが出来ない「 地獄 」であると思うのですが、その原因は「 内なる世界 」に有ると思います。

「 外なる世界 」のエーテルの中の「 絶対的因果 」で連続する「 実有 」のエネルギーを、「 内なる世界 」では、エーテルを含まず、記憶による世界が始めと終わりがある物語として把握するのが原因で、「 相対的 」で「 無常 」で「 相当因果関係 」な「 実体 」だという判断を下すのだと思います。


「 内なる世界 」は、「 一面的な 」自我意識であり、人種や宗教や国籍であり、自我に反する気(ki)を否定し、自我に都合がよい気(ki)選択して体系化し、差別するものだと思います。

「 内なる世界 」でエーテルを考えるとは、ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えることで、意識ではない「 無意識 」の状態を考えることだと思います。

宗教的には、死の中に在りながら(エーテルの中に在りながら、あるいは涅槃に在りながら)生きること(大気の中で生命を保つこと、死ぬまでの煩悩を受け入れて楽しむこと)が、「 内なる世界 」でエーテルを考えることだと思います。

その意識を排除した状態で意識ではない無意識はエネルギーであり、エーテルの中でエネルギーを伝えるのが「 無意識 」で、「 無意識 」とは意識の一種ではなく、エネルギーと意識を連結するエネルギーと意識の「 膜 」であると考えます。

人間の周りに「 光 」があるとすれば、それが「 無意識の膜 」であり、「 エネルギーの膜 」であり、それは「 内なる世界 」や自我の中の気(ki)と「 外なる世界 」の気(ki)とを連結しているのだと思います。


私は、ちょうど「 呼吸 」のように、「 無意識 」を通過させて、「 外なる世界 」から気(ki)を取り入れ、「 内なる世界 」の気(ki)を「 無意識 」を通過させて発露するのだと思います。

この際、書いておくと、情(zyou)である「 霊 」は社会や精神に帰属し作り出したり、「 見る 」ことが可能で、エネルギー(神)はなく、気(ki)である「 魂 」には、飛んだり消えたりするエネルギー(神)があることになり、エーテルの中にあり、「 見る 」ことは不可能で、感じるだけであると考えています。

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2013年12月01日

2013/12/1、オカルト・エーテル考 8・神の前の平等

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。



2013/11/17、私の記事


これは、私だけの考えであり、フィクションです。



以上のように、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」がエーテルであり、エネルギーである「 神 」であるならば、地球上の私たち人類も、この構造と矛盾しない構造を持っていると考えます。

その「 魔法のランプ 」は、「 人体 」であり、時間意識や空間意識や、様々の思想やすべての「 文化 」が「 魔法のランプ 」から出た情(zyou)であると考えます。

暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」が気(ki)であり、人体という「 魔法のランプ 」からでた「 文化 」が情(zyou)であり、気(ki)が情(zyou)に作用することはあっても、情(zyou)により気(ki)が消滅するのではない構造だと考えます。

情(zyou)は、気(ki)を「 実体化 」、あるいは「 認識可能にする 」無意識であると考えます。

遺伝子情報が「 魔法のランプ 」であり、それに対して気(ki)が作用したとき、すなわち「 アラジンがランプを擦ったとき 」現れるのは、「 意識 」であり、時間という時間意識や空間という空間意識であると思います。

気(ki)はエネルギーで「 神 」であり、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」で、宇宙のすべての物質に浸透するためにエーテルを必要とするが、人間の頭脳が持つ「 魔法のランプ 」から生み出される、精神という情(zyou)は「 エーテル 」を必要としないので、「 エーテル 」を認識することが出来ないと思います。

宇宙のすべてを生み出す、暗黒物質という「 魔法のランプ 」(ビッグ・バンはこの「 魔法のランプ 」の出口かも知れません)は、必ず「 エーテル 」を必要とし、伝達されるのは「 エネルギー(E) 」であり、気(ki)であり、ある条件で「 物質(M) 」になるのかも知れません(E=MC2)。

人間の頭脳という「 物質(M )」の「 魔法のランプ 」から生み出される「 精神 」という情(zyou)は、「 エネルギー 」を伝達せず、「 エーテル 」を必要としないので「 エーテル 」を認識することが出来ず、「 エネルギー 」が「 力(chikara) 」に実体化したとき、「 仕事量 」という範疇で認識し、「 力学 」を生むと思います。

神、言い換えると「 エネルギー 」を「 精神 」で把握したとき、エネルギーは「 力(chikara)」であり、「 仕事量 」で、物理学の「 力学 」は人類のためにエネルギーを利用する方法であると考え、意識による「 神の把握 」であるから、それを拒む気(ki)である「 神 」と対立すると考えます。

宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」であることと、頭脳の「 魔法のランプ 」が生み出す精神的に、宇宙を成立させているという「 意識 」、が作る、エーテルを必要としないが「 実体化が必要な虚である宇宙 」と混同してはいけないと思います。

後者の「 意識 」は、情(zyou)であり、エーテルを必要としないが、実体化を必要とするので不連続の「 虚の宇宙 」であり、前者は、連続する「 実有の宇宙 」であり、後者の中で前者は、エーテルを起因とする「 実体化されない不安 」「 虚数 」として現れると思います。


2013/11/24、私の記事


これは、フィクションです。


このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、、頭脳の「 魔法のランプ 」がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると、以前、書きました。

後者の理論である、量子力学と相対論を組み合わせて宇宙を考える人もいますが、私は、エーテルを「 内なる世界 」を考慮しない考えは、間違いであると思います。

このことは、物理学だけでなく、哲学や宗教学も、同様であると考えます。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。


私は、「 エネルギー 」が伝達する空間を「 エーテル 」とし、これが「 永遠 」で「 不変 」であると考えます。

「 エネルギー 」が一定の条件で物質になり(E=MC2)、その物質により判断する「 内なる世界 」は相対的であり、「 諸行無常 」であり「 万物は流転する 」のであり、「 永遠 」や「 不変 」であるのは「 内なる世界 」には構造として存在しない「 エーテル 」であると考えます。

「 存在(意識)しないもの 」を「 存在(意識)する 」と考えることが「 不変 」や「 永遠 」を考えることだと思いますが、存在(意識)を変化させるので、「 相対的 」を「 絶対的 」にすることで、「 自我を否定 」することで、社会的には「 狂気 」という評価を得るかも知れませんが、これが「 永遠 」を求めることであり、「 神 」を信じることだと思います。

「 神 」を信じるためには「 エーテル 」を考えることが必須だと考えます。

「 エーテル 」という気(ki)が「 実有 」であり、「 諸行無常 」という情(zyou)は「 エネルギー 」と「 物質 」が流動的であることで、気(ki)を原因とする「 現象 」であり「 相対的 」な存在意識であると思います。

「 実有 」は存在意識という情(zyou)を含む気(ki)であり、あらゆる現象を包摂する空間で、人間の情(zyou)では、「 時間 」や「 速度 」では想定不能の「 空間 」だと思います。

「 空間 」として考える限り情(zyou)であり、測定不能の「 場 」であると考えます。

真空でも、地上のリンゴが落ちるとき、「 重力 」というエネルギーは測定可能だが、「 エネルギーが働く場 」は意識で測定不能であるが「 実有 」するように、「 エーテル 」は意識とは無関係に「 実有 」するのだと思います。


2013/12/1、私の考え



これは、フィクションです。

私は、仏教的な言葉を書きますが、仏教を勉強したこともありませんし、僧侶でもなく、仏教の門外漢です。

まして、哲学者でもありません。

しかし、フィクションとして、書きたいのです。

私は、「 神 」をエネルギーと考え、「 法身(hotsusin)」を神の身体であるエーテルと考え、「 報身(housin)」 を社会や文化のすべての思想だと考えています。

仏教に興味がある人は、ほかのブログをご覧になるようお願いします。

以上のように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotsusin)であると思います。

後者の「 魔法のランプ 」は、「 神 」であるエネルギーの身体、すなわち重力や電磁波などの気(ki)が通う空間である「 エーテル 」に包まれた宇宙の産物ですから法身(hotssin)の一部であり、人体自身は、科学の対象となる気(ki)の塊ですから科学が適用されます。

人体は「 魂 」であり気(ki)でありますから、科学が適用されると考えます(生気論)。

後者の「 魔法のランプ 」から出た「 内なる世界 」は、エーテルを含まない、法身(hotssin)でない情(zyou)であり、報身(housin)であると考えます。

この報身(housin)の中に「 宗教 」があると思うのですが、エーテルを含まないから科学的な対象とはならず、宗教が作った「 神 」は、気(ki)であるエネルギーを通過させたり、エネルギーを生んだりせず、その目的は「 人格の完成 」であり、報身(housin)が作るのは「 仏(hotoke) 」であり「 神 」ではないと思います。

「 宗教が作った神仏 」は、エーテルを必要としないことを理由として「 限界 」が生じると思います。

「 限界 」とは「 永遠 」と唱えながらも、「 永遠 」を解決していないから、人間では考えられないほどの時間や空間の概念を「 宗教 」は必要とするのだと思います。

私は、宗教が「 エーテル 」を考えていないから、そのような概念を必要とすると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」と言いますが、私は、後者の情(zyou)である宗教が作った「 神 」ではなく、前者の気(ki)であるエネルギーの「 神 」の前で「 平等 」であると思います。


ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」とは、宗教や社会的権利や文化的思考により与えられる「 平等 」ではなく、人間という存在自体が気(ki)であり、人間が生まれたときから気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」の前で「 平等 」であると考えます。



このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotusin)であるので、「 人間は宇宙の産物として平等である 」と思います。


三身(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB

法身(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%BA%AB

報身(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E8%BA%AB

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2013年11月24日

2013/11/24、オカルト・エーテル考 7・実有

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。



2013/11/17、私の記事


これは、私だけの考えであり、フィクションです。



以上のように、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」がエーテルであり、エネルギーである「 神 」であるならば、地球上の私たち人類も、この構造と矛盾しない構造を持っていると考えます。

その「 魔法のランプ 」は、「 人体 」であり、時間意識や空間意識や、様々の思想やすべての「 文化 」が「 魔法のランプ 」から出た情(zyou)であると考えます。

暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」が気(ki)であり、人体という「 魔法のランプ 」からでた「 文化 」が情(zyou)であり、気(ki)が情(zyou)に作用することはあっても、情(zyou)により気(ki)が消滅するのではない構造だと考えます。

情(zyou)は、気(ki)を「 実体化 」、あるいは「 認識可能にする 」無意識であると考えます。

遺伝子情報が「 魔法のランプ 」であり、それに対して気(ki)が作用したとき、すなわち「 アラジンがランプを擦ったとき 」現れるのは、「 意識 」であり、時間という時間意識や空間という空間意識であると思います。

気(ki)はエネルギーで「 神 」であり、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」で、宇宙のすべての物質に浸透するためにエーテルを必要とするが、人間の頭脳が持つ「 魔法のランプ 」から生み出される、精神という情(zyou)は「 エーテル 」を必要としないので、「 エーテル 」を認識することが出来ないと思います。

宇宙のすべてを生み出す、暗黒物質という「 魔法のランプ 」(ビッグ・バンはこの「 魔法のランプ 」の出口かも知れません)は、必ず「 エーテル 」を必要とし、伝達されるのは「 エネルギー(E) 」であり、気(ki)であり、ある条件で「 物質(M) 」になるのかも知れません(E=MC2)。

人間の頭脳という「 物質(M )」の「 魔法のランプ 」から生み出される「 精神 」という情(zyou)は、「 エネルギー 」を伝達せず、「 エーテル 」を必要としないので「 エーテル 」を認識することが出来ず、「 エネルギー 」が「 力(chikara) 」に実体化したとき、「 仕事量 」という範疇で認識し、「 力学 」を生むと思います。

神、言い換えると「 エネルギー 」を「 精神 」で把握したとき、エネルギーは「 力(chikara)」であり、「 仕事量 」で、物理学の「 力学 」は人類のためにエネルギーを利用する方法であると考え、意識による「 神の把握 」であるから、それを拒む気(ki)である「 神 」と対立すると考えます。

宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」であることと、頭脳の「 魔法のランプ 」が生み出す精神的に、宇宙を成立させているという「 意識 」、が作る、エーテルを必要としないが「 実体化が必要な虚である宇宙 」と混同してはいけないと思います。

後者の「 意識 」は、情(zyou)であり、エーテルを必要としないが、実体化を必要とするので不連続の「 虚の宇宙 」であり、前者は、連続する「 実有の宇宙 」であり、後者の中で前者は、エーテルを起因とする「 実体化されない不安 」「 虚数 」として現れると思います。

この二重の構造により、情(zyou)で、思想として「 神 」を信仰しても否定しても、気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」は存在し、自殺する人体を動作させるから、「 神がいないから自殺 」しても「 神 」は存在するのであり、「 神の名のもとの処刑 」など精神的な「 神 」を理由にしての殺人は人体を動作させるエネルギーである「 神 」を否定することであり、殺人は許さないと考えます。

人体という「 魔法のランプ 」から出る情(zyou)が暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」を認識するのは自然現象のエネルギーを「 科学 」で解明することであり、「 力学 」を考えることであり、「 科学 」が「 魔神 」に対抗するのであり、「 宗教 」ではないことは前述しました。

「 宗教 」は気(ki)である「 神 」と対立するのではなく、気(ki)が情(zyou)の中で現れる「 無明 」や「 不安 」を克服し、「 人格の完成 」に向かう思想であると思います。

気(ki)が擦った「 魔法のランプ 」からの噴出物である「 不安 」を「 人格の完成 」に向かわせるのが宗教であり、「 魔法のランプ 」を擦る方法(統治方法など政治的思想を教育すること)、「 不安 」を利用して人を操作する方法を教えることは政治であり、「 宗教 」ではないと思います。

統治方法の宗教は、本来の目的ではなく、禁止すべきで、古代の日本人が、仏教を「 統治方法 」として利用したのは誤りであり、孔子思想や儒教(武士道)などの統治方法と、日本古来の「 八百万の神 」を敬う「 神道 」と混同しなかったのは正しいと考えます。

孔子思想や儒教は情(zyou)であり、政治的であり、気(ki)である自然エネルギーを敬う「 神道 」は、皇室だけの思想ではなく、日本人全体の思想であると考えます。

このような、自然エネルギーを敬う思想を持ちながら、再生自然エネルギー開発をしないで、原子力エネルギーに固執し、国内どころか海外にも輸出しようとする、自民党の思想は、日本人として「 正しい道 」ではないと考えます。


2013/11/24、私の考え




これは、フィクションです。


このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、、頭脳の「 魔法のランプ 」がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると、以前、書きました。

後者の理論である、量子力学と相対論を組み合わせて宇宙を考える人もいますが、私は、エーテルを「 内なる世界 」を考慮しない考えは、間違いであると思います。

このことは、物理学だけでなく、哲学や宗教学も、同様であると考えます。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。


私は、「 エネルギー 」が伝達する空間を「 エーテル 」とし、これが「 永遠 」で「 不変 」であると考えます。

「 エネルギー 」が一定の条件で物質になり(E=MC2)、その物質により判断する「 内なる世界 」は相対的であり、「 諸行無常 」であり「 万物は流転する 」のであり、「 永遠 」や「 不変 」であるのは「 内なる世界 」には構造として存在しない「 エーテル 」であると考えます。

「 存在(意識)しないもの 」を「 存在(意識)する 」と考えることが「 不変 」や「 永遠 」を考えることだと思いますが、存在(意識)を変化させるので、「 相対的 」を「 絶対的 」にすることで、「 自我を否定 」することで、社会的には「 狂気 」という評価を得るかも知れませんが、これが「 永遠 」を求めることであり、「 神 」を信じることだと思います。

「 神 」を信じるためには「 エーテル 」を考えることが必須だと考えます。

「 エーテル 」という気(ki)が「 実有 」であり、「 諸行無常 」という情(zyou)は「 エネルギー 」と「 物質 」が流動的であることで、気(ki)を原因とする「 現象 」であり「 相対的 」な存在意識であると思います。

「 実有 」は存在意識という情(zyou)を含む気(ki)であり、あらゆる現象を包摂する空間で、人間の情(zyou)では、「 時間 」や「 速度 」では想定不能の「 空間 」だと思います。

「 空間 」として考える限り情(zyou)であり、測定不能の「 場 」であると考えます。

真空でも、地上のリンゴが落ちるとき、「 重力 」というエネルギーは測定可能だが、「 エネルギーが働く場 」は意識で測定不能であるが「 実有 」するように、「 エーテル 」は意識とは無関係に「 実有 」するのだと思います。

そのことが、「 宗教的 」には「 不安 」と「 可能性 」になると思います。

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2013年11月17日

2013/11/17、オカルト・エーテル考 6・魔法のランプ

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。



2013/11/10、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


課題は「 エーテル 」ですが、重力や電磁波などのエネルギーをすべて容認する空間であり、「 万有引力 」の重力を含む、連続し、実有である空間であると思います。

「 次元 」などは、情(zyou)であり、神の愛の下での考えであり、私が考える「 エーテル 」は、「 アラジンの魔法のランプ 」の「 魔神 」のように、「 魔法のランプ 」の暗黒物質から「 膨張 」したり「 収縮 」する「 膜 」のようなものだと想像します。

「 魔神 」の「 力 」がエネルギーであり、「 神 」であり、「 魔神 」の「 身体 」が「 エーテル 」であり、「 宇宙 」だと想像します。

「 魔神 」ですから、情(zyou)で定義される「 連続や不連続 」を含み、すべての「 神 」であるエネルギーも含む暗黒物質であり、ブラックホールも含んだ「 神を生む物質 」であるかも知れません。

測定不能の空間があり、測定不能の暗黒物質もあり、これらが調和した「 宇宙 」の解明が必要だと思います。

私の考えは、現時点では、以上のような「 アラジンの魔法のランプ 」の構造が宇宙論であるということになります。



2013/11/17、私の考え




これは、私だけの考えであり、フィクションです。



以上のように、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」がエーテルであり、エネルギーである「 神 」であるならば、地球上の私たち人類も、この構造と矛盾しない構造を持っていると考えます。

その「 魔法のランプ 」は、「 人体 」であり、時間意識や空間意識や、様々の思想やすべての「 文化 」が「 魔法のランプ 」から出た情(zyou)であると考えます。

暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」が気(ki)であり、人体という「 魔法のランプ 」からでた「 文化 」が情(zyou)であり、気(ki)が情(zyou)に作用することはあっても、情(zyou)により気(ki)が消滅するのではない構造だと考えます。

情(zyou)は、気(ki)を「 実体化 」、あるいは「 認識可能にする 」無意識であると考えます。

遺伝子情報が「 魔法のランプ 」であり、それに対して気(ki)が作用したとき、すなわち「 アラジンがランプを擦ったとき 」現れるのは、「 意識 」であり、時間という時間意識や空間という空間意識であると思います。

気(ki)はエネルギーで「 神 」であり、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」で、宇宙のすべての物質に浸透するためにエーテルを必要とするが、人間の頭脳が持つ「 魔法のランプ 」から生み出される、精神という情(zyou)は「 エーテル 」を必要としないので、「 エーテル 」を認識することが出来ないと思います。

宇宙のすべてを生み出す、暗黒物質という「 魔法のランプ 」(ビッグ・バンはこの「 魔法のランプ 」の出口かも知れません)は、必ず「 エーテル 」を必要とし、伝達されるのは「 エネルギー(E) 」であり、気(ki)であり、ある条件で「 物質(M) 」になるのかも知れません(E=MC2)。

人間の頭脳という「 物質(M )」の「 魔法のランプ 」から生み出される「 精神 」という情(zyou)は、「 エネルギー 」を伝達せず、「 エーテル 」を必要としないので「 エーテル 」を認識することが出来ず、「 エネルギー 」が「 力(chikara) 」に実体化したとき、「 仕事量 」という範疇で認識し、「 力学 」を生むと思います。

神、言い換えると「 エネルギー 」を「 精神 」で把握したとき、エネルギーは「 力(chikara)」であり、「 仕事量 」で、物理学の「 力学 」は人類のためにエネルギーを利用する方法であると考え、意識による「 神の把握 」であるから、それを拒む気(ki)である「 神 」と対立すると考えます。

宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」であることと、頭脳の「 魔法のランプ 」が生み出す精神的に、宇宙を成立させているという「 意識 」、が作る、エーテルを必要としないが「 実体化が必要な虚である宇宙 」と混同してはいけないと思います。

後者の「 意識 」は、情(zyou)であり、エーテルを必要としないが、実体化を必要とするので不連続の「 虚の宇宙 」であり、前者は、連続する「 実有の宇宙 」であり、後者の中で前者は、エーテルを起因とする「 実体化されない不安 」「 虚数 」として現れると思います。

この二重の構造により、情(zyou)で、思想として「 神 」を信仰しても否定しても、気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」は存在し、自殺する人体を動作させるから、「 神がいないから自殺 」しても「 神 」は存在するのであり、「 神の名のもとの処刑 」など精神的な「 神 」を理由にしての殺人は人体を動作させるエネルギーである「 神 」を否定することであり、殺人は許さないと考えます。

人体という「 魔法のランプ 」から出る情(zyou)が暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」を認識するのは自然現象のエネルギーを「 科学 」で解明することであり、「 力学 」を考えることであり、「 科学 」が「 魔神 」に対抗するのであり、「 宗教 」ではないことは前述しました。

「 宗教 」は気(ki)である「 神 」と対立するのではなく、気(ki)が情(zyou)の中で現れる「 無明 」や「 不安 」を克服し、「 人格の完成 」に向かう思想であると思います。

気(ki)が擦った「 魔法のランプ 」からの噴出物である「 不安 」を「 人格の完成 」に向かわせるのが宗教であり、「 魔法のランプ 」を擦る方法(統治方法など政治的思想を教育すること)、「 不安 」を利用して人を操作する方法を教えることは政治であり、「 宗教 」ではないと思います。

統治方法の宗教は、本来の目的ではなく、禁止すべきで、古代の日本人が、仏教を「 統治方法 」として利用したのは誤りであり、孔子思想や儒教(武士道)などの統治方法と、日本古来の「 八百万の神 」を敬う「 神道 」と混同しなかったのは正しいと考えます。

孔子思想や儒教は情(zyou)であり、政治的であり、気(ki)である自然エネルギーを敬う「 神道 」は、皇室だけの思想ではなく、日本人全体の思想であると考えます。

このような、自然エネルギーを敬う思想を持ちながら、再生自然エネルギー開発をしないで、原子力エネルギーに固執し、国内どころか海外にも輸出しようとする、自民党の思想は、日本人として「 正しい道 」ではないと考えます。

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2013年11月10日

2013/11/10、オカルト・エーテル考 5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。


2013/10/27、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、気(ki)である「 エーテル 」や「 エネルギー 」と情(zyou)である「 大気 」や「 次元 」や「 マク 」とは違うと考えます。


「 次元 」や「 マク 」というのは、「 実体化 」する情(zyou)の一種だと思います。

「 エーテル 」や「 エネルギー 」に位置が無いとは、精神では把握が不能であることで、それらはすべての所、宇宙のすべてに「 エーテル 」が「 実有 」することであり、エーテルを通過する「 重力 」や「 引力 」が宇宙のすべてに「 実有 」し、それが情(zyou)や次元の認識(実体化)を成立させていると考えます。


2013/11/10、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


課題は「 エーテル 」ですが、重力や電磁波などのエネルギーをすべて容認する空間であり、「 万有引力 」の重力を含む、連続し、実有である空間であると思います。

「 次元 」などは、情(zyou)であり、神の愛の下での考えであり、私が考える「 エーテル 」は、「 アラジンの魔法のランプ 」の「 魔神 」のように、「 魔法のランプ 」の暗黒物質から「 膨張 」したり「 収縮 」する「 膜 」のようなものだと想像します。

「 魔神 」の「 力 」がエネルギーであり、「 神 」であり、「 魔神 」の「 身体 」が「 エーテル 」であり、「 宇宙 」だと想像します。

「 魔神 」ですから、情(zyou)で定義される「 連続や不連続 」を含み、すべての「 神 」であるエネルギーも含む暗黒物質であり、ブラックホールも含んだ「 神を生む物質 」であるかも知れません。

測定不能の空間があり、測定不能の暗黒物質もあり、これらが調和した「 宇宙 」の解明が必要だと思います。

私の考えは、現時点では、以上のような「 アラジンの魔法のランプ 」の構造が宇宙論であるということになります。

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2013年11月03日

2013/11/3、オカルト・エーテル考 4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。

物理法則が展開される舞台、「 次元 」がエーテルであり、力学の「 力 」が神だと思います。

「 速さ 」を考えますと、距離を時間で除しますが、この「 距離 」や「 時間 」自体が意識であり、「 速さ 」そのものは、不明です。

新幹線に乗っているときも、飛行機に乗っているときも、「 速度 」は「 時速 」と言っても「 不明 」です。

速度などのエネルギーは、四次元では把握できないのだと思います。

これは、「 速度 」や「 運動量 」と「 位置 」は「 次元 」が違うのだと考えています。



2013/10/27、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、気(ki)である「 エーテル 」や「 エネルギー 」と情(zyou)である「 大気 」や「 次元 」や「 マク 」とは違うと考えます。


「 次元 」や「 マク 」というのは、「 実体化 」する情(zyou)の一種だと思います。

「 エーテル 」や「 エネルギー 」に位置が無いとは、精神では把握が不能であることで、それらはすべての所、宇宙のすべてに「 エーテル 」が「 実有 」することであり、エーテルを通過する「 重力 」や「 引力 」が宇宙のすべてに「 実有 」し、それが情(zyou)や次元の認識(実体化)を成立させていると考えます。

将来、地球が消滅した場合、情(zyou)が消滅しても、気(ki)は残ると考えます。

人間が滅んでも、太陽系などの惑星の軌道も原子核の陽子などの軌道を形成するエネルギーは残るだろうし、エネルギー(神)に変化は無いかも知れない。


2013/11/3、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上より、全宇宙に共通する、「 エネルギー 」を通過させる「 膜 」である「 エーテル 」があり、これが「 膨張 」するから宇宙は膨張し、そしてブラックホールの中に消えてゆき、その一方、地球に存在する大気の「マク」があり、「 エネルギー 」が大気を通過して、地球上に生命を育てていると思います。

私に立場では、「 エネルギー 」が「 神 」であり、人体の中では気(ki)になり、電磁波であり、これが時間意識と空間意識を生むと考え、この気(ki)は生物すべてが保持し、社会的には「 生気論 」として表現されると考えます。

「 時間 」や「 空間 」が意識であることは、一般性相対論の結論から考えました。

気(ki)であるエネルギーが伝わるのは、エーテルの中であり、「 次元 」というのは気(ki)を実体化する情(zyou)である認識の形式だと思います。

「 光 」が最速であるとは、「 光 」は「 電磁波 」ですが、「 電磁波 」というエネルギーが「 実体化 」したのが「 光 」であり、人間が認識し実体化するエネルギーのなかで最速だということだと思います。

エーテルの中で、人間が実体化し認識する最速が「 光 」というだけで、もし「 認識方法 」が変われば光に替わる「 最速のエネルギー 」が発見されるかも知れません。


「 最速 」と言いましたが、「 速さ 」がエネルギーであり、前述したように、四次元では「 時間 」や「 距離 」などの「 意識 」を使用しなければ「 実体化 」あるいは「 認識 」することが出来なく、この「 速さ 」は観念であり、「 大小 」の観念と同じく相対的で、実体は無いと考えます。

「 速さ 」は方向性が無い点でも、エネルギーであると思います。

ジェットコースターやレーシングカーのように、速度がある乗り物の上で「 不安 」なのは、エネルギーに方向性が無く、意識による操縦が必要であるのは、「 速度 」がエネルギーであることを示しています。

ここで、私は「 エネルギー 」と「 不安 」を結びつけます。

大気汚染の空気を吸って「 不安 」であるのは、汚染された空気が生存を短縮する「 不安 」です。

「 空気 」にたいする「 不安 」でなく、汚染された空気が運ぶエネルギーの健康に対する影響が「 不安 」であり、「 大気汚染 」や「 放射能汚染 」でも同じだと思います。

「 エーテル 」の中の「 エネルギー 」に対する「 不安 」であり、「 不安 」は気(ki)であるエネルギーを認識する、あるいは実体化する人間の「 力 」であると思います。

この「 力 」は「 仕事量 」で表現され、エネルギーと共通し、人体の外部からエネルギーを授受すると考えます。

高所恐怖症も人体に対する高い所が持つエネルギーへの「 不安 」であり、「 速度 」に対する「 不安 」と似ていると思います。

「 エーテル 」と「 エネルギー 」と「 人間の身体 」や「 自我 」は「 不安 」を介在させて連結し、それは「 神 」に対する「 恐れ 」であり、その結果、「 神 」を敬うことになると考えます。

近代では、「 科学 」により「 神 」が否定され、「 不安 」が無い社会になったと考えがちですが、それはガリレオが心拍数を振り子に変えたように、人間が本来持つ「 不安 」という人間の本来の「 能力 」を科学で間違った方向に進んでいることであり、「 科学の進歩は不安を解消しない、あるいは安心に至らない 」ことは、福島の原発事故を見ても正しいと思います。

私は「 エネルギー」を「 神 」と思いますが、「 エーテル 」はそのエネルギーを通過させる「 膜 」であり、「 エネルギー 」や「 神 」を信じることは、「 不安 」だから信じるのですが、「 不安 」は自分の身体に対する「 不安 」であり、自分が作り出したエネルギーや「 力 」であり、「 自我 」は自分が所有しない「 神 」であるエネルギーの一部であると考えたとき、「 自我 」に対する「 不安 」は解消し、「 神 」を包摂した「 エーテル 」となると考えています。

「 物 」という「 不連続 」が解消して、「 エーテルの中のエネルギー 」という「 連続 」になると考えます。

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2013年10月27日

2013/10/27、オカルト・エーテル考 3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。

物理法則が展開される舞台、「 次元 」がエーテルであり、力学の「 力 」が神だと思います。

「 速さ 」を考えますと、距離を時間で除しますが、この「 距離 」や「 時間 」自体が意識であり、「 速さ 」そのものは、不明です。

新幹線に乗っているときも、飛行機に乗っているときも、「 速度 」は「 時速 」と言っても「 不明 」です。

速度などのエネルギーは、四次元では把握できないのだと思います。

これは、「 速度 」や「 運動量 」と「 位置 」は「 次元 」が違うのだと考えています。



2013/10/27、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、気(ki)である「 エーテル 」や「 エネルギー 」と情(zyou)である「 大気 」や「 次元 」や「 マク 」とは違うと考えます。


「 次元 」や「 マク 」というのは、「 実体化 」する情(zyou)の一種だと思います。

「 エーテル 」や「 エネルギー 」に位置が無いとは、精神では把握が不能であることで、それらはすべての所、宇宙のすべてに「 エーテル 」が「 実有 」することであり、エーテルを通過する「 重力 」や「 引力 」が宇宙のすべてに「 実有 」し、それが情(zyou)や次元の認識(実体化)を成立させていると考えます。

将来、地球が消滅した場合、情(zyou)が消滅しても、気(ki)は残ると考えます。

人間が滅んでも、太陽系などの惑星の軌道も原子核の陽子などの軌道を形成するエネルギーは残るだろうし、エネルギー(神)に変化は無いかも知れない。

人類が滅んだ場合、情(zyou)である宗教は無くなるが、気(ki)である「 神 」は残るだろう。

その延長で、日本では仏教や儒教など外来宗教や政治思想とは別に、山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見出す「 神道 」が存在することは正しい考えかもしれない。


神道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

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2013年10月20日

2013/10/20、オカルト・エーテル考 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/6/22、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルを否定することが、科学の進歩であれば、成功だったと同時に、失敗であったと思います。

一般相対性理論と特殊相対性理論があるが、前者はエーテルや涅槃の領域であり、後者は「 神の愛 」の領域であると思います。

「 神の愛 」である地球上では、一般相対性理論と特殊相対性理論が重なり、特殊相対性理論で物理が説明されるというが、それは「 エーテルと大気(空気)が一体となり分離できなく、大気だけを考え、エーテルを考えなくても物理は説明することができる 」ということだと思います。

しかし、重力がエーテルの中で伝わると考えると、エーテルの中で物理が成立していることを忘れてはならないと思います。

それは、「 神仏の身体 」の中に「 神の愛 」であることで、後者だけを考え前者を無視することは正しい理論ではないと思います。

一般性総体理論やエーテルや「 神仏の身体 」が「 涅槃 」で「 必然 」あり、特殊相対性理論や空気や「 神の愛 」は本来は「 偶然 」や現象であり、「 必然性 」であると思います。

「 必然 」と「 必然性 」は、前者が「 人間を必要とせずに因果が成立 」し、エーテルが必要であり、連続する「 実有 」であるのに対し、後者は「 人間の頭脳の中で成立する因果 」で、エーテルは必要でなく、不連続な「 実体 」であると思います。


もし、エネルギーがエーテルの中で伝達されるならば、特殊相対性理論でエネルギーを説明することは出来ないと思います。

私は、量子力学の不確実性理論は、エーテルを考慮していないのが原因であり、「 神様はサイコロをふらない 」ことを認めないことも同様で、量子理論は特殊な理論であると思います。

とても、宇宙を解明することは出来ない理論が量子理論であると思います。



2013/10/20、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。

物理法則が展開される舞台、「 次元 」がエーテルであり、力学の「 力 」が神だと思います。

「 速さ 」を考えますと、距離を時間で除しますが、この「 距離 」や「 時間 」自体が意識であり、「 速さ 」そのものは、不明です。

新幹線に乗っているときも、飛行機に乗っているときも、「 速度 」は「 時速 」と言っても「 不明 」です。

速度などのエネルギーは、四次元では把握できないのだと思います。

これは、「 速度 」や「 運動量 」と「 位置 」は「 次元 」が違うのだと考えています。

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2013年10月13日

2013/10/13、オカルト・エーテル考1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/10/11、私の記事

これは、フィクションです。


私は、この「 膜 」が「 エーテル 」で、重力もすべてのエネルギーは、この「 膜 」の中を通して伝達すると考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」ことは当然で、プランクの定数やすべての物理の数値は「 エーテルを無視して計算されたもの 」であり、これらが宇宙の真理であるとは考えません。

エネルギーがエーテルの中で伝達することなど考えず、地球上で計測したのが飛び飛びの数値のプランクの定数であり、宇宙空間で計測された場合は相違するかもしれません。

空気とエーテルを分離することが出来ないのは、エーテルがエネルギーを通す「 膜 」であるかもしれません。

人体を考えても、太陽エネルギーは「 空気 」ではなく「 エーテル 」を通して人体の伝達され、人間の知覚や感受性は無意識ですが「 膜 」を通過するから「 連続 」であり、意識は無意識から生じると考えると、エーテルという「 膜 」を通して「 エネルギー 」を摂取し、外部に発散するのが「 意識 」であり、それは「 太陽光から意識が生じる 」ことだと考えます。

気(ki)であるエネルギーはエーテルという「 膜 」を通して人体に届き、同じ気(ki)である無意識がエネルギーを感受し、「 力 」として発揮するとき「 意識 」であると考えます。

人は皆、エーテルという「 膜 」の中で無意識にエネルギーを摂取し、意識的に発散させるので、人体そのものが「 神の仕業 」であることになります。

自殺する人も、ジハードする人も「 神の仕業 」であり、その行動を支配する情(zyou)が「 自殺 」させ「 ジハード 」させるのだと考えます。

情(zyou)は文化的であり、政治的であり、遺伝子情報の結果だろうと考えます。

この情(zyou)の典型が「 宗教 」だと考えます。

これまで、宗教も「 エーテル 」のことを考えていませんが、私にとって、この「 エーテル 」こそが「 信仰 」には必須のものなのです。

以前に書きましたが「 私が死んだら星になる 」と「 私はお前たちのそばにいる 」とか「 神はそばにいる 」とか「 二人同行 」ということが同時に成立するためには、「 エーテル 」が必要です。

「 エーテル 」に乗って何万里も離れた星や西方浄土からもあなたのそばでも、あなたの「 意識次第 」で存在(意識)になりますということです。

今という時間意識の中で「 永遠 」なのは「 エーテル 」であるからです。

「 無 」は人間が経験しないブラックホールの中であり、私は信じません。

いろいろ書きましたが、「 エーテル 」を除外した相対論と量子力学は統合が不可能であることと、「 エーテル 」を考えない「 宗教 」は、「 人倫の道 」を示すべきであって、「 神 」とは「 全く 」無関係というか、「 神を含んだ宗教は間違いである 」と私は、考えます。


2013/10/13、私の考え



これは、フィクションです。


これまでの帰結として、「 エーテル 」が物理でも宗教でも必要であるのに、これまでの哲学者は全く考えていなかったと思います。

物理でも、宗教でも、「 不必要だから考えない 」という態度は、宇宙から見たとき、あまりのも人間中心的であると思います。

それは、都合の良いことだけを考えることであり、「 真理 」からは遠く隔てた人間の頭だけの宇宙であると考えます。

こんなことは、「 ドンキホーテ 」の仕事であると思います。

私は「 ドンキホーテ 」として、「 エーテル 」とは何かを考えることにします。

二次元に住む住人は三次元を理解することができないのと同じように、四次元の住人である人間は、それ以上の次元は理解することが出来ないかも知れません。

私は「 次元 」というのが理解していないが、四次元の次元とは、参考に挙げた「 結界 」が四つあると考えています。

参考のように、物理で、「 エーテル 」を否定することは、物理哲学の事で、「 エーテル 」を実在するという考えも否定されていないと考えます。


「 実有 」の気(ki)を「 実体化 」するのが情(zyou)です。

学問である情(zyou)で気(ki)を否定しても、実有である気(ki)は消滅しません。

私の考えでは、気(ki)と情(zyou)は、宇宙と人間の思考で、互いに侵入できない領域だと思います。

この領域は「 神 」と「 人間 」の領域であり、「 エーテル 」と「 大気 」であり、気(ki)と情(zyou)であり、領域が「 界 」であり、以前に書いた「 膜 」であると思います。

「 膜 」の境が「 結界 」であり、それは人間から見た「 境 」であり、「 次元 」と同じように考えます。

神社の「 鳥居 」がこの世と神の領域を隔てる「 境 」であれば、その「 鳥居 」を発見することが「 次元 」を考えることだと思いますが、私の頭では発見することは不可能です。

ただ、領域が違うということで満足していますが、私はこの「 結界 」や「 鳥居 」が不明であるのは、「 エーテルがエネルギーの領域でエネルギーはエーテルの中で伝達される 」と考えています。

宇宙空間にはエネルギーが満ちているし、地球上はエネルギーの集合であり、「 エネルギーを神と考える 」と、「 八百万の神 」が宇宙に実有すると考えます。

エネルギーの通る通路が「 エーテル 」であり、人間の胎内と宇宙を連続させ、「 結界 」や「 鳥居 」が不明であると思います。

この「 鳥居 」に該当するのが、私が以前に書いた「 気(ki)と情(zyou)を分ける特徴である 」と考えます。





結界
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%95%8C

結界(けっかい、Skt:Siimaabandha)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語であるが、古神道や神道における神社なども、同様の概念があることから、言葉として用いられている。大和言葉では端境(はざかい)やたんに境ともいう。

鳥居
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

鳥居(とりい)とは、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもの。一種の「門」である。



エーテル(物理)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB_(%E7%89%A9%E7%90%86)

エーテル (aether, ether, luminiferous aether) は、主に19世紀までの物理学で、光が伝播するために必要だと思われた媒質を表す術語である。現代では特殊相対性理論などの理論がエーテルの概念を用いずに確立されており、エーテルは廃れた物理学理論の一部であると考えられている。

アインシュタインは、より根本的な原理から「長さ」や「時間」といった性質を導出できるはずであると考えた。そして、ローレンツ変換をマクスウェルの方程式から切り離し、時空間の性質を表す基本的な法則であると仮定した。また、アインシュタインは「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在せず、従って「エーテルに対する相対運動」を考えることは無意味となる[6]。

アインシュタインが相対性原理を最も根本的な原理として考えたのに対し、特殊相対性理論の基礎を造ったローレンツは相対性原理の根本がエーテルであると考え、「長さの収縮」や「時間の遅れ」に表されるように、物体の特性はエーテル中の運動により変化すると考えた。アインシュタインとの違いは、長さや時間について絶対的な基準を設けることを可能と考えるか否かである。これは物理哲学の問題であるため、決着はついていない。従って、エーテルの実在性は完全には否定されていないと言える。

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2013年10月11日

2013/10/11、オカルト・エーテルと神仏32・私の神仏考11、帰結2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/10/6、私の記事


これは、フィクションです


このように、「 エーテル 」を無視した(あるいは棚上げした)相対論と、相対論を無視し「 エーテル 」を無視する量子論が宇宙を支配する理論ではないことは明瞭です。


宇宙は何一つ除外せず、「 エーテル 」が中心の連続した広がりであることは明白で、宇宙には「 エーテル 」が実有するのも事実だと思います。

相対論と量子論を統合することが出来たとしても(私はエーテルを除外する限り統合することは出来ないと思います)、ブラックホールなどの事実は解明されないと思います。

私は、「膜 」という考えに興味があります。

光が重力により曲げられるのもエネルギーが通過する「 膜 」が重力により変形していると考えるのが妥当と考えるからです。

それを拡大して、「 膜 」の相違が「 次元 」の相違だと考えます。

気(ki)と情(zyou)が、互いに排斥するのは「 膜 」の違いだと考えます。

エーテルと大気、エネルギーと質量、「 愛 」と「 愛情 」などは「 膜 」が相違するのであり、実有が実体と認識される「 次元 」が「 膜 」であると考えます。

E=MC2はEとMが実体になる「次元 」すなわち「 膜 」が、C2というエネルギーで連結していることを示し、両者を四次元で観察することは出来ないと思います。

宇宙は四次元以上の次元で構成され、我々が四次元だと思うことは、間違った考えであり、人間の恣意的な考えであるかも知れない。

とにかく、「 エーテル 」を解明しないで、相対論と量子論は統合しないというのが、私の考えです

2013/10/11、私の考え

これは、フィクションです。


私は、この「 膜 」が「 エーテル 」で、重力もすべてのエネルギーは、この「 膜 」の中を通して伝達すると考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」ことは当然で、プランクの定数やすべての物理の数値は「 エーテルを無視して計算されたもの 」であり、これらが宇宙の真理であるとは考えません。

エネルギーがエーテルの中で伝達することなど考えず、地球上で計測したのが飛び飛びの数値のプランクの定数であり、宇宙空間で計測された場合は相違するかもしれません。

空気とエーテルを分離することが出来ないのは、エーテルがエネルギーを通す「 膜 」であるかもしれません。

人体を考えても、太陽エネルギーは「 空気 」ではなく「 エーテル 」を通して人体の伝達され、人間の知覚や感受性は無意識ですが「 膜 」を通過するから「 連続 」であり、意識は無意識から生じると考えると、エーテルという「 膜 」を通して「 エネルギー 」を摂取し、外部に発散するのが「 意識 」であり、それは「 太陽光から意識が生じる 」ことだと考えます。

気(ki)であるエネルギーはエーテルという「 膜 」を通して人体に届き、同じ気(ki)である無意識がエネルギーを感受し、「 力 」として発揮するとき「 意識 」であると考えます。

人は皆、エーテルという「 膜 」の中で無意識にエネルギーを摂取し、意識的に発散させるので、人体そのものが「 神の仕業 」であることになります。

自殺する人も、ジハードする人も「 神の仕業 」であり、その行動を支配する情(zyou)が「 自殺 」させ「 ジハード 」させるのだと考えます。

情(zyou)は文化的であり、政治的であり、遺伝子情報の結果だろうと考えます。

この情(zyou)の典型が「 宗教 」だと考えます。

これまで、宗教も「 エーテル 」のことを考えていませんが、私にとって、この「 エーテル 」こそが「 信仰 」には必須のものなのです。

以前に書きましたが「 私が死んだら星になる 」と「 私はお前たちのそばにいる 」とか「 神はそばにいる 」とか「 二人同行 」ということが同時に成立するためには、「 エーテル 」が必要です。

「 エーテル 」に乗って何万里も離れた星や西方浄土からもあなたのそばでも、あなたの「 意識次第 」で存在(意識)になりますということです。

今という時間意識の中で「 永遠 」なのは「 エーテル 」であるからです。

「 無 」は人間が経験しないブラックホールの中であり、私は信じません。

いろいろ書きましたが、「 エーテル 」を除外した相対論と量子力学は統合が不可能であることと、「 エーテル 」を考えない「 宗教 」は、「 人倫の道 」を示すべきであって、「 神 」とは「 全く 」無関係というか、「 神を含んだ宗教は間違いである 」と私は、考えます。
posted by kandk55 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 43 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする