2013年12月16日

2013/12/16、携帯電話と人生・エクセルとOfficeSuite 7 pro 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/12/15、私の記事


これは、みなさんには既知のことだと思いますが、エクセルとスマートフォンのアプリである「 OfficeSuite 7 pro について、私の体験談を書かせてもらいます。



学んだこと

@ 自分のパソコンのメールの添付書類を読み取れるように、スマートフォンを準備した方がよい。

A 私の場合、自分のパソコンから、自分のパソコンに、エクセル表計算のデーターを添付して送信する。
自分のパソコンの受信トレイから、その添付物を、スマートフォンで読み取り、保存することにより、パソコンとスマートフォンが連携する。

B エクセルの表計算はパソコンで作り、仕事場でデーターを入力して計算した方がよい。
計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)。
このことは、別の方法を発見したので、後日、書きます。

C 自分のパソコンから自分のパソコンへ、エクセルの表計算を添付して送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、自然の「 Office Suite 7 」に保存される(有料の場合は、ダウンロードのファイル)。


2013/12/16、私の考え




これは、拙い体験弾です



@ 上記のように、メールを送信するしか方法は無いのだろうか?

もっと、簡単にパソコンとスマートフォンを連携することが出来ないだろうか?

と考えたとき、「 OfficeSuite 7 」の中にある、「 リモートファイル 」の「 クラウド 」を利用することに気づきました。

「 リモートアカウント追加 」の中で、5種類のクラウドが選択できますが、わたしはマイクロソフトの「 SkyDrive 」に決めました。

パソコンで「SkyDrive 」のアカウントを取得して開くと、写真や文書をアップロードすることが出来ることを知りました。

そこで、エクセル文書をアップロードしました。

そのあとは、携帯電話で、「 リモートファイル 」の「SkyDrive 」を選択して、アップロードしたエクセル文書を保存するだけでした。

このように、メールだけでなく、「 クラウド 」を使うことで、簡単にパソコンと連携することが出来ました。

A 次に、計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)方法ですが、「 上書き 」する方法と、消去するセルを選択して消去する方法があります。



「 上書き 」は、「 ダウンロード 」の「 マイドキュメント 」(マイドキュメントという選択肢もあります)に保存してあるエクセル文書を開き、何も入力していない表計算だけの文書の保存先を「 テンプレート 」にします。

「 テンプレート 」の中で、エクセル文書を複数シート作り、一日、計算が終わったシートに、表計算だけの文書を「 上書き 」すれば、データーを消すことなく、新しい一日が始まると思います。
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2013年12月15日

2013/12/15、携帯電話と人生・エクセルとOfficeSuite 7 pro

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/12/29、私の記事

これは、非常に特殊な個人的な場合であうので、無視されても結構です。

機種変更のとき、アップル社のアイフォーンにするか、Google 社のアンドロイドにするか、OSの選択に迫られますが、国産の端末であることと検索や地図を利用する機会が多いので、アンドロイドにしました。

Google 社のGメールのアカウントを持っていることが、Google 社のYouTube 利用に便利でした。

結局、アンドロイドにしたのですが、詳しいことは、「 iPhoneとAndroid の比較 」を検索して、自分にフィットした機種を購入すれば良いと思います。

スマートフォンは、携帯電話というより、「 モバイル 」であり、手のひらに乗る小さなパソコンであり、電話も楽しめるという感じで、「 電話 」と「 パソコン 」の割合が、従来の携帯電話と逆転しているように思います。

検索は以前の携帯電話の入力と似ていますが、従来の携帯電話のメールとは別に、「 パソコンのメール 」や「 Gメール 」も受信することが出来、受信することは受信する環境も設定する必要がある点で、パソコンと似ています。

パソコンを初期化したら理解することが出来るのですが、パソコンの送受信サーバやアカウント名やパスワードを設定した後で、パソコンのメールを受信することができます。

Gメールは、Google社のアカウントを、あらかじめパソコンで取得していた方が良いでしょう。

これらの「 設定 」をして、初めてすべてのメールが、スマートフォンに入って来ます。

すると、一気にメールのすべてを閲覧し、処理することが出来ますから、「 スマートフォンは小さなパソコンだ 」と思うのです。


2013/12/15、私の考え


これは、みなさんには既知のことだと思いますが、エクセルとスマートフォンのアプリである「 OfficeSuite 7 pro について、私の体験談を書かせてもらいます。


以前、「 DVDの整理とエクセルの活用 」で書きましたが、そのエクセルの文書を簡単に見ることが出来ないだろうかと考えました。

もちろん、エクセルの文書ですから、パソコンではディスクトップのショートカットで簡単に見ることが出来ます。

しかし、もっと簡単に、スマートフォンからでも見ることが出来るかもしれないと思いました。

私のスマートフォンは、USBなどでパソコンに接続することは出来ません。

ですので、パソコンの写真をスマートフォンで見るためには、スマートフォンに写真を添付したメールを送るか、あるいは自分のパソコンで、自分宛てに写真を添付したメールを送り、その添付した写真を「 保存 」すれば、自然にスマートフォンのピクチュアの中に保存され、閲覧していました。

そこで、エクセルの文書も、メールに添付したら、スマートフォンへ送ることが出来るかも知れないと考えました。

それで、自分のパソコンから自分へ、エクセル文書を添付したメール送って、それをスマートフォンで読み取り、添付したエクセルの文書を、携帯電話の中に保存したところ、Google社の「 office Suite 7 」の無料アプリケーションに自然に保存されました。

しばらくは、DVDを整理したエクセル文書をスマートフォンで見ていましたが、有料のアプリケーションでは、データーを変化させることが出来るという説明がありました。

これは、スマートフォンで、エクセルを使った表計算が出来て、仕事にエクセルが使えるかもしれないと思って購入を決めました。

値段は、2000円未満でした。

何も知らない私にとって、実は、そこからが苦難の連続でした。

有料のダウンロードは成功し、エクセルの画面を発見しましたが、どのようにすれば良いのか分かりません。

「 セル 」をタップしたとき、データーの入力が可能になり、上部の検索のような印をタップしたとき、「 関数 」の入力可能な画面になりました。


私は、初めてですので、スマートフォンで作った表の「 行 」や「 列 」の加除が出来ず、パソコンで加除をすることに決めて、メールに添付してパソコンに送り、エクセルの表計算はパソコンで作り、データーはスマートフォンで入力して計算することにしました。

スマートフォンで入力した内容をパソコンで見たとき、SUMの範囲が、私の考えた範囲と違うのに気づきました。

基本的にエクセルを使う方法は同じのようですが、少し違うところもあると思います。


パソコンで作成したエクセルの表計算を添付し、自分のパソコンから自分のメールアドレスに送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、こんどは無料の「Office Suite 7 」には保存されず、有料の「Office Suite 7 pro」の「 ダウンロード 」の中に、自然に保存されました。



学んだこと

@ 自分のパソコンのメールの添付書類を読み取れるように、スマートフォンを準備した方がよい。

A 私の場合、自分のパソコンから、自分のパソコンに、エクセル表計算のデーターを添付して送信する。
自分のパソコンの受信トレイから、その添付物を、スマートフォンで読み取り、保存することにより、パソコンとスマートフォンが連携する。

B エクセルの表計算はパソコンで作り、仕事場でデーターを入力して計算した方がよい。
計算が終わったら保存せず、次の日に使う(現在は、データーのみを消去する方法がわからない)。
このことは、別の方法を発見したので、後日、書きます。

C 自分のパソコンから自分のパソコンへ、エクセルの表計算を添付して送り、それをスマートフォンで読み取り、添付書類を保存すると、自然の「 Office Suite 7 」に保存される(有料の場合は、ダウンロードのファイル)。

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2013年12月08日

2013/12/8、オカルト・エーテル考 9・無意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。




私の記事


これは、フィクションです。

私は、仏教的な言葉を書きますが、仏教を勉強したこともありませんし、僧侶でもなく、仏教の門外漢です。

まして、哲学者でもありません。

しかし、フィクションとして、書きたいのです。

私は、「 神 」をエネルギーと考え、「 法身(hotsusin)」を神の身体であるエーテルと考え、「 報身(housin)」 を社会や文化のすべての思想だと考えています。

仏教に興味がある人は、ほかのブログをご覧になるようお願いします。

以上のように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotsusin)であると思います。

後者の「 魔法のランプ 」は、「 神 」であるエネルギーの身体、すなわち重力や電磁波などの気(ki)が通う空間である「 エーテル 」に包まれた宇宙の産物ですから法身(hotssin)の一部であり、人体自身は、科学の対象となる気(ki)の塊ですから科学が適用されます。

人体は「 魂 」であり気(ki)でありますから、科学が適用されると考えます(生気論)。

後者の「 魔法のランプ 」から出た「 内なる世界 」は、エーテルを含まない、法身(hotssin)でない情(zyou)であり、報身(housin)であると考えます。

この報身(housin)の中に「 宗教 」があると思うのですが、エーテルを含まないから科学的な対象とはならず、宗教が作った「 神 」は、気(ki)であるエネルギーを通過させたり、エネルギーを生んだりせず、その目的は「 人格の完成 」であり、報身(housin)が作るのは「 仏(hotoke) 」であり「 神 」ではないと思います。

「 宗教が作った神仏 」は、エーテルを必要としないことを理由として「 限界 」が生じると思います。

「 限界 」とは「 永遠 」と唱えながらも、「 永遠 」を解決していないから、人間では考えられないほどの時間や空間の概念を「 宗教 」は必要とするのだと思います。

私は、宗教が「 エーテル 」を考えていないから、そのような概念を必要とすると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」と言いますが、私は、後者の情(zyou)である宗教が作った「 神 」ではなく、前者の気(ki)であるエネルギーの「 神 」の前で「 平等 」であると思います。


ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」とは、宗教や社会的権利や文化的思考により与えられる「 平等 」ではなく、人間という存在自体が気(ki)であり、人間が生まれたときから気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」の前で「 平等 」であると考えます。



このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotusin)であるので、「 人間は宇宙の産物として平等である 」と思います。


2013/12/8、私の考え



これは、フィクションです。


私は、これまで書いてきた記事をひとつの考えで説明することが出来るかどうかに挑戦しています。

ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えます。

これは、人種や宗教や国籍を問わず、人間は宇宙の産物として、気(ki)であるエネルギー(神)の前で平等であり、人種や宗教や国籍や自我や教育やDNAなどの情報である情(zyou)が「 重いもの 」や「 軽いもの 」という差別を生むと思います。

「 差別 」自体が、「 外なる世界 」を差別する「 内なる世界 」の表現であり、「 人格 」の発露であると思います。


確実な実体を認識したと思っても、それが瞬時に「 相対的 」で「 万物が流転し 」「 無常 」となる「 実体 」で、その原因は「 外なる世界 」に有るのではなく、「 内なる世界 」にあると思います。

「 外なる世界 」が、絶えず相対的で無常で、掴んでも掴むことが出来ない「 地獄 」であると思うのですが、その原因は「 内なる世界 」に有ると思います。

「 外なる世界 」のエーテルの中の「 絶対的因果 」で連続する「 実有 」のエネルギーを、「 内なる世界 」では、エーテルを含まず、記憶による世界が始めと終わりがある物語として把握するのが原因で、「 相対的 」で「 無常 」で「 相当因果関係 」な「 実体 」だという判断を下すのだと思います。


「 内なる世界 」は、「 一面的な 」自我意識であり、人種や宗教や国籍であり、自我に反する気(ki)を否定し、自我に都合がよい気(ki)選択して体系化し、差別するものだと思います。

「 内なる世界 」でエーテルを考えるとは、ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えることで、意識ではない「 無意識 」の状態を考えることだと思います。

宗教的には、死の中に在りながら(エーテルの中に在りながら、あるいは涅槃に在りながら)生きること(大気の中で生命を保つこと、死ぬまでの煩悩を受け入れて楽しむこと)が、「 内なる世界 」でエーテルを考えることだと思います。

その意識を排除した状態で意識ではない無意識はエネルギーであり、エーテルの中でエネルギーを伝えるのが「 無意識 」で、「 無意識 」とは意識の一種ではなく、エネルギーと意識を連結するエネルギーと意識の「 膜 」であると考えます。

人間の周りに「 光 」があるとすれば、それが「 無意識の膜 」であり、「 エネルギーの膜 」であり、それは「 内なる世界 」や自我の中の気(ki)と「 外なる世界 」の気(ki)とを連結しているのだと思います。


私は、ちょうど「 呼吸 」のように、「 無意識 」を通過させて、「 外なる世界 」から気(ki)を取り入れ、「 内なる世界 」の気(ki)を「 無意識 」を通過させて発露するのだと思います。

この際、書いておくと、情(zyou)である「 霊 」は社会や精神に帰属し作り出したり、「 見る 」ことが可能で、エネルギー(神)はなく、気(ki)である「 魂 」には、飛んだり消えたりするエネルギー(神)があることになり、エーテルの中にあり、「 見る 」ことは不可能で、感じるだけであると考えています。

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2013年12月01日

2013/12/1、オカルト・エーテル考 8・神の前の平等

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。



2013/11/17、私の記事


これは、私だけの考えであり、フィクションです。



以上のように、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」がエーテルであり、エネルギーである「 神 」であるならば、地球上の私たち人類も、この構造と矛盾しない構造を持っていると考えます。

その「 魔法のランプ 」は、「 人体 」であり、時間意識や空間意識や、様々の思想やすべての「 文化 」が「 魔法のランプ 」から出た情(zyou)であると考えます。

暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」が気(ki)であり、人体という「 魔法のランプ 」からでた「 文化 」が情(zyou)であり、気(ki)が情(zyou)に作用することはあっても、情(zyou)により気(ki)が消滅するのではない構造だと考えます。

情(zyou)は、気(ki)を「 実体化 」、あるいは「 認識可能にする 」無意識であると考えます。

遺伝子情報が「 魔法のランプ 」であり、それに対して気(ki)が作用したとき、すなわち「 アラジンがランプを擦ったとき 」現れるのは、「 意識 」であり、時間という時間意識や空間という空間意識であると思います。

気(ki)はエネルギーで「 神 」であり、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」で、宇宙のすべての物質に浸透するためにエーテルを必要とするが、人間の頭脳が持つ「 魔法のランプ 」から生み出される、精神という情(zyou)は「 エーテル 」を必要としないので、「 エーテル 」を認識することが出来ないと思います。

宇宙のすべてを生み出す、暗黒物質という「 魔法のランプ 」(ビッグ・バンはこの「 魔法のランプ 」の出口かも知れません)は、必ず「 エーテル 」を必要とし、伝達されるのは「 エネルギー(E) 」であり、気(ki)であり、ある条件で「 物質(M) 」になるのかも知れません(E=MC2)。

人間の頭脳という「 物質(M )」の「 魔法のランプ 」から生み出される「 精神 」という情(zyou)は、「 エネルギー 」を伝達せず、「 エーテル 」を必要としないので「 エーテル 」を認識することが出来ず、「 エネルギー 」が「 力(chikara) 」に実体化したとき、「 仕事量 」という範疇で認識し、「 力学 」を生むと思います。

神、言い換えると「 エネルギー 」を「 精神 」で把握したとき、エネルギーは「 力(chikara)」であり、「 仕事量 」で、物理学の「 力学 」は人類のためにエネルギーを利用する方法であると考え、意識による「 神の把握 」であるから、それを拒む気(ki)である「 神 」と対立すると考えます。

宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」であることと、頭脳の「 魔法のランプ 」が生み出す精神的に、宇宙を成立させているという「 意識 」、が作る、エーテルを必要としないが「 実体化が必要な虚である宇宙 」と混同してはいけないと思います。

後者の「 意識 」は、情(zyou)であり、エーテルを必要としないが、実体化を必要とするので不連続の「 虚の宇宙 」であり、前者は、連続する「 実有の宇宙 」であり、後者の中で前者は、エーテルを起因とする「 実体化されない不安 」「 虚数 」として現れると思います。


2013/11/24、私の記事


これは、フィクションです。


このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、、頭脳の「 魔法のランプ 」がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると、以前、書きました。

後者の理論である、量子力学と相対論を組み合わせて宇宙を考える人もいますが、私は、エーテルを「 内なる世界 」を考慮しない考えは、間違いであると思います。

このことは、物理学だけでなく、哲学や宗教学も、同様であると考えます。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。


私は、「 エネルギー 」が伝達する空間を「 エーテル 」とし、これが「 永遠 」で「 不変 」であると考えます。

「 エネルギー 」が一定の条件で物質になり(E=MC2)、その物質により判断する「 内なる世界 」は相対的であり、「 諸行無常 」であり「 万物は流転する 」のであり、「 永遠 」や「 不変 」であるのは「 内なる世界 」には構造として存在しない「 エーテル 」であると考えます。

「 存在(意識)しないもの 」を「 存在(意識)する 」と考えることが「 不変 」や「 永遠 」を考えることだと思いますが、存在(意識)を変化させるので、「 相対的 」を「 絶対的 」にすることで、「 自我を否定 」することで、社会的には「 狂気 」という評価を得るかも知れませんが、これが「 永遠 」を求めることであり、「 神 」を信じることだと思います。

「 神 」を信じるためには「 エーテル 」を考えることが必須だと考えます。

「 エーテル 」という気(ki)が「 実有 」であり、「 諸行無常 」という情(zyou)は「 エネルギー 」と「 物質 」が流動的であることで、気(ki)を原因とする「 現象 」であり「 相対的 」な存在意識であると思います。

「 実有 」は存在意識という情(zyou)を含む気(ki)であり、あらゆる現象を包摂する空間で、人間の情(zyou)では、「 時間 」や「 速度 」では想定不能の「 空間 」だと思います。

「 空間 」として考える限り情(zyou)であり、測定不能の「 場 」であると考えます。

真空でも、地上のリンゴが落ちるとき、「 重力 」というエネルギーは測定可能だが、「 エネルギーが働く場 」は意識で測定不能であるが「 実有 」するように、「 エーテル 」は意識とは無関係に「 実有 」するのだと思います。


2013/12/1、私の考え



これは、フィクションです。

私は、仏教的な言葉を書きますが、仏教を勉強したこともありませんし、僧侶でもなく、仏教の門外漢です。

まして、哲学者でもありません。

しかし、フィクションとして、書きたいのです。

私は、「 神 」をエネルギーと考え、「 法身(hotsusin)」を神の身体であるエーテルと考え、「 報身(housin)」 を社会や文化のすべての思想だと考えています。

仏教に興味がある人は、ほかのブログをご覧になるようお願いします。

以上のように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotsusin)であると思います。

後者の「 魔法のランプ 」は、「 神 」であるエネルギーの身体、すなわち重力や電磁波などの気(ki)が通う空間である「 エーテル 」に包まれた宇宙の産物ですから法身(hotssin)の一部であり、人体自身は、科学の対象となる気(ki)の塊ですから科学が適用されます。

人体は「 魂 」であり気(ki)でありますから、科学が適用されると考えます(生気論)。

後者の「 魔法のランプ 」から出た「 内なる世界 」は、エーテルを含まない、法身(hotssin)でない情(zyou)であり、報身(housin)であると考えます。

この報身(housin)の中に「 宗教 」があると思うのですが、エーテルを含まないから科学的な対象とはならず、宗教が作った「 神 」は、気(ki)であるエネルギーを通過させたり、エネルギーを生んだりせず、その目的は「 人格の完成 」であり、報身(housin)が作るのは「 仏(hotoke) 」であり「 神 」ではないと思います。

「 宗教が作った神仏 」は、エーテルを必要としないことを理由として「 限界 」が生じると思います。

「 限界 」とは「 永遠 」と唱えながらも、「 永遠 」を解決していないから、人間では考えられないほどの時間や空間の概念を「 宗教 」は必要とするのだと思います。

私は、宗教が「 エーテル 」を考えていないから、そのような概念を必要とすると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」と言いますが、私は、後者の情(zyou)である宗教が作った「 神 」ではなく、前者の気(ki)であるエネルギーの「 神 」の前で「 平等 」であると思います。


ちょうど、真空で物体を落下させるとき、「 重いもの 」も「 軽いもの 」も同一の重力で落ちるように、「 重いもの 」とか「 軽いもの 」などの情(zyou)を排除すれば、重力という気(ki)の前では、同一、つまり平等であると考えます。

「 人間は神の前で平等である 」とは、宗教や社会的権利や文化的思考により与えられる「 平等 」ではなく、人間という存在自体が気(ki)であり、人間が生まれたときから気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」の前で「 平等 」であると考えます。



このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」からの噴出物が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、頭脳の「 魔法のランプ 」からの噴出物がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると考えますと、「 世界 」を生む二つの「 魔法のランプ 」は、宇宙の産物であり、法身(hotusin)であるので、「 人間は宇宙の産物として平等である 」と思います。


三身(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB

法身(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%BA%AB

報身(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E8%BA%AB

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2013年11月24日

2013/11/24、オカルト・エーテル考 7・実有

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。



2013/11/17、私の記事


これは、私だけの考えであり、フィクションです。



以上のように、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」がエーテルであり、エネルギーである「 神 」であるならば、地球上の私たち人類も、この構造と矛盾しない構造を持っていると考えます。

その「 魔法のランプ 」は、「 人体 」であり、時間意識や空間意識や、様々の思想やすべての「 文化 」が「 魔法のランプ 」から出た情(zyou)であると考えます。

暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」が気(ki)であり、人体という「 魔法のランプ 」からでた「 文化 」が情(zyou)であり、気(ki)が情(zyou)に作用することはあっても、情(zyou)により気(ki)が消滅するのではない構造だと考えます。

情(zyou)は、気(ki)を「 実体化 」、あるいは「 認識可能にする 」無意識であると考えます。

遺伝子情報が「 魔法のランプ 」であり、それに対して気(ki)が作用したとき、すなわち「 アラジンがランプを擦ったとき 」現れるのは、「 意識 」であり、時間という時間意識や空間という空間意識であると思います。

気(ki)はエネルギーで「 神 」であり、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」で、宇宙のすべての物質に浸透するためにエーテルを必要とするが、人間の頭脳が持つ「 魔法のランプ 」から生み出される、精神という情(zyou)は「 エーテル 」を必要としないので、「 エーテル 」を認識することが出来ないと思います。

宇宙のすべてを生み出す、暗黒物質という「 魔法のランプ 」(ビッグ・バンはこの「 魔法のランプ 」の出口かも知れません)は、必ず「 エーテル 」を必要とし、伝達されるのは「 エネルギー(E) 」であり、気(ki)であり、ある条件で「 物質(M) 」になるのかも知れません(E=MC2)。

人間の頭脳という「 物質(M )」の「 魔法のランプ 」から生み出される「 精神 」という情(zyou)は、「 エネルギー 」を伝達せず、「 エーテル 」を必要としないので「 エーテル 」を認識することが出来ず、「 エネルギー 」が「 力(chikara) 」に実体化したとき、「 仕事量 」という範疇で認識し、「 力学 」を生むと思います。

神、言い換えると「 エネルギー 」を「 精神 」で把握したとき、エネルギーは「 力(chikara)」であり、「 仕事量 」で、物理学の「 力学 」は人類のためにエネルギーを利用する方法であると考え、意識による「 神の把握 」であるから、それを拒む気(ki)である「 神 」と対立すると考えます。

宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」であることと、頭脳の「 魔法のランプ 」が生み出す精神的に、宇宙を成立させているという「 意識 」、が作る、エーテルを必要としないが「 実体化が必要な虚である宇宙 」と混同してはいけないと思います。

後者の「 意識 」は、情(zyou)であり、エーテルを必要としないが、実体化を必要とするので不連続の「 虚の宇宙 」であり、前者は、連続する「 実有の宇宙 」であり、後者の中で前者は、エーテルを起因とする「 実体化されない不安 」「 虚数 」として現れると思います。

この二重の構造により、情(zyou)で、思想として「 神 」を信仰しても否定しても、気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」は存在し、自殺する人体を動作させるから、「 神がいないから自殺 」しても「 神 」は存在するのであり、「 神の名のもとの処刑 」など精神的な「 神 」を理由にしての殺人は人体を動作させるエネルギーである「 神 」を否定することであり、殺人は許さないと考えます。

人体という「 魔法のランプ 」から出る情(zyou)が暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」を認識するのは自然現象のエネルギーを「 科学 」で解明することであり、「 力学 」を考えることであり、「 科学 」が「 魔神 」に対抗するのであり、「 宗教 」ではないことは前述しました。

「 宗教 」は気(ki)である「 神 」と対立するのではなく、気(ki)が情(zyou)の中で現れる「 無明 」や「 不安 」を克服し、「 人格の完成 」に向かう思想であると思います。

気(ki)が擦った「 魔法のランプ 」からの噴出物である「 不安 」を「 人格の完成 」に向かわせるのが宗教であり、「 魔法のランプ 」を擦る方法(統治方法など政治的思想を教育すること)、「 不安 」を利用して人を操作する方法を教えることは政治であり、「 宗教 」ではないと思います。

統治方法の宗教は、本来の目的ではなく、禁止すべきで、古代の日本人が、仏教を「 統治方法 」として利用したのは誤りであり、孔子思想や儒教(武士道)などの統治方法と、日本古来の「 八百万の神 」を敬う「 神道 」と混同しなかったのは正しいと考えます。

孔子思想や儒教は情(zyou)であり、政治的であり、気(ki)である自然エネルギーを敬う「 神道 」は、皇室だけの思想ではなく、日本人全体の思想であると考えます。

このような、自然エネルギーを敬う思想を持ちながら、再生自然エネルギー開発をしないで、原子力エネルギーに固執し、国内どころか海外にも輸出しようとする、自民党の思想は、日本人として「 正しい道 」ではないと考えます。


2013/11/24、私の考え




これは、フィクションです。


このように、宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」の世界であり、、頭脳の「 魔法のランプ 」がエーテルを必要としない精神的な虚像の世界であり、前者が「 外なる世界 」で、後者が「 内なる世界 」である「 自我 」であると、以前、書きました。

後者の理論である、量子力学と相対論を組み合わせて宇宙を考える人もいますが、私は、エーテルを「 内なる世界 」を考慮しない考えは、間違いであると思います。

このことは、物理学だけでなく、哲学や宗教学も、同様であると考えます。

「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。


私は、「 エネルギー 」が伝達する空間を「 エーテル 」とし、これが「 永遠 」で「 不変 」であると考えます。

「 エネルギー 」が一定の条件で物質になり(E=MC2)、その物質により判断する「 内なる世界 」は相対的であり、「 諸行無常 」であり「 万物は流転する 」のであり、「 永遠 」や「 不変 」であるのは「 内なる世界 」には構造として存在しない「 エーテル 」であると考えます。

「 存在(意識)しないもの 」を「 存在(意識)する 」と考えることが「 不変 」や「 永遠 」を考えることだと思いますが、存在(意識)を変化させるので、「 相対的 」を「 絶対的 」にすることで、「 自我を否定 」することで、社会的には「 狂気 」という評価を得るかも知れませんが、これが「 永遠 」を求めることであり、「 神 」を信じることだと思います。

「 神 」を信じるためには「 エーテル 」を考えることが必須だと考えます。

「 エーテル 」という気(ki)が「 実有 」であり、「 諸行無常 」という情(zyou)は「 エネルギー 」と「 物質 」が流動的であることで、気(ki)を原因とする「 現象 」であり「 相対的 」な存在意識であると思います。

「 実有 」は存在意識という情(zyou)を含む気(ki)であり、あらゆる現象を包摂する空間で、人間の情(zyou)では、「 時間 」や「 速度 」では想定不能の「 空間 」だと思います。

「 空間 」として考える限り情(zyou)であり、測定不能の「 場 」であると考えます。

真空でも、地上のリンゴが落ちるとき、「 重力 」というエネルギーは測定可能だが、「 エネルギーが働く場 」は意識で測定不能であるが「 実有 」するように、「 エーテル 」は意識とは無関係に「 実有 」するのだと思います。

そのことが、「 宗教的 」には「 不安 」と「 可能性 」になると思います。

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2013年11月17日

2013/11/17、オカルト・エーテル考 6・魔法のランプ

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。



2013/11/10、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


課題は「 エーテル 」ですが、重力や電磁波などのエネルギーをすべて容認する空間であり、「 万有引力 」の重力を含む、連続し、実有である空間であると思います。

「 次元 」などは、情(zyou)であり、神の愛の下での考えであり、私が考える「 エーテル 」は、「 アラジンの魔法のランプ 」の「 魔神 」のように、「 魔法のランプ 」の暗黒物質から「 膨張 」したり「 収縮 」する「 膜 」のようなものだと想像します。

「 魔神 」の「 力 」がエネルギーであり、「 神 」であり、「 魔神 」の「 身体 」が「 エーテル 」であり、「 宇宙 」だと想像します。

「 魔神 」ですから、情(zyou)で定義される「 連続や不連続 」を含み、すべての「 神 」であるエネルギーも含む暗黒物質であり、ブラックホールも含んだ「 神を生む物質 」であるかも知れません。

測定不能の空間があり、測定不能の暗黒物質もあり、これらが調和した「 宇宙 」の解明が必要だと思います。

私の考えは、現時点では、以上のような「 アラジンの魔法のランプ 」の構造が宇宙論であるということになります。



2013/11/17、私の考え




これは、私だけの考えであり、フィクションです。



以上のように、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」がエーテルであり、エネルギーである「 神 」であるならば、地球上の私たち人類も、この構造と矛盾しない構造を持っていると考えます。

その「 魔法のランプ 」は、「 人体 」であり、時間意識や空間意識や、様々の思想やすべての「 文化 」が「 魔法のランプ 」から出た情(zyou)であると考えます。

暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」が気(ki)であり、人体という「 魔法のランプ 」からでた「 文化 」が情(zyou)であり、気(ki)が情(zyou)に作用することはあっても、情(zyou)により気(ki)が消滅するのではない構造だと考えます。

情(zyou)は、気(ki)を「 実体化 」、あるいは「 認識可能にする 」無意識であると考えます。

遺伝子情報が「 魔法のランプ 」であり、それに対して気(ki)が作用したとき、すなわち「 アラジンがランプを擦ったとき 」現れるのは、「 意識 」であり、時間という時間意識や空間という空間意識であると思います。

気(ki)はエネルギーで「 神 」であり、暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」で、宇宙のすべての物質に浸透するためにエーテルを必要とするが、人間の頭脳が持つ「 魔法のランプ 」から生み出される、精神という情(zyou)は「 エーテル 」を必要としないので、「 エーテル 」を認識することが出来ないと思います。

宇宙のすべてを生み出す、暗黒物質という「 魔法のランプ 」(ビッグ・バンはこの「 魔法のランプ 」の出口かも知れません)は、必ず「 エーテル 」を必要とし、伝達されるのは「 エネルギー(E) 」であり、気(ki)であり、ある条件で「 物質(M) 」になるのかも知れません(E=MC2)。

人間の頭脳という「 物質(M )」の「 魔法のランプ 」から生み出される「 精神 」という情(zyou)は、「 エネルギー 」を伝達せず、「 エーテル 」を必要としないので「 エーテル 」を認識することが出来ず、「 エネルギー 」が「 力(chikara) 」に実体化したとき、「 仕事量 」という範疇で認識し、「 力学 」を生むと思います。

神、言い換えると「 エネルギー 」を「 精神 」で把握したとき、エネルギーは「 力(chikara)」であり、「 仕事量 」で、物理学の「 力学 」は人類のためにエネルギーを利用する方法であると考え、意識による「 神の把握 」であるから、それを拒む気(ki)である「 神 」と対立すると考えます。

宇宙を成立させている暗黒物質の「 魔法のランプ 」が、エーテルを必要とする「 実有 」であることと、頭脳の「 魔法のランプ 」が生み出す精神的に、宇宙を成立させているという「 意識 」、が作る、エーテルを必要としないが「 実体化が必要な虚である宇宙 」と混同してはいけないと思います。

後者の「 意識 」は、情(zyou)であり、エーテルを必要としないが、実体化を必要とするので不連続の「 虚の宇宙 」であり、前者は、連続する「 実有の宇宙 」であり、後者の中で前者は、エーテルを起因とする「 実体化されない不安 」「 虚数 」として現れると思います。

この二重の構造により、情(zyou)で、思想として「 神 」を信仰しても否定しても、気(ki)であるエネルギーとしての「 神 」は存在し、自殺する人体を動作させるから、「 神がいないから自殺 」しても「 神 」は存在するのであり、「 神の名のもとの処刑 」など精神的な「 神 」を理由にしての殺人は人体を動作させるエネルギーである「 神 」を否定することであり、殺人は許さないと考えます。

人体という「 魔法のランプ 」から出る情(zyou)が暗黒物質という「 魔法のランプ 」から出た「 魔神 」を認識するのは自然現象のエネルギーを「 科学 」で解明することであり、「 力学 」を考えることであり、「 科学 」が「 魔神 」に対抗するのであり、「 宗教 」ではないことは前述しました。

「 宗教 」は気(ki)である「 神 」と対立するのではなく、気(ki)が情(zyou)の中で現れる「 無明 」や「 不安 」を克服し、「 人格の完成 」に向かう思想であると思います。

気(ki)が擦った「 魔法のランプ 」からの噴出物である「 不安 」を「 人格の完成 」に向かわせるのが宗教であり、「 魔法のランプ 」を擦る方法(統治方法など政治的思想を教育すること)、「 不安 」を利用して人を操作する方法を教えることは政治であり、「 宗教 」ではないと思います。

統治方法の宗教は、本来の目的ではなく、禁止すべきで、古代の日本人が、仏教を「 統治方法 」として利用したのは誤りであり、孔子思想や儒教(武士道)などの統治方法と、日本古来の「 八百万の神 」を敬う「 神道 」と混同しなかったのは正しいと考えます。

孔子思想や儒教は情(zyou)であり、政治的であり、気(ki)である自然エネルギーを敬う「 神道 」は、皇室だけの思想ではなく、日本人全体の思想であると考えます。

このような、自然エネルギーを敬う思想を持ちながら、再生自然エネルギー開発をしないで、原子力エネルギーに固執し、国内どころか海外にも輸出しようとする、自民党の思想は、日本人として「 正しい道 」ではないと考えます。

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2013年11月10日

2013/11/10、オカルト・エーテル考 5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。


2013/10/27、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、気(ki)である「 エーテル 」や「 エネルギー 」と情(zyou)である「 大気 」や「 次元 」や「 マク 」とは違うと考えます。


「 次元 」や「 マク 」というのは、「 実体化 」する情(zyou)の一種だと思います。

「 エーテル 」や「 エネルギー 」に位置が無いとは、精神では把握が不能であることで、それらはすべての所、宇宙のすべてに「 エーテル 」が「 実有 」することであり、エーテルを通過する「 重力 」や「 引力 」が宇宙のすべてに「 実有 」し、それが情(zyou)や次元の認識(実体化)を成立させていると考えます。


2013/11/10、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


課題は「 エーテル 」ですが、重力や電磁波などのエネルギーをすべて容認する空間であり、「 万有引力 」の重力を含む、連続し、実有である空間であると思います。

「 次元 」などは、情(zyou)であり、神の愛の下での考えであり、私が考える「 エーテル 」は、「 アラジンの魔法のランプ 」の「 魔神 」のように、「 魔法のランプ 」の暗黒物質から「 膨張 」したり「 収縮 」する「 膜 」のようなものだと想像します。

「 魔神 」の「 力 」がエネルギーであり、「 神 」であり、「 魔神 」の「 身体 」が「 エーテル 」であり、「 宇宙 」だと想像します。

「 魔神 」ですから、情(zyou)で定義される「 連続や不連続 」を含み、すべての「 神 」であるエネルギーも含む暗黒物質であり、ブラックホールも含んだ「 神を生む物質 」であるかも知れません。

測定不能の空間があり、測定不能の暗黒物質もあり、これらが調和した「 宇宙 」の解明が必要だと思います。

私の考えは、現時点では、以上のような「 アラジンの魔法のランプ 」の構造が宇宙論であるということになります。

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2013年11月03日

2013/11/3、オカルト・エーテル考 4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。

物理法則が展開される舞台、「 次元 」がエーテルであり、力学の「 力 」が神だと思います。

「 速さ 」を考えますと、距離を時間で除しますが、この「 距離 」や「 時間 」自体が意識であり、「 速さ 」そのものは、不明です。

新幹線に乗っているときも、飛行機に乗っているときも、「 速度 」は「 時速 」と言っても「 不明 」です。

速度などのエネルギーは、四次元では把握できないのだと思います。

これは、「 速度 」や「 運動量 」と「 位置 」は「 次元 」が違うのだと考えています。



2013/10/27、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、気(ki)である「 エーテル 」や「 エネルギー 」と情(zyou)である「 大気 」や「 次元 」や「 マク 」とは違うと考えます。


「 次元 」や「 マク 」というのは、「 実体化 」する情(zyou)の一種だと思います。

「 エーテル 」や「 エネルギー 」に位置が無いとは、精神では把握が不能であることで、それらはすべての所、宇宙のすべてに「 エーテル 」が「 実有 」することであり、エーテルを通過する「 重力 」や「 引力 」が宇宙のすべてに「 実有 」し、それが情(zyou)や次元の認識(実体化)を成立させていると考えます。

将来、地球が消滅した場合、情(zyou)が消滅しても、気(ki)は残ると考えます。

人間が滅んでも、太陽系などの惑星の軌道も原子核の陽子などの軌道を形成するエネルギーは残るだろうし、エネルギー(神)に変化は無いかも知れない。


2013/11/3、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上より、全宇宙に共通する、「 エネルギー 」を通過させる「 膜 」である「 エーテル 」があり、これが「 膨張 」するから宇宙は膨張し、そしてブラックホールの中に消えてゆき、その一方、地球に存在する大気の「マク」があり、「 エネルギー 」が大気を通過して、地球上に生命を育てていると思います。

私に立場では、「 エネルギー 」が「 神 」であり、人体の中では気(ki)になり、電磁波であり、これが時間意識と空間意識を生むと考え、この気(ki)は生物すべてが保持し、社会的には「 生気論 」として表現されると考えます。

「 時間 」や「 空間 」が意識であることは、一般性相対論の結論から考えました。

気(ki)であるエネルギーが伝わるのは、エーテルの中であり、「 次元 」というのは気(ki)を実体化する情(zyou)である認識の形式だと思います。

「 光 」が最速であるとは、「 光 」は「 電磁波 」ですが、「 電磁波 」というエネルギーが「 実体化 」したのが「 光 」であり、人間が認識し実体化するエネルギーのなかで最速だということだと思います。

エーテルの中で、人間が実体化し認識する最速が「 光 」というだけで、もし「 認識方法 」が変われば光に替わる「 最速のエネルギー 」が発見されるかも知れません。


「 最速 」と言いましたが、「 速さ 」がエネルギーであり、前述したように、四次元では「 時間 」や「 距離 」などの「 意識 」を使用しなければ「 実体化 」あるいは「 認識 」することが出来なく、この「 速さ 」は観念であり、「 大小 」の観念と同じく相対的で、実体は無いと考えます。

「 速さ 」は方向性が無い点でも、エネルギーであると思います。

ジェットコースターやレーシングカーのように、速度がある乗り物の上で「 不安 」なのは、エネルギーに方向性が無く、意識による操縦が必要であるのは、「 速度 」がエネルギーであることを示しています。

ここで、私は「 エネルギー 」と「 不安 」を結びつけます。

大気汚染の空気を吸って「 不安 」であるのは、汚染された空気が生存を短縮する「 不安 」です。

「 空気 」にたいする「 不安 」でなく、汚染された空気が運ぶエネルギーの健康に対する影響が「 不安 」であり、「 大気汚染 」や「 放射能汚染 」でも同じだと思います。

「 エーテル 」の中の「 エネルギー 」に対する「 不安 」であり、「 不安 」は気(ki)であるエネルギーを認識する、あるいは実体化する人間の「 力 」であると思います。

この「 力 」は「 仕事量 」で表現され、エネルギーと共通し、人体の外部からエネルギーを授受すると考えます。

高所恐怖症も人体に対する高い所が持つエネルギーへの「 不安 」であり、「 速度 」に対する「 不安 」と似ていると思います。

「 エーテル 」と「 エネルギー 」と「 人間の身体 」や「 自我 」は「 不安 」を介在させて連結し、それは「 神 」に対する「 恐れ 」であり、その結果、「 神 」を敬うことになると考えます。

近代では、「 科学 」により「 神 」が否定され、「 不安 」が無い社会になったと考えがちですが、それはガリレオが心拍数を振り子に変えたように、人間が本来持つ「 不安 」という人間の本来の「 能力 」を科学で間違った方向に進んでいることであり、「 科学の進歩は不安を解消しない、あるいは安心に至らない 」ことは、福島の原発事故を見ても正しいと思います。

私は「 エネルギー」を「 神 」と思いますが、「 エーテル 」はそのエネルギーを通過させる「 膜 」であり、「 エネルギー 」や「 神 」を信じることは、「 不安 」だから信じるのですが、「 不安 」は自分の身体に対する「 不安 」であり、自分が作り出したエネルギーや「 力 」であり、「 自我 」は自分が所有しない「 神 」であるエネルギーの一部であると考えたとき、「 自我 」に対する「 不安 」は解消し、「 神 」を包摂した「 エーテル 」となると考えています。

「 物 」という「 不連続 」が解消して、「 エーテルの中のエネルギー 」という「 連続 」になると考えます。

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2013年10月27日

2013/10/27、オカルト・エーテル考 3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/10/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。

物理法則が展開される舞台、「 次元 」がエーテルであり、力学の「 力 」が神だと思います。

「 速さ 」を考えますと、距離を時間で除しますが、この「 距離 」や「 時間 」自体が意識であり、「 速さ 」そのものは、不明です。

新幹線に乗っているときも、飛行機に乗っているときも、「 速度 」は「 時速 」と言っても「 不明 」です。

速度などのエネルギーは、四次元では把握できないのだと思います。

これは、「 速度 」や「 運動量 」と「 位置 」は「 次元 」が違うのだと考えています。



2013/10/27、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、気(ki)である「 エーテル 」や「 エネルギー 」と情(zyou)である「 大気 」や「 次元 」や「 マク 」とは違うと考えます。


「 次元 」や「 マク 」というのは、「 実体化 」する情(zyou)の一種だと思います。

「 エーテル 」や「 エネルギー 」に位置が無いとは、精神では把握が不能であることで、それらはすべての所、宇宙のすべてに「 エーテル 」が「 実有 」することであり、エーテルを通過する「 重力 」や「 引力 」が宇宙のすべてに「 実有 」し、それが情(zyou)や次元の認識(実体化)を成立させていると考えます。

将来、地球が消滅した場合、情(zyou)が消滅しても、気(ki)は残ると考えます。

人間が滅んでも、太陽系などの惑星の軌道も原子核の陽子などの軌道を形成するエネルギーは残るだろうし、エネルギー(神)に変化は無いかも知れない。

人類が滅んだ場合、情(zyou)である宗教は無くなるが、気(ki)である「 神 」は残るだろう。

その延長で、日本では仏教や儒教など外来宗教や政治思想とは別に、山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見出す「 神道 」が存在することは正しい考えかもしれない。


神道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

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2013年10月20日

2013/10/20、オカルト・エーテル考 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/6/22、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルを否定することが、科学の進歩であれば、成功だったと同時に、失敗であったと思います。

一般相対性理論と特殊相対性理論があるが、前者はエーテルや涅槃の領域であり、後者は「 神の愛 」の領域であると思います。

「 神の愛 」である地球上では、一般相対性理論と特殊相対性理論が重なり、特殊相対性理論で物理が説明されるというが、それは「 エーテルと大気(空気)が一体となり分離できなく、大気だけを考え、エーテルを考えなくても物理は説明することができる 」ということだと思います。

しかし、重力がエーテルの中で伝わると考えると、エーテルの中で物理が成立していることを忘れてはならないと思います。

それは、「 神仏の身体 」の中に「 神の愛 」であることで、後者だけを考え前者を無視することは正しい理論ではないと思います。

一般性総体理論やエーテルや「 神仏の身体 」が「 涅槃 」で「 必然 」あり、特殊相対性理論や空気や「 神の愛 」は本来は「 偶然 」や現象であり、「 必然性 」であると思います。

「 必然 」と「 必然性 」は、前者が「 人間を必要とせずに因果が成立 」し、エーテルが必要であり、連続する「 実有 」であるのに対し、後者は「 人間の頭脳の中で成立する因果 」で、エーテルは必要でなく、不連続な「 実体 」であると思います。


もし、エネルギーがエーテルの中で伝達されるならば、特殊相対性理論でエネルギーを説明することは出来ないと思います。

私は、量子力学の不確実性理論は、エーテルを考慮していないのが原因であり、「 神様はサイコロをふらない 」ことを認めないことも同様で、量子理論は特殊な理論であると思います。

とても、宇宙を解明することは出来ない理論が量子理論であると思います。



2013/10/20、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上は、私の立場です。

一般性相対論で現される空間で、エネルギーが通過することが、宇宙の仕組みであり、エーテルの中でエネルギーが伝達され、それを「 可視化 」したり「 数式 」で法則として表現することが、「 特殊性 」であり、「 一般性相対論 」も数式で表現される限り、「 特殊性 」であると考えます。

意識で「 実体化 」することが「 特殊性 」であり、情(zyou)である限り「 特殊性 」であり、実体化が不可能な物が、気(ki)であり、エーテルであると考えます。

気(ki)であるエーテルは「 法身(hostusin)」であり、情(zyou)は「 報身(housin)」であることに符合すると思います。

「 神 」はエネルギーであり、情(zyou)で説明する範囲は(宗教では)「 実体化 」することが不可能であると思います。

数式として「 実体化 」するのは、「 無意識 」も含む「 遺伝子情報 」であり情(zyou)であり、「 実体化 」されないのが気(ki)であり、エネルギーやエーテルであると思います。

エーテルが「「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在 」しなく、宇宙がエネルギーに満ちているならば、「 神が位置とは無関係に実有する 」ことが真理であり、人間の意識は、「 七色の虹 」あるいは、「 幻(maborosi)」のようなもので、宇宙のすべての物理法則自体が「 神を写した情報 」であり「 特殊 」な「 神の愛 」の産物であると考えます。

物理法則が展開される舞台、「 次元 」がエーテルであり、力学の「 力 」が神だと思います。

「 速さ 」を考えますと、距離を時間で除しますが、この「 距離 」や「 時間 」自体が意識であり、「 速さ 」そのものは、不明です。

新幹線に乗っているときも、飛行機に乗っているときも、「 速度 」は「 時速 」と言っても「 不明 」です。

速度などのエネルギーは、四次元では把握できないのだと思います。

これは、「 速度 」や「 運動量 」と「 位置 」は「 次元 」が違うのだと考えています。

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2013年10月13日

2013/10/13、オカルト・エーテル考1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/10/11、私の記事

これは、フィクションです。


私は、この「 膜 」が「 エーテル 」で、重力もすべてのエネルギーは、この「 膜 」の中を通して伝達すると考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」ことは当然で、プランクの定数やすべての物理の数値は「 エーテルを無視して計算されたもの 」であり、これらが宇宙の真理であるとは考えません。

エネルギーがエーテルの中で伝達することなど考えず、地球上で計測したのが飛び飛びの数値のプランクの定数であり、宇宙空間で計測された場合は相違するかもしれません。

空気とエーテルを分離することが出来ないのは、エーテルがエネルギーを通す「 膜 」であるかもしれません。

人体を考えても、太陽エネルギーは「 空気 」ではなく「 エーテル 」を通して人体の伝達され、人間の知覚や感受性は無意識ですが「 膜 」を通過するから「 連続 」であり、意識は無意識から生じると考えると、エーテルという「 膜 」を通して「 エネルギー 」を摂取し、外部に発散するのが「 意識 」であり、それは「 太陽光から意識が生じる 」ことだと考えます。

気(ki)であるエネルギーはエーテルという「 膜 」を通して人体に届き、同じ気(ki)である無意識がエネルギーを感受し、「 力 」として発揮するとき「 意識 」であると考えます。

人は皆、エーテルという「 膜 」の中で無意識にエネルギーを摂取し、意識的に発散させるので、人体そのものが「 神の仕業 」であることになります。

自殺する人も、ジハードする人も「 神の仕業 」であり、その行動を支配する情(zyou)が「 自殺 」させ「 ジハード 」させるのだと考えます。

情(zyou)は文化的であり、政治的であり、遺伝子情報の結果だろうと考えます。

この情(zyou)の典型が「 宗教 」だと考えます。

これまで、宗教も「 エーテル 」のことを考えていませんが、私にとって、この「 エーテル 」こそが「 信仰 」には必須のものなのです。

以前に書きましたが「 私が死んだら星になる 」と「 私はお前たちのそばにいる 」とか「 神はそばにいる 」とか「 二人同行 」ということが同時に成立するためには、「 エーテル 」が必要です。

「 エーテル 」に乗って何万里も離れた星や西方浄土からもあなたのそばでも、あなたの「 意識次第 」で存在(意識)になりますということです。

今という時間意識の中で「 永遠 」なのは「 エーテル 」であるからです。

「 無 」は人間が経験しないブラックホールの中であり、私は信じません。

いろいろ書きましたが、「 エーテル 」を除外した相対論と量子力学は統合が不可能であることと、「 エーテル 」を考えない「 宗教 」は、「 人倫の道 」を示すべきであって、「 神 」とは「 全く 」無関係というか、「 神を含んだ宗教は間違いである 」と私は、考えます。


2013/10/13、私の考え



これは、フィクションです。


これまでの帰結として、「 エーテル 」が物理でも宗教でも必要であるのに、これまでの哲学者は全く考えていなかったと思います。

物理でも、宗教でも、「 不必要だから考えない 」という態度は、宇宙から見たとき、あまりのも人間中心的であると思います。

それは、都合の良いことだけを考えることであり、「 真理 」からは遠く隔てた人間の頭だけの宇宙であると考えます。

こんなことは、「 ドンキホーテ 」の仕事であると思います。

私は「 ドンキホーテ 」として、「 エーテル 」とは何かを考えることにします。

二次元に住む住人は三次元を理解することができないのと同じように、四次元の住人である人間は、それ以上の次元は理解することが出来ないかも知れません。

私は「 次元 」というのが理解していないが、四次元の次元とは、参考に挙げた「 結界 」が四つあると考えています。

参考のように、物理で、「 エーテル 」を否定することは、物理哲学の事で、「 エーテル 」を実在するという考えも否定されていないと考えます。


「 実有 」の気(ki)を「 実体化 」するのが情(zyou)です。

学問である情(zyou)で気(ki)を否定しても、実有である気(ki)は消滅しません。

私の考えでは、気(ki)と情(zyou)は、宇宙と人間の思考で、互いに侵入できない領域だと思います。

この領域は「 神 」と「 人間 」の領域であり、「 エーテル 」と「 大気 」であり、気(ki)と情(zyou)であり、領域が「 界 」であり、以前に書いた「 膜 」であると思います。

「 膜 」の境が「 結界 」であり、それは人間から見た「 境 」であり、「 次元 」と同じように考えます。

神社の「 鳥居 」がこの世と神の領域を隔てる「 境 」であれば、その「 鳥居 」を発見することが「 次元 」を考えることだと思いますが、私の頭では発見することは不可能です。

ただ、領域が違うということで満足していますが、私はこの「 結界 」や「 鳥居 」が不明であるのは、「 エーテルがエネルギーの領域でエネルギーはエーテルの中で伝達される 」と考えています。

宇宙空間にはエネルギーが満ちているし、地球上はエネルギーの集合であり、「 エネルギーを神と考える 」と、「 八百万の神 」が宇宙に実有すると考えます。

エネルギーの通る通路が「 エーテル 」であり、人間の胎内と宇宙を連続させ、「 結界 」や「 鳥居 」が不明であると思います。

この「 鳥居 」に該当するのが、私が以前に書いた「 気(ki)と情(zyou)を分ける特徴である 」と考えます。





結界
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%95%8C

結界(けっかい、Skt:Siimaabandha)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語であるが、古神道や神道における神社なども、同様の概念があることから、言葉として用いられている。大和言葉では端境(はざかい)やたんに境ともいう。

鳥居
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

鳥居(とりい)とは、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもの。一種の「門」である。



エーテル(物理)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB_(%E7%89%A9%E7%90%86)

エーテル (aether, ether, luminiferous aether) は、主に19世紀までの物理学で、光が伝播するために必要だと思われた媒質を表す術語である。現代では特殊相対性理論などの理論がエーテルの概念を用いずに確立されており、エーテルは廃れた物理学理論の一部であると考えられている。

アインシュタインは、より根本的な原理から「長さ」や「時間」といった性質を導出できるはずであると考えた。そして、ローレンツ変換をマクスウェルの方程式から切り離し、時空間の性質を表す基本的な法則であると仮定した。また、アインシュタインは「エーテル」を物質を表す言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在せず、従って「エーテルに対する相対運動」を考えることは無意味となる[6]。

アインシュタインが相対性原理を最も根本的な原理として考えたのに対し、特殊相対性理論の基礎を造ったローレンツは相対性原理の根本がエーテルであると考え、「長さの収縮」や「時間の遅れ」に表されるように、物体の特性はエーテル中の運動により変化すると考えた。アインシュタインとの違いは、長さや時間について絶対的な基準を設けることを可能と考えるか否かである。これは物理哲学の問題であるため、決着はついていない。従って、エーテルの実在性は完全には否定されていないと言える。

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2013年10月11日

2013/10/11、オカルト・エーテルと神仏32・私の神仏考11、帰結2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/10/6、私の記事


これは、フィクションです


このように、「 エーテル 」を無視した(あるいは棚上げした)相対論と、相対論を無視し「 エーテル 」を無視する量子論が宇宙を支配する理論ではないことは明瞭です。


宇宙は何一つ除外せず、「 エーテル 」が中心の連続した広がりであることは明白で、宇宙には「 エーテル 」が実有するのも事実だと思います。

相対論と量子論を統合することが出来たとしても(私はエーテルを除外する限り統合することは出来ないと思います)、ブラックホールなどの事実は解明されないと思います。

私は、「膜 」という考えに興味があります。

光が重力により曲げられるのもエネルギーが通過する「 膜 」が重力により変形していると考えるのが妥当と考えるからです。

それを拡大して、「 膜 」の相違が「 次元 」の相違だと考えます。

気(ki)と情(zyou)が、互いに排斥するのは「 膜 」の違いだと考えます。

エーテルと大気、エネルギーと質量、「 愛 」と「 愛情 」などは「 膜 」が相違するのであり、実有が実体と認識される「 次元 」が「 膜 」であると考えます。

E=MC2はEとMが実体になる「次元 」すなわち「 膜 」が、C2というエネルギーで連結していることを示し、両者を四次元で観察することは出来ないと思います。

宇宙は四次元以上の次元で構成され、我々が四次元だと思うことは、間違った考えであり、人間の恣意的な考えであるかも知れない。

とにかく、「 エーテル 」を解明しないで、相対論と量子論は統合しないというのが、私の考えです

2013/10/11、私の考え

これは、フィクションです。


私は、この「 膜 」が「 エーテル 」で、重力もすべてのエネルギーは、この「 膜 」の中を通して伝達すると考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」ことは当然で、プランクの定数やすべての物理の数値は「 エーテルを無視して計算されたもの 」であり、これらが宇宙の真理であるとは考えません。

エネルギーがエーテルの中で伝達することなど考えず、地球上で計測したのが飛び飛びの数値のプランクの定数であり、宇宙空間で計測された場合は相違するかもしれません。

空気とエーテルを分離することが出来ないのは、エーテルがエネルギーを通す「 膜 」であるかもしれません。

人体を考えても、太陽エネルギーは「 空気 」ではなく「 エーテル 」を通して人体の伝達され、人間の知覚や感受性は無意識ですが「 膜 」を通過するから「 連続 」であり、意識は無意識から生じると考えると、エーテルという「 膜 」を通して「 エネルギー 」を摂取し、外部に発散するのが「 意識 」であり、それは「 太陽光から意識が生じる 」ことだと考えます。

気(ki)であるエネルギーはエーテルという「 膜 」を通して人体に届き、同じ気(ki)である無意識がエネルギーを感受し、「 力 」として発揮するとき「 意識 」であると考えます。

人は皆、エーテルという「 膜 」の中で無意識にエネルギーを摂取し、意識的に発散させるので、人体そのものが「 神の仕業 」であることになります。

自殺する人も、ジハードする人も「 神の仕業 」であり、その行動を支配する情(zyou)が「 自殺 」させ「 ジハード 」させるのだと考えます。

情(zyou)は文化的であり、政治的であり、遺伝子情報の結果だろうと考えます。

この情(zyou)の典型が「 宗教 」だと考えます。

これまで、宗教も「 エーテル 」のことを考えていませんが、私にとって、この「 エーテル 」こそが「 信仰 」には必須のものなのです。

以前に書きましたが「 私が死んだら星になる 」と「 私はお前たちのそばにいる 」とか「 神はそばにいる 」とか「 二人同行 」ということが同時に成立するためには、「 エーテル 」が必要です。

「 エーテル 」に乗って何万里も離れた星や西方浄土からもあなたのそばでも、あなたの「 意識次第 」で存在(意識)になりますということです。

今という時間意識の中で「 永遠 」なのは「 エーテル 」であるからです。

「 無 」は人間が経験しないブラックホールの中であり、私は信じません。

いろいろ書きましたが、「 エーテル 」を除外した相対論と量子力学は統合が不可能であることと、「 エーテル 」を考えない「 宗教 」は、「 人倫の道 」を示すべきであって、「 神 」とは「 全く 」無関係というか、「 神を含んだ宗教は間違いである 」と私は、考えます。
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2013年10月06日

2013/10/6、オカルト・エーテルと神仏31・私の神仏考10・エーテル2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/9/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

これは、すべて、フィクションです。




私は物理を知らないが、相対論と量子論が、以上であるならば、両者を統合する理論の中に「 エーテル 」の概念が必要だと思います。

今まで「 無視 」してきたエーテルを考えることが、統合するのに必要でしょう。

私は、M理論の「 膜 」という考えに関心があります。

質量が大きい惑星の周囲の空間がゆがむのは、空間は「 膜 」であり、ブラックホールは、電磁波を含んだ「 膜 」全体を、大きな質量で吸い込んでいるから、空間もゆがむのだと思います。

「 膜 」はエーテルであり、エネルギーが移動すると考えます。

「 膜 」はどこに行っても人間には四次元であり、エネルギーが四次元の特徴である「 衝突 」による「 仕事量 」で表現することが出来るように思うかも知れませんが、実は四次元に交差する「 膜 」の上で「 エネルギー」が移動しているのであり、「 エネルギー 」は四次元では「 現象 」として現れたものだと思います。

交差する「 膜 」が、M理論の2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜だと思います。

四次元は「 切り口 」であり、不連続であり、四次元に交差し連続させるのが「 膜 」である「 エーテル 」と考えます。

「 エーテル 」は相対論も量子論も包摂する「 エネルギー 」の次元だと思います。

エネルギーの次元と四次元を合わせてM理論の次元になるかも知れません。

人間の認識は四次元であり、宇宙の構造からみれば、エネルギーの次元を含めてM理論の次元になるかも知れません。

四次元で「 無 」であり、実体では「 無 」であるが、「 実有 」であるのは、四次元に交差し、四次元を包摂する次元の「 膜 」の状態の空間が「 エーテル 」というエネルギーに満ちた「 実有 」であるかも知れません。

四次元の特徴である「 衝突 」でしかエネルギーを測定することが出来ないのは、「 マク 」が四次元と交差し、エネルギーが現象として現れるからであると思います。

相対論と量子論の統合が不能なのは、エーテルを考えていないことが原因であり、現代物理学はエーテルの解明をする使命があると思います。


2013/10/6、私の考え


これは、フィクションです


このように、「 エーテル 」を無視した(あるいは棚上げした)相対論と、相対論を無視し「 エーテル 」を無視する量子論が宇宙を支配する理論ではないことは明瞭です。


宇宙は何一つ除外せず、「 エーテル 」が中心の連続した広がりであることは明白で、宇宙には「 エーテル 」が実有するのも事実だと思います。

相対論と量子論を統合することが出来たとしても(私はエーテルを除外する限り統合することは出来ないと思います)、ブラックホールなどの事実は解明されないと思います。

私は、「膜 」という考えに興味があります。

光が重力により曲げられるのもエネルギーが通過する「 膜 」が重力により変形していると考えるのが妥当と考えるからです。

それを拡大して、「 膜 」の相違が「 次元 」の相違だと考えます。

気(ki)と情(zyou)が、互いに排斥するのは「 膜 」の違いだと考えます。

エーテルと大気、エネルギーと質量、「 愛 」と「 愛情 」などは「 膜 」が相違するのであり、実有が実体と認識される「 次元 」が「 膜 」であると考えます。

E=MC2はEとMが実体になる「次元 」すなわち「 膜 」が、C2というエネルギーで連結していることを示し、両者を四次元で観察することは出来ないと思います。

宇宙は四次元以上の次元で構成され、我々が四次元だと思うことは、間違った考えであり、人間の恣意的な考えであるかも知れない。

とにかく、「 エーテル 」を解明しないで、相対論と量子論は統合しないというのが、私の考えです。
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2013年09月28日

2013/9/28、エーテルと神仏30・私の神仏考9・エーテル

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/6/22、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルを否定することが、科学の進歩であれば、成功だったと同時に、失敗であったと思います。

一般相対性理論と特殊相対性理論があるが、前者はエーテルや涅槃の領域であり、後者は「 神の愛 」の領域であると思います。

「 神の愛 」である地球上では、一般相対性理論と特殊相対性理論が重なり、特殊相対性理論で物理が説明されるというが、それは「 エーテルと大気(空気)が一体となり分離できなく、大気だけを考え、エーテルを考えなくても物理は説明することができる 」ということだと思います。

しかし、重力がエーテルの中で伝わると考えると、エーテルの中で物理が成立していることを忘れてはならないと思います。

それは、「 神仏の身体 」の中に「 神の愛 」であることで、後者だけを考え前者を無視することは正しい理論ではないと思います。

一般性総体理論やエーテルや「 神仏の身体 」が「 涅槃 」で「 必然 」あり、特殊相対性理論や空気や「 神の愛 」は本来は「 偶然 」や現象であり、「 必然性 」であると思います。

「 必然 」と「 必然性 」は、前者が「 人間を必要とせずに因果が成立 」し、エーテルが必要であり、連続する「 実有 」であるのに対し、後者は「 人間の頭脳の中で成立する因果 」で、エーテルは必要でなく、不連続な「 実体 」であると思います。


もし、エネルギーがエーテルの中で伝達されるならば、特殊相対性理論でエネルギーを説明することは出来ないと思います。

私は、量子力学の不確実性理論は、エーテルを考慮していないのが原因であり、「 神様はサイコロをふらない 」ことを認めないことも同様で、量子理論は特殊な理論であると思います。

とても、宇宙を解明することは出来ない理論が量子理論であると思います。


2013/9/28、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

これは、すべて、フィクションです。




私は物理を知らないが、相対論と量子論が、以上であるならば、両者を統合する理論の中に「 エーテル 」の概念が必要だと思います。

今まで「 無視 」してきたエーテルを考えることが、統合するのに必要でしょう。

私は、M理論の「 膜 」という考えに関心があります。

質量が大きい惑星の周囲の空間がゆがむのは、空間は「 膜 」であり、ブラックホールは、電磁波を含んだ「 膜 」全体を、大きな質量で吸い込んでいるから、空間もゆがむのだと思います。

「 膜 」はエーテルであり、エネルギーが移動すると考えます。

「 膜 」はどこに行っても人間には四次元であり、エネルギーが四次元の特徴である「 衝突 」による「 仕事量 」で表現することが出来るように思うかも知れませんが、実は四次元に交差する「 膜 」の上で「 エネルギー」が移動しているのであり、「 エネルギー 」は四次元では「 現象 」として現れたものだと思います。

交差する「 膜 」が、M理論の2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜だと思います。

四次元は「 切り口 」であり、不連続であり、四次元に交差し連続させるのが「 膜 」である「 エーテル 」と考えます。

「 エーテル 」は相対論も量子論も包摂する「 エネルギー 」の次元だと思います。

エネルギーの次元と四次元を合わせてM理論の次元になるかも知れません。

人間の認識は四次元であり、宇宙の構造からみれば、エネルギーの次元を含めてM理論の次元になるかも知れません。

四次元で「 無 」であり、実体では「 無 」であるが、「 実有 」であるのは、四次元に交差し、四次元を包摂する次元の「 膜 」の状態の空間が「 エーテル 」というエネルギーに満ちた「 実有 」であるかも知れません。

四次元の特徴である「 衝突 」でしかエネルギーを測定することが出来ないのは、「 マク 」が四次元と交差し、エネルギーが現象として現れるからであると思います。

相対論と量子論の統合が不能なのは、エーテルを考えていないことが原因であり、現代物理学はエーテルの解明をする使命があると思います。


M理論
http://ja.wikipedia.org/wiki/M%E7%90%86%E8%AB%96

M理論(えむりろん)とは、現在知られている5つの超弦理論を統合するとされる、11次元 (空間次元が10個、時間次元が1個)の仮説理論である。尚、この理論には弦は存在せ ず、2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜が構成要素であると考えられている。

エーテル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB_(%E7%89%A9%E7%90%86)

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2013年09月24日

2013/9/24、エーテルと神仏29、私の神仏考8、帰結1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。



2013/9/1、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。


2013/9/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで述べたように、エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であるならば、神は情(zyou)である宗教の対象にならないというのが、私の考えです。

古代の日本の八百万の神のように、エネルギーを持つ全てが神でありますから、前述した「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波も「 神 」であり、それらは人間に不幸をもたらしますが、神は気(ki)であり、元来、全ての生物を育てるエネルギーですが、人間の幸福や不幸を無視するものであると考えます。

この「 神 」を情(zyou)である宗教が対象とするならば、日本の古代のように、すべてに神が宿るという「 八百万の神 」が正当で、「 神 」は恐れ奉る対象であると考えます。

元来、気(ki)である「 神 」を情(zyou)である宗教で実体化するのは不可能だと思います。

宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと考えます。

「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波を本尊とする宗教は無く、宗教の目的は、「 即身成仏 」や生き仏(a living Buddha)や有徳の人(a saint-like person)になることで、エネルギーの取得ではないと思います。

エネルギーの取得が「 神 」を身に着けることであれば、日本古代の山岳信仰や現在の「 パワースポット巡り 」などが適当で、これは宗教ではないと思います。

エネルギーの取得は「 奇跡 」を起こすことでしょうが、これは私の考えでは「 宗教 」ではありません。

常時、奇跡を起こすのが神であり、その神は「 太陽神 」という「 人間に都合のよい神 」だけでなく、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波という「 非情な神 」でもあるからです。

「 神 」は恐れ敬うものであり、「 宗教 」は人格を高めるものだと思います。


2013/9/17、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、「 神 」は気(ki)であり、情(zyou)である宗教の及ぶ範囲外にあると考えますと、次のように考えます。

「 能力 」は内在のエネルギーであり神や気(ki)に属し、「 超能力 」を得ることを宗教に求めることは間違っていると思います。

先に述べたように、宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと思います。

「 神 」の気(ki)に敵対する情(zyou)は「 科学 」だと思います。

この場合に、科学が神に合致すれば、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波などの「 非情な神 」を制圧することが出来、合致しなければ、科学は「 無能 」(つまりエネルギーが無い)であるという評価を得ると思います。

私は、福島原発事故は「 神にたいする科学の無能 」であり、科学では処理不能な神(エネルギー)であり、無能な科学は関わるべこでないと思うから、「 原発ゼロ 」を支持するのです。

「 神 」に敵対するのは「 科学 」であり、「 宗教 」ではないと思います。

天動説など、「 神 」を宗教の範囲内にするから、「 宗教 」は「 科学 」と敵対すると評価され、宗教による科学の弾圧になると思います。

2013/8/4 私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、仏教を信じていますが、信者ではないと思います。

これは、私の考えであり、仏教の教えではありません。


仏教では、法身(hostusin)と報身(housin)と応身(ouzin)を三身と言います。これは参考を見てください。

三身は、仏の身体であり、神仏については不明です。

私は、法身(hostusin)をエーテルと考え、報身(housin)を大気や人類が考えるすべての知識と考え、応身(ouzin)を、遺伝子情報と考えます。

三身即一というのは当然であり、法身(hostusin)であるエーテルは報身(housin)である大気と応身(ouzin)である人体の遺伝子情報を包摂し、前者の涅槃と必然は、後者の「 神の愛 」であり、「無明 」である、煩悩や欲望の中で、「 必然的 」関係として現れると考えます。

「 必然的 」な関係として現れるとは、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有する力が「 偶然で自由 」な意識、すなわち報身(housin)と人体、すなわち応身(ouzin)の中で衝突することにより、物体内部に蓄えられた、仕事をする「 必然的 」な能力であると認められることだと考えます。

この物体内部に蓄えられた、仕事をする能力がエーテルの中で伝わる「 神仏 」と考え、法身(hostusin)であるエーテルと、報身(housin)である大気や人類が考えるすべての知識と、応身(ouzin)である遺伝子情報を境目なく伝わると考えます。

報身(housin)と応身(ouzin)が「 神の愛 」であるなら、神の「 愛 」は物体内部に蓄えられた、仕事をする能力であり、神仏であり、宇宙と人体を連続させるエーテルの中で伝わると考えます。


2013/9/24、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように、神仏を考えた結果、エーテルの中のエネルギーという気(ki)が「 神 」であり、それを具現化する情(zyou)が「 科学 」であり、「 宗教 」は人が生きる「 掟 」だと考えると、次のような帰結になると思います。

以前書きましたように、エネルギーである「 神 」には、人間を生存させるエネルギーと人間を破滅させる「 非情な 」エネルギーがあり、その両方に「 科学 」が具現化すると考えます。

「 科学 」は人間に役立つ場合と、人間を破滅させる場合があり、遺伝子情報を組み換えたり、クローンを作る「 ES細胞 」や原爆や原子力発電など、「 科学 」は「 非情な神 」の領域まで進行することが出来ます。

私たちは「 倫理規定 」という情(zyou)、人の進むべき道(人倫)で、「 科学 」という情(zyou)を規制しなければ、台風やハリケーンや地震や津波の前で無能力な「 科学 」と同じ意味で、「 神 」の前で無力な人間になってしまうと思います。

「 科学 」を人倫で規制するという点で、「 宗教 」は「 科学 」に対立しますが、これは「 宗教 」が「 神 」と関係するのではないと考えます。

「 宗教 」は無明から涅槃へ導く情(zyou)であり、その実体は個人の遺伝子情報を含んだ無意識の人格や心で決定するのであり、宗教は一般の知識であるが、「 実体化 」するのは個人の「 能力 」(エネルギー、あるいは神)つまり、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」の力であり、従って個人的であり意識がすべての人類で相違するように、「 能力 」はすべて相違し、神の「 存在意識 」もすべて相違し、マネーを支払ったり、一定の行事を行うことが「 免罪符 」にはならないと考えます。

次は、「 神の身体 」であるエーテルをどのように考えるかについては、後日書くことにします。

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2013年09月23日

2013/9/23、スマートフォンをPC用のスピーカーで聞く

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2013/9/23、私の考え


私は以前、スマートフォンを購入したと書きました。

今日、新たな発見をしましたので、報告します。

私は、スマートフォンで音楽の動画を「 お気に入り 」に登録して、暇が出来ると動画を、イアフォーンで聞いていました。

現在は、イヤフォーンも進化して、途中のコードが無くても聞くことが出来ると友達から聞きました。

私が問い合わせたところ、高価でして、もっと安価な楽しみ方を探していました。

私は、イヤフォーンの代わりに、直接、スピーカーを接続することが出来ると思いました。

PCのためのスピーカは安価で、500円ほどで、左右のスピーカー購入することが出来ます。

電源はPCから導くのですが、入力端子をスマートフォンの音声出力端子に接続して、電源を入れました。

何ということでしょう!

スマートフォンで選んだ動画の音声を拡大して聞くことが出来ました。

もしも、PCの音声拡大のためにスピーカーを買った人ならば、是非、試されることをお勧めします。
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2013年09月17日

2013/9/17,オカルト・エーテルと神仏28・私の神仏考7・神と宗教2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。



2013/9/1、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。


2013/9/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで述べたように、エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であるならば、神は情(zyou)である宗教の対象にならないというのが、私の考えです。

古代の日本の八百万の神のように、エネルギーを持つ全てが神でありますから、前述した「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波も「 神 」であり、それらは人間に不幸をもたらしますが、神は気(ki)であり、元来、全ての生物を育てるエネルギーですが、人間の幸福や不幸を無視するものであると考えます。

この「 神 」を情(zyou)である宗教が対象とするならば、日本の古代のように、すべてに神が宿るという「 八百万の神 」が正当で、「 神 」は恐れ奉る対象であると考えます。

元来、気(ki)である「 神 」を情(zyou)である宗教で実体化するのは不可能だと思います。

宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと考えます。

「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波を本尊とする宗教は無く、宗教の目的は、「 即身成仏 」や生き仏(a living Buddha)や有徳の人(a saint-like person)になることで、エネルギーの取得ではないと思います。

エネルギーの取得が「 神 」を身に着けることであれば、日本古代の山岳信仰や現在の「 パワースポット巡り 」などが適当で、これは宗教ではないと思います。

エネルギーの取得は「 奇跡 」を起こすことでしょうが、これは私の考えでは「 宗教 」ではありません。

常時、奇跡を起こすのが神であり、その神は「 太陽神 」という「 人間に都合のよい神 」だけでなく、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波という「 非情な神 」でもあるからです。

「 神 」は恐れ敬うものであり、「 宗教 」は人格を高めるものだと思います。


2013/9/17、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のように、「 神 」は気(ki)であり、情(zyou)である宗教の及ぶ範囲外にあると考えますと、次のように考えます。

「 能力 」は内在のエネルギーであり神や気(ki)に属し、「 超能力 」を得ることを宗教に求めることは間違っていると思います。

先に述べたように、宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと思います。

「 神 」の気(ki)に敵対する情(zyou)は「 科学 」だと思います。

この場合に、科学が神に合致すれば、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波などの「 非情な神 」を制圧することが出来、合致しなければ、科学は「 無能 」(つまりエネルギーが無い)であるという評価を得ると思います。

私は、福島原発事故は「 神にたいする科学の無能 」であり、科学では処理不能な神(エネルギー)であり、無能な科学は関わるべこでないと思うから、「 原発ゼロ 」を支持するのです。

「 神 」に敵対するのは「 科学 」であり、「 宗教 」ではないと思います。

天動説など、「 神 」を宗教の範囲内にするから、「 宗教 」は「 科学 」と敵対すると評価され、宗教による科学の弾圧になると思います。

福島原発事故を宗教で「 心 」を変えることで許してはいけないと思います。

原発は絶対に安全で、事故には水をかければ解決するなど、科学者は国民を愚弄したのであり、これからの私は、「 科学により心から安心する 」のではなく、原子力発電は原爆と同じであるという考えで、今までの物理学者が「 原爆反対 」を主張したように、原子力発電にも「 原発ゼロ 」を主張することが「 神 」に従うことになると考えます。

エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であり、神は情(zyou)である宗教の対象にならなく、心や無意識や人格向上を宗教が目指すのなら、進んで科学を受け入れ、心や無意識や人格や無明や煩悩の解明に科学を道具に使えばよいと思います。
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2013年09月08日

2013/9/8、オカルト・エーテルと神仏27・私の神仏考6・神と宗教

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。

死ぬときに、神が迎えにきて頂くと言うのは、「 涅槃 」に行くこと、エーテルになる事で、宗教の違いで、仏が迎えに来て頂くというのかも知れません。

神は気(ki)であり、生きている間は「 神が存在し 」死後は「 非情な神 」、エーテルを満たすエネルギーになると考えます。

自殺する人も、死ぬまで「 神 」が付き添っているのです。

「 神など存在しないから死ぬ 」というのは間違いで、自殺しようと思うときも、自殺を実行するときも「 神が付き添って頂いている 」のです。

神をエネルギーと考えると、生きている限り、神は存在するのですから、無神論は、言葉の遊戯だと思います。

神は「 イメージがない 」から、情(zyou)や宗教で考えた「 イメージがある 」仏(hotoke)に、死ぬときに迎えに来て頂くという発想になると考えます。


2013/9/1、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。


2013/9/8、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで述べたように、エーテルが神の身体であり、エネルギーが神であり、神は気(ki)であるならば、神は情(zyou)である宗教の対象にならないというのが、私の考えです。

古代の日本の八百万の神のように、エネルギーを持つ全てが神でありますから、前述した「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波も「 神 」であり、それらは人間に不幸をもたらしますが、神は気(ki)であり、元来、全ての生物を育てるエネルギーですが、人間の幸福や不幸を無視するものであると考えます。

この「 神 」を情(zyou)である宗教が対象とするならば、日本の古代のように、すべてに神が宿るという「 八百万の神 」が正当で、「 神 」は恐れ奉る対象であると考えます。

元来、気(ki)である「 神 」を情(zyou)である宗教で実体化するのは不可能だと思います。

宗教は、人間だけの論理であり、気(ki)で惑える人々を、思想により死の対する不安を消滅させるため、あるいは政治で不安を消滅させるなどの、人間的で文化的な情(zyou)であり、「 心 」や「 無意識 」や「 人格 」の問題であり、「 神 」とは直接の関係は無いと考えます。

「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波を本尊とする宗教は無く、宗教の目的は、「 即身成仏 」や生き仏(a living Buddha)や有徳の人(a saint-like person)になることで、エネルギーの取得ではないと思います。

エネルギーの取得が「 神 」を身に着けることであれば、日本古代の山岳信仰や現在の「 パワースポット巡り 」などが適当で、これは宗教ではないと思います。

エネルギーの取得は「 奇跡 」を起こすことでしょうが、これは私の考えでは「 宗教 」ではありません。

常時、奇跡を起こすのが神であり、その神は「 太陽神 」という「 人間に都合のよい神 」だけでなく、「 原子力 」や台風やハリケーンや地震や津波という「 非情な神 」でもあるからです。

「 神 」は恐れ敬うものであり、「 宗教 」は人格を高めるものだと思います。

人間がエネルギーを持つから「 神 」は宿っているのであり、自殺者や殺人犯にも神は宿っているのであり、その人が、人の道(倫理)から外れた思想、ないしは宗教を持っているため、自殺や殺人の罪を犯すのであり、人間の行動は「 神 」ではなく、「 宗教 」、つまり「 生き方 」に左右されると考えます。

「 神 」は誕生と同時にすでに宿っているのであり、私が可能なのは、自分の中の「 神 」をどのように行動に発揮させるかですが、これは自分の内部世界で文化的、思想的な感情や情報などの情(zyou)の持ち方に左右されると考えます。
posted by kandk55 at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 43 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

2013/9/1、オカルト・エーテルと神仏26・私の神仏考5・神と仏2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/8/25、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。

死ぬときに、神が迎えにきて頂くと言うのは、「 涅槃 」に行くこと、エーテルになる事で、宗教の違いで、仏が迎えに来て頂くというのかも知れません。

神は気(ki)であり、生きている間は「 神が存在し 」死後は「 非情な神 」、エーテルを満たすエネルギーになると考えます。

自殺する人も、死ぬまで「 神 」が付き添っているのです。

「 神など存在しないから死ぬ 」というのは間違いで、自殺しようと思うときも、自殺を実行するときも「 神が付き添って頂いている 」のです。

神をエネルギーと考えると、生きている限り、神は存在するのですから、無神論は、言葉の遊戯だと思います。

神は「 イメージがない 」から、情(zyou)や宗教で考えた「 イメージがある 」仏(hotoke)に、死ぬときに迎えに来て頂くという発想になると考えます。


2013/9/1、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

前述しましたが、Wikipediaによると、エネルギーは「 物事をなしとげる気力、活力、活動の源として体内に保持する力 」あるいは「 仕事をすることのできる能力 」や「 物体内部に蓄えられた、仕事をする能力 」であると定義してあります。

私は、人間を含めて動物は「 生気 」を持ち、それがエネルギーであり、動物内部に蓄えられた仕事をする能力 」を持っていると考えます。

私は、頭脳は電磁波というエネルギーで動き宇宙の気(ki)と同化すると思いますから、頭脳は「 神 」の領域であり、心臓をはじめ臓器の電気は小脳の領域であり、それは「 心 」や「 無意識 」の領域で、「人格 」を形成し、「 仏 」の領域だろうと思います。

人間は頭脳が「 神 」で身体は「 仏(hotoke) 」だろうと思います。

「 思想 」などの観念は頭脳で「 神 」ですから、実体はなく、「 機能 」であり、「 心 」や「 無意識 」は仏(hotoke)であり、実体を決めると思います。

認識について考えると、情(zyou)を運ぶものは「 神 」であり、伝達されるのは情(zyou)のエネルギーで、実体である「 心や無意識 」という仏(hotoke)だと考えています。

前者が「 魂 」であり、後者は「 霊 」であり、人間は霊長類であるから、ミラーニューロンにより、情(zyou)のエネルギーが実体化した「 言葉 」や絵画により、認識すると思います。

認識の機能は「 神 」の働きであり、認識する内容は「 仏(hotoke)」であると考えます。

論理的に考えるのが「 神 」の働きであり、情報を自分で実感するのが「 仏(hotoke)」の働きであり、両者はエネルギーであるので、「 人ではなく 」人間という物体に蓄えられた力であると考えます。

人間は神仏の働きにより、生きることを可能にしていると考えます。

「 生気 」という気(ki)により宇宙と連結し、情(zyou)により、人体内部のDNAなどの遺伝子情報に連結し、前者は宇宙の時間であり、後者は「 主観的時間 」になり、政治や経済上、両者を結ぶのが「 客観的時間 」や「 世界時間 」であると思います。

日本では、神をまつる神社と仏教の寺院がありますが、前者は機能であり、後者は実体であると考えると、矛盾はないと思います。

「 運 」を祈るのが神社であり、先祖供養して仏教により人格を高めるのが寺院であり、両者は願う目的が相違すると考えます。
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2013年08月25日

2013/8/25、エーテルと神仏25・私の神仏考4・神と仏

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

2013/8/11、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、エーテルを神仏の身体とし、神仏は宇宙のエネルギーであり、両者を気(ki)と分類し、死後に行く涅槃であると考える。

生命維持に必要な「 神の愛 」である地球の周りの大気は、エーテルと分離することが出来なく、涅槃であるエーテルを感じることも出来るが、その多くは、煩悩であり欲であると考える。

神仏である生きるエネルギーは煩悩ではなく、生命維持器官である小脳の運動可能性と結合して「 欲 」となり、遺伝子情報などの情(zyou)と結合することにより「 欲望 」や煩悩になると考える。

神仏である生きるエネルギーは気(ki)であり、「 魂 」であり、形がないものであるが実有であり、神仏である生きるエネルギーが情(zyou)と結合して、形を作ったとき「 霊 」であると考える。

食物や空気が体内でエネルギーに変換されるが、食物や空気という実体は「 霊 」であり、体内で変換するエネルギーが神仏であり、エーテルの中で動く「 魂 」であると考える。

これは人工知能についても言えるが、コンピューターは作れても、神仏である魂が宿ることはなく、無明や無常や不安を思考する人工知能を作ることは不可能で、「 道具 」の領域から出ない。

「 霊 」は情(zyou)であるから、ミラーニューロンで「 同情 」し伝承することは可能であり、情(zyou)であるから、時代や時を超えて続くように思われるが、私は「 世代で受け継がれるもの 」であり、エーテルの「 連続 」や「 実有 」や「 永遠 」とは違い、思想的、大脳的な精神であると思う。

「 祖先の霊 」などと言うように、世代で受け継がれる遺伝子情報であり、エーテルの連続ではなく、意識による存在意識を必要とすると考える。

「 霊 」は情(zyou)で個別的であるから、日本古来の、八百万の神は「 霊 」ではなく、従って個人に個別的な神ではなく、内包するエネルギーや「 魂 」を信仰したものと考える。

「 霊 」は情(zyou)であり、感情移入して魂(エネルギー)に変換することが出来るから、霊媒師などという人が現れるのだと思う。

「 霊 」は情(zyou)であるため、霊界というのは、人間的、社会的、宗教的、な人造の世界であり、信じることは自由だが、私は、死後はエーテルと大気の中のエネルギーになると考えるから、霊界へ行くことは要望しない。


2013/8/25、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。

死ぬときに、神が迎えにきて頂くと言うのは、「 涅槃 」に行くこと、エーテルになる事で、宗教の違いで、仏が迎えに来て頂くというのかも知れません。

神は気(ki)であり、生きている間は「 神が存在し 」死後は「 非情な神 」、エーテルを満たすエネルギーになると考えます。

自殺する人も、死ぬまで「 神 」が付き添っているのです。

「 神など存在しないから死ぬ 」というのは間違いで、自殺しようと思うときも、自殺を実行するときも「 神が付き添って頂いている 」のです。

神をエネルギーと考えると、生きている限り、神は存在するのですから、無神論は、言葉の遊戯だと思います。

神は「 イメージがない 」から、情(zyou)や宗教で考えた「 イメージがある 」仏(hotoke)に、死ぬときに迎えに来て頂くという発想になると考えます。
posted by kandk55 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 43 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする